2020年08月
2020年08月31日
下北沢X物語(4076)―会報第170号:北沢川文化遺産保存の会―
…………………………………………………………………………………………………………「北沢川文化遺産保存の会」会報 第170号
2020年9月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、記録:根津山の防空壕 きむらけん
△「目をはなせば櫟に菫また隠る」という句には、「附近の根津山は櫟美しき山なり」という詞書きがある。根津山を詠った中村汀女の句である。今は羽根木公園、「外のもにも出よ」と言う彼女の句碑が建っている。戦時中ここに防空壕があった。このところ朝ドラ「エール」で話題になっている古関裕而もこれに触れている。自宅から百五十メートルぐらいのところに根津山の防空壕があって自分の子供を避難させたと。ここの防空壕については色々な噂はあった。軍関係の手によるものゆえに頑丈に作ってあった、戦後は空襲で家を失った人が住んでいたとか……根津山の防空壕の記録は少ない。それを紹介する。
『昔の代田』を書いた故今津博さんもこれに触れておられる。「戦時中現在の図書館裏の斜面に、付近住民の手で掘られた横穴式防空壕の埋め戻しを行う等の里山部分の整地作業を行っていた。」と。
図書館は梅丘図書館である。この裏手に「横穴式防空壕」があった。これは確かだ。
昭和二十年五月二十五日当地が焼夷弾攻撃を受けた。この時に代田二の七二八番地に住んでいた杉山杜美子さんは果敢に戦った。そして火を消し止めた。その時のことをこう書いている。「静まり返った焼け跡のあちこちに遠く近く立ち昇る薄煙が幽霊のようであった。近所の人たちの姿はどこにも見えなかった。すぐ近くの根津山の横穴式防空壕にみんな待避したのだろうか。」と。隣組同士での約束があったのだろう。何かあったときは「根津山の横穴式防空壕に待避しよう」と。
△古関裕而は「鐘よ鳴り響け」という「古関裕而自伝」を記している。
三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルくらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるかわからぬ悲痛なものだった。集英社文庫 2020年刊
「わが町梅丘」という冊子がある。「発行 平成十五年三月三十一日、編集発行人梅丘一丁目町会長 中村元之」とある。ここに鈴木壽さん(73歳)の記録がある。
戦時中は町内会総出で、防空壕を掘ったのですよ。戦争末期の昭和二十年五月二十五日アメリカ軍の空襲で、梅丘を狙った焼夷弾が西からの強風にあおられ、そのほとんどが根津山方面に流れたおかげで町の大部分は焼失を免れたんですよ。しかし梅ヶ丘駅周辺の一部や商店や住宅は焼けました。罹災された方々はほんとうにお気の毒でした。焼け跡をみても、もし風向きが変わっていたら大惨事になっていたと思います。町が助かったのは奇跡だった。そのときの感激は脳裏に焼き付いています。
△昭和二十年五月二十五日、いわゆる山手空襲である。このときに根津山防空壕に避難した人の記録が載っている。
世田谷区代田二−七三〇に住んでいた竹内直子さんが記録したものだ。タイトルは「一瞬の明暗」である、彼女はこのとき高等女学校の一年生十三歳であった。家の場所は、現在の代田小学校の東側辺りである。
ともかく根津山の防空壕は、目と鼻の先にある。何とか励まして、母をそこまで連れて来て、壕の中にもぐり込んだ。こうして、ケガをした一家が必死で逃げてゆく上空を、B29は焼夷弾の雨を降らせ続けていた。火のため、すっかり明るくなった夜空は、あの巨体な機体からバラバラッと燃えながら落ちてくる焼夷弾の隊列、自分の現状がどんなものか等考える余裕もないのに、この光景を憎しみの気持ちで見つめるより前に、美しいと思った。 しかし、壕の中は行きながらの地獄であった。真っ暗で何も見えないことが、かえって、さいわいなくらいであった。かすかなひかりにあてて母のケガを調べていると、くびのところに血がながれていた。急いで救急袋から繃帯を出してくびに巻いた。「ナムアミダブツ」ととなえているお婆さんもいた。私は何度も「お母さん死なないで」と叫んでいた。
ともかく、この壕の中にいた人びとにとっても誰の生涯の中でも、一番長い一夜だったと思う。その夜が明けて、二十六日の朝になった。自宅のあとに行ってみた。火はまだくすぶっていた。焼夷弾特有のあのにおいがたちこめている。みんなすすけた顔をして茫然と立っていた。すぐ近くでも、焼けずに残った家もある。一瞬のうちにわけられた明暗。すぐ裏の奥さんは外に出たとたん焼夷弾の直撃を受けて即死だという。私の家の一帯はかたまっておちたのだ。百数十坪ほどの敷地に四十何発か落ちていた。
東京大空襲・戦災誌第2巻 東京空襲を記録する会 1975年刊
根津山の防空壕に避難した人の記録として唯一見つかっているのはこの記述である。どのくらいの広さがあったのか分からない。が、この記述からかなり大勢を収容することができたようだ。資料に当たったところ上記のものが見つかった。これ以外の情報があれば、こちらへの情報提供をお願いしたい。
2、バナナが食べたい!
エッセイスト 葦田 華
バナナを食べると、ある情景が昨日のことのように思い出される。
戦争が終わって6年め、私が小学校一年生だった1950年には、学校にお弁当を持って来られない生徒が多数いた。彼らが運動場で鉄棒をしたり、あやとりをしているのを教室の窓から眺めながら、私はカツブシご飯の上に海苔が乗っているお弁当とゆで卵を食べていた。それほどまでに、敗戦後の食料事情は悪かったのだ。
ある日のこと、担任の渡辺よし子先生が、黄色い見たこともない棒状のものを持って、教壇に立った。私達はそれが何なのか知りたくて堪らなかった。先生はおもむろにその二本の棒を生徒達に見せて、「ハイ!皆さん、これがバナナという果物ですよ。」と言った。そしてまたおもむろに皮をスーッスーッと剥くと、中からうす黄色の中身が出てきた。先生は「バナナはね、こうやって食べるんですよ。」と言って、先端をパクリと噛み、ゆっくり食べると、またパクリと食べ、またたく間に一本食べてしまった。
私は、「二本めは生徒のみんなに薄く切って、爪楊枝で刺して食べさせてくれるのだろう。」と、ドキドキしながら待っていた。すると先生は二本めもスーッスーッと皮を剥くと、パクリ!と食いついて食べ、モグモグと全部食べてしまったのだ。
「皆さん、これがバナナの食べ方ですよ。」と言った。呆気にとられているちび達にお構いなく、教室の後ろに座っていた少年を指さした。「はい、片桐君、この皮を後ろのごみ箱に捨ててきなさい。」と言った。半ズボンに坊ちゃん刈りの片桐君は、両手に二本ぶんのバナナの皮を捧げ持ち、後ろのごみ箱に捨ててから席に着いた。
なんの目的で先生が二本もバナナを見せびらかして食べてしまったのか、私には全く意味が解らなかった。
小使さんが鐘を鳴らして廊下を通った。
休み時間だ。私はすぐにごみ箱に行き、バナナの皮に触ってみたが、ベラベラとした湿っぽいヘンな代物だった。そして、バナナ授業のことなどすっかり忘れていた。
それからしばらくして母が私を呼び、「渡辺よし子先生、生徒の前でバナナを二本も食べたんですって?」と尋ねた。「うん、そうよ。ぱくぱくミ〜ンナ先生だけが食べちゃったの。」 「教会の水曜祈祷会のあとでね、その話を片桐君のお母さんから聞いてね、実に驚いたわ。片桐君はね、『皮でもいいから食べたかった!』と言ったそうよ。華はどうしたの?『ごみ箱のバナナの皮を握ってみたら、気持ち悪いクニャクニャしたものだったよ。でも中身は美味しそうだったさ。お母さん、華も皮じゃない、本当のバナナ食べたい。バナナよう。バナナが食べたいよ〜!」と言った。
「戦争に負けて台湾を取られちゃったからねえ、バナナなんて買えません!」と、母は語気荒く言った。翌日、私は果物屋さんに行って、ひな壇のてっぺんに飾ってあるバナナを見つけると「おじさん、バナナは一本いくらですか?」と聞いた。
「バナナねえ、一本三百円なんだよ。」と言った。(ちなみに封書8円、もりそば15円)高価な果物だと身に沁みて判った。
それにしても、あんな食料事情の悪い昭和25年に、お弁当を持って来られない欠食児童がたくさんいる時代だというのに、渡辺邦子先生はなんとむごいことをしたのだろうかと、私はくやしくなった。渡辺邦子先生はもう40年前に亡くなっている。
老人になってから、数年前に台湾一周旅行をした。
カレンという場所はとても美しいと聞いていた。案にたがわず大理石の渓谷の底の底に、トルコブルーの川が流れていて、あまりの美しさに目を奪われてしまった。その次の休息所で、本物の台湾バナナが配られた。私が小学一年生で初めてみたあのバナナだった。小ぶりだが、ねっとり甘くとても美味しかった。
ちなみに<昭和24年、台湾バナナ戦後初めて輸入。>とある本に載っていた。今や日本ではバナナは山ほど売られている。それもお手頃価格の安さである。バナナのほとんどがフィリピン産だそうだ。フィリピンの青年達は「フィリピンの良いものは皆日本に行ってしまう。一番美味しいバナナと一番綺麗な娘さんたちが…。」と、歎いているそうだ。
それを聞いて、フィリピンの若者の皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
3、タイムトリップ下北沢
9月21日(月)、22日(火) 場所 カトリック世田谷教会
主催: つなげよう小さな手の実行委員会
世田谷カトリック教会でチャリティーマーケット開催。入場無料。9時〜18時
多くの店が出るようだ。食べ物、手作り品などが出店される。
当方は、求められて下北沢の古写真を提供した。主には踏切の写真である。
『鉛筆部隊と特攻隊』〜戦争伝承への新たな試み〜
カマボコ兵舎ではこれのスクリーン上映を行う予定だ。
また、「下北沢文士町文化地図」8版の配布を行うことにしている。配布活動参加の場合は、当方に連絡を。感染防止、あるいは時間分担などを決めたい。
4、プチ町歩きの案内
コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
*四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。
第160回 9月19日(土) 13時 小田急線・梅丘駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼 朝ドラ「エール」の世田谷代田を歩く
〇コース 未公表。距離は短い。古関裕而と関わりのあった箇所を歩く。雨天実施。
第161回 10月17日(土) 13時 小田急線・世田谷代田駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼 世田谷代田のダイダラボッチを歩く
コース:世田谷代田駅前広場の足跡建設予定地見学→ダイダラボッチの源流(宇田川湯)→出頭山→代田大原境の庚申塔・地蔵尊→ダイダラボッチ跡→旧守山小→ダイダラボッチ川を下る
*代田のダイダラボッチは跡形がない。比較として駒沢ダイダラボッチを付け加える。希望者:代沢5丁目−(小田急バス)−野沢銀座→駒沢ダイダラボッチ二箇所→野沢龍雲寺停留所(新代田、下北沢方面バス)
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。それで先着順十名とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
2020年08月30日
下北沢X物語(4075)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語1―

(一)ネット発信を続けて16年、数々の奇遇、奇譚に遭遇してきた。これがきっかけで「鉛筆部隊と特攻隊」は編まれ書籍として発信をされた。情報は情報を生む、因縁の円環は果てもない。昨年、改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」を出してこれのけじめをつけた。ところが戦後75年、76目に入った8月の終わり、この26日に電話が突然に「圏外からです」と告げた。受話器を取ると台湾からの国際電話だった。向こうからは流暢な日本語が聞こえてきた。何と彼が告げたのは山本薫中尉の名である。苦難苦闘一千里、日本から台湾に飛んだ特攻隊「武揚隊」を率いた隊長の名である。「耳を疑う」という卑俗な慣用句がある、が、私はその情報を聞きさして卒倒しそうになった。「まさか!」である。
この情報の前ぶれは一日前の25日にあった。が、これも唐突だった、こちらの電話は「京都」からだった。この前には「福島」からあった。この県に知人はいない。が、思い当たる節があった、もしやと思った。が、その想像は当たっていた。電話の相手の長島雄一さんが告げた名は、武揚隊の長谷川信少尉である。彼は福島出身である。
それで今度は「京都」から掛かった、奇縁、因縁は果てがない。相手が口にしたのは何と山本薫中尉の名である。新手の情報だ。が、繋がりが読めない。長島さんの場合には喜多方高校の先輩である長谷川信を研究していると。これを聞いて事情がすべて飲み込めた。
京都からの電話は京都大の先生だった。ふと戦後史でも研究しておられるのかと思った。後でこのことは分かるが鈴木雄太先生は理系の研究者だった。
いきさつはこうだ、彼の知人が台湾に住んでいてその人の叔父から私へのコンタクトを頼まれたようだ。
その叔父さんというのはて87歳で、子どものときに山本薫隊長に出会ったというのである。なんとも「耳を疑う」話である。
「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」を私は調べた。多くの資料を漁ってきた。
会報 特攻 平成13年2月 第46号 特攻戦没者慰霊平和記念協会発行に「特攻隊の裏方 飛行第一〇八戦隊 菱沼 俊雄」という文章がある。その末尾だ。
その夜、八紘荘では武揚隊がささやかな宴をはって壮行会がおこなわれていた。一方、私はこの特攻隊を台湾の基地まで誘導せよ、という命令を受領した。
その夜というのは昭和20年4月4日のことだ。八紘荘は九州新田原飛行場内にあった乗務員宿舎である。台湾行きを命ぜられた武揚隊はいよいよ目的地に向かう。日本最後の夜だというので祝宴を張った。
私は、彼らの足跡を求めて新田原飛行場まで行った。八紘荘跡は、兵どもの夢の跡、そこにはどこまでも茶畑が広がっているだけだった。そこで空を見上げては台湾の方を見遣った。ここを飛び発った彼らはどうなったのか?
続きを読む
2020年08月28日
下北沢X物語(4074)―東横線:柿の木坂切り通しの顛末―

「東横線のアオガエルを見たときは目が覚めるようだったわ。それまでの電車はみな角張っていたのにあれは流線型だったわね、窓が広くて、かっこいいの、電車が風を切ってホームに入ってくるの、都立大駅もおしゃれになったと思ったわ。柿ノ木坂の東横線を越えていくバスのこと?、怖かったわ、坂をぐっと登っていくの、前の人が転げ落ちてきそうなくらいだったわ。鉄橋の上から見ると西の方に向かって広い目黒通り見えるの。うちのおじいちゃん飛行機の滑走路になるんだとも言っていた、それともう一つオリンピック用に作られたんだと。昭和十五年に駒沢で開かれることになっていたでしょう」地元民の記憶だ。
(一)
機関車クラウスは何時走ったのか。
地域史が伝えるところによると。柿の木坂の二子道と東横線は住民の要望によって立体交差することになった。ところが線が開通しても工事がストップしてこれが始まらない。二子道は工事中のために通れない。これによって農民や商人は痛手を受ける。野菜の搬出は迂回路を通らねばならなくなった。二子道沿いの商店も人が通らなくなったので商売が困難になった。それで住民は大岡山に住む労農党の「火の玉勘十」、加藤勘十に窮状を訴えた。彼は監督官庁の府に赴き即刻改善をするようにねじ込んだ。これは功を奏した。線路と道路の立体交差化工事は再び始まった、
柿の木坂にトロッコのレールが敷かれ、百人を越す労働者が働き始めたのはそれから間もなくである。坂上の高台の土を削り、それを目黒どおりとなる部分に積み上げていった。
めぐろの昔を語る 編集 目黒郷土研究会 発行 目黒区教育委員会 平成七年刊
昭和二年八月二八日に東横線が開通している。これはそれ以降の話だ。「トロッコのレールが敷かれ」たとある。当時の土木工事はトロッコによる土運搬は普通であった。が、切り通しを作るためのものだ。小さなトロッコではない、大型のものだ。これは機関車によって牽引される。クラウス号である。ということは昭和になってからということになる。
果たしてそうなのだろうか?
続きを読む
2020年08月27日
下北沢X物語(4073)―黒馬に驚嘆:柿の木坂のクラウス―

(一)「ぼくはお兄ちゃんが『くらうす、くらうす』というので『倉にある臼のことなの?』って聞きました。『まるっきし違うよ、本物をみないと分からないぞ、よしそれを見に柿ノ木坂に行こう』とお兄ちゃんが言います。よろこんでついて行きました。すると谷が深く削られていました。『あれがくらうすだ』と。見ると黒い箱が煙を吐きながらやってきます。後ろに子分みたいなものを引き連れてきます。『いいかあれが機関車クラウスだ、後ろについているのはトロッコだ、ああやって土をいっぺんに運ぶんだよ』と。その機械はずんずん近づいてきます。そして『ピヒョッ』と笛を吹きました。ごったんぐったん大きな音を立てました。八雲尋常小学校三年新倉豊は機械馬を初めて見たのです……
柿の木坂は険しい坂であった。東横線を通すにはここを越えるしか他に方法はなかった。ここで行われたのは丘陵を突き崩す大がかりな土木工事である。このときに使われたのがクラウス、ドイツ製のB形タンク式蒸気機関車である。『東京急行電鉄50年史』には写真がある。「蒸気機関車クラウス号が活躍する柿ノ木坂付近の建設工事」というキャプションがついている。機関車が導入されたことは間違いない。
〇この機関車は、いつ導入されたのか。東横線開通後なのか、開通前なのかである。
まず、問題である、柿ノ木坂は地元民にとっては重要な道路が通っていた。鉄道を敷設するに当たってどうするか、会社側は、柿の木坂を横切って線路を敷設する計画であった。これを聞き知った地元民は反対した。踏切が柿の木坂にあると車馬が通行するに当たってはとても危険である。この地元民の意見については、『東京急行電鉄50年史』(昭和48年発行)でも記録している。「柿ノ木坂付近住民の鉄道省あての陳情」というコラムを設けて紹介している。その一節だ。
電車疾行の為突然の往来止めが如何なる結果を招来すべきや之亦推して知るべき候。
(原文は漢字片仮名交じり文)
住民のその意見を会社側は聞き入れた。『東京急行電鉄50年史』ではこう記述する。
柿ノ木坂の踏切道(現在の目黒通りとの交差箇所)について、鉄道省に対する地元関係者からの陳情があったため。柿ノ木坂付近の勾配を変更し、営業開始後までに同踏切道を立体交差化することになった。
続きを読む
2020年08月25日
下北沢X物語(4072)―東横線敷設と柿の木坂騒動―

(一)都立大学駅は、開設されたとき「柿の木坂駅」と言った。線路敷設時にこの坂との闘いがあった。急坂の名残は今も駅の構内に残っている。それは階段だ、聞いてみるとやはり誰もが都立大学の階段はきついという。特に下りが怖い、知人にここを転げて足を折ったという人もいた。柿の木坂駅時代は地表駅だった。昭和36年(1961)に高架となった。今、高架下に東急ストアがある、このスーパー二階建て構造だ。この上にホームがある。ホームから外を覗くと隣接したビルの四階ぐらいの高さがある。なぜこんなに高くしたのか。駅の東に柿の木坂がある。これを越えるために高架を高くしたのだろう。地形因縁が今も生きている駅だ。
東横線都立大学駅は東端に高架橋がある。下を走る目黒通り(二子道)をまたぐためのものである。線路敷設時に鉄道側は平面交差と考えていた。が、道は地域の生活重要路である、柿の木坂を荷車で通って野菜などを都心に運んでいた。会社の計画について、「無謀だ」、「坂の途中で荷車は止まれない」と反対をした。「必ず轢殺の惨事を惹起するは明なる次第」と鉄道省に陳情書を出した。
坂の途中に踏切を設けることは無理があった。それで会社側は設計を変更して立体交差をすることに決めた。しかし、大きな計画変更だ、開通時には間に合わない。それで「電車が開通し営業が始まった段階で立体交差の工事をする」(「めぐろの昔を語る」)ことにしたようだ。
敷設工事は始まった。これによって昭和2年(1927)8月27日に渋谷と丸子多摩川駅間が開業した。
開業当初、駅名は、柿の木坂駅だった。線路敷設に当たってはこの坂は難敵だった。これを克服して開業がなった。坂に敬意を払って名づけたのだろうか。
「いやね、隣の碑文谷駅を出るだろう。坂を登って柿の木坂までくるわけさ、ここからぐっと下がって柿の木坂駅に入っていくのさ、キイキキと制動が掛かって電車が停まるのさ、これは見ものだよ」
初めて電車に乗った乗客の弁だ。
続きを読む
2020年08月24日
下北沢X物語(4071)―古代(二子道)と近代(東横線)の衝突―

(一)ついこの間最寄り駅都立大学駅の階段で転びそうになった。このときにふっと思い出したのは「柿の木坂」だ、この坂「ストンと落ちる」ほどにきつかったという。駅階段もきつい、踏み外せばストンと下に落ちていきそうだ。今、エスカレーターは標準装備となっているが、ここにはない。設置が求められるがなかなか設置されない。その理由は、地形構造上の問題ではないかと推理される。都立大は平地駅をかさ上げして高架駅としたものだ。ホーム東端は道路をまたぐ高架橋だ、続いて切り通しとなる、丘陵を切り開いて作った部分である。多分ここに線路を通すために高さが合わせられている。このレベルが高い、それで自然と高架駅は高くなった。ホームへの階段の勾配がきつい。高架下もテナントなどが入っていてエスカレーターを設置する場所もないほどにきつきつだ。この問題の根源に近代と古代との衝突があるのではないかと思った。
私の住むところにある川は、西から順に言うと、多摩川、矢沢川、呑川となる。いずれも左岸が高い。鉄道にとっては障害だ。これをどう乗り越えたのか興味深い。
呑川左岸も険しい。この地形が面白い、ちょうど東横線の切り通しあたりを基部として南へと細長い半島状の舌状台地が南へ延びている。自分では何度も歩いて、勝手にこれを大岡山半島と称している。これを横断しているのが池上線であり、目黒線であり、東横線である。
景観として今も見応えがあるのが池上線だ。石川台駅のすぐ東には深い深い切り通しがある。写真撮影の名所となっている。線路敷設時には相当な難工事だったことが想像される。
柿の木坂も呑川左岸の谷である。これを越えるには相当な苦労があったようだ。
その道の高低は鷹番方向から来て、現碑文谷保健所の前あたりから上り坂(どぜむ坂)となり、しばらく同じ高さが続いた後、現在のガソリンスタンドのある辺りから、「ストンと落ちるように」柿の木坂があった。
等々力・深川(*深沢の誤植だろう)・衾方面から来る野菜を積んだ荷車は、単独ではこの坂を上ることはできなかった。そこで三台、五台と集団を組み。坂に来ると一台ずつ協力して引きあげた。このような協力を「もやい」「もやす」などといった。逆に坂を下る時は勢いがついて大変危険であった。
めぐろの昔を語る 編集 目黒郷土研究会 発行 目黒区教育委員会 平成七年刊
大正末から昭和にかけての時代だろう。柿の木坂は重要な交通路であった。一帯は往時畑地が多かった。生産された農産物がこの坂を通って都心に送られた。
続きを読む
2020年08月22日
下北沢X物語(4070)―戦争と特攻と言葉―

(一)時は静かに過ぎてゆく、散歩の途中、小さな張り紙をみつけた、閉店のお知らせである。老夫婦が営んでいた下馬の小さな菓子店だ、「あの方は家に畑を作って鍬で耕しておられました、そこの路地を左に曲がった奥ですよ」奥さんに旧居跡も教えてもらった。行くとすぐ側に駒沢線鉄塔39号が聳え建っている。別の機会だった、通り掛かりの古老は「あの鉄塔に焼夷弾が落ちてものすごい大きな音を立てていましたね、ガァン、ガァンと…長官を狙ってB29は焼夷弾を落としていったのですよ」と言う。人は戦争を伝説化して語る。下馬の長官は連合艦隊司令長官豊田副武海軍大将である。この彼から自決用の短刀を授かった人がいた。もう亡くなってしまった元特攻隊員、斎藤秀雄氏である。
彼は加計呂麻島から人間魚雷?に乗って特攻出撃するはずだった。が、終戦を迎えて出撃は取り止めとなった。我らは戦争経験を聴く会、語る会を何度も開いてきた。これに参加されていた。が、彼は一切口を開かなかった。寡黙な人だった。
昨日、大槻統さんから得た情報、「第一師範附属小にP-51の銃弾痕が長い間残っていた」を紹介した。情報が情報を生む。
終戦記念日を前に「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」へ行った。これによってP-51の終戦末期における行状を深く知ることになった。わかってみるとひどい、一般市民を襲って各地でこの機の餌食になっている。疎開中の学童も撃たれて亡くなってもいる。
SNSで長谷川順一さんは「妻は宇都宮に住んでいましたが、学校帰りにP51マスタングの機銃掃射を受け、どぶの中に逃げ込んで助かり、ずぶ濡れになって家に帰ったそうです」とのコメントもあった。
ムスタング情報はさらには第一師範附属小の襲撃を明かした。
戦後における日本には敗残意識というものが残っているように思う。戦争を仕掛けたがこてんぱんにやられた。プライドを失った我々はアメリカものを言えなくなったように思える。アメリカさんにはいちゃもんはつけられない。日米地位協定は典型例だ。
原爆投下、また、P-51の終戦末期における残忍な所業は忘れてはならない。
続きを読む
2020年08月21日
下北沢X物語(4069)―下馬第一師範附属小P-51機銃掃射痕―

(一)日々散歩をする。下馬中央公園はよく通る。立ち止まって思いに耽る。この場所は第一師範附属小があったところだ。戦時中世田谷の七校は浅間温泉に疎開する。この附属小もその一つだ。不思議な因縁話だ、この公園のすぐ北に元東大原小の疎開学童だった太田幸子さんが住んでいた。彼女に取材に行ったとき日記を見せてもらった。昭和20年3月28日の日記「午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかえりもした」とあった。吉原さんは誠第32飛行隊の吉原香軍曹だ。出撃が近づいていたので宿舎の学童にデモンストレーション飛行を見せた。このときのことを第一師範の疎開学童だった大槻統さん。絵日記に描いていた、彼は女鳥羽川で遊んでいるときに一機の飛行機が飛んできて、手を振った。描かれている機は九九式襲撃機だ。縁もゆかりもない人が偶然同じ飛行機を日記に記したようだ……ふしぎふしぎの物語だ。
昨日のことだ、その大槻統さんから久しぶりにブログに書き込みがあった。彼は小学校のときから航空機ファンだ。描かれた機の機種が特定できるほどにうまい。コメントにはこうあった。
1945年2月17日(?)、私は駒沢高射砲陣地を襲撃するカーチス・ヘルダイバー(艦爆)を見ています。
この前日の2月16日に敵の艦載機が東京を襲った。自由自在に空を飛び回って地上に機銃掃射を加えた。
「敵小型機は、機銃掃射を行うにつき、とくに警戒を要す」
ラジオは繰り返して放送したようだ。
さて、大槻さんの指摘である。私にとっては空襲辞典、一色次郎の「日本空襲記」(文和書房)に当たってみる。2月17日だ。
私は、外出の支度ができていたので、戦闘の模様が気にかかった。待避の半鐘が鳴ったので、土手へのぼってみる。アパートの女たちは、機関銃の弾なら、あたっても死ぬのはひとりだけだ、とのんびりしているが、ここへきてみると、広い東京の空は、高射砲の弾幕で一面塗りつぶされている。その中をいろんな形の戦闘機が、むちゃくちゃに飛び回っている。正面からみるとW字形になていて、翼の先がまるいヴォート・シコルスキー、反対に、翼の先が切り取ったみたいに角張ったグラマン、そのほかに、急降下爆撃機も二三種類いるようだった。
続きを読む
2020年08月19日
下北沢X物語(4068)―北沢・代田でウオッチした「東京空襲」2―

(一)人間の記憶ほど当てにならないものはない。が、記録はその人間の欠陥を補うものだ。一色次郎は北沢と代田に居住し克明に東京空襲の記録を書いた。単にこれが大事だというのではなく経過にこそ意味がある。昭和16年12月8日は開戦記念日だ、戦果を誇る新聞は「米太平洋艦隊は全滅せり」と誇らしげに告げる。言えば間違いの一歩だ、時が経って昭和19年11月1日に高高度を飛ぶB29の姿が目撃され、東京は騒然となった。真珠湾は奇襲攻撃だ。が、敵は正反対、戦略を練っての計画攻撃をした。B29の東京初見参は大きな意味があった。この機は偵察型F-13のB-29トウキョウローズは攻撃目標である東京の詳細写真を撮った。これを元に敵は緻密な作戦を練った。
真珠湾攻撃に参加した人の話を聞いたことがある。彼は二式大艇の乗組員だった。マーシャル群島ウオッゼ島を出発してパールハーバーに向かう。「そのときの燃料補給はバケツリレーでした」と渡辺さんは語った。真珠湾攻撃は、出たとこ勝負だ、綿密な計画性はなかった。
11月1日にやってきた東京ローズは、何千枚という写真を撮った。首都東京を叩くための情報収集だった。
一方、やられた側の一色次郎の観察も詳細を極めている。記録をしっかりと取っている。
来襲機数
来襲時刻
来襲日数
来襲曜日
投弾回数
大本営の諜報員たちよりも綿密だ。これらをもとに彼は分析している。その「結論」を二点に亘って要約している。その(一)である。
来襲の大部分が、夜間を選んでいる点に注目しなければならぬ。これは夜から払暁にかけて本土の気象状況を基地に打電し、基地ではその日その日の綿密な気象図を作成して次の編隊爆撃を容易にする意図であり、また搭乗員を夜間航法に熟達せしめるとともに、本土出撃の体験を集積して飛行条件の確立を編み出し、夜間大挙爆撃に資せんとしているものと思われる。 「日本空襲記」一色次郎 文和書房 昭和四七年刊
鋭い指摘だ。感心したことは空襲の経過から敵の戦略を見抜いていることだ。
3月10日は、いわゆる「東京大空襲」である。日本の真珠湾攻撃のように一発勝負ではない。前年からの空襲経験を踏まえての言ってみれば集大成である。
なるほど、戦争とは何かノウハウを獲得することである、と一色次郎は教えてくれる。
続きを読む
2020年08月18日
下北沢X物語(4067)―北沢・代田でウオッチした「東京空襲」―

(一)常に重宝している本がある、「日本空襲記」と「東京空襲」だ、ともに一色次郎が書いたものだ。後者は前者のダイジェスト版である。一色次郎は世田谷区北沢一丁目一一一三番地静仙閣に居住していた。小田急線下北沢二号、三号踏切の北側にあったアパートだ。線路から近いことで昭和二十年三月末に彼は強制疎開させられている。そして世田谷区代田二ノ八二三番地の西の丸荘へ転居している。彼は昭和十九年から二十年までの空襲に関して克明に記録している。日記形式で書かれているので便利だ。当地一帯に何時空襲があったかはこれによって分かる。「湯の花トンネル列車銃撃事件」から戦闘機の飛来状況について調べたが、一色次郎の「東京空襲」で容易にチェックできる。勝れた作品だ、「連日連夜の猛爆に曝された、東京の空の下、家族の葛藤と、スパイ容疑の恐怖と闘いながら、空襲の記録を文化遺産として書き残した、唯一のドキュメンタリー。戦争文学の記念碑的傑作」と紹介されている。
戦争について古老から話を聞いてきた、その中で「カンサイキ」という言葉がよく出てきた。艦載機である。いわゆる航空母艦から発進した戦闘機のことを言う。
「下北沢駅の帝都線のガード、二子道の上を走っている鉄橋があるだろう。あの橋脚の西側の所に銃弾痕がくっきりと残っている。あれはな、カンサイキによるものだ」
この話、有名だった。同じことを他の人からも聞いた。
このことを調べ写真に撮ってブログに載せたところ、たちまちに銃弾痕はコンクリートで塗り固められてしまった。もうだいぶ前のことだ。
古老はアメリカの戦闘機を「カンサイキ」と呼び習わしていた。が、戦争末期になると陸上から飛び発った戦闘機が飛来してくるようになった。この辺りのことは「東京空襲」丹念に記している。これを読むと記録がいかに大事かがわかる。
この一帯の空襲を記録したものとして「海野十三敗戦日記」がある。彼は若林に住んでいて「空襲都日記」を記している。こちらは大本営発表に沿っていて、記録としては怪しい。が、一色次郎のには批評性、客観性がある。
彼は西日本新聞の記者である。行った先で取材し、人の話を聞いてくる。記事にするわけはないが日記には書き残している。昭和二十年五月七日の記述には辛辣な記述が書き記されている。
世界第一の工業国を相手に起こす戦争にしては、政府の準備は無能に近かった。自分から先に相手をひっぱたいておいて、そして負ける。なんというだらしない国だろう。続きを読む
2020年08月16日
下北沢X物語(4066)―戦争残酷:列車銃撃事件の現場を行く2―

〇昨日は、75年目の終戦記念日でした。戦争、もう二度としてはなりません。一度戦争が始まるとこれが終わらないのです。その間に多くの犠牲が出るのです。この頃、敵基地攻撃能力を持とうという声が聞こえてきます。率直に言って恐ろしいと思います。人間は武器を持つと使いたくなるものなのです。やっぱり武器を持ってはいけないのです。そのためには歴史を振り返ることです。ふり返れば自然と反省の気持ちが湧いてきます。昨日の終戦記念日には天皇陛下は「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べられました。が、首相式辞に不自然さを感じました。「世界を良い場とするため、力の限りを尽くしてまいりました。/戦争の惨禍を二度と繰り返さない。」と述べています。簡単な言葉で言えば、「あの」という指示語が抜けていませんか。もっと言えば「あの侵略戦争」と言えば自然に反省に繋がると思うのですが。
(一)昭和20年8月5日、中央線湯の花トンネルに差し掛かった八両編成の客車は、飛来してきた戦闘機P-51マスタングによって機銃掃射を受けた。機関車は架線が攻撃され動けずに停車した。超満員の乗客を乗せた二両目から八両目は丸裸同然、戦闘機は繰り返しこの列車を襲った。操縦者は射的の人形を撃つように機銃を撃ち込んだ。この連中は成らず者集団だ、さんざんに暴れ回った挙げ句ここに来た連中だった。昨日私のSNSに彼らが相模湾から侵入してきた者たちで、その飛行経路を図示した画像を長谷川順一さんがアップされた。この編隊は約80機で硫黄島を飛び発った。これは三派に分かれて関東地方を襲った。湯の花トンネルを襲ったのは第一波だった。
暑い陽が降り注ぐ山へ向かいながら疑問がもたげてきた。戦闘機P-51ムスタングはなぜ執拗に停まった列車に機銃掃射を繰り返したのか、なぜこんな山の中まで獲物を狙ってきたのか。

駅から二三キロ歩くと現場に着いた。目を瞠ったのは中央線の北側に聳え建つ大きな構造物である。高速道路のジャンクションである。中央高速と首都圏中央連絡道を結ぶ施設だ。ここから想像したことがある。この建築物があることはこの一帯に空間があったことを意味する。P-51ムスタングは高性能の戦闘機だ、狭い谷間だと飛行するのにも危険が伴う。が、ここでは縦横に飛べる空間があった。言えば射手を刺激する場だ、北方から回り込んで築堤上の列車を狙って撃ったのではないか。列車は買い出しの人などを乗せて満員だった。丸腰の民間人を面白半分に狙い撃ちした。
(二)
「中央本線四一九列車」(斎藤勉著 のんぷる社 1992年刊)はこの事件の顛末を丹念に追ったルポルタージュである。新聞や地元資料などに当たって、このときの第一波の行状を次のように記している。
第一波の編隊は伊豆半島に接近した後、その先頭の約三十機は、午前十一時三〇分ごろ神奈川県の小田原付近を北上、と同時に東海道本線の国府津駅を初めとし、国府津駅と鴨宮駅間、二宮駅、小田原駅と早川駅、御殿場線の下曽我駅、松田駅などに機銃掃射を加えて行った。
主には鉄道線路沿いに駅舎や機関車や列車を標的として機銃掃射をしている。鉄道員は敵ではない。が、彼らはこれらを軍事施設と考えて撃ちまくっている。
この時に国鉄二宮駅では五名が死亡している。そのうちの一人は二宮に疎開していた娘を迎えに来た父親だった。娘は江井敏子さん、後に作家になってこのときのことを書いたのが「ガラスのうさぎ」(高田敏子)である。
P-51の第一波はならずもの集団である。
終戦の10日前。1945年8月5日正午ごろ、米軍の機銃掃射を受けた痕だ。町の記録では、駅舎などで5人が亡くなっている。その中に、二宮に疎開していた娘を迎えにきた父親がいた。残された13歳の娘が、後に「ガラスのうさぎ」を書く高木(旧姓江井)敏子さん(80)だった。
この編隊第一波はさらに内陸部に入っていった。丹沢山塊を越えた。
「戦闘機で山の上を越えていくというのは気持ちのいいものでしたよ。気流があるでしょう。これをしっかりと操縦桿で捉えてうまくいくとおもしろかったですね……」
ゼロ戦に乗って体験した人から聞いた話だ。
P-51の成らず者集団も、山峡を越えての飛行に快感を覚えたのではないだろうか。
この連中、「埼玉県の川越、所沢、東京の福生付近」まで来たという。そしてこの一部が八王子にやってきて八王子駅を襲った。
二日前の8月2日に八王子はB29によって空襲を受けていた。市街地の八十パーセントが焼ける被害を受けている。
(三)
八王子駅はP−51の機銃掃射を受け、列車手一名が死亡している。成らず者は手加減をするということしない。この後に数機が西へ向かったという。つまりは湯の花トンネルへと向かったのである。
彼らの乗機はP-51マスタング単発単座戦闘機である。これと同名の車が戦後に売り出された。P-51をイメージして作られたものだ。成らず者は戦争が終わって退役するとこれを買って乗り回した。機銃を取り払った車に乗って黒人をからかった。思うに戦闘機乗員は九分間黒人の首根っこを圧迫して殺した白人警官と同じだ。無防備の客車列車を執拗に撃ちまくった。パールハーバーを奇襲しやがったこざかしい日本人め、そういう差別意識が強くあったのではないか。
(上は慰霊碑、下は現場にある踏切)
2020年08月15日
下北沢X物語(4065)―戦争残酷:列車銃撃事件の現場を行く―

(一)事件現場に行って感じたことは、戦争の残酷さ残忍さである。昭和20年8月5日、新宿発長野行きの中央線四一九列車はP-51ムスタングによる機銃掃射を受けた。湯の花トンネルに機関車と次位の一両目が入ったところ架線がやられて電気機関車は停止した。二両目から八両目は築堤上に取り残された。丸裸となった列車を何度も執拗に狙った。「死者四十九人、重軽傷者九百二十一人」その現場に行って射的を想像した。赤ら顔の戦闘機の白人パイロットは「イヒヒヒヒ」と言いながら機銃をぶち込んだ。慈悲のかけらもない。おもしろがってゲームでもするような感覚で人を標的に撃った。「ひどい!」と言っても通じない。人は平和をという、ところが人間の本性には残忍さが潜んでいる、戦争になれば人は誰でも悪魔になる。「浅ましき哉、人類よ。猿の親戚よ」(長谷川信少尉『きけわだつみのこえ』)
「湯の花トンネル列車銃撃事件」は前から知っている。これに取材した「中央本線四一九列車」(斎藤勉著 のんぷる社)はだいぶ前に買って持っていた。
戦後75年を迎える。書こうと思ったのは、「戦争と汽車」の話である。「戦争と飛行機」の話は数多い。が、戦争に関わる汽車の話はあまり話題にはならない。
戦争中における汽車の働きは人員や物資輸送が中心だった。下働きに徹したのが汽車である。飛行機は特攻に行った、が、汽車は特攻に行かなかった。人は晴れ舞台で活躍した飛行機の話を好んだ。兵員を運んだり、食糧を輸送したりする地味な汽車の話は好まない。
「戦争と飛行機」は派手だ、「戦争と汽車」には花がない。憐れである。もの悲しい話ばかりだ。今日は8月15日だ。思い出す話がある。
海軍第十四期飛行予備学生手塚久四さんの証言である。
千歳海軍航空隊でゼロ戦での特攻訓練を終えた十一名がいた。この隊長が手塚さんだ。特攻機で出撃を命じられた。が、飛行機はなく出撃基地の四国観音寺までは汽車だ。
8月13日夜、航空隊全員の「帽振れ」に見送られて駅から汽車に乗った。が、津軽海峡は潜水艦での襲撃を恐れ動いていない。徴用船で青森に渡った。そして十四日夜に仙台に着いた。空襲を受けた仙台では野宿だった。翌日十五日、駅長から重大放送がお昼にあると聞いた。
「天皇の言葉は初めて聞いて、しかも言葉が漢文調でわかりにくいし、一体どういうことなんだと思っていたんですけど、途中で、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かむと欲すとあったんで、ああ、これは戦争をやめたんだと思ったんですよ」
「私達は、死ぬつもりで出かけていますからね。今考えてもぞっとしますね。もう呆然自失なんてことばでは言い表せない。天と地がひっくり返ったようなもんですからね。なんかね、真っ直ぐ立っているのが苦しいくらいでした……、私の判断で原隊の谷田部海軍航空隊へ戻りました。すると隊長が『ご苦労じゃった』と……」
続きを読む
2020年08月13日
下北沢X物語(4064)―日本鉄道文学史物語(6)―

(一)「鉄道は一大芸術である」と謳った時代があった。昭和47年に刊行された「鉄道100年・文学と随筆撰集『汽笛一声』」はその所産物である。トップ散文作品は、志賀直哉「網走まで」、芥川龍之介「蜜柑」、中野重治「汽車の罐焚き」である。いずれもが鉄道を舞台とした小説だ。この中野重治作品の蒸気機関車の激走場面は圧巻である。彼の作品では「しらなみ」も有名だ。難所親知らずを行く機関車を描いた詩だ。高校の国語の教科書に載っていて多くが慣れ親しんでいる。鉄道への関心の深さは容易に想像できた。それで下調べをしたことがある。中野重治全集全28巻、目次調べから始まる。全集点検は必須だ。これで傾向が分かる、汽車に乗ったら窓辺を見ている人、思索にふけっている人の区別がつく。中野重治は後者、書斎派だ。鉄道を舞台とした作品は多くはなかった。
中野重治の「歌」という詩はよく知られている。「お前は歌ふな/お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな/風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな」で始まる。汽車で言えば、別れが描かれる。情緒に流されやすい。
ところが中野重治の場合は、汽車は「数学」として描かれる。「歌」の後に「機関車」という詩が出てくる。
彼は巨大な図体を持ち
黒い千貫の重量を持つ
彼の身体の各部はことごとく測定されてあり
彼の導管と車輪と無数のねじとは隈無く磨かれてある
中野重治全集 第一巻 「詩集」より 筑摩書房 一九七八年刊
これを読むといつもD51を思い起こす。散歩区域にこれが置いてある公園がある。家の前の呑川緑道をひたすら川に沿って下る。すると東調布公園に行き着く。ここにD51428号が静態保存されている。
いつ見ても深い感銘を受ける、とにかく大きいことだ。よくもこんなに大きくて重い機関車を動かしていたものだと思う。つい半世紀ほど前は現役で動いていた。
蒸気機関車の活躍といえば伯備線のD51三重連がある。D51428の来歴を見るとなんとこの三重連の一台として活躍していたという。
東調布公園の機関車の運転台に乗って目をつぶる。すると、シュワシュワという音が断続的に聞こえてくる。これは公園のすぐ南を走る新幹線の音だ。これは風情も何もない。
が、中野重治の機関車からは懐かしい音が聞こえてくる。
続きを読む
2020年08月12日
下北沢X物語(4063)―戦争の記録・根津山の防空壕―

(一)味わい深い文章に出会った。/父がこの梅丘に歯科医院を開業したのは昭和10(一九三五)年五月でした。家から梅丘駅までは、ぽつぽつ家が建ちはじめていましたね。その頃は診療室の窓から、代田八幡神社の森がよく見えたのですよ。子どもの頃梅ヶ丘駅に向かう茶色の電車が森の中から出てくるのを見るため、ずっと窓際に立って待っていたもんです。電車は一両でしたよ。根津山は子どもたちの絶好な遊び場でした。クヌギ、ナラ、カシの木など雑木林と笹が生い茂り、武蔵野のおもかげが残っていました。
電車好きの少年は世田谷中原駅を出たタイフォン、「プワン」の音を聞きつけた。彼は診察室の窓辺に寄っていく。土手の向こうにはこんもりと茂った代田八幡宮の杜が見える。その木陰から一両の電車はぬっと現れる、リベットを打ち込んだがっしりした茶色の電車だ、ここからが見ものだ、電車は25パーミルの急坂を一気に駆け下りていく。デゴロンデゴロンという音を立てながらだ……その様が少年の心をときめかせた。
「わが町梅丘」という冊子に収められた文章だ。奥付には「発行 平成十五年三月三十一日、編集発行人梅丘一丁目町会長 中村元之」とある。先の引用は鈴木壽さん(七三歳)のものだ。この文章の二段落目に根津山の防空壕のことが出てくる。
戦時中は町内会総出で、防空壕を掘ったのですよ。戦争末期の昭和二十年五月二十五日アメリカ軍の空襲で、梅丘を狙った焼夷弾が西からの強風にあおられ、そのほとんどが根津山方面に流れたおかげで町の大部分は焼失を免れたんですよ。しかし梅ヶ丘駅周辺の一部や商店や住宅は焼けました。罹災された方々はほんとうにお気の毒でした。焼け跡をみても、もし風向きが変わっていたら大惨事になっていたと思います。町が助かったのは軌跡だった。そのときの感激は脳裏に焼き付いています。
昭和十九年七月七日、サイパンは陥落した。絶対国防圏の要にあったこの島が敵の手に落ちた。即座に想定されたのは空襲だ、敵の大型爆撃機が島の滑走路を使うようになると本土は敵機に狙い撃ちされる。学童集団疎開が始まったのもサイパン陥落が大きく影響している。東京が空襲される。根津山に防空壕が作られたのもこれがきっかけだったろう。
続きを読む
2020年08月10日
下北沢X物語(4062)―戦後75年・根津山の防空壕―

(一)「目をはなせば櫟に菫また隠る」という句には、「附近の根津山は櫟美しき山なり」と言う詞書きがある。根津山を詠った中村汀女の句である。今は羽根木公園、「外のもにも出よ」と言う彼女の句碑が建っている。戦時中ここに防空壕があった。このところ、朝ドラ「エール」で話題になっている古関裕而もこれに触れている。自宅から百五十メートルぐらいのところに根津山の防空壕があって自分の子供を避難させたと。ここの防空壕については色々な噂はあった。軍関係の手によるものゆえに頑丈に作ってあった、戦後は空襲で家を失った人が住んでいたとか……根津山の防空壕の記録は少ない。それを紹介する。
根津山には雑木林があってとても美しかった。これは『昔の代田』を書いた故今津博さんも書いておられる。
昭和七年の春桜もちらほら散りだし、からりと晴れあがった昼頃、家族と六郎次山(根津山)に散歩に出掛けた。学校は第三荏原尋常小学校(今の東大原小学校)なので、途中にある里山、守山は馴染みがあったが、六郎次山の方は初めてである。雑木林は芽吹き始めた頃で、山の上からの南西方向の見通しはよい。
今津さんは昭和六年に代田に引っ越してきた。その時の印象だ、「僕はこんな田舎に住むの!」と思ったと。防空壕のことはやはり今津さん『昔の代田』で触れておられる。
戦時中現在の図書館裏の斜面に、付近住民の手で掘られた横穴式防空壕の埋め戻しを行う等の里山部分の整地作業を行っていた。
図書館は梅丘図書館である。この裏手に「横穴式防空壕」があった。これは確かだ。
昭和二十年五月二十五日当地が焼夷弾攻撃を受けた。この時に代田二の七二八番地に住んでいた杉山杜美子さんは果敢に戦った。そして火を消し止めた。その時のことをこう書いている。
静まり返った焼け跡のあちこちに遠く近く立ち昇る薄煙が幽霊のようであった。近所の人たちの姿はどこにも見えなかった。すぐ近くの根津山の横穴式防空壕にみんな待避したのだろうか。 東京大空襲・戦災誌第2巻 東京空襲を記録する会 1975年刊
隣組同士での約束があったのだろう。何かあったときは「根津山の横穴式防空壕に待避しよう」と。
続きを読む
2020年08月09日
下北沢X物語(4061)―戦後75年の夏、コロナ禍の夏―

(一)今年は特別な夏だ、コロナ禍で迎える夏、戦後七十五年を迎える夏。戦災誌にこういう記述があった。「私達は日本が敗戦に一歩一歩近づいて行くのも知らされず、ただ大本営発表というものだけが唯一の戦況を知る機関であった。五月二十五日から敗戦の日までよいことはなかった。あの日、八月十五日の敗戦の日、負けたことより、今日から空襲がないというそのことだけでも身も心も洗われるような気がした」、世田谷赤堤で山手空襲に遭った斎藤嵯峨子さんの証言だ。山手空襲によって首都は壊滅し米国は東京を空襲リストから外した。実質的な敗北だ。七月二十六日に「ポツダム宣言」が出される。が、日本側はどう負けるかにこだわった。そうしている間に八月六日、九日に原爆を投下され、ようやく十五日の敗戦となった。敗北は決定的だったのにメンツにこだわって何十万という日本国民を殺してしまう結果となった。徹底抗戦を唱えたのは軍部だ。
戦争になると指導部はメチャクチャなことを言い出す。忘れられない言葉がある。
「敵が上陸してきたら竹やりで殺せ、竹やりがなかったら金玉を蹴り上げろ!」
終戦末期、決戦を想定して陸軍の上官が部下に言ったという。軍人たちは狂っていたという他はない。ガバナンスが崩壊していた。
これまで多くの人々から戦争の話を聞いてきた。折々に「日本は敗戦の総括をしていない」とのことを聞いた。あの戦争はどうだったのか?……
これまで戦争に関わる資料を多く見てきた。偶然にみつかった手紙があった。
世田谷区代沢国民学校の六年生の立川裕子さんの手紙だ。昭和二十一年一月六日に木村みどりさん宛てに書いたものだ。
木村さん、戦は負けたけれど私達は力をおとさないで私達がおとなになったころ父や母の後を継いで科学をもっともっとすすめなくてはなりません。
日本は科学がおくれてゐたのとあまり日本の人がゆだんしてゐたからだと思ひました。
戦争への反省だ、一点目は科学が遅れていたこと、二点目は油断していたことだという。
小学六年生の分析力は大したものだ。この彼女、鉛筆部隊の一員だった。
書いて書いて書きまくったことで分析力も向上していた。
続きを読む
2020年08月07日
下北沢X物語(4060)―奇縁因縁75年目の原爆忌2―

(一)昨日の『NEWS23』を観て思った、藤井照子さんは私と出会ったことがきっかけとなって原爆製造に関わった科学者ハロルド・アグニュー博士と対峙したと。15年前の映像だが人間の歴史記録として重要だ。一つは戦争の本質を衝いている、人間は人間性を持っていると信じて居る。が、戦争になれば人間は人間でなくなるということだ。二つ目は、加害者と被害者の原爆観がまるで違っていることだ。加害者は戦争を仕掛けた日本がいけない、「Remember PearlHarbor!」と、一方被害者は無差別に大量に殺戮する原爆を使用したのは許せない、原爆での犠牲者は今も安らかに眠れない、だから謝ってほしいと言ったが、博士は、「私は謝らない。彼が謝るべきだ」と拒絶した。核を巡る問題は今頓挫している、「核の傘」に入ってのうのうとしている日本は「核兵器禁止条約」背を向けている。あんなに惨たらしい核を経験しながらよくも平気でいられるものだ。
被爆経験は風化している。被爆者が高齢化して核被害の惨さを知っている人がどんどんいなくなっている。昨日は、女優の綾瀬はるかが被爆経験者を訪ねる場面があった。その中で被爆経験は語りたくないと言っていた人がいた。「あんな地獄絵を思い出していたら参ってしまう」と。
原爆を語らないで死んでいった人の方がはるかに多い。
「父は、被爆者だったのですが被爆経験のことは一言も語らずに亡くなりました」
ある人から聞いた話だ。語ろうにも語れなかった。
「私も、ずっと話したことが無かったのですよ。思い出すと怖くて怖くて寝られなくなるのですよ。だから何十年も黙っていましたよ」
広島電鉄家政女学校に在籍していた新谷ヨシ子さんはそう言って話してくれた。
「鈴峯の避難先からトラックに乗って電鉄本社の片付けにいったのですよ。荷台から見る景色はまるで地獄でしたよ。通りの角角に髑髏が並べられているのですよ。それはいつまでもいつまでも忘れられない光景でしたね……」
昨日の放送を観て科学の冷酷さを思った。
米軍側は原爆を投下するに当たっては、投下都市を絞り込んでいた。長崎、小倉、広島、新潟の四都市だ。昭和20年、B29は全国の諸都市を焼夷弾で焼き払った。が、候補都市だけは爆弾を落とさなかった。理由は、まっさらな都市に原爆を落としてその効果がいかなるものかを確かめるためであると。
生きた人間を実験に使うという冷徹、冷酷きわまりない手法だ。科学者の良心とかそういうものは存在しなかった。
続きを読む
2020年08月06日
下北沢X物語(4059)―奇縁因縁75年目の原爆忌―

(一)原爆製造に関わった科学者と被爆者の対峙、種を播いたのは自分だ。まず一通の葉書をいただいた「6日TBSのNEWS23で母が十五年前に出演したテレビ番組の再放送があります」と。差出人は新川真理子さん。母というのは藤井照子さん。彼女は戦時中広島電鉄家政女学校の女生徒で電車運転中に被爆した人だ。彼女に取材して「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を書いた。刊行前の1999年8月5日に読売新聞夕刊3面のトップ記事にスクープとして報道された。反響は大きく英字新聞にも載って英国のデレクターが面会に来た。DQを撮りたいと。これは「皇国少女」として完成した。BBCがこれをもとに番組を作り、さらにTBSがBBCと「戦後60年特別企画」として「ヒロシマ」を共同制作した。これは2005年8月5日3時間に亘って放送された。藤井さんはいずれのにも出演し中でも「戦後60年特別企画」では圧巻だった。彼女がマンハッタン計画に加わった科学者と直接対峙して「原爆投下」への謝罪を要求した。今日はその再放送をするらしい。文化探訪を続けてきての奇縁因縁でもある。
この経緯について知る者はいない。新川さんの葉書には、「TBSニュース23 8月6日 綾瀬はるかのコーナー」とある。ネットにはこの放送の予告が出ている。
綾瀬はるか、高校生とともに考える「原爆」そして「戦争」
『NEWS23』特別企画に出演
藤井さんは私と出会って以後、ヒロシマの語り部となった。高校生に自分の経験を語って聞かせていた。が、その彼女も2014年7月86歳で亡くなってしまった。
彼女は言葉の立つ人だった。よく手紙をもらった。彼女は8月6日電車を運転し広島駅前に着いたときに被爆した。そのときのことをこう書いている。
被爆直後車掌さんと電車の外に出た時まだ暗闇でした。その時どこからか「伏せ!」という男の声がして今のは爆弾だったのだと思い本当に驚きました。次第に明るくなるにつれ辺りの街並は一瞬にして変わり果て、恐ろしくなりました。丸で地獄絵さながらでした。でもそんな時、私は自分が今まで頭につけていた鉢巻きが無いことに気づき急いで車内に引き返してみたのです。すると座席に爆風の砂に埋もれた白い鉢巻きを見つけたときにはああ良かった……何か私が助かったという気持ちでしっかりしなくてはとそれからは冷静に行動することができたような気持ちがしました。そのお話をしましたおりに先生は「ああ、鉢巻きが命だったのですね」とおっしゃってくださいました。
先生ご自身が体験なさっておられないのに当時の様子を偲んでおっしゃったそのお言葉に先生は私の気持ちをよく判ってくださると感じまして感動してこみあげてくるものがあり涙があふれそうなのでぐっと我慢しました。
続きを読む
2020年08月04日
下北沢X物語(4058)―日本鉄道文学史物語(5)―

(一)自身汽車好きだ、新幹線開業前、鴨宮まで試験走行を見に行った、高速で走る電車に驚いた、つい二三年前、山梨のリニア実験線でこれを見た。これは瞬時に消え去った。鉄道の高速化に目を瞠った。が、はっきりと分かったことは鉄道は風景ではなくなったということだ。一瞬にして過ぎる汽車に風情も詩情もない。鉄道の情趣を書かせたらこの人の右に出る人はいない、それは内田百�里澄△修糧爐�「そんなに速く走ってもしょうがない」と言ったという。目に留まらなければ描きようがない。鉄道の高速化は文学の範疇からの逸脱を意味する。明治以来続いていた鉄道の情趣や情緒はもうここに来て極まった。鉄道文学は今日近代において終焉を迎えた。滅び去った文学である。ゆえに日本鉄道文学史は記録として必要である。文化史としても重要だ。
山頭火の句に「夏山のトンネルからなんとながいながい汽車」というのがある。路傍に腰を下ろした俳人は風景を眺めていた。と、音がしてトンネルから汽車が出てた。トンネルから次々に列車がはき出されてくる。
風景としての面白さがあってこの句を詠んだ。この場合、新幹線やリニアだっらどうだろうと思う。リニアだと目にもとまらぬ速さで消えてしまう。リニアの実験線ではこれを撮るために大勢の人々がカメラを構えていた。このとき私はそれを無益なことに思った。
山頭火にはこんな汽車句がある。
汽車が通れば蓬つむ手をいっせいにあげ
線路脇の土手でおばさんたちが蓬を摘んでいる。そこに汽車が通り掛かる、彼女らは作業をやめて汽車に目を向けた。
汽車は都会の臭いを運んでくる。見知らぬイケメンが窓辺に顔を覗かせるかもしれない。気持ちとして華やいだ雰囲気になる。
汽車とどろけば鴉散る銀杏真裸なり
秋のことだ、汽車が轟音を立ててやってくる。驚いて鴉は四散した、風圧にあおられて銀杏の紅葉が散って樹は真っ裸になった。
続きを読む
2020年08月03日
下北沢X物語(4057)―日本鉄道文学史物語(4)―

(一)文学作品から鉄道場面を掘り起こして鑑賞する、文学から鉄分を抽出する作業は楽しい。経験から分かってくることがある。汽車好きの作家は作品に鉄分が多く含まれる。とはいうものの汽車への関心が深くても鉄分が少ないという場合がある、例えば「桑名の夜は暗かつた/蛙がコロコロ鳴いてゐた」と詠んだのは中原中也だ。「桑名の駅」は面白い。残念ながら若くして亡くなっている故に材料は少ない、石川啄木も同じだ。「雨に濡れし 夜汽車の窓に 映りたる 山間の町」は汽車秀歌だ、彼も26歳で逝去していて鉄分作品は少ない。詩歌系統では種田山頭火も興味深い。ところが彼は汽車派ではなく歩行派である、作品を眺めみると汽車を大いに意識しながら旅をしている。却ってそこに興味が惹かれる。汽車存在と種田山頭火は鉄道の文学の楽しい課題だ。
幸田露伴は、「旅行の今昔」(「新聲」明治39年(1906)8年8月号)で汽車の発達による変化を冗談めかしてこう言う、「芭蕉翁や西行法師なんかも、停車場で見送りの人々や出迎えの人々に、芭蕉翁万歳というような」ことになると。座席に坐ってつくねんと景色を眺めている芭蕉・西行が思われて笑ってしまった。
そんなことから露伴は「風雅がって汽車の線路の傍をポクポク歩くなんぞという事は、ヒネクレ過ぎて狂気じみて居ますから、とても出来る事では有りません」と言う。しかし、現実には、「線路の傍らをポクポク歩く」風雅人がいた。これが種田山頭火だ、やはり文学は自らの足でさすらってこそ生まれる。ここがまた素晴らしい。「炎天にレールまっすぐ」彼の作品だ。線路を脇目に炎天下をポクポクと田舎道を歩く姿が想像される。
ついこれも笑ってしまう。自身のことだ、「炎天に死んだ汽車を見にいく」、今日の炎天を三里ほども歩いてしまった。荏原地域で機関車が静態保存されているところは数カ所ある。よく行くのが東調布公園のD51428だ。世田谷公園には、D51272がある。この間行ったのが入新井西公園C5766だ。それで今日ふと思いついて、大蔵運動公園に置いてあるC5757を見に行こうと思い立った。家からは徒歩だった。案外に遠くて10キロほどあった。
砧公園の向こう側だ、ようやくこの公園を横切って、大蔵運動公園に行くと、「見えた、見えた、恋しい機関車!」息をはずませて小走りに走った。汗が飛び散る、かまわずに走る。そして、カメラを取り出してスイッチを入れる。が、表示、「バッテリーの電気がありません!」
がぁん、引っ繰り返ってしまった。
続きを読む
2020年08月01日
下北沢X物語(4056)―会報第169号:北沢川文化遺産保存の会―

…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第169号
2020年8月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、「梅」にまつわる話 (巻頭エッセイ) 歌人 水谷 晃
「白南風は送梅の風なり。白光にして雲霧昂騰し、時によりて些か小雨を雑ゆ。鬱すれども而も既に輝き、陰湿漸くに霽れて、愈々に孟夏の青空を望む。」とは、若林にも住んでいたことのある北原白秋の歌集「白南風」の序文である。
・半夏生早や近からし桐の葉に今朝ひびく雨を二階にて聴く(「白南風」より)
白秋も梅雨の雨音に耳を傾けていたのだと思うと、今朝の雨音も違って聞こえる。隣家の屋根を打つ厚い伴奏音の中を、庭のアジサイの葉が鳴る軽やかなメロディが流れ、軒から落ちる雨だれのリズムが全体を整える、合奏曲のようでもある。
そろそろ南からの風が夏を告げるはずの時期であるが、今年の梅雨は一向に明けず、しかも雨を降らし続け、人々の日常生活を脅かすまでの長梅雨である。感染症を広げまいと在宅勤務を続けながらも、毎日の通勤という運動機会を失った私は、そんな雨の合間を縫っては、人目を避けるようにして早朝散歩を続けている。
折しも我が家で漬けた梅酒がだんだんと色づき楽しみが増している頃、梅雨に梅酒と言えば梅林ということで、早朝2時間の散歩の途中に梅丘の羽根木公園を訪ねた。梅まつりのころはちょうど新型コロナが流行り始めた時期で人影の少ない中、紅白咲き揃った花達が静かに華やかに私を迎えてくれたものだが、今日の梅林はしっとり雨に濡れて、苔むした木肌が梅本来の渋さを醸し出して良い。
・雨あがり古木の梅の苔衣ふくらみざまに耀きにけり(筆者)
この公園は代田にあるが、ここがかつて世田谷村羽根木の飛び地だったために公園にその名を残しているという。羽根木というのは埴黄が語源で黄色い粘土の意味という説があるが、古い地図を見ると隣の松原に赤羽根の地名もあり、こちらは赤埴つまり赤色の粘土が取れたのであろうか、などと思うのも楽しい。代田に棲みついて二十八年、こんな近隣の歴史と文学を訪ねる楽しみが、北沢川文化遺産保存の会と出会ってから一層楽しくなっている。みんなで普通に集まれる日が来るのを待つばかりだ。 (2020年7月24日)
2、ソシアル・ダンス エッセイスト 葦田 華
戦争に負けて、日本は一挙にアメリカナイズされていった。
私が幼稚園の年長さんの時だから、多分六歳だったのだろう。父方の家は長い中庭を隔てて、表(おもて)の家と裏の家と二軒あった。表の家は若夫婦の一家、裏の家は隠居所で、祖母と独身の若い者が住んでいた。当時裏の家には素晴らしい蓄音機があって、ラジオも聞けたしレコードで美しいバイオリン協奏曲も聴くことができた。 レコードもどっさりあった。子供のくせに、私は裏の家のレコードを聴くのがとても楽しみだった。裏の家では夕飯が済んで夜になると、叔父ちゃん二人、叔母ちゃん二人が互いにパートナーになって、ソシアルダンスを踊るのが常であった。
そんなある晩、「ねえ、今夜は何の曲にする?」と、セツコおばちゃんが言うと「ジルバにすべえ」とハルタカおじちゃんが言う。
「ジルバを踊ると根だが緩むだから、ワルツがいいぞ」と、ヨシタカ叔父ちゃんが言う。
確かに十八畳の居間は、畳がギシギシする箇所があった。
「アタシはねえ、何にしようかなあ?」とカズヨ叔母ちゃんが言った時、炬燵に入って見ていた私が、「タンゴがイイ!」と絶叫した。
叔父ちゃん叔母ちゃん達が一斉にドッと笑い出し、「華がタンゴだってサ、アハハハ、タンゴだってよ!アハハハハ、ちびっこ華がタンゴって言ったよなあ!ワッハッハ」と、大笑いを巻き起こしてしまった。わずか六歳のゴマメが、一人前に「タンゴ!」と叫んだのだから、大の大人達がビックリするやらおかしいやら、だったに違いない。
「ほれ華、炬燵になんか入ってねえで こっちにおいで。」、とハルタカおじちゃんが誘ってくれた。セツコおばちゃんがタンゴをかけた。
♪ツッタッタッタ、タラララッタ♪、
音楽は流れる。 華にタンゴは難しすぎた。
♪ツッタッタッタ、タラララッタ♪、
優しいハルタカおじちゃんが、「カズヨ姉さん、ワルツにして。さあ華、おじちゃんの足の上に華の足を乗せろし。いいかあ、スロー、スロー、クイック、クイック、だぞ。」と、ワルツを教えてくれた。
楽しい夜だった。もう二度と無い、叔父ちゃん叔母ちゃんとの五人の夜。
叔父、叔母、四人ともすでに故人となってしまったからだ。この夜の楽しかったことを知っているのは、華ひとりだけになってしまった。
2020年 コロナ蔓延の 4月12日 葦田 華
3、嗚呼、恐ろしや、戦後75年 きむらけん
この8月15日、戦後七五年を迎える。昭和20年に生まれた人が75歳を迎えるということになる。ああ、恐ろしや、これに自分が当てはまるからだ。言えば、戦争を知らない者がほとんどを占めることになる。自分もその一人だ。
自分自身童話から出発しているが、75年目を迎えて気づくと、戦争をテーマとした作品を7作品も書いてきていた。自身の戦争開眼は長崎原爆資料館で展示を見たことがきっかけだった。中2にときに原爆を知って大きな衝撃を受けた。今も忘れられない。
ところが、戦争体験の希薄化はどうにもならないものだ。玉砕の島、サイパン島、ここをさ迷い歩いた人の話を聞いたことがある。食い物は何とか手に入る。食えるものは何でも食った。ヘビやミミズやネズミ、ひたすら食い物を求めてジャングルをさ迷った。が、手に入らないのは水だ。島ゆえに潮水はどこでも手に入る。が、潮水では生きてはいけない。喉から手が出るほどに欲しいのは真水である。さまよい、さるいた挙げ句、島民から湧水のあるところをこっそりと教えてもらった。
「あんな、うまい水はなかった。喉がとろけるように思った」
彼はジャングルに生き延びた、蛇を食い、虫を食って生き延びた。20年のクリスマスだ、彼ら敗残兵は米軍の残飯を漁った。すると本国から送られてきたプレゼントの箱がそのまま捨ててあった。甘いチョコレートをたらふく食べたという。
生きて帰った人からは何人も話を聞いた。その中に特攻兵もいた。出撃途中に機が動かなくなって不時着したという兵士がいた。知覧から出撃した久貫兼資軍曹だ。彼の言ったことで印象深く今も記憶に残っているのは「特攻は最も安上がりな戦法だった」と。特攻に使用する機は使い古した中古機だ。彼にあてがわれたのは九七式戦闘機だ。昭和15年前後の主力戦闘機であったが性能はだいぶ落ちていた。特攻に出撃するときに機は爆装改修を行う。特攻機用に仕立て挙げるて出撃する。奉天でなだめすかしてようやっと機は動くようになった。この中古機に若者を乗せ、敵艦に命中すれば儲けものである。特攻とはもの悲しい戦法であった。
この頃、防衛ということについて「敵基地攻撃能力」ということが話題になっている。日本が襲われる前に敵基地を攻撃して防御をする、その能力を持つべきか否かという問題である。防衛に関わったベテランたちが議論しているようだが、やっぱりこれを持つべきではないかと提言をするようだ。
報道では、自民党の女性議員グループは、北朝鮮や中国の脅威を踏まえ、専守防衛の考え方のもと、敵の基地を直接破壊できる「敵基地攻撃能力」などを保有するよう河野防衛大臣に提言したという。
戦争による女性の苦しみはいかばかりであったか。よってこの提言には疑問を持つ。戦争はいつでも意地の張り合いだ、向こうが仕掛けてきたからこちらもやり返したのだとどちらも言い張る。が、攻撃を仕掛けたら言い合いで終わるはずがない。敵意や憎しみはやられたらやり返すである。撃ったら撃ち返す。これによって戦争が始まる。そして犠牲になるのはいつも国民や市民である。女子供である。
武器を持ったら使う、欲望を持った人間の性情である、この欲望をどこまで制御できるか、疑わしい。コスタリカは軍隊をやめて教育に力を注ごうと決め、今は地球幸福度ナンバーワンになっている。軍隊を持たないことが大きなアピールとなっている国だ。
戦争をしない。太平洋戦争を経験して我々が勉強したことは戦争が無益であることだ。とくには世界で初めて原爆を経験したことは大きい。あんなに酷いものはない。一瞬にして十数万人を焼き滅ぼしてしまう。悪魔の兵器だ。これは絶対に使ってならない。
国連では、一切の核兵器を使わないようにしようと「核兵器禁止条約」が17年7月7日、122カ国の賛成多数で国連で採択された。核兵器の製造や保有、使用に加え、その援助や使用するとの威嚇も禁止するものだ。が、アメリカの「核の傘」に入っている日本はこの条約に背を向けている。唯一の核被爆国としておかしいと思う。
日本国憲法は、「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と謳う。立派な憲法がある、これを楯にして「我が国は一切の核兵器を持たない、また核を威力とした防衛も一切行わない」という宣言を出す。
核を持たないことが核への抑止力になる。このことを世界に向かって宣言する。国際世論を活用しての「核不所持宣言」をしてほしいものだ。
「敵基地攻撃能力」を持てば、緊張は一層に高まる。むしろ一切の攻撃能力を持たないと宣言して、武器なしで臨む。混迷した世の中、人の潔さは何時の時代にも通ずる。
4、プチ町歩きの案内
コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。先回は東京都の外出自粛要請が出てやむなく中止した。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
*四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。
第160回 9月19日(土) 13時 小田急線・梅丘駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼 朝ドラ「エール」の世田谷代田を歩く
〇コース 未公表。距離は短い。古関裕而と関わりのあった箇所を歩く。雨天実施。
第161回 10月17日(土) 13時 小田急線・世田谷代田駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼 世田谷代田のダイダラボッチを歩く
コース:世田谷代田駅前広場の足跡建設予定地見学→ダイダラボッチの源流(宇田川湯)→出頭山→代田大原境の庚申塔・地蔵尊→ダイダラボッチ跡→旧守山小→駅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。それで先着順十名とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲夏恒例の納涼会はコロナ感染症防止のため中止とした。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



















