2020年07月
2020年07月31日
下北沢X物語(4055)―日本鉄道文学史物語(3)―

(一)古代から近代へ、文学の核心となる足が大激変した。草鞋ばきの旅から鉄輪履きの旅へと変わった。古代の文人は草鞋を履いて足で移動することで詩心を掴んだ。勝ち得られた抒情は汗臭い。が、汽車でのさすらいは汗も出ない。つくねんと座席に坐って景色を見ていくだけである。移り変わっていく車窓に旅を思う、近代文学はこの車窓に目をつけた。そこにおける異風景、感動風景を眺めてはこれを詩にした。詩人木山捷平は噴火湾沿いを行く列車から漁師の家に干してある洗濯物をみつけた「明治三十七年生まれに違いない婆さんの赤いもの」、腰巻きだ。それは「落ち葉が沼に沈んだような灰色だった」と言う。詩人は目にかいた汗で詩を描いた。車窓が映す人間を描いていて見事だ。
鉄道文学史を当たってきて気づいた。旅客が景色に生活を見出し、それを通して自分を見つめていることだ。
林芙美子は、「摩周湖紀行」において北海道で一瞬に見た光景を「馬といっしょに黒くなって畑を耕して行く人たちの汗だらけの努力を、深として感謝せずにはいられない」と描く。彼女は鉄道好きだ、汽車に乗り込むとずっと窓辺から風景を見ていく。
この紀行文に書いてはいないが、彼女は馬と一緒になって働いている人に、
「ごくろうさまです」
こう声を掛けているはずだ。女性の場合は対象に同化しようとする傾向があるのではないかと思った。その点、男達はクールである。
当初、男性が描いた作品を中心にしていた。作家十人で終わるはずだった。が、終盤になって女性を入れようと思った。汽車はだいたいが男のものだ。男の目で描かれている。この男達はつい汽車、機関車本体に目がいってしまう。見方の違う女性を入れたらよいと考えた。が、女流で汽車好きは少ない。しかし、前々から関心を持っていたゆえにあたりはつけていた。宮本百合子である。
彼女は女鉄ちゃんだ、鉄道物の作品では中野重治の「汽車の罐焚き」がある、これを「鼓舞さるべき仕事」として論評している。
彼女の鉄道エッセイもいい、好きなのは「田端の汽車そのほか」だ。次などは素晴らしい。
汽罐車だけが、シュッ、シュッと逆行していると、そのわきを脚絆をつけ、帽子をかぶった人が手に青旗を振り振りかけている。貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。
「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社 続きを読む
2020年07月29日
下北沢X物語(4054)―日本鉄道文学史物語(2)―

(一)鉄道と人間には深い関心を持ってきた。近代の鉄道が日本人の感性に影響を与えてきた。そこを史的に考察してみたい。しかし検証史ではない。客観的な研究であれば対象とする作家が限られてくる。当方はそこは恣意的だ。内田百里琉疊を継いだという阿川弘之は入れていない。こちらは鉄道文学史を面白く語りたい。それで昨日つけた名前を改めた。「日本鉄道文学史物語」とした。これの最後を飾るのは内田百里任△蝓⇔喇臠子である。偶然だろうがこの二人山陽本線派である。前者は岡山であり、後者は尾道である。汽車好きのポジションというのはある。東京行きの尾灯が儚く消えて行くところに住むものは汽車への詩興を持つ、これは物語的に面白い。
汽車の好悪というのはある。志賀直哉の「暗夜行路」では尾道滞在は名場面である。当地に向かうに当たっては、主人公時任謙作の兄信行のこういうセリフがある。
「そうだ、お前は汽車が嫌いだから、それもいいかもしれない。一つそ、横浜から船でいくといい」
志賀直哉自身も汽車はあまり好きではなかったようだ。時任謙作は、実際横浜から神戸までは船で行く。神戸から尾道へは汽車だった。ここで彼は逗留する。
誰からも一人になることが目的であったにしろ、今はその誰もゐない孤独さに、彼は堪へられなくなった。下の方を烈しい響きをたてて急行の上り列車が通る。烟を吐きながら一生懸命走つてゐる。が、それが、いかにものろ臭く見えた。あれで明日の朝は新橋へ着いて居るのだと思ふと、一寸不思議なやうな、嫉ましい気がした。無為な日を送つてゐる彼自身の明朝までは実際直であった。間もなく汽車は先の出鼻を廻って姿を消す。
志賀直哉全集第五巻 岩波書店 昭和四十八年刊
彼の住まいは尾道の町を俯瞰できる高台にある。谷の下を山陽本線が通っている。そこを上り急行が一散に烟を吐いて通って行く。彼自身は寂しくてたまらない。あの汽車に乗ったら明日には新橋に着く。寂しいは側にいてほしい人がいないことを言う。汽車が嫉ましいのはその人のところにたちまちに行けるからだ。志賀直哉はこのとき二十九歳だった。彼は線路の果てにいる女を思っている。
ここは面白い、山陽線の隔たりだ、東京まで一昼夜で行く距離にある場所はより人の思慕を募らせる。ここに文学的な抒情が潜む。鉄道文学の核心である。
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2020年07月28日
下北沢X物語(4053)―日本鉄道文学史物語(1)―

(一)「史」とは社会の移り変わりの記録である。普通はこの変転はいつまでも続くものである。ところが鉄道文学史を編んで気づいた。この史は終わっていたということだ。文学は折々の時代の抒情を書き記したものだ。ところが鉄道の場合は特殊だ。時代が経てば経つほど速度が増してくる、抒情はこれに追いつかなくなる。究極の問題は、「リニア新幹線文学」が成り立つのかという問題だ。東京と名古屋間は40分で結ばれる。あっけない、どう転んでも40分では文学は成り立たない。当該史では明治、大正、昭和を核とした。史の終焉は考慮の外にあった。が、おおよそをまとめて全体を概観したときに、驚いたことにこの文学史が既に死に絶えていたことである。
今日は、大井町駅から大森駅間を歩いた。東海道線の下り車窓から公園に静態保存されている蒸気機関車が見えた。ここを目指して線路脇を歩いた。東海道線や京浜東北線の電車が頻繁に通る。ズザアザアという途切れのない走行音が過ぎて行く。これこそが鉄道文学史の終焉を告げているとこれを聞きながら思った。
記憶どおりに蒸気機関車は線路脇の公園に静態保存されていた。C5766だった。途中であったおじさん、「時間になると動輪が動き、汽笛が鳴るよ」と言っていた。
その蒸気機関車は過去の遺物だ、が、これが近代を牽引してきた機械である。かつての交通機関の主力である。旅と言えば汽車旅だった。これが発する音、汽笛、ドラフト音、車輪の響き、人々の旅情に欠かせないものだった……
鉄道文学史では十一人の作家を取り上げた。十番目が内田百里能衆貳嵬椶林芙美子である。史の配列は、作家の生年順だ。前者が汽車の抒情をたっぷりと堪能した、最後の作家である。
作家の配列は生年順である。内田百里鰐声22年(1889)生まれ、没年は昭和46年だ。林芙美子は、明治36年生まれで、没年は昭和26年だ。後者は若くして死んでいる。よって内田百里史の最後に位置づけられる。文学史の終焉は昭和40年代だったことになる。
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2020年07月26日
下北沢X物語(4052)―アメリカ合衆国大使館への手紙2―

アメリカ合衆国大使館御中
こんにちは、私は、きむらけん、と申すものです。都市の歴史記録を後世に残そうと日々活動を続けております。
今回お便りを差し上げたのは貴国に関係の深い記録を寄贈するためです。
同封した「ミドリ楽団物語」です。この楽団は、戦後、東京世田谷区代沢小学校に結成された児童楽団です。指導者は浜館菊雄という音楽の先生です。この楽団、知られていないことですが戦後、日本に進駐してきた米軍への慰問活動を繰り返してきました。米軍キャンプであるとか、宿泊ホテルだとか、米軍が接収した劇場とかで慰問演奏活動を行ってきました。
アメリカンスクールにも何度も慰問に行っています。とくに地理的に近い関係からワシントンハイツのアメリカンスクールには定期的に慰問に行っていました。
きっかけは、アメリカ軍が接収していた聖路加病院に慰問に行ったことです。傷痍軍人に慰問をしたところこれがとても評判で数多くのオファーが米軍からありました。
最大のハイライトは、アニーパイル劇場での3日間連続公演です。会場には米軍軍人が数多くやってきました。3000人ぐらい入ると思います。学童達の演奏は巧みで、観客の米兵から拍手喝采を受けました。
このアニーパイル劇場での公演は三四年ほど毎年続けられました。ミドリ楽団の評判は本国にも伝わりました。私は、本書で次のように書きました。
「ミドリ楽団」は、歴史を積み重ね、そして進化していた。楽器も増え、バイオリンやオルガンも加わった。木琴とあるが、写真には大型のシロホンが写っている。これは米国からの寄贈品だ。昭和二十五年九月二十日、シアトルから代沢校に来校したシアトル市長を初めとする六人の議員団により寄贈されたものだ。これを伝える英字新聞は、「Children's Band Here Gets Gift Of Instruments From Seattle」との見出しで記事を載せている。三台のシロホン、ハーモニカ、三十六本、アコーデオンは七台、三台のタンバリン、二台のトライアングル、一台のドラム、その他の楽器とある、大プレゼントだ。彼らがわざわざ来校してこれらをプレゼントしている。「ミドリ楽団」の評判がアメリカまで伝わっていたからであろう。にこやかに笑みを浮かべる六人の紳士、そしてシロホンを奏でたり、アコーデオンを弾いたり、その女子など六人、これが記念写真に収まっている。
「ミドリ楽団」はパラマウント映画ニュースに出たり、進駐軍放送AFRSにも出演したりしてアメリカでも知られるようになった。そのことから楽団をアメリカに呼ぼうという話が持ち上がった。新聞記事にこれを伝えるものがある。タイトルは「夢みる渡米の日」とある。そのタイトルは「みどりバンドは一生懸命」とある。
爐海譴覆薀▲瓮螢へ演奏旅行をしても大丈夫瓩汎本にいるアメリカ人たちから折紙をつけられ渡米の日を夢みながら懸命の練習をつゞける小学生の楽団がある。
この記事には、「元総司令部勤務のウォルター・R・ハッチンソン氏は親米豆使節としてこのバンドを渡米させようといま努力してくれている」と記す。
この親善豆使節として渡米するという夢は叶わなかった。しかし「ミドリ楽団」は全米デビューを果たしている。
学校の歴史を記録した『だいざわ』創立百周年記念誌がある。ここで「ミドリ楽団の活躍」を取り上げている。その締めくくりである。
昭和二十五年十二月十六日に、極東に駐在する全米軍に向けて、進駐軍放送AFRSから放送されたみどり楽団のクリスマスソングや日本の歌は、同時にテレビニュースとして収録、クリスマスの日に全米にテレビ放送された。
新聞や雑誌、ラジオ放送やニュース映画にもなって、広く世の中に明るい話題をふりまいたのである。
戦後復興は困難を極めた。しかし、暗いニュースが続く中で「ミドリ楽団」の活躍は国民に明るい話題をもたらした。この楽団の演奏が「全米にテレヴィ放送」されるというニュースは、「朝日新聞」、「毎日新聞」もこの年十二月十七日付けの三面に写真入りで報じている。振り袖姿の六年生が指揮を執り、「白雪姫」や日本の童謡を演奏したという。後者毎日の記事は「『アメリカ−ナ』で最後を飾り大成功のうちに撮影は終わった」と伝えている。戦後における彼らの活躍は華々しい。占領軍の兵士たちが彼らの演奏を通して日本を知ったこと、国民も彼らの活躍に希望を見出したこと、また、全国の小学校の器楽演奏の模範となったこと、歴史に埋もれていたこのエピソードは児童音楽文化史という観点からも記録に残されるべきだろう。
「ミドリ楽団」の活動は、敵国同士だった日米を近づける、日米親善をより深めさせる役割を果たした。また、同年代の子に希望を与えたものだ。当時この楽団の演奏に接した一人の少年は、「初めて聞くアメリカの音楽は私にとって強烈な印象であり、今まで聞いたどんな音楽とも違っていた」(今井明)と話していた。
お手紙を差し上げたのは、日米の親善を果たした「ミドリ楽団」の事跡を貴国にも知って戴きたかったからです。発刊してすぐにお送りすればよかったのですが、思いつきませんでした。
つい最近になってマリンバの国際的演奏家、米国のカーネギーホールでも公演をしたことのある安倍圭子さんが「ミドリ楽団」のことはアメリカ国民に知って欲しいとの希望を持っていたことを知りました。彼女は「ミドリ楽団」の団員で、この楽団に入ったことで音楽に開眼した人です。彼女は「ミドリ楽団」時代は楽団の中心的な存在でした。そんなこともあってこの本を米国大使館に寄贈することを思いたちました。どうかで貴国において記録として公文書館などで蔵書として収めていただけたら幸いです。
2020年7月24日
きむらけん
2020年07月25日
下北沢X物語(4051)―アメリカ合衆国大使館への手紙―

(一)「東京荏原都市物語資料館」には文化の鉱脈が何層も埋まっている。何番の鉱床のどこそこに何々があるかは不明だ。が、外部の人は、整理されているはずとの前提で問うてくる。昨日も、電話があった。「徳永君、御存じでしょう?彼は英語が得意だったので全国大会のスピーチコンテストで優勝して新聞にも大きく載ったのですよ!」「えっ?……徳永君って誰でしたっけ?」、「ああ、あれです、ミドリ楽団が初めてワシントンハイツの学校に慰問に行くでしょう……」これを聞いて思い出した。そうかあれは徳永君だったのか?……相手は湯河原の鈴木さん、代沢小の卒業生だ、マリンバの安倍圭子さんの同級生である。彼と喋っていたら、「安倍圭子さんはミドリ楽団のことをアメリカ国民に知って欲しいと言っていました」と聞いて、「そんなことであればアメリカ大使館に本は送っておけばよかった」と。彼女カーネギーホールでも演奏している世界的なマリンバ演奏者だ。話は二転三転し結論としてはアメリカ大使館に手紙と本を送ることになった。
戦後における日米親善を物語るものが「ミドリ楽団物語」だ。が、本が出版されてこのことはほとんど話題にならなかった。
「私もね、あの話はもっと話題になると思いました」
鈴木さんもそう思ったようだ。続けて彼はこういう。
「しかし、戦後の世相というものがありました。厳しい面がありましたね。ミドリ楽団が活躍し始めたのは戦後すぐのことでしょう。大戦で敵のアメリカに親戚などがやられたとか、家を焼かれたという人が多くいた時代ですよね。『敵であるアメリカ人を慰問するなんてけしからん』という空気は確かにありましたよ……」
「確かにそうですね、子供は『ミドリ楽団』に入りたいと思っていたけど、親が許さなかったというのもありましたね」
戦争に負けて価値観は大きく変わった。軍国主義から民主主義へ、戦争に加担したものをつるし上げるということも行われた。
学校で教鞭を執っていた教師も問われた。が、戦中教育はまずかったと表だって反省する者は少なかった。時流に乗る教師もいた。
「疎開から帰ってきて教室に行ったら、元海軍にいたという先生、アメリカ兵が着るよな上っ張りを着ていました。その先生が黒板に『START DASH』と書いたのです。今でも忘れられない光景です」
元山崎小の疎開生徒の証言だ。
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2020年07月23日
下北沢X物語(4050)―タンチ山の高射砲再び2―

(一)不思議な話だ、駒沢高射砲陣地の話をここで話題にしたら、当時の隊長が生きているとの連絡を受けた。それで長野県八千穂まで行って当事者に会いに行った。ところが今回偶然に当時の高射砲陣地のことを書いた記録に出会った。記録と聞き書きでは違う。しかし、これが本当の歴史だと思う。ささやかな歴史に出会ったという実感がある。一つ言えば多くの人に聞いたがおしなべて「高射砲の弾は当たらない、あっはっは」だった。負けたゆえに自国の戦力の脆弱さを強調する結果となった。しかし、決して当たらないわけではなかった。米側記録でもB29は相当数墜落している。一機一機の消息をきちんと調べていることは凄い。我が国の場合は、民間、戦友会が記録を残している。誰がどこでどのように死んだか。総合的な記録はない。
終戦末期、大型爆撃機は連日連夜押し寄せた。恐怖感は募る一方であった。が、被害に遭えば悲惨だが、遭わない場合は、高みの見物、夜の航空ショー、壮大な花火大会を見るようだった。
夜の空襲の楽しみもあった。サーチライトに映し出されるB29の編隊から突如焼夷弾がはき出される。その無数の弾は赤や青や黄と美しい色を呈しながら真暗な夜空から目的地に落とされてゆく。時には照明弾も加わり地上からの炎と三位一体の光の中に私は快感を覚えた。だから、焼夷弾を積んだB29が自分の頭上で腹を割らない限り楽しいものとして夜の空襲はあった。
「東京大空襲戦災誌 第2巻」 刊行 東京空襲を記録する会 1975年刊
この記録の表題は「二六年目の悪魔の踊り」だ、世田谷区松原三丁目に住んでいた。渡辺茂さんが書いている。例の赤堤に墜ちたB29の見学にも行っている。
一度は高射砲に命中されたB29が夜空に火を吹いて近くに落ちたことがあった。翌日それが三井牧場の付近だとわかると私は妹を連れて、レンゲ畑に飛散したその残骸を見に行った。搭乗員の死体は板塀に囲まれた庭に並べられた写真を撮った後で一般に公開された。皮膚の下の肉は赤いものと思っていた私は黄色い脂肪が遺体からはち切れているのを見て、アメリカ人は皮膚の色が白いから肉も赤くはないかと思ったり、全部の遺体が薄着であったためアメリカの飛行機は寒くないのかと思ったりした。遺体の一つに確か女性があったように覚えている。(同著)
空から降って来た黒船だった。皆興味津々だった。初めて目にする敵兵の姿だ。
「おい、女が乗っているぞ!」
この話が伝わり、一帯の男どもは助平心を刺激され、集まってきたとも。
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2020年07月22日
下北沢X物語(4049)―タンチ山の高射砲再び―

(一)昨日、久しぶりに駒沢高射砲陣地跡を通り掛かった。と、古老らしき人に出会った。「ここに高射砲陣地あったの知っていますか?」と聞いたら、「知っている」と。が、彼は新しく移ってきた人で土地のお婆さんから教わったとのこと。彼と話してから今も砲台の基部が残っている家を見に行った。単管足場が組み立てられていた。「壊すのか?」と作業員に聞いたら、「チャンポンルンルカ?」とチンプンカンプン、彼、外国人だった。さて家は解体されるのか?つい最近、山手空襲の記録を見ていたら「駒沢中隊にて」という記録が見つかった。中隊長だった故内藤悌三さんには長野県八千穂まで行って取材をした。「高射砲はほとんど当たることはなかった」との話だが、ここの隊員の証言によると「当てた!」とのことだ、これはおもしろい。
昭和20年4月15日に空襲があった。この二日前13日にもあった。そのときの戦果を大本営は、4月14日16時に発表している。この「二」にはこう記されている。
わが制空部隊の収めたる遊撃戦果中、判明するもの次のごとし。撃墜四十一機、損害を与えたるもの約八十機。
米軍による調査、「本土空襲墜落機調査」によると13日は一機だ。14日には7機のB29が墜落している。大本営と米側発表では大きな差がある。大本営が嘘をついているのだろう。国家は嘘をつく。過去の話だが、今だって分からない、証拠を改ざんしてしまうからだ。
4月15日、この空襲を根津山から見ていた人がいた。
私は、麦畑のある、裏、東がわの丘にずっと立っていた。ここは小田急が目の下を走っているから、下北沢のアパートの時よりも、私はずっと高いところにいるわけであった。その高所から、炎々と燃えつづける東京の街を私はずっとみつめていた。今夜も東京が焼ける、と胸が痛んだ。B29も三機、火の玉になって落ちるのを確かに見た。月はなく星の美しい夜だった。
日本空襲記 一色次郎 文和書房 昭和47年刊
現在の羽根木公園から眺めた様子を書いている。南に突き出た半島先端部だ。荏原一帯の空襲の模様がよく眺められた。この空襲蒲田空襲とも言われる。蒲田方面の火災がよく見えたろう。
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2020年07月20日
下北沢X物語(4048)―古関裕而の代田空襲経験4―

(一)古関裕而はB29の墜落に遭遇して恐怖に陥ったという。昭和20年4月24日夜半のことだ、世田谷上空を重爆の長い列が東に向かっていた。このうちの一機に高射砲が放たれた。右翼の第四エンジンに命中してこれが燃え上がった。機はバランスを失った。松原上空から右に急旋回する。代田上空では⊃字型だ、機首は代田4−10では南を向いていて、古関裕而宅の3−50では西に向いていた。代田八幡の杜の木々をなぎ払い、そのまま西進した。古関宅で屋根すれすれだと根津山にぶつかる。この南小田急線沿い滑空しそして赤堤の四谷軒牧場に墜落した。が、機首、胴体、尾翼はばらばらだった。一番最初聞き込みにいったときに「尾翼は上北沢に落ちた」と西福寺の住職さんから聞いたことだ。
古関裕而「鐘よ鳴り響け」は、5月24日(当人は25日と勘違いをしている)のことをこう続けている。
屋根上三、四メートルをすれすれに滑空し、根津山の向こうに落ちた。庭も何もかも炎の反映でまっ赤に照らされ、まして夜だから物凄かった。かねて、準備し、私の帰宅を待っていたいたのですぐ子供たちを福島市の実弟の家に疎開させた。子供のない弟嫁に托し、妻は東京に残った。
山手空襲の爆撃は凄まじかった。このとき、「幸い、我が家は焼け残ったが、隣組は焼けた」これは東隣である。この続きに代田八幡がある。
古関家の北側、ここには小田急の線路があった。ここを挟んでの向かいが、代田2−728にあたる。ここに住んでいたのが杉山杜美子さん、21歳の若い女教師だ。彼女はここで起こったことを記録に子細に残している。これによって24日、25日に起こったことが分かる。記録は大事だ。
まず、24日のB29墜落事件だ。
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2020年07月19日
下北沢X物語(4047)―古関裕而の代田空襲経験3―

(一)戦争末期、山手空襲で重爆撃機、一機のB29が経堂に墜落した。人々の記憶に強烈な印象として残っている。が、戦後七十五年、これも記憶の彼方に消え去りつつある。ところが代田に住んでいた古関裕而はこれを目撃していた。高射砲に被弾して墜落するまでの経緯は詳らかではないが、古関証言はこれを明かす証拠にはなりそうだ。当該機は千歳烏山の北部を東から西に抜ける途中、高射砲によって砲撃された。巨体は即座に火を噴いた。世田谷代田でこれを見ていた人々は、「万歳!」を唱えた。が、その手負いの機が東から一直線に飛んで来た。拍手を送っていた人々は恐怖した。案の定上空に来ると機は危険回避のために積み込んだ焼夷弾を落とした。「焼夷弾だ、消化しろ!」代田4丁目の今津さんは直ちに消化活動を行った。この証言によって墜落した機、西から来たGame Cook Charlee は代田に直進したきたことが分かる。この後、機は大きく右旋回をした。このときに屋根すれすれに飛んで来た。これを見て古関裕而は、「もうだめだよッ」と叫んだという。
赤堤に墜ちたB29のことは当ブログ何度も取り上げた。これまで関係箇所は実際に足を運んで調べてきた。
まず、千歳烏山の高射砲陣地だ、これは高射砲第百十二聯隊に所属する高射砲隊だ。
昭和20年4月24日夜、西から陸続とB29の編隊が侵入してきた。これを迎え撃ったのが千歳の高射砲だ。放った一発が敵機第4エンジンを直撃した。右翼端についているこれをやられて機はバランスを崩した。右端発動機が弱くなるから機は自然と右旋回をする。
当夜、代田4丁目10番に住んでいた今津博さんはこれを見ていた。丘の上にからは西の方がよく見えた。サーチライトに照らされた編隊がよく見えた。これに向かって近隣の高射砲がつぎつぎに火を放った。ほとんど当たることはない。ところがこの夜、一機に見事命中した。ずぼんと右翼に当たった、とたんに機は火を噴いた。
「当たった!当たった!」
隣組の人と一緒にこれを見ていたが皆喜んだ。
「万歳、万歳!」
小躍りして喜んだ。
『だいたいあのお客さんは中央線沿いにこちらに真っ直ぐに飛んでくるんですよ。それを見ていたところ、ブスッと当たったものだから喜んだんですよ。ところがその当たったやつがこちらに真っ直ぐに飛んで来たんですよ。恐ろしかったですよ。そして多分、危険を避けるためでしょう。焼夷弾を捨てるように落としたんですよ。家にも落ちてきたもんだからさあ、大変、消化活動をしてやっと延焼を食い止めました』
代田の古老今津博さんから聞いた。その彼も亡くなってしまった。
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2020年07月17日
下北沢X物語(4046)―古関裕而の代田空襲経験2―

(一)昨日の夕刊に「五輪×朝ドラ 期待はとぎれない」の見出しがあった。朝ドラ「エール」の故郷、福島で観光客を期待する動きを報じていた。一方、作曲家の東京での本拠地では何も起こっていない。朝ドラに世田谷代田が出てこないからである。が、却ってその方がいいだろう。密かな舞台は密かである方がよい。自伝「鐘よ鳴り響け」では作曲法の秘策が語られている。彼は楽器を使わずに直接に五線譜に曲を書き込んだ。この場合、「書くこと自体がまだるっこい」と。「それよりは、ジッと耳をすましている方がいい、情景をしっかり思い浮かべさえすれば、私は新しい音楽が聞けるのだ」と言う。情景はすなわち景色だ、回想されるのは故郷福島だ、が、住んでいたのは世田谷代田である。思ったことは、ここにある根津山が模擬故郷、曲想を得るために歩いたようだ。
世田谷代田での空襲経験だ、いわゆる3月10日の東京大空襲が強烈な印象としてある。この一帯では、北沢一丁目に住んでいた宮脇俊三がこの夜のことを記録している。
頭上にはB29の群れが、これまでにない低空で、つぎつぎに現われ、探照灯を浴びながら東へゆっくりと旋回していた。低空を飛ぶB29は、冬空を高々度で飛んでいた銀一点のそれとは違って、怪鳥のように大きかった。しかも、あとからあとから絶え間なく、轟々とやってきた。ちょっと途切れてホッとすると、すぐまた新しいB29が続々と現れた。それはもはや「お客さん」ではなかった。やっぱり東京を焼く気か、と思った。
宮脇俊三鉄道紀行全集2 増補版 昭和時刻表史 角川書店 平成11年刊
東京大空襲の目標地点は家屋が密集する下町だった。東のそこへ向かうB29が世田谷上空に飛んできた。これ以前は高射砲での砲撃を恐れて高高度を飛んでいた。が、陸軍の応戦は大した威力はなかった。それで3000メートルという低空で怪鳥が地上を舐めるように飛んでいった。これを見ていた人々は恐怖に駆られた。
この時のことは、「鐘よ鳴り響け」ではこう書いてある。
三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。
近隣の人の合いことばがあった、「何かあったら根津山に逃げろ」と。ここには横穴式の大きな防空壕が掘られていて、かなりの人数を収容できた。
居宅から根津山の防空壕は近い、150メートルほどだ。が、この間に小田急線の線路がある。これを越えていかなくてはならなかった。
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2020年07月16日
下北沢X物語(4045)―古関裕而の代田空襲経験―

(一)「鐘よ鳴り響け」は、古関裕而自らがまとめた自伝である。記録としてもまた文芸エッセイとしても勝れている。表題には時間軸と価値転換が象徴的に表されている。戦争時代から平和時代へ。鐘は「長崎の鐘」の響き、加えて「とんがり帽子」に出てくる、「鐘が鳴りますキンコンカン」の音も入っているだろう。一つには平和への願いだ、またもう一つには鎮魂の意味がある。彼は、「軍歌の覇王」とも言われた。数多くの軍歌を作った、「露営の歌」によって送られて行った兵士たち、「荒鷲の歌」によって、特攻への決意を固めた兵士もいた、これら兵士たち、さらには国民への自らの悔悟の意味を加えて、「鐘よ鳴り響け」としたのではないかと思う。
「鐘よ鳴り響け」には世田谷代田で経験した空襲のことが記録されている。一つは、昭和20年3月10日の東京大空襲である、もう一つは、5月25日の山の手大空襲である。この二つは、大きな空襲でよく覚えられているが、年が明けて連日のように敵機が襲ってきた。恐ろしかったのは2月25日だ。
午後二時、突然、空襲サイレンが雪空を震わせた。管理室のラジオを聞きに行ったカノ子が、息をはずませて帰ってくる。
「戦爆連合よ、B29の大編隊!」
氏家君が、うっとうめいた。私も、胸の中の黒い風の塊が吹き抜けた。巨大なB29が、戦闘機の護衛をつけて、東京の上空に現れたのは今日がはじめてだったからだ。
「日本空襲記」 一色次郎 文和書房 昭和四十四年刊
管理室とは、静仙閣のことだ、北沢一丁目一一一三番地、代田二丁目との境に建っていた。一帯に空襲警報が鳴り響いた。
これまで飛来してきたのは高空を通る、重爆撃機B29だけだった。が、この時、爆撃機はお供に艦載機を引き連れてやってきた。こちらは軽量だけに飛行は自由自在だ、人がいれば機銃で狙ってくる。どれほどこれが怖かったことか。
サイレンが鳴ると共に隣組の防空班が活動をし始める。
「くうしゅうけいほう!」
町内を駆けて危険を知らせる。
「くうしゅう〜けいほう〜」
隣り町の代田一丁目ではこれを美声で発する人がいた。
「あの人の、空襲警報を聞くともううっとりしちゃってだめね」
ドラマチックソプラノで唱えている人がいた。
「鐘よ鳴り響け」を読んで初めて知ったのは、古関裕而の奥さん、古関金子さんは防空群長であったのだ。3月10日の空襲のときは大活躍をしたようだ。
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2020年07月14日
下北沢X物語(4044)―記録:誠第204戦隊の軌跡1―

(一)このところ特攻に関わる情報が続けて入ってきた。誠第31飛行隊長谷川信少尉、誠第204戦隊の栗原義雄大尉のことだ。共通するのは共に誠隊であることだ。すなわち第8航空師団傘下にあった特攻隊だ。両者は九州新田原から大陸経由で台湾に渡った。ところが長谷川信少尉は敵機と遭遇し与那国島近辺で撃ち落とされた。後者はどうにかこうにか台湾に辿り着いて、昭和二十年五月二十日、特攻に出撃した。両者に関わる資料が送られてきて、これを読んだ。特攻は完遂すれば記録される、が、そうでない場合は残されない。長谷川信少尉は、台湾に渡る途中に撃墜された、それでも「きけわだつみのこえ」に手記の一部が載ったことで覚えられてはいる。思うに台湾出撃の特攻隊は記録という観点からすると冷遇されている。特攻と言えば九州出撃の振武隊で、誠隊は影が薄い。
いわゆる沖縄特攻については特攻を完遂したものは1036機として知覧特攻記念会館にすべての記録が収められている。このうち台湾からの出撃は135機である。誠204戦隊は二つに別れて出撃した。昭和20年5月20日に5機に八塊飛行場から、7月19日に4機が花漣港から出撃している。前者の場合は、敵に相当の損害があったが、同日、つまり5月20に知覧から出撃し第50振武隊の戦果として「戦史叢書」には記されている。
誠第204戦隊の7月19日出撃は、陸軍最終特攻だ。が、この記録もわずか数行で記されているのみだ。
特攻戦記は多く読んできた。特攻花道ルートがあるように思える。すなわち知覧を飛び発って、それから本土最南端の薩摩富士に別れを告げる。機体を左右に振ったり、実際に手を振ったりする、特攻物、映画などの見せ場である。日本国民が涙する場面である。が、台湾組にはこれがない。
遙か遠くの新高山に別れを告げて機は台湾を離れた。
情調を求める日本人にはこれだと感懐は湧かない。台湾出撃組は戦記記録では損をしている。台湾に渡るだけでも大変だった。
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2020年07月13日
下北沢X物語(4043)―代田帝音聞き書き後日談―

(一)「戴いてびっくりしました、帝音に通っていたときのことがありありと思い出されましてね。とても嬉しく思いましたよ」昨日、かつて帝国音楽学校にピアノを習いに行っていたという渡辺陽子さんからお礼の電話をいただいた。彼女とは会って取材する予定だったが、コロナ感染のこともあってテレ取材をした。記事と写真はこの間、世田谷代田の自宅に届けた。実際に会ってみると人柄がよく分かる。お茶の水に通っていたころのお嬢さんの雰囲気が感じられた。「ひまわり公園であのころはよく遊んでいましたよ」と九十一歳の彼女は笑った。「写真はだめですよ、もうこのまま死んでしまうんですから」とそういう彼女の笑顔も可愛かった。が、家に行ってみて分かることが多くあった。やはり実踏は大事だ。「あれ?萩原朔太郎さんに会いませんでした?」と問うたが。
「何だ、萩原朔太郎の家は近いですね。会ったことはありませんか?」
「お家は、知っていますよ。小谷さんところの脇の路地を下って行ったところですね。『ひまわり公園』のすぐ側ですね、だけど会ったことはないのですよ」
「それは残念でしたね……帝国音楽学校に通っていたというのは今のここの家ですか?」
「ええ、前はもっと広かったのですけどね。地主さんに返したりしましてね。私のところの地所の地主さんは斎田さんでした」
「そうでしょうね。ここら一帯は斎田家の茶園があったところですね」
「小さいころはまだ畑がだいぶありましたよ」
「そうそう、あの帝国音楽学校も大根畑に建ったんですからね、じゃあ、もう昭和5年からずっとここに住んでおられるのですね」
「そうそう、そうですね……」
時は瞬く間に経ってしまった。お宅にピアノがあったことから帝音に通うようになった。渡辺さんは知らないがこの辺りにはピアノ逸話があちこちに転がっている。このことを一番よく知っているのは自分だ。
まず、先ほど出てきた小谷さんのことだ。
小谷さんというのは小谷楽器の小谷孝さんだ。亡くなられた後に、この人が「ミドリ楽団」の団員だったことを知った。「代田の丘の61号鉄塔」の下に住んでおられて鉄塔の話はよくしたものである。「ミドリ楽団」のことを聞いておけばよかったと。
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2020年07月11日
下北沢X物語(4042)―長谷川信少尉像検証の試み―

(一)電話が鳴って県名の案内が流れた。福島には知己はいない。が、直感が働いた。もしやと思って受話器を取ると予感は当たった。相手は「長谷川信のことで……」と切り出された。長谷川信少尉は誠第31飛行隊所属だ、彼は福島県出身である。相手は喜多方高校出身で「長谷川信は大先輩に当たる」と長島雄一さんは言われた。何とライフワークとして長谷川信を調べているとのことだ。信の一生を調べ上げて、それをまとめて本にしたいと願っていたという。その過程で、長谷川信について触れた自著に接して大きなショックを受けと。それで上梓しようとした本の出版を諦めようと思ったほどだったと言われる。思いがけない知らせであった……
考えてもいないことだったので当方もびっくりした。これまでに特攻に関するノンフィクション四冊を出した。これらでは長谷川信少尉のことは度々取り上げてきた。
戦時中、陸軍松本飛行場には数多くの特攻機が飛来してきていた。偶然にこのことを知ってこのことに自分が取り憑かれてしまった。
昭和20年2月10日、満州新京で大本営直属の特攻四隊が発足した。このうちの二隊、すなわち誠第31飛行隊・武揚隊と誠第32飛行隊・武剋隊が偶然に遠路はるばる満州から松本にやってきた。ちょうどこのころに東京世田谷からやってきた疎開学童が松本浅間温泉に滞在していた。
大原東国民学校は、この温泉の富貴之湯旅館に滞在していた。ここに武揚隊は滞在した。長谷川信少尉はこの旅館にいた女子数名と仲良くなった。この経過を調べているときにこの本人が「きけわだつみのこえ」に手記が載っている長谷川信であることが分かった。
これが発端となって調べに調べた。長島さんの手紙には「きむら様の取材は精力的で精緻で」とあったが、自身取り憑かれたからだ。事実を段段に突き止めていく面白さがあった。次の点が浮かんでくる。
〇長谷川信少尉と疎開学童たちのふれ合い。
〇長谷川信少尉の遺墨の発見。
〇長谷川信少尉の足取りの調査。
実地踏査は、福島県会津若松、宮崎県新田原、群馬県館林市、長野県浅間温泉
この過程で二つの資料がみつかった。誠第31飛行隊の隊長は山本薫中尉だ。このご遺族を通して「山本薫中尉の墓前に捧ぐ」という詳細な手記。
これらを網羅してまとめあげた。研究している人には大きなショックだったろう。
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2020年07月10日
下北沢X物語(4041)―帝国音楽学校の英才教育:了―

(一)音楽はワンフレーズでドラマが生まれる。帝音の入学テストだ、少女の順番が来た、彼女は一呼吸してバイオリンをひょいと肩に置いて弓を構えた、その瞬間空気が張り詰めた。審査員は息を殺して彼女の一挙手一投足に注視していた。と、弓が引かれて音が走る、その第一音で誰もが息を飲んだ、つややかでいて音が冴えている。音色は麗しく、聴いている者の耳を虜にした、が、たちまちに演奏は終わった。拍手をした審査員もいた。彼女は、12歳、「美貌の天才少女」と言われたバイオリンニスト諏訪根自子嬢だ。二十数名の審査員はメンデルスゾーンの協奏曲を聞いて度肝を抜かれた。彼女のバイオリンは群を抜いていた。昭和5年に行われた入学審査の一齣だ。渡辺さんがピアノを弾いたこの帝音の講堂には、音の宝石の山が築かれるほどに多くのドラマが生まれていた。
渡辺陽子さんは帝国音楽学校の音楽教室に小学校3年のときにピアノを習いに通った。この年昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。これによって日中戦争が始まった。社会には不穏な空気が満ち始めていた。
昭和12年「愛国の花」を歌ったのは渡辺はま子だ。作詩は大原の福田正夫、作曲は世田谷代田の古関裕而だ、当時大ヒットした国民歌謡だ。この渡辺はま子には「ネエ小唄騒動」がある。昭和11年「忘れちゃいやヨ」が発売される。大ヒットするが歌詞が問題になった。内務省の指摘だ、『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と。「エロ過ぎてこれを聞いた兵隊が性欲を覚えてメロメロになり、戦力が削がれる」と考えたらしい。それで発禁となった。国家が人の心の中まで点検する時代だった。歌舞音曲が次第次第に締めつけられていた時代だ。
「最初の年は張さんという女の先生にピアノを習っていました。ところが先生は帰国しなければならなくなったようです。それで男の陳先生に引き継がれて、次からはその先生に習いました」
渡辺陽子さんお証言だ。帝音の学生で留学生だろう。その彼等にピアノを習っていた。学校公認であろう。
当時帝音には朝鮮や台湾などから留学生が多く来ていた。日本に留学させるのは大変だったろう。渡航費、下宿代、月謝などが掛かる。普通の家庭ではなかなか難しいことであったろう。そういう学生に帝音はアルバイトをさせて支えていた。
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2020年07月08日
下北沢X物語(4040)―帝国音楽学校の英才教育2―

(一)今回手に入った写真には40名の人が写っている。証言者の渡辺さんは「おさらい会」の後の記念撮影ではないかと言われる。が、丹念に見て行くと、「おさらい会」ではなくもう少し規模の大きい「練習発表会」ではなかったか?このことから推測するに帝音が深く関わっていたであろうことだ。ふだんは帝国音楽学校の学生を教えていたが、小学生などの学童や生徒にも教えていたようだ。昭和12年の末のことだと思われる。始まりは春だったのだろうか、練習の積み重ねがあってそれを披露する発表会が開かれた。演目は不明である。証言者の話からピアノの発表はあったことは確かだ。想像するに歌曲独唱、バイオリンの発表などもあったのではないか。興味深いことは帝音の学生が参加していることである、これは写真から覗える。
手に入った集合写真にはどんなドラマが隠されているのか。これを推理し、読み解く面白さがある。写真には40名の人が写っている。この人々によってどんな会が催されたのか。
◎会は、「おさらい会」なのか、「発表会」なのか。
証言者の渡辺さんは、「おさらい会」があった後の記念写真撮影だという。
「おさらい会」はお稽古ごとでよく使われる。これは、日々積んできた練習やレッスンの成果を発表しあう会のことである。
結論から先に言うと、これは、「おさらい会」ではなく「発表会」であったと推理される。写真では、発表者が写真前列に坐って記念写真を撮っている。(掲出写真)
〇開催場所
明白である、帝国音楽学校講堂である。収容人員がどれくらいなのかは不明である。写真に写っている人の数からして大勢の聴衆を予定して会は開かれた、プログラムがあってこれに基づいて開催されたと思われる。
〇観客
「おさらい会」という場合、観客は呼ばない場合が多い。が、「練習発表会」の場合は人を呼んで発表する。
このとき観客はいたのか、いないのか。結論は「いた」である。
理由は、六人が花束を持っているからである。発表者の関係者が会が終わった後に花束を発表者にあげたと考えるのが普通である。
おもしろいのは、女学生の一人がフランス人形を持っていることである。
孫娘が発表会に出るというのでおじいさんか、おばあさんがその子に持ってきたのではないか?
写真の右手後方に和服を着た女性が十数名ほど写っている。学校に音楽を習いに来ている子のお母さんではないかと渡辺さんは言う。
〇服装
いわゆる「おさらい会」の場合は、カジュアルでもよい。が、今回の場合は、発表者はフォーマルな服装をしている。学校に通っている男女は学生服を着ている。高女生ぐらいの花束を持った女子が2名いるが、振り袖を着ている。
全体に片手間の発表会のように思えない。振り袖にしても着付けが必要だ。日曜日に開催されたものではないだろうか?
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2020年07月07日
下北沢X物語(4039)―帝国音楽学校の英才教育―

(一)世田谷代田に帝国音楽学校があった。講堂のある二階建ての立派な校舎は昭和20年5月の山手空襲で焼失した。このとき学校は廃校になっていた。が、中にあった楽器や書類などはすっかり燃えてしまった。消え去った学校の記録を残そうと地元の人から聞き込みをしてきた。が、めぼしい情報は得られなかった。ところがつい最近、貴重な記録が見つかった。帝国音楽学校講堂の舞台で撮られた一枚の集合写真だ、幸いなことに写っている人と連絡が取れた。コロナ感染を避けてテレ取材をした。御年91歳の渡辺陽子さんはとてもお元気だった。写真のことを中心に話を聞き取った。彼女とのやりとりを通して学校の教育の一端が垣間見えてきた。一枚の写真を通して学校の歴史を紐解いてみる。
〇写真が撮られた年月
彼女の名は渡辺陽子さんだ。昭和4年生まれの91歳である。生まれは満州大連である。お父さんが満鉄に勤めておられたことで満州にいた。昭和5年に引き揚げてきて世田谷代田2丁目に住んだ。(帝国音楽学校は代田6丁目にあった。ご自宅の至近距離にあった)
「この写真はいつ頃に撮られたものですか?」
「私が小学校3年の時だったと思うのです。だから昭和12年(11年かもしれないとも)だと思います。左に男の子を挟んで姉が写っています。もうその姉も亡くなりました」
二人とも美形である。可愛らしいお嬢さんだった。
「季節的なことは分かりますか?」
「私が着ているのはお茶の水の制服で、冬服ですから秋か冬ですね」
「お二人ともお茶の水ですか、あれ、確か代田2丁目は普通に行けば、代沢小学校ですよね」
「ええ、そうですけど、回りの子は公立に行かずに私立の成城とかに行っていました。まわりには軍人さんが多かったのですね、その息子さんともよく遊びました」
「お茶の水ですか、成績もよかったのでしょう」
「いえ、ガラガラポンでしたから」
「そうか、ガラガラポンですか」
国立学校の入学では抽選が行われた。自身もこの抽選の担当を仕事として行ったことがある。呼称はやはりガラガラポンだ、ハンドルで箱を「ガラガラ」と回すと当たり番号が「ポン」と出てきた。
『23番合格です!』
会場で「当たった!」という声が上がる、経験があるゆえに懐かしく思った。
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2020年07月05日
下北沢X物語(4038)―悲運の誠第204戦隊―

(一)記録は大切だ、特攻出撃に関しても正確な記録があれば生きている者が偲べる。また死んだ彼等も報われる。ところが誠204戦隊の航跡、軌跡はしっかりと残されていない。それで悲運としたものだ。誠第204戦隊は新田原を経由しての特攻行だが、彼栗原義雄少尉にとっては二度目の新田原寄航だ、彼は遙か遠く南方戦線に出撃していた。南方への中継基地が新田原だった。すで比島決戦などで苦闘を重ねてきて、内地本土に戻り今度は沖縄決戦へと向かった。この戦隊、分かるに連れその悲劇の軌跡が見えてくる。しかし2年にも及ぶ、彼等の苦闘は記録に遺っていない。歴史を検証するには記録は最も大事だ。が、我等の日本にはこれを大事にするという根本の心構えができていない。歴史はシビアなものだ。偏りなく事実を残すことで魂は浮かばれる。
沖縄特攻作戦を語る場合、「戦史叢書」の中の「沖縄・台湾・硫黄島方面 陸軍航空作戦」(著作者:防衛庁防衛研修所戦史室は)欠かせない。ところが改めて確認してみると第204戦隊の記録は少ない。それでもこの隊が第八航空師団に転属させられた経緯は記録されていた。
飛行第204戦隊は比島決戦で戦力を消耗し、内地で戦力回復ののち二月南方軍に転属され、主力は戦隊長村上浩少佐が指揮して前進し、飛行隊長高橋大尉が後発隊を指揮して台湾経由南方に前進したが、当時の一式戦三型は整備が不十分で転進は停滞した。後発隊が済州島経由で台湾に到着したとき天号作戦後が開始された。戦力不足に悩んでいた第八飛行師団は、中央に上申してこれら台湾にある人員、機材を師団に転属するようにした。
常陸飛行場を出発した栗原義雄少尉の204戦隊は、新田原を3月18日に発ち、済州島に着陸している。ちょうどこのとき3月17日に沖縄方面航空作戦となる「天一号作戦 」が発令されている。それで済州島滞在中の3月25日に「第8飛行師団司令部附」となった。27日に済州島を出発し、平壌に着いている。
4月4日にここを出発して青島に飛んだ、翌々日6日に発って上海着。そして4月13日にここを発って台北飛行場に着いている。主には花連港南飛行場に滞在していたようだ。
昭和20年5月20日、誠第204戦隊は八塊飛行場から16時50分に出撃した。行き先は嘉手納西方洋上である。「知覧特別攻撃隊」の名簿にはこうある。
飛行第204戦隊 20・5・20
栗原 義雄 22 大尉 埼玉
小林 脩 22 大尉 香川
田川 唯雄 18 少尉 岐阜
大塚 喜信 19 少尉 神奈川
井澤 賢治 20 少尉 兵庫
ところが、「戦史叢書」では204戦隊の戦果は記録されていない。しかし、同じ日に知覧から出撃した隊、第50振武隊については記録している。
この日、第五十振武隊(長 斎藤敏夫少尉)の主力一式戦特攻九機は一六〇三知覧出発、一八三○から一九〇〇の間、沖縄周辺の敵艦船に全機特攻攻撃を敢行した。通信情報により「一八二五伊江島方面海面、一九〇〇久米島近海面において突入に成功し、輸送船一を撃沈、輸送船一、艦船不詳二を撃破」したことが確認された。
鈴木豊さんは、5月20日の米軍被害の記録を持って来られていた。駆逐艦二隻、高速兵員輸送船二隻、戦車揚陸艦一隻、貨物船一隻の被害状況だ。
5月20日に出撃した主部隊は、知覧からの第50振武隊九機、台湾八塊からの第204戦隊5機である。両部隊は同じ米艦船を襲撃しているはずだ。戦果は第50振武隊だけのものではないだろう。
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2020年07月04日
下北沢X物語(4037)―誠第204戦隊の軌跡―

(一)特攻繋がりというのは際限がない。最近鈴木豊さんという方から連絡があった。事務局の邪宗門で出会った。戴いた名刺士には漬物歴史研究家と。「兵士には漬物というのは欠かせなかったのですよ。一切れの沢庵が故郷そのものですから……」と。「戦争と漬物」というのもおもしろい。この鈴木さんの叔父は特攻兵だった。誠第204戦隊の栗原義雄少尉だ。昭和20年5月20日、台湾八塊飛行場から仲間四機と出撃し特攻戦死している。私が調べている誠第31飛行隊・武揚隊に興味を持ったという。叔父さんも武揚隊と同じく新田原陸軍飛行場から上海経由で台湾に渡っていたからである。かつまた特攻の出撃基地は同じ八塊飛行場であるという。特攻隊も個別、別々でしっかりと記録されている隊ももあるが、そうでもない隊もある、204戦隊は後者の方に当たるように思う。
これまで多くの人と出会ってきた。漬物歴史研究というのもおもしろい。漬物は戦争に必須だったというのも意外だった。また彼の口から「アニーパイル」という名が出てきたのも思いがけなかった。
アニーパイルは名の知れたアメリカの従軍記者だ、昭和20年4月20日、沖縄伊江島で日本兵に狙撃され死亡した。米軍は、戦後東京宝塚劇場を接収した際、彼を偲ぶためにここを「アーニー・パイル劇場」と名付けた。自身、「ミドリ楽団物語」を書いた。ミドリ楽団は、この劇場での3日間連続公演を行った。最大の見せ場だった。
アニーパイルゆかりの伊江島がなぜ出てきたか。誠第204戦隊は八塊から出撃した。栗原義雄少尉もこの一員だった。現在残っている軍歴では死亡場所が「沖縄嘉手納沖海面」となっている。大体特攻兵の戦死場所については漠としている。「〇〇沖」が多い。が、誠第204戦隊は5月20日、米軍艦船に大きな実害を与えている。その一つが戦車揚陸艦LST808である。伊江島に停泊していたこの船では死者17名を出している。
5月20日の特攻には、第50振武隊(山吹隊)が12機が知覧からも出撃している。両隊の戦果についてはどの隊が何をというのは分かっていない。が、米軍記録では駆逐艦二隻、高速兵員輸送艦二隻、貨物船一隻に実害を与えている。
全体には5月段階での特攻では多くが空振りに終わっているが、この5月20日は相当数の被害を与えている。
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2020年07月02日
下北沢X物語(4036)―ああ、長崎にチンチン電車の鐘が鳴る―

(一)一つだと見えない、が、二つになると見えてくる。原爆投下後の電車運行に関しては広島については取材をした。今回、長崎についてリサーチをしてみた。比較することで分かってきた。戦時下で男の労働力が不足してきて両市ともに年若い女性を従業員として雇用し運転手や車掌業務を担わせていた。広島は電鉄が創設した家政女学校の学生を使った。長崎は学徒報告隊の男子、女子挺身隊の女子を使った。顕著だったのが若い女性の犠牲者だ、長崎電軌軌道の全体の犠牲者百八名のうち女子は半数の五六名だった。当日、八月九日、多くの年若い女子が電車運行業務に携わっていてこのときに犠牲になった。路線延長は11、5キロだ、広島は18、8キロだ。長崎は短い路線が市中心部を走っていた。原爆投下によって全路線が大きな被害を蒙った。女子を中心にして動かしていた電車が直撃を受けた。それで多くの乙女たちが犠牲となった。
戦争も末期になってくると多くの男が出征していった。労働力不足が顕著になってきた。
昭和18年(1943)6月に労務調整令が改訂された。これによって一定業務における男子の就労が禁止制限された。その職種は17に及んだ。その一つが車掌である。
「電車車掌は男から女に代えなくてはならない」
これによって長崎電軌鉄道は車掌を女子に置き換えた。広島電鉄の場合は自社で学校を作った。広島電鉄家政女学校である。これは昭和18年4月に開校し、国民学校高等科を卒業した女子を入学させた。年齢は一年生が14歳、二年生が15歳、専修科が16歳だった。ところが長崎の場合はもっと下の年齢が車掌業務に就いていた。
2005年7月8日「長崎新聞」に載った記事だ。
原爆を歩く=碑巡り案内= 4 見出しタイトルは、 ◆ 「少女車掌」も犠牲に
太平洋戦争末期、十―二十歳代の動員学徒や女子挺身(ていしん)隊が次々入社。戦時体制の中、四四年三月には男子車掌禁止令が出るなどしたため、女子の車掌や運転士が活躍した。
「あの日」―。車内でハンドルを握りしめ、車掌かばんを抱いたまま多くの乗客とともに、若い社員の命が奪われた。中には車掌を務めていた十二歳の少女もいたという。
小学校を出たばかりの12歳の一少女が犠牲になったのは惨たらしい。彼女は車掌業務に就いていた。カバンには切符が入っていてそれを売っていた。電車は揺れる、乗客の間を歩き切符を売ってそれにパンチを入れる。
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2020年07月01日
下北沢X物語(4035)―会報第168号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第168号
2020年7月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、コロナ時代の新しい町歩き きむらけん
コロナとともに歩く時代がきた。外出自粛によって多くが停まった。何もせずに家にいろ、苦痛である。しかし、コロナ禍で教わったことは人生、そんなに慌てることもない、いそぐ必要もないということだ。ふり返ってみれば時間に追われすぎていた。あれをやらねばならぬ、これをやらねばならぬと。しかし、これらから解放されることで却って自由を得た。のんびりすることも悪くない。
しかし、人間は営為の動物だ、動いて行って考えて自分という身体が保たれる。いわゆる血の巡りが保たれる。のんびりするのはいいがぼんやりしていると危ない。やはり適度に関心を持ち、頭を働かせ、動くことが必要だ。
「歩くだけでウィルス感染に勝てる!」という本が売れているという。確かに歩きはいい、コロナ自粛になっても私はずっと散歩は欠かさなかった。しかし、ただひたむきに歩いてもつまらない。やっぱり大事なことは人間、身体を動かすことも大事だが頭を働かせることも大事である。歩いて考えると血の巡りはよくなる。
最近知ったことでなるほどと思ったことがある。朝ドラ「エール」では作曲家古関裕而のことが話題になっている。が、世田谷代田に住んだことはあまり話題にはならない。クリエーターは苦労するものだ、アイデアが浮かばない、作曲家古関裕而もそうだった。が、そんなときはどうしたか散歩に出たという。世田谷代田は「付近には戦前は雑木林がありまして非常に静かな田舎風の環境だったので」行き詰まると付近を散策し想を得たという。彼の場合素晴らしいのは絵や情景から曲を発想しそれを五線譜に書き留めていたという。
人間はどうしても閉鎖的になってしまう。そんなときに自分から脱出して外に出て刺激を受ける、大事なことだろう。
つい先だって、下北沢野屋敷を三人で歩いた。この地にはそこかしこに逸話が潜んでいる。そんな場所をああでもない、こうでもないと言い合って歩いた。いわば、プチ町歩きだ。コロナ時代の町歩きのヒントをこれによって得た。
〇テーマを決めて少人数で歩く。ポイントを絞り込む。(短くてよい)
〇少人数でよい。募集をかけて集まったらやる。人数については四人集まれば行う。雨の場合は中止する。四人に達しなかったらやめる。
〇やはりおもしろいのは参加した人がああでもない、こうでもないと話すのが楽しい。一応案内者は立てる。が、できれば参加型のプチ町歩きとしたい。
〇案内者が出た場合には従来どおり500円払う。(その人の珈琲代にしてもらえればよい)案内人がおらず皆が案内人の場合は、お金は払わなくてよい。
〇保険はかけない。ソーシャルディスタンスを守ろう。マスクはしよう。
*会というのは、何かの活動があって会は存続する。細く長く活動を続けるには、ゆるやかな活動法を取って会を継続する。
*探訪場所については提案をしてください。あまりきばらずにポイントを絞り込む。
*プチ町歩きは、実験的に7月から実施する。8月は行わない。9月からについては、要望を聞いたり、意見をもらったりして決めたい。ご意見をぜひ。
2、プチ町歩きの案内
第160回 7月18日(土) 13時 京王線・明大前駅改札前集合
案内者 米澤邦頼さん 明大前付近の地形探査
〇コース 駅→東京山手急行遺構→煙硝蔵地跡→玉川上水沿い→地名『高井戸』由来の高井家墓所→上水北側の高低差・支流跡を歩き→元警察犬訓練所、上北沢駅解散。
*すでに四人の申し込みがあったので催行する。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
参加申し込みについては早くお願い。四日前まで。実施、不実施の連絡が早くしたい。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
3、下北沢野屋敷の小野寺将軍
先だって北沢3丁目在住の河住規子さんと出会った。小野寺中将のお孫さんである。お宅に伺ったときに自伝を戴いた。「悲運の将軍 小野寺長治郎伝」である。悲運は志半ばであったからだ。長治郎伝はこう始まる。
昭和十三、四年頃、折しも支那事変は泥沼と化し、日本はその中に踏み込んで二進も三進むも行かぬという実情であった。このような未曾有の国難から日本を救出するため、予てより小野寺は同志と諮り、ひそかに対米工作という回天救国策を進めていたのである。漸く実現の目途も立ち、昭和十四年二月八日に横浜出帆の秩父丸で勇躍渡米することになった。しかるに出立二日前の六日夕、糧友会の会合に出席するため高円寺へ向かう途中でにわかに脾臓壊疽を発病し、難病とて手の施しようもなく、秘められた鴻図も空しく、二月七日小野寺は祖国の前進を憂えつつ急逝した。
陸軍の派閥に皇道派と統制派とがあった。小野寺大将は後者で実力者であった。その彼が対米交渉の任に当たった。期待がこの小野寺に託された。
蒋介石政府との講和にはっきりと見切りをつけ、北京および南京における親日反共政権の成立をみたので、日本の対中政策は一応スッキリした。しかし難問は、英米の支援によって徹底抗戦をつづける蒋の国民政府をいかにして無力化するかであった。泥沼に足を突っ込んで立ち往生している日本軍であり、国力の消耗はおおうべくもない。満蒙におけるソ連の策謀ははげしく、日本の国際的孤立はさらに深く列強の袋叩きにあいかねないという予感に気が気でなく、小野寺は全知全能傾けて情勢を読み策を練ったのである。(同著)
その結果小野寺が対米工作の任に当たることになった。が、彼の急逝で計画は頓挫してしまった。過労が祟ったのである。対米交渉ができていれば戦争の様相も変わっていたかもしれないと思う。その小野寺大将がなぜ野屋敷に住むようになったか。
大正の末年、目白の借家が手狭になり、新築に必要に迫られた伯父は、ある日役所の後輩清水菊三(故人・陸軍主計中将)を伴い、建設中の小田原急行電鉄の沿線を物色していた。現在の東北沢駅近くの台地に来た時急に立ち止まって、
『向こう側の傾斜はどうだ。東南に向いているから陽当たりもいい。小田急が通じれば便利になる。野屋敷というのがおもしろい』
と、実にあっさりと決めたそうである。(後年清水氏談)
「野屋敷という名前がいいじゃないか、緑もたくさんあって、ひなびた屋敷町という感じだな、こっそりと密議をするには向いているかもな」と長治郎は言ったか。
(掲示写真は葬儀のときの様子を写したもの。通りは二子道である。)
4、等々力のヒミツ 木村康伸
世田谷区等々力(とどろき)と言えば、難読地名とまで行かないまでも珍しい地名であるが、その名は「とどろく」というところから来ているそうだ。
では、何が「とどろく」のか。それは、滝の水だと言われている。そしてその滝は、等々力不動にある不動の滝だと一般的には言われている。
たしかに、等々力駅近くのゴルフ橋から谷沢川の等々力渓谷伝いに歩いて行くと等々力不動に至り、そこで滝を見ることができる。しかし、その滝の流れはチョロチョロとしたものである。これは、国分寺崖線の崖面から地下水がしみ出てきたものである。だからその滝の水は、とどろくほど音は立てない。その音が地名になるためには、もっとたくさんの水が流れる滝でなければならない。
実は、等々力の地名の由来となる滝が別の場所にあった。それが「姫の滝」(別名「野良田の滝」)と言われる滝である。
この滝は、等々力渓谷よりも上流、東急大井町線が谷沢川を横切っている地点から300メートル余り遡った現在の世田谷区中町二丁目付近にあったようだ。と言うのも、今は存在しないからである。今から八十年余り前の昭和13年7月に起きた水害で、決壊崩落してしまったという。崩落するまでは、かなりの大きさの滝があったらしい。
それにしても、今は街中を流れる中小河川に大きな滝があったというのは何やら信じがたい。だが、ここに滝ができたのにはそれなりの理由があった。
昨年3月の「都市物語を歩く会」でも案内したことであるが、谷沢川は「河川争奪」という現象によって今の形になった川である。
もともとこの川の原形は、それこそ不動の滝があるあたりの国分寺崖線にあったという。最初は国分寺崖線から崖下に向かって染み出ていた湧水がやがて勢いを増し、崖上にも進出するようになった。このような現象を谷頭浸食という。そしてその流れが、崖上にあった九品仏川の流れを途中で奪い取るに至ったという。その争奪地点が現在のゴルフ橋付近である。
こうして現在の谷沢川の流れができあがったのであるが、上流を谷沢川に奪われた九品仏川の下流はその後どうなったかというと、逆流して谷沢川に流れ込むようになったという。それで九品仏川には逆川の異名がある。
こうして、九品仏川下流が谷沢川に流れ込むようになったことと、以前から続いていた谷沢川下流からの谷頭浸食が継続したことで、今のゴルフ橋より上流あたりの谷沢川では急激に渓谷の谷底浸食が進み、上流に向かって河床の崩壊と崩落を生じさせることになったそうだ。
そして、このような現象が河床の高低差を生み、その最前線に大きな落差ができた。それが姫の滝という大きな滝になったということだ。
ところで、なぜこの滝が「姫の滝」と呼ばれているのだろうか。それについては悲しい話が伝わっている。
むかしむかし、はるばる都から武蔵国を訪れた貴公子がおったそうな。貴公子はたまたま立ち寄った玉川の里で領主の館に逗留した。領主には美しい姫君がおり、いつしか貴公子と姫君は恋に落ちた。二人は夫婦になる契りを交わし、貴公子は再会を約して都へと帰って行った。しかし、いつになっても貴公子が再び訪れることはなく、悲しみに暮れた姫君はこの滝に身を投げたのだそうじゃ。以来、土地の人たちはこの滝を「姫の滝」と呼ぶようになったと言われている。
等々力に関することでもう一つ付け加えると、等々力には「兎々呂城」という表記もある。これは深沢にあった深沢城の別名とも言われているが、はっきりしたことはわかっていないようで、単なる等々力の当て字だという説もある。ただ、この「兎々呂城」という表記を見るたび私は、どうもアニメ「となりのトトロ」を思い出してしまう。「となりのトトロ」ならぬ「となりの兎々呂」である。だから、もしかしたら等々力にもトトロみたいな生き物がいたんじゃなかろうか、と考えたりもしている。
それにしても、等々力(とどろき)にこんなにいろいろヒミツがあったなんて、まさに驚き(おどろき)ですね。
■ 編集後記
▲8月に行っている恒例「納涼会」はコロナ感染の危惧からこれは中止しました。
▲事務局邪宗門は営業中:8版地図を店でもらって近隣の人に配布してください。
▲この会報は毎回三軒茶屋の区の施設市民活動コーナーで印刷をしている。が、新型コロナウイルス感染防止というとでここが閉鎖されていた。6月16日から開館した。この時に165、166を印刷した。今回は167号と最新の168号を印刷し届けた。 *167号の印刷は失敗してしまった。発送は168号のみ
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