2021年04月

2021年04月29日

下北沢X物語(4235)― 一特攻隊長の遺詠(下)―

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(一)武揚隊隊員が思いを書き残していた和綴じ帳には謎が多い。浅間温泉富貴の湯の彼らの滞在は四十日にも及ぶ。この間に高山宝子さんを中心とする女子学生が慰問に訪れた。これは何時のことだったのかは分からない。手がかりは全隊員14名のうち11名が揮毫していることだ。これら総体から読み取れることは特攻突撃への思いが熱いことだ。ゆえに慰問団訪問は松本飛行場からの出撃直前だったに違いない。その筆遣いや言葉からは時間が切迫していたことが読み取れる。ここには言霊が詰まっている。印象深いのは山本薫中尉と五来末義軍曹の遺詠が左右同じページに書かれていることだ。因縁の二人だ、両人がいなかったら武揚隊の行方を追跡しなかったろう。

(二)
 高山宝子さんが富貴の湯を訪問したのは1945年3月末、浅間温泉を出て松本陸軍飛行場から九州に向かって出撃する直前だった。彼女は仲間を引き連れて旅館に慰問に行った。隊員の一人飯沼芳雄伍長は彼女の同級生だった。これが訪問のきっかけだった。遺墨の順番は意味がある。隊員は各部屋に別れてていて彼女等は一つ一つを回っては揮毫を頼んだ。
 回っていった一つの部屋には山本薫中尉と五来末義軍曹がいたように思われる。

「お別れに当たってのサインをお願いします」と宝子さんは頼んだ。
「五来、お前から書け」と隊長。
「わたしからですか」と軍曹、彼はおもむろに筆を取った。

君が為 南十字星の下遠く 花と散るらん 大和ますらを 五来軍曹

(自分が仕えている君主、あなたのために私はあの光り輝く南十字星の海原遠く
そこで敵艦にぶち当たって花と散りましょう、強く堂堂とした立派な大和男子として……)

「五来なかなかいいじゃないか、『南十字星の下遠く』がいいよ。よし、おれも書くか」

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いざ行かん 浅間の梅を えびらさし
 わたつみ遙か 香をとどめん
               武揚隊長 山本薫 


「隊長いいですね……『わたつみ遙か 香をとどめん』がいいですよ」
「隊長さん、素敵です……」と宝子さん

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2021年04月28日

下北沢X物語(4234)― 一特攻隊長の遺詠(上)―

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(一)知覧特攻平和会館から「三十一音の遺書」という企画展の案内を戴いた。特攻出撃に当たっての思いを三十一文字に託して特攻隊員が詠んでいる。このうち一首は私には思い出深いものだ。9年前の夏、NHK長野放送局に行った。そのときに誠第三十一飛行隊山本薫中尉の短歌について最初に聞かれた。なぜだろうと疑問に思った、が、すぐに謎が解けた。翌日松本博物館の『戦争と平和展』を見学した、入ると隊長の歌が真っ先に飛び込んできた。白い布地に大きく墨書されたものだ。同隊の他十人の遺墨もきれいに飾ってあった。この遺墨の所在は私のところに偶然届いたものだ。持ち主の箪笥の中にひっそりと眠っていたものだ。遺墨の多くに武揚隊とあった。これを手がかりとしてネットで検索した人がいた。すると当ブログが引っ掛かった。これが機縁となって日の目を見たのである。この遺墨を中心に展覧会は開かれていた。

(二)
 知覧特攻平和会館の学芸員 羽場恵理子さんからの手紙にはこうあった。

 このたび、知覧特攻平和会館では、企画展「三十一音の遺書」の図録を作成いたしました。展示品の一つに武揚隊の山本薫少佐の遺筆を展示しておりまして、その説明を作成する際に、木村様の書籍『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を参考にさせていただきましたのでお送りします。

  遺筆の原本は2019年に知覧特攻平和会館に寄贈された。私が所有者に代わって館に届けたものである。
 原本は高山宝子さんと言う人が持っていたものだ。この娘さんが田澤澄江さんだった。彼女に正体不明の遺筆の調べを任されたのが安曇野在住の丸山修さんである。ネット検索に掛けたのは彼である。

 作品(『鉛筆部隊と特攻隊』)はほぼ仕上がっていた。そんなときに飛び込んできた新情報である。丸山さんにはすぐに遺墨を複写したPDFをメールで送ってもらった。これには十一人武揚隊隊員が思いを筆に託してサインをしてあった。新しい資料の発見だ。

 と号第三十一飛行隊(武揚隊)が陸軍松本飛行場に降り立ち、浅間温泉に滞在していたことは分かっていた。が、物証はなかった。これそのものが彼らの松本滞在を立証する証拠そのものとなった。
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2021年04月26日

下北沢X物語(4233)― 落合文士村と下北沢文士町―

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(一)町と村との比較文学論が面白い。根幹は文化である。差はにおいに現れる。村では人のにおいがする、こちらは党派的でその人臭を嗅ぎつけて人が集まった。一方、町では鉄粉がにおった。線路が交差したここには年から年中ブレーキシューからこれが飛び散っていた。つまりは機械臭である。参集にはムラには必然性があったが、マチにはない。あるのは偶然性である。交通の利便性が気づかずに人を集めていた。やはり落合文士村では人と人との濃厚接触があった。文士達が集うその一角を「なめくじ横丁」や「もぐら横丁」と呼んだりしていた。その交流も幅広い、例えば中井駅前の「ワゴン」は朔太郎の元妻が開いていて、ここには檀一雄、尾崎士郎、太宰治、武田麟太郎、伊藤整、草野心平など多士済々が集っていた。一方、町においては人が数多く一つ店に集ったという例はほとんどない。比較文化論的にはムラは人流的であったがマチは機械的であった。

(二)
 文学に取って大事なのは発信である、書いたものを雑誌に載せて人に伝える、落合文士村で大きいのは『戦旗』である。松山信洋資料はここをこう記している。

 昭和三年五月、全日本無産者芸術連名(通称ナップ)は機関誌『戦旗』を創刊した。豊富な執筆陣を擁し、既成文壇を圧倒し、プロレタリア文学の最盛期を築いた。『戦旗』発行所の周辺には多くの作家たちが集まり、七年頃には七十名を越す関係者が住んだことから、この一帯を『落合文士村』と呼んだ。

昭和初年代における文学運動の一翼がプロレタリア文学である。

  先年、やはり松山さんの案内で阿佐谷文士村を訪れた。ここの頭目は井伏鱒二である。その彼が昭和初頭の文学の動向についてこう解説をしている。

 当今、最新の文壇的傾向として、東京の文学青年の間では、不況と左翼運動とで犇めき合う混乱の世界に敢て突入するものと、美しい星空の下、空気の美味い東京郊外に家を建て静かに詩作に耽るものと、この二者一を選ぶ決心をつけることが流行っている。
 『荻窪風土記』 井伏鱒二 新潮文庫 2014年刊


 いわゆる私小説を中心とする既成文学があった。これに反旗を翻す動きが興った。その一つがプロレタリア文学である。こちらは落合文士村を中心として青年達を魅了する熱い活動が起こっていた。虐げられていた労働者たちが立ち上がり、「俺達の声を聞け」と言い始めた。

当時の文芸思潮の大きな流れのもう一つが、新感覚派である。こちらの親玉が下北沢文士町にいた。昭和三年阿佐谷から北沢の丘に越してきたのが横光利一である。この家を雨過山房と呼んでいた。ここに同好の士が集っていた。
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2021年04月25日

下北沢X物語(4232)― 地形と文学:落合文士村を歩く―

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(一)四ヶ月ぶりに皆とやっと出会えた、落合文士村を歩く、案内者は松山信洋さんである。当地はプロレタリア文学者の牙城だ。このジャンルそのものが弾圧の対象ともなる。隠密裡に暮らしたところ故、場所の特定が難しい点がある。ここを案内するには大変な調べが必要だ。自身も案内したことがある。作家の居住地の確認、それと道、これが分からなくてはいけない。が、松山さん、ポイントを絞った。女流にスポットを当てて回られた。最後の終点が中井駅、そこに「ワゴン」跡があった。下北沢文士村との接点である。朔太郎詩「帰郷」と繋がる。「昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に帰る」。その妻は稲子、彼女が詩人と別れた後に「愛人だった画学生三富と開店した」カフェがこのワゴンだった。詩人と別れて文学サロンを開く……。

(二)
 コロナ禍かがあって町歩きはずっと開催できなかった。先週土曜日も雨に降られた。それで一週間開催をずらした。これが当たった、何よりも天気がよかったことだ。四月でも初夏の雰囲気ツツジがもう満開だった。やはり皆との歩きは気持ちいい。久しぶりの町歩きゆえに我らの気分も高揚している。いつもと違って参加者同士が道々旧交を温めていた。

 集合駅は西武線下落合駅だ。しゃれだ、我々は落合で落ち合った、案内人は松山信洋さんである。駅前で資料に基づいて解説をされた。

落合……北側が武蔵野台地、南側に妙正寺川と神田川が流れる。 二つの川が合流するので。 落合という地名がついた。 妙正寺川に沿うように。 昭和二年、西武鉄道が開通し、中井、 下落合の両駅が設けられた。 少し南に中央線が走り、東中野駅もほぼ南に歩いて行ける距離にある。 この交通の便の良さや、新しく開発されて、小さな家が立ち並ぶ中井駅と東中野駅を結ぶ一帯に文士たちが集まった。 大地の上は資産家の邸宅や目白文化村のような高級分譲住宅が建ち、貧乏な分子たちとは対照的な全く違った場所だった。

時代と地形と文士村の関係が興味深い。
 西武鉄道の開通が大きい。落合や中井駅の開業は昭和二年だ。新しく駅ができたことによって急速に発展した。土地は川沿いだ、低地になることから地代が安い。関東大震災の影響がある。一帯の都市郊外は東からやってきた避難民などが多かったと思われる。駅開業と同時にアパートや貸間などができた。ここに文士達が集まってきた。

 文学で名を上げて文筆で食べていく。理想ではあるがそれは困難だ、ジャンルではプロレタリア文学だ、生活はなお厳しい。それゆえに低地で家賃などの安いここに文士たちが集まってきた。新宿に近いということも大事なポイントだ。

 文学にはモチベーションは大切だ。都心の喧噪に近いところにいて、それを聞きながら頑張る。貧困との闘いであるとともに自己の知性との戦いでもあった。
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2021年04月23日

下北沢X物語(4231)― 支流に文化を求めて17年 7―

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(一)長年、文化探訪を続ける中で私にとって忘れがたいことがあります。それは創建年代も分からないほどに古い神社に関わることです。初代天皇の神武天皇を主祭神として祀る宮崎神宮のことです。二千年前に創建されたとも伝えられる由緒の深い神社です。その気が遠くなるような長い歴史の中で忘れられた歴史がありました。それは南方戦線や沖縄戦線に向かう特攻隊員たちの多くが必勝祈願に、戦勝祈願にここを訪れていたことです。ご祭神は艱難辛苦を乗り越えて「神武東征」を完遂した神武天皇です。これにあやかって特攻隊員たちは、神国最南端にある宮崎神宮に最後の願掛けをしにきていたのではないでしょうか。私自身が戦史を調べる過程で、偶然神社に立ち寄ったことからこの事実がたまたま明らかになったのです。

(二)
 私が宮崎神宮を訪れたのは、いつだったか、これは記録にきちんと残されています。一つは宮崎神宮の社報「養生」2015年初夏号・145号、もう一つは「米良の桜」(黒岩 昭彦著 鉱脈社 2018年刊)です。前者は「終戦七十年 戦争の記録−宮崎神宮に参拝した特攻隊員−という特集記事です。

 この記事に見出しが付けられています。「ある作家の来宮」です。権宮司黒岩照彦氏はこう書いておられます。

 ところで「戦争の記録」という点で、筆者には思い出深い出来事がある。
それは去年、平成二十六年三月二十六日午後の話で、ある初老男性の宮崎神宮参拝に始まる。尋ねたい旨の申し出があり、宮崎神宮のご祭神や由緒の話であろうと思われたのであるが、予想外にもその人は特攻隊員たちの話を始めたのであった。


CCI20150808_0000 人間は歳を重ねていきます。ところが、年を取ったことについては自覚がありません。ここでは私は「初老男性」とされているが、「そうか初老」だったかと思いました。今までずっと多くの古老に話を聞いてきました。ところが今では、自分より年上だろうと思った人がずっと年下だったりして、驚くことがあります。

 宮崎取材旅行の最後にこの宮崎神宮訪れました。入り口には「官幣大社」とありました。深い木立包まれた境内、いかにも神さびた風でありました。このときの旅の来訪目的は陸軍新田原飛行場にありました。終戦時における枢要飛行場だったのです。特攻基地で、ここから沖縄特攻に出撃した機もありました。38名が出撃しています。

 もう一つは南方に向かう飛行機の中継基地でした。ここで給油をし整備をし南方に向かったのです。ここでしばし隊員たちは滞在します。そのときに本土の最後の神宮ということで多くが宮崎神宮に参拝していたのです。宮崎神宮を訪れたのはそういう歴史を確認しようとしての訪問でした。
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2021年04月22日

下北沢X物語(4230)― 支流に文化を求めて17年 6―

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(一)今日は いつもとは違う試みをしてみようと思います。ディクテーションで。 つまり、自分が話す話をAIが機械で読み取りこれを文字化していくものです。どうせやるのなら とっておきのお話を今日はお聞かせしましょう。壮大な話です、今から7年前 2014年に旅に出ました。三泊四日を掛けての九州旅行です。一言でいうと戦史の謎を解く旅です。このときはひたすら歩きました。 およそ5 、60キロは 歩いたでしょうか。場所は九州宮崎です。 種田山頭火の句に「分けいっても 分けいっても 青い山」というのがあります。春新緑 九州南部を旅した時の句です。どこまで行っても緑が続いている。怖いほどでした。集落や村落を訪ね人に話を聞こうとしました。が、家はあっても 全く人影はありません。どこもここも静寂に充ち満ちていました。 それでも心ときめくような 発見がありました。 それは 二千年以上も続く格式の高い 神社の秘められた歴史の一端なのです。

(二)大きな目的は ここにある飛行場、 旧陸軍新田原飛行場の訪問です。すっかり忘れられていますが。ここはとても重要な飛行場でした。それを証明する一例です。

十九年暮、ある日の昼下がり数台の乗用車が。宮崎市宮崎神宮の正面参道前にピタリと止まった。 車から出てきたのは国民服姿。二十歳前後の屈強な若者たち二十人。 玉砂利を踏んで拝殿へ。みんなの表情がぐっと引き締まる。真剣というより。 凄惨な祈りが何分か続く。参道を引き返した青年たちは。待たせてあった車でどこかへ消えた。 その夜、 ここは宮崎市大淀河畔の料亭紫明館の一室。黙々と杯を傾けるのは ついさっき神宮へ参った一行。食前には山海の珍味がいっぱい やがて軍歌の高唱が始まった。給仕をする女中さんは見慣れぬ客の素性を噂し合った。 早朝。 不思議な青年たちは紫明館から消えていた。 出撃を直前に控えた特攻隊員たちだ。

私は、調査地へ行ったときにその現場をまず歩きます。土地土地には独特の臭いがあります、空気や作物の臭いです。歩いた後、必ず地域の図書館に行きます。ここで地域資料に当たります。ISBNのついていないものが狙い目です。ここに密かに埋もれていた歴史が眠っています。この引用した記事も宮崎県の図書館で捜し出したものです。
『激動の二十年』−宮崎県の戦後史−毎日新聞社 一九七三年刊

この記録に書かれているのは南方戦線に向かう特攻隊員たちのことです。ここを離れればもう日本とはお別れとなる。新田原陸軍飛行場は日本最後の寄港地だったのです。それで南方戦線に向かう特攻隊員達は宮崎神宮に参拝していたのです。

 この記述の中に「紫明館」がでてきます。宮崎県下の女学生は符牒を使っていました。「紫明館送り」です。つまり特攻に行く人たちのことを差していたのです。ここで山海の珍味を食べてやがては特攻に行くという意味なのです。
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2021年04月20日

下北沢X物語(4229)― 支流に文化を求めて17年 5―

武剋隊満州新京にて
(一)満州国皇宮に関わる逸話では「下北沢文士町文化地図」にもある。下北沢静仙閣というアパートがあった。北沢1丁目1113番地に満州国皇帝溥儀の弟、愛新覚羅溥傑が下宿していた。彼は陸軍士官学校本科に入学している。座間の「相武台」に通うのに便利ということからだろう。一方、立川裕子さんが皇帝溥儀から得たという布を時々取り出して眺めていたのは北沢4丁目353番地だ。満州国皇宮の陰翳とも言える。が、恩賜品を包んだ絹の布を得たことは、皇帝に謁見した特攻隊員たちにとっては望外の喜びであった。しかし、皇帝溥儀はこの時の接見については冷ややかな態度で接していた。

(二)
 台湾陸軍八塊飛行場のことを調べている。が、様々な資料においてその歴史は散見される程度で実情はよく分からない。この飛行場の側にあったのが八塊国民学校である。ここに飛来してきた特攻隊員たちや飛行場関係者が宿舎として使っていた。

 昨年になって知り合った台湾の邱 垂宇さんには日本本土には資料がないと伝えていた。御年87歳の彼はかつて八塊国民学校に通っていた。今は学校は名を変えて八徳国民小となっている。台北在住の彼は花園市にある母校を訪ねていかれた。


八徳国民学校を訪れ校長の林世娟さんに会いました。学校沿革史を出してくださったので拝見しました。ところがこれには太平洋戦争開始から休戦までの記録はありませんでした。戦争に関連した事跡はどうやら消去したようです。
私は学校に残っている記録から学校に駐留していた飛行隊の名前などを知りたいと思ったのですが、それは一切ありません。とても失望しました。

内地、日本では敗戦が決まったとたんに全国に指令が出た。関係書類を焼却せよと。自分たちにとってヤバいものは容赦なく遺棄する廃棄する。これによって多くの戦争資料が煙となって消えてしまった。

 私は浅間温泉に疎開していた学童から話を聞いたり、彼らの手紙や日記を見せてもらったりした。ここに多くの事実が書き留められている。昭和二十年になってからここに多くの特攻機が飛来してきてる。陸軍松本飛行場にである。

「私はあのとき広丘国民学校の六年生でした。飛行機のタイヤを燃やしました。そのときに本部建物の方では、煙がまっ黒に立ち上っていましたね」
 関係書類を一切合切燃やしたものだ。
 
〇年〇月〇〇時〇〇分、第〇〇飛行隊、特攻機が〇〇機離陸。

 いわゆる日報である。これは一切合切燃やしてしまった。終戦末期、松本陸軍飛行場は枢要な基地であった。が、今となってはその全貌はわからない。
 わずかに当方は、武揚隊と武剋隊の動向を知ってこれらは記録した。調査はいまだに続けている。が、調べはしばしば座礁する。
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2021年04月19日

下北沢X物語(4228)― 支流に文化を求めて17年 4―

広報せたがや
(一)野沢有さんから「本流は資料も多く残っているでしょうが、支流となれば少ない資料しかなく、見つける大変さが見えるようですが、見つけた時の感動は何倍にもなるのでしょうね」とのコメント。誰も知らない歴史を自分が見つけるという喜びは大きい。17年という経験は勘を鋭くさせる。昨日も心ざわつくことがあった。今私は、『陸軍八塊飛行場−葬られた特攻基地』を書いている。まとめる過程での発見はよくある。それは『皇帝溥儀と黄色の絹』である。満州新京で皇帝に謁見した特攻隊員たちは、お言葉に感涙した。それで下賜された布を各自はとても大事にしていた。ところが歴史は一枚めくれば虚飾の綾錦だ。彼らを感銘させたお言葉は側近が作文して特攻隊を煽てたものだった。分かってみると何のこともない。すべては関東軍が演出したものであった。

(二)
 一つの歴史事実に遭遇するまで長い年月が掛かる。「あれは何時だったか?」、人間の記憶ほど当てならないものはない。が、一連のシリーズは五冊に記録している、これを点検すればよく分かる。それは2009年3月3日のことだった。人の紹介があって私は、渋谷の日赤病院に入院している女性を訪ねた。立川裕子さんである。

「私は浅間温泉千代の湯に疎開していたときに武剋隊の今西修軍曹にお歌を書いていただきました。難しく長いお歌です。黄色の絹地の布に書いていただいたのです。それは満州国皇帝溥儀から戴いた恩賜の煙草を包んでいたものです」

 彼女は、代沢国民学校の疎開学童だった。宿にやってきたのは特別攻撃隊の青年たちだ、偶然に出会った若い航空兵と疎開学童はたちまちに仲良くなった。彼女もその一人である。

 手元に広報「せたがや」がある。1998年8月15日号だ。「還らざる青春」と題された終戦特集記事である。
 私には馴染み深い人、田中幸子さん、立川裕子さん、鳴瀬速夫さんの談話が載っている。前二人は物故された、鳴瀬さんの消息は今のところ聞いていない。
 立川裕子さんの談話だ。

 立川さんのもとには特攻隊員たちの形見が残っています。いよいよ出撃前の3月5日、絹の布に達筆で国のために死ぬ勇ましい決意や、立川さんたちの健やかな成長を願う思いを書いたものです。「ときどき取り出してみる度に国を守って命を燃やした彼らのことを思いだしますね」(立川さん)

彼女は二人の特攻隊員から言葉を書いてもらっている。武剋隊の今西修軍曹、大平定雄伍長である。

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2021年04月17日

下北沢X物語(4227)― 支流に文化を求めて17年 3―

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(一)「下北沢文士町」と命名したのは我らである。主流は文士村である、馬込文士村、田端文士村などだ。こちらは傍流全国的にも知られていない。が、昨日驚いたことがある。最新版8版「下北沢文士町文化地図」の表裏の両面が世界のどこからでも見られるようになっていた。世田谷区のホームページに載っていて世界に発信されていたのだ。この8版の裏面は「代田のダイダラボッチ」〜民族学者柳田国男の探訪と発見〜である。8版総体で当地の濃厚な文化情報をてんこもりで全国に発信している。付録的に載っているのが「古関裕而と世田谷代田」である。作曲家は境涯代田を離れることなく当地で曲を執筆している。朝ドラ「エール」で全国的な話題になった。が、代田という地名は出てこなかった。先日ダイダラボッチの取材に来た記者に宣伝をしておいた。古関裕而は風景を脳裏に描きながら作曲をした、「曲の大半は代田で作られています。すぐそこの根津山で想を得ているのですよ。『とんがり帽子』的風景はふんだんに見られましたよ。ヤギもいてね……」と。

(二)
 朝ドラの中で帝音、「帝国音楽学校」は重要な場として出てきた。この学校、世田谷代田駅のすぐそばの大根畑の中に忽然と建った。昭和2年(1927)12月のことだった。二階建てが珍しかった時代だ。

 しばらくすると校舎からテノールの歌声が響いてきたり、バイオリンの音色が聞こえてきたり、肥溜めもそこら中にあった時代だ。音楽学校の出現は都会的な音感的センスを運んで来た。

 「帝国音楽学校」は、誉れの学校だ、日本音楽学校ではない、インペリアルが被せられた学校だ、帝国に冠たる音楽学校だ。「大日本帝国音楽学校」である。台湾や朝鮮、樺太まで含まれている。実際台湾、韓国などから留学生が多くやってきた。

 近隣には留学生が住んでいた。学校だけの練習では間に合わない。一帯の下宿屋でも歌声や楽器の音色が聞こえてきた。

 当時一帯は代沢小が学区域だった。この区域の子は音楽に聞き慣れていた。中には帝国音楽学校まで行き玄関の石段に座って中から流れてくる音楽を聞いていた子もいた。成長して藤原歌劇団に入ったとその人から聞いた。

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2021年04月16日

下北沢X物語(4226)― 支流に文化を求めて17年 2―

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(一)『‥‥九四郎さんが言うように、下北沢とは沢の町‥‥沢にはみんなが吹き溜まる。‥‥』は「ざわざわ下北沢」で出てくる決めぜりふだ。「下北沢とは沢の町」は言い換えれば支流の町だ、細流が入り組んで形成されている。その襞に多くの創作者がいることを発見したのは地図の作成からだ。その名は「下北沢文士町文化地図」だ。最新版は8版である。初版発行は2006年12月25日だ、爾来15年が経過した。初版の名称は「下北沢X交点文化地図」だ。これは興味深い。文士町という現象把握、その出発点での観点を指摘しているからだ。つまり当地域での文化の勃興がクロスした鉄道にあるという見方である。改版に改版を重ねて今にある、そして当地で起こった現象を文士村ではなく文士町と捉えたものだ。支流探索の果てにあった発見だ。詩歌人密度日本一という気づきも長年の沢探索から得られたものだ。

(二)
 最新版は8版であるが、零版がある。我らのデビュー作『北沢川文学の小路物語』に挟み込まれた地図がこれに当たる。デザイナーの故東盛太郎氏が作成したものだ。

 現最新版では多くの沢に潜む文学の星々たちが赤や青に輝いている。が、零版ではマークが寂しい程に少ない。言ってみれば当初は、我らは未開発途中の西部の荒野にいるようなものだった。日々さすらってはまっさらな町中を点検していた。
 
 彼と私の間の符牒は『猫町』だった。これは萩原朔太郎が描いた小品だ。ここに詩人の不思議な体験が描かれている。その空間は、詩人が住んでいた下北沢新屋敷周辺のことに違いないと我らは信じていた。

「何と言っても『猫町』では赤いポストがポイントだね。作中では『四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏あんずのように明るくて可憐であった』と書いてあった。もうしびれますね。現実の煙草屋は四つ辻にある『すずらん堂』ですよね。ところがポストはそこにはなくて少し離れたところの大月菓子店の前にある。文学虚飾上では赤いポストは十字路に置いてある。しかし、彼が日常的に使っていたのは菓子店前のポストだよねぇ。『猫町』全体を考えるときやっぱりあの旧北沢局のポストは重要だよ……」
 
 我ら大真面目に議論していた。あの頃の町探検がどれほど楽しかったろうか。
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2021年04月14日

下北沢X物語(4225)― 支流に文化を求めて17年―

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(一)教科書にも載っている「流れ行く大根の葉の早さかな」という句がある。高浜虚子のこの句、「昭和三年十一月十日 九品仏吟行」の時の作だ、これによって川が、九品仏川であることが分かる。野中を流れる細い川だ、大雨が降って急に水かさが増した。そこに大根の葉が目にも停まらぬ速さで流れていく、鮮烈だった。川の名が分かってみると成る程だと思う。一帯は畑だった、何かの拍子に切り取られた大根の葉が流された、句の命は「早さ」だ、これを詠嘆の「かな」で締め括っている。これが本流だと味が出ない、細流だからこそ句が生きてくる。長年の経験だ、支流にこそ真実は眠っている。この十七年は密かに埋もれている真実を見つける旅であった。

(二)
 昨日出会った記者が言った。「私広島の原爆資料館に行ったとき『広島のチンチン電車の鐘が鳴る』を売店で買いました」と。その彼女がダイダラボッチの取材に来ていた。広島電鉄とダイダラボッチ、そこには全く脈絡がない。が、あるとすれば支流の真実だ。

 思うに日本人は主流好きだ、このところスポーツで活躍した男女のニュースで持ちきりだ。これがニュースの洪水となってこれ一辺倒となる。私は天邪鬼だ、多くが関心を持つものは見ない。大河ドラマも紅白も朝ドラもほとんど見たという経験はない。本流よりも常に支流だ、支流にこそ真実が生きていると思う。

 『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』も支流の花だ、戦時中男手が戦争に取られて市電の運転が困難になってきた。このときに年端も行かない女子が動員された。彼女らは車掌となって懸命に働いた。戦争末期になると運転士も不足し、ついには男子に代わって女子が電車を動かした。この話私にとって感銘深い巡り会いだった。

「紙屋町の電停のところで宇品行きはカーブを曲がるのですよ。そのときによくトロリーが外れるのです。窓から身を乗り出してロープを操り、ポールを架線にはさみこむのですよ。雨のときなんかロープを伝って油じみた水が顔に掛かって顔がまっ黒になってしまいました。恥ずかしかったです……」
 女車掌の苦労の一端だ。こういう話を聞き取るのは好きだ。
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2021年04月13日

下北沢X物語(4224)― 言語哲学爺婆論―

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(一)散歩の楽しみは景色にある。花が咲いてきたり、木々が一斉に芽吹いたり、今、散歩にいい季節だ。この頃では犬をよく見かける。コロナ禍で家に閉じこもっていた人たちが戸外に出てくる。飼い犬も開放されたようで足取りも軽くうれしそうだ。昨日、散歩途中、老人が佇んで樹木を見ていた。「老人と木」という言葉が浮かんで来た。が、言葉に色気がない。「老人と山」に置き換えてみた。が、これも味がない。「老人と墓場」ではアモーラルである。色をつけて「老人と芸妓」とすると小金もちの助平爺が思われていやらしい。色気を取って昇格させてみる、「老人と宇宙」にする。まあそこそこ形になりはする。今日は言語哲学じじばば論だ。「老人」にふさわしい語は何かを考えてみる。

(二)
 今は晩春、初夏と言ってもよい、新緑が爽やかだ。室内に籠もっていた保育園児も大勢が外に出てくるようになった。公園ではよく彼らがかがみ込んでいる。「アリさんがいるんだね」と声を掛ける。東横線や大井町線の跨線橋では保育園児が電車を見ている。運転士は通過時に、プワンとタイフォンを鳴らしてくれる。「みんな電車が好きなんだねぇ」と声を掛けると「そうなんですよ、電車が大好きでね」と保育士さんが代わりに答えてくれる。これらから手がかりが生まれてくる。

 『老人と蟻』、そして『老人と電車』だ。イメージとしては徘徊老人が浮かんでくる。『徘徊老人と蟻』、『徘徊老人と電車』とすると少し物語性を帯びてくる。

・老人の一人は、公園にブランコを見つけました。ふと気が向いて一回だけ漕いでみました。めまいがしたのでしゃがみこみました。すると小さな黒いものが動いています。蟻でした。彼は指で捕まえようとしましたがなかなかつかまりません。
「こいつらも人付き合いが悪くなったなあ、昔はやすやすと捕まってくれたもんだが」

・老人の一人は跨線橋を通り掛かりました。と、ふと立ち止まりました。電車を見るのだろうかと思っているとそうではありません。西南の空を見つめています。みるとそこには雪を被った富士の嶺が頭を覗かせていました。彼はいつまでもそれを眺めていました。
保育園児は動的なものを好む。老人は静的なもの、自然を好む。

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2021年04月11日

下北沢X物語(4223)―『幻想朗読劇 代田のダイダラボッチ』―

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(一)柳田国男は代田のダイダラボッチを端緒にして野沢や下馬の巨人痕跡を確かめた。そしてその見聞記の冒頭で「巨人来往の衝」と述べる。この切り込みに当方も衝撃を受けた。「北沢川文化遺産保存の会」の守備範囲のど真ん中に巨人の足跡があったからだ。会が発足してもう17年目だ、回顧するに我らはダイダラボッチをずっと追ってきた。�.屮蹈鞍�信で百回は取り上げたろう。��演劇だ、自前で台本を造り、演じ手は自前で賄い公演も行った。��ダイダラボッチをテーマとした街歩きも多数開催した。�さ�要5号発行、『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』。�ゥ瀬ぅ瀬薀椒奪噌�場完成時に『代田のダイダラボッチ 巨人伝説読本』を出した。�Σ仔�の制作、一つ目が「ダイダラボッチ音頭」だ。そして今回は新たに開場を記念して『代田ダイダラボッチ音頭』を創った。「北沢川文化遺産保存の会」はダイダラボッチサポーターだった。
代田のダイダラボッチ
(二)
 我らが活動し始めて一帯は大きく変貌した。一変したと言ってもよい。やはり大きいのは小田急線の地下化だった。そもそもの活動の発端は小田急線の踏切だった。自身、茶沢通りの東北沢4号踏切を自転車通勤時に通っていた。いわゆる開かずの踏切だ。ずっと待たされる。待ち時間がもったいない、それで十五分ぐらい街を走り回った。そうしているときに面白い街だと思うようになった。これが会が発足した始まりだ。

 やはり大変化は踏切の撤去である。遮断と解放とを繰り返していたのがこの踏切だ。一旦立ち止まって向こうを眺め遣る。鷺沢萌の『遮断機』は向こうに懐かしい顔を見出したことでドラマは始まる。これは下北沢駅の側にある東北沢5号踏切だ。

 踏切がなくなると溜めもなくなる。滞留なしで彼岸を越えられる。これが不思議でならなかった。踏切を渡るときの恐怖があった、銀色にキンキンに磨かれた線路を渡る怖さがあった。生々しい車輪の跡だ、轢かれればイチコロだ。実際何人もがコロコロと死んでいる。
「何、記念に線路の輪切りを配るだと。あのなお前さん、この線路が何人の血を吸ったか分かるか。そんな気味の悪いものを記念に配るなんてどうかしているよ」
 廃止になった線路の輪切りを記念品に。そういう発想は素人の考えだと知った。

(三)
 物事は考えようだ。世田谷代田1号踏切変じてダイダラボッチの足跡となる。
「怖い踏切でした。人が轢かれてそれが線路脇にむしろを被されている。その脇にたき火が焚かれていて寝ずの番をする駅員がいましたね」
 そんな思い出ももう遠い過去となった。

「3月28日、せっかくですからダイダラボッチ音頭を流してください」
 準備会で私は言った。が、コロナ禍かでは厳粛にやってお開きとしたいと。コロナが収まったときには賑々しく祝賀会をやりましょう。そのときにはダイダラボッチ音頭で踊りましょうと。

 今度の「代田ダイダラボッチ音頭」はよく出来ている。作曲は若桑比織さんだ。やはり本職だ芸術的センスが生きている。『歌物語 鉛筆部隊と特攻隊』、これも劇として行った。彼が演出を担当した。なかなかいいものだった。

 ついこの間のことだ。「前に『幻想朗読劇 代田のダイダラボッチ』を送ると言っていましたが。忘れていました。送ります」と言って彼に送った。すると、「シナリオを読みました。これはおもしろい」との反応。そして若桑比織さんはこう言う。
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(四)
上演は難しくは無いな。
二人芝居、小劇場、スポット三つ、
音楽はPiano演奏だけ。

ラジオドラマ、っていうのも良いですね。
その時は落語風に一人語りで。
語り部は、チンドン屋さんで。

そういえば、
昔、教育テレビの人形劇番組で、
『三年寝太郎』の音楽を担当しました。
語り部は下條アトムさん。
人形劇、ってのも良いな、
小学校向きで。
人形づくりも一緒にやれば良い。


 ダイダラボッチの足跡ができた、ダイダラボッチ音頭もできた。ダイダラボッチを芸術文化として推し進めるというのは面白い。新たなまち作りだ。

 ダイダラボッチのいいところは面白いから面白くなる。みんなしておもしろがればよい。それが地域づくりに繋がっていくように思う。

 『幻想朗読劇 代田のダイダラボッチ』は、ぜひ再演してもらいたい。

〇YouTube『代田ダイダラボッチ音頭』 歌チンドン好井さん



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2021年04月10日

下北沢X物語(4222)―ダイダラボッチ広場開場余波―

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(一)洗足池の側に大田区立洗足池図書館がある。散歩途中、『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』をここに寄贈した。いつも図書館寄贈で思い起こす逸話がある。我らの会の発信デビューは冊子『北沢川文学の小路物語』(2006年5月発刊)だ。デザインを手がけたのは東盛太郎氏である、並々ならぬ力を注いで完成させた。勇んで世田谷中央図書館に寄贈に行った。すると係は「受け取りました」と。これに彼は色をなした、「所蔵を前提に寄贈にきたのに何事だ!」、「所蔵するかどうかは当方で判断して決めますから」、彼にしてみれば努力を傾注して地域文化を掘り起こした。ゆえに怒りが収まらない「上司を出せ!」と。初発信は一見さんだ、どんなものを持ち込むか分からない。エロ本だったり、危険思想書だったりする、それでガードが固い。が、結果として初発信は成功した。朝日新聞と毎日新聞では東京版で大きく報道された。

(二)
「うちで冊子は配布すると朝日に載ったものだから大勢お客さんが詰めかけたのですよ。それがいつものお客さんと違うのですよ、こう身なりが決まっていましてね、奥さんの香水まで違うんですからね……」
 邪宗門マスターの語り草である。もう一つの伝説もある。
 冊子を求めて駅方面から続々と人がやってくる。
「あのときに大久保さんが交通整理に立ったのですよ」
 大久保さんは当時の会員である。
この無料配布はたちまちになくなった。そんなことから梅丘図書館ではこれが盗まれるという騒ぎもあった。

 先だって世田谷区立中央図書館に寄贈に行った。
「北沢川文化遺産保存の会の者です。新しく冊子を作ったので持って来ました」
 もうこちらは一見さんではない。素性が分かっている。世田谷区全体の図書館分もということで23冊寄贈してきた。

大田区図書館は一見さんである。が、長年の経験がある。
「地域資料の寄贈に来ました。ダイダラボッチについてまとめたものです。これは世田谷区を中心としたものですが、ここの洗足池のダイダラボッチ、それと千束狢窪のダイダラボッチも載せてあります」
「ありがとうございます。活用させていただきます」
 寄贈本が所蔵本として登録されるのには時間が掛かる。が、持って行ってすぐの4月7日に「大田区立図書館新着情報」としてtwitterに『代田のダイダラボッチ巨人伝説読本−世田谷代田駅前広場開場記念冊子』として速報されている。あちこち寄贈した中で最も早い反応である。
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2021年04月08日

下北沢X物語(4221)―台湾そして民主主義―

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(一)もう十数年も前から「因果の小車」に乗っている、カラカラと回る、その音を何度聞いたろうか。発端はこのブログに寄せられたコメントだ。疎開先で歌われていた歌の歌詞は知らないか?という問い掛けだ。因縁変転、次々に情報が寄せられた。もうその音は聞こえないだろうと思っていたら最後のトドメ、台湾から新たな情報が寄せられた。それはほとんどが忘れられている戦争の記録だ、遺しておかねばならぬ。それで『台湾陸軍八塊飛行場−葬られた特攻基地』をまとめている。片田舎の茶畑に飛行場は作られた。献納飛行場として地域住民が加わって造り上げた。が、戦況の変化によって第一線飛行場に格上げされた。ここからは三十二機の特攻機が飛び発ち沖縄沖の敵艦船に突っ込んだ。この全貌が台湾からの情報で分かってきた。大事なのは現地取材だ、机上で終わらせる訳にはいかない、現場を確かめて見て結末としたい、が、コロナ禍で台湾にはいけない、もどかしい思いでいる。

(二)
 私自身中国からの引き揚げ者だ、撫順は生まれ故郷である。が、一度も行こうと思ったことはない。個々人の自由が彼の地にはない。
 昨日、「中国 デジタル統治の内側で〜潜入・新疆ウイグル自治区〜」というBS番組を見た。二回目である。街中に監視カメラが設置されていてウイグル族への見張りが続けられている。彼らが持っているスマホは定期的に警察署に持っていかねばならない。内容は写し取られて、ウィグル人全員の情報が情報のプールに蓄積される。

 思い出したのは強制収容所のユダヤ人だ。囚人服に個別識別番号が書いてあったがそれを想像した。ウイグル人はすべて番号が付けられて一挙手一投足が監視されている。監視カメラ・スマホの検査・身体検査・血液の採取・顔写真の撮影などことごとくデーターを収集し蓄積して、これをAIに入れて評価される。例えば、街中を走っても危険人物としてチェックされるという。恐ろしい個人管理だ、一切の自由はない。

 デジタル技術はこれからは欠かせない。日本でも今、デジタル庁設置法が審議されている。が、個人のプライバシーに対する意識感覚は日本では鈍感だ。危うさを覚える。

 別のドキュメンタリー番組では「台湾デジタル世代が目指す未来」を放送していた。この中で台湾のデジタル担当相、オードリー・タンはこんなことを言っていた。

 大事なのは人々が世界をどう見ているか。何が問題でどう解決したいかを政治に反映させることです。民主主義はそのためのメカニズムです。より多く意見を吸い上げみんなで政策を決めていくのです。

デジタルによってすべての情報を透明化する。都合のいい情報も悪い情報もそのまま出して行く、そしてそれを人が判断する。民主主義の未来を述べている。

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2021年04月07日

下北沢X物語(4220)―台湾産パインを買った―

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(一)昨日、台湾産パインを買った。発端はニュースを見たことからだ。台湾産パインの多くを購入していた中国当局が急にこれの禁輸措置を講じた。それで3月1日から輸出が出来なくなった。理由は台湾産パインから害虫が検出されたからだという。しかし、害虫の検出を口実とした経済制裁だろうと言われる。つい最近、新型コロナに関して中国を批判したオーストラリアに対して牛肉やワインの輸入制限を課した。これと同類だろう。このところバイデン政権発足とともに台湾は米国との絆を深めている。台湾は中国の領土の一部とする「一つの中国」を標榜する中国にとっては許されない動きだとして台湾を牽制している。パイン輸入禁止はその一環だろう。中国はこのところ民主化の動きをことごとく封じ籠めている。香港問題は典型例だ、一国二制度といいながら本土法で締めつけ、民主化の動きの息の根を止めようとしている。その流れが台湾に押し寄せてきている。台湾では国民が自国産パインの「爆買い」をしている。農民を助けようという思いからである。

 私も長い間生きて来た、が、「私は日本人である」と名乗るような場面に遭遇したことはない。「私は日本人である」と言うことに面はゆさを感じる、堂堂とは言えない。一つには地勢的な理由がある。多くは初手から日本人である、ゆえに改めて言うまでもない。島国で育った故に比較経験がないからだろう。

 長く生きてきただけに色々なことがあった。現役時代、広島で教育大会があって参加した。その時に最初に「君が代」国家斉唱があった。そのときにどうしても起立できなかった。広島での被爆者には動員学徒が大勢いる。八月六日、作業の最中に被爆する。町が燃えさかる中で皆は君が代を歌って死んでいったという。そのことを知っていたからだ。

 戦時中男手が不足して女子学生が広島の電車を動かしていた。頭には日の丸の鉢巻きを巻いて果敢に働いた。が、この彼女等も原爆に被爆する。日の丸を捧げ持って戦っていた彼らや彼女を思い出すした。とても起立して歌うに気にはなれなかった。

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2021年04月05日

下北沢X物語(4219)―ダイダラボッチと郷土教育―

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(一)駅前でダイダラボッチ広場完成記念「下北沢文士町文化地図」(8版)を配った。「学校の図工でダイダラボッチの足を粘土で作ったよ」と代田小の学童が教えてくれた。「ああ、その地図学校でもらいました。ダイダラボッチのことが詳しく載っていますね」と。これも代田小の保護者。広場の開場式には代田小の校長先生も出席されていた。「学童たちにダイダラボッチのことを教えていきたい」と挨拶をされていた。生まれ育った地がどういうところであるのか学童に教えることは大事だ。代沢小で教員を務めた坂口安吾は、「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい」と。土地を懐かしむような思いを育てることは大事だ。代田小の校歌には、「け高き富士を 仰ぎみて/鏡に映すこの心」とある、高台の学校から見える富士に自分の心を映し見る、成長期の学童には大事なことである。

(二)
 富士とダイダラボッチは深い関係にある。私は、駅前広場開場式典においてはこれについて話をした。ポイントを四つに絞ったその四点目だ。

�い弔�に四点目 ここは富士とダイダラボッチの物語の観望地点であること。
 富士とダイダラボッチは深い関係にあること。ここに作られた、ダイダラボッチは足先を富士に向けて作られている。ここは「富士観望地点」である。
 まず見えるのは丹沢の向こうにある富士である。
 ダイダラボッチは富士を背負って西からやってきた。山があまりに重いので丹沢に腰掛けた。それで丹沢連山は平べったくなった。さて一休みしたダイダラボッチは立ち上がろうとした。ところが荷がに重くて蔓が切れてしまった。それで彼は相模中、藤弦を探したがこれがない。悔しがって地団駄を踏んだ、そこはジンダラ沼と呼ばれた。そして置き去りにされた富士が今も丹沢の向こうに鎮座している。その風景が眺められるのがここである。


駅前広場と代田小は同じ高さにある。やはり、富士物語観望地点である。大地に刻まれたダイダラボッチ物語、これが景色として見えるというのは貴重だ、生きた教材となる。
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2021年04月04日

下北沢X物語(4218)―ダイダラボッチ広場で地図配り―

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(一)「ダイダラボッチは妖怪ですか?」と聞かれた。「ダイダラボッチは山を作ったり、湖をこさえたとかいう伝説はあります。が、巨人伝説は古代人の想像力だったのです。この世の中がどうやってできたか?私たちはこんなことをほとんど考えません。しかし、古代人にとってはとても重要なことだったのです。遙かの昔、大きな足跡が野中に踏みつけられて残っていました。歴史を持たない彼らは、それは大きな手がかりでした。こういう大きな人がいてこの国を作ったのではないかと、人々は彼を崇めました。それでこれを大事にして何千年もの間、ダイダラボッチを口から口へと受け継いできたのです。言ってみれば我々の神は人工神です、が、ダイダラボッチは自然神です。素朴な神なのです」

(二)
 3月28日に世田谷代田駅前のダイダラボッチ広場はオープンした。30日に広場で「広場完成記念地図」を配布した。

 世田谷代田駅前にダイダラボッチが出現し、開場式のハレの場では巨人の足跡に注目が集まった。翌日からはケの日である。広場は通路にもなっている、人は足早に去って行く、足下の巨人にほとんどの人が気づかない。

広場を横切る人は二通りある。足早に過ぎる人、のんびり通り過ぎる人、後者が狙い目だ。その人に地図を配ると皆受け取る。
「ああ、これが巨人の足跡ですか。へぇ、そんなものダイダラボッチがここにあったのですか、初めて知りましたよ」

「ダイダラボッチですか?私の家はこの近くにあるんですが、不思議なんですよ。敷地から石がゴロゴロでてくるんですよ。ダイダラボッチが運んで来た石なんでしょうか?」
「それは面白い話ですね。戦争中、井の頭線が空襲を受けて電車が焼けてしまったのですよ。電車が足りなくなって動かせなくなったのです。それでここの小田急線から井の頭線まで線路を引いて電車を運んだのです。そのときに軌道敷が作られたのです。あれは石を使うでしょう、お宅が代田連絡線の跡だったのですね」
「へぇ、知らなかったわ」
「一夜にして代田橋を作ったのがダイダラボッチなんです。一夜にして代田連絡線を作ったのはダイダラボッチ……『ダイダラボッチと代田連絡線』というお話ができそうです。

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2021年04月02日

下北沢X物語(4217)―富士と代田と富士宮―

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(一)3月30日、ダイダラボッチ広場で地図配りをした。その時に一人の女性の人生に出会った。「この代田にお嫁に来たのです、富士が見えるとは思ってもみませんでした。大きな励みになりましたよ。何かね辛いことがあっても富士を見ると気持ちが安らぎましたよ。富士宮が私の実家でしたから。富士が父母と繋がっていましたからね。戦争の時は小学校二年生でした。大きな飛行機が高いところを何機も何機も通って行きました。大きな音を立てて通っていくのですよ。怖かったですよ。ラジオからは「高高度で旋回中」と言っていましたよ。南から富士を目指してB29はやってきて富士宮上空で旋回して東京方面に向かうのですね。その時は小2です。その飛行機がこの代田を空襲しに来たのですね。今の代田二丁目の家は空襲で焼けたところですから……」

(二)
「お見合いをしたのが昭和35年です。私は富士宮、主人は沼津の方の人でしたから親戚なんかのつてでやったと思います。母は、『せっかくの機会だから結婚しなさいよ』と言うのですよ」
 こまかな事情はよく分からない、が、その口ぶりから本人は乗り気ではなかったようだ。大学出で東京に土地を持っている、これが決め手だったのではないだろうか。
「代田の焼け跡を買ったのですよ」
「じゃあ、安かったでしょう」
「そんなことはありません、高かったですよ。百坪であの当時のお金で36万円もしましたからね、大金ですよ、今と違ってローンとかないでしょう。お金の工面が大変でしたよ」

「私がこの駅に来たときは、跨線橋とかはありませんでした。上り下りのホームがあるきりでしたからね。跨線橋は後なって架けられたのですよ……」
「この駅は懐かしいですよ。ずっと見てきた駅ですからね、でもねどんどん変わっていくのですよ。跨線橋も壊され、そして線路も地下化してしまったでしょう。大きく変わりましたね、主人は『どのようになっていくのか?』と期待をしていましたけどね、この駅前にダイダラボッチができるなんてね……」
「ダイダラボッチって知っていましたか?」
「お嫁に来たときに『ここにはダイダラボッチがあるんだ』と主人が話していたのを聞いていましたからね、まさかその足跡がこの駅前広場にできるなんて……」
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2021年04月01日

下北沢X物語(4216)―会報第177号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第177号    
           2021年4月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、コロナ禍における活動と展望
                                  きむらけん
 コロナ感染防止ということで不要不急の外出は自粛してほしいとのこと。これによって街歩きも中止している。それでもできる範囲で活動は続けている。世田谷代田駅前広場が3月28日にオープンをした。これに向けて「世田谷代田駅 駅前広場開場記念事業実行委員会」が地元で結成された。当会もこれに参画して活動に加わった。とくには開場に際しては広場にダイダラボッチの足跡が設けられることから、ダイダラボッチについて解説した冊子を創ることになった。「代田のダイダラボッチ」〜巨人伝説読本〜である。これの制作に全面的に協力をした。
 執筆は、きむらけんが担当した。また編集委員会を作ってレイアウトづくりを行ってもらった。内容としては小学校高学年をねらいとした。それで副題を「巨人伝説読本」とした。この冊子を通してダイダラボッチの再認識をしてもらい、できれば今後の伝承への力になってもらいたいという願いを込めた。次代へのメッセージでもある。

 人の精神は経年を生きる、その過程において記憶してきたことは大事である。古老に聞く、年を経てきた人に聞く、これは何百人も聞いてきた。そういう中から埋もれていた町の文化を掘り起こしてきた。下北沢店員道場、独逸親衛隊の下北沢来訪、一番大きかったのはやはり疎開経験だ、これの掘り起こしをすることで近代戦争史の隠れていた事実を掘り起こすことができた。具体的には「鉛筆部隊と特攻隊」である。
 しかし、コロナ禍によって人と人との接触は極力避けるようにということで人から証言を聞くことができなくなった。このことから当方は散歩調査が中心となった。一人で各所を訪れ、町並みなどを見学し写真に撮ってきてそれをブログ、東京荏原都市物語資料館に記事としてまとめてきた。

 北沢川文化遺産保存の会は、下北沢や代田を中心にして情報蒐集を続けてきた。大勢の人から話を聞いてきた。そしてこられを地図づくりに生かしてきた。が、コロナ禍にあって情報収集ができないことは痛手である。
 古老がいなくなりつつあることも大きい。大古老だった三十尾生彦さん、長年下北沢に住まっていた彼からは多くのことを聞き知った。
 一番街の大月菓子店の文子おばあちゃんは貴重な存在だった。情報基地で彼女のところにいくとあらゆる情報があつまった。飯田勝さんや今井兼介さんから話を聞けたのは彼女のお陰である。映画プロデューサーの森栄晃さんを紹介してくれたのも彼女だった。
 大月菓子店は、北の情報ステーションとして重宝してきた。が、もうだいぶ前に店を閉めてしまった。人はどんどんと年老いて行く自分も同じである。しかし、このことはついつい忘れがちだ。この頃は古老だと思って話を聞くと、自分より相手が若いという場合がよくある。それともう一つ感じることは人々が昔話に興味を持たなくなってきたように感じる。思うに街の歴史はどんどん捨てられていくばかりである。
 多くの疎開経験者に出会ってきた。その人は手紙だとか日記などを大概は持っていた。恐らくそういうものはその人がいなくなると燃したり、捨てられたりしていると想像できる。自身特攻隊と疎開学童の関わりを調べてきた。疎開先で書いた手紙や日記には公に残っていないことが書かれている。できれば捨てないでほしい。
 自身の執筆だが『嗚呼八塊陸軍飛行場−特攻隊長と少年の物語』に取りかかった。渡台見聞は欠かせない。が、コロナ禍で行けない。完成が見通せないでいる。

二枚の肖像画
                      エッセイスト     葦田 華


 父の実家の客間には、床の間と違い棚があって、私はなぜか、しょっちゅう違い棚に足を向けてその前に寝かされていた。それはたいてい、風邪で熱が出るとか、何かしら病気をすると寝かされるポジションであった。
 私の足元の違い棚の上には、濃い黒い髭をたくわえた少し怖い感じの男の人が、額に収まっていた。その肖像画には何か人を畏怖させる力があって、私は長いこと、私に<華>という名前をつけてくれた、厳格な祖父だと思っていた。後になってその人は<明治天皇>だと知って、「なんだ、おじいちゃんじゃなかったのかあ。」と、少しがっかりした。
私が五歳ぐらいの頃だ。
 明治天皇の額に並べて、もう一枚の肖像画が額に入れて飾ってあった。その人はえもいわれぬ柔和な優しい瞳の顔で微笑んでおり、可愛い子羊を抱っこして私を見つめていた。
この人は誰だろうかといつも思っていた。赤い衣の上から青い布をはすかいにまとって、白い羊の群れの真ん中に立っていた。真ん中から分けた焦げ茶色の長い髪。髭もたくわえていたが、少しも怖くない。私はこの人を非常に好きになった。でも、誰なのか何にも知らなかった。
 五歳のくせに、私には深い悩みがあった。それは弟が三歳で死に、どこかに行ってしまったきり、二度と帰ってこない、ということであった。死ぬということは五歳の私の恐怖であり、眠る時にはいつも弟と、死ぬということばかり考えていた。お盆が近づくと、お寺の幼稚園児だった私は、先生に引率されて本堂に入り、地獄絵図を見させられた。それはそれは恐ろしい地獄の絵であった。そしてある絵図の所に来て、私は足が凍りついた。小さな子供達が河原で石を積んでいる。そこへ鬼が来て、刺のある太いバットで積み上げた石を崩してしまうのだ。泣いている子供も大勢居る。私は思わずへたりこんで大泣きをしてしまった。

 帰宅して、「おばあちゃん、タケシはどこに居るの?」と聞くと、「へえ、サイノカワラずらなあ。」と言った。私はタケシがかわいそうでたまらず、また大泣きをした。祖母は「ワシがなあ、朝晩経文を唱えて拝んでいるだぁからな、タケシは大丈夫だぁよ。お地蔵さんが助けてくれるだぁからな。」と言った。
 月日が経ち、私は七歳になった。ある日曜日、朝ごはんを食べていると、仲良しのナオキちゃんが、「ハナチャン、日曜学校に行きましょ!」と呼びに来てくれた。ナオキちゃんとは、別になんの約束もしていなかったが、私は嬉しくて、手を繋いでスキップして、初めて白いペンキで壁全体が塗られている<教会>という所に行った。
 教会の靴脱ぎ場所には、子供の運動靴や下駄がたくさん脱いであった。中に入ると、正面が一段高くなっていて、壁に十文字のヘンな木が飾ってあった。「あれはなあに?」とナオキちゃんに聞くと、「あれはね、えすさまがはりつけになった、じゅうじかっていうもんだよ。」と教えてくれた。私には<えすさま>も<はりつけ>も<じゅうじか>も、生まれて初めて聞く言葉だった。
 子供達はワイワイガヤガヤおしゃべりしていたが、一年生から六年生までごちゃごちゃに混ざっていて楽しそうだった。私はこれが教会学校なんだな、と理解した。三編みの高校生のお姉さんが子供賛美歌の冊子を配ってくれたり、詰め襟のお兄さんが玄関の天井から下がっている紐を引っ張って、尖塔の鐘を鳴らしたり、ウキウキする雰囲気だった。
 やがてオルガンが鳴り、全員が歌を歌いだした。ナオキちゃんが、子供賛美歌のページをめくって「ここを歌うんだよ」と教えてくれた。
 牧師さんはとっても小柄な女性で、青木郁子さんという方だった。牧師さんのお話は全く解らなかったが、紙芝居はとても面白かった。最後に、皆が待ちに待っていた小さい絵カードが配られた。私に配られたカードの絵を見て、私は仰天してしまった。あの、明治天皇の隣りの、私が大好きなあの人が描かれているカードだったからだ。「ナオキちゃん、この人はだれ?」「やだなあ、えすさまじゃないかあ。」「この人がえすさま?!」そこへ青木牧師が来て、私の両手を優しくとると、「華ちゃん、今日はよく来てくれたわね、楽しかった?何か心配なことがあったら青木牧師に話してね。」とおっしゃった。

 私は、タケシという弟が三歳で死んで今はサイノカワラで石を積んでいるらしいこと、鬼が来てせっかく積んだ石を壊し、死んだ子供がいじめられていて、我慢できないほどかわいそうだ、ということを一気に語った。
 青木牧師は「まあ、華ちゃん!つらい思いをしていたのね、ううん、大丈夫!タケシちゃんはね、イエスさまに抱っこされて真っ直ぐに天国に行ったのよ。」「天国ってどこの国ですか?」「イエスさまのお父さんの神さまの国、そこは素晴らしい国でね、悲しいことも苦しいこともひもじいこともなんにも無くてね、幸福でいっぱいになれる国なのよ。」「死なないと行けない国ですか?」「ううん、ちがうわ、生きていてイエスさまを神さまと信じたらね、華ちゃんの心は天国になるのよ。イエス・キリストを神さまだと信じることが大切なのよ。」と青木牧師は言った。その瞬間!私はイエス・キリストを神だと信じた。
 なんと幸いなことだろうか!たった七歳で神に出会えるとは!弟の死という辛い試練の後にキリストに出会えたのだ。イエス・キリストが抱っこしている子羊は、タケシなのだと解った。
 聖書には「あなたが私(神)を選んだのではない。私(神)があなたを選んだのだ」と記されている。私は事あるごとに、「神さま、私を選んでくださって感謝です。」と祈る。そして七歳の私を教会に連れていってくれた、小野ナオキちゃんのために神さまの祝福を祈っている。また、明快にイエス・キリストを神だと教えてくださった青木郁子牧師に、深く深く感謝しているのである。
(2021、1、13)

3、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。
◎先月緊急事態が延長されたことからプチ町歩きは中止した。それで順次繰り延べての実施である。コロナ感染の広がりも心配される。計画変更の場合は個別に連絡する。

第164回4月17日(土)  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅南口改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館→地下鉄・西武中井駅


第165回5月15日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

P1020507
■ 編集後記                                  
▲「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」世田谷代田駅前ダイダラボッチ広場開場記念冊子は開場日の3月28日に関係者に配布をします。会員は邪宗門でもらえます。
▲3月28日(日)午前十一時 世田谷代田ダイダラボッチ広場オープンしました。当会では、広場完成記念地図(第八版)、ダイダラボッチ音頭、冊子「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」を作り、駅前広場開場記念事業実行委員会の支援を行いました。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。

◎「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」の寄贈について
ダイダラボッチ広場が3月28日に開場した。これを記念して冊子を作った。
  B5版56ページ
昨日、世田谷区の各部署に出向き冊子を寄贈した。
 ・世田谷中央図書館 23冊 ・世田谷区郷土資料館 3冊
 ・世田谷区教育委員会 6冊 ・区長室   2冊
  なお、国立国会図書館には郵送で1冊献本した。

*公的機関で所蔵希望の場合は寄贈したい。当方に連絡を。






rail777 at 08:02|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化