2021年06月

2021年06月29日

下北沢X物語(4276)―会報第180号:北沢川文化遺産保存の会―

P1000530
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第180号    
           2021年7月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、当会相談役広島文武氏の死を悼む
            当会主幹 きむらけん

  北沢川文化遺産保存の会相談役・獣医師・元世田谷区区議員だった広島文武氏が5月17日死去された。享年93歳であった。当会として慎んでお悔やみ申し上げます。
2004年12月17日、当会は設立総会を開き、参加者大多数の賛同を得て発足した。その時の発足委員が広島文武氏でであった。爾来17年間活動をしてきた。この活動の中で行政の力に頼ることがあった。大きく言って二つだ、一つは北沢川緑道に文学碑を建てること、もう一つは区の助成を受けて地図や紀要などを発行することだ。元世田谷区議だった氏は行政とのパイプがあった。とくには文学碑を建立するに当たっては広島さんに全面的なサポートを受けた。第一号が代沢小に建てた「坂口安吾文学碑」、第二号、第三、第四が北沢川緑道にに立てた文学碑だ、「代田の丘61号鉄塔由来碑」、「横光利一文学顕彰碑」、「三好達治文学顕彰碑」である。所管である北沢土木との交渉などは一手に引き受けてくださった。思うにこれらの四基の文学碑は広島文武氏が居られなかったら建たなかったように思う。
一番思い出深いのは最初に建てた「坂口安吾文学碑」だ、これをどんな形にしてどのようなものにするか議論が多くあった。私も窮することがあったが、彼の一言でまとまったということもあった。これら文学碑については広島氏の功績はとても大きいものがある。 振り返ってみると本当に長いお付き合いだった。
 2019年12月10日 当会創立15周年を迎えて北沢タウンホールで祝賀会を挙行したその際に功労者として広島文武氏を招待した。
「発足して十五年、これまでに成長した会に何らかの力になったことは喜ばしいことだとだ」とおっしゃってくださった姿が目に浮かぶ。

我らの会の歴史としていつまでも広島文武氏のことは覚えておきたい。長い間、我らの会にご尽力をくださってありがとうございます。安らかにお眠りください。
(思い出の写真、2019年12月10日 当会創立15周年を迎えて北沢タウンホールで祝賀会を挙行したその際に功労者として広島文武氏を招待した。マイクを持つ広島氏、写真には創設メンバーが写っている。左から長井邦雄会長、広島文武氏、伊藤文学氏、作道明氏)


2、想い出すことなど
                 当会会員 代田二丁目在住   木幡俊子


 私共は、昭和八年にここ代田二丁目(当時は代田一丁目)に引っ越して参りました。
 当時父のただ一人の兄が、古関裕而の近くに家を建て、弟である私の父にも近くに住むようにということで、地主の斎田様より土地をお借りして家を建てました。
 その頃、ここは竹藪で、竹は根が地中にしっかりと張っているため、地震に強いということでした。同じ頃に私の家の一段高い裏手に立派なお屋敷が建ちました。それは有名な詩人、萩原朔太郎の家だったのです。
 私共は代沢尋常小学校に通いました。当時近辺には守山小学校と代沢小学校しかありませんでした。
 校長先生は三本杉国松と仰る先生で、一寸面白いお名前なので覚えております。
 その頃は梅ヶ丘通りも野っ原の中の一本道で、もちろんバスなど通っておらず、お店とてなく畑の中の道でした。そこには肥溜めがあり、私共が飼っている犬がそこに落ちて洗うのに大変な思いをしたことを覚えております。
 ただ淡島に番場餡こやさんの工場があり、母とお鍋を持って行って分けて頂き、これでおはぎを作ったこともございます。
 その頃から宮前橋から淡島までの川の土手には立派な桜が植えられ、お花見の時期にはこれがあるものですからよその桜見物に行ったことはございませんでした。
 戦前は、世田谷代田駅(当時は世田谷中原駅)前には常時人力車が二三台駐車していまして、子供心に一度乗って家に帰りたいと望んでおりましたが、母は「あれは病人かお年寄りが乗るもので子どもの乗るものではありません」と一蹴され、望みは叶えられませんでした。
 昭和19年夏、父の転勤と同時に疎開の意味もあって一家で仙台へ移りましたが、仙台空襲で焼け出され、移らなかった方がよかったかと思いましたが、萩原様のお屋敷が全焼したことを思えば、私共も消火活動できなかった可能性大で、「人間万事塞翁が馬」でございます。
 今や梅ヶ丘通りは商店が建ち並び、バス通りとなり、信濃屋さんも大きなスーパーになり今昔の思いでございます。
 新型コロナウィルスは一向に終息せず、思いもしない世の中になってしまいましたが、一日も早く元の生活に戻りますことを祈る毎日でございます。(了)

3、シスター
              エッセイスト 葦田 華


 河口湖の凍結した湖面から吹きつける風は、鋭い刃物のように私の頬を切った。
なんという寒さだ!
 冬休みの1月、私たちハイスクールYMCAの仲間十人ばかりは、河口湖畔にある、孤児院の孤児たちを慰問するためにやって来た。敷地に入ると、大きな白いマリア像が立っていて、ああ、ここはカトリックの修道院なのだな、と思った。
 建物に入ると、幼稚園児ぐらいの子供達にワッと取り囲まれた。ざっと三〜四十人のチビさんたちに手を掴まれて、食堂に連れて行かれた。そこで何があったのかは全く思い出せないのだが、多分、クッキーと紅茶でも頂いたのだろう。
 子供達がまたワッ!と集まって、手をつなぎたがった。その中に鼻水を垂らした女の子が居たので、私は鞄からちり紙を取り出して、「はい、お鼻をチン!しようね」と鼻をかんでやった。そしてちり紙を少し取り分けて畳み、その子に持たせ、「おはなが出たらね、これでチンするのよ。」と言った。するとどうだ!「あたしもちり紙ちょうだい!あたしにも!僕にも!ちょうだい!ちょうだい!ちり紙ちょうだい!」の大合唱とともに、小さな可愛い手がワワワッと付き出された。私はとっさに自分の非を悟った。孤児院の孤児には、ひとりだけに何かをあげてはいけなかったのだ!みんなに平等にあげなくてはいけなかったのだ!と。この子供達には、私有物を持つことは禁じられていたのかもしれない、とハッと思い当たった。そして、なんて可哀相なんだ!と私は思った。

 しかし、子供達は皆こざっぱりした服を着て、温かそうなズボンを履いていた。
この子供達がこの孤児院にたどりつくまでには、ひとりひとりに悲しい事情があったに違いない。両親を無くした子、事情があって捨てられた子、親戚をたらい廻しにされて、オネショをするからと嫌われ、叱られてばかりいた子、預けられていた家の子供達に、いつも意地悪をされていた子、叩かれたりつねられていた子供もいただろう。このチリ紙を欲しがる子供達の過去と現在を思うと、私はやりきれない気持ちで心がチリチリと震えた。
 やがて違う部屋に移動することになった。子供達に囲まれて廊下を移動している時、ある部屋の中が見えた。そこで、私はひとりのシスターの姿に目を奪われて、足がくぎ付けになってしまった。黒いロングスカートの尼僧服をまとい、顔だけが出る白いマスクの上から、黒い長いベールをかぶって、一心不乱にミシンを踏んでいるシスター。彼女の痩せて青ざめた横顔には、隠しきれない疲労がありありと見えた。彼女は、高校生の一団など見やりもせず、黙々と子供服を縫っていた。
 その部屋の後ろの壁際には、多分アメリカからの古着らしい包みが幾つも梱包されてあり、その1〜2個が解かれていて、布だの服などがまとめてあった。多分、シスターが良さそうな古着を選んだのだろう。そして合点がいった。子供達は多分わずかな荷物を持たされて、着のみ着のまま、この孤児院に連れて来られたに違いあるまい。さすれば、何か着せてやらなくてはならない。

 プロテスタントの教会は、信者の献金だけで、牧師は生活のやり繰りをしなければならなかった。だから牧師さんの家庭は、実に質素であった。カトリックのここの修道院には、アメリカの修道院からの援助があったのだろうか?。そして私は理解した。この疲れ切ったシスターは、子供服を作る部署に配属されたシスターなのだろう、と。
 この次にこの孤児院に来る時には、綺麗な千代紙をたくさん持ってきてあげよう。
鶴を折ってあげたり、あねさま人形の作り方を教えてあげたり、家にあるプリント柄の木綿で、全員分のハンカチを縫ってきてあげよう!と心に誓った。
 やがて子供達との別れの時間が来た。その修道院の敷地には、かまぼこ兵舎が幾つも並んでいた。見送りに来たシスターに尋ねたところ、進駐軍が撤退した後、米軍のかまぼこ兵舎を寄贈してもらい、それが子供達のベッドルームになっている、という話であった。
 この孤児院には、戦後アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた、行き場の無い混血児が大勢預けられていた、と、そのシスターから聞かされて、私はその子供達が不憫でならなかった。
 1958年1月、私は高校一年生だった。<シスター>と聞くと真っ先に、私はあの疲れ切っていても、ミシンを踏んで子供達の服を縫っていた尼僧服のシスターの姿を思い出す。決して、映画<尼僧物語>の美しいオードリー・ヘップバーンではない、キリストの使徒として、真実に美しいシスターであった。(2021,1,16)

4、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。


第166回 7月17日(土) 下北沢線路街を歩く
 案内者 山本 裕 小田急線東北沢駅東口改札前 13時
 東北沢駅から世田谷代田駅までの線路跡を、「下北線路街」と称する。新しく生まれ変わったここを、ダイダラボッチの足跡ができた世田谷代田駅まで歩く。
 以前、小田急地下化によって無くなる踏切を辿るツアーを行った。今回は、「無くなった踏切跡ツアー」でもある。
 
◎注:緊急事態が発出されたことからこの行事は中止することにした。(2021/07/12に記入)

第167回 9月18日(土)三軒茶屋・三宿の文学を歩く
案内者 幾田充代 田園都市園三軒茶屋駅改札前 13時
・山田風太郎・永井 叔・林芙美子・三好達治など
第168回 10月16日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩(延期実施)
 案内者 原敏彦  地下鉄日比谷線 小伝馬町駅出口4番 13時
  コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。
第169回 11月20日 (土)下北沢駅東口 13時
 案内者 木村康伸 旧道二子道を求めて
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲原稿を募集:我々の身の回りに起こっている変化など、近況でも結構です。きむらへ。
▲年末コロナが落ち着いたら小人数での忘年会を行うことを予定しています。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへ「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。


rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月28日

下北沢X物語(4275)―コロナと戦争と私たち―

P1020703
(一)あの戦争を調べている。台湾で撃墜されたアメリカの戦闘機、また墜落したB-25爆撃機の乗員は小型の猟銃を所持していた。本土を空襲したB-29の救命バックには釣り針が入れられていた。不時着したら鳥を撃ち、また魚を釣って飢えを凌げ、必ず助けに行くからというサインだ。B-29の給湯器は紅茶かコーヒーを乗員が選ぶことができた。これらを知って驚いた。先だって沖縄のガマ(洞窟)で同郷人の遺骨を拾っている人が言う。「いたるところに人骨があるんですよ。放置ですね、日本国家は兵を使ったらおしまい、人間を使い捨てにしているのですよ」と。日本と米国の人権観は根本的な差がある。こういう国となぜ戦争をしたのか。昨今コロナ、五輪、財務省文書改ざん問題など、この国家のガバナンスはガバガバ支離滅裂だと思う。戦争時も敵を見誤った、見くびった。初手からガバナンスはガバガバ。現今の問題への諸対応を見ていると戦時中とほとんど変わりがない。勝ち目のない戦争を起こした国、体質は今も昔も変わりがない。

(二)
 6月23日「日本農業新聞」一面コラム「四季」に興味深いことが記してあった。「▲日米開戦前夜の1941年春、内閣直轄の総力戦研究所に全国から、平均年齢33歳の若いエリート36人が集められた。日米戦争の展開を予測するためである」と。そしてその結果である。

▲研究生の模擬内閣が出した結論は「日本必敗」。開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、長期戦とソ連参戦で、敗北は避けられない。米国との戦争は避けるべきだと。政府・統帥部関係者の前で報告されたが、東條英機陸相は口止めをし、間もなく首相となって、米国との戦争に突入してしまう。

 「昭和16年夏の敗戦」猪瀬直樹著を引用してこれを述べている。日本政府中枢のガバナンスの欠如を衝いて見事である。さもありなんだ。

 今朝の新聞一面は、トランプ再始動をトップにして報じていた。こう語る。

この日の演説では、昨年の大統領選挙で不正があったという根拠のない主張にも多くの時間を費やした。

 「あの選挙においてはとんでもない不正があったのだ!」
 とくとくと語るトランプの姿が思い浮かんできて笑ってしまう。これはこの頃の独裁者が使う決まり文句だ。ミャンマーの国軍も全くおなじ事を言っている。

 独裁者の仕掛けは単純、シンプルだ、これに騙されて「トランプ、トランプ」と叫ぶ人たちもどうかと思う。人はプロパガンダに簡単に乗ってしまう。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月26日

下北沢X物語(4274)―満州そして台湾特攻因縁物語 2―

米軍が撮った八塊飛行場2
(一)私は満州生まれだ、しかし、この出自について深く考えたことは全く無い。記憶がないからだ。1946年に満州から引き揚げてきた。一歳である。「覚えていますか?」と聞かれるが答えようがない。しかし、親が満州にいたことは確かだ、父親は早くに亡くなった。母ももういない、渡満の経緯はわからない、時代の趨勢で新天地で新たな生活を築こうという思いはあったように思う。その遺伝子を受け継いでいるのではないか?調べるとDRD4という遺伝子を持つ者は、「スリルを求める性質と放浪癖を持つ傾向がある」らしい。渡満した人の多くはこの遺伝子を持っていたのではないか。さすらいは文学の根源だ、抒情性濃厚な人物の多くが満州の「赤い夕陽」に誘われて行ったのだろうか?「満蒙の荒野に行って人生を切り開く」、心をくすぐるものがあったろう。

(二)人々は、「なぜ満州に行ったのか?」こんな疑問を持ってネット検索をしていると劉 建輝氏の論考に出会った。

日本人の満州イメージの成立を考える時 、「赤い夕日」の持 つ感傷性以外に、もう一つ忘れては ならない要素が、日露戦争前後、一部の青年の間で急速に広まった大陸雄飛の精神志向とそれを実践する形で中国に渡った大陸浪人の存在である。彼らの活躍はいわば従来の感傷的な満州イメージの上に、また新たなロマンチシズムを注入したことで、以後青少年をはじめ、多くの人々の満州夢を掻きたて続けたのであった。

 土地に縛り付けられている日本人は、「土地は無尽蔵にある」、「仕事は山ほどもある」などの甘言に乗せられて多くが大陸に渡った。
 自身の父親もその一人だったかもしれない。
「お父さんは撫順で米穀問屋をやっていた、よく奥地までいって買い付けをしていた。奥地に行くとめずらしいものが多くあった」
 母親から聞かされたことがある。父親も満州熱に取り憑かれた一人なのかもしれない。

一方である。
 戦争末期になって航空兵も多く渡満した。大戦末期航空戦が主力となった。国家は航空兵の養成を迫られた。航空兵を育てるには訓練が欠かせない、ところがこれが本土ではできにくくなった。物資の払底、器材不足、燃料不足、くわえて米軍の跳梁があった。空を自由に飛べなくなった。それで航空兵は満州に渡った。

 空路で渡ったと自分では思っていた。が、みな関釜連絡線を使って大陸へ行った。内地から持っていける飛行機はない。ところがノモハン事件のときに投入した航空機、中古機が多くあった。また燃料も豊富だった。

 いわゆる航養、運輸省航空養成所を終了したものが多くいた。とくに航養14期は数が多かった。満州新京で2月10日に発足した特攻四隊は隊員は、満州国内にあった乗務員養成所で訓練を受けていたものである。その彼らが抜擢されて特攻隊員となった。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月25日

下北沢X物語(4273)―満州そして台湾特攻因縁物語―

P1020702
(一)今日台湾から荷物が届いた、開けるとぎっしりと資料が入っていた。中に真新しい冊子が入っていた。「桃園誌」という台湾直轄の桃園市の広報誌だ。開けてびっくりだ、「木村健先生 ご笑覧 鄭文燦」とあった、桃園市市長直筆のサインがあった。仕掛け人は荷の送り主、邱 垂宇さんだ。台湾航空界の重鎮である。資料の中に「一位飛行員從成長階段:空難救援談被助與助人歴」という碩士論文が入っていた。この本についてはコメントがあった。「此の本は娘 邱 鏛玉が書いた 私、邱 垂宇の成長と台湾航空界にいた物事の記述です」とあった。興味深いものだ、邱 垂宇さんの成長史こそは満州から台湾という壮大な旅路が詰まっている。この輻輳した綾を自分自身が今追っている。満州に発した物語が台湾に辿り着いた。国境と時代とを超えた物語になりつつある。

(二)
 この間、邱 垂宇さんとは国際電話で一時間以上も話をした。そのときに台湾から飛行機で飛んだ場合のことを聞いた。
「ああ、日本にきたなあとか思うときの目印はありますか、例えば種子島とか大隅半島とか、足摺岬とか……」という風な話をしていた。そんなときに「山本隊長戻ってきましたよ」みたいなことを口にすることがある、と聞いた。

 私はそれを聞いて、クラクラとしてしまった。
山本隊長は、第三十一飛行隊、山本薫中尉である。隊名は武揚隊だ、1945年2月10日満州新京で特攻四隊が発足した。そのうちの一隊が武揚隊だ。

この話をするにはマコトの誠ついて話しておかなくてはならない。2月10日に新京で発足した特攻四隊は、皆、「誠」がついている、つまり台湾に本拠地をおく第八航空師団指揮下にある特攻隊である。大本営から新京の第二航空師団に司令が飛び、彼の師団でこの四隊を編成した。大本営直轄部隊である。

 誠隊は沖縄決戦に向けて編成された。新京を飛び発って満州に向かうはずだった。が、本拠地に行く間もなく米軍の沖縄侵攻は始まった。それで四隊のうち三隊は九州から直行した。わずか一隊だけが渡台した。苦難の道行きだった。途中機が故障したり、敵機に遭遇して撃ち落とされたりした。惨憺たるありさまで台湾に無事着いたのは八人である。

 それは誠第三十一飛行隊・武揚隊だ。隊長は山本薫中尉である。弱冠二十三歳の指揮官である。台湾に飛来してきた彼は一人の少年に出会う。これが彼の生涯の運命を決めた。邱 垂宇さんは山本隊長と出会ったことが人生の大きな転機となった。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月23日

下北沢X物語(4272)―小さな戦後史ウェンライトホール 2―

CCI20171210
(一)昭和22年に流行った「夢淡き東京」という歌謡曲がある。「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日」と始まる。そしてすぐに「かすむは春の青空か あの屋根は かがやく 聖路加か」と藤山一郎によって軽快に歌われる。聖路加は聖路加病院だ、モダンな建物の象徴として歌われる。『ミドリ楽団』はここで昭和21年にデビューした。当時は進駐軍に接収されていた病院である、ここで米軍傷病兵の慰問をした。これによって楽団は評判になった、進駐軍からはオファーが殺到した。それから4年後のウェンライトホールで「Sayonara」音楽会は開かれた。すでにアニー・パイル劇場での大舞台も経験している。定評のある『ミドリ楽団』であった。演出などもきっちりでよそ行きを着た将校夫人たちは、演奏が終わるとスタンディングオーベーションをして大きな拍手を送った。

(二)
音楽会当日に配れたプログラムである。冒頭にこうある。

 Concert by The Daizaw School Chidren's Band


  代沢小学校のバンドグループで結成されたのが「ミドリ楽団」である。呼称としては Chidren's Bandだ。子どもたちであるがその楽器演奏は群を抜いていた。これを束ねて統率していたのは浜館菊雄先生である。
 昭和二十五年段階では、アニーパイル劇場(旧東京宝塚劇場)での演奏披露は三回に及んでいた。関東にある米軍基地の慰問、またアメリカンスクールでの演奏は数多くこなしていた。子供楽団としては第一級の楽団として認められ、録画された映像がクリスマスに全米で流されもした。
 さてウェンライトホールでのプログラムだ。

1、Fantasia:Tale of the Blue Sea…composed by k..Hamadate―Band Leader
2、Xylophone Solo:Golden Wedding
3、Cockoo Waltz
4、Selection from Stefen Fosuter`Songs
5、Medley:Americana
6、Selecton from "Show White and Seve Dwarfs"
 a.Whistle While You Work
 b.Heigh Ho!
 c.Dwarfs Yodel Song
7、Medley:Music of Waves and Streams
8、Xylophone:Turkish March
9、March of Kewpi Dolls
10、Medley:American Melodies

 
 曲目の並べ方からして巧みである。まず、一番だ「Fantasia:Tale of the Blue Sea」、ファンタジー「蒼い海の物語」である。作曲者名も記されている。バンド・リーダーの浜館菊雄先生である。
 この「蒼い海の物語」は、「ミドリ楽団」を調べる過程でよく耳にした。バンドの十八番だったようだ。ところがこの楽譜は残っていない。鉛筆部隊の鳴瀬速夫さんが曲の印象を覚えていた。
「軽快な曲で、ワルツの三拍子でシュトラウス風でした」
 小手調べでこれを披露する、水色のドレスを着たご夫人、「ブラボー」と発する、するとピンクや黄色の袖が揺れて拍手に及ぶ。

 二番目のシロホンはもうお手のものだ。演奏者は誰であったか、安倍圭子さんに聞いてみれば分かる。彼女は世界的なマリンバ奏者である。ミドリ楽団の団員だった。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月22日

下北沢X物語(4271)―小さな戦後史ウェンライトホール―

P1020699
(一)代沢小「ミドリ楽団」が1950年(昭和25)5月10日に銀座のWanright Hallで音楽コンサートを開いている。主催は、「騎兵第八旅団婦人クラブ」だ。プログラムの表紙に「Sayonara」と記されている。お別れ音楽会だ、誰との別れか。容易に想像がつくのはクラブの仲間がアメリカ本国に引き揚げる。それでお別れに音楽会を開いた。婦人たちは将校の奥さんだ。占領が始まって慌ただしい中、先遣隊将校夫人たちは本国から来た。接収されたホテルや邸宅での暮らしは大変だった。その占領初期組の将校夫人が夫とともに帰国する。彼女等を送る音楽会だ。日本占領が一定程度の落ち着きを見せた。それで米軍高官は日本を引き揚げる。将校夫人の本国引き揚げは占領政策の一定の節目だった。それで戦後史の隠れた一ページであると述べるものだ。

(二)
 フェィスブック仲間の梁田貴之さんは顔が広い。多くの知り合いがいる。その彼がフェィスブックに銀座教文館で開かれている「赤羽末吉展」の案内をしていた。この場所が9階の「ウェンライトホール」とあった。これを見て想い出したのが「ミドリ楽団」であった。

 『ミドリ楽団物語』−戦火を潜り抜けた児童音楽隊−を書いた。このときにウェンライトホールで開かれた音楽会のプログラムを手に入れていた。このときは教文館に電話での取材はしていた。が、ここには行っていなかった。それで気にはなっていた。たまたま梁田さんが「赤羽末吉展」を案内されたことからウェンライトホールについてフェィスブックにはコメントをしていた。その応答だ。

コメントを見た教文館ナルニア国の八巻聡子さんが「ウェンライトホールのウェンライトは宣教師で、今のビルをアントニン・レーモンドが建てた時に尽力したと教文館の歴史にあります。それは戦前のことなので、こちらの陸軍大将とは別人物ではないかしら。
 今、赤羽末吉展の看板で隠れている壁面に、ウェンライト博士のレリーフがあります。
10年ほど前の展覧会の時に、青学の先生が「ウェンライト先生の像を隠してはいけない」と、看板を横にずらしたことがありました(笑)メソジスト派とよばれるクリスチャンにとっては有名な先生らしいです。それにしても、この著者も満州生まれでいらっしゃいますね。」とメッセージくれました。
さらに、

 20日、ぜひお誘いください。看板の裏側のウェンライト先生をお見せしますと言ってます。

 という経緯があって20日に銀座の教文館に出かけた。このときに開かれたのは、石子順さんトーク「赤羽末吉と石河潔のこと――“満州”を生きた二人」である。これはこれで興味深いものだった。講演後に石子 順氏に挨拶に行くと。
「親父が言っていました。満州には『びゃくらん特攻隊』が居たと。これは有名だったと」
 石子さんのお父さんは石河潔で満州日日新聞社に勤めておられたようだ。これは新京にあった。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月20日

下北沢X物語(4270)―チンチン電車で出撃した特攻隊 2―

松電浅間線 停車場1
(一)1945年3月4月、陸軍松本飛行場には沖縄へ向かう特攻機が数多く集結してきた。全貌が分かっているのは武剋隊と武揚隊だけだ。他隊はほとんど分からない。隊員の多くは浅間温泉を宿泊場所とした。短期の場合もあるが二週間から四週間も滞在する隊がいた。山のいで湯に浸かってのんびりはしていない。毎日飛行場へ足を運んだ。戦闘機は生き物だ毎日エンジンを掛けて調整せねばならぬ。どうせ死んで戻ってこないとあてがわれたのが中古機である。整備は欠かせない。武剋隊、武揚隊には機付き整備員がいた。特攻隊員も整備員もチンチン電車を使った。松本まで行って篠ノ井線に乗り換え村井駅まで行ってここからはトラックだった。いよいよ出撃というときは、やはり浅間線のチンチン電車だった。宿でふれ合った引率の先生や学童が見送りにきた。最後は駅頭で隊長が「行って参ります」と挨拶をしてチンチン電車に乗り込む。「先生や学童がちぎれるほどに手を振った」、宿でのふれ合いが長く、別れがそれでよけいに辛いからだ。

(二)
「今度やってきた兵隊さんはみんな航空隊なんだってさ!」
「ということは落下傘で降りてきたんだな」
「ちがいますよ。チンチン電車ですよ」
 そう彼らは松本電鉄浅間線のチンチン電車を使った。

 武剋隊の機付き整備兵はこう証言している。

 私達は、宿から飛行場に毎日出かけて、整備応援に明け暮れました。三月十日の陸軍記念日式典は、下浅間小学校の校庭で、形ばかりのものが行われました。戦争は激しさを加えて、特攻機としての改装は、いよいよ急を要し、広森隊長は、一刻も早く出撃せねばと、焦燥の色をみせておられました。 (『開聞岳』 飯尾憲士 集英社 一九八五年刊)

松本駅前

 武剋隊についた整備兵の佐藤曹長の証言だ。満州新京で発足した武剋隊は大本営直轄の特攻隊だ、一機一機に機付き整備兵がついていた。その数十五名である。特攻機がなぜ陸軍松本飛行場へ来たか。ここにその飛来目的が記されている。「特攻機としての改装」、いわゆる爆装改修をするためだった。

 「宿から飛行場に毎日出かける」、これは特攻隊員も同じだ。やはりチンチン電車に乗ってのご出勤であった。くたくたに疲れての帰りは誰もが船のように揺れる電車でぐっすり寝込んだ。
「終点、浅間温泉駅です!」
 車掌は一人一人を起こして回った。
続きを読む

2021年06月19日

下北沢X物語(4269)―チンチン電車で出撃した特攻隊―

浅間温泉駅風景
(一)時ほど怖いものはない、指の間から砂がこぼれ落ちるように消えていくからだ。その時の思いも記憶もどんどん消滅していく。が、何かの折にその時の写真が見つかる、こぼれた時が戻ってきたかのように記憶が蘇る。山梨の矢花克己さん、オークションで手に入れたと松本電鉄浅間線の写真を送ってきてくれた。あの駅、この駅、眺めているとそこで起こった物語が浮かんでくる。1944年夏、世田谷からの疎開学童は新宿から夜行に乗って翌朝松本駅に着いた。改札から出てしばらく歩くと小さな電車が待っていた。「チンチンは同じだけど音が田舎っぽい!」、「船みたいに揺れる!」と学童。往時の写真を見て真っ先に思い出したのは、浅間温泉駅から電車で「出撃」して行った誠第三十二飛行隊・武剋隊の面々である。飛行服をぴっちりと着こなし、頭に飛行帽を載せた姿は凜々しい。手には軍刀を持っている。電車がチンチンとなって動き出す。隊長が別れの敬礼を送る。疎開学童たちはちぎれるほどに手を振った…

(二)
 沖縄戦の緒戦において華々しい活躍をした隊は電車で出撃していった。
「激動の昭和史 沖縄決戦」という映画がある、特攻隊長を演じたのは東野英心である。昭和20年3月27日未明、沖縄中飛行場だ、今度は電車ではない。いよいよ戦闘機に乗っての出陣だ。各機は轟音を響かせてエンジンが唸っている。中古であっても歴戦の強者、九九式襲撃機は武者震いをするように機体を震わせている。

浅間温泉駅
 やがて時間が来て「集合!」の号令、隊員はピストに走った。

ピスト前に集合だ、まず基地司令官に出発申告する。つぎに隊長に搭乗申告をする。それが終わって『よし』となって一斉に機へと走った。
 時刻はまだ五時だ、霧が掛かって走りゆく隊員をつつみ込んだ。駐機場ではおぼろげに機体が見えた。霧が晴れてきてやがて尾翼の赤い日の丸がはっきりと見えた。とたんに空は晴れて青空が見えてきた。日の丸鉢巻き姿の隊員の一人一人の表情までも見える。涙を流した後まで分かった。
 武剋隊総員は九名だ、駐機場で二列に並ぶ。映画でのこの出撃場面の名台詞が放たれる。『いつもの通り俺についてこい!いいな!』
 武剋隊隊長・広森達郎中尉は大きな声で檄を飛ばした。それに対して部下は大きな声で『ハイ!』と応えた。
『搭乗!』の号令で隊員は各機に散った。各機には機付きの整備兵がいた。
『機体、発動機、異状なし、前縁タンク満載!』
 その機に張り付いていた整備員が各隊員に報告する。それが終わると操縦席に乗り組んだ。そこには世田谷の疎開学童の女子が作ったお人形がつり下がっていた。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月17日

下北沢X物語(4268)―大空詩人作:「名簿詩集」の鑑賞  了―

CCI20210617
(一)詩序文には「『名簿も詩集』 まるでぼろくずみたような私(叔)を今日までも生かせて下さった方々の名簿(合掌) 一九六五年七月四日」とある。もう半世紀も前に出されたものだ。多くの方々がもう鬼籍に入られている。我々一般人は記録されずに人生を終えていく、人々へ感謝の念を込めて、根性で作った名簿は人生の裏方への鎮魂歌であるように思う。詩人と出会った人々の小さな物語である。そっと人生舞台から消えていった人々の墓銘碑であるようにも思う。名簿に記された人々はどんな人生を送ったろうか、一人一人を見るにつけそれぞれの人生が思われる。鑑賞は今日で了としたい。

(二)
(697)名和秀雄 岐阜市名和昆虫研究所。
マンドリンを持ってヒョッコリお尋ねした者です。そのせつ先生が「台湾」の或る街でシロンタサツマニシキを昼間採集されたオハナシをききました。故靖先生が採集されたミカドガガンボの大きいのにもビックリ致しました。又虫の供養塔を拝みに参りたいです。


 名和秀雄は著名な人だ、この父親が名和靖で昆虫研究では第一人者で「昆虫翁」と呼ばれた人だ。昆虫碑を建て、また昆虫研究所を創ったのも彼である。研究所は名和家が引き継いでいて今も存在する。名和秀雄は昆虫翁の子どもだと思われる。

 永井叔は全国各地を流浪している。辺境にも度々訪れているがその理由の一つが昆虫採集にあった。「名簿詩集」の中では度々難しい学名のついた昆虫が記されている。マンドリンとともに彼は捕虫網を抱えていたように思う。

(410)藤田佳世 渋谷区宇田川町61 せともの店二階でおこのみやき「こけし」をご経営。�猝消� 道玄坂さん�瓩涼�書。

藤田佳世も著名人だ。彼女が編んだ『渋谷道玄坂』は、「明治45年(大正元年)生まれの渋谷を知り尽くした藤田佳代は『大正っ子』。大正10年ころの道玄坂界隈350軒近くの家並の地図をつくった。渋谷の代名詞として広く親しまれた“道玄坂”その佇まいや生きる姿を37篇の短編小説のように描く」と評される。

 永井叔自伝青年篇にこういうことが記録されていた。

 終戦後のある日、名著“道玄坂”の著者藤田佳世嬢に連れられて巣鴨刑務所につながれているAB級戦犯の方々を慰問した

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月16日

下北沢X物語(4267)―大空詩人作:「名簿詩集」の鑑賞 2―

P1020682
(一)細流の文化探査を心掛けてきた、その源流部で「名簿詩集」が発見された。この存在は全く知られていない。マスコミ流に言えば「大空詩人未発表作品発見!」となる。しかし詩人は地味だ、大騒ぎになることはない。これを読んでいる人が見てにんまりしてくれればいいだけの話だ。実際、読者も楽しんでおられて嬉しい。野沢有氏もその一人だ。佐世保市の丸美屋の社長、礼文島の香深中学の先生が気になるとのこと。社長は太っ腹、「マンドリンを野宿中に無くしたと、それは気の毒」と言って楽器代を喜捨してくれた。その丸美屋の社長さん今は?検索で調べたが出て来ない。どこにどうしておられるだろう。孤島の女教師もどうしたろう。想像を刺激する。私は彼女は若い国語教師で中原中也ファンだったのではないか、物語を思った。

(二)「私は、教科書に出てくる中原中也の『月夜の浜辺』が好きなんですよ、『月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際なみうちぎわに、落ちていた』、最初っからドラマに誘ってくるんですね、やっぱり中原中也はいいですね」
 礼文島香深中学に挨拶に行った。すると若い国語の教師佐藤純子が応対に出てきた。つい話しこんでしまった。
「中原中也君?、あれはおれの友達だ」と永井叔。
「えっ、ほんとこんな北の果ての島に、中也の友達が来るなんて信じられません」
「本当さ、あいつはね私の恋人を盗んだんだよ」
「うそ!」
「本当さ」
「可愛かった?」
「美人だよ、女優として映画にも出たくらいだから」
「名前は?」
「清水谷八枝子だ、芸名は長谷川泰子と言ったな。生まれて初めてキッスした子だ」
「まあ、素敵、どうしてそんな有名な人がこんなところへ」
「こんなところって見下げることはない、いいところだ、船を下りたとたんに潮がにおい、そしてな、昆布が匂ってくるんだ。ぽくぽく歩いていると海風が吹いてきてな、わしの代わりにマンドリンを鳴らしてくれるんだよ……。

 詩人は礼文島にいつごろ訪れたのか?「永井叔 礼文島」と検索する。検索先の荒磯はまだ寂しい。なんのことはない。自分のブログが網に引っ掛かってくるだけだ。
 といういことは大空詩人の礼文訪問は当ブログのみの記録となる。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月14日

下北沢X物語(4266)―大空詩人作:「名簿詩集」の鑑賞―

P1020685
(一)「名簿詩集」とは何か?永井叔は言う「流転又流転の間に親しくしていただいた方々のお名前(アドレス)が�猝哨楔極椨瓩砲△佞譴討い襦廖�しかし全部を載せきれないので「抄録させていただいた」と断っている。マンドリンを抱えて処々方々を流浪してきた。そのときにお世話になった人々の名簿、言ってみれば人の貯金通帳である。それがなぜに「名簿詩集」となるのか。ここにどんな詩情があるのか。名簿ゆえに居住地が記される。例えば(788)では「鈴木靖之:茨城県北茨木市磯原町」の後には「790」では「中野久子:鳥取県寺町」が出てくる。それぞれに土地の詩情を感じる、ただ住居表示しているだけではない、前者は「野口雨情」に関わる記事を書いている人、また後者は無料宿泊所を経営し「浮浪者や刑余者のしばらくの落ち着き場所を提供され」と、文化的な営為や慈善事業が紹介されている。人と土地と営みは詩である。

(二)
 目についた、ちょっと興味深いものをランダムに拾ってみよう。

(751)佐藤純子 北海道礼文島香深中学校(先生)ベントウと百円のおさいせんをいただく(合掌)

 何のこともない。しかし最果ての海に浮かぶ孤島を放浪したときのことが思い浮かぶ。
通り掛かった中学校に入って行くと若い女の先生が出てきた。
「マンドリンを弾いて全国を行脚している者です、子どもたちに聞かせられませんか?」
「ああ、ちょっとすぐには」
 離島勤務を志望した彼女は昼の弁当とそして百円の喜捨をしてくれた。
 礼文島香深中学の校歌の一節だ。
「北の宝庫の名も高き/岸に山なす海の幸/いつも楽しく広々と」
 お弁当に礼文名物のウニは入っていたか。

(819)宮崎忠義 淳子 正夫 マチ子 富美子 長崎県佐世保市干尽(ひずくし)町三
  丸美屋(海産物)
(大村市のはらっぱで野宿中マンドリンを盗まれたが(1960年夏)、おかげさまで、佐世保で新品が買えました。合掌。吉田九郎氏紹介)


 マンドリンを抱えての巡托は全国に及んだ。宿賃はない、野宿である。マンドリンの盗んだのは乞食だろうか。
「大村市で野宿しているときに商売道具のマンドリンを盗まれましてね」
「そうか、それは困ったろう、新しいのを買えばよい」
 太っ腹な丸美屋社長は万札を懐中から出した。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月13日

下北沢X物語(4265)―大空詩人永井叔の名簿詩集―

P1020686
(一)大空詩人永井叔、全く知られていない詩集がある。『名簿も詩集』である。彼は1965年(昭和40)10月に『大空さん自叙伝』(NO1 或ヒョンな児の記録 )を太子堂「大空の家」から発刊している。『名簿も詩集』は永井叔自身「この自伝の付録」として作った。自叙伝を出版したときに出版記念会を12月18日に世田谷区民会館で開催している。「この名簿を12月18日会場へご持参ください」とある、あらかじめこれは配られていたようだ。執念の名簿である。一人一人に番号が振られていて、最後が800となっている。名前と住所がガリ版刷りでびっしりと書かれている。「名簿も詩集」と本人は言う。頁を繰ると一人一人に関わるエピソードが短文で綴られていることだ。本邦初の「名簿詩集」である。いったいどんなものなのか?変人横丁の住人は今なお不思議な存在である。

(二)
 詩集であるならば序文はあるか。ある、こう書かれている。

名簿も詩集
まるでぼろくずみたような私(叔)を、今日までも、こんなに生かせて下さった方々の名簿(合掌)


 感謝の念がこめられた名簿だ、出版記念会場へ持参くださいとある。ということはこの名簿にある多くの人々が出席する、そのときに参加者が名簿で「〇〇番の何の誰それです」と紹介しあう。そうすることで大空詩人つながりのネットワークができる。

〇名簿に出てくる人の一人を拾ってみよう。

(459)青野平義 佳代子 安西公彬 港区三河台町十七
 文学座を退いてグループNLTをつくり活躍中。文化学院出のサ子夫人は写真家。公(タカ)ちゃんは大学生(ケンチの科)


 青野平義は著名人だ、青野 平義は、日本の俳優。本名は青野 元太郎。旧芸名に里村 元春、青野 太郎。彼の生家は老舗和菓子屋「青野総本舗」である。劇団NLTは三島由紀夫により結成されたものだ。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月11日

下北沢X物語(4264)―変人横丁の大空詩人永井叔―

P1020679
(一)ここ16年間、ディテクティブ、つまり刑事や探偵と同じようなことをやってきた。こちらは文士旧居を探し当てるという作業だ。怪しまれ誰何されたこともある、好まれないこともある。ある大詩人の旧居を探し当てたとき、「それが何なのよ」と現住民にすごまれたことも。反対に「よくぞ探し当ててくれた」と言う人も、苦労は並々ではない。しかし、場所が分かることは大事である、そこに佇むと、時代が経っていても場面を具体的に想像できるからだ。昨日大空詩人旧居を調査した。彼は女性にとても持てた、結婚申し込みに来た女性もいた、また近所の昭和女子大の学生三人が尋ねてきたこともある。その現場を確かめようと昨日太子堂まで歩いた。ディテクティブは町の空気を吸うところから始まる。目的地は太子堂の永井叔いうところの「変人横丁」である。

(二)
 太子堂5丁目25番には坂がある。坂下の路地に永井叔は住んでいた。「大空の家」だ、多くの謄写版刷りの本を出していたところでもある。

 今は茶沢通りがあって下北沢からまっすぐに三軒茶屋に行ける。ところが昔はダイレクトに繋がっていなかった。ここにある坂道を通って人々は三軒茶屋に出ていた。

 この道をよく通っていたのはさすらい人の三好達治だ。このすぐ近くに寓居を構え住んでいた。詩人の三軒茶屋への通い道がこの坂だ、道なりに行ったところに清水湯という銭湯があった。三好達治はこの銭湯に行っていた。永井叔とは何度も擦れ違っていたはずだ。

 萩原朔太郎と永井叔は知り合いだった。朔太郎と深いつきあいがあったのは辻潤である。面白いことに永井叔と辻潤とは深い交流があってこれが気仙沼と繋がってくる。昨日、永井叔の略年譜を記したが気仙沼図書館の蔵書が深く関係してくる。これは後で述べることにしよう。

件の坂道は昨日上った。上り切って左に行くと木々が生い茂った邸宅がある。ここが現役の作家、佐藤愛子邸である。
坂を真っ直ぐ行くとすぐ右手に路地がある。これを囲むように家々が建っている。ここは元帥の畑俊六邸があったところだ。
 昭和20年5月24日、山手大空襲があった。このとき一帯に多くの焼夷弾が落ちた。
永井叔の妻正子は隣組組長だった。すぐにバケツを持ってこの坂を駆け上った。バケツリレーの陣頭指揮を執った。畑俊六元帥夫人も加わって必死に消火活動をして山岸家の火災を食い止めた。

 坂道を登って行くともんぺ姿の永井叔の奥さんが目に浮かんできた。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月10日

下北沢X物語(4263)―大空詩人永井叔:略年譜―

P1020680
(一)大空詩人永井叔を調べていて新たな文学観を持った。文学は成果品である作品によって評価される。が、人の境涯そのものも文学として成り立ち得ると思った。詩人の軌跡を残す作品は断片的に残っている。が、これらは普通に閲覧できない。彼の作品が網羅的に残されていないからだ。現今手に入れられる材料をもとに永井叔という人物を想像しながら紐解いていく。思ったことは彼の営為そのものが文学ではないか。詩人は裏紙人生を生きた裏紙詩人である。永井叔の魅力は彼の破天荒な人生にある。彼は即興的に詩を創り、それをガリ版で印刷し、マンドリン行乞でこれを持参し人々に配った。「紙切れには歌が書いてありましたよ。裏にも印刷されていましたが何かの広告ですね」彼を覚えている人が言っていた。「大空詩聞」も大量に印刷されたがこれも裏紙が使われたか、この記録もほとんど残っていない。僅かに残った作品断片から彼の境涯文学を紐解く、新しい見方だ。

(二)永井叔は裏紙を大切にした。自叙伝に面白いエピソードが紹介されていた。目黒の祐天寺を行乞しているときに若い娘さんから裏紙を喜捨されたという。彼女は大空詩人のことを知っている。娘さんは別の機会のマンドリン行乞で裏紙に印刷された詩をもらったのだろう。大空詩人は裏紙を大切にする人だと知っていて、彼が行乞に来たときに裏紙を差し上げた。一枚二枚ではない、広告、あるいは印刷で余ったものなどを彼女は貯めていてそれを喜捨した。

 永井叔の著作は少ない、活字本で手に入るのは『大空詩人 自叙伝青年編』(同成社)、『青空は限りなく 自叙伝壮年編』(同成社)の二冊だ。前者は古本ネット検索で調べると47500円で売られている。

 試みにヤフオクで調べると一冊だけ引っ掛かった。

◎貴重本◆ 永井叔  大空さん自叙伝 No.6 茫洋を詩う  続々老壮年篇  ガリ版刷り本  贈呈書き署名入り  1974年

これは昭和49年の発行である。こういうのも記録として大切だ。これの発行所は「大空の家」である、世田谷区太子堂五丁目にあった借家であり印刷所であった。

 永井叔の境涯はよく分かっていない。一つ分かったのは「大空さん自叙伝」No.6があることだ。とすれば、NO1からNO5もあるはずだ。これらを調べて時代順に並べる。すると不明であった境涯が見えてくる。

永井叔 1896(明治29年)−1976(昭和51年)

・1896年(明治29) 1歳
1月29日愛媛県松山市唐人町3丁目3番に医師・永井甃一、妻・関子の四男として誕生。

・1927年(昭和2)  31歳
 世田谷区太子堂町一二三番地に陋居を借りる。(しばらく住んだ後)
世田谷区太子堂町一一六番地に転居する。
  現在の番地では太子堂5−25−13 である。

・1929年(昭和4) 33歳
  発行月不明  『星の巣へかへる』 発刊 大空詩聞の家

・1945年(昭和20)  49歳
5月24日 太子堂の居宅で空襲を受けるが被災は免れた。
 
・1961年(昭和36) 65歳
 3月 『貧しくも夢失わず』: 筑豊の子どもたちの詩集 永井 叔/編著

・1964年(昭和39) 3月 68歳
 3月 『緑光土物語』: 軍獄中作 発刊 大空の家

・1965年(昭和40) 69歳
 10月 『大空さん自叙伝』NO1 或ヒョンな児の記録 発刊 大空の家

・1967年(昭和42)  71歳 
 10月  「大空さん自叙伝」NO2 青年のころ 発行 大空の家

・1969年(昭和44)    73歳 
 5月  「大空さん自叙伝」NO3 聖らかということは 発刊 大空の家

・1970年(昭和45) 74歳 
 6月20日 同成社より「大空詩人-自叙伝・青年編」を上梓。
 6月  「大空さん自叙伝」NO4 緑光土オオゾラにめり込んで 発刊 大空の家

・1972年(昭和47) 76歳
 4月20日 同成社より「大空詩人-自叙伝・壮年編」を上梓。
 11月「大空さん自叙伝」NO5 哲学の団子―太陽のように 発刊 大空の家

・1974年(昭和49) 78歳
 11月1日  「大空さん自叙伝」NO6 茫洋を詩う 発刊 大空の家
この年暮れに倒れる。

・1976年(昭和51年) 81歳
  死去 11月30日  東京都多摩市和田の厚生荘病院
  東京都多摩市東寺方の自宅で葬儀
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月08日

下北沢X物語(4262)―大空詩人永井叔:放浪の足跡―

P1020673
(一)大空詩人、数多くの人々の記憶に残っている。至る所で彼独特の風貌、そしてパフォーマンスが見られた。マンドリンを奏でながら歌う、つい乗せられて一緒に歌った。子どもたちには大きな影響を与えた、彼は請われれば幼稚園へ行き、学校へも行った。世田谷区北沢小学校では音楽講師となって学童に教えていた。そのことを今も覚えている人がいる。ところが、大空詩人の記憶はあるが、記録がない。彼は太子堂を根城にして活動を行った。世田谷区である。ところが区の図書館で検索しても一件も引っ掛からない。自身の手元には『大空詩人 自叙伝青年編』(同成社)、『青空は限りなく 自叙伝壮年編』(同成社)がある。特徴的なのはガリ版刷りのものが多くあることだ。彼の生涯は無数のエピソードに満ちている。ドラマは腐るほどある。今日調べたところ終焉の場所と年月が分かった。

(二)
 永井 叔の年譜についてはよく分かっていない。1977年に亡くなったとある。wikiでは、「告別式は東京都多摩区の自宅で行われた」とある。東京都多摩区はない、川崎市多摩区はある。終焉の地はどこなのだろうか。

 太子堂に何時から住んだのか?先に挙げた『大空詩人 自叙伝青年編』(同成社 一九七〇年刊)にこういう記述がある。

 愈々東京を根城に大空運動をおこそうと心に決め、世田谷区太子堂町一二三(間もなく五の二十五の三=一一六)へ陋居を借り�狢膓�新聞の家�瓩般召鼎院∧_�及び東京(支部)の大日本家庭音楽会の支援を得て、こまかい活字で埋めた大空新聞六千部を毎月発行することにした。

 六千部は相当な数である。支部へも発送したのだろうが、太子堂「大空新聞の家」でも配布を担当したろう。彼自身がその新聞を携え、マンドリンを持って布教活動を行った。

 永井叔は、この太子堂で空襲に遭っている。

 五月十五日夜、米機群の襲来に太子堂なる私の家の周辺も大分やられた。
 あの夜、病弱(ひどい咳や時々の呼吸困難……いきぎれで苦しんでいた)の妻正子は隣組組長らしく、バケツをひっさげて、すぐ近くの山岸家の火を消しに走った。畑俊六元帥夫人ももろ共に防火に大活躍!(油脂又黄燐焼夷弾の雨雨雨……だ)
 火炎に包まれた百十六番地(現五丁目二十五、二十六)界隈は、爆撃音の遠のいたあと、一ように、やれやれと胸を撫でおろしたのだった。
 『青空は限りなく 自叙伝壮年編』(同成社 一九七二年刊))


 日付は永井叔の記憶違いだ、当地が空襲を受けたのは二十五日(二十四日も)である。近接した二十五、二十六番地は焼けたが住まいは無事だった。

続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月07日

下北沢X物語(4261)―放浪三茶太子堂 3―

P1020669
(一)人の記憶も風化する、歳を重ねて人は老化しやがてはこの世から消えて行く。町のあの人、この人のことも時代の経過とともに消え去っていく。十五年前から近隣をさすらい人のように訪れては人の話を聞いた。誰もが覚えているのが「大空詩人」だ。「すべては大空のように」と描いたタスキを掛け、ひげもじゃの彼がマンドリンを抱えてやってくる。子どもたちはその彼の後をついていく。誰あろう、大空詩人の永井叔である。彼のことを知らない人はいなかった。一帯の有名人だった。美空ひばりとのツーショットがある。ひばりのお父さん役に扮して出てくる主婦の友社に載った口絵もあった。この永井叔は太子堂を拠点にして活躍をしていた。放浪詩人として誰一人知らぬものもいなかった。が、この頃、人に聞き込んでも彼の名は出てこなくなった。時代転変人の名も埋もれてゆく。

(二)
 この永井叔のことを知ったのは東條英機の孫、東條由布子さんから聞いたのがきっかけだった。彼女は我々の会の事務局のある代田邪宗門の隣に住んでいた。

 有名な逸話がある。
 彼女富士高校を卒業して第一生命に入社した。日比谷の第一生命ビルは、戦後、アメリカの進駐軍に接収され連合軍総司令部(GHQ)の本部となった。ここに敗戦国の首相の孫が勤めたというので話題になった。

「入社最初の日でしたね、スーツを着て家から出ると、回りの男子寮から顔を覗かせた男たちが口笛をピィピィ吹くのよ。あれは嫌でしたね」
 生前の彼女はそう語っていた。この辺り独身寮が多くあった。

彼女から多くの話を聞いた。取材記者もやっていた。
「太子堂に住んでいる永井叔さんの取材は行いましたよ。森茉莉さんもしました」
 ともにさすらい人だ。
「ええっとね、その時のテープがありますね」
「それはぜひ貸してください」
 森茉莉取材時のテープは出てきて貸していただいた。
「永井叔さんのもどこかにありますよ。捜しておきます」
 この約束を果たせないままに彼女は亡くなってしまった。続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月05日

下北沢X物語(4260)―放浪三茶太子堂 2―

P1020398
(一)三軒茶屋文学と下北沢文学、この比較論が面白い。この両者を区切るのが一本の丘陵である、世田谷城続きの舌状台地だ。南が太子堂で北が名の通り北沢だ。地図でみても違いがはっきり分かる。淡島通りを境として南側は路地が入り組んでいて迷路のようになっている。一方の反対側の北は碁盤の目状に土地の区画整理がきっちりとできている。この差異に文化圏の違いがある。北は小田急電鉄影響圏、南は玉川電車影響圏だ。前者は震災以後の昭和二年に開通した。後者は明治末には開通していて開けていた。エポックは関東大震災だ、早くに開けていた三茶、太子堂区域は避難民が一気に押し寄せた。一方の北沢地域は震災後の開発で整理が行き届いている。大きな違いである。

(二)
 三軒茶屋文学と下北沢文学の対照的な違いが二人の女流に端的に表れている。それは林芙美子と森茉莉である。が、その反対側は。交通論的な観点で説明できる。この二人の居住地の距離は442メートルである。が、この間に地形学的な違いがある。つまりは舌状台地を挟んで玉川電車影響圏と小田急電車影響圏とに別れている。

 ただ時代が違うことは指摘しておかなくてはならない。林芙美子が太子堂に住んだのは大正14年(1925)の数ヶ月間である。一方の森魔利は昭和26年(1951)に永福町から越してきて淡島倉運荘に住み始めている。最期終焉の地は経堂フミハウスだが、彼女は境涯の作品はほとんどが淡島倉運荘、代沢ハウスで書かれている。

戦前と戦後という大きな違いはあるが環境的な点ではさほど代わりがない。現今、林芙美子旧居にいくと塀の上から墓場の墓石や卒塔婆が今も見える。かつての陸軍病院はグランドヒルズ三軒茶屋ヒルトップガーデンというマンションが建っている。

林芙美子が居住した時代からもう百年近くなる。時代が変わったとはいえ当時の空気感は漂っている。路地が入り組んだ町太子堂、庶民性はまだ色濃く残っている。
 
彼女は「屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家」と書いている。淫売宿の位置は今の下の谷商店街にあたる、これは地元の人からの聞き込みで分かった。昨日、当方のFacebookに「ネット検索で見つけた「風は世田谷」昭和60年制作です。私は、この時代の印象が強いみたい。」とのコメントがあった。ここにこの商店街が賑わった頃の様子が映っている。が、今はすっかり寂れてしまった。


続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月04日

下北沢X物語(4259)―放浪三茶太子堂―

P1020661
(一)三茶には歩いてよく行く、この間、会報を届けるのに家から歩いた。三茶を通る。路地から路地へ抜けていくときに「三茶はさすらいの町だ」と思った。街道の交差と分岐、庶民的な町の匂い、路地町などを足に感じてそう実感した。今度、三茶・太子堂の文学を歩くを開催する。具体的な作家名が想起される。林芙美子、山田風太郎、永井叔、葛西善蔵などだ。それに加えて三好達治だ。この誰をとってもさすらいは浮かんでくる。最も典型的なのは林芙美子だ、ここ三茶、太子堂は『放浪記』の舞台であった。道が未知の町を切り開き、人がよそから来て住んでは、立ち去った、三軒茶屋は分去れの町、その交通構造に漂泊の根幹がある、三茶漂流文学論だ。

(二)
 正岡容は三軒茶屋に一時住んでいたことがあったようだ。三軒茶屋文化論を述べている。文化というものが大武蔵野から現代へ直結してできあがったもので親しみ憎いということを述べている。三軒茶屋を貫く近代交通機関は玉川電車だ、渋谷から直結している。が、町並みは続いても三軒茶屋から先は田舎、農村地帯であった。いわゆる場末町だ。上方のような文化は育っていない。もともと田舎町であったということだ。

 町が変化した大きなきっかけは大正12年の関東大震災である。下町が大火事になって数多くの被災民が出た。玉川電車が通じているこの場末には大勢の被災民が押しかけた。三軒茶屋や太子堂を歩くとその当時の影響が今も色濃く残っている。畑だったところに無秩序にアパートや貸間、下宿屋などが建った。人々はここに住み着いた。
P1020662

 その一人が林芙美子だ。詩人の野村由哉と恋仲になり、大正14年、多摩川べりの借家で同棲する、さらに渋谷道玄坂に移り、4月に太子堂に越してくる。その生活振りの一旦が『放浪記』に記されている。

 梟の鳴いている、憂欝な森陰に、泥沼に浮いた船のように、何と淋しい長屋だろう。
 屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。


当時の街の町の様子が端的に描かれている。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月03日

下北沢X物語(4258)―ヤブガラシと艦砲射撃―

P1020647
(一)日々散歩する、遊歩道を行くときはいつも植え込みに注意を向ける。一日でも怠ると茶色い蔓が知らんぷりして顔を覗かせている。それを見つけ次第引き抜く、ヤブガラシである。前は遠慮しつつやっていたが今は堂堂と敵に向かう。が、意外や意外、昨日のことだ、同類にばったり出会った。「本当にヤブガラシはしつこいのだから、抜いても抜いても出てくるのよね!」深沢三丁目で会ったお婆さんが言う、「これが癖になっちゃって他所に行ってもつい手が出てしまうのよね」と、笑ってしまった。他所では手を出さないようにしようとしているが、気づくと抜いている。久しぶりの古老、戦争の時は?「逃げたわよ、怖かったわね」「そりゃあそうだよね、もうあそこは火の海でね、逃げようにも逃げられなかったでしょう?両国辺り?」と聞くと、「えっ!」と言ってびっくりする。「私、北海道だったの!」こんどはこちらが驚く。

(二)
 昨日彼女と出会ったのは深沢三丁目、エーダンモール商店街の脇だ。名前はしゃれているが今はすっかりシャッター街となっている。エーダンの語源は営団だ、住宅営団から取った名前である。

 戦争中に東京大空襲で下町が焼けてしまった。家を失った人たちが住めるようにと戦後ここに営団住宅が建てられた。このいわれをしっていたから彼女は東京空襲に遭ったに違いない、それが出身は北海道と言われて意外に思った。

「北海道だったら苫小牧、カンポウでしょう?」
「そうそうカンポウ、カンポウ」
この頃、カンポウと言っても通じない。今はカンポウと言えば漢方だ、が、ここで言っているのは艦砲だ、これほど怖い物はない。
続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年06月01日

下北沢X物語(4257)―世田谷代田2号踏切と故金子善高さん―

金子善高
(一)会員の一人の訃報を聞いた。彼の名は、金子善高さんだ。この5月12日に享年83歳で亡くなられた。人は小さな歴史を残して死ぬ、が、多くは忘れられていく、せめてもの供養に思い出を綴っておきたい。金子善高さんについて私が覚えているのは三つだ、一つは世田谷代田2号踏切を閉めた人、一つは我らが建てた四基の文学碑を守った人、もう一つは、「東京巨人伝説代田のダイダラボッチ」で代田人を演じた人である。現役時代は、大手電機メーカーの技術者だった、スケッチがうまかった。彼のデザインになる家電製品があったかもしれない。しかし、北沢川文化遺産保存の会では現役時代のことは、その人が語らない限り話題にしない。亡くなってからその人が有名な人だった、ということを知ることがある。我らの会に取って昔ではなく、今が大事である。だから金子さんについてのエピソードは会に入ってからのことだ。

(二)人の死に遭遇すると悲しい。お悔やみ申し上げますと言っても型どおりでお悔やみにならない。やはり生きていたときの思い出を語る方がいい、そしてこれを記録する。われらができる供養である。

「みんな、道路に突っ立っている電信柱を邪魔だ、邪魔だと思っているけどね、これが重宝するんだ。なんかの拍子で足を痛めて歩けなくなることがある、そうすると辛いよね、人は歩けてなんぼ、それで歩く練習をする。このとき電信柱は助かる。ようやっとワンスパン歩いて電信柱に抱きつく。『電信柱三本が命』ということで三本歩いた、達成したその3本目には抱きついたね……」
 金子さんから聞いた話で今も覚えているものだ。

 人は小さな歴史を残して死ぬ、誰も知られなければそれまでだ。
 私が、覚えている金子善高さんのことを三つ挙げよう。

・一つ目は、世田谷代田2号踏切の歴史を閉じた人。
・二つ目は、我らが建てた四基の文学碑を守り抜いた人。
・三つ目は、東京巨人伝説代田のダイダラボッチという劇で代田人を演じた人。


続きを読む

rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化