2019年10月
2019年10月31日
下北沢X物語(3874)―荏原都市郊外音響・文学論―

(一)歴史は日々作られる、が、記録されないものがある、音である。これは消えていくばかりである。ところがひっそりと記録されている。「明治の音」(中公新書)という本がある、著者の内藤高氏は日本にやってきた西洋人の旅行記の音の記述に着目した。音の記録は多く残っていた。私は日本文学に汽車の音の記録を見い出した。ここから壮大な音響論を紡ぎ出した。文学作品を時代順に並べ、そこから音を抽出する、するとそこに新たな歴史が認められる。日本鉄道文学音響史だ、時代時代の音は未知のものだ、音を巡る問題はとても興味深い。
今日、我々は音を失っている、我々の脳領域はもともとは空白だ、暮らしの中では多くの音が聞こえていた。鐘の音、川の音、鳥の声、電車の音などだ。例えば、萩原葉子は自伝を綴った文章、「蕁麻の家」では、「川音は賑わい、まるで誰かがしゃべっているよう」と記している。家の下を流れている川の音を描いている。
家の主人は、詩人の萩原朔太郎だ、その娘葉子はこの音、北沢川の音を聞いて過ごした。祖母の虐待を受けながら成長していく姿が作品には描かれる。孤独な彼女に話し掛けるように川音が呟いていた。ふだんからこの音に関心を持っていた。彼女には心のよりどころだったのではないか?
萩原朔太郎、その娘葉子の旧居は何も残っていない。それで私は、家の側にあった鉄塔を地域風景資産として提案した。それは「代田の丘の61号鉄塔」として世田谷区によって風景資産として認定された。
日々歩かない日はない、今日は、自宅からは南に向かった。家の前は遊歩道だ、かつては川音があったが今は暗渠になって音はしない。しばらく行くと東急東横線のガードが見えてくる。急行が大きな音を立ててとおるが、かつてのようなカダンスはない。びゅびゅびゅんという音がして、電車はスポッと消える。
洗足池近辺、南千束を歩いていると路地の奥から人が現れた。
「久しぶり!」
川口信さんである、洗足池近辺では彼とはよく会う。当然と言えば当然、住んでいるからである。彼とは音の話になった。
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2019年10月30日
下北沢X物語(3873)―鉛筆部隊の後輩たちへのメッセージ―

(一)「鉛筆部隊の授業の感想、生徒たちは一杯書いてくれましたよ」、土曜日27日、代沢小に行ったところばったりと六年の担任の先生に出会った。子どもたちがこちらのメッセージをしっかりと受け取ったようだ。「鉛筆部隊」には児童たちに考えさせる素材が多くある。一つは戦争と平和だ、東京が危険で、親から離れて地方に疎開せねばならなかった。戦争の怖さ、平和のありがたさがつぶさに学習できる。もう一つは、言葉である。「鉛筆部隊」はひたすらに鉛筆で書きまくった。それは言葉に他ならない。「親から来た手紙に励まされた」と体験者、出撃した特攻兵からの遺書は学童に熱い思いを抱かせた。言葉は自分を助けるものだ、ゆえに言葉を磨こう!
授業の枕で何を振るか?やはり面白いものがよい。ダイダラボッチを持ってくるというのはあった。自身がこれに取り組んでいるだけに抑えがたい気持ちがあった。が、テーマは「鉛筆部隊」だ、ダイダラボッチに触れたら数分は時間を取られる。やむを得ずこれは断念した。それで言葉を枕にして入った。
「今日のテーマは鉛筆部隊です、鉛筆で言葉を書きまくった学童たちの話です。言葉がキーワードです、
言葉は何かというと、手がかりであるということです。
私達は日々生活を送っていますが、その時々に考えたことは消えていきます。が、言葉に書いておくと残ります。最近オリンピックを控え、アスリートのことがよく話題になります。彼らの多くは日記を付けています。朝何時に起きて何をしたかということではなく、練習したときに気づいた反省点を記します。『出足が悪い』とか、そういうことを書いておくと残る。これが自分を向上させる手がかりになるのです」
「このことは勉強でも活用できます。日々日記を書いて、良かった点、悪かった点を書いておく、ときどきそれを見なおして自分を知る、そして自分を向上させる……」
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2019年10月28日
下北沢X物語(3872)―会報第160号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第160号
2019年11月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
当会創設2004年12月17日(創設十五年)
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1、九品仏川を往け
木村 康伸
今年3月の「都市物語を歩く会」で私が案内をしたのは、世田谷区の南部を流れる九品仏川であった。
そもそも九品仏川というのは通称である。正式には呑川九品仏支流という。世田谷区桜新町を源流とし、目黒区・大田区を通って東京湾に流れ込む呑川本流の支流だからである。世田谷区の東南端、東急大井町線の緑が丘駅近くで九品仏支流は呑川本流と合流している。
その九品仏支流の上流はもともと、世田谷区用賀を源流とする現在の谷沢川であったという。ところがその上流を、等々力あたりの国分寺崖線から湧き出て来た流れに奪われてしまった。崖線から勢い良く湧き出た水が、谷頭侵食といって崖上に進出し、ついには九品仏支流の上流を奪ってしまったという話だ。このような現象を河川争奪という。
崖線の湧水が崖上に流れ出し、しまいには他の川の流れを奪う。にわかには信じがたい現象だ。これは争奪というより略奪ではないか。九品仏支流について調べていくうち、そんな気がしてきた。
その略奪の起きた現場が、大井町線等々力駅近くの谷沢川に架かるゴルフ橋という橋のところである。ここまで東に向かって流れてきた谷沢川は急に南へ向きを変えている。ここは、南から来た谷頭侵食の流れが、東西方向に流れていた九品仏支流を奪い取ったまさにその場所である。そんな略奪の現場を、橋の上から眺めることができる。
さて、ここで上流を奪われてしまった九品仏支流はその後どうなったか。略奪の現場から東に向かっていた流れは、逆流して谷沢川の下流へ流れ込むようになったという。つまり、西に向かって流れるようになったということである。それで九品仏支流には逆川(さかさがわ)の異名がある。
その逆流の様子を今に伝える史料がある。江戸時代後期の文化二年(1805)に作られた『目黒筋御場繪図』である。
目黒周辺の鷹狩の場所を記したこの絵図には川の流れも載っている。九品仏支流もしっかりとその流れを記されているが、注目すべきはその東端である。今は呑川本流に合流している九品仏支流の流れがこの絵図上では合流点の手前で途切れており、呑川本流につながっていない。そしてその西端は谷沢川の流れにしっかりと合流している。合流点近くにはその名も「逆川橋」という橋が架かっているのもわかる。このことから、当時の九品仏支流はその流域のほとんどが逆流し谷沢川に流れ込んでいたと言われている。
だがこれも、にわかには信じがたい話である。川の自然の流れは低い方、低い方へ向かうから、九品仏支流のもともとの流れも標高の低い方へと向かっている。谷沢川に河川争奪された地点の標高が約25mであるのに対し、呑川本流との合流点の標高は約20mである。5mも差があるのに、逆流するものであろうか。実に不思議な川である。
その逆流の不思議を想いながら、私はこれからもきっと九品仏支流の流域を、川の流れみたいに行ったり来たりしながら歩き回ることだろう。
ところで、この九品仏支流の流域の地名を奥沢という。また、呑川本流の上流域は深沢という地名である。これは、呑川下流域の広い平地から見たとき、上流域が「奥深い沢」だったことに由来するという。
世田谷区内には、これ以外にも「沢」の付く地名がある。吉沢、野沢、馬引沢、廻沢、そして北沢である。これらは俗に「世田谷七沢」と呼ばれている。
今年、奥沢を訪れたのを皮切りに、いつか私は「都市物語を歩く会」で世田谷七沢のすべてを皆さんにご案内したいと思っている。
2、「北沢川文化遺産保存会」発足15周年
間もなく、12月を迎える、私達の会、北沢川文化遺産保存の会は2004年12月17日に発足した。この月の12月1日に「北沢川文化遺産保存の会」発起人会開催のお知らせが近隣一帯に配られた。
下北沢の南代田・代沢を東西に北沢川が貫流している。じつは、その区間は文学が凝縮された特別の空間である。環七宮前橋から淡島通り下代田橋までのわずか一キロ強の間に近代文学が凝縮されている。
この代田、代沢の北沢川沿岸に著名な文学者が居住していた。彼らが、この川辺を散歩し、ここで考えをめぐらしたり、思いにふけったりした。それを詩歌や小説に言い表したりした。彼らが普段着で散歩する姿は本地域住民の中にも今も生きている。また彼らが書き表した文章の中にも代田・代沢のことが言い表されている。
それは歌聖や詩聖、あるいは小説の神様と言われる人である。が、彼ら以外に著名な文学者は大勢いた。この地域は文学が凝縮されたわが国でも希有な空間である。
新たな会を立ち上げるということで気負いがある。「これらのことを地域や全国に発信するために文学碑の設置をしよう」と謳いあげている。しかし、十五年経ってどうだったか?恐ろしいことに四基の文学碑を建立していた。「坂口安吾文学碑」、「横光利一文学顕彰碑」、「三好達治文学顕彰碑」、「代田の丘の61号鉄塔由来碑」、これには萩原朔太郎詩が刻んである。
冊子類については数多く出した。処女冊子というのが「北沢川文学の小路物語」だ。これへの反響は驚くほど大きかった。朝日、毎日、東京版の第一面にこれが載ると事務局の邪宗門に大勢人が押しかけた。「大久保さんが道に立って交通整理をした」というのが今でも語り草になっている。
十五周年という節目を迎えることから、皆で集まって楽しみたい、ぜひ参加されたい。会員、非会員の別なく参加できるものだ。
3、「北沢川文化遺産保存会」発足15周年祝う会
私たちは、十五年間、おもしろがってきたと思う。だから続いたのではないか。あまり形式ばらなかった。それで祝う会も、楽しく行おうと思う、われらは門戸を開いてきた。今回もそうだ、誰でもが参加できるものとしたい。みなさん、どうぞおいでください。
期日 12月7日 午後17時50分
開会 場所 北沢タウンホール 二階集会室
参加費 3000円
開会の挨拶 会長 長井邦雄
1、思い出アルバムの映写 山本裕
2、会の十五年を語る 創設メンバー 長井邦雄会長、作道明、きむらけん
3、下北沢文士町文化地図 初版から8版までの変遷 きむらたかし・米澤邦頼
私設、任意民間団体のこの種のプロジェクトで、編集さらにはいわば製版に近いところまで関与した例は希少だ、その制作過程は貴重な記録である。初版から八版の中で都市というものが見えてきた。とくに空襲による焼失地域の図示は一帯を研究したり調査したりするものには重要な情報だ。
一品持参、お酒、お手製料理、手作りパンなど
オークションあり 不要物を売って会の資金とする。
信濃屋特製豪華弁当 「北沢川文化遺産保存の会15周年記念弁当」
参加申し込み12月4日まで。(弁当の発注をする)
〇電話では、米澤邦頼へ 090−3501−7278
メールでは、きむらけんへ k-tetudo@m09.itscom.net
注:なお、当日、いつものようにゴミの持ち帰りを御願いしている。
4、「下北沢文士町文化地図」8版について
世田谷区地域の絆推進事業の助成、世田谷代田駅前広場開場記念準備会協賛によって発行する。現在校正もほとんど終わった。15周年を祝う会までは完成させたい。もう校正版については数名の人がこれを目にしているが、「まえよりもすばらしく充実している」と。12月初旬からはこれを配布したい。
なお、今までは米澤さんに在庫を預かってもらっていた。が、転居してこれもできない。家の部屋が空いているので地図の保管場所に使ってもいいよという方がおられれば助かります。
通常は、一万部印刷をするが、世田谷代田駅前ダイダラボッチ広場完成のときには来訪者にに配布することにしている。それで発行枚数を一万五千を予定している。
地図を預かってもよいという人は、ぜひ連絡を。
5、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16時頃としている。
第155回 11月16日(土)13時より
集合(解散)場所 築地本願寺正門前 (日比谷線築地駅下車すぐ)
築地界隈散策 案内人 原敏彦
・コースの魅力 : 「日本初」やら「○○発祥の地」が狭いエリアに犇めいています。
その他、文学、美術、演劇、建築から和菓子、仇討まで話題満載
びっくり箱よろしく跳びだしてきます。集合前、場外市場での昼
食もお奨めです。帰りに市場での買い出しもお薦め
・コース:築地本願寺、築地小劇場跡、芥川龍之介生誕の地、浅野家上屋敷跡
などの他、文明開化期の多数の史跡を巡ります。
第156回12月21日(土) 13時 下北沢駅東口改札前
下北沢の詩人痕跡をめぐる 案内人 きむらけん
・コースの魅力 下北沢が詩人の町であることは知られていない。白秋詩系譜、プロレタリア詩系譜、四季派系譜など、多くの詩人旧居をたどる旅。
・コース:見晴荘跡(巽聖歌、與田準一、藪田義雄)→上甲平谷(俳人)→尾山篤二郎(短歌)→中村草田男(俳人)→福田正夫(詩人)→清水乙女(歌人)→萩原朔太郎、堀内通孝(歌人)→中村汀女(俳人)→北川冬彦(詩人)→萩原朔太郎△覆
第157回 1月18日(土) 午後1時 東急東横線多摩川駅
六郷用水物語を歩く 案内人 木村康伸さん
・コースの魅力:江戸時代初期、小泉次大夫によって武蔵国荏原郡六郷領(現在の大田区南部)に縦横に張り巡らされた六郷用水の痕跡を辿り、荏原の水の歴史について考える。
・コース:多摩川駅→復元水路→沼部駅→女堀→鵜ノ木八幡神社→下丸子南北引分→新田神社→矢口渡駅→蛸の手→蒲田駅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代) 参加申し込みについて(必ず四日前まで連絡してください。資料部数と関連します) きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲北沢川文化遺産保存の会の活動を通して発掘された鉛筆部隊。この本が新装版となって11月12日に発売される。題は、改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」−近代戦争史哀話(えにし書房)だ。冗漫な部分は削り、新知見は付け加えた。保存版と言える。「鉛筆部隊と特攻隊」はネットではアマゾンで手に入る。ぜひ評価と感想を御願いしたい。2200円+税。
▲歩く会は2月以降未定である。コースを案内してもよい、どこぞのコースを行ってほしいという要望もぜひ。最近の傾向としては、健康のために参加する人が増えている。全コースを歩かなくてもかまいません。行けるところまでいく、とてもよいと思う。
▲ネットでの掲示は、メール版や印刷板とはだいぶ違っていることを断っておきたい。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
2019年10月27日
下北沢X物語(3871)―鉛筆部隊の後輩たちは熱く燃えた―

(一)小学生にどう授業をするのか不安だった、が、案ずることはない、その反応は思いがけず熱かった。終わってから多くの子たちが挙手した。授業終わりのチャイムは鳴ったのに質問は続いた。担当の先生が最後の一人を指名してようやく終わった。しかし、その後の質問攻勢も凄い、大勢の子供たちが寄ってきてつぎつぎに問いかけてきた。授業では、特攻兵が鉛筆部隊に残した手紙を読み上げた。「皆さんがこの手紙をみているころは、兵隊さんはこの世の人ではありません」とあり、「つぎの世をお願いします」とあった。あれから74年が経った。特攻戦死した彼らの思いが今を生きる小学生に伝わったようだ。
授業での最後の質問は男の子だった、その子は担任の先生にあらかじめ質問をしたいと言っていた子らしい。
「鉛筆部隊の子はお家に手紙を書きました。それをもらったお父さんやお母さんはどう思ったのでしょう?」
「ほら、もう一つ兵隊さんのこともあったでしょう」
担任の先生が助け船を出した。
「とてもいい質問ですね、まず子どもから手紙をもらったお父さんやお母さんです、これはとても喜びましたね。親は毎日自分の子が心配でならない、ですからもらうととても嬉しいですよね……」
鉛筆部隊の立川裕子さん、北沢四丁目に住むお父さんに手紙をあげた。そのお父さんは、昭和20年6月7日に娘に返答を書いた。
ボンよ、元気で楽しく一生懸命に勉強もし働きもして居るとのことで何よりだ。東京も随分、米鬼に焼かれ北沢国民学校、多聞国民学校、それに下代田の病院まで焼き払われたがみんなは元気だ。父も母も清水さんや高島さんの前に落ちた五十キロの油脂焼夷弾を敢闘して消したよ。永福町の車庫をやかれて電車が少なくなって困つているが、二本の足があるので歩くのだアッハハ……
父は一人娘から手紙がきてうれしくてたまらない。それですぐに返事を出した。ちょうど山手空襲で爆撃を受けた直後だった、付近がどのように焼けたかを詳しく記している。
手紙の中に出てくる高島さんというのは、鉛筆部隊田中幸子さんの実家のことを言っているようである。
「疎開生活はとても苦しいものでした。けれども親から来た手紙が自分を励ましてくれたと当事者は言っていましたね。また、鉛筆部隊から手紙をもらった兵隊さんもとても嬉しかったようです。兵隊さんは、千代の湯鉛筆部隊の〇〇さんへと書いて、喜びの礼状を寄越しているぐらいです」
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2019年10月25日
下北沢X物語(3870)―鉛筆部隊の母校での授業―

(一)今日、代沢小学校で嵐の中、鉛筆部隊の後輩たちに授業を行った、ふと浮かんできたのが校歌の一節、「あらしに負けぬ にっぽんの 強い木になろう たくましく ぼくたちみんなの代沢小学校」だ、6年生の80名ほどの子どもたちは真剣に授業を聞いていた。終わったときに大勢の子から一斉に質問の手が挙がった。テーマは、「鉛筆部隊」だ、奇縁因縁鉛筆部隊、今日の25日は、改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」−近代戦争史哀話−の発売日である。
小学生にどう授業をしたらいいか、数日来悩んでいた。まず、枕に何を振ろうか?最初に思い浮かんだのはダイダラボッチだった。
「鉛筆部隊は、君たちの先輩にあたります。彼らは何を残したかというと多くの言葉ですね。今日は言葉がキーワードです」
「言葉とはなにか、一ついえば手がかりなのです」
「言葉は手がかりだといいました。言葉というのは一つ一つ意味があります。これを考えることは面白いことです、おもしろがればおもしろくなる。例えば、旦という字がありますね。上の、日は太陽をかたどっています。真ん中の棒は黒点ですね、下の棒は何か、ほら元旦という言葉がありますね、元は始まりです。つまり、旦の横棒は、水平線です。水平線から初めて太陽が昇ることを『元旦』と言います」
「君たちの通っている学校は代沢小です。これにも意味があると思います。多分聞いたこともない話でしょう。代沢というのは『巨人ダイダラボッチの足跡ある、小川の多いところ』という意味ですね。代沢というのは合成地名です。代田と北沢から一字ずつを取って代沢としたのです。代田は、ダイダラボッチから来ています。北沢は、昔の郡、つまり荏原郡の北辺の沢の多い地域を意味します。ですから代沢はあいのこですね」
ダイダラボッチは面白い、が、鉛筆部隊を話題にするときにこれを話すのは無理があると思った。ドラマだらけなのにこれを持ち出すととんでもない話になる。迷い迷ったあげくこれはカットした。
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2019年10月24日
下北沢X物語(3869)―阿佐ヶ谷文士村&下北沢文士町―

(一)阿佐ヶ谷文士村は人同士の行き来があって連帯的であった。が、一方、下北沢文士町は酒場に集まって飲み会をすることもない、全体が孤立的であった。大まかかな分類でいうと阿佐ヶ谷の場合は散文が中心だ、人同士が行き会って切磋琢磨する必要があったのだろう。一方、下北沢の場合は韻文が中心だ、こちら詩歌の場合は独立独歩的傾向がある、むしろ大同団結を嫌う、新宿・渋谷から一歩退いた沢や谷陰で生きる、鉄道が交差する、沢のある町は孤高的な漂泊者には心地良い場所ではなかったか?
阿佐ヶ谷から下北沢へ越した一人の文学者がいる、村と町とを比較する好個の例ではないか。それは横光利一である。阿佐ヶ谷の重鎮、井伏鱒二は彼を高く買っていた。大震災が起こったときの逸話を記している。
『文藝春秋』を発行している菊池寛は、愛弟子横光利一の安否を気づかって、目白台、雑司ヶ谷、早稲田界隈にかけ、『横光利一、無事であるか、無事なら出て来い』という意味のことを書いた旗を立てて歩いた。
「荻窪風土記」 井伏鱒二 新潮文庫 平成26年刊
その当人は、「地震が揺れると小石川初音町の下宿を飛び出して、難を逃れた」という。阿佐ヶ谷には昭和2年に越してきた。井伏鱒二はさらに続ける。
横光は時めく花形作家になって、私の生涯のうちで、こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。暫くすると、新感覚派運動を実作で推進する態度を明確にした。やがて文学の神様という代名詞が定着し、たくさんの模倣者が続出するようになった。
「荻窪風土記」 井伏鱒二
その横光利一は昭和3年11月に世田谷区北沢2丁目に新居を建て引っ越してくる。この時の経緯が小説『睡蓮』に描かれている。まずは大工と下見に来た時のことだ。
「ここですよ。どうですかね」
大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
この時は、阿佐ヶ谷から来たのだろうか。「秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた」、中央線経由で新宿に来て小田急に乗り換え下北沢駅で降りた。一帯は阿川家の茶畑だった、花はその名残だろう。
当地が住宅地として脚光を浴びたのは小田急線が昭和二年に開通したからである。新宿から近い。そればかりか一帯は未開発でまさに武蔵野の真っ只中だった。
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2019年10月22日
下北沢X物語(3868)―村&町比較文学論:阿佐ヶ谷と下北沢2―

(一)鉄道と文学、最も好む論題だ、阿佐ヶ谷と下北沢、やはり鉄道が関わる。前者は官鉄、後者は私鉄だ、観点として官鉄鉄道文学、私鉄鉄道文学というのは面白い。中央線の前身は甲武鉄道だ、が、定規で線を引いてその通りに敷設した、中野立川間の直線区間は有名だ。この鉄道甲州街道の代替線で官鉄に組み入れられた。これに比べると小田急は規模は小さい、障害物は避けて大回りをする。代々木八幡の最大曲率はよく知られる。鉄道は音である、真っ直ぐであればいわゆるカダンスも音楽性を帯びる。が、曲線が多いとそれは雑音ともなる。中央線の場合は表街道鉄道、私鉄小田急線は裏街道鉄道、その沿線に住む文士もこれに影響を受けていたことはあろう。私鉄線の場合は場末的なちまちま感がある。呼称としては前者は国電阿佐ヶ谷駅といい、後者は単に下北沢と言った。官鉄と私鉄では微妙な差がある。
文士村と文士町、ムラは群、人が多く群がっている所、マチは家が多く集まって建っている所。前者は人が、後者は建物だ。
阿佐ヶ谷文士村には文字通り文士が多く群れていた。案内者の松山信洋さんは、上林暁の『支那料理店ピノチオにて』(昭和14年3月)を引いている。
入ってみると、居るわ居るわ、十二、三人ばかり、狭い店のなかに、テーブルを鍵の字に並べて居流れていた。思い出すだけでも、安成二郎、井伏鱒二、尾崎一雄、小田嶽夫、田端修一郎、中村地平、石濱三男、木山捷平、太宰治、青柳瑞穂、三好達治、それに澤、外村の諸氏だ。阿佐ヶ谷将棋大会の崩れたとかで、みな酒を飲んだり、五目焼飯を食ったりしていた。三好達治氏とは六七年振り、尾崎一雄とは三年ぶり、太宰治氏とは初めて会った。私は安成氏と井伏氏の間に坐って、サイダーを一本飲んだ。
阿佐ヶ谷文士村の集いのまさに絵である。主体は阿佐ヶ谷将棋会だが、常々これが崩れて飲んだり食べたりしていた。文士達の集まりだ。
「キミのこの間の作品は良かったよ」
「作品は書いているんだけど載せるところがなくて」
「キミ、文学はね、自分に正直でなくてはいけないんだよ」
そういう文学談義がされたに違いない。
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2019年10月21日
下北沢X物語(3867)―村&町比較文学論:阿佐ヶ谷と下北沢―

(一)阿佐ヶ谷文士村と下北沢文士町、これの比較は面白い。場としては共に東京西郊にある。それぞれの発展と形成には鉄道が関わる。前者は国が関わる省線、中央線、後者は二私鉄が関わる鉄道、小田急線と井の頭線だ。阿佐ヶ谷と結びつく当地の文士は横光利一と三好達治である。特に前者は、阿佐ヶ谷文士村で著名であった。が、村を脱して北沢にきて文士町形成に大きく関わった。この19日、第154回目の町歩きでは「阿佐ヶ谷文士村」を松山信洋さんの案内で歩いた。最も面白く思ったのは文士村と文士町の違いである。観点としては都市郊外文学論であり、文化論である。
「阿佐ヶ谷文士村」の名づけ親は阿佐ヶ谷図書館だそうだ、「下北沢文士町」の名づけ親は北沢川文化遺産保存の会だ。が、前者は広く認知されているが後者はほとんど無名に等しい、それがまた面白い。現在「下北沢文士町文化地図」は改定八版の二校が終わった。「世田谷代田駅前ダイダラボッチ広場完成記念」と銘打っている、前評判は上々だ。これまで七版までの総発行枚数は6万枚だ。その前評判に応じて五千部増やして一万五千部としようかと目論んでいる。すると総発行枚数は何と7万5千部となる。
この地図、年末にできることから12月20日と切りのいい数字にしていた。ところが気づいたのは会の発足日が12月17日であったことだ。それで17日とした。2004年12月17日である。この年末で、我等の会は発足、15周年を迎える。
何を感じたかというと月日の過ぎ去る速さだ、恐ろしいと思えるほどだ。
「定年以来十五年、模型に打ち込みましてね、気づいてみたら創った鉄道模型で倉庫が一杯になってしまいました」
そういう人もいた。
「発足以来、十五年、気づいてみたら恐ろしいほどの発行物を出していました」
「北沢川文学の小路物語」、「下北沢X惜別物語」などを初めとして多数の冊子類を発行してきた。
長い活動の過程で、我等は、当地域が文士村ではなく、文士町であるという認識に至った。阿佐ヶ谷文士村を歩いてその認識を一層に深めた。
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2019年10月19日
下北沢X物語(3866)―歴史記録としての鹿子木幹雄日記―

(一)鉛筆部隊の鹿子木幹雄日記は貴重な戦時資料である。活字に起こして本として残す価値がある。疎開生活の実態が少年の目で克明に捉えられている。記述には近くにあった東部五十連隊の訓練の様子や動向が記録されている。が、「松本陸軍歩兵第五十聯隊史」では昭和19年8月までで後は記されていない。本隊がテニアンなどで玉砕したからだ。しかし残存部隊はいた。日記には昭和20年3月11日夜「二千人の兵隊さん」が松本を出発したことが記録されている。駅からの移動だろう、彼らがどこに向かったのだろうか?前から気になっているが記録にはない。
「鹿子木幹雄日記」の特異な点は、大人になった彼が、疎開時代の彼を批評している点である。その一例だ。
附記
よくあなたの目で
この日記を読んでごらんなさい。
丁度週番日誌をつけていた彼が
それはすっかり同化され自個のない集団
生活にのみ従っていたといふ事が分かります。
何も分からぬ子どもにそんな事をいふのは
酷かもしれないが。個性のない我のない
生活しか書けなかった当時があまりに
ドギッく読み取れます。
彼は自個を出すまいと盛んに苦労しています
がそれは強いられたものでした。子供たちに
こんな事を押しつけたそんな時代があったのでした。
確かに鹿子木幹雄少年は我を抑えて日々の出来事を書き記している。戦争を遂行している国家のもとでの集団生活である。それでも少年は現象をしっかりと捉えている。
「九月二十七日」の日記にはこんなエピソードを記している。
〇教官のべんたう
つまらなかつたのでグライダー訓練を見てゐると横でおおきなおにぎりを教官がたべてゐたのでうらやましかつた。
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2019年10月18日
下北沢X物語(3865)―鉛筆部隊が残した歴史記録―

(一)軍隊が戦死者にどう報いるのか、軍が軍を保持していくためには重要なことだ、疎かに扱えば、戦意は低下する。組織としての軍隊は慰霊を重要視する。しかし、あの大戦における個々の兵の扱いは惨いものだった。記録類の多くを一切合切、焼却してしまった。生き残った者が追及を受けないようにとの措置だ。が、死んだ者は浮かばれない。「記録をしっかりと取っておかないと戦友の霊が浮かばれないんだよ」、元特攻兵の故久貫兼資軍曹が言ったことだ。生き残ったからしっかりと記録を取って友を弔う。が、軍隊自らが記録を消滅させた。飛行記録はない、一方、鉛筆部隊は手紙や日記を書きまくった。これは隠れた万巻の書だ、ここに失われた記録は残っていた。それで鉛筆による近代戦争史の発掘とした。
「鉛筆による近代戦争史の発掘」は初版発刊から七年経っての現象の意義づけだ。学童らは日記や手紙を書いた。個々人記録には具体的な事実が書いてある。浅間温泉には下馬から疎開してきた第一師範の学童もいた。その一人の大槻統さんは飛行機好きだった。絵日記には飛来した飛行機を書き残している。その一枚である。
けふは熱が下がったのでおきました。そしておひるからみんなとかわへあそびにいきました。そしてみんなと水をひつかけつこしました。そしたら飛行機がすごくていくうでとんできてはきゅうこうかをします。ぼくたちはむちうでようふくをふりました。
何のこともない記述である。疎開学童の絵日記の記述に物語が潜んでいる。全くのプライベートなものだが間違いなく一つの記録だ。
日にちは、昭和20年3月28日だ。大槻統さん、ずっと風邪を引いていたが、具合がよくなったので皆と外出して川、近くの女鳥羽川に遊びに行った。すると一機の戦闘機が低空で飛んで来て急降下を行った。戦闘機の飛来に喜んだ彼らは着ていた上着を脱いで、懸命に合図をした。
飛行機好きの彼はスケッチをした。うまい、単発、復座、固定脚、そして後方のアンテナ柱が特徴的だ。機種は九九式襲撃機だろう。
この同じ日に別の疎開学童は記録をしている。東大原国民学校の五年生太田幸子さんだ。
三月二八日(土) 午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゆうかえりもした。
大槻さんが描いた戦闘機と太田和子さんが記録した宙返り飛行機は同じものか?
ほぼ間違いなく同じだろう。
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2019年10月16日
下北沢X物語(3864)―改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」校了―

(一)「鉛筆部隊と特攻隊」は2版まで出た。今回は、「えにし書房」から改訂新版を出す。3版目となる。当初校正は容易ではないかと思った。ところが発行から七年が経過していて物語がさらに進行していた。この間、さらに三冊を加え、都合四作、信州特攻四部作を書き上げていた。今年4月、鉛筆部隊の田中幸子さんが亡くなった。気づいたのは彼女の助力の大きさだ、それともう一つ、彼女がいることで物語も生き続けていた。亡くなっことで物語が完結した。ずっと生き続けていたのは彼女の恋だ、死にによって本当のラストを迎えた。副題を「近代戦争史哀話」としたのはそのためだ。特攻兵への恋慕は純粋である、彼女が死んでプラトニックラブは終わる。
献辞
特攻兵を恋し続け、想いつづけて、死す
鉛筆部隊 田中幸子さんへ
今回の改定新版では彼女に献辞を贈った。
「鉛筆部隊と特攻隊」全体で340ページに及ぶ長編だ。初稿から七年経ったことで現象を客観化してみることができるようになった。密かに起こっていたことがあった。アマゾンの評価に「小学校最後の学芸会で演じました」とあった。劇や映画にはうってつけである。私自身も「歌物語 鉛筆部隊と特攻隊」を作り今年五月演じてみせた。発刊を機に多くのことが起こった。
私は汽車が好きだ、「鉛筆部隊と特攻隊」をテレビで劇化したときに蒸気機関車が撮影のために動かされた。疎開列車を撮るために真岡鉄道のSLを使っていた。心高鳴ったことだ。
発刊以来、多くのことが起こった、鉛筆部隊現象である。感動的な場面はいくつもあった。この物語の発端となった「聖が丘学寮の歌」は、復活なってコンサートも行われた。歌碑や石碑も建った。ドキュメンタリー番組が作られ、今年8月31日にはこれが放映された。(テレビ信州)
まず、「改訂新版」には、「序」を加えた。
鉛筆による近代戦争史の発掘
疎開学童たちは、先生に指導されてひたすら書きまくった。文字というのは証拠である。
鉛筆部隊の立川裕子さんは、実家である「世田谷区北沢四丁目三五三番地」に送っている。
例えばその一つである。
日付は「五月二十一日夜」だ。日付というのは記録としで大事だ。年号は昭和二十年だ。さりげなくある事実が記されている。恐らくはこのことはどこにも記録がないだろうと思われる。
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2019年10月15日
下北沢X物語(3863)―災害の真実を伝える言葉まで失う―

(一)日頃は穏やかな川だった、溢れるとは考えもしなかった。が、天の海の底が抜けたような雨が降ってきた。人は事態の変化についていけなかった。川はみるみる増水していき、コンクリート堤防を越えた。このときの危険を伝える言葉が無かった。「火事だ!」はよく使われるが「水だ!」では緊迫感がない。住民は逃げるのに精一杯だった。逃げ遅れてマンションの一階では溺れ死んだ人もいる。多摩川支流の平瀬川の現場を見に行くとあり得ない事態だったと住民は誰もが口にした。同じことが全国の多くの河川で起こっている!
水害現場は、本流に近い支流の河口だった。多摩川は川幅一杯に濁流を流していた。この本流が支流からの水を受け入れなかった。「脇から入ってくるな」と支流はせき止められた。それで行き場を失った水は河口に溜まって、それが一気に溢れた。豪雨によって水位が高まった川が支流の流れをせき止める、「バックウオーター現象」である。
「ここの川が溢れたことはない、だから安心していたんだ。ところがみるみる水が溢れてきて一階は全部浸かった、機械がもうすっかり水に浸かってしまってどうしようもないよ」 町工場の主人だ。

「川が溢れるなんて考えもしなかったから荷物を二階に上げるなんてことはしなかった。もう一階は水浸しで、なにもかにもが駄目になった」
これは一人の主婦の声だ。
実際、雨の降り方は酷かった。バケツの水をひっくり返す、従来の言葉では表現できないほどの未曾有の災害だ。
「ダイダラボッチが琵琶湖を抱えこんできて『えぃ、やっ!』とひっくり返した、それ位の大雨だった」
今、我々は災害の真実を伝える言葉までも失った。
言葉で捉えられない異常災害が発生した、恐ろしい時代に突入した。続きを読む
2019年10月13日
下北沢X物語(3862)―恒久的な「命を守るための行動を」―

(一)昨日、「命を守るための行動を」という言葉を何十回も聞かされた。台風19号、異常に発達した巨大台風への備えだ。想像を絶する被害が想定されたことから気象庁は「特別警報」を出した、「命を守るために最善を尽くす必要」があるとの警告だ。その台風は過ぎ去った。問題は今後だ、「命を守るための行動を!」は対症療法である、即座に避難することで災害からは免れる。ところが事態は深刻だ、異常気象は地球温暖化によってもたらされたものだ。状況は悪化している、気象学者はこれまで以上に大きい台風の襲来が予想されるという。となれば、逃げるという対症療法ではなく、立ち向かうという恒久療法が我々に求められている。「地球温暖化に立ち向かう」という覚悟だ。
ここで改めて思い出すのは、国連の温暖化対策サミットでのグレタさんの演説である。その批評は強烈だった。まず現状分析だ。地球温暖化が進行し、世界では干ばつや洪水、台風竜巻などで多くが被害を受けている。とくには子どもだ。
人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。

ここでいう「あなた方」というのは我々大人のことだ。何々をどうしたらいくら儲かるかという話ばかり、日本でもそうだ、バクチ場を作れば、超日本一の高層ビルを建築すれば、あっというまに着くリニアをつくれば、どれだけ金が儲かるかという話ばかりだ。
そういう開発が、どれだけ自然破壊に繋がるかはほとんど考えていない。テレビを見ていると何かと言うと「2020のオリンピック」だという。おかしいのではないか?
これも儲け話の一つだ。とんでもない熱暑の8月にこれを開く。欧米の世界の有名スポーツの閑散期にやればよい。金儲けの目減りが少なくてすむ。熱かろうと寒かろうと知ったこっちゃない。加えていうならば五輪そのものが金儲け話ではないか。IOCは放映権料でしこたま儲かっている。アスリートファーストとよく言う、が、偽善ではないのか。当座良ければ後はどうでもよい。とんでもない巨大スポーツ施設が残され、借財も背負うことになる。アスリートのための祭典が地球温暖化を助長している。
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2019年10月12日
下北沢X物語(3861)―電脳物語!トランペット少年の行方判明―

(一)千人はゆうに超える人々から話を聞いてきた。市民の歴史には多くの人が登場する、主役が居たり脇役も出てきたりする。後者はふっと現れて消えて行く、「その後どうしたのか?」と気に掛かるのはこちらだ。しかし、消息はぷっつり、再び現れることはない。ところがネットドラマがここでまた起こった。三年前の2015年、このブログの2907回で「トランペット少年」はいずこに?と問いかけていた。昨日、これへのコメント応答があった、「トランペット少年」の行方、アンサー編である。
「トランペット少年」に興味を持ったのはなぜか。聞き込みが発端だ。
「『トランペット少年』という映画があるのですよ。ここにトランペット吹きとして出ているのがミドリ楽団の団員でこの映画を撮るために引き抜かれているんですよ。この映画が完成したときに学校で、『エトワール劇場』に観に行きましたよ」
かつて「ミドリ楽団」の団員だった萩原優治さんから得た情報だ。
「ミドリ楽団」は、代沢小の音楽クラブである。戦後になって華々しい活躍をした楽団だ、自身は「ミドリ楽団物語」〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜を書いた。これの取材過程で聞き込んだ情報である。
映画「トランペット少年」1955年7月に封切りされた児童映画だ。エジンバラ国際映画祭優秀映画賞を受賞している。
戦争から十年が経った、戦後復興が軌道に乗ってきたときだ。主役は「ミドリ楽団」で鍛えられた一人の少年が演じていた。宗太少年である。これは瀬戸和海である。
映画を撮るために引き抜かれたとすれば、その後も活躍をしているはずだ。が、調べても分からない、その後どのような人生を送ったのだろうか。ブログではこう書いた。
この瀬戸和海はどうしたのだろう?ネット検索で調べると、この『トランペット少年』に出演をしている情報が引っ掛かるだけで、他のものは一切出て来ない。
「宗太少年いずこに?」
ミドリ楽団の団員だった彼は、トランペット吹きとして秀でていた。が、これに出たっきり行方はわからない。瀬戸和海というのは芸名なのか、その後の人生をどう生きたのだろうか? 表舞台からふっつりと消えたこういう人物には深い興味を持つ。続きを読む
2019年10月10日
下北沢X物語(3860)―興奮:第8版「下北沢文士町文化地図」―

(一)昨日、事務局の邪宗門に行った。定休日だったが折良く作道敬子さんがいて店を開けてくれた。彼女、コンビニで校正中の第8版地図をカラーコピーしてきていた。「すばらしいね!」、「うん、いいね!」互いに自画自賛した。何がいいか?これが当地一帯の文化の断面を視覚的に切り取っているからだ。多くの人がこれを待っている。電話を掛けてきた人、貴重な一枚を慕っている牧師さんにあげたという、「もうないのですか?」「近々第八版ができあがります」、「ぜひ知らせてください。御願いですから」と懇願された。
敬子さんと話をしていると二人の男女が入ってきた。
「ああ、今日はお休みなんですよ」
「いやね、もう二十年ぶりぐらいになるかな、懐かしくて尋ねてきたんですよ」
「そういうことだったら、いましばらくだったら大丈夫ですよ」
男の人は、下北沢南口にあった古本屋幻遊社をやっていた人だった。存在感のある本屋だった。
「あの南口の通りは森茉莉さんがよく通っていましたね。来ていました?」
「ええ、来てました、本を売るということはなかったですけど、ときどきふらっと立ち寄って見ていかれましたよ」
「そうでしたか」
「この邪宗門では、そこの入り口のボックス席が定席でしたよ。一人で執筆したり、編集者と打ち合わせをしたりしていました」
「あらま、作道さんは、こちら側の窓辺が定席といってたのですが違うのですね」
彼はかつての常連客だったようだ。
「『あんみつ姫』を書いていた倉金章介さんもここへ来ていましたよ」
「あれ、それは知らなかった。今度8版には旧居跡をつけくわえました。代田二丁目朔太郎の家の近くですね」
「ああ、あそこは萩原葉子さんが住んでいたところで、あそこの側の鉄塔に登って自殺しようとしたと書いていますね」
「そうそうそれ、あれは、駒沢線鉄塔61号、朔太郎と葉子の生存痕跡を記すものということで世田谷区地域風景資産に推薦したんですよ。申請は認められましたけど」
「へえ、驚きですね」
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2019年10月09日
下北沢X物語(3859)―交通系統的文士町文化論―

(一)第8版「下北沢文士町文化地図」の初稿が刷り上がった。版を重ねる度に精度も上がってきた。会が発足してもう15年目となる。文士町の発展と形成、この見方もだいぶ変わってきた。当初は、昭和2年に開通した小田原急行鉄道を核として捉えていた。この鉄道の開通によって文士町が形成されたのだと。しかし調べていくうちに分かってきた。嚆矢は京王線を最寄り駅とする北沢五丁目だと認識するに至った。文士町はまず京王線笹塚、市電が通る庶民的な町から出発した、後に速達性の高い近郊郊外鉄道、小田急の開通によって中産階級的な文学に広がった。文学系統で言えば民衆派から新感覚派である。
下北沢文士町の発展と形成、背景には大震災が影響している。下北沢文士町の起点というのは笹塚を最寄り駅とする北沢五丁目である。これは詩人福田正夫が居住し始めたことが大きい。
福田正夫は小田原で雑誌『民衆』を立ち上げた、このことから「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人となった。その彼は、大正12年12月1日に小田原から「東京市外世田谷下北沢809番地」に越してくる。同年9月1日の「大震災に遭い無一物」(福田正夫全詩集年譜)になったからだ。小田原の震災被害は甚大であった。
我等の会の一人、山本裕さん、先代は湘南鎌倉だったという震災の被害に遭って地盤の固い代田二丁目越してきたと聞いた。あの大震災の恐怖は強烈だった、それで移転するときに「地盤は大丈夫か?」というのは誰もが思ったことだ。海沿いは危ない、地盤のゆるいところは危険ということで武蔵野の丘陵地に越してきた。
「地盤ですか、すぐそばに玉川上水が流れていますが、これは人工河川で尾根筋を流れているものです、丘陵のトップを流れていますから大丈夫ですよ」
福田正夫は、転居するに当たって家主に確かめたのではないだろうか?
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2019年10月07日
下北沢X物語(3858)―京王電車:内田百里蛤塚の狐―

(一)鉄道文学の傑出した作家は、宮沢賢治、泉鏡花、内田百里澄∋或佑賄文士町には関係しない。が、北辺の笹塚を内田百里訪れたときのことを書いている。「第一阿房列車」に書かれていることから戦後のことだろう。ここ笹塚は山手空襲でほとんどが焼けた。復興が進んでいたがそれでも寂しいところで狐が現れるという噂があったようだ。百鬼園先生例によって金策のために当地にきたようだ。笹塚は庶民の町、金満家はいなさそうだ。一つの想像だが大山町あたりの邸宅に住む旦那を訪れたのではないか。
「第一阿房列車」、「鹿児島阿房列車」で、なぜか笹塚探訪の逸話が出てくる。この旅行は、1951年6月30日 から 7月7日の間だったようだ。この旅に出掛けるための金策だったのだろうか。この旅で語られる逸話で、傑出しているのは、「ちっとやそっとの」である。
百鬼園先生、九州に行くために急行「筑紫号」に乗って阿房列車を運転する。横浜、保土ケ谷の隧道を出てから妙な音が耳につく。
蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声ではなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかもしれない。そう思って聞くとそうらしい。そうだろうと思った。
第一阿房列車 新潮文庫 平成十五年刊
鉄道音響論を彼は具体的に説いている。それはカダンスである。汽車が走るときに発せられる音だ、一種の刻みである。明治五年に汽車が走り始める、近代の始まりだ、これ以来絶え間なくこの音響は発せられた。音は機械的だ、しかし聞く方の耳は違う、旅人はそれぞれに事情を抱えている。母の訃報を聞いて田舎に帰るものもいる。その彼にとって音は悲しみの音楽に聞こえる。
私は、誰も発想しない、壮大な文学史を書いた。「日本鉄道文学音響史」である。鉄道音響と日本人抒情をまとめたものだ。長い歴史の間、鉄道のカダンスが日本人の心を刻んできた、それを経年史として捉えると「日本鉄道文学音響史」となる。ぜひ出版したいともくろんでいる。その中で内田百里漏砲鬚覆杭邁箸澄
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2019年10月06日
下北沢X物語(3857)―京王電軌鉄道敷設物語―

(一)機械近代との遭遇は人々にとっては驚嘆であり、恐怖でもあった。泉鏡花『風流線』は北陸鉄道敷設時の騒動を描いている。徳富健次郎は、この作品に触れながら京王電鉄に言及している。人々が鉄道に対して抱いた恐れである。機械文明と人々とのこわごわした遭遇だ、笹塚駅 と 調布駅間に電車が走り始めたのは大正2年(1913)4月15日である。煙を吐かない電車の出現は驚きであった。文士町の核をなすのは小田急だ、が、こちらの開通は昭和二年で新しい。京王の開業の方が古い。電軌鉄道敷設時の人々のドタバタ劇はこちら側が濃厚だ。
東京西郊千歳村粕屋に住んでいた徳富健次郎は、肌で感じていたのは、「東京が大分攻め寄せて来」つつあることだ。その一つに鉄道の敷設があった。
京王電鉄調布上高井戸間の線路工事がはじまって、土方人夫が大勢入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人辱しめられ、村中の若い女は震え上り、年頃の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓を喰わぬアダム同様無褌の真裸で横行濶歩、夜は何の様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼婆のあばら家まで、遽てゝかけ金がねよ釘よと騒いだりした。
みみづのたはこと 下 岩波文庫 1977年
ここでは『風流線』を引用している、鏡花は鉄道を文明批評的な観点から捉えている。それは自然を破壊するものである。
山は崩す、犬猫は取つて喰ふ、草は枯す、石は飛ばす、取り分けて目指されるのが、眉目形の勝れた婦人じゃ。
鏡花全集 巻八 岩波書店 昭和49年
荒くれ者の土工が大量に工事に携わる、この彼らが乱暴狼藉をする。沿線住民は恐怖した。若い娘が陵辱されたというニュースは一瞬にして広まった。人々は無施錠でのんびり暮らしていた。ところがこれを聞くなり、片目の婆さんまで貞操の危険を感じた。
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2019年10月04日
下北沢X物語(3856)―幡ヶ谷・笹塚から下北沢へ―

(一)文化の発展形成には道筋と経過がある。文士町全般を我々は調べているが、勃興や発展は主要交通網から大きな影響を受けている。文士町の北の縁には主要道としての甲州街道があり、鉄道線路としては京王線があった。文士町の発展と形成は北辺の交通網が大きく影響している。詩歌は縁辺から発生し、交通網の整備とともに中心部が移動している。北方、縁辺文化の探訪に今日は出掛けた。それで、初台から下北沢まで歩いた、ところが暑い、異常である、昨日も高知での集中豪雨を伝えていた。地球温暖化による被害は深刻だ、被害に遭わなかったら僥倖だ、われらはバクチ気候の中に生きている。運が悪いと家屋倒壊、家屋浸水、これが当たり前になっている。手を拱いているばかりだ。
まず最初にしくじった、明大前で新宿行きに乗り換える。来た電車に乗った、笹塚で停まるだろうと思っていたら新宿まで連れていかれた。さて戻ろうとしたら4番線がない、駅員に聞いてこれは分かった、4番線は遠くに横たわっていた。
初台からは「旗洗池跡」をめざした。代々木警察署の裏辺りにあるのを地図で確認していた。が、容易にはみつからない。この頃は暑いせいか路地で人に会わない。が、一人の男をみつけた。
「そこの先の角を右に曲がるとあるよ。そう昔は池があったんだけどね、いつごろなくなったかな。ここらへんも大きく変わったらね、高速道が甲州街道の上にできた、それから地表を走っている京王線が地下にもぐった。大変なかわりようだね」
「おれか、昭和19年生まれだ、京王線は覚えているよ、都電みたいな電車で一両では知っていたな。のんびりだったよ」
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2019年10月03日
下北沢X物語(3855)―呪縛的音論「春の小川」の「さらさら」―

(一)音は時代時代を表すものだ、かつて汽車はコトトンという風情のある音を立てていた、が、今新幹線電車は、コォコクックと鳩のように鳴いているばかりで味気ない。川も今はすっかり蓋をされて音を聞くことはない。かつて春の小川は、さらさらという音を立てていた、が、あの時代地球温暖化が進んでいれば、かぽかぽという変な音を立てていたかもしれない。この歌は107年前に作られた、「春の小川はさらさら流る。」時代がのんびりしていたから「さらさら」という音を立てた、が、この音、われらを呪縛する音であったように思われる。
淀橋台の深い谷を抉って流れる小川、河骨川は唱歌「春の小川」に歌われる。その瀬音は「さらさら」である。この谷、傾斜が急だったことから「さらさら」では穏やか過ぎる。もっと違う音を立てていたのではないか?という疑問だ。
小川は平坦地ではほとんど音をたてない、が、春の小川は音を立てていた。それは流れが急であったからだ、歌に描かれたその音は「さらさら」である、これには代々木の谷の固有性が現れている。
一般的に、川の流れにはどんなものがあるのか、「ちょろちょろ」、「ぴちゃぴちゃ」、「こぽこぽ」、「かぽかぽ」とかが考えられる。急傾斜を下る小川の音は、イメージ的には、「こぽこぽ」だが、「春の小川はこぽこぽ流る。」では味気ない。思うに音は、春というイメージに引っ張られているようだ。春には、穏やかさや長閑さがなくてはならない。結局は音感である、春にふさわしいリズムと調子が求められる。

高野辰之は国文学者として東京音楽学校で教鞭を執っていた。国文学的な観点からの音については専門家だ。日本人がどんな音を好んでいたかはよく知っていた。
われらの民族は、サ行音が好きだ。ちなみにこのサ行音の一つ一つに「ら」を足してみる。「さらさら」、「しらしら」、「すらすら」、「せらせら」、「そらそら」だ。前三つはよく使われる。「さらさら」は、古代から使われてきた。例えば万葉集だ。
多摩川にさらす手作りさらさらに なにぞこの子のここだ愛(かな)しき
巻14−3373 作者未詳
この場合は、手作りの白い布をさらしている場面だ、「さらさら」という音が利いているこの歌の命だ。「さらさら」は、我が民族に早くから親しまれてきた語である。
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2019年10月01日
下北沢X物語(3854)―「春の小川」川音はなぜ「さらさら」か一

(一)「春の小川」は、誰もが知っている唱歌だ、流れ方の擬音語は全国的に知られている、歌では「春の小川はさらさら流る」と三回繰り替えされる。「さらさら」である、歌っても全く抵抗感がない、むしろ親しみを覚える。ところが、「春の小川」跡を訪ねるといつも疑問が湧く、淀橋台の谷から流れた水は急傾斜を流れる、ゴボゴボとかキュポキュポとかもっと音に重さがあったように思う。それがなぜ「さらさら」となったのだろうか。「河骨川」がモデルとされているが、作詞者の高野辰之は代々木三丁目に住んでいて川は彼の散歩コースだった、折々に聞く川音、そこから発想されたらしい。
渋谷川の支流、河骨川、由来は源流部にコウホネが咲いていたことにあるという。清流に棲息する花だ。この歌が作られたのは明治45年/大正元年(1912)年だ。彼が住みはじめたのは明治42年からだ。三年前の明治39年に甲武鉄道の代々木駅が開業している。これが当地を郊外外住宅地として発展させた。田山花袋も駅開業と同時にここに住んだ。
東京郊外と文学、そして音楽、都鄙境にこそ物語が生まれる、「春の小川」もその一つだ。この川音は都市人の耳を寛がせた。
都市の膨張と拡大、都心が混み合ってくるに連れ、人々は郊外へ憧れを抱くようになる。とくに東京西郊は人気だった、青い空と緑とがあった、それは武蔵野だ。その一角で歌は生まれた。
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