2021年01月

2021年01月31日

下北沢X物語(4176)―会報第175号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第175号    
           2021年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、世田谷の古道を考える             木村 康伸


 古道というと、皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか。
 現代の道路のようにまっすぐに整備された道ではないという印象があるのではないだろうか。たしかに、古道の特徴として、道がくねくねと曲がっていたり、鉤の手に曲がった道筋のあったことが挙げられる。身近なところで言うと、ボロ市通りの旧矢倉沢往還は、今の世田谷中央病院のある角で直角に曲がっていたという。
 このような鉤の手に曲がった道は、敵の軍勢の侵入を容易にさせないための工夫であったと言われる。実際、戦国時代の矢倉沢往還は小田原北条氏にとって軍事上重要な道であったとされている。
 しかし、戦国時代にあっても道は、何も戦のためだけにあったわけではないと思う。人や物資の行き来もあったことだろう。
 戦国時代に世田谷の地を治めた吉良氏は神仏への信仰が篤く、世田谷を中心に多くの寺社を創建、再興、修復したという。このためには多くの木材が必要だったはずである。例えばそれをどうやって世田谷へ運んだのだろうか。
 世田谷吉良氏は、水運に長けた一族であったようである。戦国時代の鎌倉鶴岡八幡宮のことを記録した『快元僧都記』によれば、天文二年(1533)に北条氏綱の行った八幡宮造営にあたり、吉良氏が材木を海上輸送で運んだという。吉良氏の拠点である蒔田から杉田まで水運を利用して運んだ後、人足五万人を使って鶴岡八幡宮まで搬入したというから驚きである。吉良氏には材木の流通をめぐり連携する蒔田氏という同族集団がおり、蒔田、鎌倉、藤沢、木更津を拠点に活躍していたそうだ。
 また、吉良氏は多摩川の両岸を支配下に置いており多摩川の水運を活用していたことが窺える。江戸湾沿いの芝地域も領有し、世田谷とは芝道や立会川でつながっていた。世田谷で必要とした材木は、水運を活用して芝や多摩川で運ばれ、そこから陸上の道を経て世田谷へともたらされたのではないだろうか。
 当時の世田谷には、多くの道があった。先に述べた矢倉沢往還や芝道に加え、六郷田無道、津久井往還、滝坂道(甲州中出道)、堀之内道(鎌倉街道)、凧坂道などである。これらの道が縦横無尽に世田谷を通り、交わっていた。
 それらの交わりや他の地域とのつながり、そして人や物資の往来を考えながら改めて古道を探ってみると、身近な場所の歴史に新たな発見があるのではないか。世田谷の古道を改めて見直してみたとき、そんなことが想われた。
 そこで、いずれ町歩きで、今までとは違った視点から世田谷古道の案内をしたいと考えている。

2、こねこのぴっち
                  エッセイスト 葦田華


 スカートから出た素足がうそ寒く感じる秋、夕飯の片付けのお盆を持って台所に行くと、ガス台の上におはぎぐらいの小さなものが居た。よく見ると子猫だった。夕飯の、焼いた秋刀魚から垂れた油を舐めていたのだ。台所の戸は開けっぱなしになっていたから、外からやって来たのであろう。こんな小さな猫が、一体どこから来たのかしら?と瞬間に思った。愛くるしい瞳をしたトラキジの赤ちゃんで、しっぽはウサギのように丸くなっていた。
私はエプロンにくるんで、急いで子供部屋に入った。妹達が、布団を敷いているところだった。私は口に人差し指を立てて、三人を手招きした。
彼女達は布団の上を這って来て、私のエプロンの中に居る子猫を見た。
すると三女の玉枝が、「アッ!子猫のぴっちだあ!可愛い!」と、素っ頓狂な声を上げた。
「ガス台のね、秋刀魚から垂れた油を舐めていたのよ。どうしよう?」と言うと、三つの黒い頭が一斉に「うちの子にしよう!」と言った。
「でも、お母さんが絶対に許さないよ!」「じゃあお父さんに頼もうよ!」ということになった。母はとにかく、動物というものが大嫌いな人で、猫なんか受け入れてくれる筈がなかった。そっと襖を開けて居間を覗くと、運良く父が一人でラジオを聞きながら書き物をしていた。
 私の合図に三人の妹達も出て来て、父の前に正座した。
「お父さん、この子猫を飼っていいですか?」と私が言うと、三人が一斉に頭を下げて、「お願いします!。」と言った。父はお酒を飲まない限り、ごく普通の優しいお父さんだった。
父は子猫を大きな掌に納めると、「この子猫はまだ歯があんまり生えていないぞ。まだミルクを飲ませないとな。」と言って、「牛乳を買ってきてやりなさい。」とお金をくれた。父は動物好きで、満州では小さな猿を飼っていたと聞いていた。
 その夜はとりあえず子猫にはご飯をお粥にして、秋刀魚の残りをほぐして混ぜてやるとガツガツと食べ、翌日からは牛乳もペチャペチャと良く舐めた。よほど空腹だったらしい。
問題は母だった。猫が嫌いだから私達四人姉妹のなかでも、長女の私にひどく八つ当たりをして、「お母さんは猫の世話なんかしませんよ!華が責任を持ちなさい!」と言った。私は子猫のために忍耐して、「はい、そうします。」と答えた。

 子猫の名前は、四人姉妹の大好きな、ハンス・フィッシャーの<こねこのぴっち>の絵本から取って、<ピッチ>と決めた。
 ピッチはどんどん大きくなり、はたきで掃除をしていると、はたきに飛びついてあっちにジャレこっちにジャレ、中庭からバッタをくわえてきたり、可愛いい盛りになった。妹たちはピッチの奪い合いで、「うるさいわねえ!だから嫌なのよ!」と母に叱られたりしているうちに、ピッチは少しずつ大きくなっていった。そしてピッチはオスだと判った。
 やがてサカリがくると、ピッチは真夜中に帰ってきて、彼のために少しずつ残しておいた四人ぶんのお魚ご飯を、夢中になって食べた。帰ってこない日があって心配したが、サカリのオス猫は遠出をするもので、十日ぐらい帰らないのはザラだ、と、隣りのおばさんに教えられた。それで、だんだん私達も慣れっこになっていった。
どのぐらい子孫を残したのかは、だれにも分からなかったけれども…。
 非常に寒い夜、眠っている私の顔に冷たい息がフッ、フッ!とかかることがしばしばあった。真夜中に外出から帰ってきたピッチが、私の布団に入りたい、という合図だった。
掛け布団を少し開けてやると、冷え切った滑らかな猫の毛が、あごの下からスルスルと足元にゆき、私の足に抱きつく。私は冷え切った猫を足に挟んで、揉み揉みしてやった。
猫は不思議なことに、自己発電でもするのか、朝までには熱々にゃんこになっていて、私の足はポカポカだった。
 ある日ふと気がついたのだが、大きなピッチが毎日台所の茶箪笥の前に、前脚を組んで四角い箱のようになってうずくまっていた。あれ?おとといも居たし、昨日も居たよなあ?と思った。母に聞くと、オカカご飯も数日食べていない、という。
 私は猫の全身を撫でてみた。傷だらけで、その上右目の上に大きなタンコブがあった。
これが原因ではないかと当たりをつけ、風呂敷に包んで抱いて町外れの獣医に急いだ。
獣医といっても、当時は馬や牛の医者しか居なかったが、私は諦めなかった。
 獣医さんは、馬用の長くて太い注射針を持ってくると、ブスリ!とタンコブに刺した。途端にタンコブからドドド!と膿血が出た。獣医さんは「オス猫だからねえ、どこかで喧嘩して爪を立てられ、バイキンが入ったんでしょう。膿さえ出ればすぐに元気になりますよ。」と、事もなげに言った。治療費はとても安くて、私の小遣いで間に合った。

私は16歳の高校2年生。1959年のことだった。

 それから3年経って、私は田舎から東京の大学に進み、2年生の夏休みになったら、突然母が四女の清子を連れて家出してきてしまった。父の許には次女の美智子と三女の玉枝、それにピッチが置き去りになった。
 母の家出は離婚の前哨戦であった。私が中学1年の4月にも、玉枝と清子を連れて家出し、1年近く帰って来ないことがあり、初めてのことではなかった。そして言うに言われぬ苦労の末、両親の離婚が家庭裁判所で決定された。次女の美智子は合格したばかりの県立高校に一週間在籍しただけで、新調のセーラー服を着てリュックと鞄姿、三女の玉枝もリュックを背負って、藤籠を下げて上京して来た。
「ピッチも連れてきたよ!」と玉枝が言い、「猫まで連れて行くのかあ!って、お父さんが泣いたのよ。」と美智子が言った。私には父の心情がよく分かり、非常に辛かった。
 母の借りている家の畳に荷物を下ろし、「さあーピッチ、ここがお新しいお家だよ。」と言うと、母が飛びのいて「どうして猫まで連れて来たのよ!」とえらい剣幕であった。
 藤籠の蓋を開けると、ピッチはしばらくみんなに抱っこされたあと、何を思ったのかタタタタタ!と窓に走り寄り、アッという間もなく外に飛び出してしまった。それっきりピッチは帰って来なかった。そしてそれがピッチとの別れだった。畑のある田舎の土地柄で、ピッチは野良猫の道を選んだのだ。
 秋の夜、我が家のガス台に来たように、彼には彼の意思があったのであろう。
 悲しかったが、しかたがなかった。
「ピッチの人生はピッチのものなんだよ。」と三人の妹達に言って聞かせながら、涙が止まらなかった。ピッチの居なくなった藤籠には、煮干しがひとつ残っていた。
 (2021・1・23)

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3、プチ町歩きの案内
 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。が、緊急事態が出たことから順次計画を先送りにしている。緊急事態は2月7日までとされているがさらに延長されるとのことだ。寒さが感染を広げてもいる。暖かくなれば先行きは見えてくると思う。緊急事態発令中はこの行事を取り止めとする。春三月から街歩きを再開したい。
 それでとりあえず計画をここに挙げておく。次号、176号でも案内をしたい。

第164回3月20日  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館

第165回4月17日 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

■ 編集後記                                  
▲原稿を募集します。会報の質のレベルというのがありますが、かなり知的ではないかと思っています。街のちょっとした記録、また、自分が気づいたことなどぜひ原稿としてお寄せください。文化について、記録について、ずっと自身で記事を書いてきました。この頃では自分で書かなくとも人が書いてくれる、その点、とても助かっています。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
(上、「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」 下、代田駅前のダイダラボッチの足跡)

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2021年01月29日

下北沢X物語(4175)―コロナ禍の町を歩く2―

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(一)「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」は芭蕉の時間観である。
放浪の俳人は諸国を巡り歩いた、多くの人と出会い別れた、得がたい時間だったがそれもたちまちのうちに過去となる。時間もまた旅人だと認識した。俳人が過ごした時間は豊穣であった、充足していてふくよかであった。旅での行き交いはドラマだ、悲しい別れがあったり、嬉しい出会いがあったり、そこには人と人との交渉がある。が、今我々が体験している時間は質量は軽い、めりはりがない。トピックがないのである。いわばのっぺらぼうの時間である。時間はそれぞれの時間に記憶されるトピックがあって時間が時間として認識される。が、今コロナ禍にあって私たちは軽い時間を生きている。時間の有限性を考えれば損をしている。コロナ禍あって時間をどう生きるか?問われている。

 昨日は、コロナ禍における町の変貌を観察しその報告を行った。これに対して「歩く距離と時間が長ければ 感染リスクもそれだけ 多くなる のでは?」との意見が寄せられた。山梨県在住の矢花克己さんからである。これを見て思ったことは山梨県に降り注いでいる集中的な報道降雨だ、とことん東京の話が中心になされていると思った。

 以前、地方に旅行したときのことだ。秋田県の山のいで湯だ、このときにテレビでは日比谷線の脱線衝突事故を延々とやっていた。自身は東京にいない、人気のない温泉に入って寛いでいた。が、どこへ行っても東京が追ってくる。

 日本は東京中心の報道主義だ、毎日午後三時に東京のコロナ感染者数がニュース速報で流される。地方の人にもまんべんなくこれが流される。
『東京は怖いところだ、行くもんじゃない、コロナ菌が町中にあふれているんだよ。空気の中のコロナ菌の濃度が高いというじゃないか……昔は生きた馬の目が抜かれるというとったが今はコロナ菌のシャワーを浴びさせられるんだよ。うちの孫も東京に行っているけど大丈夫かね?……」
 
 コロナ禍報道では東京情報が地方にあふれているに相違ない。コロナ禍によって東京一極集中がいっそうに顕著になっている。
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2021年01月28日

下北沢X物語(4174)―コロナ禍の町を歩く―

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(一)コロナ禍世界を席巻している今朝の新聞は感染者1億人、死者215万人と報じている。日本も例外ではなくなった。東京で、入院・療養等調整中5、353人だ。入院もホテル療養もできないで待機している人だ。待っている間に死亡する例も増えている。医療崩壊寸前というが医療破綻している。誰もが思っているの今病気や怪我をしてはいけないということだ。病院では診てもらえない。不思議なのはそれでも日常の風景は何ら変わらない。外に出ると普通に人が歩いている、テレビのバラエティー番組では出演者が騒ぎまくっている。日常に変化はないのか。今日は観察行を試みる、街に変化は起きていないのか。

(二)
 日常的に見られる顕著な変化はある。散歩区域にタクシー会社が二社ある。何時もだったらほとんどが出払っているのに車庫にはぎっしりと車が停まっている。これと関連するのは病院での光景だ。東京医療センター構内はよく通る。昼頃行くと前庭のロータリーにはタクシーがびっちり止まっている。が、待機タクシーは動かない。
「感染を恐れての受診手控えがあるんだろうね、来院者が減っているから、タクシーに乗る人も減っているんだよ……」

 不要不急の外出はお控えくださいとのこと。が、この呼び掛けは曖昧だ、飲食店営業が終わる八時以降のことかと思ったら日中も守ってほしいとのこと。が、映画館も含めて営業が行われている。デパートへの買い物へは不要不急ではないかと思うが、これはお出かけくださいということのようだ。

 医療破綻、それはすでにトリアージに現れている。ネットでこの語を引くと、各県の公的機関のホームページがヒットする。

トリアージ(triage)とは、医療資源(医療スタッフや医薬品等)が制約される中で、一人でも多くの傷病者に対して最善の治療を行うため、傷病者の緊急度に応じて、搬送や治療の優先順位を決めることをいいます。

「私より若い人に使ってください。私はさんざんに生きてきて八十にもなりましたから」
 テレビでその具体的な場面を報道していた。もっと生きたかっただろうに死を選ばざるを得なくなっている。
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2021年01月26日

下北沢X物語(4173)―下北沢一番街の記憶と記録―

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(一)下北沢一番街、大月菓子店の大月文子さんに多くを教わった。ネットワークの起点である。顔の広い彼女が人と人とを繋いでくれた。一番は今井兼介さんだ、映画プロジューサーの森栄晃さん、飯田勝さんも紹介してくれた。しかし後者二人は物故された。今井さんも入院されているとは聞いている。今井さんからは最も多く教わった。このブログの過去ログには証言が多く残っている。彼の父親は著名な建築家今井兼次である。「今井さんのところに行くとお八つにプリンが出たのです」と。戦前のことだ隣りに住んでいた篠山幸子さんが教えてくれた。彼女は母親に近隣に同じ表札が掛かっていることを不思議に思い母親に聞いたら、「そんなこと聞くな」とたしなめられたと。寓居である、お大尽に囲われて生活している人の家が多かった。一帯の字名は野屋敷、お屋敷町だった。今思い返してみると一つ一つのエピソードの背景が見える。表通りの商店街と裏通りのお屋敷との関係性であったのだなと。

(二)
「私もそこの第三荏原でしたけどね……」
 今井さんは東大原小とは言わない、第三荏原と言った、プライドだ。
「ませていましたね、仲間で同人誌作っていっぱしのこと書いていましたからね」
 彼から聞いた話の中で際立っておもしろかったのが店員道場の話だ。これの図面を引いているのは彼の父親、今井兼次である。彼は街の貴重な記憶を語っている。
(「店員道場」……彼の父親が記した絵日誌には竣工年月が記されている。昭和13年(1938)6月である。)

「わたしの父の今井兼次が設計したのですよ。当時の北沢通商店街商業組合はとても先進的な試みをしていたのです。その中心だったのが玉泉堂という和菓子屋の主人でした。有名な店で宮内庁ご用達になっているほど質のいい菓子を作っていました。彼が組合の理事長をやっていました。その藤野理事長から『店員道場』の設計を頼まれたのですよ。都会に若衆宿を作って本通の商店街の店員を一人前の大人に育てようとしたのですね。そういう先進的な試みに父も意気を感じて協力したんだと思いますね。当時、小田急と帝都線が交差してからこの栄通、本通はどんどん発展していましたから、今と違って勢いがありました。だから、武蔵小山商店街、巣鴨商店街、北沢商店街、これは往時の勢いのあった商店街だと思うのですよ。その三大商店街が豊島園に集まって合同運動会を開いていたんですよ……」 (『下北沢X惜別物語』きむらけん 北沢川文化遺産保存の会 2007年刊)

玉泉堂、当時は有名な和菓子店だった。が、街の記憶から消えている。ネットで引いても当ブログしか引っ掛からない。
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2021年01月25日

下北沢X物語(4172)―特攻因縁と下北沢戦後アルバム―

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(一)因縁の大円環、特攻繋がりだ。かつての取材者秋元佳子さんからコンタクトがあった。彼女は東大原国民学校の疎開学童だった。武揚隊長谷川信少尉と親しく接していたことから疎開時のことを子細に聴き取った。が、彼女の下北沢の家については聴き取って居なかった。この間の電話でようやく分かった。当会では「焼け残った町下北沢戦後アルバム」を作った。これに写っている一番街「宮田家具店」の隣の染め物屋「きくや」が彼女の実家だった。彼女は向かいがおでん屋、古本屋でと語る。語るうちに記憶が刺激される。彼女は思い出を語る。そこに、戦中、戦前の下北沢の街の様子が浮かんでくる。街の背後のお屋敷が街の風格を決定づけていたのだと知った。

(二)
「ちょうど家は道がカーブしているところにあったのでよ」と彼女。
 「下北沢戦後アルバム」では、04「下北沢の商業地区」で見ると宮田家具店あたりから上から下ってきた道がゆるやかにカーブしている。今でもそうだがこの緩やかな傾斜は絵になる。
 アルバムに納められているこの04は最も好きな絵だ。このことは人に何度も言っていた。アルバムではこの写真大きめにして載せている。

「ちょうどこの写真、左手の路地から萩原朔太郎が出てくるのですよ。本通りとぶつかるところで彼は立ち止まって密偵のように左右を伺うのです、安全が確認できてこの道を下ってきたのですよ。着流し姿の彼が浮かんで見えるのです……」
 私の妄念といってもよい。
 しかし、彼女秋元さんは現実を語る。
「道が曲がっているでしょう。そのカーブの始まり辺りにあるものだから、上から水が流れてきてね、うちの方にこれが来てよく浸水していましたよ」
 この話はおもしろい。長谷川信因縁で些細な事実が判明した。
「もともと一番街の通りには川が流れていましたからね」
 一見、通りは高台にあるように見えるが地盤はよくない。ビルを建てるときに水が出て基礎工事が大変だったと聞いた。

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2021年01月23日

下北沢X物語(4171)―特攻台湾因縁大円環―

戦争と平和展:松本博物館
(一)めくるめく因縁物語だ。1945年2月11日、満州新京で特攻四隊が結成された、皆、「誠」がつく、台湾に本拠を置く第八飛行師団の通称号だ、戦況は逼迫してきて翌3月には米軍は沖縄に侵攻して来る。四隊は、敵を迎え撃つ、武剋隊、扶揺隊、蒼龍隊は本土南端九州から直接特攻出撃した。が、武揚隊だけは師団命令によって大陸経由で台湾へ渡る。海も空も敵に落ちた中での渡台は決死行だった。4月12日与那国島近辺でグラマンに遭遇し長谷川信少尉を含む三機が敵の餌食となった。辛うじて台湾に着いたのは十四名のうち三機と八名だった。武揚隊は悲運の隊だ、が、戦後75年、この8月、台湾から一本の電話が入る。少年時代武揚隊隊長山本薫中尉と出会って空に憧れ、ついには空軍に入ってパイロットとなった邱垂宇さん、八十七歳からだ。運命の円環に自分も呑み込まれてしまった。

(二)
「長谷川信少尉はズーズー弁の海老根重信軍曹と西尾勇助軍曹とともに台湾に渡るときに米軍機に撃ち落とされたんですね、段段に分かってくると敵の巣窟に突っ込んだのですね……」
 私は電話で秋元佳子さんに言った。
 彼女によると浅間温泉富貴の湯では長谷川信は温厚な様子だったと言う。しかし時が経って考えてみると浅間滞在がこの武揚隊の運命を決めたのではないかと思う。

「この頃下馬はよく散歩で通るのですよ。大田幸子さんの家のわきは……」
 富貴の湯に東大原小は疎開していたと知ってから元学童をさんざん捜し回った。が、なかなか見つからない。
 これも因縁の円環かもしれぬ、建築家今井健次さんの息子今井兼介さんが教えてくれた。
「隣の家には家賃の控え帳があって中村草田男とか、栗林忠道などのサインがあるそうです」
中村草田男は俳人だ、栗林忠道は、硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官である。これも、つてのつてを辿ってようやくご主人に会うことができた。
『私の妹は東大原小で浅間温泉に疎開していました……』
『えっ!』
 その妹が太田幸子さんである。篠山さんの紹介で彼女に会った。そのときに一番衝撃を受けたのが疎開学童と特攻隊員が一緒に写った写真だ。これは歴史的写真として方々で使われた。(写真は一例だ)

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2021年01月22日

下北沢X物語(4170)―長谷川信少尉の霊魂と下北沢―

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(一)人生とは何か、それは景色の記憶に他ならない。昨日電話があった。「もう私も87歳になりましたよ」と彼女、取材で初めて会ったのは十年前だ、浅間温泉の秘められた歴史を紐解くことになった人、秋元佳子さんだった。とても懐かしく疎開時代に戻って話を交わした。言葉は記憶を蘇らせる、話題は次々に飛ぶ、これが意想外の話になった。ついに「下北沢戦後アルバム」に結びついた。彼女からは疎開時代の話を取材していた。『きけわだつみのこえ』に手記が掲載されている長谷川信少尉と彼女は疎開先で深く接していた。この関係を細かく取材したいた。が、昨日話をしていて欠落していたのは彼女の実家だった。分かったのは戦後アルバムに出てくるのが彼女の家だった。鈴蘭通り、「宮田家具店」の隣りであった。この元主人から秋元さんの実家のことを自分が聞きだしていた。話題は弾みにはずんで、「これやっぱり長谷川信少尉のお陰ね」となった、特攻因縁だ。

(二)
秋元さんが電話してきたのは彼女の家に一冊の本が届いたからだ。『祈りの碑 「きけわだつみのこえ」〜会津の学徒兵 長谷川信の生涯〜』(歴史春秋社 2020年刊)である。著者は長島雄一さんだ、自身、信州特攻四部作の中で長谷川信については度々取り上げていた。伝記を追っていた長島さんはまとめるのを辞めようかと思われたほどだったと。が、彼は上梓した。地元福島では評判になってたちまち改版が出たという。

 その長島さんから秋元さんに本を贈りたいとの要望があって、彼女の住所を知らせていた。早速に本が届いたらしい。

「表紙に長谷川さんの写真が載っているでしょう、これを見て、『ああ、ああ、この人だったと思いましたよ」
 彼女は東大原国民学校の五年生だった、1945年8月12日に学校を出て下北沢駅へ向かった。松本市外浅間温泉に疎開するためだ。
「学校を出発して成徳のところで右に曲がったのですよ。それでそのまま鎌倉通りを行き、帝都線の踏切手前で左に曲がって坂を下って駅に着きました。だからね、本通りの家の前を通らなかったのですよ……」
 当日は近隣住民総出で疎開学童を送った。彼女は家の前を通っていくと思っていたら通らなかった。疎開に行ったら帰れない、近所の人との最後のお別れができたのにと思った。

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2021年01月20日

下北沢X物語(4169)―我が人生とダイダラボッチ2―

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(一)ダイダラボッチという言葉には不思議な力が宿っている。「兎に角こんな名称と足跡がなかつたならば」、「さう永くはわれわれのあひだに、留まってはいなかった」(『ダイダラ坊の足跡』)と柳田国男は言う。語には言霊が宿っていて一度この語を発すると人は注力を喚起させられるようだ。「不思議なことにな、『ダイダラボッチ』を三回唱えると奇妙な力が湧いてくんだ」とは劇中の言葉だ。が、この言葉人を変にこそばゆく感じさせるらしい。ダイダラボッチを求めて多くの伝説地を訪ねた、水戸大串、さいたま市太田窪(ダイタクボ)、横浜市菊名、石岡市代田、相模原市鹿沼池などだ。伝説地に行くと「ダイダラボッチ」と話し掛ける。すると「ダイダラボッチ?」と必ず応答がある。聞かれた方も不思議さを感じるらしい。いや土地にダイダラ霊力があってそれが反応するのかも知れぬ。こわい……

(二)
 ただ多くの地ではダイダラボッチは通じない。が、大な反応があったところは二カ所だ、石岡市代田と相模原市だ。前者は知らない者はいない。辻辻にダイダラボッチと称する藁人形を飾って悪霊を追い払っているからだ。後者は、学校で習っているからだそうだ。各地を実踏したがやっぱり大事なのは子供に伝えることだ。今回作っている『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』の狙いは、その伝えである。

 ダイダラボッチは言葉に霊力を持っている。が、その行いにも不思議な力が働く。
 相模原のダイダラボッチはおもしろい。相模原市菊名池に行くには、淵野辺駅で降りる。行ったとき「銀河鉄道999」の絵看板が掛かっていた。

はやぶさ2を、相模原から宇宙へ。日本の未来はここにある。


 「ダイダラボッチ伝説地」相模原は、JAXAの里だったのだ。やはりウリは大きく出ないといけない。

ダイダラボッチを、世田谷代田から全国へ。日本の未来はここにある。

 世田谷代田駅にこういう看板を建てよう。


 当地「麦踏み歌」にはこうある。

代田に名所が三つある
鶴塚にダイダラボッチに花見堂
大山先に雲が見える


時代は変わってウリも変化する。世田谷代田三大名物は

古関裕而に
駅前ダイダラボッチ足跡に
代田の丘の61号鉄塔


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2021年01月19日

下北沢X物語(4168)―我が人生とダイダラボッチ1―

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(一)コロナ感染が収まらない、罹ったら死ぬだろうと思う。そんな中、我が人生何をしてきたかを考える。ふり返ると三つに括られる。「鉄道」、「特攻」、「ダイダラボッチ」だ。熱中するタイプで巨人伝説には夢中になった。一つ目は戯曲だ、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」〜東京市巨人伝説〜だ。会員が協力してくれて公演まで行った。二つ目が論考だ。『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』紀要6号にまとめた。三つ目が音頭づくりだ、これは二曲、「ダイダラボッチ音頭」、「代田ダイダラボッチ音頭」としてYouTubeにアップされている。四つ目が『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』だ。昨年来取りかかってきたが校了し、17日に編集委員会を代田邪宗門で開いた。委員はしっかりと読んできて丁寧にチェックしてくれた。この冊子、四月に世田谷代田駅前広場がオープンするがその時に配られる。そんなことで編集委員はプライドを持って会議に臨んだ。白熱した議論が交わされたことだ。
◎「ダイダラボッチ音頭」はYouTubeで2000回以上も視聴されていると表示には出てくる。

(二)
長年、ダイダラボッチに関心を払ってきた。当ブログでこれを最初に取り上げたのは2004年10月1日である。以来十六年間、これを追い続けてきた。
まず、『幻想朗読劇 ダイダラボッチ』〜東京市巨人伝説〜のさわりだ。数字は配役者だ。

�ぁ屮瀬ぅ瀬薀椒奪舛魯哀蹇璽丱襦△箸曚Δ發覆�とんでもない話なのさ」
�◆崚喨�もない話とはどんな話なんだろう?」
�ぁ屬いい�、ダイダラボッチは、北方民族ツングース系のオロッコ語から来ているんだ」
� 屮�ロッコ語?」
�◆屮�ロッコ語?」
��「オロッコ、オロッコ、これまた妙な響き」
�ぁ屬修Δ修Α¬�な言葉には妙な意味がある。」
「妙な言葉には妙な意味がある。」�´↓�
�ぁ屬いい�、耳の穴をほじって聞いてくれ。オロッコ語では『Dai-nare-hagdu』と言うが日本語で言うと『ダイダラボッチ』となる。『ダイ』は大きい、『ダラ』は人、『ボッチ』は穴という意味だ。つまり、巨人がつけた足跡という意味さ。」
「へえ、そうなんだ。これは驚きだ」�´↓�
�ぁ屬い笋い箒辰�のはまだ早い」
� 峩辰�のはまだ早いと、とするならもっと驚くことがあるのですか」
�ぁ屬いい�、世田谷代田の代田は『ダイダラボッチ』が元になってつけられた地名なんだよ」
�◆屬┐叩▲泪犬辰垢�?」
�ぁ屬發舛蹐鵝▲泪犬世箸癲�
� 屬修Δ垢襪肇瀬ぅ瀬薀椒奪繊�巨人の足跡が世田谷代田にあったということですか」
�ぁ屬修Δ修里箸�り、民俗学者の柳田国男が『東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。』と言っていて、ちゃんと代田のダイダラボッチの調査にも来ているんだよ。」


 最初の頃、ダイダラボッチがオロッコ語から来ていることが大きなポイントだった。
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2021年01月17日

下北沢X物語(4167)―戦争の谷の故半藤一利氏―

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(一)半藤一利氏の代表作は「日本のいちばん長い夏」だ。この本の序で大宅壮一は「日本的忠誠心」のぶつかり合いだと述べ日本中枢に「大政治家、大監督がいなかった。そのため、同様の事態におちいった他の国ではみられない独自の喜劇と悲劇が、出演者の意志に関わりなく、いたるところで起こった」と。イギリスの医学者が「コロナとの闘いは第三次世界大戦だ」と言い放つ、今国は「日本のいちばん長い冬」に遭遇しコロナと奮闘中だ、終戦処理と同様、コロナとの闘いにおいても指揮官不在だ、それゆえに外野連中が言いたい放題、それで至る所に悲喜劇が起こっている。今、現実の暮らし風景と医療風景に大きな齟齬が起こっている。現に生者選別、患者を生かすか死なすかという究極の選択が行われてきている。第三次世界大戦が起きつつあるのに我々はのんきである。

 十六年間、下北沢文士町の探訪を続けてきた。一帯は、区域区域によって土地柄が違う。北沢三丁目辺りは、かつては野屋敷と呼んだ。舌状台地に開けたお屋敷街だ、クリエーティブな人が多く住んだ。文学だったり、彫刻だったり、建築だったり文化的な香りが高い。

 一方、池ノ上の谷も、舌状台地である。高度差があって上から下までは雛壇形式で住宅地として開発されてきた。下方の一角は「清風園分譲地」として昭和初期に売り出された。
「この地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になって居ますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂『近代郊外風景』が居ながらにして恣にされます」と銘打って売り出された。

 誰がこの時代にあってここを買ったろうか、興味深いところだ。言えば成金、軍人、知識人が多かった。

 逸話の一端だ。この区域の学校は代沢小である。昭和十六年秋に和服をぴっちりと着こなした女性が現れ、子息のクラスに行って「明日から官邸に参ります」と言ったという。東條英機夫人のかつ子である。舌状台地、雛壇の一角に住んでいた。

 昭和二十年五月二十五日の空襲で「池之上方面ではここだけが焼夷弾を受け、付近が類焼した」という。飛来してきたB29が東條家に狙いを定めて焼夷弾をぶちこんだという、いわゆる都市伝説がある。

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2021年01月16日

下北沢X物語(4166)―池ノ上の故半藤一利氏―

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(一)作家の半藤一利氏が1月12日、池ノ上の自宅で亡くなられた。90歳である。当会の協力者でもあった。2006年5月に北沢川文化遺産保存の会は「北沢川文学の小路物語」を区の助成を受けて発刊した。あとがきに協力者を記録しているがここに半藤氏の名前が入っている。私たちは「下北沢文士町文化地図」を作り、一帯の文士旧居をこれに網羅している。物故者を載せている。が、奥さんの未利子さんは漱石の孫でエッセイストだ。旧居マークをつけるのはまだ先だ。半藤一利と言うと彼の『日本のいちばん長い日』が思い浮かぶ、代表作である。池ノ上でも書かれたものだ、彼の執筆位置、拠点取りだ、どこで何を書くか、東京、日本の大激動を書き表す、8月15日を巡ってはかつてないほどに日本の支配層の怨念や嗟嘆が渦巻いた日だ、都心部ではまとめきれない。そこと距離を置いた池ノ上という郊外線駅の静かなところで書かれた。都鄙領域である。「下北沢文士町」は、東京という都市を客体化して眺めるには好位置にあった。

(二)
 2006年2月17日に、当ブログでは「池ノ上の日影山銘酒「松葉酒」という題で記事を書いている。その一節だ。(504回目)

池ノ上の駅の西側を南北に貫いている古い道がある。そこを南下すると古本屋の「由縁堂」、八百屋「はせ川」、「三勝酒店」などがある。その酒屋さんには折々訪れてはご主人に昔の話を教えてもらうことがある。
「そういえばこのすぐ近くに志賀直哉の妹が住んでいたな」
 ぽつりと彼がそう洩らしたことがある。志賀直哉全集で調べてみると確かに妹はいた。異母妹である。しかも何人もいた。誰だったのだろうか、それを調べた。その妹という人が住んでいた近くを聞いてまわった。するとちょうど折良く事情を知っている人と出会った。彼が連絡先を教えてくれた。それは志賀直哉の甥御さんであった。その方のお話から妹の隆子だということが分かった。代沢の「暗夜行路」もおもしろいと思って記事を書きかけたが途中で終わってしまった。

志賀直哉の妹が住んでいた。その家を調べているときにはす向かいの家から人が出て来た。何か事情を知っているかと思って聞いたところよく知っていた。こちらが聞いた人は半藤一利さんだったのだ、それは後で知ったことだ。
 この時に、奥さんも出てこられた。が、これも後で正体を知った。
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2021年01月14日

下北沢X物語(4165)―代田ダイダラボッチの謎―

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(一)ダイダラボッチとは何か?根本のところは分からない。しかし、これを解明しようと世田谷代田へ巨人の足跡を調べに巨匠が大正九年一月来たことは大きい、柳田国男だ。当然のことながら意図があってのことだ。一つは、全国でも希な例だからだ、大きさ、深さ形状が明白に存在していたからだ。もう一つは日本人の思考の源泉を探る契機としたいという思いがあったからだ。彼は代田ダイダラボッチの調査をとっかかりとして『ダイダラ坊の足跡』という論考を記した。「日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時からまた如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、もしくはこれに近い名を持って呼びはじめたか」(同著)と問題提起している。これによって代田来訪の意図が推し量れる。言えば、我々日本人の文化の源流調査だった、ということではないか?

(二)
長年、ダイダラボッチについて調べてきた。最初にこれを取り上げたのは2004年10月01日である。ということは、ダイダラボッチに関心を払うようになったのは十六年前であったということだ。以来、ここでは数十回、いや、多分百回近く話題にしてきたように思う。

 最初に取り上げたのは「だいだらぼっち伝説を求めて」だ。その一節だ。

だいだらぼっち伝説は楽しくおもしろい。これを読むとかつての風景の様が浮かんでくる。いまは我々は遠方の景色を喪失してしまったが、武蔵野台地のいたるところから筑波山や男体山、浅間山などはくっきりと見えていたに違いない。代田の丘からは富士山も含めた関東の名山が見えていたはずだ。村人の想像力が山の名を通して見えてくる。

これを読むととあるが「改訂世田谷の民話」にある「代田村に巨人がのっしのっし」を指している。「風景とダイダラボッチ」、我ながらおもしろいところを衝いている。

 往時の人々が風景を物差しとして物語を考えた。山々は物差しである、あれぐらいの高さの山があるならば、あれと同じくらいの巨人がいたのではないか?古代人の想像力の源泉は山であった。

 飛びっきり目立つのはやはり富士山である。代田ダイダラボッチで直接富士山に結びつく逸話はない。しかし、「代田ダイダラボッチと富士」、おもしろいことを発見した。今度できあがる駅前の足跡は富士山に向けて作ってある。

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2021年01月13日

下北沢X物語(4164)―代田ダイダラボッチの春―

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(一)「ダイダラボッチの春」は明るい歌だ、彼巨人は善人だ、旅人が困っていたので代田橋を架けてくれた。コロナでみんなが困っているのを見て今は出番を待っている。昨日のことだ、世田谷代田駅前広場でダイダラボッチの足跡の関係者への仮お披露目があった。タイルで描かれた足跡がくっきりと見えた。当地に伝わる古伝承が具体的な形となって四月春には完成する。合唱曲「ダイダラボッチの春」では、「出て来い 出て来い 山は春 ここはお前が大昔 もっこで担いで来た山さ」と歌われる。今度できる代田ダイダラボッチは富士山を指さしている。巨人は四月開場時にはあの富士からやってきて、コロナをやっつけてくれるかもしれない。「出て来い 出て来い 春には代田にやってきコロナを退散させておくれ ダイダラボッチ!」

(二)
 「ダイダラボッチの春」では「ひとりぼっちでどこにいる」と単数であることが歌われる。が、「代田ダイダラボッチ」は複数だ。当地のダイダラボッチを世に知らしめたのは柳田国男である。ダイダラボッチ論として誉れ高いのは彼の「ダイダラ坊の足跡」である。表題の文章を書くに当たって代田の巨人の足跡はうってつけだった。彼が主題として書いた原物、「ダイダラ坊の足跡」がそのままそっくり当地代田に残っていた。

冒頭の見出し語は巧みだ、「巨人来往の衝」である。

「なんとまあ、この東京の空には多くのダイダラボッチが行き交っていたことだ、自身はこれを知ったときに大きな衝撃を受けたことだ」
 こういう意味だ。

 感心するのは科学的ではなく文学的であることだ。ダイダラボッチ論は客観的に説明することは困難だ、あまりにも古い、それで具体的な証拠が乏しい。ゆえに大事なことは想像力である、古伝承は口から口へと伝えられてきたものだ。その経過を明らかにするには想像力がものを言う。イマジネーションを働かせて推理することで論は成り立つ。
 論考の書き出しは素晴らしい、かっこいい

 東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたのである。しこうして何(なん)人(びと)が記憶していたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。
「一つ目小僧その他」 柳田国男 角川学芸出版 二〇一三年刊

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2021年01月11日

下北沢X物語(4163)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語20―

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(一)大統領が支持者たちにけしかけたことがきっかけで暴徒が議会に乱入し死者まで出た。米民主党のペロシ下院議長はトランプの蛮行について「錯乱した大統領ほど危険なものはない」と核のボタンをも持つ彼への危惧を述べた、狂気さえ感じる現職大統領、人権などみじんも考えていない。完璧なまでの自己中だ、一方、戦時中における米側の人権観は驚嘆するほどだった。戦闘機乗員には小型のピストルを持たせた。不時着して活路を見出し得ないときに狩猟用の銃を使って小鳥を撃ち落とし飢えを凌げと。B29の乗員の救急救命バックには釣り糸を持たせた。無人島に不時着したときの用意だ、魚を釣って飢えを凌げ、必ず助けに行くからと。一方の日本の軍部、二枚バネの練習機で特攻に行かせた。不時着する者が多く出たので爆弾を機体に縛り付けた。何が何でも死んでこいという指示である。さて、因縁不思議、台湾特攻のことはまた再びさらなると話へと繋がっていく。一転下馬から今度は名古屋だ。

(二)
 台湾台中近郊に墜落した戦闘機内に猟銃を見つけ、その用途知って驚いた。この逸話を記録した村岡英夫氏はつぎのように感想を記している。

 私たちは、不時着パイロットにたいする生存と脱出のためのこの米軍の配慮には、いささか驚かされた。
 これが、米軍パイロットの勇敢さのうらづけの一部になっているにちがいない。人命を尊重する米軍と、特攻攻撃が航空攻撃の最後のきめ手として、春秋にとむ有為の青年を、多数、必死突入させた日本軍と、いずれがまともな戦い方か、私は疑問を持たざるを得なかった。
 『特攻隼戦闘隊』−かえらざる若鷲の記録− 光人社 一九八二年刊


 同感だ!
 個々人の自由を認める米軍、戦闘機や爆撃機の機内設備でもそのことが分かる。国領に墜落したB29のことは現地に行って調べたことがある。

 これにはノーズアートが施されていた。女性の裸体画である。これを見た若い男は、「こ、こんなものを機体に描いていいのか!」と心底驚いたという。
 この機内には給湯装置があって、珈琲か紅茶を選べるようになっているのを見て、機を調べた日本の軍人がやはり驚嘆している。

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2021年01月10日

下北沢X物語(4162)―下馬を歩きながら戦争を考える―

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(一)中国語の記録を読み解いている。「舊式的飛機搭載炸彈,直接衝撞美軍戰艦,每天傍晩趁美機來襲的空隙在機場上空,駕機向下俯街,練習衝撞敵艦。飛行員多半是十七,八歳的紅顔美少年」、中古機に爆弾を搭載し米軍艦船に突撃する、毎晩八塊飛行場上空で敵艦に体当たりするための急降下訓練を繰り返していた。その多くが十七、八歳の紅顔の美少年だったということだ。少年飛行学校出身の者は操縦に不慣れだ、ベテランが見かねて夜間に降下訓練を行って指導していた。日中は制空権を握られているからできない。やむを得ず夜に行う。灯火装置はない。危険だ、が、それでも彼らの本懐を達成させようと毎晩訓練は行われた。目測を誤って地上に激突する者もいた。が、この特攻作戦に軍部は勝機を見出してはいなかった。一撃講和、当たれば八卦、あたらぬも八卦、どうせ負けるのなら少しでも一撃して有利に、言えば紅顔の美少年たちは国家のメンツのために戦わされたのだ。コロナ禍における施策、人の命を守るためではなく国家のメンツを保つためではないかと?

(二)
 読み解いている記録に邱垂宇さんの兄の日記がある。邱垂宇さんは小学校四年生、兄は中学生で往時の記憶は鮮明だ、「兄貴は入院しているけども見舞いに行ったときに戦争の記憶を確かめてくる」と言っておられたが先月十二月に亡くなられたと聞いた。日記だけが便りとなった。

一位和我熟悉的近藤曹長撿到一把狩獵用散彈手槍,他讃嘆美軍對失事飛行員逃生的周到照顧。

1945年6月15日に八塊飛行場に爆撃にきたB29の一機が高圧鉄塔に触れて墜落した。日本軍が調査に来た。そのときに知り合いの近藤曹長がいた。彼は乗り組み員が持っていた小型の猟銃を見つけた。彼はこれを見て驚嘆した、米軍側の兵隊に対する配慮である。日本ではありえないことである。

「ひどいもんですよ。練習機で特攻に行かせるのですよ。1500メートルの滑走路ぎりぎりを使っても浮揚しないのですよ。隊員は逃げられないようにと爆弾を太いロープで縛り付けるのですよ。何が何でも死んでこいということですよね」
 NHKスペシャル 特攻 ~なぜ拡大したのか~を見ていたときに当時の教官がこう回想していた。

 日本軍の兵隊に人権などは存在しなかった。が、アメリカ兵にはあった。彼らが持っていた猟銃は端的にそれを証明するものだ。

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2021年01月08日

下北沢X物語(4161)―荏原台と久が原台―

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(一)地形が人々の暮らしを決定づけた。家の前は呑川が流れている。日々これを散歩で下る。左岸と右岸では風景が全く異なる。前者は急傾斜の崖線が続く、この背後に九十九谷が拡がっている。後者は傾斜は緩い、そしてほとんどがフラットである。根本的には地層の違いがある。左岸は下末吉層によって構成される荏原台だ。右岸は武蔵野礫層が堆積してできた久が原台である。言えば左岸は険しい、右岸は平坦だ。当然のことながら暮らしがあった。おもしろいのは険しい谷には縄文人が住んだ、一方平坦な台地には弥生人が住んだ。それは暮らしから来ている、縄文人は採取経済だ、木の実を拾ったり、貝を拾ったり、猪を捕ったりしていた。縄文人は耕作をした、それで平坦なところを好んだ。吞川下流域では古代人の暮らしが地形上に現れている。

(二)
 地層的には淀橋台と荏原台は同じである。この二つの台に接しているのが目黒台であり、久が原台である。この高さに関してだが実際に行けばよく分かる。目黒川、呑川左岸は崖線が形成されていて高度が高い。反対に目黒台や久が原台は低い。

 つまりは眺望がよいのは下末吉層によって構成されている淀橋台や荏原台である。とくには左岸崖線は富士がよく見える地点として重宝されている。隣合った台地が低いからだと言える。多分このことは地価にも影響しているはずだ。

 田園調布台も淀橋台と荏原台同様下末吉層によって構成されている。多摩川左岸の崖線は第一級の住宅地だ、崖線に沿って豪邸が林立している。富士の眺めがよいから地価も他よりも高いはずだ。

 この地形についてどうしてこういう差があるのか。これは形成された時期に関係する。
下末吉段丘は今から約十三〜十一万年前に関東一円が海(古東京湾)となり、その後、陸化したものだという。もとは海底に沈んでいたようだ。

 一方、目黒台や久が原台は、武蔵野段丘とも称される。これは今から十〜三万年前に下末吉段丘を浸食して古多摩川が形成され、ここに武蔵野礫層が堆積して形成されたものだという。
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2021年01月07日

下北沢X物語(4160)―荏原南端凸凹地形探査行―

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(一)「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ」(『田舎の時計 他十二編』)と萩原朔太郎は言う。馬込平張居住時代の詠だ。この荏原南端は九十九谷と呼ばれるほどに谷が入り組んでいる。至る所に深い谷がある。昨日はその転げ落ちて行きそうな馬込の谷を巡った。谷を覗き込んでいると不思議に悲劇を思う。そこを転げ落ちていった人や馬が思われた。海岸に近いのに荏原南端のV字谷、U字谷の切れ込みは内陸部よりも深い。通り掛かりの女子中学生に聞くと「どこでもここでもありますよ」と坂だらけだという。急坂で「転げそうになりませんか?」とお婆さんに聞いたところ「腰に気合いを入れて上り下りするんだ!、だから長生きするんだ、うふふ」とも。この坂は化石だ。十一から十三万年の歴史がある。ゆえに縄文人を含めての人々の坂の歴史がある。

(二)
 昨日、坂を巡って写真を撮った。谷間の池に降りて歩いていると、「今日は何が狙いですか?」と問われた。「坂です」と答えると相手はビックリしていた。池は洗足小池だ、愛鳥ファンが集うところだ。

「鳥ではなく坂を撮りに来たのですよ。この上池台とか馬込は坂が多いですよね、私は目黒から歩いてきたんですけど、坂の深みとかアプローチなどには目を見張りますね。至るところに坂があって、みんな名前がついているんですよね。平坦地で暮らしている私なんかからすればびっくりしますよ……」

「坂ですか、とくに思いはありませんね、ただ台風、これは怖いですよ。遮るものがないでしょう。だから家が揺れるのですよ……下にスーパーのライフがあって買い物に行きますね、何時だったか『どん兵衛』が籠から転げ落ちて、とうとう下の谷底まで落ちて行きましたね……癖っていうのはありますね、下で買い物して急坂を登ってきますが坂を上り切ったところで自然に後ろをふり返りますね……」
「音の聞こえ方なんか違いませんか?」と私。
「それはもう、南は海でしょう、船の汽笛の音はよく聞こえますよ。それからこのすぐ南手が新幹線の切り通しになっているでしょう、これは聞こえますよ。あんまり音楽的ではないですね……鳩の親玉みたいなのがクウゥククックと鳴いている感じです……」

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2021年01月05日

下北沢X物語(4159)―覚志郷の中心拠点は駒繋か?―

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(一)近隣何時も歩く、至る所に縄文遺跡がある、縄文一万年、気の遠くなるような歴史である。現今これらの痕跡は目につかない。古いものでは神社仏閣だ。が。この歴史は浅い、判で捺したように喧伝されるのが源頼義公父子東奥征伐の折戦勝祈願をしたことが創建云々だ。この年号は、天喜・康平(1056〜62)である、それ以前はどうなのかこれは触れられない。駒繋神社もやはり大国主命を祀るここを父子が訪れ戦勝祈願したと伝えられる。命ゆかりの子から一帯は子之神丸とついたという。が、子はネズミではなく子の星だったという。つまりは古代の星信仰だ。往古の昔は「日月星」を大事にした信仰が主流だった、が、東国に勢力を伸ばしてきた大和政権は古代信仰を巧妙に取り込みながら子、北斗星信仰を子、チュウチュウ様信仰に置き換えてしまったという。星信仰は大和政権の巧妙な懐柔策によって消されてしまった。輝く覚志郷も消え去ってしまった……。

(二)
 駒繋神社を戴いた台地の字名は「子之神丸」という。「世田谷の地名」(上)では「覚志」を「カガシ」とする説、つまり、『��』(かがし)は輝くであってこれは星、つまりは、子、北斗星の輝きを指すものだという西尾昇説を詳しく紹介している。そして「子之神丸」の由来をこう説いている。

 星宮の祭神に香香背男命(かかせみのみこと)(『日本書記』)があり、これは北斗星で子の神と呼ばれ仏教と習合して妙見菩薩となる道教と関係ある信仰であった。今日この地域に子の神丸という地域が残っていることは香香背男神社があったためであり、覚志(かくし、かがし)はこのことから来ていると考えられる。
「世田谷の地名」(上)発行 世田谷区教育委員会 1984年刊

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 「子の神丸」地域は、図を掲げた。この『百年前の下馬地図』は「しもうま」(発行所 下馬史跡保存会 1970年刊)の付録地図である。

 これにA鶴ヶ窪弁財天、B清水丸弁財天の位置を付け加えた。Aの弁財天は現鶴ヶ久保公園内に現存するものだ。B清水丸弁財天は私宅に安置されていたが今は現存しない。

 『ダイダラ坊の足跡』で柳田国男は駒沢村の二箇所のダイダラボッチ跡を訪ねる。長年の調査の結果この二つはAとBであると推定判断したものである。続きを読む

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2021年01月04日

下北沢X物語(4158)―新春夢探訪:覚志郷探索―

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(一)初夢で妙な者に出会った。「和名類聚抄に載っている荏原郡覚志郷は、千年村の候補地だ、が、これはどこなのかは比定されていない。キーワードは『子』だ。字名の『子之神丸』は知っておろう。地形形状は舌状台地、特徴は二つの裾にハケがあって神が祀られていることだ。舌状台地の先端部には子の神が鎮座しておる。すなわち、『子之神丸』は三つの神によって守られている。台地そのものが神霊的な地である。非常に興味深いことは歴史が恐ろしく古いことだ。ここが覚志郷であれば千年は遡る、その可能性は充分にある。二つの谷頭はダイダラボッチ跡だ。付近には遺跡が定石どおりある。先端部の神は子の神、大国主命である。が、この子こそくせ者、命が陥った危難を子、ネズミが助けたことで子の神と称される。が、子とは星でもある。かがし『��』は輝く、具体的には北斗七星のことだ。舌状台地の先端部は北向きの小高い丘、星を祈った場である」と宣う。

(二)
 和名類聚抄の中に郷名一覧がある、東京都では比定できた数が六つある。が、比定できていないのは、28もある。そのうちの一つが「荏原郡覚志郷」である。覚志郷はどこか?

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』で、世田谷代田のダイダラボッチを探索した後に、隣村の駒沢村を訪ねる。ここにある足跡を探すためである。このときに「小学校と村社との中ほどにあった」と記した。この小学校は旭小学校である。ここのホームページにおもしろい記事を見つけた。

創立140周年(4月30日)その2

 旭小学校は、上馬の宋円寺に「就学所」と呼ばれる寺子屋ができたのがはじまりです。明治13年のことでした。
 このあたりを「覚志郷(かがしごう)」とよばれていたのが、なまって「あさひ」になったと言われています。
 かつては上馬交差点あたりに「旭橋」がありました。名前がついた石の柱を校庭にうつしました。さて、その石の柱は、校庭のどこにあるでしょうか。


 宋円寺は、厚木街道、国道246号と環七とが交差する上馬にある。そこに行くと「旭小学校発祥の地」(写真上)という石碑が建っている。ここは台地の上なので川はない。が、かつてここを品川用水が通っていた。そこに架かっていた橋を「旭橋」と呼んだものだ。現校庭内に親柱(写真下)は保存されている。

 この説明にある「かがし」が訛って「あさひ」になったは、意味がよく分からない。何か典拠があっての説明だろうが腑に落ちない。

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2021年01月01日

下北沢X物語(4157)―会報第174号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第174号
           2021年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
あけましておめでとうございます
  昨年、12月17日、当会は創立16周年を迎えました。コロナ禍の中、何とか活動は続けてこられました。これもひとえにみなさまのお陰です。
 文化はおもしろがればおもしろくなる、どうせ生きるのなら楽しくですね! 
*掲出写真は「桃花萌ゆ甲斐の里の富士」撮影:矢花克己


1、「焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム」を読んで
                             石榑督和(東京理科大)

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 北沢川文化遺産保存会発行の「下北沢文士町文化地図別冊 増補改訂版 下北沢の戦後アルバム」(以下「アルバム」)をいただいた。オースティンの写真は数年前にSNS上で注目され、当時友人たちが熱狂して撮影場所の特定に励んでいたことをよく覚えている。いただいた「アルバム」は、下北沢というまちに限定してオースティンの写真が選ばれ、その撮影場所が地図に記されている。駅からまちに出ていく際に見える風景を追体験するように構成された誌面は魅力的で、読んでいて嬉しくなった。
 私は建築学科で都市史や建築史の研究をしている。研究テーマのひとつが戦後の東京の都市史研究(『戦後東京と闇市』ほか)ということもあって、きむらけんさんからここに「アルバム」を都市史的に読み解く場をいただいた。
 この「アルバム」の魅力は、誌面のきむらけん「オースティン写真の魅力」や、きむらたかし「オースティン博士の“Shimokitazawa”写真」(『北沢川文化遺産保存の会 研究紀要 第7号 論集 下北沢の戦後』pp.4-7)に書かれているように、大規模な空襲を経験した東京のなかにあって「焼け遺った」まちが写し出されている点にある。図は1947年9月8日に撮影された空中写真(国土地理院所蔵「USA-M449-120」をトリミングし加筆)である。終戦から2年後の状態を記録しており、庭に木々が生茂る郊外住宅が並んでいることが窺える。これと「アルバム」を見比べながらオースティンの写真を読み解いていきたい。
 図に写る建物を大別すると、通りに接して稠密に並んだ切妻屋根平入りの「町家」と、庭を持つ「屋敷」、そして駅前に集まっている屋根が白い建物群の三種があると言える。「町家」と「屋敷」はともに空中写真では屋根が黒く写っている。これは主に瓦屋根でできた戦前からの建物である。それに対して屋根が白い建物群は何かというと、戦後に建設された板葺などのバラックである。板は光を反射し、白く見える。
 図の中に破線の矢印で示した通りが「本通り」「栄通り」「南口通り」といった商店街であるが、こうした通りに並ぶ切妻屋根を持った平入りの「町家」は、オースティンの写真にもよく写っている。「アルバム」の写真05、06、07や08の正面突き当たりに写るような木造二階建て瓦葺きで屋根面が通りから見えるような建物や、写真04、08の画面右側、10、11、15、17、18のように木造二階建ての看板建築である。いずれも戦前の商店建築であり、近い規模と形式を持った建物が街並みを形成していることが読み取れる。
 このような商店街の建物と決定的にタイプが異なる建物が写っているのが写真01、02、12である。こうした写真に写るのは先に述べた「屋根が白い建物群」である。建物の多くは平家の看板建築で、屋根は片流れ屋根で後方へ葺き下ろしているか、妻入りの切妻屋根である。これには戦後の資材不足(同規模でも妻入りの方が、資材が少なくて済む)が影響している。看板を大きく取り付ける商店建築としての構えは興味深い。こうした建物が建った場所は、「焼け遺った」下北沢の中でも戦災を受けた場所である。戦災と言っても空襲ではなく、建物疎開である。全国的にみて建物疎開によって壊された建物の数は少なくないが、その後の空襲の凄惨さによってその記憶は上書きされ、記録や研究も少ない。すでに前掲のきむらたかし「オースティン博士の“Shimokitazawa”写真」で下北沢駅周辺の建物疎開については紹介されているが、空間的に捉える際に注意しなければならないのは、建物疎開は一様な幅を持った帯としてつくられてはいないということである。図を見れば明らかだが、小田急線に沿って一定の幅で空地がつくられたのではなく、既存の道や地割に従う形でギザギザとした疎開空地がつくられた。そうしてつくられた空地に、戦後建てられたのが先に見た写真01、02、12に写された建物たちである。
 戦前からの商店建築と、戦後の商店建築が並ぶ「焼け遺った」まちの風景を写した記録として、この「アルバム」は重要である。

2、食糧難
                     エッセイスト 葦田 華


 昭和20年8月15、恐ろしい戦争が終った。私は3歳だった。どこの家にも電気が明るく灯り、その下で食べたスイトンは格別に美味しかった。もう、空襲警報のサイレンは鳴らないと、家族はみんな喜んで夕食の膳についたのだ。しかし、だからといって、食糧難が一変した訳ではなかった。戦時中とさして変わらない代用食が、少しだけマシになったに過ぎなかった。
 私が7歳の頃、配給でお肉が買えたと、母が喜んでいた。
「お母さん、何のお肉なの?鶏肉?」
「そうねえ、お母さんも初めて食べるお肉なのよ。どういう料理にしようかねえ。」と言った。
 夕食までの夕暮れに、私は缶蹴り遊びの仲間達に「うちねえ、今夜のご飯はお肉なんだよ!」と吹聴して、みんなをおおいに羨まがらせた。さて、待ちに待った夕食になった。深いめの小どんぶりに、ごぼう、大根、人参、こんにゃくと、四角に切った何かが入っていた。
「これがそのお肉だな!」
 と、真っ先に箸で取り出して見つめた。濃い灰色の、少し厚めの皮の下に、クリーム色のぶ厚い層があり、その下に茶色い部分が少しついていた。噛みついてみると、皮がゴムのように硬く、クリーム色の個所はグジュと柔らかい脂身で、茶色いところがお肉だったらしい。お肉の部分はほんの少ししか付いていなかった。
 美味しいか?と聞かれれば、こってりした脂身は確かに旨かった。少し茶色い肉も付いていたことだし。味噌味の野菜類も、脂身のおかげで旨かったけれど、お肉の皮は噛み切るのに骨が折れた。
「お母さん、これ、何のお肉なの?」
「これねえイルカの肉ですってよ。」
「イルカってなあに?」
「鯨の親戚かしらねえ、海で泳いでいるから魚かしらねえ?」と言った。
 後年、図鑑でイルカを見た時の衝撃といったら、言葉にならなかった。
なんて愛らしい動物なんだ!!やがてテレビで、調教されたイルカが、水の中で跳んだり跳ねたりしている姿を見て、私達はあんな可愛い、知的生命体を食べていたのか!と愕然とした。

 戦争は諸悪の根源だ。戦争さえ無かったなら、イルカなんて食べなくっても良かったのに!!イルカショーの、輪くぐりをする賢い動物を観ながら、葦田華はとっても悲しくなるのだ。

3、巨人伝説読本『代田のダイダラボッチ』

 今年4月に世田谷代田駅前広場が完成する。「駅前広場開場記念事業実行委員会」に当会も参画している。協力の一環として「代田のダイダラボッチ」を紹介する冊子を作っている。当地ダイダラボッチの基礎知識を一般、あるいは高学年の学童にも分かりやすく伝えようとまとめている。執筆は、きむらけんが担当し、書き上げた。
 ダイダラボッチは全国的なものだ。単に当地域に伝わるだけでなく広くに伝わるようにと心掛けて書いた。御期待ください。

4、プチ町歩きの案内
 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。

プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第164回1月16日  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館
*ポイント:落合地域がまだ東京近郊の農村だった大正末期から昭和初期にかけて、プロレタリア系の作家たちがこの地に集まってプロレタリア文学運動の拠点をなした。しかし政府の思想弾圧などによって、転向があいつぎ運動が衰退すると、尾崎一雄ら新興の芸術派の作家たちが居住するようになり、文士村は新しい様相を見せた。高台には目白文化村なども独特な景観を見せているが、今回の散歩では落合文士村にしぼって下落合〜中井駅(西武新宿線)の間に点在する作家たちの旧跡を訪ねてみようと思います。


第165回2月20日 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲今号は石榑督和先生(東京理科大学)にご寄稿いただいた。縁が生まれたことから「石榑督和先生と歩く下北沢戦後アルバム」を提案したらコロナが収まってからなら大丈夫とのこと。町歩きの企画にいずれ入れようと思います。
▲プチ町歩きを実施しているが、コロナ感染が一向に収まらない。一二月は実施する予定である。感染が広がるようであれば一時中断もありうるか?
▲会員は、年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
ただ、振り込み手数料が掛かる。それで会員名と住所とを封筒に書いて、中に会費を入れて歩く会のときとか、または邪宗門に立ち寄ったときに払ってくだされば助かります。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 08:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化