2020年11月

2020年11月29日

下北沢X物語(4135)―会報第173号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第173号    
           2020年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、コロナ時代の時間をどう生きるか   きむらけん

�_燭�変だと思いません?過ぎて行く時間にメリハリがなくなった。のっぺりと時が過ぎて行く。これがコロナ時間なのか?……人に聞いてみた、「最近、時間が変じゃない?」「うん、そうそう、刺激がなくなってね、どんどん老化が進むっていう話なの。あのホームとかって面会を制限しているでしょう、入所している人には面会が楽しみだというの、ところが会えないの、おじいさんが育てていた菊が綺麗になったと写真を撮って持っていっても見せられないのね、そうすると外界の刺激がないからどんどん身体が弱るらしいの。それでとうとう酸素呼吸するようになったんだって!」……家族との面会ができなくなると人はよけいに年を取る……メリハリのある時間がいかに大切か!
「あれも大きいよね、軒並みお祭りが中止になったでしょう。秋祭りとかいうのはけじめだよね。わたしなんか出店のお手伝いをするの、年に一回でしょう、人と会うのがたのしみなのね、ちゃんと神様にお参りして、御神輿を見て、なにかおいしいもの食べて……そういうのがなくなったでしょう」
 いわゆる「晴」(ハレ)と「褻」(ケ)である。晴れは、一つの大きなけじめだ。よく働いた自分を、そして家族をねぎらう。おいしいもの食べて祭りを祝う。このときに一年を振り返る。そしてこれからの段取を考える。天候や季節を考えて種を播く、農具や種を用意する。ハレがあってケが生きていた。これが全く無くなった。
「お祭りだけではないね、春のお花見、夏のお盆なんかもそうだわね、あれはそのときそのときでけじめがついていたわね。」
『このつぎの春まで頑張らなくては』
『またおじいちゃん、おばあちゃん、来年のお盆にはくるからね』
「けじめがなくてのべつまくなしに普通の時間が続くと、やっぱり時間にメリハリがなくなるわね」

�▲灰蹈粉鏡�予防、これによって人と人との関わりが無くなった。互いに人を避けるようになった。これは大きい。
 わたしがいう、いわゆる文化探査、その現場まで行って場所を調べる、そして人がいれば話を聞く。これは大事だ。
「この道は品川道の一つだ、ずっと行くと青物横丁に出る。それで野菜なんかはあそこまで持って行ったんだ。もう朝は三時起きだった……途中、品鶴線があった。あそこはね、よく人が飛び込んでいたね、機関車の動輪が赤いものをつけてくるくる回りながら走っていた。なんだろうと思っていると。着物だよ。だれか女子が飛び込んだんだよ。その着物が動輪にひっかかったんだな……いっしょにいたやつがそんなことを話していた……」
 古老、手練れに話を聞くのは大事だ。もう何千人もこんな話を聞いてきた。
 が、今は、古老に話掛けることは一切しない。文献だけの調べで終わる。
 やはり、大事なのは、風や音である、土地土地でこれは違う。
「池上の本門寺の鐘が聞こえていた」
「昔はな、東京湾の汽笛の音がよく聞こえてきたもんだ」
「南風が吹くと、ここらへんまで潮が匂ったもんだ」
 土地土地には逸話があった。が、これも今は消えつつある。今は聞き書きができない。

��コロナ時代の時間をどうわれわれは過ごすか?
 散歩中に擦れ違った人の会話を小耳に挟むことがある。
「お父さん、毎日十時間もテレビを見ちゃだめよ。惚けるばっかりだよ」
 高年齢の閉じこもりが多い。コロナが影響している。テレビ漬けでは老化するばかりだ。
「あのね、循環器の先生から絶対に歩きなさいと言われたの、それで歩いているの」
 立ち話をしている女性の片方が言っていた。やはり、散歩は一番だ。これは薦めたい。
いつも思うのは、「景色は心の栄養である。いい景色をみよ!」と。
 先だって洗足池に行った。知り合いの川口信さんに出会った。
「コロナがあってもうどっこも行かないよ」
「いやあ、この洗足池で十分ですよ。水と緑と鳥がみられるなんてシアワセです。Go-toなんて行く必要はありませんよ。ここの景色は一番ですよ」
 山の景色もいい、富士はベストだがあまりにも景色としては優等生だ。
「丹沢はいいですよ。これはどこからも見られますから、ほら、あれは横に平べったいでしょう。なぜか、ダイダラボッチが腰掛けたからなんですよ」
 遙か太古を想うと気が晴れる。

�ぅ灰蹈併�代の時間をどう生きるか。
 自己の想像力を高めることだ。景色の向こうにある世界を想像する。活字の間に広がる世界を読み解く、散歩中は土地の高低を観察する。
しかし、何と言っても勧めたいのは散歩だ、健康によい、精神によい、散歩は睡眠に食欲に、そして知欲に結びつく、私は、毎日最低一万歩は歩く。

2、戦地からの毛布
エッセイスト 葦田 華
 私が生まれたのは1943年1月1日である。
 私の故郷は山梨で、富士山の北側の山麓にあり、冬、富士から吹き下ろす風の冷たさ
には、凄まじいものがあった。
 母の兄のイサヲ伯父さんは、大学を出て一流の企業に勤めていた。そこへ召集令状が来た。伯父は幹部候補生の試験に合格し、少尉からの出発だったそうだ。父は高等専門学校出で、満鉄の職員だったので一等兵であった。奇しくもイサヲ伯父と父は、同じ隊列で同じ歓呼の声に送られ、親族友人近所の人々が打ちふる日章旗の中を出征していった。

 伯父はまず近衛兵となって東京にとどまったが、父はまっしぐら満州の関東軍に連れ
て行かれた。将校には純毛の毛布が2枚支給されていたそうだが、将校以下は毛布1枚だったそうだ。イサヲ伯父はその貴重な純毛の毛布の1枚を、生まれたばかりの私に、お祝いとして
戦地から送ってきてくれたのだった。カーキ色の軍隊毛布は母の手で赤色に染められ、私のおくるみになったり、子供用のオーバーや、温かいズボンになったりした。
 一等兵の父は、極寒の満州の兵舎で、毛布1枚の眠りだったのだろう。イサヲ伯父もまた毛布1枚で眠ったのかと、私は伯父の自己犠牲の上に築かれた愛情の深さに、心からの感謝と、尊敬の念を持ち続けている。
 イサヲ伯父が出征する時、伯父には帯刀が許されていたそうだ。それで祖母は、自分の結婚式の日に締めた、亀甲模様のくろ繻子で、伯父の軍刀の袋を仕上げ、紫色の打ち紐で括るようにしたのだそうだ。伯父は祖母の愛情が込められた黒繻子の軍刀を持って出征した。すると上官に見咎められて、「貴様、生意気にもこんな物を軍隊に持ち込みやがって!!これは何か!!」と、往復ビンタを数え切れないほど喰らったそうである。
 「良かれと思ってあたしがしたことでさ、イサヲを辛い目に会わせてしまったのさ。」と、後年になって祖母はションボリと述懐した。
 戦争に狩り出されて、後頭部を狙撃され、高いトーチカから落ちて肋骨を全部折り、野戦病院の軍医がランプの明かりで後頭部の弾をえぐり出したのち、廃兵として内地送還になったのは父。
 南方に送られ、飢えと熱暑とマラリアと、樹上から落ちてくる蛭に苦しみ、遂に部下ともどもにイギリス軍の捕虜となった伯父。
 平和な時代になってから「今日はたいしたご馳走も無くて、済まないねえ。でもさ、戦事中に較べればごたいそうなものさね。」と祖母が言うと、いつもはとても優しい伯父が、「おっかさん、戦時中は非常事態なんだ。非常事を基準にして、もの事を計ってはいけないよ。何事も戦争中は異常で狂っていたんだからね!」と、厳しく言ったそうだ。
 一方、父は軍隊を家庭内に持ち込み、布団の畳み方から、引き出しの整理整頓、家財道具のキチッとした片付けに目をひからせていた。朝6時には「全員起床!」の父の雄叫びで家族全員が飛び起きる、軍隊式家庭となってしまった。父が怒ると「いつ、どこで、だれが、だれと、なにをしたのか!!」と怒鳴られた。
 イサヲ伯父さんも父母も、祖父母や叔父叔母達も、全員がもう雲のかなたに去ってしまった。
人生とは長いようで短いものだと痛感する昨今である。

 人生を楽しんでいる人々のしんがりを務めているわれら70代は、次々と次の次元に還るジェネレーションだから、健康管理に余念がない。そんな最中に思いがけないことが起こってしまった。今年1月、中国の武漢に端を発した新型コロナウィルスが、世界中で蔓延しているのだ。
 このウィルスにはワクチンも無ければ特効薬も無いという。ただ、罹患した人の免疫力に頼るしかない、という恐ろしさだ。そして世界中で人々はマスクを付け、石鹸で手洗いをし、保菌者は隔離され、重症者は次々と死んでいく。遺体にはウィルスが生きているので、家族にも会わせず、葬式も許されず、病院から火葬場に直行なのだ。
 先日、コメディアンの“しむらけん”さんが呆気なく亡くなってしまい、私達は新型コロナウィルスの恐ろしさを肌で感じた。
 学校は休校、東京都知事は、「不要、不急の場合以外、外出は自粛せよ」と国民に訴えているが、そうもいかない実情がある。今は、新型コロナウィルスとの第三次世界対戦である。
 これから冬を迎えるアフリカが感染の大爆発を起こすらしい。これらは、2020年の、「ノアの方(はこ)船」かもしれない。葦田 華にはそんな気持ちがしてならないのだ。 2020、4、6。
 


3、プチ町歩きの案内
 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第163回 12月19日(土)13時 集合:渋谷駅南口・稲荷橋広場のエスカレータ下 案内者:梶山公子 「(仮題)渋谷川中流を歩く―『寛永江戸全図』を参考にして」
・今回の町歩きツアーでは、渋谷駅南口から天現寺橋周辺までの約2キロの道程を、開渠の本流、そして昔の支流や分水を確かめながら歩きます。コース:稲荷橋(渋谷ストリーム)―徒歩橋(金王八幡宮の川)―並木橋(鉢山分水)―比丘橋(猿楽分水)―庚申橋(水車)―渋谷橋(道城口分水近傍)−恵比寿橋(いもり川近傍)山下橋―(玉川水車)―天現寺橋(笄川)―狸橋(白金分水)・解散 
*渋谷川の中流部は、陸化した東京湾の中心を古東京川が流れていた約2万年前に骨格が完成し、7千年前の縄文海進前後から流域に人々が住むようになりました。そうした渋谷川の太古の歴史を振り返りつつ、江戸・明治、そして現代への川の移り変わりと人々の生活を考えます。午後1時から3時半頃までの予定です。(規定人数に到達、実施)


〇予告 いずれも集合は13時、各駅改札前 詳細は174号にて
第164回1月16日 落合文士村 案内者 松山信洋 地下鉄東西線・落合駅改札
第165回2月20日 小伝馬町&人形町文学・歴史散歩 案内者 原敏彦 小伝馬町駅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                               
▲11月25日、世田谷代田駅前広場で「ダイダラボッチ」の足跡の墨出しが行われた。来年4月には出来るそうだ。子ども向けの「巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ」を作る。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。年度末になったので会員には会費をお願いしたい。払い込みは散歩の時でもよい。


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2020年11月28日

下北沢X物語(4134)―巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ―

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(一)皆さん、ふしぎには思いませんか?勉強という言葉です。どうしてここに「強」という漢字が使われるのでしょうか?最初の「勉」はわかりますね、努力するという意味です。これはだいじですね、人間、ずっとのんびりしているとなまけ者になってしまいます。そうならないように努力をする、自分を成長させるためには必要です。これもがまんをしてやらないと身につきません。強いてやらないといけないので強がつくのです。しかし、しなければならない勉強はつらいものです。嫌になります。いいですか「嫌がれば嫌になる」、反対に「おもしろがればおもしろくなる」、これが勉強の第一歩です、この世の中おもしろいことだらけです。自分でこれを見つけることから学習は初まります。おもしろいことがないって?そんなことはありません。おもしろいことはそこら中にごろごろ転がっています。皆さん、ダイダラボッチって聞いたことありますか。これってとんでもなくおもしろいものですよ。

ダイダラボッチは、伝説上の巨人です。これがとんでもないことをしでかしたのです。
 ある晩のことです。ダイダラボッチは近江の国、今の滋賀県ですね、ここを通りかかりました。そのときにふと思ったのです、ここを掘ってやろうと、そして土を掘ったのです、掘るとその掘って投げた土はみるみる高くなりました。そうして大きな山ができました。それが富士山なのです。また土を掘ったところには湖ができました。それが琵琶湖なのです。冗談でしょう、信じられない話ですね。ところがおもしろいのですよ。琵琶湖のある近江八幡市と富士のある富士宮市は、夫婦都市となって交流しているんですよ。ダイダラボッチなんてはじめて聞く人もいるかもしれません。ところがこれが私たちの身近なところにいるのです……。

先日、世田谷代田駅前でダイダラボッチ施行の墨出しが行われた。コロナで遅れていた工事が始まる。四月には完成する。ダイダラボッチがここにいよいよ出現することになた。これを聞いて慌てたことだ。

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2020年11月26日

下北沢X物語(4133)―代田ダイダラボッチ墨出し―

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(一)昔の大工仕事はおもしろかった。ねじり鉢巻きのおじさんが横にした柱にカンナを入れる、すると薄い削りくずが宙を舞った。また真っ白な板に墨壺からひっぱった糸を端から端にあてがい、指でそれをはじくと黒い線が一瞬に描かれた。25日、世田谷代田駅前広場で墨出しがあった。ダイダラボッチの大工が足跡の上に糸を張った。「これから墨だしを挙行します」と代表の斎田孝さんが言う、ダイダラボッチが糸を弾く、あらあら不思議、白い線で引かれた足跡がたちまちに出現した。というのは虚構である。駅前広場に白線で描かれた足跡を関係者が集まって確認をした、「足跡はちゃんと富士の嶺を向いています」、これを皆で目視し墨出し行事は終わったことだ。コロナで遅れていた、ダイダラボッチのデビューもやっと近づいた。

(二)
世田谷代田駅前広場にダイダラボッチの足跡が出現する、この春にできあがる予定だった。が、コロナ禍によってこれが延び延びになっていた。やっと工事が始まる、来春には広場開場となる予定だ。

 重要なことは、口承伝承が有形化することだ。すなわち、この土地、代田に長い間、ダイダラボッチ伝説は口伝えで言い継がれてきた。が、近代においてこれを伝えていくことが困難になってきた。人々がダイダラボッチに意義や価値を持たなくなってきたからである。

 ダイダラボッチ、すなわち巨人の足跡だとされていた場は存在していた。そこにはこんこんと清水が湧き出ていた。ここを人々はとても大事にしていた。池畔には弁財天を祀り人々は祈りを捧げていた。この足跡地とされる池は近年まで存在していた。「昭和の始め頃までは、遊び疲れた子供達がその清水で喉を潤していた」(『代田の昔』今津博)という。
「あそこはね東大原小と守山小の境でね、よくそこで泥合戦をしたものだよ。確かにきれいな水が湧いていて飲むことができましたよ」
 土地の古老が教えてくれた。

 ところがここも哀れな最期を迎える。

「ダイダラボッチは昭和三十年に桜ゴムの工場から出た石炭殻で埋め立てられ、住宅地になった」(『代田の昔』今津博)

 形なきものは伝わらない。が、形象化すればこの伝説が生き続ける。世田谷代田の古伝承は残し続けるべきだ。足跡が駅前にできることによって少なくとも人々には伝わっていくはずだ。
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2020年11月25日

下北沢X物語(4132)―下北沢文士町文学TOP TEN5―

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(一)文士町探訪の過程で偶然森茉莉の生声を聞く機会があった。「父の抽出はきちんと整理されていて何がどこにあるかが分かる、けれども私のはメチャクチャなの」というようなことを言っていた。すぐに思い起こしたのは『舞姫』の冒頭、「石炭をばはや積み果てつ」だ。心憎い仕掛けだ。欧州から帰国の途次、サイゴンの港を出るときを描いた。出航すればあの思慕される独逸は更に遠くなる。西欧近代時間から遠ざかる青年の苦悩が象徴的に描かれる。一方、娘の森茉莉は、「ガラクタをアパルトマンに積み果てつ」、父はいままさに出港しようとする船室を描いた。が、「贅沢貧乏」の茉莉の部屋は動かない。動と静では後者が遙かに難しい。が、彼女は「貧寒なアパルトマンの六畳の部屋」を言葉で豪奢な部屋に飾り立てては、幸福に浸る。この彼女の技こそはまさに文学である。

(二)
 今という現実は、人が生きて行く上で奢侈であらねばならないような強迫観念で迫ってくる。豪華な宿泊施設、豪華なお料理、ゴージャスな備品など、「買え、買え、買え」とコマーシャルなどでは吠え立てる。あたかもそこにしか幸福がないことを言う。

 現実に幸福な人間が幸福を感じるとき、その幸福感は、その人間の空想の部分の中に、少なくとも空想の混りあった所に、存在しているのであって、決して現実そのものの中には存在しないのである。正確に、現実の中だけで幸福だ、と言う人があれば、それは遠い祖先の猿から、あまり進歩していない人である。
   「贅沢貧乏」 講談社文芸文庫 1992年刊


 今という現実時間に幸福は存在しない。本当の幸福は空想や想像の中にあるのだ。物が心を満たすわけではない、面白い楽しいと思う気持ちこそが大事なのだと。彼女はこうも言う。

 楽しい空想の為に歩くこと、何かを観ること、これらのこと以外では魔利は動かない。

とても興味深いことだ、自身が満足しているアパルトマンに居ても楽しくはない。楽しい空想をするためには歩くことが大事だという。歩きが脳を刺激し、頭を活性化させる。
大事なことである。身体を動かして変化する風景を見て刺激を受ける。実際、彼女が生きていたとき、淡島や下北沢では多くの人が彼女の姿を見かけている。

 魔利は殆ど毎日のように歩く、淡島から下北沢の駅の先の北沢二丁目の通りまでの繁華な街すじでは、魔利の素性を知っている人がかなり殖えて存在している。

 淡島の倉運荘から下北沢への道はいつも同じコースを彼女は歩いていた。アパルトマンを出て淡島通り沿いを西へ行き、二本目の道を右に曲がる。すると代沢湯がある。この前を真っ直ぐに行く。すると北沢八幡神社にぶつかる。ここで左に曲がる。すると寺院が見えてくる。この辺りを小説の冒頭に彼女は描いた。それは「恋人たちの森」である。

  渋谷から若林の奥へバスで大分入ったところに、北沢という町があり、バス通りの裏側に、寺院の境内や樹立ちが右側に長く続いた小道がある。
 「恋人たちの森」 新潮文庫2004年刊


 寺院は森厳寺である。この境内今は銀杏の紅葉で美しい。ここを右に見て下北沢へと歩いていた。
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2020年11月23日

下北沢X物語(4131)―下北沢文士町文学TOP TEN4―

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(一)森茉莉名場面をキミは知っているか?それは淡島せせらぎ公園側の福寿橋だ。ここを邪宗門で手に入れた「下北沢文士町文化地図」を持った女性がよくうろついている。地図で茉莉の旧居を確認する、「アパルトマンがあそこだからここら辺りだね」と川面を覗き込んでは、「うっふっふ」と笑う。するとだ不思議や不思議、女性に森茉莉が乗り移る。「いっひっひ……ちょうど今は夜更けの十一時四十分だ、この頃だよ、魔利の住む淡島のアパルトマンの前を通行する者は、世にも恐ろしい鬼婆に出会うのだよ、部屋の一室から出て来た女はかさばった新聞紙の包みを大事そうに抱え込んでいる。その女はアパルトマンの前の淡島通りを渡っていく、いっひっひと気色の悪い笑いを浮かべながら右を見、左を見、人が居ないかを確かめる。誰も居ないのを確認すると川の方に歩いて行く、もちろん北沢川に決まっている……。

(二)
「行動を起こす刻限は決まっているのだ。福寿橋たもとでは、ちょうど夜の十一時五十分だ、渋谷発の淡島車庫行きのバスが車庫に着く。『おうらい、おうらい』と男車掌がバック誘導の笛を吹いている。『ピーピッ』と入庫完了の笛が鳴ったとき老婆は、『えぃ!』と大きな新聞紙の包みを川に投げ捨てる。それは何?ぼろ屑屋が、『もうさんざんすり切れるほどまで着たものなんじゃ、よくもまあこんなにボロボロにしたもんだ。お代を払ったっていいくらいの代物じゃ』と噂するほどの上等のスウェータアだ。それを彼女は惜しげもなく北沢川のドブにほおりこむ。『いっひっひ、ここの川底にはとびっきり質の良いスウェータアの類の穴の開いたのが、もうしこたま沈んでいるのじゃ……

 世にまたとないお宝だ、あのロンドンテムズ川の底に沈んでいるという噂のある、髑髏の眼窩すっぽりと嵌まった、女王様の宝石ほどではないが、とびっきりものがいいから、バタ屋の人々は年に一回位は川底を浚ってみるぐらいの価値はあるだろうよ。いっひっひ』」

「いやね、あれほどに『贅沢貧乏』に書かれたのでは、黙っちゃおれないね。バタ屋の名折れだ。それでな仲間の二三人をさそってな、あるとき川に入ったんだ。結構ぬかるんでいてな、その上等のスエーターというのは出てこないんだ。サンダルの片方、注ぎ口の欠けた紅茶急須、どういう訳がリモコンが二個も出て来た。何度かやっているうちに、出て来たよ。アザラシの腐った臭いのするもの、まあ、それが彼女のいう上等のスウェータアだな、いや実は魂胆があってな、『贅沢貧乏に出てくる女王さまの宝石と同じくらいの価値のある、穴の開いた森茉莉のセーター』という宣伝をして、世の森茉莉ファンに売り込む手はずを整えておいた。ネットで告知したところ、全国の女性ファンから『欲しい』との反響があったんだ。ところがな、あまりに臭くてな、それを売り出すどころじゃなかったよ。婆さんに俺等は騙されたんだ」

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2020年11月22日

下北沢X物語(4130)―下北沢文士町文学TOP TEN3―

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(一)間違いなくトップ10に入ってくるのは森茉莉だ。否、ベストスリーに入る。彼女84歳で亡くなった。が、彼女には永久なる色気がある。『贅沢貧乏』で銭湯のことを語っている、「平常行っている代沢湯か北沢湯」と。彼女が住んでいた淡島の倉運荘、代沢ハウスから近いのが代沢湯。最も多く通っていた銭湯である。が、これも潰れた。それでもあるとき湯屋が解体されるとの情報を得た。せめて残り香でも嗅ぎたい。不動産屋に連絡が付き解体寸前の代沢湯へ行った。裏手から入ると男湯の浴槽だ。こちらには用事はない。息を止めて目指したのは女湯である。脱兎の如く脱衣場へ、辿り着いて呼吸をする。すると微かに色香が漂っている。満足満足、と目についたのは備品類だ、籐の脱衣籠もケロリン桶もケロケロ転がっている。麗しき女達がこの籠に何度衣服を脱ぎ捨てたか、何度この桶で身体にお湯を掛けたことか。「籠とか桶って貰ってもいいですか?」と恐る恐る聞いてみた……

(二)
 森茉莉と銭湯の逸話。
 彼女淡島のアパルトマンから下北沢の風月堂に行っては書き物をしていた。そのときにふと一風呂浴びたくなった。

 小谷さくら子の勧めに従って、半日そこで仕事をしたり遊んだりしている風月堂の横の湯に入れば夏は快適というので、石鹸入れとお気に入りのタオルで出かけたのが運のつきである。魔利は近所のお風呂屋の習慣で、女湯は右だという固定観念を持っていたので、右手の下駄箱にサンダルを突っ込み、ガラリと戸を明けて五六歩場内に入った。するとなんとなく様子が変である。脱衣場には人間がいなかったが脱衣籠がガランとしていて、ガラス戸越しに動いている入浴中の人々が、みな黄色く痩せている。次の瞬間番台の上から「ここは違いますよ」
 という声がした。男湯だ。魔利は紅くなり、何も見えなくなって其処を飛び出した。
 『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 1992刊


 小谷さくら子は現在の北沢タウンホールの前に住んでいた。近所の銭湯事情には詳しい。
それで彼女の助言に従って銭湯に行ってみた。ところが行ってみると様子が変だ、異変の一つ「脱衣籠がガランとしている」、籠がスカスカということだろう、二つ目、ガラス戸越しに見える入浴中の人、「みな黄色く痩せている」、彼女薄々気づいてきた、もしや?籠がスカスカというのはおかしい、普段はあふれるほどに籠に脱ぎ捨てた衣服があるはずだ、色物もないし、かつまたガラス越しに見える人が「みな黄色く痩せている」、この形容が見事だ、黄色くて萎びている「ゲッ」、じじい達ではないか?と思ったときにとどめを刺された「ここは違いますよ!」、間違って男湯に入ったのだ。
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2020年11月20日

下北沢X物語(4129)―下北沢文士町文学TOP TEN2―

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(一)「風と光と二十の光」は青春小説であり、告白小説である。冒頭では「私は性来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない」と自身の反骨精神が描かれる。
「凡そ学校の規律に服することができない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だ」という。この点優等生の「坊ちゃん」の向こうを張っている嫌いがある。が、安吾は坊っちゃんと違って生徒の中に入って行っている。「本当に可愛い子供は悪い子の中にいる。子供はみんな可愛いものだが、本当の美しい魂は悪い子が持っているので、あたたかい思いや郷愁を持っている。」経験から得られた認識だ。子供は通り一変にその時期を過ごしても成長しない、苦しんだ子、やむにやまれず嘘をついた子、親から虐げられた子、こんな子がつよさを持っている。牛乳屋の子は毎朝自分で乳を絞って、その牛乳を配達する。そんなことで落第した、が、人の嫌がらないことは全部する。苦しみの中で生きた子は魂がある。

(二)
 彼は真面目ではなかった。

 田舎の中学を追いだされて、東京の不良少年の集る中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司ヶ谷の墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一段歩ほどの草原でねころんでいた。

 雑司ヶ谷墓地はメジャーな墓地だ。夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲など一流の人々が枕を並べて永久の眠りについている。
 偉人にたいしての反目、芥川を憎むとか、�垳�に反発するとか、偉いものに対する反旗、それが囚人墓地ではないか?。メジャーに背を向けるところが囚人墓地。漱石にも背を向ける。そのことから漱石「坊っちゃん」の向こうを張ったと述べた。「坊っちゃん」の裏返しが「風と光と二十の私と」である。

 「親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。」
 小説坊ちゃんで描かれる「坊ちゃん」像だ。

 (代議士であり詩人である)親にも似ずひねくれ者だった。子どもの時から学校をさぼってばかりいた。大人になって「どうしてもここから飛び降りる」と言って蒲田安方町の二階から飛び降りたことがある。そのときは妻の三千代が女中に言ってありったけの蒲団を庭に敷いた。そこに飛び降りて掠り傷の一つも負わなかった。 
 
 安吾の奥さんが坂口三千代だ、その「クラクラ日記」を参考とした
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2020年11月19日

下北沢X物語(4128)―下北沢文士町文学TOP TEN―

文化地図各版そろい踏み
(一)我ら文化発掘を続けて16年目となる。その成果は「下北沢文士町文化地図」だ、最新版は8版である。文士の居住痕跡や生活痕跡を発掘し記録してきた。文学が営まれた場である。これら作品のベストテンを掲げるのも面白い。候補作を思いつくままに列挙してみる。「東京空襲」(一色次郎)、「風と光と二十の私」(坂口安吾)、「睡蓮」(横光利一)、「贅沢貧乏」(森茉莉)、「蕁麻の家」(萩原葉子)、「猫町」(萩原朔太郎)、「代田の亡霊」(安岡章太郎)、「街の座標」(清水博子)、「梯の立つ都市 冥府と永遠の花」(日野啓三)、「駱駝の瘤にまたがって」(三好達治)、「黄金詩編」(吉増剛造)などである。これらをどう価値ずけるのかは難しい。が、常識的に考えられる基準は二つだ、一つは文学性の高さであり、もう一つは地域文化の濃度である。

(二)
坂口安吾作「風と光と二十の私」私らの原点である。2004年12月に我らの会は発足した。代田信濃屋の二階の会議室で立ち上総会を開催した。活動趣旨を発表し、地元民の賛同を得て発足した。地域一帯の眠れる文化を掘り起こそうというものであった。一つ具体的に念頭にあったのが坂口安吾文学碑だ。彼は大正十四年の三月豊山中学を卒業する。そして荏原尋常高等小学校(現・若林小学校)に採用される。

まず入校の挨拶に行った。

私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。

若林小学校は古い学校だ明治4年4月3日に開校している。ここの分校が代沢尋常小学校である。こちらは明治13年1月13日に開校している。こちらは分校ゆえに当時としては格下だったようだ。本校ではとびっきり美しい女教諭が雇われていた。
 小説家なるものこの当たりは腕の見せ所だ。「赴任先の学校に行ったところびっくりするくらいに綺麗な女性がいた」と書かれると読者も想像力をかき立てられる。「女は美しく描くことが大事だ」

 若林小学校は街道筋にある。が、代沢分校は街道の枝道だ。集まってくる学童も本校とは違う。


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2020年11月17日

下北沢X物語(4127)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語17―

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(一)機械近代と特攻隊長に遭遇した少年の物語、青春小説だ。戦争が密接に絡んでくる。「私はとても好奇心が旺盛でしたね。これは子どもの頃からです……」小学校四年の邱垂宇さんは変化に敏感だった。「今度なあ、日本軍がここに飛行場を作るというんだよ」と彼の父親が言う。一帯は砂糖黍畑がどこまでも続く田舎だった。「空から飛行機が飛んでくる」、聞いただけでも嬉しくなってきた。やがて砂糖黍は伐り倒される、少年も作業に動員された。土を掘り、均し、固める。そのうちにロードローラーがやってきて滑走路を踏み固めた。「試験機が来るらしい」と聞いた。興奮で寝られなかった。とある日、爆音を聞きつけた。「飛行機だ!」、空から下りて来た二機は、タッチアンドゴーを繰り返す。「試験飛行だ!」、邱垂宇は直感的に分かった。「行くぞ!」と言って弟の手を引っ張った。飛行場への道を懸命に駆けた。「絶対に見逃すもんか!」。

(二)
「確かあれは百式司令部偵察機だったと思うのです」
 邱垂宇さんと話していて何時も感心するのは飛行機の型に詳しいことだ。

 前に広島で取材をしたときにその女性が電車の形を数字で言っていた。百形、二百形、「最新型は六百五十形でした」などと。不思議だった。が、分かってみれば何のこともない。彼女は戦時中市電を運転していた。常々乗務していると機械の見分けが付く。
 
 邱垂宇さんは軍用機から民間旅客機まで乗りこなしている。昔から飛行機の機種については深い関心を持っていたらしい。
「流線型で綺麗な飛行機でした」
 百司偵は、帝国陸軍の主力戦略偵察機として使用された。気筒のカウルがかっこいい。尾翼がピィンと立っている。

「あれは何回か模擬着陸訓練をしていました。そして何回目かに着地したんですよ、白い埃がパッと散ったのです。車輪がキキッと音を立てました。どきどきしました……」

 邱垂宇さんは、八塊陸軍飛行場で起こったことを数多く証言されている。一番こちらが知りたいのは、何時か、誰か?である。
「一つ一つの逸話はとても記録として大事です。その話がいつ頃だったのか思い出してくだされば助かります」
 証言の中にB25墜落事件のことが書いてあった。誰もがこれを見に行った。
「確かあれは、1920年の6月15日だったと思います。戦後になってアメリカ軍が調査に来ていますから乗務員の名前も分かると思うのです。こちらで調べておきますから……」

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2020年11月16日

下北沢X物語(4126)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語16―

知覧特攻平和会館
(一)台湾から貴重な資料が届いた。中国語で書かれているが漢字である。ゆえに字面を追うとぼんやりと意味が浮かんでくる。題は「桃園八徳機場的回憶」だ、「日本陸軍八塊飛行場を偲ぶ」という意味だ。この飛行場の記録は日本にもない。ここからは32機の特攻機が出撃している。近代戦争史で欠落している台湾と日本の歴史だ。これを残そうとチャレンジしたのは日本語訳だ。まず、原文の一字一字パソコンに入力する。「台湾」は「臺灣」と旧漢字に置き換える。見慣れない漢字も多く作業は捗らない。それでも一段落を入力すると翻訳機にかける。「チウのポイントはリングフィールドです」とわけの分からない訳が出てくる。これを勘で訳をする。悪戦苦闘して自力で全訳した。台湾に送ったところ昨日、台湾の大古老邱垂宇さんから電話があった。「すばらしい!」と、嬉しかった。

(二)
 訳をしていて気づいたのは、スタンスの問題、発信者の意図である。例えば一例だ。

 然而・國軍根本就沒有想好好き運用這些航空器・過了不久・買賣廢鐵的商人就砸碎了所有日本飛機・變成後來台灣市場上的鍋碗瓢盆。

終戦を迎えて日本軍は武装解除させられる。飛行機を接収した国軍はこれを飛行機としては使わない。結局は機体を鉄くずとして商人に売り払い、買った彼らはそれを鍋やフライパンにして売りさばいた。

 台湾人としての立場であれば特にここに感情を持つことはない。しかし、邱垂宇さんにとってはせつないものだった。彼は飛行場が造られた当初から知っている。造成が終わって初めて一番機が飛来する。少年にとっては大事件だった。

「この一番機の飛行を見逃してはなるものか、邱垂宇さんは弟の手を引っ張って懸命に飛行場に走ったでしょう……」
「はははは……」
 邱垂宇さんは笑う。
「いい場面ですよね、飛行場の造成にたずさわりながら、ここにどんな機がくるのかと待っていた、それがやってきたのですからね!」
「あれは文章の中では輸送機と書いたのですが、百式偵察機だったと思うのですよ」
「え!それは驚きです」

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2020年11月14日

下北沢X物語(4125)―大岡山半島縦断また再び:了―

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(一)大岡山半島には『斜陽』の陰がある。冒頭「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、『あ』と幽かすかな叫び声をお挙げになった。」で始まる。が、このお母さま「ひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた」、優雅なしぐさが身についている。没落貴族だが品位を保っている。太宰治の『斜陽』は愛人太田静子の日記を素材としている。この彼女、大岡山半島の一角洗足池池畔に住んでいた。この一帯早くに開けている。明治四十年に書かれた「蛇窪の踏切」、読んで驚いた。冒頭は洗足小池から始まっている。主人公篠原露代は結核を患い洗足池の別荘に住む姉に助力を頼むがけんもほろろ追い返されて帰っていくその途中の「蛇窪踏切」で自殺を図ろうとする。大岡山半島は近代になってすぐに開けた。ゆえに衰亡していくのが早い。

(二)
 交通電車論的観点からしてもおもしろい。荏原南部は南から開けた。大岡山半島の深い切り通しを走る池上線は三両だ。が、半島付け根の東横線都立大だと、8両から10両電車がひっきりなしに行き交っている。池上線とは好対照だ。

 一時、大岡山半島の南部で古老を訪ねて聞き込みをしたことがある。佐藤惣之助の旧居を探し当てるためだ。が、なかなか分からない。

「あのね、昔のことが分からなくなっているのは理由があるんだ。ここら辺、昔から住んでいた人が土地を売り払ってどんどん出ていくんだね……」
答えてくれたのは直井さんだった。当地の地主である。根っからの居住人である。土地を売り払ってよそにいくわけには行かない。が、後から入ってきた人々はこだわりがない。早くに買った分土地は値上がりしている。それを売り払って郊外に行き悠々自適の生活を送っている。ところがどこへ行ったのか皆目分からない。

 そんなときに湘南海岸に行く機会があった。真っ昼間なのに沖には点々とごま粒のような人の頭が見える。サーファーだ。私は幻影を見たように思った。
「定年退職をした雪が谷人士はみなサーファーになったのではないか?」
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2020年11月13日

下北沢X物語(4124)―大岡山半島縦断また再び�掘�

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(一)大岡山半島は細長い舌状台地だ。呑川左岸の崖線は険しい。が、背尾根は細い。ここに都立荏原病院がある。夏にブルーインパルスが医療関係者にエールを送るためのデモンストレーション飛行を行った。そのときにここの上空を飛んだ。コロナ患者の治療を行っている。元々ここは伝染病院であった。半島の背尾根は地形的にも好都合ということでここに置かれたものだ。病院前の背尾根道を行くと道が下る。大岡山半島の先端部に差し掛かる。池雪小があって寺がある。長慶寺だ。境内に興味深いものがある。奉安殿を転用した稲荷社だ。これを知ったときに驚いた。奉安殿は、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。学校にはこれが設置されていて朝夕の登校時、下校時、教職員も生徒もここを通過するときには服装を正してから最敬礼するように定められていた。神聖なものだった。時代変わって池雪小のそれがお狐さまの社に活用されていた。

(二)
大岡山半島は呑川左岸の台地だ、都立大学駅あたりからずっと崖線が末端まで続いている。荏原病院当たりでは眺望のよい宅地として早くに開けたところだ。ここには邸宅がある。13年前、荏原病院の前の道を入ったところに庭に旧国鉄の車掌車があった。驚いたことがある。

 そこは建築家清家清家だった。自宅は機能主義の代表作でもある「私の家」(1954年)であった。この旧国鉄の車掌車「ワフ29500形」は「発作的に買った」という。

車掌車は憧れだった。長い長い貨物の最後尾がこれだった。ワフ、トムとかの色とりどりの貨車が機関車に引かれていく。時に家畜車が通って牛の尻尾が見えたりもした。その後に真っ白な冷凍車。ずんぐりむっくりしたタンク車、それらがカタカタと音を立てていって、両数を数えた。最後尾は「五十五番目!」、これが車掌車だった。ストーブと机があって車掌が執務している。うらやましいと思った。鉄道時代の少年の憧れだった。

 今回行ってみると陰も形もない。が、枕木だけは残っていた。この車掌車は、和歌山県の有田川鉄道公園に移設されている。

 後で分かったが荏原病院近くに佐藤惣之助が住んでいたことを知った。旧住所雪ヶ谷四〇一番地に住んだ、今の東雪谷一丁目一番だ。彼は詩人で作詞家だ。眺望のよいここに居を定めて創作活動にいそしんだ。彼の奥さんは萩原アイ、朔太郎の妹だ。

 佐藤惣之助は昭和十二年に川崎から越してきた。この年に発表されたのは「青い背広で」だ、「青い背広で心も軽く/街へあの娘と行こうじゃないか」、雪が谷の自宅から駅へはとんととんと坂を下る。そのときに発想されたのではないか?

 家の所番地は分かった。ここに住んでいた佐藤惣之助を覚えていないか?近隣をだいぶ聞き回ったが、知っているという人は皆無だった。

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2020年11月11日

下北沢X物語(4123)―大岡山半島縦断また再び�供�

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(一)突然に降って湧いたパンデミック、コロナ禍は世の中を激変させた。大きな変化は人が動かなくなったことだ。航空機、鉄道による移動が極端に落ち込んだ。お盆の帰省時期に空席だらけの新幹線が次々に発車していく姿がテレビに映し出された。乗らないから儲からない、航空も鉄道も大幅な需要の落ち込みで赤字となっている。世界は大きく変わりつつある。都市間交通にも大きな影響を及ぼしてくる。大量輸送の見直しの必要もある。とくにはリニアへの疑問だ。静岡県はこれの工事によって水資源が枯渇する恐れがあるとのことでJR東海のトンネル工事を認めていない。またつい先頃県内の茶農家などが「水の量が減るなどの影響が出かねない」と裁判所に工事差し止めの訴えを起こした。静岡工区区間だけの問題ではない、膨大な量のズリが出る。これの処理や始末をどうするのか。

(二)
 日々の散歩では、工事予定区間をまたいで通る。
「ここはリニア新幹線の予定地ですよね?」
「ええ」
「それについては何か意見はありますか」
「何しろ深いところだからね……」
 いわゆる大深度法に基づいて、地下深くを掘る。地表には影響がないと会社側は言う。が、調布つつじが丘では道路が陥没した。直下でシールドマシンを動かしている。が、「工事との直接因果関係があるか分かりません」と答える。

 大深度法については、JR東海の説明ではこうだった。

 大深度地下は通常の使用されない空間なので、公共の利益となる事業のために使用権を設定しても、通常は保証すべき損失は発生しません。このため、今回施行された法律では事前に補償をおこなうことなく大深度地下に使用権を設定することができることとし、例外的に補償の必要性がある場合は、使用権設定後に、補償が必要と考える土地所有者等から請求を待って補償を行います。

 基本、地下40メートルの地下だから問題が起こることはない。そう言っている。だから「因果関係は不明だ」と弁解している。しかし、現地では建物のひび割れや傾きなどが起こっているという。

今年は台風は少ない。が、襲来する台風は巨大化している。地球温暖化によるものだ。北極の氷が溶けたり、乾燥で山火事が起こったり全地球規模でこれは起こっている。リニア新幹線工事は超巨大土木事業だ、環境破壊はすさまじい。山塊の爆破、ズリ運び、どれをとっても地球温暖化に結びつかないものはない。

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2020年11月10日

下北沢X物語(4122)―大岡山半島縦断また再び―

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(一)目黒柿の木坂辺りを起点として南へ細長い半島状の丘陵が延びている。自身では大岡山半島と呼んでいる。2007年3月16日にやはりここを渉猟し「大岡山半島の民族学」として当ブログに記述した。あれから十三年、時代は大きく変わった、その変貌を見てみようと八日の日に先端部まで徒歩で往復した。めぼしい変化としては、リニア新幹線「東雪が谷非常口工事現場の出現」、「商店街の盛衰」、「清家清家の車掌車喪失」、「武蔵小杉高層ビル群の眺めの出現」などがあった。非常に興味深いのは半島最南端の長慶寺の稲荷社である。戦時遺物だ。寺の隣が池雪小、ここの奉安殿を転用して御真影の代わりにお狐様を祀ってある。戦時中御真影に油揚を献げていた人物がいた。特高警察がこれに目をつけて観察対象となった。奉安殿から稲荷社へ、これも大きな時代の流れである。

(二)
十三年前は「大岡山半島の民族学」という題をつけた記事を書いていた。この半島の中程の西斜面に深く抉られた谷がある、擂鉢山、ダイダラボッチの右足だ、この東側に狢窪がある、これは左足だ。彼はここに突っ立って逸物を出して放尿した。これが溜まったところが洗足池だという伝説がある。

 洗足池は散歩の目的地としてよく行く。周辺の木々の緑と池の湖水、目を寛がせてくれるところだ。この間も知り合いと会った。どこにも行かず毎日ここへ来ていると。
「遠くに行く必要はありませんよ。ここの風光をみると心が落ち着きます。Goto洗足池で十分ですよ……」

 が、ここで心配されていることがある。この池の南手の地下深くをリニア新幹線が通ることになってもう工事は始まっている。この池の近くでは「東雪谷非常口」建設現場がある。住民が心配しているのは工事によって漏水事故が起き、洗足池の水がなくなってしまわないかということだ。

 2018年5月17日にリニア新幹線の工事が始まるということで説明会が行われた。
場所は世田谷区立奥沢小学校だ。
 配られた資料の表題は、「中央新幹線品川〜名古屋間における大深度地下使用の認可申請に対する説明会」とある。

この説明会、リニア新幹線を作るがどうかという説明会ではなかった。リニアの建設工事を始めるに当たって「大震度法」への認可申請をしたい、それに当たっての住民説明会である。これは、すでに2018年10月17日 - 国土交通大臣より認可されている。

この「大深度法」については、最近大きな話題となった。ついこの間、調布市つつじが丘の道が突然陥没した。この真下では外環道建設の工事が行われていた。これも実は、「大深度法」に基づいての工事だ。

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2020年11月08日

下北沢X物語(4121)―山手空襲考:若林麟介証言了―

2月4日 026
(一)「国土が戦場とされ、完膚なきまで徹底的に叩かれた我々日本人は、無条件降伏することによってその代償は大きかったが、今まで気が付かなかった全体主義から脱皮し、言論の自由、自由民主主義を勝ち得ることができた」と若林麟介さんは言う。大激変だ、疎開から帰ってきて学校が始まる、「神風が吹いて日本は勝つ」と軍国主義をたたき込んできた先生、元海軍だった彼はアメリカ兵風のシャツを着て黒板に書いた。「Start Dash!」と書いて発音した、生徒の一人「その変身ぶりにはあきれました」と、変わり身の早さである。自由・民主主義を本当に我々は得たのか、民主主義は長いものに巻かれることではない。絶えざる点検が必要だ。時の総理が「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」、学術会議の名簿に推薦された者をこれによって除外したと。わけの分からない言葉を使って国民を欺きはじめると危ない、どこかで戦争狂乱の神が微笑んでいるかもしれない。民主主義とはまっとうな想像をすることである……

(二)
 証言の続き、最終回だ。彼はこういう。

 逃れることが全く不可能な大都市の原爆被害はまさに犯罪である。人類に許されることではない。その究極の兵器が防衛のためとは云え使用禁止に踏み切れない地球人類の情けなさを嘆く。
 つい先頃、10月24日だ。新聞報道はこう伝える。

核兵器の開発や製造、保有、使用を全面的に禁じる核兵器禁止条約の批准国・地域が24日、条約が発効する条件となっている50に達した。90日後の来年1月22日に条約が発効する。「核なき世界」の実現を求める国際的な声に後押しされ、核兵器を非人道的で違法だとみなす初めての国際条約が動き出す。

しかし、唯一の核被爆国、凄惨、無惨な原爆を体験したこの日本は条約に背をむけている。理由は簡単だ、「アメリカの核の傘に入っていて、これに守られている」からだ。核の存在を許容しているといってよい。
 峠三吉は歌った、


八月六日
あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え


 忘れてはならないことだ。核は人が、人類が持ってはならないものだ。今一つ、核のボタンを押せば人類は破滅する。

 核を一切持たないという平和宣言をしてこれによって自分たちを守る、「永世核放棄国」としての名誉を得たならばいかな国であろうとも核を使ってはこないだろう。全世界の言論を防御の盾とするのである。
 やはり日本は、率先して「核兵器禁止条約」を批准すべきだ。

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2020年11月07日

下北沢X物語(4120)―山手空襲考:若林麟介証言�掘�

円乗院の高野槙
(一)予科練帰りの人から聞いた。「戦後、民主主義って聞いたとき何のことかさっぱり分かりませんでした。その意味は衝撃でした。言い分を言えるということに驚きました。私らのところでは古参兵は絶対でしたから、理由もなく殴られる、蹴られるのは普通でした。見せしめ懲罰は恐ろしかったです、選ばれた者は悲惨でした。木刀で力一杯叩かれるのです。気絶するとオスタップに入れた水をぶっかけて起こし、また叩くのです。もう半殺しです、『なぜ私を標的にするのか?』など聞こうものなら殺されていましたよ。相手に対してなぜそうするのかを聞けるというのは大きなショックでしたよ。今の言葉でいえば説明責任ですね、疑問を問いただして、正しい方向に持って行く、戦後における民主主義というのは腰が抜けるくらいに驚きましたよ……」と。今この民主主義は危機に瀕している……


 若林麟介さんの証言の続きだ。山手空襲に遭った彼は自宅のある代田へ姉を自転車に乗せて青山通りまで来た。

 至る所に市電の架線が垂れ下がっており、それでもレールは続いていたが、勿論一両の電車も見当たらなかった。焼けた都電の車両ばかりの青山車庫の前を通り過ぎ、宮益坂を下り、道玄坂を登って通3丁目かあ右にずれて、淡島方向に向かうバス路線を伝って行った。駒場地区の左側は所々に焼け残ったビルがある以外は、一軒も家は見当たらず、完全な焼け野原と化していた。

  淡島交差点の手前を北沢八幡方面に向かって森の中をつっ走り、代沢小学校近辺まで来ると、幸い下北沢付近は戦災を免れているみたい。最後の坂を上り詰めて代田の丘に着いたら、付近は焼け残っており、嬉しくて嬉しくて急に元気が出た。幸い私の家は無事だった。
 
 私たちが無事が否か心配していた両親のほっとした顔、真っ黒にすすけた私たちの2人の顔、冷たい井戸水で顔を洗い、着替えてから、この付近の昨晩の壮絶な凄まじい戦火の跡のお話を聞いた。

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2020年11月05日

下北沢X物語(4119)―山手空襲考:若林麟介証言�供�

CCI20201105 (2)
(一)戦争末期、日米は総力を挙げて航空戦でしのぎを削る。対乗務員観が根本的に異なる。日本は、「死生一如、死して悠久の大義に生きる」、死んでお国に尽くしてもらいましょう」だ。方や米国は「生きられるだけ生きよ」とB29乗務員の救命バックには釣り針を、戦闘機乗り組み員には鳥打ち銃を持たせた。不時着時、孤島では魚を釣って、山野で鳥を撃って凌げという考えだ。ここには人権観がある。日本人の場合、悠久の大義に生きれば神になるという考え。米国は個々人は命を大切にしろとの考えだ。台湾での例だ「美軍機員被葬在大溪到桃園間的崎山上・大戰結束後・美軍就立即派專人來挖出遺骨送美國」墜落したB-25の乗り組み員調査を実施し遺骨は本国へ。これは日本でも同じだ、B-29墜落機の徹底調査を行い、記録し弔っている。日本では水浸く屍、南海の海に今も霊魂がさ迷うばかり。

山手空襲 若林麟介証言

 東京山の手地区での空襲での被爆は5月25日で、先日爆撃で既に焦土と化していた件に近接した三番町の家にたった一人で取り残されていた姉の助っ人として、泊まりに行った晩であった。その頃私は学生で、茨城県の多賀町の日立製作所多賀工場で勤労動員中であった。が、学校の身体検査での結果、胸の異常が発見され、精密検査のために上京していた。

 家の約50米南側は広い敷地の英国大使館、家の直ぐ北側にはチェリストの橘常貞氏の家や鉄道学校から北側は既に焼け野原、その間に僅かの地域だけが帯状に焼け残っていた。そこへ超低空できたB-29が焼夷弾を落とした。

 B-29が西側から超低空で過ぎ去ると、ザーッと音がして、南側の大鹿医院への直撃弾からまっ赤な火が上がった。私たちの家の裏側に落ちた焼夷弾の火は何とか消し止めたものの、大鹿さんの火は猛烈で、到底手をつけることができず、残念ながら放棄せざるを得なかった。 

 隣の重光外務大臣の家は勿論、英国大使館の直ぐ北側にあった斎藤先生の家、家の向かい側にあったN響きの指揮者尾高久忠氏等の有名人の家も全てが焼失してしまった。回りがすっかり火に囲まれて、何とか逃げ道を探そうとした時、姉に云われて、決死の覚悟で一面火の海を潜り抜け、重光さんとの間に放り出してあった自転車をやっとの思いで助け出すことができたのは幸いだった。

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2020年11月04日

下北沢X物語(4118)―山手空襲考:若林麟介証言―

CCI20201104 (2)
(一)何百人もの戦争経験者と会ってきた、「二度と戦争はするなと」と誰もが言った。が、戦争になってからでは遅い。戦争への芽を摘むことが必須だ。そのためには国家が航路を誤らないように、いちゃもんをつけることだ。国家に文句をつけるやつは重用しない。これは完全に間違っている。学問は科学をものさしとする。政治は恣意的で煽ってくる、竹やりが駄目だったら敵の金玉を蹴り上げろと。話題転換、東京空襲は誰もが知っている。が、1945年5月の山手空襲は知られていない。が、これによって首都は壊滅した。日本は負けたに等しい。白旗を上げてもよい節目だった。しかし、敗戦は後になった、その間に広島・長崎に原爆が投下され、死ななくても良かった人が数多く犠牲になった。

 自身のことだ。頭脳も机も未整理だ。問い合わせがあると慌てる。つい二三日前も平和会館から問い合わせがあった。書類を探すと出てくるのは筋違いのものばかり。それでもひょろっと出てきた「空襲」と題された証言だ。山手空襲のことである。

1945年5月24日、25日にこの地域一帯を襲った大空襲があった。いわゆる山の手空襲と言われるものだ。この空襲は爆撃の規模では東京大空襲を遥かに上回るものだった。焼夷弾投下トン数が3月10日は2000トン、5月24日、25日は、両日で6,900トンだった。敵の狙いは明白だ、東京大空襲は人体を狙った、死者十数万人、山手空襲は首都の中枢を襲った、統治機構を意図的に狙って壊滅させた。その結果、「東京は攻撃のリストから外された」という。ほとんど負けたに等しいが戦争は終わらなかった。

大正十五年生まれで、昭和二年以来、代田二丁目に住んでいるという若林麟介さんと邪宗門で会った。このことは2010年07月12日にブログで話題にしている。もう十年前のことだ。この頃連絡は取っていない。もう94歳になられるはずだ。

 ネットを調べると、若林麟介さん「LPレコードのピックアップとして高性能であったヴァリアブル・リラクタンス型の特許をとられたことで有名な人だった」と。そういうことは知らなかった。彼から以前メールをもらった。

「下北沢X惜別物語」を戴き、興味津々、非常に面白く繰り返し読ませて戴きました。細かい点まで微に入り細を穿って述べてありますので、まるで私の若き時代に逆戻りしたような、昔日の情景が目に浮かび、感慨無量で御座いました。

 自身が書いた「下北沢X惜別物語」が発端だった。彼から多くの話を聞いた。

 戦争中のことでした。若し日本の大動脈の東海道線が不通になった場合の救済策として、陸海軍施設の多い小田急線が取り上げられ、国鉄の車両が入るか否かのテストとして、C58蒸気機関車を使って試験走行するという話を聞きました。これぞとばかりに根津山の線路脇にカメラの三脚を構えて、今の鉄道マニアにそっくり、撮影禁止の条例なんのその、その通過を待ち望んだことがあります。しかし残念ながらその目的は達成されませんでした。と云うのは、後で聞いた話ですが、直前、空襲警報が発令されたので、予定を変更し、経堂で折り返ししてしまったことでした。
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2020年11月02日

下北沢X物語(4117)―コロナ時代の時間をどう生きるか?―

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(一)何か変だと思いません?過ぎて行く時間にメリハリがなくなった。のっぺりと時が過ぎて行く。これコロナ時間なのか?……人に聞いてみた、「最近、時間が変じゃない?」「うん、そうそう、刺激がなくなってね、どんどん老化が進むっていう話なの。あのホームとかって面会を制限しているでしょう、入所している人には面会が楽しみだというの、ところが会えないの、おじいさんが育てていた菊が綺麗になったと写真を撮って持っていっても見せられないのね、そうすると外界の刺激がないからどんどん身体が弱るらしいの。それでとうとう酸素呼吸するようになったんだって!」……家族との面会ができなくなると人はよけいに年を取る……メリハリのある時間がいかに大切か!

「あれも大きいよね、軒並みお祭りが中止になったでしょう。秋祭りとかいうのはけじめだよね。わたしなんか出店のお手伝いをするの、年に一回でしょう、人と会うのがたのしみなのね、ちゃんと神様にお参りして、御神輿を見て、なにかおいしいもの食べて……そういうのがなくなったでしょう」

 いわゆる「晴」(ハレ)と「褻」(ケ)である。晴れは、一つの大きなけじめだ。よく働いた自分を、そして家族をねぎらう。おいしいもの食べて祭りを祝う。このときに一年を振り返る。そしてこれからの段取を考える。天候や季節を考えて種を播く、農具や種を用意する。ハレがあってケが生きていた。これが全く無くなった。

「お祭りだけではないね、春のお花見、夏のお盆なんかもそうだわね、あれはそのときそのときでけじめがついていたわね。」
『このつぎの春まで頑張らなくては』
『またおじいちゃん、おばあちゃん、来年のお盆にはくるからね』

「けじめがなくてのべつまくなしに普通の時間が続くと、やっぱり時間にメリハリがなくなるわね」

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2020年11月01日

下北沢X物語(4116)―会報第172号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第172号    
           2020年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、谷畑のダイダラボッチは池渕か? きむらけん

 「武蔵の巨人民譚」(雑誌 武蔵野第二巻第三号 大正八年)に荏原のダイダラボッチがある箇所として世田谷代田の他に「駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもあるよし」と書かれている。この谷畑のダイダラボッチは自身のフィールドワークによってその候補地を探し当てていた。が、大阪の柴田昭彦氏から情報を得た。
  大場磐雄著作集第六巻 記録―考古学史 楽石雑筆(上)」(雄山閣、昭和50年)に次のような記述があると。「鈴木堅次郎氏のダイダラボッチ説」として

 〇矢畑にある巨人伝説地は「池ブチ」というところにて池あるところなりという。

 谷畑のダイダラボッチの在処について言及している文献はこれが初めてだ。
  池渕はダイダラボッチではないか?これは2008年10月15日、下北沢X物語(1188)〜荏原ダイダラボッチ巡礼行2〜で話題にしている。池渕はとても興味深い地であった。

・池渕は、池の縁にある。この池は文化二年の「目黒六ヶ村絵図」にも描かれている。これは「原の清水」と呼ばれていた。ここには「千年杉」が生えていたと「世田谷の河川と用水」には記録されている。そして、宝暦十二年の「衾村の村絵図」にはこの淵に第六天が祀られていた。これも水の神様であるようだ。
・かつて池のあったところは現在「衾町公園」となっている。ここには「衾町公園付近遺跡」があって縄文時代中期の遺跡となっている。縄文時代の竪穴住居跡があって、土器や鏃などが出土している。この一帯が古くからの生活の場であったことが分かる。

1、池としての窪みがあること。
2、池の縁に神が祀ってあったこと
3、すぐ側に縄文中期の遺跡があること
4、千年杉がここにあったこと


 谷畑ダイダラボッチの在処は不明であった。が、池渕が出てきてここが有力視されるようになった。 ただ問題は残る。同じ衾村村内とはいうものの距離が離れている点だ。谷畑という名は今はなくなったがこの地名そのものは当時としては知られていた。地域として広いゆえに、西谷畑、中谷畑、東谷畑と呼んでいた。一方、池渕というのはもっとローカルなもので、はじめ私もこの池渕のことは全く知らなかった。
 谷畑ダイダラボッチ、池渕説、鈴木堅次郎の言葉につい乗ってしまってこのように開陳している次第だ。ゆえに元々考えていた谷畑の凹みをダイダラボッチとする説を完全に否定するものではない。自分自身はずっと自由が丘ダイダラボッチを信じ込んで、何度か人を連れて案内したことがある。
 諸説紛々ということばもある。一つに決めてしまうのではなく、異説を出し合っていけば論点が絞られてくる。谷畑の窪み説、池渕説があってよい。却っておもしろい。その点でこのところ柴田昭彦氏から送られてくる情報はとても大事である。とても助かっている。彼は次のこともメールしてこられた。

 著作集第六巻の15頁に、谷川(昭和3年母方の姓を相続して、大場に改姓)磐雄氏が、大正7年10月に清水窪に行って、農夫に聞いた「スリバチ山」と貉窪の話がありました。これは、磐雄氏自身が自らのフィールドワークで見つけ出した場所ということになります。真新しい情報はありませんが、聞き取りを行なった「清水窪」の土地自体には巨人の足跡がなく、その場所から見て、西向かいの衾大岡山、南方の貉窪に巨人伝承があるというのも興味深いことです。
 
  当地一帯で「清水窪」は、有名だ、すぐ近くの小学校は「清水窪小学校」と名づけられている。洗足池へ流れこむ水流の一つの湧出源で今も大切に保存されている。
 大場磐雄は、大正七年「十月二十六日、清水窪付近に採集にゆき、そこの百姓にいろいろとおもしろきことをきけり」とある。
 大正年間であれば、百姓に聞けばきっと生々しい情報が聞けたろう。が、大岡山には常々行くが過去のことを知る人は今はもうほとんど居ない。
「今でも東工大に時計台ってあるだろう、昔はあそこから何人も学生が飛び降りていたけどね」と証言する人がいた。今は、回りに大きな建物が建って時計台は目立たなくなった。

2、初めてのランドセル

          エッセイスト 葦田 華

 私が小学校の入学を控えていた昭和25年、母はなかなかランドセルを買ってくれなかった。小さいくせに私は業を煮やして「お母さん、ハッちゃんはもうランドセルを持っているよ。「お華のランドセルはいつ買ってくれるのぉ?」と言った。すると母は「あんたにはね、赤い皮のランドセルを背負わせてあげるから、もう少し待っていなさい。東京のイサヲ伯父さんに頼んであるから、もうすぐ着くと思うんだけどねえ。」と言うのだった。こちらも、もうすぐ入学式になるという頃、イサヲ伯父ちゃんから小包が届いた。

 ところが包みの中から出てきたのは赤いランドセルではなくて、可愛いパッチン止めのついた黒い革靴だった。私はキャッキャッと喜び、畳の上で革靴を履いて、歩いたりスキップしたり寝転んでみたりしてはしゃいでいた。「東京でも、革の赤いランドセルは売ってないんですって。」と、母は伯父ちゃんの手紙を読むと、ため息をついた。 母は遠くの方を見てぼんやりしていた。あと数日で入学式だった。

 さて、それから、母は細長い町の下町から中町、上町まで、あらゆる雑貨屋や用品店、カバン屋を尋ね回り、やっとズックのランドセルを買うことが出来た。たった一個売れ残っていたのだそうだ。ベージュ色のランドセルは帆布の布で出来ていて、ハッちゃんのランドセルと同じだった。
私は嬉しくて嬉しくて、跳んではねては姿見でランドセル姿を眺めて喜んでいた。

 さあ、今日が入学式という朝、目が覚めてビックリした。枕元に、見たこともない凄いランドセルが置いてあったからだ。ランドセルのふたに、一面色鮮やかな刺しゅうが施してあった。背景として斜めにススキ、真ん中には黄色い女郎花と紫色のリンドウ、赤いワレモコウ、手前はピンクや赤や黄色の菊の花の図柄であった。

 私は愕然とした。あのまんまで良かったのに、ハッちゃんと同じフツーのランドセルが欲しかったのに、夜中にお母さんが全部刺しゅうをしてしまったんだあ!と、悔しかった。こんな満艦飾のランドセルなんて欲しくなかった!と、実にガッカリした。するといつの間にか母が来て、「どお?綺麗でしょう?お母さんねえ、ゆうべ1時までかかって仕上げたのよ。」と言った。

 私は小さい時から「のろまの華、だけど素直な華」とあだ名で呼ばれるぐらいに、素直だったらしい。母が午前1時までかかって作ってくれたんだ、と思うと、嫌だのオウだのとは言えなかった。「嫌だ!」と言えない性質の私は、その「満艦飾」のランドセルを背負って、ピッカピカの革靴を履いて入学式に出た。
 私の小学校は、小さい城下町にあり、結構なマンモス校であった。上級生が私のランドセルを見てヒソヒソ話しているのや、同級生の女の子達が「ヘェー!?」という奇異の目で私を見るので、いたたまれない気持ちだった。
 式も終り、教科書をいっぱいいれた「満艦飾」で帰宅すると、母だけは至極御満悦で、「こんな素敵なランドセルを背負っている子供は、一人も居なかったわねえ、華!」と言った。私は嫌々ながら「ウン。」と答えた。だがよくしたもので、日にちが経つうちに<満艦飾>の刺しゅうのことなどすっかり忘れていた。だんだん手垢がついて汚れてきたし、クラスメートも、もう慣れっこになったらしかった。

 さて、月日は経ち、三年になっていた。ある暑い土曜日のこと、帰宅するため校庭を歩いていたら、バラバラ!っと大粒の雨が降ってきた。あっという間の凄まじい土砂降りの雨に、広い校庭には身を隠す場所も無かった。遮二無二走って、濡れネズミになって帰宅した。玄関でランドセルを下ろして仰天した。雨に濡れた刺しゅう糸からは染料が滲みだし、「満艦飾」の刺しゅうは全ての色が混じりあっていた。その色はほぼ紫がかった黒に近く、見るも無惨な秋草だったのだ。

 母が刺しゅうをしてくれた昭和25年、敗戦後の日本は貧しくて、粗悪品ばかりであった。刺しゅう糸もその例に漏れず、いいくらかげんの糸だったのだ。私はグチャグチャに色が滲み出て混じりあったランドセルは、見るのも嫌だった。けれど母はそれを乾かして、翌朝には、「しょって行きなさい!」と厳命した。私は悔しかった。
「お母さんが最初にヘンなことをしなければ、ずっとハッちゃんとお揃いだったのにィ」と思ったからだ。でもがまんして、色がめちゃくちゃに混じりあった汚いランドセルを背負って学校へ行った。

 何年生までその汚いランドセルをしょっていたのか覚えていない。かといって、新しいランドセルなんて買ってもらった記憶もない。とにかく、豪華で色とりどりの革のランドセルの宣伝をテレビで見るにつけ、非常に複雑な思い出が甦ってくるのだ。


3、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第162回 11月21日(土) 13時 東急線・多摩川駅改札前集合
 案内者 木村康伸  六郷用水を歩く
コース:多摩川駅→丸子川合流地点→六郷用水復元水路→女堀→鵜の木松山公園→下丸子南北引分→下丸子駅 *注:今年1月、4月に中止となった企画を三度目の正直で11月に実施する。喜多見の次太夫堀の先に当たる六郷用水沿いは史跡の宝庫であり荏原の歴史の縮図でもある。用水沿いを歩きながら、荏原の歴史の物語を紐解いていく。プチ町歩き対応としてコースを短縮し内容を凝縮した。


第163回 12月19日(土)13時 集合:渋谷駅南口・稲荷橋広場のエスカレータ下 案内者:梶山公子
 「(仮題)渋谷川中流を歩く―『寛永江戸全図』を参考にして」

・今回の町歩きツアーでは、渋谷駅南口から天現寺橋周辺までの約2キロの道程を、開渠の本流、そして昔の支流や分水を確かめながら歩きます。コース:稲荷橋(渋谷ストリーム)―徒歩橋(金王八幡宮の川)―並木橋(鉢山分水)―比丘橋(猿楽分水)―庚申橋(水車)―渋谷橋(道城口分水近傍)−恵比寿橋(いもり川近傍)山下橋―(玉川水車)―天現寺橋(笄川)―狸橋(白金分水)・解散 
*渋谷川の中流部は、陸化した東京湾の中心を古東京川が流れていた約2万年前に骨格が完成し、7千年前の縄文海進前後から流域に人々が住むようになりました。そうした渋谷川の太古の歴史を振り返りつつ、江戸・明治、そして現代への川の移り変わりと人々の生活を考えます。午後1時から3時半頃までの予定ですので、よろしくご参加下さい。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲会員の訃報:今井 明氏。9月25日に逝去された。30日に下北沢聖書教会で家族葬が行われた、享年81歳でした。代沢小の卒業生だった。「早稲田大学の考古学の一員で遺跡の測量をされた。カンボジアの世界遺産、アンコールワットの測量も担当された」(聖書協会のしおりから)とのこと。ご冥福をお祈り申し上げます。
▲今年も後二月となりました。いつもは恒例の忘年会を実施していましたが、コロナ感染が収まっていません。納涼会に引き続き、暮れの忘年会も中止することにしました。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は、衾町公園、旧池渕地区)




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