2019年05月

2019年05月31日

下北沢X物語(3773)―戦争批評:石垣りんと小津安二郎―

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(一)小津安二郎監督「秋刀魚の味」では池上線の石川台が出てくる。駅は呑川を挟んだV字谷にある。それで線路は築堤上に築かれている。映画は昭和37年(1962)に公開されているが駅風景は往時とほとんど変わらない。町の雰囲気を決定づけているのは電車の編成だ、三両と短い、電車のカダンスがのどかだ。町も静かでのんびりしている。土地の人に聞くと「ここももう老人ばっかりですよ」と。商店街の名は希望ヶ丘である、この名からすると三両編成は四両編成になることが望ましい。だが、実情は、シャッターを下ろした店も増えてきている。この石川台の東隣は洗足池駅も似たようなものだ。この池畔に住んでいたのが「斜陽日記」を書いた太田静子だ、太宰治の「斜陽」はこれを下敷きにして書かれている。洗足池周辺は別荘地として早くに開けた町だ、それで老齢化も進んでいる。斜陽傾向は著しい。

 呑川を下って石川台まで行くといつも眺めやる。河畔にある十三階建てのマンションを。この三階に私の好きな詩人が住んでいたからだ。石垣りんである。

 彼女は池上線を好んでいた。電車編成両数が詩を生むということはある。
「後ろと前とを間違うと延々とホームを歩くのよ、だってね、常磐線は十五両もつないでいるのよ」
 我孫子には白樺派の同人が住んでいた。大正年間のことゆえ列車編成も短い、上野から乗った列車に我孫子で振り落とされて、詩情を湧きもした。が、今は十五両だと改札に着くまで旅情は消え去る。

 しかし、池上線は風情があっていい。彼女の部屋からは築堤を行く電車がよく見えた。一人住まいの彼女はこの短編成を愛していた。
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2019年05月30日

下北沢X物語(3772)―郊外都市論:ラブホ→葬祭場&リニア―

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(一)映画の意味は「写された画」である。小津安二郎監督の「秋刀魚の味」はまさにこれだ。カットの一枚一枚が美しい、画面に詩情がある。石川台駅ホームでの場面も一枚の画だ、鄙びた駅という絵である。男女二人が電車を待って佇むシーンだ。台本では「郊外の駅のホーム」とある。この場面、台本では女性(岩下志摩)が、「あ、電車が来た……」という。すると三両編成が入ってくる。十両も連なっていたのでは絵にはならない。が、短いと絵になり詩になる。

 昨日石川台駅へ行った。駅の手前で顔見知りに会った。川口信さん、地元の人だ。近隣の賑わいについて言葉を交わした。
「すぐそこのところに連れ込み旅館があったんですよ。その先の洗足池のすぐそばにもありましたよ」
いわゆるラブホである。
「ああ、わかります。何かねこのところその辺りに葬祭場が増えたでしょう。二軒も三軒もある……」
 日々のフィールドワークでの観察だ。
 ラブホ変じて葬祭場、衰微していく日本、その象徴的な変化だ。もう性的活力を失った人が活動仕舞いとして蝋燭や線香をここで焚いて人生の店じまいする。

 しかしだ、一軒の葬祭場の裏手にはその敷地を囲って新しい工事が始まっている。それはリニア新幹線、東雪谷非常口新設のための工事だ。これもまた時代を映す鏡だ。日本は人口減少時代に突入している。が、リニアは大量輸送えの莫大投資だ。ラブホに葬祭場、そしてリニア新幹線、屈曲、屈折した時代を映していないか。
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2019年05月28日

下北沢X物語(3771)―郊外都市論:下北沢&石川台―

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(一)都市を決定づけるのは電車の長短だ、下北沢の小田急線は十両編成、石川台の池上線は三両編成だ。小田急は地下化して姿が見えない、が、地上の改札から出てくる人波で両数は想像がつく。池上線の場合だ、石川台駅の手前に呑川を渡る鉄橋がある。カタンゴトトン、短編成はすっと音が消える。駅は長閑だ。小津安二郎監督「秋刀魚の味」ではこの駅が出てくる。すがれた、寂れた味が、「秋刀魚の味」づけに使われた。下北沢と石川台、辺境都市だが間合いが異なる。勃興都市と凋落都市。

 日々歩いている、家の前は呑川を暗渠化した遊歩道だ、左に行けば下流、石川台方向、右に行けば、世田谷区深沢方向だ。呑川が自身を導くラインとなっている。

 都市を決定づけるのは電車の長短だと述べた。呑川下流に向かうと電車編成が短くなる。東横線、8〜10両、次が大井町線、5〜7両、目黒線6両だ、下ると池上線の3両となる。南に行けば町は寂しくなってくる。
 池上線は電車編成が短い、特徴はもう一つ言えば物価が安いことだ。石川台、雪谷大塚、このつぎが御嶽山駅だ。この駅は人にあまり知られていない。

「あんたどこに住んでいるの?」
「御嶽山!」
「えっ、そんなの聞いたことないどこの田舎?」
「違うよ。すぐお隣は田園調布本町なのよ!」
「ええ、あの田園調布!」
「そう東京都大田区なの!ちゃんと駅前にイオンスタイルがあるんだから」
「それがなんで御嶽山?」
「木曽のなぁあ、木曽の中乗りさん、木曽の御嶽山はなんじゃらほい、その木曽の御嶽神社の支社が祀ってあるの、それでこの名がついているの」


 池上線、御嶽山駅は駅名としてめずらしい。
 歌として知られているのは「池上線」だ、歌詞には「古い電車」とか、「すきま風」とかが歌われる。が、今は最新の7000系が走っている。保育園児に人気だ。
 ときどき石川台一号踏切わきに園児達が電車を見るためにやってくる。最近知ったのは
この踏切は「秋刀魚の味」の味付けに使われていた。

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2019年05月27日

下北沢X物語(3770)―会報155号:北沢川文化遺産保存の会―

第五回研究大会
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第155号    
           2019年6月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、劇評 歌物語「鉛筆部隊と特攻隊」

 5月19日、第12回戦争経験を伝承する会を行った。今回は劇で演じた。『歌物語 鉛筆部隊と特攻隊』である。梁田貴之さんが劇評を書いてくださった。

2019年5月19日(日)13:30〜14:45 下北沢の世田谷カトリック教会で、きむらけん原作『鉛筆部隊と特攻隊』が歌物語として上演された。終戦を翌年に控えた75年前、下北沢から信州松本に集団疎開した代沢小学校の児童たちが、満州から九州・沖縄方面に移動する途中、歴史の偶然で同地に滞留していた陸軍特攻隊の若い飛行兵たちと交流することになる。

下北沢の文学遺産を探訪するなか、偶然この史実を発掘したきむら氏は人々の物語を深掘りしてきた。一方、毎年開いてきた戦争経験者の話を聞く会が、該当する人々が次々に逝去する中で存続が難しくなり、伝えなければならないことをどうやって継承していくかを考える中で、演劇化して上演することを考えたそうだ。

史実を発掘していくなかで、特攻隊の人々が演芸会で歌った歌を覚えていた女性がいて、それを作曲家が採譜して復活した。子どもたちが歌っていた歌の数々は、その時をよみがえらせる大きな手がかりだ。「物語」全体を復活し伝えるには、書籍に記述されたテキストだけではなく、このような音楽劇にすることは必然だったのではないか、と感じさせる良く構成され、演じられ、歌われた舞台だった。

「君達に出会うことで本当に命の洗濯が出来た、後の世は頼む」と言い残して死んでいった青年たちの無念の思いを継承していくことは大切だ。そしてその青年たちが演芸会のためにつくって斉唱した即興歌のしめくくりはなんと「世界平和が来ましたならば いとしなつかし日の本へ 帰りゃまっさき浅間をめがけ 私しゃいきます富貴の湯へ」というのだ。

 日曜の午後、世田谷カトリック教会の旧米軍カマボコ兵舎で演じられた公演は感動的だった。たまたま隣席が終戦時5年生できむらさんに貴重な証言を提供してきた松本明美さんで、ぼくの亡くなった父は終戦時6年で縁故疎開のためこの物語には登場しないのてすけれどとお話しすると「忘れられないんですよ。子どもの時に体験したことは」と話して下さった。

 主演、ナレーション、音楽を含め弛緩するところのない傑作といっていいコンパクトな上演。ラジオドラマとして、あるいは舞台映像として、そしてできれば実演で、多くの人々、特に小学校高学年児童たちなどに触れる機会が出来ればいいのになあと思いました。


2、戦争経験を伝承する会の今後

 従来は、「戦争経験を聴く会語る会」としていた。今回からは戦争経験を伝承する会とした。今回は12回目、13回目をどうするか?ということはある。しかし、回数を記しても記さなくても、戦争経験を続けていくことは大切だ。

 今回の舞台は二人の子役が出た。その経過を見ているが戦争劇に関わることで、この子どもたちが戦争を知るということはあった。二人は姉妹で、下の日鞠ちゃんは、学童に託された三通の手紙に非常に深い関心を示し、まずは封筒から取り出して読む。難しい漢字があるとその読み方を聞く、そしてついには教会の集会室の黒板に手紙を写しはじめた。下北沢小学校の四年生である。劇を行うことで戦争伝承がなされるという例だ。

 公演には代沢小の溝口校長先生が来ておられた。「まさに学校の歴史そのものなので、ぜひ新校舎が落成したら代沢小の学童たちに公演して見せてください」との要望があった。これについては出演者に相談して応えていこうと思っている。
 学校となるとまた違ってくる。舞台装置、放送装置、映像関係などこれは改めて点検を行わなくてはならない。今度の劇は演出の若桑比織さんと私が推進役となって進めてきた。
 演劇は練習が必要である、回数を重ねれば互いにとけ合ってくる。息が合ってくるというべきか。

 今までは会の主催としてやってきた。が、こうやって演劇集団ができると演者同士の絆が深まってくる。これまでとは雰囲気も違ってくる。それで主催ではなく、これからは協力でよいのだと思った。
 他の方々の意志は確認はしていない。が、私は提案したい、「戦争経験を語る会」を起こし、ここが核となって推進していけばよいと。
 
 今回、会員では山本裕さんが実際演劇に参加された。また張替滋夫さんも意見を言われたり、彼が所属している世田谷ワイズメンズ倶楽部から協賛金を得てくださったりした。だから小さな会ができたとしても保存の会との関係は続くものと思われる。それで「協力」ということにしたいと言ったものである。
 
 私の思いとしては第13回目も続いてほしいとは思うが、強要はしない。自然の流れに任せたい。振り返ればこの会をやろうと言い出したのは米澤邦頼さんだ。「鉛筆部隊と特攻隊」は、社会的に認知されている言葉になっているが、この会に負うところも多かった。

3、世田谷区地域の絆連携活性化補助金について

 2019年度、この補助金について交付申請書を提出した。タイトルは、「下北沢文士町文化地図第八版作成」とし副題を(世田谷代田駅前広場開業記念地図)とした。
 基本的には下北沢文士町文化地図第八版の作成が基軸である。今回は、2020年春に世田谷代田駅前広場が完成しここに地名の起源となったダイダラボッチの足跡ができる。無形的な伝承が有形化されるのを記念してダイダラボッチを特集してこれによって地元のみならず地域外の人にこの意義や意味を広く伝えたい。
 基本は、文士町文化地図の第八版を作成することである。世田谷代田駅前にダイダラボッチの足跡をかたどった広場が完成することから、「ダイダラボッチ」を特集したい。記録的なもので一番大事なものは柳田国男「ダイダラ坊の足跡」である。版権が生きていることから引用をしながら解説をするのか、場合によっては版権を払って転載することも考えてもよいと考えている。
 図版や写真は極めて少ない。守山小学校の創立記念誌にある地図などは貴重である。本当はダイダラボッチ写真がほしいところだ。これはない、これまで撮りだめた他のダイダラボッチ関係の写真を活用するのも一つの手だ。野沢の鶴ヶ窪公園写真など。
 今回八版を作成するについて分かったことは、これまでの地図作成では米澤邦頼さんが頑張ってくれていたことだ。旧居一つ加えるについても大変なことだが元の会社の小金澤さんなども加わってボランティア的に労力奉仕して地図を作っていたことだ。
 今度は、常にお世話になっている東邦薬品の紹介で新しい印刷所を探し出すことができた。米澤さんと相談に行ったところ、当会の地図の地域的、文化的役割を深く認識されたようだった。旧バージョンソフトも何とか使えそうである。

4、第五回「北沢川文化遺産保存の会研究大会」の開催                

 第5回北沢川文化遺産保存の会 研究大会 
   世田谷代田駅前広場開場記念行事(プレイベント)
   後援 世田谷区 世田谷代田駅前 広場開場記念行事準備会            
  日時 2019年7月27日(土)  10時30分より(予定)  
  場所 梅丘パークホール
  会費 500円(資料代) 終了後懇親会 会費(3000円)


研究会 テーマ「世田谷代田の歴史文化」 

◎お願い
 当会の研究大会も今年で五回目となる。当地域一帯でも知られるようになった。この研究大会を通して、地域の文化が発掘され、また記録されていることは間違いない。規模が大きくなるに連れ、人手も必要になってきている。一人の力ではどうにもならない。
 想定している係り。司会(午前、午後)、椅子机レイアウト係(金子善高さんと思っているが)、機器操作係り(パソコン・プロジェクター、マイク)、表示印刷係り(受付やタイトル)、「ダイダラボッチ弁当」発注係り、懇親会会場設置係り)他。
 梅丘パークホールは初めて使うので勝手が分からない。六月後半から七月前半にかけての土日に会場の下見を行いたい。ぜひ協力のほどを。ぜひ意志表明を        

5、都市物語を旅する会 

私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16時頃としている。

                                                            
第151回 6月15日(土) 13時 東急東横線代官山駅中央口前広場
キュレーター きむらたかし 「三田用水ツアー第2期最終回」
〜旧朝倉家住宅内水路と鉢山分水跡を歩く〜
コース:〔重文〕旧朝倉家住宅*−同庭園内水路**−(同住宅内見学 14:00まで)猿楽塚ー猿楽分水口跡―朝倉水車跡―西郷山水車跡−鉢山分水口跡−(鉢山交番)−鉢山分水路跡−並木橋(伝鉢山分水放流口)―渋谷駅
*入場料:60歳以上は身分証明書提示で無料、その他100円
**庭園内はハイヒール・サンダルは危険につき不可


第152回 7月20日(土)13時 京王井の頭線新代田駅改札前
 案内者 山本裕 ダイダラボッチ川を歩く
コース:新代田駅→ダイダラボッチ跡→地蔵尊→川に沿って下る→井の頭線下北沢2号踏 切→八代龍王の跡→旧守山田圃跡→踏切地蔵尊→下北沢王将(旧北沢湯)→代沢三差路→北沢川合流点→邪宗門、ダイダラボッチ談義(希望者)

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代) 参加申し込みについて(必ず四日前まで連絡してください。資料部数と関連します)  きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                   
▲世田谷ワイズメンズ倶楽部より第12回「戦争経験を伝承する会」に協賛金一万円を頂いた。会場費として使わせていただいた。毎年協賛していただいている。
▲発行号数訂正。今号は155号としているが、前回も155号だった。分かったのは号数を一つ抜かしていたからである。それで今号も同じ号数になった。記録としてはネットにアップしているのでこれの号数は書き換えた。
▲「準備会」からの要請で、「ダイダラボッチ」を子ども向けに分かりやすく書いた冊子をまとめることになった。言わばダイダラボッチ読本である。学校などへの配布を予定。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。 

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2019年05月25日

下北沢X物語(3769)―驚き「鉛筆部隊歴史年表」―

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(一)「鉛筆部隊」は銃後の近代戦争史として位置づけられる。思いがけず年表が出来ていることを知ったからだ。この部隊名は、東京世田谷の代沢国民学校の教員の一人が用いた。綴り方教育を推進していた柳内達雄先生だ。東京から浅間温泉に疎開する当たって自分が受け持った疎開宿の学童につけた。ついこの間、鉛筆部隊の足跡をドキュメントで追っているデレクターから聞かれた。疎開先での十三ヶ月あまりの生活の様子が掴めない、「あの日記はどうなっているか?」と。ちょうど自分でも物語を構想していてその日記の行方が気になっていた。「私も全く同じことを考えていてその確認を取ったのです、ちゃんとありました」と応えた。鹿子木幹夫日記である。鉛筆部隊の一員として彼は日記を書いて書いて書きまくった。長じて大学の教員となった人だが、亡くなられた。彼の奥さんの手元にまだあるとのこと。疎開学童の歴史記録としても重要なものだ。

 つい先だって行われた公演「歌物語 鉛筆部隊と特攻隊」では彼の日記がそのまま使われている。昭和十九年七月の記述だ。

 ぼくは七時の報道を聞いてはつとした。サイパン島全員戦死。日本人と名のつくもので戦かへるものはやはり戦ひ、負傷していて動けない者は腹を切り、やつと歩けるものは勇躍突撃した。

 戦争の渦中にいて、サイパン玉砕を彼はこう捉えている。心に深く刻みつけられたニュースだ。突撃精神への感嘆も読み取れる。

 彼の日記を読むと鉛筆部隊としての指導は、疎開に行く前からもう始まっていた。「書け書け」と言われてかいた一文だ。
 
 鹿子木日記は、一人の疎開学童の精神史を描いている。隊長に盲目的に従ってはいない。関係者から聞き取ってみると彼自身は純粋であった。それゆえに大人の行動をしっかりと見て客体的に書こうとしていた。

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2019年05月24日

下北沢X物語(3768)―歌物語の余韻は続く―

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(一)知覧特攻平和会館の企画展示の一つとして「鉛筆部隊と特攻隊」が開催されている。
標題は自著の名前でもある。「不思議機縁の特攻物語」だ、発端を作ったのは下北沢近縁の音楽文化だ。戦争中当地一帯から長野県に学童は疎開した。親元を離れての生活は寂しい。ここに生まれたのが歌である。「歌をうたえば心は弾む」、そう鉛筆部隊四十五名は筆も立つが歌も立つ、彼らが声を揃えてうたうと高原は一層爽やかになる、歌は都会風のしゃれた文化だった。田舎の子どもに地方出の特攻のあんちゃんも憧れた。思慕の情がこの物語を生んだ、類い稀な物語だ。

 先だって、歌物語「鉛筆部隊と特攻隊」の公演を行った。その後に懇談会を行った。ここでもやはり歌が話題となった。

「私はね、『鉛筆部隊と特攻隊』という題を聞いて、てっきり軍歌だと思ったのですよ。だから昔の軍歌について整理ができると思ったけど、観てみてびっくりですよ。軍歌なんかたった一つ『同期の桜』だけ、私はとても高尚な劇だと思いましたよ」
 麻布十番で育った84歳の人だった。
「麻布十番は、あの頃はみな都電、出征兵士も英霊も都電で出てゆき、都電で帰ってきた。送ったり、迎えたりしたものです」
 都電が走ってきて停まった。前扉が開くと、英霊を抱えた遺族がステップで転ばないようにゆっくり降りてくる。学童たちは先生の指示で頭を下げた。

「私は、この代沢小がらみの歌については前々から深い興味を持っているのです。戦時中のことだから軍歌主流だと思っていたのですが、そうではなかったのですね。それで一番感心するのは作曲技術などがしっかりと身につけられて人を魅了する音楽が疎開先で生まれていたということにびっくりしましたよ」
 作曲家の明石隼汰さんが言う。
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2019年05月22日

下北沢X物語(3767)―劇批評「歌物語 鉛筆部隊と特攻隊」―

劇中の私(一)公演の成功を知覧特攻平和会館に知らせたところ、「特攻隊の紹介は、子どもたちとのエピソードなのでとても親近感を感じると思います。若い子どもたちに特攻を伝えるための良い企画と思います」との返答だ。館でも抱えている問題だ、次代を担う子どもたちに特攻をどう伝えるか?やはり子どもに伝わってほしい。幸いなことに公演当日観に来ておられたのが代沢小の溝口先生だ。(鉛筆部隊の母校である)「代沢小の学童にぜひ見せてほしい」との依頼があった。子どもに戦争を伝える、また学校の歴史を伝えるよい機会である。私たちとしてもこの要望に応えていきたいと思う。

 当日、劇が終わった後は忙しかった。懇談会を予定していたが高齢の方などはすぐ帰られる。一人九十いくつかの海軍特攻部隊に所属された方がおられて私と話をしたかったようだ。残念なことをした。

『私ね、浅間温泉が古里なのです。もう懐かしくて懐かしくて涙が出てきました。兵隊さんと女鳥羽川に行ったり、本郷小学校で遊んだりとかあったでしょう。よおく知っていますからね、昔を思い出して泣いてしまったのですよ……そしてね、歌がいいですよね」
 玄関で会った高齢の女性が言っていた。
 多くの歌が出て来た。これが気分を朗らかにさせる。
 「代澤浅間学園の歌」も披露した。これについてエピソードがある。

 歌詞は手に入れていた。この歌を含めてコンサートを開いたことがある。これをお願いしますとピアノの伴奏者に歌詞を渡したところ
「ピアノ譜は?」
「エッ!」
 何にも知らなかった。楽譜があってもピアノ譜がなければ弾けない。
「川田さん、今度五月に代沢浅間学園の歌をまた披露しますから、ピアノ譜を作っておいてください」
 代沢小の卒業生でこの歌のことをよく知っているのが川田正義さんだ。
「分かった、分かった、必ず作るから」
  そう言っていたのだが、「川田さん亡くなられました」と電話があった。ピアノ譜はどうしたのだろう。

 この間、劇の練習の時に音楽担当の内村真由美さんに楽譜を渡した。
「すみません、ピアノ譜ないんですけど」
 内村さん、すぐにピアノに向かい、楽譜に書き込みを始めた。ものの五分もかからないうちに
「これでいいかしら?」
「えっ、そんなに早く出来るんですか?」
 
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2019年05月21日

下北沢X物語(3766)―絶賛:歌物語「鉛筆部隊と特攻隊」―

鉛筆部隊公演 E 
(一)劇への感想文が、一枚も戻って来なかった。感動しての、あるいは落胆してのことか?後者ではないらしい。「素晴らしい演劇を観ることができ、ありがとうございました!」(畦田和弘さん)「公演のテンポの良い芝居運びとなって素晴らしい公演になっていました」(別宮通孝さん)「子どもたちを巻き込んでの公演もよかったのですが、そのあとの交流会でのみなさんの発言もとても興味深い内容で心に残りました。」(竹内良男さん)「戦争体験がない参加者にも臨場感を与える演出。史実のある地域の蒲鉾型の会場」(難波三津子さん)などがメールなどで寄せられた。演者は夢中で、劇全体がどうであったかなどは分からない。が、「素晴らしい!」との感想を得て心底嬉しかった。

 劇そのものが劇だった。私は、最後に挨拶をした。これはメモを作っていた。
「劇中では、メモを見てはいけないのですが、今はメモを見てもよい、この差は大きいですね!」

〇 今日は皆さん、「歌物語 鉛筆部隊と特攻隊」の劇を見にきてくださって、ありがとうございます。一言申し添えますが、題として物語としましたがほとんどが事実に裏付けされた実話です。

◎劇を終えるに当たって皆様にお伝えしたいことがあります。
〇まず一つ目ですが、ここに遺影が飾ってあります。
 劇中でビデオで出演された元鉛筆部隊の田中幸子さんです。
 この劇は実験劇として昨年上演しました。そのときに彼女は出演してくれました。今回も出演するはずでした。が、この四月五日に85歳で亡くなられました。
 この間、知覧特攻平和会館の人から手紙をいただきました。
「歴史の生き証人がまた1人お亡くなり、特攻の歴史がまた遠くなった感じを受けております」とありました。特攻の語り部だったのです。ご冥福をお祈り申しあげます。


鉛筆部隊公演 A 
 公演に当たって、山梨から来られた矢花克己さんが遺影を持ってこられた。これにバラも添えて。舞台右手のオルガンの上にこれは置かれた。彼女がずっと劇を見ていた。
「ほんと不思議ね」
 彼女はそう言ったに違いない。これは口癖だった。何を言うのか、それは因縁の不思議さである。実際、またここでもドラマが起こったのだ。

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2019年05月19日

下北沢X物語(3765)―苦難の歌物語「鉛筆部隊と特攻隊」―

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(一) 演劇とは何か、寝ている活字を起こすのものであると思った。この劇の場合、ヤマ場となるところは特攻兵から来た手紙の紹介である。当然のことながら台本では時系列の中に納められている。その箇所になって読み上げられる。言ってみれば寝たものだ。ふとこれを起こしてみてはどうかと。郵便屋さんを思いついた。つまりは手紙を届ける役である。後ろのドアが開いて「郵便です!」とくる。ここにセリフから手紙を切り離し、封筒に押し込んだ。「あれ、手紙が三通あるけれど分けてみると一つ一つに性格があるんだ」と知った。すると「これは結構重要な役なんですね」と郵便屋を演じる山本裕さんが言った。まったくその通りだ。寝ていた活字を封筒という小道具に入れると言葉が光ってくる。

 人間は我の世界に生きている。自分で考えて、理解して物事を行っている。が、言えば一人一人が勝手な世界を自分で構築して生きている。こちらは文章世界に生きている。が、今度は劇を行うことになって、劇的世界で生きている人に出会った。

 こっちは文章上でどれだけ巧く表現しようと心がける。が、それがどう伝わったかは時間が掛かる。が、演劇の場合は即刻分かる、演じれば、面白くない、興味深いという反応がすぐに返ってくる。それだけ厳しいものだ。

 言えば、自身、我的世界に生きてきた。「ぼおっと暮らしてきた」、今回、戦争経験を伝承するは十二回目だ。来る人に金を払ってきてもらうなどほとんど考えたこともなかった。ところが今回は「入場料を取りましょう」と演出の若桑比織さん、劇ともなると小道具、衣装、装置などで金がかかる。それで有料ということになった。

 今までは無料的な環境で生きてきた。セリフなども台本を見て朗読すればいいと考えてきた。「有料だ!」というのもショック療法だ、「金を取る以上、セリフをいうのにトチ狂っていてはまずい」という意識は目覚めた。なるほど、金を取ることで素人は、緊張する、それが技の上達に繋がってくる。
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2019年05月18日

下北沢X物語(3764)―ぶつぶつ人士が集う町:下北沢―

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(一)かつて下北沢の踏切で電車に向かってぶつぶつと何かを言っている男がいた。「変なやつがいる」と思っていたら役者がセリフの練習をしていた。一昨日、その旧踏切近くの教会のカマボコ兵舎で同じことをしていた。音楽担当の内村真由美さんがアコーデオンの練習をしていた。「チャンス」とばかりぶつぶつとやらかす。この劇を始めようとしたとき、朗読劇ぐらいの気持ちでいた。が、「セリフは覚えてください」と演出の若桑比織さん、「えっ!」、考えてもいなかった指摘だ。それ以来、ぶつぶつおじさんになった。この前はぶつぶつおばさんに道で擦れ違った。東演の女優山田珠真子さんだった。「セリフの練習をしていたのね」と。超ベテランでもぶつぶつは欠かせない。なるほどシモキタはぶつぶつ人士があっちにもこっちにもいるはずだ。

 練習は一日休むと自分に分かり、二日休むと師匠に分かる。三日休むと観客に分かるという。我々の劇の練習もこのところ続けてやっている。この間、練習を一回休んだ、するとセリフはなんとかなるが、入りと出とが分からない。控えで幕の後ろに入ったときに台本を確認する、「げっ!」ライトが暗くて字が読めない。急に不安になる。

 立ち位置が分からないと自分の存在が怪しくなる。景や場面を自分の中でイメージすることが劇では大切だということを知った。

 しかし、自分の知らないうちにセリフが改変されていることがある。
「あれ、山に登っていないのに私は山の頂上からの景色を説明するの?」
 観客はセリフを聞きながら、景色を想像しているはずだ。が、上っていないのに、「あれが槍ヶ岳だ」というのも自分のイメージに合わない。

「おおい、みんな山登りに行こう、きもちいいぞ」
 このセリフを入れて
「おおい、みんな、あそこに見える尖った山が……」とする。
 山に登るという一文を入れてもらうと自分も観客も腑に落ちてくる。
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2019年05月16日

下北沢X物語(3763)―田中幸子さんを悼む各地からの声―

知覧特攻平和会館
(一)人間どう死ぬのか?結果は恐らく当人には分からない。死のプロセスなども意識されないだろう。この間、田中幸子さん宅に弔問に行った。そのときに彼女の最期の様子を息子さん夫妻が話された。臨終に近い頃に「まだなのか?」と彼女が聞いたという。「お迎えが来る」というが、本当にそれを待つということがあるのだと思った。彼女は待っている間、どのようなことに思いを巡らしてたのだろうか。私と矢花克己さんと彼女とで知覧に行ったとき、行きも帰りも右窓の席だった、「富士が見えるように」との彼女の配慮からだった。南方に向かう特攻機はここを通るときに誰もが深い感慨を持った。好天でそれはよく見えた、「きれぃだわねぇ」と彼女。富士山を脳裏に描きながら死んだのかもしれない。その彼女の訃報が今全国を駆け巡っている。

田中さんは4月5日に亡くなった。もう一月が過ぎた。葬儀は家族葬として執り行われた。近親者だけで彼女を見送った。今になって分かってことだが、彼女の知り合いは全国に散らばっていた。彼女の行動力、それと人脈の厚さとを物語っている。

 一昨日、仙台在住の人から電話があった。用件は19日に行われる「歌物語 鉛筆部隊と特攻隊」を観たいとのこと。彼は「僕のお嫁さんになってね」−特攻隊と鉛筆部隊の子供たち−を書いた高田充也さんに教わった人だった。先生が書いた童話を通して「鉛筆部隊と特攻隊」のことを知った。標題の「僕」というのは今野勝郎軍曹のことを言う。彼は同じ宮城ということで今野軍曹の実家にも訪ねたという。その今野さんの甥御さんから彼に田中さんが亡くなったことを知らされたという。

 彼がそれで長野松本に住む高田充也さんに知らせたらしい。このことがまた別の情報をもたらす。昨日、松本浅間温泉の小林梅恵さんから手紙をもらった。

 実は本日の新聞のエッセイに高田先生の投稿なさった「平和を祈り続けた二人の死を悼んで」を読みまして田中さんの亡くなられたのを知り大変ショックを受けぼう然として居ります。


 小林さんは九十歳になる。元疎開学寮だった千代の湯のお上さんだった。そんなことから田中さんと小林さんとの関係は私などよりずっと長い。手紙はこう続く。

 田中さんは生涯私にとって大変な恩人であり一番大切な方でありました。残念で残念で仕方ありません。ご自分の信念を貫き細かいお心遣いで人にご親切になさり女性としてあらゆる面でご立派な方ですばらしいお手本のような御生涯だったと思います。

 田中さんには人を包むような優しさがある、一度たりとも彼女から言葉で傷つけられることはなかった。また恩義を忘れない人だった。黙って身銭を切る人だった。鉛筆部隊の鳴瀬速夫さんが東京でハモニカコンサートしたとき彼女が元千代の湯旅館の夫妻を招くということもあった。

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2019年05月15日

下北沢X物語(3762)―下北小講演会&ダイダラボッチ―

野沢のダイダラボッチ
(一)講演のテーマは二つ、疎開とダイダラボッチだ。共に伝承していかなければならないものだ。戦争伝承と伝説伝承である。下北小の前身である東大原小の疎開のことは語り継いでほしい話だ。疎開先で偶然に出会った武揚隊、東大原小との出会いが無かったなら彼らの歴史は日の目を見なかっただろう。誠第32飛行隊は苦難の戦闘隊だった。この隊は満州新京から朝鮮半島を南下し、日本列島を北上し松本へ、再び九州、から大陸へ、そしてようやく台湾に着いた。死地を求めて三千里、苦闘の連続だった。彼らは出撃を前にして思いの丈を歌を歌って披露した。東大原小の疎開学童が歌詞とメロディを覚えていたことで蘇った。彼ら死にゆく特攻兵が率直に抒情を述べている。別れゆく学童への思いと平和への願いである。近代戦争史の語られざる記録である。学校の歴史としても受け継いでほしい。

 もう一方のダイダラボッチも地域伝承としてこれを残し次代に語り継いでほしいと思う。私は、講演の最後でこう述べた。

 大正9年に柳田国男は世田谷代田に来た。ダイダラボッチの痕跡を調べるためだったが、しかし単なる検分ではない、フィールドワークを通して我々の歴史は何だったのかを調べにきた。人間はどこから来たのか?その材料を得るために来た。
 それが世田谷代田だったというのは素晴らしい。

 現在の下北沢小学校はダイダラボッチ跡からは非常に近い。

「私はいつも思うのです。校門前の道がありますね。この道はダイダラボッチと関係するのですよ。地図を見るとよく分かります。ダイダラボッチは窪みです。だから環七方から来る道は、この窪みを見事に避けていますね。回り込んだ道が学校の前を通って下北沢一番街に斜めに流れて行く……」

 一番街と鎌倉通りが交差する道は清水博子言うところの「私立学園前によじれた四つ角」だ。実はここにこそ郵便ポストがあった。次元の穴の典型的な場だが、これを口走ると異星人になってしまう。

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2019年05月13日

下北沢X物語(3761)―下北沢小学校同窓会講演会―

CCI20150412_0000(一)下北沢小は、かつての第三荏原、東大原小の跡地に建っている。旧東大原小と守山小の同窓会が合体して下北沢小同窓会ができた。過去情報が二校一遍に得られるという利点もある。12日、同窓会では疎開とダイダらボッチのことを話した。二時間ぐらいではないかと思っていたら一時間。超特急で二題をこなした。どこまで伝わったろうか?同窓生OBが集まってくる場は貴重だ、下北小のすぐ側に巨人の痕跡がある。「ダイダラボッチって知っていますか?」、三分の二ぐらいの人が手を挙げた。やはり代田の地元だと思った。懇談では知りたいと思っていた情報が手に入った。前から気になっていたのは1944年8月12日の下北沢の駅で起こったことだ。謎がやっと解けた。

 小さな歴史は大切である。前から知りたかったことがある。昭和十九年八月十二日の下北沢駅の様子だ。この日代沢国民学校と東大原国民学校は共に疎開に出発した運命の日である。学校に集まって旅館の割り振りもした。鉛筆部隊の構成メンバーなども急遽、他地区から繰り入れられた。田中幸子さんはその一人だ。千代の湯に入れられたことで彼女は運命に関わる出会いをすることになった。

 東大原国民学校の疎開学童も割り振りで部屋決めがされたと思う。武揚隊長谷川信少尉がよく訪れた部屋の女児たちにも運命の出会いがあった。
「よく部屋に来られた長谷川さんが私の初恋の人なの」
 こういう人もいた。
「その長谷川さんが『きけわたつみのこえ』に出てくる長谷川さんだったとは驚きですね」 
下北沢小同窓会幹事の臼井良雄さんの感想だ。

 昭和19年8月12日、代沢国民学校の「四四五名」は「午後十時校庭出発」し下北沢駅から電車に乗って新宿へ向かった。同じ日に東大原小も出発している。
「親の見送りは学校まで」
 そう決められていたが、これを逃せば一生子どもと会えないかもしれない。親はほとんどが駅まで見送りに行った。両校一遍だと二千人以上、この日駅は大混雑したのではないか。昭和2年4月に駅は開業した、それ以来の混雑だった。が、この記録はどこにもない。東大原国民学校はどこから電車に乗ったのか。
「これが心に引っ掛かっているのです。ご存じでしたら教えてください」
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2019年05月12日

下北沢X物語(3760)―ああ、特攻、今また幼児特攻?―

田中幸子さんひまわり畑(一)「九死に一生を得て特攻から帰還した人なんですよ。出撃基地には厳しい隊長がいて皆さんざんいじめ抜かれたらしいのです。が、時が巡ってきて出撃命令が出たのです。編隊を組んで出撃したときに敵機に遭遇したのです。ところが味方機は先導する隊長機に銃口を向けて一斉に撃ちまくったらしいのですよ。たちまちに機はきりもみ状態になって墜落していったそうなんです……彼は再度出撃して負傷して帰還をしたんです。でも秘密を知っている男ということでだいぶ長く監視下に置かれたと聞いています」代田邪宗門に来ている常連の一人から聞いた話だ。前にも飛龍乗組員の前村弘さんから聞かされたのは「なんであんたら死んで帰らなかったのか」と詰問されたと聞いた。機に故障があってもなんとしでも死ね、帰って来るなとのことだ。

 特攻物語はいつも悲しい。
 今、鹿児島知覧特攻平和会館の企画展で「鉛筆部隊と特攻隊」が取り上げられている。松本浅間温泉にやってきた特攻兵と疎開学童とが親しくなった。出撃した後に「鉛筆部隊諸君へ」と手紙が送られてきた。亡くなった彼らに返事は出せない。それでご遺族宛の手紙を学童は書いた。今回は三名のが展示されている。時枝宏軍曹の遺族に宛てたものだ。手紙は知覧に寄贈されたことで残った。手紙の一つは高島千恵子さん、4月5日に亡くなった田中幸子さんの妹だ。

 時枝軍曹は、誰も彼も優しくしてくれた。学童らの思いが深く多くが時枝さんに手紙を出したかった。選ばれた彼女、「軍神加藤の勇ましい歌を教えていだだきました。その歌をうたふと時枝がこひしくてこひしくてたまりません」と書いた。小学校四年の彼女の率直な思いだ。

 学童らは昭和二十年二月、自分達の宿舎にやってきた航空兵と出会って一月あまり共に生活をした。親里から離れた地では誰もが寂しい思いをしていた。そこにやってきたのは若いお兄さんたちだ、ふれ合えば仲は深まる。が、戦争は無情だ、時が来て彼らは出撃していった。そしてラジオで彼らの死を知らされる。大きなショックだった。千恵子さんは精一杯思いを手紙にぶつけた。「こひしくてこひしくて」は、せつないほどの恋慕ではなかったか?

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2019年05月10日

下北沢X物語(3759)―幻影の大井町:電車話のおとろしや―

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(一)大井町は絵になる町だ。たまたまここを省線で通り掛かったときのことを小津安二郎監督が描いている。朝の十時頃、「大井町から酒場の女給風の女が乗りこん」(注)できた。「なんの変哲もない」ことだったがひときわ彼女が「注目を一身に集めた」と。都心から一拍も二拍も置いた都鄙境には固有の時間がある。品川では乗り降りがあったがこの大井町は閑散としていた、そこに「女は店着らしい酒のしみの目立つ、ひどくくたびれた派手な着物で」現れると時間が引き締まったらしい。大井町の空気を引き摺ってきた女は映画的な絵にもなる。「青猫」時間に染まった女だったのかもしれない。

 坂口安吾は大井元芝八四九に住んでいた。坂の取っ付きだ、上っていくと丘の住民に会った。そこは緑豊かなところで時間の流れも違っている。この辺りには仙台藩や越前鯖江藩の下屋敷があった。丘上のステータス、丘の取っ付きあたりに住んでいる新参の者に聞いても何も分からないよと言っていた彼は、そう言うだけに土地のことをよく知っていた。

「黒澤明監督が生まれたのは今の浜川中学辺りだよ。あっちは確か土佐藩の屋敷があったな……そこに体操学校ができたんだ。校庭に碑があるぞ……」
 
 明治三十七年九月から昭和十二年十二月の間、この地に体操学校を移設、荏原中学校を併設して体育指導者を養成する。現在同校は日本体育大学日体荏原高等学校に発展する。平成三年八月創立百五十年を記念し日本体育会建立。
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 中学の塀の外から石碑の字が読めた。この学校の要職にあったのが黒澤明監督の父の勇だった。黒澤家は校内の教職者住宅に住んでいてここで黒澤明は生まれていた。
 生誕地とされる、東大井3−26−4番地は学校のすぐ近くにあった。すぐ西には立会川があった。開渠部分からは臭いがたち上ってくる。

 分かってみると何のことはない。川に沿って小さなアーケードがある。往時からするとすっかり寂れていた。東芝病院に胆石で入院していたときにここらはよく散歩していた。
◎注 「車中も亦楽し」 小津安二郎映畫讀本 フィルムアート社 1993年
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2019年05月09日

下北沢X物語(3758)―幻影の大井町「青猫」再訪行―

DSCN0519(一)岡本喜八監督は、黒澤明監督が、「頭で稼ぐ助監督と足で稼ぐ助監督が居る」と言い「足で稼いだ方が長持ちする」(注)と助言してくれたと追想している。足で見聞を深めよと。黒澤明監督の大井町の生誕地を訪ねるのに電車の終点で降りずに一つ手前の大井町線下神明で降りた。荏原台の付け根だ。これが海側になだれ込んで舌状台地を作っている。その先端辺りに探訪地はある。手前で降りたのは足で地形を確かめるためだ。台地の高い方はかつての下屋敷だ。丘の縁辺は庶民が住む所らしい。その大昔の波打ち際で掃除をしている人がいた。土地のことを聞いても反応は鈍い。と、そこに通り掛かったのが丘上の住民だ。犬坂を登りながら「新米に話を聞いてはいけない」とたしなめられた。とはいえども新参者もいい歳だ。その対話を通して分かった。丘の取っつきはさすらい人の住むところだ。分かってみるとそのならびに坂口安吾も、黒澤明も住んでいた。
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「すべての道はローマに通ず」、同様、荏原の道は大井品川に通じる。荏原中央から歩いて行ったり、調べ物に行ったりすると大井品川に着く。鉄道のことを調べに行くと品川東海寺に行き着く、井上勝鉄道庁長官の墓、そのとなりに華やかな墓、なんと島倉千代子が眠っていた。世田谷代田に住んでいた音丸、品川の寺に行くと「船頭かわいやの」歌碑がある。代沢小に代用教員を務めていた坂口安吾、当初は大井町の家から通っていた。「学校から渋谷へ歩いて行かれていましたよ」と古老から聞いた。

 今回は、下北沢の飲み屋で黒澤明監督の話を聞いた。立会川生まれて当地に住んでいた朔太郎に深い関心を持っていたと聞きさした。これには深い感銘があった。

 これまで何度大井町に通ったか分からない。とくに感銘深かったのは江見水蔭の「蛇窪の踏切」だ。その名前からしても何やら怪異性がある。明治四十年六月に発表されたこれに出会って驚嘆した。冒頭、「洗足小池の樋の口で鮒を釣つていた村の老翁」で始まる。

 常々通っているの洗足大池、これはよく知られている。洗足小池は知る人もいない。ところが明治の昔の近代小説がこの小池で始まっていて心底驚いた。ダイダラボッチが杖を突いた伝説もある池だ。
◎注 キネマ旬報セレクション 黒澤明 キネマ旬報社・編 2010年 
  「黒澤明 追想 「足で稼いで ホンを書け」 岡本喜八続きを読む

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2019年05月07日

下北沢X物語(3757)―幻影の大井町:朔太郎と黒沢明―

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(一)若いママさんの側を通りかかったとき、「今日はサッポロ一番が安いわよ」と小耳に挟んだ、「なるほどあの塩味が彼女らのエネルギー源になっているのか」と知る。聞くともなしに聞いた話に気を取られることがある。「黒沢明は大井町生まれで萩原朔太郎に深い関心を持っていた」という話だ。先日1日、二日間に亘る下北沢文士町の文学散歩を終えた後、世田谷文学館友の会の人と打ち上げをした。そのときに副会長の堀信雄さんから聞いた。彼は黒澤明研究会会員だ。俄然この話に興味を持った。萩原朔太郎は大井町がことさら気に入っていた。深い「のすたるぢあ」を感じていた町だ。その根本は往時の工場街である、蠱惑的な町風景があった。ここで生まれ育った黒澤明は彼もやはり詩人と同じような思いを持っていたのではないか?大井鉄道工廠から溶接の青い灯りのこぼれる町に……

「大井町はどの辺りですか?」
「黒沢明を言う場合、立会川生まれといいますね。確か立会川駅近くでしたね」
 京浜急行は海側に、東海道線は陸側を走っている。
「京浜急行の北側の丘の方なんすか?」
「何とかという中学があるあたりなんですけど……本があるんですよ。監督自らが『自伝のようなもの』としている『蝦蟇の油』という本が……」

 その本を手に入れた。「まえがきに」、人から「自伝のようなもの」を書いてみたらと奨められていたらしい。書くつもりはなかったが断りきれずに書いたという。その説明の中で映画監督のジャン・ルノアールに出会った話を紹介している。そのルノアールが自伝の前書きで、「個性とは、実のところ幼稚園で出会ったさる幼なじみとか、初めて読んだ小説の主人公とか」(岩波現代文庫)の「種々雑多な要素でできあがっている」と書いていた。これに触発されるものがあったらしい。

 自分では気づかないが幼少時の経験が、自分の個性の形成に深く関わっているのではないか。立会川の川のにおいや京浜電車の放つスパークとかが知らず知らずに彼の感性に影響を与えていたかもしれぬ。大井町だったら大いにあり得ることだと思った。この工場町にはきらめく光やにおいがあって、そこに人々がうごめいていた。
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2019年05月06日

下北沢X物語(3756)―ボーっと生きている我ら:子どもの日&憲法記念日―

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(一)忘れがたい言葉がある、「特攻は最も安上がりな戦法だった」、特攻生き残りの誠第41飛行隊の故久貫兼資元軍曹から聞いた。おんぼろの中古機をあてがって爆薬もろとも米艦船に体当たりさせる。日本という国家の命の使い方だ。方や敵の米軍、B29の乗組員の救急救命バックには釣り針を入れていた。不時着した場合、針で魚を釣ってともかく飢えを凌げ、その間に助けに行くからというサインだ。戦争中の話であるが、兵隊としての人間の扱い方に大きな乖離があった。が、あの敗戦によって日本は民主国家になった。新憲法は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」、そして「すべての国民は、個人として尊重される」とも謳う。が、今我々は法のもと平等に生きているのだろうか?

 5月5日、新聞は子どもの人口が38年連続で減っていることを伝えている。「子供人口は1533万人、38年連続の減少で前年比マイナス18万人」と。社会にとって子どもの活力は必要だ。が、人口減少が日本全体の活力を削ぎ始めている。

 思い出すのは戦時中の話だ。昭和二十年二月、沖縄特攻を控えた特攻隊が、内陸部の飛行場松本に多数飛来してきた。折も折、松本市外浅間温泉には世田谷から七校の学童が疎開してきていた。飛行隊の彼らはこの温泉にやってきて学童と接した。おしゃまな女の子や可愛い坊ちゃんたち、死に征く運命にあった彼らはこの子どもらの溌剌とした笑顔に出会った。約一月あまり、そこでもここでも兵と学童との交流が続いた。最後に出撃して行くときに命の洗濯ができたと涙を流したという。

 子どもらの笑顔は大人を勇気づけるものだ。報道では東京は子どもは増えているが地方では激減している。首都は繁栄し、地方は衰退している。この格差もどんどん広がりつつある。子どもの笑顔がなくなった分、地方は一層に寂れていく。

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2019年05月04日

下北沢X物語(3755)―下北沢文士町は戦慄に満ちていた―

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(一)一大イベントが終わった。平成から令和へ時代をまたいで下北沢文士町を歩いた。参加者は世田谷文学館友の会の会員、時代の移り目に世田谷の文学の重要地点を探ってみようとの試みだ。この下北沢文士町の核心は何か?さすらいである。当地を代表する詩人は萩原朔太郎だ、晩年の詩集はこの世田谷代田で編まれた『氷島』である。その冒頭詩は『漂泊者の歌』である、「汝の家郷は有らざるべし!」と激しく歌う。今回の探訪のテーマは「世田谷を愛して恋して生きてきた人−萩原朔太郎、森茉莉、三好達治だ」、このいずれにも共通するのは漂泊者である。その彼らの面影を訪ねるツアーである。ゆきゆくと路地の陰に彼らの面影が浮かんで来もする。飄々と歩く朔太郎が、サナトリウム歩きをする茉莉が、クジラ頭の達治の影をみたように思って胸騒ぎがしてくる。ここは漂泊者が吹き溜まってくる町だ。
 
  当地の魅力は都鄙境にあることだ。場末にひっそりこっそりと物語が生きている、例えば湯屋物語だ、「人にかからないように湯をかぶる女は稀で、顔を洗っているかと思うと含嗽をする。手鼻をかむ」、彼女は淡島倉運荘近くの代澤湯に行っていた。そこでの目撃談である。女湯での傍若無人ぶりを『贅沢貧乏』に書いている。
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「ここが元の代澤湯です、森茉莉御用達の湯屋でした。解体する直前に内部を見学させてもらいました。左が男、右が女、迷うことなく女湯に行きました。銭湯内部を写真に撮って帰ろうとするとき、『何でも好きなものは持っていってよい』とのお達し、カメラマンはたちまち男に豹変、女湯の臭いのするものを片っ端から手に取った。籐かごには赤い糸くずがついているのもありました。そして持てるだけ持って出ようとするとき、『あれは要らないのか?』と。彼は『女湯』の磨りガラスを指さしているではありませんか!」

 もう最後も最後、ここで繰り広げられていた女湯物語を想像した。茉莉は言う。「見惚れるような若い女もいるが……この頃の若い女のいいところは、羞恥があっさりしていて、堂々と少年のように振る舞う所である」、素っ裸の女性が隠すことなく闊歩していた、まさにその場、男湯に行こうとは思わないわけだ。

「淡島から毎日のように下北沢に通っていたと言われましたが結構距離はありますね」
 参加者の一人が言う。
「彼女、境涯に書かれた作品の多くはこの淡島で書いたものがほとんどですね。彼女の作品を見ていくと、この辺りのことが具体的に書かれているのです。やはりさすらい歩いていたんですよ」
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2019年05月03日

下北沢X物語(3754)―令和初日下北沢文士町を巡る― 

DSCN0488
(一)驚くべき発見だ。4月30日の平成から5月1日の令和へ、時代をまたぐ二日間、下北沢文士町を巡る文学散歩が開催された。参加人員約80名、かつてない大イベントだった。終わって知ったのは文士町の価値認識だ。参加者は格別の思いを持っていた。一つは時代の節目への感懐、もう一つは青春への郷愁である。バックやリュックの中には詩集や文庫本や切り抜きなどを偲ばせていた。ツアーは青春時代に邂逅した文学に出会う旅でもあった。比喩的に言うと文士町はレンコンの輪切りだ。一つ一つの穴にゆかりの詩人や作家がいる。「横光利一が卒論だったの」、「森瑤子フアンだった」、「測量船は愛読書だった」、「朔太郎にぞっこん」、「森茉莉命だった」など。文士町総体に意味があると思っていたが、個別のレンコン穴に光が宿っていると知った。参加者はそれぞれに郷愁と哀愁とを感じていた。文士町の新たなるアピールポイントだ。

 両日ともに下北沢駅が集合場所だ。新装になった駅には戸惑った人も多い。
「昔の駅を知っているからもうびっくりです。まちらしさが残っていません」との声も。
 井の頭線改札では「東口はないと言われた」と参加者。が、小田急線の改札口には「東口」と書いてある。同じ駅なのに私鉄会社の案内連携がうまくいっていない。遠来の客を迎えるのが駅である。このまちをどうアピールしようとしているのか聞きたいところだ。

 1日、令和初日は参加者の顔が明るい。30日は雨模様、一転して翌日は晴れだ、歩いても心地良い。出発は9時45分だ。いつもは午後に駅に集まって出ていた。土曜日や日曜日の午後は混み合う、路地町下北沢を集団で歩くのは不向きだ。しかし、今回分かったことは午前中なら大丈夫だということだ。

 かつての下北沢新屋敷1008番地は今は商業ビルとなっている。昼間は店が開いていてそこに立ち止まって説明するのは気が引ける。しかし、今回は午前中、店も閉まっている。説明は存分にできる。

 一日目と同じように萩原朔太郎旧居から下北沢野屋敷に向かう。一本松公園では『猫町』の一節を朗読する。
「これから友の会の活動を始めます」
 磯田充代さんのかけ声で読み始める。ツツジが満開で日に照らされている。令和の空気が穏やかで声も弾む。朗読しているうちに作家本人が降臨してくる。

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2019年05月01日

下北沢X物語(3753)―平成最終日下北沢文士町を巡る― 

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(一)「心配していた雨が奇跡的に上がった。が、この文学散歩は延期ができない。平成から令和へ、時代の節目には独特の空気感が伴う、今日は平成最後、この日下北沢を歩いて今という時代を探る。誰もがしない文学冒険ツアーだ、言い換えれば、世田谷にある近代文学の原点を探ってみるという試み、「世田谷文学館友の会」の企画は高度に文学的だ。なぜか、当地は現代近代詩歌に関わる人が密集して住んでいた。詩人が異常に多い、歌人、俳人、詩人たち、その密度日本一だ。筆頭は萩原朔太郎である、彼はここをうろついていた。その影響力は大きく、現代詩人も『下北沢には至るところに次元の穴が開いている』と言っている。吉増剛造だ、これには朔太郎存在が影響している。この町には路地が至るところにある。そこに次元の穴がひょこひょこ開いている。『おお、こわ』、そんなスリリングな町をまさにこの日歩いて楽しんでみよう……」

「今回の文学散歩では、『萩原朔太郎、三好達治、森茉莉』の三人が挙げられている。そうこの森茉莉、そこに見えている道をいつも通っていた、ほらあのオオゼキ前の踏切、東北沢六号踏切を渡って、北口駅前市場に行ってはイングランド製のチョコを買っていた。買い物カゴを下げて」
 サナトリウムのお散歩風情で歩いていた。あそこにもここにもその現場が残っているというところが面白い。

 まずは萩原朔太郎の下北沢の住まいを訪ねる。朝10時だ、路地には人は多くはない。しかし、旗を立てた集団は人目につく。
「みなさん、何の集団と思われるでしょうか?」
 旗を持った人が聞く。その瞬間、萩原朔太郎『猫町』の一節を思い浮かべた。

 世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。


 幻影である、路地の至るところに猫がいる風景だ、あっちの路地の陰から、こっちからも湧いてくる。
 路地道には陰翳がある、それが想像力を刺激する。人によっては、この路地道に、田舎が生きているという人もいる。
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