2021年08月
2021年08月31日
下北沢X物語(4317)―会報第182号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第182号
2021年9月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、下北沢近辺のかつての音の風景
三十尾生彦さんは、2020年に95歳で亡くなられた。古老と言われた彼は長く北沢に住んでいた。多くのことを見聞してきた。彼が言うには、かつて界隈には音が満ちていたという。流しの僧であったり、物売りであったり、多くがここを行き交っていった。
・虚無僧の行脚:編傘かぶり袈裟を掛け嫋嫋と尺八を吹きながらやってくる。やってくるのが音で分かった。家々の戸口で無言で門ずけをする。それが何か厳かで怖かったことを覚えている。
・山伏の行:頭に頭巾(ときん)を戴いた男、これが腹に響く法螺貝の音をひびかせる。そしてがしゃんがしゃんと錫杖を強く響かせる。彼らはあたりを睥睨しながら集団で通り過ぎる。「大山詣りか?」子供心に怖かった。
・禅僧の托鉢:裸足に草鞋がけ 念仏を唱え一軒ずつ几帳面に訪れ、静かに厳かに読経する。頂き物があってもなくても頭を下げてはつぎに向かう。
・大山詣の富士講:みな白装束である。連中は集団で六根清浄と高らかに唱えながら過ぎてゆく。
・御詠歌のお婆さん集団:何かの宗教の信者の集団行動だろう。みな年寄りばかり、それぞれ小型の提灯鈴をならし、御詠歌を歌って過ぎて行く。
・御会式参り 池上の本門寺参り:集団で白装束、どんつくどんつく各自団扇太鼓を叩き、南無妙法連華経と声高に唱えながら嵐のように過ぎて行く。
・正月の恵方漫才 :売れない芸人の小遣い稼ぎか? 恵比寿様の頭巾をかぶり、たっつけ袴で“めでた めでたの 若松様よ”と戯けて住宅を回る。
・この他では「鰯売り」、いわしこー、いわしこーと呼び声を挙げてはこれを商っていた。金魚売りや納豆売りも多かった。
2、小田急蒸気機関車入線問題について
ネットにアップしている東京荏原都市物語資料館は、24時間稼動しているまさに資料館である。世界中で見られている。当方へは、検索でアクセスをして、ここに収蔵されてる記録が多く閲覧されている。記事のエントリー数は現段階で4316を数えている。事項は多岐に渡っている。中には記事に関連して新たな知見が寄せられる。前から問題になっていたことである。小田急電鉄に蒸気機関車が入線したという問題だ。
当方、私は、二〇一六年十一月二十八日に記事を載せている、この頃に、「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」が主催する「古老に聞く」が催された。テーマは玉電と小田急だ。話者は豪徳寺生まれ、豪徳寺育ちの千葉宏さんだ。講演会の最後に自由討議の時間があった。このときに三つの質問をした。
1、貨物列車による進駐米軍の入京?
2、戦時中の女性による電車運転?
3、C58機関車の小田急入線?
この点についての見解を資料館ブログでまとめているが、ハンドルネーム、すぎたまさんが彼の見解をコメントに書かれた。記録としても大事なのでここに載せたことである。それが以下の記事である。
小田急の蒸気機関車のことを調べていてここにたどり着きました。
さて、鉄道ピクトリアル誌の286号(1973年11月号・小田急特集号)に興味深い記述がいくつかあるのでご紹介したいと思います。
その前に、上記の記事中の「1」については、日本軍の厚木駐留部隊を撤収させるため、1945年8月20日から一般客を乗せず、兵隊のみを新宿方面に輸送したようです。そのため米兵を貨車積みでは輸送していません(というか、敗戦国が戦勝国の兵士を貨車に乗せたりしたら、それだけで大問題でしょう)。
それで「3」についてですが、同誌53ページに、「1944年5月6日にオロフ21700にて入線試験」の旨記述があります。
当時まだオイラン車というのは無く、あれは戦後の製作です(進駐軍用客車から改造の国鉄部内視察車を再改造したものなど)。そのため木造車であったオロフ21700形におそらくは矢羽根などを取り付け、小田急の機関車で引いて走行試験をしたものと思われます。帝都線の下北沢駅橋台を削ったとすればこの時でしょう。事実同誌は「その結果、限界拡大・施設強化などの工事が実施され」と記しています。
9月になって、C58とEF10+スロネまたはマロネ×3+スハネ30または31の4連による試運転が行われましたが、この試験は新宿方から入線し(61ページに、「新宿駅の貨物側線に蒸気機関車が停車」と、それらしい記述あり)小田原方からの入線では無いようです。
経堂駅の転車台は、1967年頃の経堂工場建屋解体までは存在し、その後埋められ、さらにホーム延伸のための用地の一部になってしまいましたが、井の頭線の空襲に伴う車輌補充などのためには活躍しました。しかし20メートル車の小田急1800形の方転には使えなかったようなので、18メートル車くらいまでではなかったかと思われます。ではC58は方転できたのかですが、C58の全長は18,275mmなのでギリギリ方転できた(当然車輪はもっと内側にある)と思われます。
結局C58もEF10も軸重が重く、線路を渡っている小さな溝を壊しかねないという理由で電車による再試験となりました。この時の編成は、モハ40+クヤ16+サハ25+モハ50です。変電所容量が足りず、省線から受電したそうです。
東北沢駅の急行線に留置というのは、あそこにあった砂利線のポイントを使って入れ換えをしていたのだと思われます。代々木八幡のカーブは時代によってやや異なりますが、最近のホームドア工事が行われる前までは203Rでした(上り線)。そのためC58が曲がれないはずも無く、新宿まで行くと折り返しがダイヤ的に面倒ということで、経堂−東北沢間で試運転をしていたのではないでしょうか。
そうすると、若林麟介氏が「梅ヶ丘−世田谷中原間で待っていたのに、待てど暮らせどC58は来なかった」というのと、整合が取れなくなるような気がします。今のようにネットやツイッターがあるわけでは無いですし、当時は「防諜」の意味もあったでしょうから、日にちを間違えていたか、または夜間に試験をしていたのではないかと推察します。
3、アメリカさん〈その2〉 エッセイスト 葦田 華
その頃<朝鮮戦争(1950)>が始まり、日本はアメリカの前線基地となった。軍需景気に湧き、ずいぶん多くの日本人が経済的に助かったが、
日本中の鉄工場が作った武器弾薬は、朝鮮半島の罪の無い人々の上に降り注いだのだ。
私は戦争末期の3歳の時は、両親と弟の4人家族で甲府に居た。そしてアメリカ軍の甲府大空襲に襲われ、火の海の中を、弟をおぶった母に手を握られて群集の逃げる方角に逃げ惑った。27歳の母は、戦火の中ではぐれないように、私の腰にサラシの布を巻いて結わえ、そのサラシを母も自分の腰に巻いて縛った。火の粉をかぶるかもしれないので、シーツを用水漕の水に浸し、ガバッと頭からかぶり、逃げたのだそうだ。
翌日の朝、渡るべき深い川の橋は焼け落ちていて、太い丸太が2本渡してあった。
母はまず弟をおぶって対岸に渡り、次に身軽になって私を迎えにきて、「下を見てはいけない。しっかり前向きに歩きなさい!」と、言った。父は傷病軍人だったが、内地では若い男が居なかったので、請われて警察官になっており、空襲の日には妻子などを構ってはいられず、任務についていた。
朝鮮戦争の勃発は、38度線を越えて韓国に攻め込んだ北朝鮮との戦争で、北朝鮮には中国、韓国にはアメリカがバックアップしていた。
どうしてそんな戦争になったのかは子供の私には解らなかったが、大学生になってから初めて、<イデオロギー>のための戦争だったことを理解した。
そして、第二次世界大戦で、もし日本が浜松辺りを境界線にして、北日本、南日本に分割され、北はソ連、南はアメリカが統治することになっていたら、私達日本人はどんなに惨めな境遇になっただろうかと思わざるを得なかった。
その頃、朝鮮に向かうアメリカ兵を満載したトラックが、夜どうしゴーゴーと富士の演習所に集結する音は不気味であった。アメリカさんは、どうしていつまでも戦争をするのだろうか?と、私は子供のくせにひどく戦争を憎らしく思ったものである。1950年。
華が7歳ぐらいの頃だった。(2021、1、26)
4、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(四名集まったら成立する。)原則としては、緊急事態が発出されているときは開催しない。すべて順延としたい。それで以下に掲げるのは予定である。
第166回 9月18日(土)三軒茶屋・三宿の文学を歩く
案内者 幾田充代 田園都市園三軒茶屋駅改札前 13時
・山田風太郎・永井 叔・(佐藤愛子)・(大村能章)・三好達治・林芙美子・円泉ヶ丘公園、下の谷商店街など、三軒茶屋駅解散
〇9月6日 記入
緊急事態は延長されるようだ。が、・距離が短く屋外であること ・密になるほど参加者はいない
・参加者の多くがワクチンを打っていること など勘案して実施することにした。ただし雨天の場合は行わない。
第167回 10月16日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
案内者 原敏彦 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅出口4番 13時
第168回 11月20日 (土)下北沢駅東口 13時
案内者 木村康伸 旧道二子道を求めて
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲エッセイやコラムにあなたの記事を書いてください。このところ色々な人が書いていてこれが好評です。きむら宛メールで送ってください。
▲事務局の「邪宗門」は休業中です、情報は、「世田谷邪宗門 ツイッター」で確認を。 https://twitter.com/jashumon_coffeetwitter@jashumon_coffee
▲「代田のダイダラボッチ」巨人伝説読本について
1、せたかい 第71号に掲載
世田谷区誌研究会編集委員会編 2021.7
2,世田谷区立中央図書館広報誌「ざ・ちゅうおうぷらす」
新刊紹介コーナーで紹介されるとのこと。
▲会報は会員にメール配信しています。会友には無料配信しています。迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへ「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
(写真は茨城県石岡市代田の「ダイダラボッチ」)
2021年08月29日
下北沢X物語(4316)―品川都鄙境駅の物語―

(一)品川は都鄙境だ、上る者は緊張し、下る者は安堵する。例えば、内田百痢愨莪谿に捨鷦屐戞特急「はと」は、東京を出発し、「新橋駅をふっ飛ばし、それから間もなく、品川駅は稍徐行し、暗い歩道の屋根の陰を車窓に映し出しながら通過した」と描く。閑散として長いホームの品川通過を確認すれば安堵する。有島武郎『ある女』の乗った汽車は新橋を出発する。そして、「品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目を眉のあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった」、ここも出発の緊張が解けて、ふと男の視線を感じる。上りではこの品川近辺では化粧室は混み合う、女性達は急いでおめかしをして都会女性に化ける。前に読んだ記事で品川宿の一角に履き古した草履の山があって車窓光景としては汚いとあった。お江戸入りする旅人が品川宿で草履を履き替えたものだろう。これもおめかしの一つだ。
北白川宮永久王殿下は、昭和十五年三月に品川駅から出征された。皇女東園佐和子、永久王次女はそのときの思いをこう記す。
春浅み品川駅のみすかたを思ひ浮かへて胸はせまりつ
品川駅からは海が見えた。東京駅だったら「春浅み」とは読まないだろう。品川停車場らしさがある。
さて、糸賀公一陸軍大尉の「仰徳集」所載の短歌、四首のうち一首載せていたがこれを息子さんの糸賀成三氏が検索で引いてこられてコメントされた。残りも返答に交えて掲載した。すると返答があった。
昨日この記事をコピーして父に会って来ました。大変喜び、こうして情報を提供していただきました皆様に、くれぐれもお礼をと言うことで、再度ご連絡を致しました。
さすがに高齢ですので(98歳)自分の詠んだ歌の文言までは憶えていないようでしたが、品川の宮邸に何度かお邪魔した事、また運動会があった事など思い出したようです。
蒙彊の地でご逝去された時には父は、東京から出張のおり現地に伺ったと、話して居りました。また宮様は演習中に自国の飛行機に突っ込まれて亡くなられ、宮様の父君、祖父君もいずれも不慮の死に遭われていたので、宮様自身日ごろから、注意されていたにもかかわらず、あのような事になってしまって、あの無念さは忘れられないと言って涙ぐんでいました。
日ごろは単調な療養生活ですが、父はこの記事は何度も私に読んでくれるように要求し、昨日は思いがけず充実した日となった事でしょう。ありがとうございました。
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2021年08月28日
下北沢X物語(4315)―品川だよおっかさん、狸だよおとっつあん―

(一)品川東海寺は近代鉄道のデパートだ。グーグルアースで見るとよく分かる。鉄道庁長官の墓のすぐ裏手は新幹線、シュゥシュゥとこれを掠めて通る、表側もすぐに切り通し、崖が転んだところに東海道線。境内南手、沢庵和尚の墓のそばにはぽっかりと大穴、すわ狸の巣穴か?残念、リニア新幹線北品川非常口だ。このように長官墓近辺は鉄道事象が密集している。東海道線を挟んだ向こうには権現山がある。大昔、明治の初頭、汽車が走りはじめた時に狸たちが住んでいた。鉄道敷設によって深い切り通しが掘られた。巣穴が壊されたのだ、彼らは仕返しを考えた。が、機関士の運転手の目が青くて怖い。やむなく明治十二三年になって黒目の日本人に代わったところで襲撃に及んだ、汽車に化けて突っ込んだのだ。が、相手は鋼鉄、バッタバッタとやられて討ち死にだ。時転変、近年になって井上長官のすぐ側にピアノを模したオブジェが建った。毎夜墓から聞こえてくる。「ここが、ここが権現山、タンタン狸が化けたとこ、見たら泣くでしょう、父さんも」島倉千代子の墓である。
品川は自身には縁が深い。権現山のすぐそばの女子校に講師として勤めていたことがある。昼帰ろうとするとタレントによく会った、「ジュンコちゃん!」見送り出た女学生、脇を通るとこちらにはそっけない、「アラ先生」と言ってジュンコちゃん!を見送っていた。もう一つ思い出すことがある。職員室の時計は何度も見る。あるとき喫茶店に呼び出され、どうして私をいつも見つめるのかと問い詰められたことがあった。
同窓会のお知らせが今でも律儀に送られてくる。一度行ったことがある。皆ほとんどが年配だった。
「先生すみませんね、ホテルで開かれる同窓会においでください。これは本当に目の保養になりますから」
目の保養という言葉、こういう場合に言うのかとひどく感心したことがある。
品川駅で忘れがたいのは一首の短歌を通してのふれ合いだ。
川口信さんという人がいる。洗足池の水面が見渡せるベンチにいつも座っている。この人のお父さんが北白川家の執事をされていた。その関係で彼から歌集をいただいた。「仰徳集」、発行日は昭和十九年一月四日だ。
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2021年08月26日
下北沢X物語(4314)―鉄道文学的リニア批判序説・補遺―

(一)谷田部から鹿屋に着いた市島安男少尉は、出撃を前に「今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる」と決意を述べる、彼は景色にほだされてこう考えた。それは列島を零戦で南下する途中で眺めた日本の自然風景だ、足柄では「崇高極まりなき富士の山を見、よくぞ日の本に生まれけるの感涙にむせぶ」(『きけわだつみのこえ』)と記す、決死行の過程で日本の自然を眺めやって深い感銘を受けた。自身は何のために特攻に行くか?眼下にあった美しい祖国の風景が決意を生み出した。かくほどに美しい自然風景を守らなくてはならぬ。我等が思い起こすべきは戦前の映画だ、背景に写っている風景に一本たりとも道は見えない、全部が緑に覆われている。昭和二十年日本の山河はどこまでも美しかった。令和三年空からみると日本の自然山河は見るも無惨なほど破壊されている。今であったら限りなく破壊された祖国に清き命を捧げることはないだろう。加えてまた名古屋まで40分で行くための巨大工事が美しい自然山河を取り返しのつかないほどに破壊し始めている。日本の山河は人々の魂が還っていく場であるのに。
国鉄改革三人組というのは有名だ、一人はJR東海の葛西敬之である、リニア推進派の大元である。一方、三人組の一人JR東海の松田昌士はリニアに距離を置く。
『日経ビジネス』誌(2018年8月20日付け)に掲載された『JR東日本の元会長・松田昌士』の談話は今では有名だ。
歴代のリニア開発のトップと付き合ってきたが、みんな『リニアはダメだ』って言うんだ。やろうと言うのは、みんな事務屋なんだよ…俺はリニアは乗らない。だって、地下の深いところだから、死骸も出てこねえわな。
リニアに対しては相当に懐疑的である。その根拠は、高価なヘリウムを使っていること。大量に電気を消費すること。トンネルを500キロの高速で飛ばすと一つ部品が外れても大惨事になると。
フォッサマグナなどの断層を貫いて走るリニアは巨大地震での断層のズレが危惧される。前に地層の専門家の講義を聴いた。
「断層はパカッとずれることはありますか?」
「それはありますよ!」
青い蛇は断層のズレでまっ二つに切れた。断層から水が噴き出す。逃げるどころではない。死体を取り出そうにも取り出せない。
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2021年08月25日
下北沢X物語(4313)―鉄道文学的リニア批判序説・下―

(一)1872年(明治5)汽車の出現は驚きだった。カタンと床下が鳴ったかと思うとけったいな横縞が窓辺に走る、これは何だ?と思っているとコトンと停まる。もう横浜に着いていた。いわゆる『時間と空間の抹殺』だ。「これが鉄道の働きを言い表す十九世紀初期の共通表現(トボス)であった」(『鉄道旅行の歴史』W・シヴェルブシュ)、さらにシヴェルブシュはこれに続けて「この観念は、新しい交通手段が獲得した速度に由来している」と述べる。獲得は、手に入れること。多く、努力や苦心をして得ることにいう。当初は汽車は得体の知れないものであった。怪物、火龍とも称された。時が経ってこれが次第に市民権を獲得した。窓を見ても誰も驚かない、映りゆく景色は「廻り灯籠の画の様」と言われるようになる。一方、リニアは時間と空間とを目にも止まらぬ早さでぶった切っていく。「時間と空間の破壊」だ。「廻り灯籠なんてものじゃない目廻り灯籠だ。名古屋に着いたなんてこれっぽっちも思わない、このリニアは一体、何なんだ?」
「時間と空間との抹殺」は、驚嘆である、が、これを美と捉えた者がいる。内田百里任△襦彼は『第一阿房列車』(新潮文庫 2007年)でこう述べる。
駅にいて通過列車を眺めた方が面白い、地響きが近づいたと思うと、大きなかたまりが、空気に穴をあけて、すぽっと通り過ぎてしまう。肩のしこり、胸のつかえ、頭痛動悸、そんなものが一ぺんになおってしまう。
またまた話題転換。
2015年4月、笛吹市の矢花克己さんに連れられて御坂町花鳥山へ行った。甲府盆地や南アルプス、八ヶ岳が見える絶好の展望場所だ。桜が満開だった。ところがそこに着くと大勢の人がいた。皆カメラを構えている。異様な熱気と雰囲気が感じられた。
「リニア新幹線を撮るためですよ」と矢花さん、なるほど丘下の沢を西に向かって新幹線の走行路が延びている。リニアはコンクリートチューブに覆われているがそこは姿を現して走るとのこと。一人が教えてくれた、「この区間を5秒で走り抜けるのだよ。そこを狙ってみな待っているんだ」
天邪鬼のわたしは思った、「もったいない時間の使い方をしている」と。
やがてそのリニアなるものが現れた。が、目にとまらない、ピョッと行ってしまった。
まったく味気ない、在来線の特急は、「空気に穴を開けて、すぽっと通りすぎる」が、リニアは消えてしまう。余韻がまったくない。
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2021年08月23日
下北沢X物語(4312)―鉄道文学的リニア批判序説・中―

(一)「日本三大名工の汽車文学−鏡花、賢治、百痢廖別じ刊)をまとめた。汽車文学とは鉄道文学のことだ。日本に鉄道文学は確立していない、が、可能性が高いのはこの三人をおいて他にいないだろう。根拠としては「希有な時代を生きた三大名工」と提起した。この例えとして自身は「鉄道ハビタブルゾーン」と述べた。これは何か、地球と似た生命が存在できる天文学上の領域を言う。地球は奇跡とも言えるゾーンにある、太陽との距離が遠すぎても近すぎてもいけない。生命居住可能領域は極めて狭い。ゾーンは幅のことを言うが、鉄道文学に関しては時間の狭小さを言う。鉄道爛熟期の時間が極めて短かった。つまりこの期間に生きて、鉄道美学を存分に書いたのが泉鏡花であり、宮沢賢治であり、内田百里任△襪箸いΔ海箸澄8世┐佚監司験悗呂海了或佑能わった、終焉した。鉄道の未来はリニアに託された、が、この超高速列車からは文学は生まれない。後にも先にもこの三人で終わりということだ。
鏡花文学における鉄道は極めて魅力に富んでいる。一つの見方として鉄道文学はフレーズにあると言ってもよい。一例としては鏡花の『歌行燈』が挙げられる。冒頭部分では、桑名に着いた主人公喜多八が、乗ってきた汽車を見遣る場面がある。「汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。…」、汽車文学の名文だ。月夜の明かりに浮かんだ鉄路の向こうを汽車がおもむろに去って行く、その光景がリアルに浮かんでくる。文章力の素晴らしさだ、月光を浴びて彼方に進みゆく汽車を筆の力で浮き立たせている。やはり汽車文学の名工である。
鏡花の鉄道ものとしては『風流線』がある。北陸線敷設をめぐって起こった騒動を素材としている。鏡花自身は鉄道好きである。ところがこの『風流線』、『続風流線』では鉄道を文明批評的に述べている。ここでは村夫子に鉄道敷設による弊害を語らせている。
山は崩す、水は濁す、犬猫は取って喰ふ、草は枯らす、樹は倒す、石は飛ばす、取り分けて目指されるのが、眉目形(みめかたち)の優れた婦人じゃ。
殺されたものもあり、死んだものもあり、好い衣服を着て帯を締めたのが、草の中に倒れ居たり、裸体で野原に曝されたり、何がさて、出来た鉄道の三里まわり、手足な、髪な、ばらばらにして暴れて居ったわ。
何とも可恐(おそろし)い、二條の鉄の線(はりがね)は、ずるずると這(は)い込んで、最うそれ、昨日一昨日あたりから此の川上で舌なめずり、丁ど貴女が行かれるという、鞍(くら)ヶ岳の麓は鎌首を擡(もた)げる處じゃ、私の留めるのは此の事だで、はい。」
鏡花全集 巻八 岩波書店 一九七四年刊
村夫子は、田舎の知者だ、彼は地元民の立場から鉄道の弊害を説く。まずは環境破壊だ、それと風紀の乱れ、とくには婦女子が乱暴狼藉者の餌食になって酷い目に遭っていると述べる。二條の鉄線は破壊者として目に映っている。
現在リニア敷設については「山は崩す、水は濁す、犬猫は取って喰ふ、草は枯らす、樹は倒す、石は飛ばす」のうち、わんにゃんは当たらないが、他はすべて合致している。リニア沿線では工事による環境破壊が大きな問題となっている。
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2021年08月22日
下北沢X物語(4311)―鉄道文学的リニア批判序説・上―

(一)芥川竜之介の遺作に『機関車を見ながら』というエッセイがある、ここに「我々は子供と大人とを問はず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのづから自由を失つてゐる」と記している、人間の限りない欲望はひたむきに軌道を突進する機関車である。「この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人であらう」と言う。最後のは性欲である。なるほどと思う。ひたすらに速度を求めるとその先頭車両はいきりたった男根に近づいていく。リニアの先端はまさにこれだ。超高速を求めるこれは南アルプスという自然の処女地を尖った先端部が犯していく。まっしぐらに名古屋に向かうこれは脇見しない。鉄道文学の根幹は脇見である。「雨に濡れし夜汽車の窓に/映りたる/山間の町のともしびの色」(石川啄木『一握の砂』)は好例だ。リニアの窓辺は黒一色だ。「黒いものがちらちらしたと思ったら名古屋だ!」、超高速列車には溜がない、これが全くないリニアには文学は育ちようがない。人間の心がないということだ。
中原中也の詩に『桑名の駅』がある。この第一連だ。
桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更の駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只独り
ランプを持つて立つてゐた
「中原中也詩集」岩波文庫 一九八一
文学というものの真髄だ、出だしから面白い、韻が踏まれている。「桑名」と「暗」と「コロコロ」のKが微妙に響き合って笑いを醸し出す。韻が踏まれているだけではない。それとなく文学韻も踏まれている。『東海道中膝栗毛』である。
桑名の夜は暗かった、寂しげに蛙がコロコロ啼いているばかりだった。しかも長いホームには人影はなく、唯一駅長がカンテラを下げて手持ち無沙汰な様子で立っていた。
この第一連は枕だ、中也は不思議さを感じる。第二連はその種明かしがされる。
桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝の桑名とは
此処のことかと思つたから
駅長さんに訊ねたら
さうだと云つて笑つてた
汽車が駅に着いた、ホームには「くはな」とあった。もしかしてあの桑名か?ホームにいた駅長に
「駅長さん、ここが焼蛤で有名な桑名ですか?」
「ええ、そうですよ」
駅長は笑う。中也も「そうかそうだったか」と笑う。まさかと思っていたがあの有名な「その手は桑名の焼蛤」の本場だったのだ。
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2021年08月20日
下北沢X物語(4310)―リニアの真実は路地に潜む―

(一)リニアの工事現場に行くと「夢のリニア新幹線!」みたいな看板が掛かっていそうだが、そんなものは全くない。一目見ただけで何の工事をしているのか不明だ。リニアは不評だ、それで大概は密かに行っている。等々力非常口工事現場へ行くが果たしてそこが目的地なのか。裏手に回って人に聞こうとするが誰もいない。庭でスマホをいじっているおばさん。「たぶんそうだと思うけどちょっとわからない」と心許ない。さらに路地を巡っていると一人の女性に出会った。「ここの工事は等々力非常口の工事ですか」、「ええ、まさにここよ!」と言いビラをくれた。「ここが問題!リニア新幹線 号外」とある。大見出しは「リニアの大深度地下シールド工事は危険」とある。調布の道路陥没事故のことである。蝉の啼く路地裏で知ったことだ。「やはり調布事故は衝撃的だったのだ」と。
おばさんは、リニア問題を啓発する運動員だった。
「この間(6月8日)に品川で説明会があって、テレビで報道されていたけど、事後について『住民の皆さんに概ね了解してもらった』みたいなこと言っていました」
「そういうのよ。それがやり方なのよ」
説明会に前に出たことがある、印象としては前掛かりだ、ともかく工事を完遂する、何が何でも行うという姿勢だった。
リニア中央新幹線の工事は、まったくはじめてのことだ。それをすべてわかりきったことのように説明する。こんなことを指摘している人がいた。
JR東海は活断層があっても直交するから大丈夫と言う。路線がまっすぐなのに、すべての活断層を直交できるわけもない。南海トラフの地震がおきればリニア路線がバイパスになるとも言う。「こんなところをバイパスにして地殻変動が起きれば一発でアウトだ」
南アルプスの未来にリニアはいらない 宗像充 大鹿の十年先を考える会 2018年刊
フォッサマグナを突き抜ける工事に対する認識の甘さが端的に出ていると思った。工事は万全を期する、大丈夫だ、大丈夫だという。大丈夫神話をまた造りだしている。
そんな中で起こった調布陥没事故だ、一般市民よりも施行側のJR東海には衝撃的だったろうと思う。大丈夫神話が崩れたからだ。
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2021年08月19日
下北沢X物語(4309)―等々力非常口を見に行く―

(一)現場へは歩いて100分掛かった。リニアは40分で名古屋に着くという。一往復半の時間だ、が、このプロセスが大事だ、どんな所を通るのかが観察できる。歩いて行って知ったことは、「リニアは見えない風景を造っている」ということだ。総工費七兆円という世紀の大事業である。が、ほとんどがトンネルだ。従来の新幹線のように構造物が見えない、見えないから分からない。この点、近代の危難に通底する、原発から出る放射能は目に見えない。コロナウィルスも同じである。目に見えないものが忍び寄ってくる。探訪途中田園調布を通った。敷地区画が広く、樹木も多い、住んでいる人に話を聞いてみたいと思った。リニアの予定線沿いはよく通る、そのこと自体知らない人がいる。説明されないと分からない。こういう例もあった−田園調布住民「リニア差し止めて」JR東海を提訴へ−この記事では、近所の知人から自宅のほぼ真下を通るリニアトンネルの計画を聞いた。本人は早速に調べてこれが本当だと知り仰天した。リニアは知らないうちに忍び寄ってくる。
昨年、10月18日、調布市の住宅地の道路が突然陥没した。原因は、東京外郭環状道路の工事だった。地下深くをボーリングマシンが穴を掘っていた。これが原因で起こった事故であった。いわゆる大深度法、「地下40m以深の空間には地上の所有権が及ばず、公共目的であれば使用できる」というものだ。
衝撃的な事故だった。以前、世田谷区奥沢小でリニア中央新幹線工事の説明会があった。この大深度法に基づいて工事を行うためのものであった。このときも安全かどうかが問われた、その返答は全く問題ない、洗足池の水が漏れることもない。自信満々に答えていた。
調布陥没事故はリニア中央新幹線の施行主体JR東海にとっては驚きの事故だったに相違ない。なぜなら大深度法は、リニア工事にお墨付きを与えるためのものであったからだ。
田園調布住民は、この陥没事故に触発されたと言ってよい。「終の住処で振動や騒音が起きるなんて。陥没すれば死傷者も出る。それを思うと、安心して暮らせない」と関係住民はリニア工事差し止めの裁判を起こした。
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2021年08月17日
下北沢X物語(4308)―戦争・コロナ・リニア―

(一)コロナ感染者の急増を受けて政府は治療方針を変えた、重篤な者以外は自宅療養にと。これを聞いて真っ先に思い浮かべたのは元特攻隊員の故久貫兼資軍曹の言葉だ。「特攻は一番安上がりだった、中古機を与えてこれに人間を乗せて突っ込めばいいのだから……」と。ホテル療養ではなく自宅療養であれば安上がりだ。国民の命と健康を守るための施策は今も昔もケチる、貧乏性は消えないのだろうと思った。この間、終戦関連番組の中で米国の戦死者に対する扱いに触れていた。兵個人の名誉のために戦死者は大事に扱うと。遺骨は持ち帰ってアーリントン国立墓地に埋葬するという。墓石には一つ一つ名が刻んである。日本では戦死者の弔い方にしては安上がりだ。記帳記録で終わったり誰も彼もいっしょくたにして合祀ですませたりしている。沖縄の洞窟にはまだ沢山の人々の骨が埋まっている、これを拾い集めている人が、国家は人をモノとして扱っている、部品は用済みなれば捨てられると言っていた、この国にはお題目的人権観は確立している。「人間らしく生活するために生まれた時から持っている権利」本当の人権観が欠落している。
突如起こったパンデミック、かつて経験したことにないものだ。感染拡大を防ぐために人流を制御しなくてはならない。今夏は昨年よりも帰省客が増えたらしいがこれによる大混雑はなかった。新幹線などはガラガラだったようだ。今や時代は大激変しつつある。
コロナを壊滅させることは困難だ、ウィズコロナは避けられない。近隣でもテレワークしている人がいて会社にはほとんど行かないという。社会は人流を減らす方向に動いていくことは間違いない。散歩区域には二箇所タクシー会社がある。昼日中から駐車場にぎっしりとタクシーが停まっている風景が見られる。
新幹線も乗客が大幅に減っている。相当に収益が落ちている。東海道新幹線もその好例だ。JR東海である。新幹線が儲け頭でこれによって資金を貯めてきた。それで手持ち資金を使ってリニア中央新幹線を作ろうとしている。が、コロナによって資金調達力が落ちてきている。ところが予定区間ではすでに工事が始まっている。世紀の超難関工事である。
しかしリニアを取り巻く環境は大きく変わってきている。ドイツはこの技術にチャレンジしていたが将来的に収益は見込めないとして原発に続き開発を断念した。
今、地球温暖化は差し迫って問題となっている。我々がしでかしてきた環境破壊が原因でこれによって異常気象が世界各国で起こっている。
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2021年08月16日
下北沢X物語(4307)―戦争・コロナ・異常気象―

(一)奇妙な時間感に襲われてる。かつてこう書いた、青森に着いたとき、身体は到着しているが心はまだ仙台辺りにいるのではないか。新聞書評では一つの発見だと書かれた。が、今不思議な思いに囚われている、このお盆に迎え火を焚いたとき自分は実感が湧かなかった。「もうか?」と思ったが暦では間違いなくその日が来ている。コロナ禍で時間にメリハリが無くなってきている。今、私たちの時間は心と体では違う時間を生きているのではないか?絶えて経験しなかったことである。昨日は、終戦記念日だった、これも心時間では「えっ、もう」という思いがした。時間感、あるいは実存感が希薄になってきているように思う。そんな中で伝えられるコロナ感染症の爆発的増大、加えてかつてなかった天のダム決壊かと思わせる異常な降水、絵空事ではないかと思いもするが現実である。
終戦76年目を迎えて新たな戦争が起こりつつある。それはパンデミックとの戦いであり、異常気象との戦いである。かつては聞かれもしなかった線上降水帯、これが絶えてなかった大雨を降らせている。多くの人が生まれてこの方経験してこなかったことだと証言している。
異常気象は今世界的な規模で起こっている。五輪では日々、競技の様子が洪水のように流れていた。嫌気がさしてYouTubeばかり見ていた。このときは連日、中国の洪水が数多く報じられていた。洪水の規模がまるで日本と違う、報道規制がされているようで実態は明らかにされない。「広大な敷地にぎっしりと並べられているのは先月、中国・河南省を襲った記録的な豪雨で水没した車などです」とある映像は怖ろしくなるほどの数である。
我々は危機的な状況を迎えている。今、大きな話題となっているのは国連IPCCが報告書「地球温暖化の原因は人間の活動と初めて断定」したことだ。今起こっている世界規模の異常気象は間違いなく人間がこれまでしでかした環境破壊が因である、これには幾多の無益な戦争よる大破壊も大きく影響しているに違いない。
あの焼夷弾の投下トン数は、東京空襲は、約2000トン、横浜空襲は2570トン、
東京山の手空襲は6900トンだという。怖ろしいほどの数だ、この何百倍にも上る爆弾が第二次世界大戦で使われた。戦争が地球温暖化を招いたということはほとんど言われない。
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2021年08月14日
下北沢X物語(4306)―「長崎の鐘が鳴る」物語 了―

(一)「長崎の鐘」は、とてもよか歌でうちも好いとー。誰もが長崎原爆ば歌ったうたやと理解して聞いとー。ばってん、歌はきれい過ぎる、そりゃ理由のあることばい。時は昭和24年、まだ占領下にあった。それで被害の実情ば言えんかったけんばい。現実は悲惨ばい。峠三吉さん、「床の糞尿のうえに/のがれ横たわった女学生らの/太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の/誰がたれとも分らぬ一群」(『八月六日』)と描いとー。残酷さ、悲惨さ、無慈悲さはとても表現しえなかもんや。ばってん一番の誤りは、原爆が誰も彼も見境のうことごとく殺しとーことばい、人間的な愛のひとかけらもなかとです。被爆者の誰もが言う、核は絶対に許せんと、そうばい、許してはならん。「核兵器禁止条約」がもう発効しとー。日本はアメリカの核の傘に入っとーことでこれば批准しようとしとらん、そりゃ核ば許すことばい。多くの被爆者は無念の思いで死んどー。唯一の被爆国であるこの日本が核兵器禁止ば率先して呼び掛くるべきばい。核ば捨てて世界に立ち向かう、核ば持たんことが核への防御となることを訴えてほしかとばい。
うちゃ、蛍茶屋で乗務ば終えてつぎの出発までまっとったと、そんときにピカドンがおっちゃけたんばい。今でこそ原爆というけれどもそんときは何が何だか分からん、黄色の閃光がピカッと走って、すぐにドォン、とたんに建物が崩れたと、うちゃかろうじてそこから這い出して助かったと。やけどはしたけど。
外にでるとたちまち暗うなってきたと。空は怖ろしい色ばしとったんばい。
長崎電軌は原爆落下と同時に送電不能となり、全線で運行がストップした。乗客を満載して走りながら原爆の閃光を浴び、電車は爆風で吹き飛ばされ、遺体は折り重なって、これがこの世のものかと目を覆うばかりであった。
長崎のチンチン電車 葦書房 2000年刊
昭和20(1945)8月9日、原子爆弾の炸裂により、壊滅的な被害を蒙り、長崎電気軌道も全線不通となった。車両16両を消失、無被害電車は皆無に近く、変電所、大橋車庫、営業所の焼失、従業員110名を亡くした。そのほとんどが十代の学徒動員と報国他院であった。
長崎「電車」が走る街 今昔 JTBキャンブックス 2005年刊
あん時、長崎電軌には56両の車両があったというん、そのうち動けるとが36両やったんね、このうち半分に当たる16両が焼けてしもうたんばい。5両は大破してしもうたというけん、ほとんどが被害ば受けたということね。
電車ば動かすには変電所からの電気を流す架線柱が大事なんやばってん、これが120本も倒れてしもうたと、そん他も閃光ば受けて曲がったり、ゆがんだりして使えんくなったと。レールも軌道から浮き上がり、そしてめくれてぐんにゃりと曲がってしもうたんばい。
それでも電軌の生き残った職員は「長崎の復興は電車から」を合い言葉に懸命に働いたんね。被害の様子ばみるとほとんど復旧は無理やと、うちも思うとったと。
「長崎ん命である電車が動けば市民に希望ば与えらるるはずだ」
保線の人、電工の人、整備の人、それに電車乗務員、うちゃ、やけどば負うたけん諫早ん実家に帰ってしもうたと。手伝いとうても手伝えんかったと、それが今でも悔やまれてしょんなかと。
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2021年08月13日
下北沢X物語(4305)―「長崎の鐘が鳴る」物語 3―

(一)「長崎の鐘が鳴る」の三番は「こころの罪をうちあけて/更けゆく夜の月すみぬ/貧しき家の柱にも/気高く白きマリア様」やろう。ここが分からんの。あの日長崎電気軌道で学徒動員で運転手ばしとった和田耕一さん、離合のときに自分の同僚の田中久夫さんと出会うとーんね、和田さんは爆心地から遠ざかり、田中さんはその反対へ、それで被爆して瀕死の重傷ば負うんね、臨終間際に目ん玉ん飛び出た田中さんが「ぼくはなんもしとらん」と和田さんに言うて息ば引き取ったんね。みんなそうだばい。「みんな、何も悪かことはしとらんばい」それなのに原爆は爺さんも婆さんも女も子どもも何万と殺したんやけん。「こころの罪をうちあけ」なきゃならんのは原爆ば落とした人ばい。これにやられた人、幼か子どもばしっかりと抱いとったまま黒焦げになって死んどったお母さんこそ、マリア様ばい。なして罪もなかこがん人ば無差別に殺す必要があったんやろう?原爆で死んだ人はほんなこつ無念の思いば今も抱きよーんばい。ばってん、世界中に核爆弾が増えていくばかり、なしてあがん悪魔んごたー兵器ば持とうとするとか、持ってはならんとよ。
時間の経つのは怖ろしい、気づいてみるとうちも九十四歳、記憶は段々に消えていくばかり、ばってん原爆のことだけは忘れられん。放射線被曝がずっと自分の体ば苦しめる、体だけじゃなくて心も痛みつけてくるんばい。それで怖ろしい夢が襲うてくるんね。
一生懸命にロープば引っ張るばってんポールが動かん、電停名ば言おうとするばってん全く声が出てこん。車掌時代のつらか仕事が夢に出てきて苦しめると。
電車が、電停に着くと案内ばせんばならんの。「さくらばばちょうです。お降りの方はいらっしゃいませんか?」と、簡単なことやったけど声が出てこんの。乗降客の確認ばしてチンチンと鳴らして発車となるばってん、棒立ち、「なしてぼやぼやしとーったい!」と運転手には何度も怒鳴りつけられた。
ばってんね、教わったんのはめげんでやることやなあ。間合いとか気合いなんかは、半年ぐらい掛かってやっと分かったわね。電車がぐぐぎって停まると、一拍おいて、『お降りの方はいらっしゃいませんか?』と言い、前と後ろば素早う見て、誰もおらん気配ば感じたら、天上の紐ばつんつんと引っ張ると、するとすぐに運転手さんがチンチンと応じてくる。要領が分かって仕事がうもういくととても嬉しかった。
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2021年08月10日
下北沢X物語(4304)―「長崎の鐘が鳴る」物語 2―

(一)『長崎の鐘』の二番は、「召されて妻は 天国に」やろう。うちゃね、原爆で死んだ人が天国なんか行くわけなかと思うとーと。八月十日、うちらん仲間で生き残った人が行方不明になった人ば捜しに行ったんよ、線路沿いに行くともうその線路が飴んごと曲がっとってね、それで大きなボールのごとあるもんが転がっとーんばい。が、よく見るとそりゃトロリー線なんよ、爆風で吹き飛ばされてまん丸うなってしもうたんね。電車はぺちゃんこで焼けただれとーと。つり革ば持ったまっ黒な人間が中に立っとーと、言葉で無惨というばってんみるものみな惨たらしかといったらありりゃせん。やけこげた車掌カバンば持った子がおったと、まっ黒焦げでね、小さか子、小学校出たばっかりん子、可愛そうと思うて頭に触ったら、人形の形ばした人間がそん途端に崩れて粉々、あまりもひどか、原爆で死んだ人が天国に行ったなんてえすらごとやと思うん、焼け跡ば歩いて思うたんは神や仏はおらんということばい。あん爆弾ば人間が作ったとしたらそん人は悪魔ばい。、
「運転手は上手、電車は早か」と「電車ごっこ」で歌われたばってん、にわかごしらえの「運転手は下手くそ、電車は遅か」ばい。「運転手は君や」と電車部長に言われて、次ん日から訓練が始まったと。年配の運転手さんが教えてくるると、これがお師匠さん。最初は「よう見とかんね」と言うて後ろに立たされたと。「これがコントローラー」、「こっちがブレーキハンドル」と教えてくれたんね。三日ぐらい経ったころ、長崎駅に着いたとき、突然『松尾、おれの代わりにやってみんね』と言われたと。何かね、目眩がしてきて倒れそうになったんばい。『えすがることはなか、女も度胸や』と言うてさっさと運転席から離るると。そして強引にうちば運転席に立たせたと……
『見とったろう、運転は簡単や、ポイントは二つだ。動かして、つぎに停める、よかね。一つ目や、まずコントローラーば回す。目盛りがついとるやろう。こればノッチというったい、少しずつ上げていけばよか、三つ目ん目盛りまでばい。あんまりスピードば上げることはなか。だいじなことはゆっくりでよかけんお客さんば運ぶことや……二つ目動いたら止める、これも見よったな、ハンドブレーキば回すと車輪が締めつけられて自然に停まるんだ。じゃあな、コントローラに手ば掛けて、回すったい』
コントローラーに手ば置くと震えてきたと、ばってんお師匠さんがうちん手に自分の手ばそえてコントローラーば回したんね、するとカチッカチッと音がして電車が動き出したと。一ノッチ、二ノッチ、三ノッチ、電車がグォンと鳴って前の景色がこちらに押し寄せてくると。目が回りそうになったけど我慢したんね。すると次の電停が見えてきたんね、『恵美須町です』と女車掌の声、それでブレーキハンドルに手ば掛けて回すと自然ブレーキが掛かって、最後にギィグと音がして電車が止まったと。お師匠さん、『おお、おお、できたやなかか、なあ、簡単や。あっはっは、免許皆伝や!』、それでうちゃもう運転手、終点の蛍茶屋まで必死でコントローラーば回し、ブレーキハンドルば回したと。やっと着いたときは足がガタガタ足が震えて止まらんかった。
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2021年08月09日
下北沢X物語(4303)―長崎の鐘が鳴る物語 1―

(一)最初が「こよなく晴れた青空を」ではじまるやろう。ほんなこつあん日は空は真っ青に晴れ渡っとったわね………忘れもせん、あの八月九日、突然にあの空がピカッと光ってドガンと割れたんばい。空から降ってきたんは地獄、歌では「悲しと思うせつなさよ」となるばってん、せつなかなんてもんやなか、胸がかきむしらるるようだった。そして、「なぐさめ、はげまし、長崎の」と続いて、最後が「長崎の鐘が鳴る」やろう。みんな「カァン、カァン、カァン」と鳴る、大浦天主堂ん鐘ばすぐに思い出すという。ばってん、うちゃ違う、誰が何と言おうとあれは電車の鐘ばい。うちには聞こえてくるんよ、「ヂィン、ヂィン、ヂィン」ってね、電車のフットゴングの音がね。原爆が落とされたせいで、長崎のチンチン電車は全滅したやろう。それがね、原爆ば受けてから三か月経って、また聞けたんばい。復旧一番電車の運転手が力強うフットゴングば鳴らしたんばい。これこそが「なぐさめ、はげまし、長崎の」ばい。音ば聞いて生きんばあと、うちゃ思うたんばい。
原爆というもんは、ほんなこつ罪作りなもん。あれがおっちゃけてからしばらく経って「爆心地」ということが言わるるごとなったと。今「平和公園停留場」となりよーんは、爆心地にもっとも近か停留場、昔は松山町と言いよった。あん日、市内電車は数多う走りよった。うちも電車に乗っとって、同僚の女運転手とか女車掌とは何度も擦れ違うたんばい。運命というんやろうか、松山町方面に向かった人は多う死んどって、逆に離れて行った人は助かったんばい。
長崎は坂ん町といわれとーと、坂から降りてきた人が、沢筋ば走る電車に乗ると。ばり便利なもんやけん多くがこれば利用しとったと。それが原爆ばいっかりやられたんばい。それで長崎ん町は死んだごたーった。
ところがあのピカドンが落ちてから三か月が過ぎたころやったわね。新聞に載っとったんね、『長崎電気鉄道、復活!』って、十一月二十五日に長崎駅前と蛍茶屋ん間が動きはじめると書いてあったんばい。もう嬉しゅうて嬉しゅうて……
記事は何度も読んだ。蛍茶屋という字が懐かしかったわ。電車の行き先表示で見馴れとったけんね…………女子挺身隊員として入ったんは十六のとき、誰も就いたのが車掌業務、いっしょうけんめい、電停名を暗唱したわ。……諏訪神社前、新大工町、桜馬場町、中川町、そして最後が蛍茶屋……きれぃか名前よね、思い出すわ。
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2021年08月07日
下北沢X物語(4302)―三好達治の戦争詩―

(一)昭和16年12月8日7時に臨時ニュースが流れた。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と。快哉を叫んだ人もいるだろうが、人々は不安に戦いた。が、翌日の新聞だ、新聞第一面に大活字が躍っていた。横見出し「ハワイ・比島に嚇々の大戦果」、縦見出し「米海軍に致命的大鉄槌」(昭和16年12月9日「朝日新聞」)などと。「日本が勝った!」、そう人々は思った。三好達治もそうだ。彼の詩「捷報いたる」では、「捷報いたる/捷報いたる/冬まだき空玲瓏と/かげりなき大和島根に/捷報いたる/眞珠灣頭に米艦くつがへり/馬來沖合に英艦覆滅せり」と歌った。戦勝の知らせを聞いて心から喜んだ。が、彼のいくつかの戦争詩は戦後に出た「定本 三好達治全集」では収録されていない。戦争讃美となった自詩は削除した。境涯における汚点としたものだろうか。しかし、すべてを消すこともないように思う、「僕らは疎開する」も戦争詩ではあるが、疎開学童に力を与えた。
(二)
『週間少国民』の昭和19年7月13日号は「僕らは疎開する」を掲載している。大本営がサイパン陥落を発表したのは7月18日である。しかし陥落は時間の問題だった。サイパンが敵の手中に落ちれば同島を初めとするマリアナ海域から爆撃機を飛ばしてくれば本土のどこでも攻撃ができる。もう6月30日、閣議において学童疎開促進要綱が決定されていた。疎開が始まる。
『週間少国民』編集部は、少年少女へのメッセージとして疎開のことを伝えたい。そう考えて三好達治に白羽の矢を立てた。
三好達治は、昭和19年3月福井県三国に転居している。よってここで書いたものだろう。(表記は現代仮名遣いに換えた)
僕らは疎開する 三好達治
きょう僕らは懐かしい家庭を去る
きょう僕らはなつかしい母校を去る
きょう僕らは懐かしい東京の町を去る
僕らは先生に別れ友達に別れ
父にも母にも兄弟にも
きょう僕らは遠く別れて出発する
僕らは汽車に乗ってきょうは遠く疎開に旅立つ
この出発に
僕らの心はいかに痛み
僕らの心はいかにふるえおののくか
けれども僕らは よく心を決め
かたく固く心をいましめ
一切を雄々しく忍耐して
僕らは元気に出発する
僕らは遠く疎開して僕らの知らない田舎にいく
こうして僕らは山林や田野や海浜にいく。
こうして僕らは日本中の到るところに散らばっていく
やがてはその大切な運命を僕らの肩にになうために
僕らは遠く日本中の山野に散らばっていく
きょう僕らは祖国の少年
祖国のきょうの決戦にあずかり得ない小さな国民
僕らは疎開する
さらば僕らは元気に出発する
僕らは祖国の遠い将来にかかって元気に出発する!続きを読む
2021年08月06日
下北沢X物語(4301)―非核宣言に希望と夢を―

言葉は人に意味を伝えるものだ、が、「原爆」はほとんど意味が伝えられない代物だ、あの惨劇、あの惨状というのはよく言うがその実情を言い表すものではない。原爆は言葉をどう尽くそうとも伝えられない。爆心地で起こったことは記録できない。ピカッと光った瞬間にすべて溶けて蒸発して何も残らない。骨のひとかけらでもあれば一人の人間の存在が想像できる。が、原爆は人の生の痕跡を一気に消滅させる。人間が理解できるものはまだ兵器になり得るが、一切合切を無にしてしまう原爆は兵器ではない、人類惨殺死滅機械だ。生の痕跡すら消え失せてしまう。原爆の悲惨さを伝えるために原爆資料館がある、「ひどい」、「ショック」だと言うが原爆の核心となった爆心地は展示しようにもできない、熱線で消滅したからだ、残っているのは言えば周辺のもの、これを見て原爆を理解してはいけない、爆心地の無を想像してこそ原爆の無慈悲さがわかる。
七十六回目の原爆忌に
きむらけん

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
碑に刻んだ言葉は
原爆犠牲者への生者の切なる誓い
眠ってくださいと言ったのは誰か?
過ちはくり返しませぬと誓ったのは誰か
それは私達ではないだろうか?
昭和20年7月サイパン陥落以降
戦いの敗色は見えていた
が、軍部は戦いを止めようともしないで
国民を煽った
一億総特攻、火の玉となって戦え と
無惨やな 全国諸都市は敵機爆撃機で
街は黒焦げ町は赤焦げて廃墟へ
高射砲は空しく虚空をつんざくのみ
焼夷弾のフヒューという音が
日々不気味に響いて
赤子さえも泣き止んだ
3月10日東京大空襲
首都の東半分は燃え尽きた
焼夷弾2000トン
隅田川に黒焦げの尻尻尻
そは死人の流れ行く川
5月24・25日東京山の手空襲
焼夷弾6、900トン
前回空襲を遙かに上回る
意図は首都東京の壊滅
作戦は功を奏し
「Tokyo removed from the list of attacks」
首都は壊滅した
が、若者の命を兵器として使う
特攻はやめることはなかった
ねらいは一撃講和
敵に衝撃を与えて敗戦を有利に
山手空襲の最中
義烈空挺隊120名が
決死隊として沖縄に特攻突撃
ああ、彼らの命よ
6月23日沖縄の守備軍全滅
サイパンも危うく
6月30日に閣議決定
都会学童の地方疎開
来るところまで来た
敗色歴然
とはいうものの
まな板に乗ったのは国体護持
国民の命よりも天皇制の維持
負け国家の品格体裁
どう敗退するかの空論議
いたずらに時間は過ぎゆく
刻々とピカドン迫る
8月6日に広島にピカ
8月9日には長崎にドン
やむなくポツダム宣言
これを受け入れての終戦宣言
いつも思うのは
広島原爆・長崎原爆は
メンツ国家のなれの果て
二十数万人は死ななくてよかったのだ
2021年1月20日に
核兵器禁止条約発効
署名国86か国
被爆国の日本は加入せず
理由は簡単
核の傘に守られているから
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
死者との約束は核を許容することではなかった
「世界で唯一の核被爆国の我々は
絶対に核は許さない
よって永久に核を放棄することを
全世界に誓う」
これこそは無類の防御盾
非核に希望や夢を持ち
これからを生きる子どもたちに
生きて行く勇気を与えたい
(写真は、目黒区常円寺の被爆地蔵)
2021年08月04日
下北沢X物語(4300)―山崎小疎開記録から戦史を拾う 2―

(一)パンデミックは人々の価値を変容させている。「東京なんて絶対行きたくないわ。あそこはコロナの巣窟よ」と、首都東京を拒絶している人もいる。どの程度いるのか分からないがコロナ疎開も増えていると聞く。『光とりどりに』の中に縁故疎開の経験を書いている人がいた。「南アルプスの山々を背に、前は釜無川を望む景色がいいところだった。天気が良い日は、お握りを持って祖父と鳳凰山の中腹を散策する、山菜を採ったり、足下から突然飛び立つキジなどの鳥に驚いたり」と書いてあった。景色が目に浮かんでくる。我々はこういう自然の景色や風情を味わうことなく都会生活を送っている。田舎や田園の価値というのは人間の生命や循環に結びついている。今、都市化、都会化が尊重される時代になったが、パンデミック、あるいは大地震に襲われたら都会はひとたまりもない。今回のコロナ禍は我々の文明的な野放図な生活への警鐘だと考えるべきだ。
(二)
『光とりどりに』を読むと、度々海軍式の生活が出てくる。「海軍出身の〇〇先生の方針ですべてが海軍式で行われた。いわば二十四時間監禁状態に置かれているようなものだった」と。朝は総員起こしに始まった。きつい生活だった。が、この先生への鋭い批判が書かれている。
「総員起こし五分前」毎朝六年生が大きな声で廊下を走り廻る。全員が飛び起き乾布摩擦で体を鍛えた。冬の寒い日、外で体力のない子ども達に乾布摩擦をやらせた。Kの発案だと思う。(『誰も書かなかった集団疎開』今井賢治)
この当人さらに厳しくこう述べる。
またある夜中、Kの大声とドタバタの足音が聞こえた。寮母さんだったが、私達の寝ている布団に中に逃げ込んで来て難を逃れた。目の鋭い、笑顔を見せない、子どもに愛情のカケラもない教師だった。乱世とはいえども有るまじき思想と行動であり、断じて許すことはできない。
やはりKは夜中になると寮母さんを追っかけまわしていた。女癖の悪い先生だった。
この今井君、こういう記録もしている。お風呂に入っていると兵隊たちが入ってきた。
軍事演習帰りの兵隊がどやどや入ってきたが、子どもが好きで軍歌を歌われる「ロッキー山脈アルプスの/雪の峰々見下ろして/操縦桿を握れば/エンジンの音懐かしく/心も躍る雲の上/アアそうなるや航空兵」楽しい一時であった。
彼らは航空兵に違いない、とすると時期が分かる。昭和20年3月のことだ。
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2021年08月03日
下北沢X物語(4299)―山崎小疎開記録から戦史を拾う―

(一)散歩中小耳に挟んだ。「疎開といっても分からないだろうなぁ」と。車椅子に乗った高齢者が押し手の若者に言っていた。『うん』と私は頷いた、「疎開は遠くなりにけり」だ……世田谷山崎小学校の同窓会報3号『光とりどりに』は「学童集団疎開」を特集している。この学校昭和20年8月27日に出発した。学校で壮行会、終わって歌をうたった。女の先生が指揮を執った、曲は「海ゆかば」だ、皆しぃんとなった。「なぜ勇ましい進軍歌を歌わないのか?」と疎開学童。梅丘から出発して翌年11月に帰ってくる。と今度は、駅前で「平先生の音頭で『勝利の日まで』を全員で歌い、出迎えの親たちが驚いていた」という。出発時の「海ゆかば」、帰着時の「勝利の日まで」は、誰にも忘れがたいことであった。が、山崎小の疎開学童だった人、「そんなことあったっけ?」現場にいなかった私が印象深く思っているのに当事者は忘れている。歴史というものはそういうものだ。
(二)
「疎開と汽車」は好きなテーマだ。汽車は故郷である東京のシンボルだ。
「多聞小は木崎湖湖畔の旅館に疎開していました。対岸に大糸南線が走っていましてね、これが二階から見えるのですよ。汽笛を鳴らして上りが行くと、もう子どもたちは泣いて泣いて、これをなだめるのが大変でしたよ」
引率の先生からじかに聞いた話だ。
物寂しくなる夕暮れ時に上り列車が汽笛を鳴らし、東京へと走って行く。誰もが懐かしい東京を思い出して涙を流した。
「子どもたちの心を慰めようと、松本では城に登らせたのですよ。これがいけなかったですね、天守閣からは松本駅がよく見えるのです。上りの汽車がちょうど出ていくところが見えました。誰もが故郷を思い出して、泣き始めました。失敗でしたよ」
こちらは東大原国民学校の引率の先生。
夕方、松本駅の方から聴こえてくる列車の汽笛とコトコトンゆう音に、まず三年生が泣き始め四年生に移ります。六年生は泣くに泣けず我慢して、本当に家恋しさのホームシックでした。半月位続いたと思います。
霧の彼方に 第一回生 金子貞一 『光とりどりに』より
確かに、思い出は「霧の彼方に」だ、遠汽笛、そして汽車のカダンス、これは疎開学童の郷愁心を強く刺激した。
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2021年08月01日
下北沢X物語(4298)―会報第181号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第181号
2021年8月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、パンデミックは余生を奪う
当会主幹 きむらけん
感染予防としての緊急事態がずっと発出されている。文化の基本は耕すことだ。人に会って話を聞く、現場を訪れてそこの匂いを嗅ぐ、これが全くできなくなった。我々は耳目を失ったも同然だ。いかんともしがたい。が、この社会はおかしい、「感染者が4千を超えました」と神妙な顔をしてTVで伝える一方、つぎの瞬間、破顔で「ニッポンはメダルラッシュです」と。大きな違和感と落胆とを覚える。外出禁止という一方、オリンピックの祭典は賑々しく報道する。人流抑制にブレーキは掛かるわけはない。どの政権が担っても舵取りは至難だ、しかし、一点、必要なことは、きっちりと科学的な根拠に基づいて説明されるべきだ。私達をどこにどう導くのか、司令塔の指令者の存在が希薄だ。思うに国家のガバナンスが完全に欠けている。老齢者は、「私の余生が緊急事態で奪われている」と。やはり、どうあっても国家の責任者は根拠に基づいた説明をきっちり果たすべきだ。
会員、及び関係者の皆さん、健康大事、これを第一にこの夏を乗り切ろう!
2、stay homeについて 会員 江田 侑樹
私は子どもの頃から、家で過ごすのが好きだった。積極性のない子どもだったのかもしれないけれども、その分自分を見つめたり、深遠なことについて考えて過ごすのが好きだった。それでだろうか十代後半になるころから少しずつ憂鬱なものを心に募らせていった。
初めて心療内科にかかり、うつ病と診断されたのもその頃だった。晴々とする時間が少なかったことが圧倒的な原因だと思う。家族や病院からいわれることは決まって、「朝の光を浴びて、からだを動かし、夜眠ること」の三つだった。そのどれもが出来ていなかったのだから、心が壊れるのも無理はない。
そんな単純なことが楽に生きるために最も重要なことだったのだと、大人になった今はわかる。それが決して、誰にでも出来る簡単なことじゃないことも。自分を見つめるよりも人生とは何かについて考えるよりも、歩いて、夜眠るほうがしあわせへの近道なのだ。
いちばん最初に病みはじめた十七歳の頃から、それに気づいて実践できるようになるまで13年近くかかってしまった。私はいま三十歳である。ひいきにしている劇団のお芝居をみたり、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲んだり、名画座で古い映画をみたり、そんな経験をたくさんつんで、ようやく内省するよりも行動することの大切さを学んだのだ。
「百聞は一見にしかず」である。
逆上した高齢者から「若いんだからアクティブにならなきゃダメだよ。外に出なきゃ!」と怒鳴りつけられたこともある。その人はその翌日、私を除外したみんなで美術館へ行った写真をSNSに投稿していた。これまでの生き方すべてを否定されたようで、その出来事が毒ガスのように自分の中に充満して、その人を気持ちわるい悪魔のようにしか思えなかったけれど、それは真実を言っているだけだったと、いまの自分ならばわかる。
外の世界には優しい人がたくさんいて、私の知らない楽しいことがたくさんあって、豊かな出来事がたくさんあるという真理を伝えていただけだと。いやなこともあるけれど、いいこともたくさんあるといっていただけだと。とくに物事を希望の側からみる癖がついたいま、自分自身もそうおもう。
たった一度きりしかない人生を、ずっと家で悶々としたまま過ごして、行きたい場所へも行かず、やりたいこともやらずに終わるなんていやだ。失敗しても恥をかいてもいいから、何度だって思い切ったことがしたい。この寄稿にしたってそうだ。
外は、こわいものではない。やっとそう思えるようになったのだ。しかし、そんな自分の思いをコロナがまた逆戻りさせた。とある作家さんはこんな状況を「のっぺらぼうの時間」と表現した。
マスクによって人の顔は隠され、誰かと話すのにしてもネットを使うことが推奨され、握手したりハグしたり、そんなことすら気軽にできない世の中になった。それがまるでのっぺらぼうのようで質量が感じられない、と。
ずっと引きこもってきた私にとって、それが安心をもたらす材料であることは事実である。容姿にコンプレックスがあったり、対人恐怖症の傾向がある人などは、前よりもずっと外出しやすく、除菌を徹底しなければいけないことさえぬきにすれば、精神的な負担も減ったようにおもう。私もその一人だ。
「外に出なきゃ」なんていう人のほうが顰蹙をかう世界に、たったの数ヶ月でひっくり返ってしまったのだ。これはもしかしたら、世界中のおうち好きな人々のもたらした魔法だろうか。ざまあみろ、とほくそ笑む気持ちがまったくなかったかといわれたら、それも嘘になる。コロナによって精神的に楽になった人がいる反面、外出しづらくなったことで病んだという人ももちろん大勢いる。「これで初めてうつがどんなものかわかった」という人もいるくらいだ。
ある女優さんは、この状況に関して、「子供の頃から日焼けをしてはいけないとか、プライベートで男友達と遊び歩いてはいけないとか、さまざまな制約の下で暮らしてきたので、コロナ禍でもたいしたストレスはない。反対にいま病んでいる人ほど幸せな人生を歩んできた人なのかもしれませんね」とコメントしている。
私もそれにまったく同感である。変な言い方になるが、暗いことと対峙する力や、自分で自分の機嫌をとる力のない人が多すぎる。機嫌は、人にとってもらうものではなく、自分からとりにいくものだとおもう。
スピリチュアルの勉強でも、「感情の責任は常に自分にある」と言う。自分から湧いてでてきた感情は、喜怒哀楽どんなものであれ自分のものであり、相手や世の中のせいではないのだと。反対に、相手とのやりとりによって生まれた相手の感情に、あなたは責任をもつ必要がない、と。そういう、いかにして自分の感情をコントロールできるかが、心の病やひきこもりの人だけでなく世界中の人々がいま否応なしに試されている。
コロナはまちがいなく、神様が私たちに与えた新しいテストだ。これをパスせずに、潜り抜けることができた人が、新しい時代の価値観に対応できるような気がする。と、印象批評的に述べたが、身の回りで起きる出来事は、自分の気持ち次第でいくらでもしあわせに変換できるのだ。手垢のついた言葉に聞こえるかもしれないけれど、本当に大切なことは、陳腐なことの中にある。
しあわせは、小難しいことのなかではなく、簡単なことの中にある。願いは、重いエネルギーのなかではなく、蝶々のようにふわふわっと軽いエネルギーの中で叶う。それをコロナが改めて教えてくれた。
3,アメリカさん〈その1〉エッセイスト 葦田 華
それは細長い棒の先に、真ん丸なビー玉ぐらいの砂糖菓子が飴のようについていて、口に入れると、たとえようもなく甘いお菓子だった。大切に大切に舐めていたら、いきなり砂糖が口の中で崩れた。その瞬間えもいわれぬ美味しい汁が砂糖と溶けあって、この世のおものとは思えない、豊潤な甘味が口いっぱいに広がった。砂糖菓子の中にはウィスキーが入っていたのだ。アメリカ軍の横流し品で〈ウィスキー・ボンボン〉という貴重なお菓子だった。
ソシアルダンスを教えてくれた優しいハルタカ叔父ちゃんは、戦争に取られたが五体満足で満州から帰還した。しかし日本は焦土と化しハルタカ叔父ちゃんは無職となってしまった。体力も気力もある叔父ちゃんは、何かしらの仕事を見つけて稼ぎ始めた。それは闇市での仕事だったらしい。
久しぶりに帰宅すると、必ず華にお土産を持ってきてくれた。冒頭のウィスキー・ボンボンとか、ブランデーチョコ、台の下の紐を引っ張ると、両手で自分の頬っぺたをチャン!チャン!チャン!と叩く蒋介石のブリキ人形などいろいろあった。姪の私にだけではなく、母親の祖母にも買ってきてくれるので、隠居所の炬燵の周りには、ハルタカ叔父ちゃんを囲んで家族が群がり、とても楽しかった。
ハルタカ叔父ちゃんは、「お母ちゃん、アメリカの数珠を手に入れたからな、これで仏さんに経をあげろし。」と言って象牙色の長いお数珠を祖母に渡した。いつもは恐い顔をしている祖母が、相好を崩してそれを手にすると、二重にして両手で揉み合わせ「ナンミョウ、ホウレンゲキョウ」と唱えた。叔母ちゃん達も手にして、「素晴らしい数珠だねえ!」「アタシも欲しいなあ!。」と称賛した。
やっと私のところにお数珠が廻って来たので首に掛けてみたら、叔父ちゃんが、「華が正解!!」と言った。その数珠は、実はネックレスだったらしい。「華、その数珠の一番デカイ玉の穴を覗いてみろし。」と言うので片目をつぶって覗いてみた。すると!まあー!、長い髪のすっ裸の女の人が、横向きに正座していて、右手を耳の後ろに当て、腰を捻ってこっちを見て笑っていた。
「あっ!裸の女の人!オッパイ丸出しだよ!」と、私が叫ぶと、「華!おばあちゃんに寄越せし!」と、お数珠を引ったくられた。祖母は穴から中を覗くと、「不埒な数珠だな!ワシャこんなモンは要らねえだ!」と、畳の上にほうり投げた。すると娘盛りだったセツコ叔母ちゃんが、畳の上の数珠にパッと身を投げて数珠を掴むと、穴を覗いて、「ワッ!スゴーッ」と叫んだ。
カズヨ叔母ちゃんも引ったくって覗き、「アメリカさんは、珍しい首飾りを作るもんだなあ!」と、感心したように言った。ハルタカ叔父ちゃんは「アメリカにはかなわないよなあ。戦争にしたって原子爆弾だろう、菓子にしたって酒入りだ、おもちゃにしたってなあ、はだか女が首飾りの玉の中に居るんだしなあ。」と言った。(続く)
4、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。原則としては、緊急事態が発出されているときは開催しない。すべて順延としたい。それで以下に掲げるのは予定である。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
*四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は今後の予定だ。
第166回 9月18日(土)三軒茶屋・三宿の文学を歩く
案内者 幾田充代 田園都市園三軒茶屋駅改札前 13時
・山田風太郎・永井 叔・林芙美子・三好達治など
第167回 10月16日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩(延期実施)
案内者 原敏彦 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅出口4番 13時
第168回 11月20日 (土)下北沢駅東口 13時
案内者 木村康伸 旧道二子道を求めて
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲月ごとにテーマを決めてズームで文化事象を話し合うのも一つの手法かなとも。
▲事務局の「邪宗門」は、この八月いっぱいは休業します。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへ「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
◎会報の発送作業を行う。作道敬子さんと私。今日邪宗門で。



















