2021年09月
2021年09月30日
下北沢X物語(4337)―三軒茶屋・太子堂の文化探訪 中―

(一)地名の謎がある、それは古文献にある「荏原郡覚志郷」である、「千年村を見つける」というプロジェクトがある。その候補地に入っているが覚志はまだ比定されていない。諸説がある、三軒茶屋の南は下馬だ、ここに「子の神」という字がある。地勢は舌状台地、この先端には駒繋神社がある。ここはかつては「子之神明神」と言われていた。御神体は文殊菩薩であった。明治政府は神道国強化の方針を持っていた。役人が見聞に来ると祭神が仏ではまずい。ああ、そうだ大国主命は幼名は子の神だった。それで急遽大国主の命を守護神として駒繋神社と改名した。子はチュウチュウ様になった、が、この子は北を指した。そこには光輝く星があった。北斗星である。さて話一転、覚志だ、これは「��」ではないか、「かがし」である、即ち輝くだ、この輝くものは何か、これこそが北斗星だ。子の神の舌状台地突端は北を向いている、ここは星を遙拝していた場所ではなかったか!覚志は下馬、そして三軒茶屋もその候補地であった。
『石橋楼覚書』の「絵詞三軒茶屋百景」だ、その「戦前編」の8である。
石 は子供の掌でキラリと光った。黒曜石の鏃。南傾斜面を好んだ先史人は明治薬専の丘も狩場に、蛇崩川の水底に石斧の残欠を見た日々、小考古学者の夢。
山本隆俊は子供時代の冒険を語っている。明治藥専は明治薬科大学だ、かつては明薬遺跡と呼ばれていた。が、今は鶴ヶ久保遺跡と呼ばれている。年代は、[旧石器時代][縄文時代(中期〜後期)とある。竪穴式住居跡が多数見つかっている。ここに古代人が住んでいた。この彼らが信奉するのはチュウチュウ様ではない、北斗星だ。
三軒茶屋、下馬、一帯はかつての覚志郷ではなかったか?
「あのな、三軒茶屋は、武蔵野台地の尾根筋にあるんだ、だから夜は星がよく見えたよ。高台台地は、星が展望できる、そして尾根筋はフラットで道を通すにはよかったのだよ。
登戸道はずっと平坦だ、新道大山道は三茶から下って蛇崩を渡る、ここに道の差があるんだよ」
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2021年09月29日
下北沢X物語(4336)―三軒茶屋・太子堂の文化探訪 上―

(一)『石橋楼覚書』は、「石橋楼の歴史は崩壊の歴史である」(石橋楼 四世 山本隆俊)で始まる。三軒茶屋の名の元となったのが三軒の茶屋の一軒信楽であった。これが名を変えたのが石橋楼である。追分の角を占める好立地にあった。分去れのシンボル大山道標がある、「左相州道 大山道」と「右富士 世田谷登戸道」記されている。電車線時代になってここに信号塔が置かれた。ポイントの切り替えだ、運転席のサボで行き先を見分けた、白地に黒で文字を書いてあるのが二子多摩川園方向、赤地に白は下高井戸行きだ、塔上の係員が指指し称呼してポイントを切り替えた。道路から路面電車へ、そして今は地下鉄だ。追分における急速な近代化である。もう一つ大事な点がある、かつてここは軍都であったことだ。その痕跡は今はすっかり無くなってしまった、が、「石橋楼の歴史は崩壊の歴史」というが、鉄道と軍隊とがあったことが因で楼は壊された。追分にあったことよって崩壊の憂き目にあったと言える。
松岡容は、三軒茶屋の印象を、「大武蔵野から『現代』へ直結してしまつた感じ」と述べる。一帯は田園地帯であった、雑木林が生い茂り、丘波が続く農村地帯であった。これが劇的に変化したのが鉄道開通だ、「砂利電、玉電、帆掛け船」というタイトルでこのブログの中で書いたことがある。
多摩川の砂利は東京が近代化するにつれ需要が高まった。かつては帆掛け船で砂利を運んでいた。それが船では間に合わなくなって鉄道で運ぶようになった。これが玉電の始まりだ、やがて石ころの乗る電車には人が乗るようになった。その人も人で軍服を着た者たちが乗るようになった。
石橋楼 四世 山本隆俊は筆の立つ人だ。「絵詞三軒茶屋風景」を描いている。
西 山の可愛い駅を出外れると三軒茶屋。コンクリート舗装の玉電敷石道が渋谷へ。軍人は半額。公務の官憲は車掌に敬礼して飛降り、靴の鋲が夜道に火花を散らす。
西山というのは三軒茶屋の西にある小高い山を、そう呼んでいた。「可愛い駅」は今の西太子堂が当てはまる。ここは線用軌道である。ここから三軒茶屋に入ると「コンクリート舗装の玉電敷石道」だ。線用軌道ではガッタン、ゴットンと田舎の鉄道の音がした。線用軌道に入るとこの音も違ってくる。コッタン、コッテンと軽やかに走った。
三軒茶屋を過ぎると右側は野砲兵聯隊の宿舎が続く。
憲兵は電車賃を払わずに飛び降りて駈ける、不審者をみつけたのだろうか。靴の裏の鋲が敷石に触れて火花が散った。まさに「絵詞三軒茶屋風景」だ。
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2021年09月27日
下北沢X物語(4335)―三軒茶屋・太子堂界隈文化地図 下―

(一)文化は人々の精神的な営みをいうものである。三軒茶屋分去れは、古代から人々が来合わせ、そして別れて行った場であり、数々の物語が編まれた空間である。が、文学上に記録されているものは少ない。参考となるものとして北原白秋『白南風』がある。彼は三軒茶屋の隣若林に昭和三年から住んだ。「風塵のはげしさは非常であつた。三軒茶屋から登戸への街道に面し、牛車、タンク、砲車隊等の轣音、囂音、火山灰の旋風は堪へがたかつた。近くには陸軍の自動車學校もあつた。襤褸市で有名な世田ヶ谷の本場であつた。此處での生活は六年の初夏まで續いた。」居宅は登戸道に面していた。一帯の名物はすさまじい風塵である。街道は、三軒茶屋と同じくタンク、砲車などの軍用車がひっきりなしに通っていた。もっと有名なのは汚穢車だ、行きは農産物を乗せ、帰りは糞尿の入った樽を持ち帰った。タップンチャップンと糞と尿が混ざった液体が音を立てた。
三軒茶屋・太子堂の街並形成には歴史的な出来事が関係する。一つは大正十二年の震災である。すでにこのときは玉川電気鉄道が開通していた。震災では地盤の弱い東部下町の被害が大きかった。家々が倒壊し、大火災が起こった。人々は被害のほとんど無かった武蔵野へ逃げてきた。「地盤が固いところへ」という心理が人々を西に走らせた。
林芙美子は『放浪記』では、「安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった」と述べている。このときの街の雰囲気を形成したのは震災だ。下町から逃げてきた人々は烏山川の沿岸に住んだ。土地が低廉だからだ、人々が大勢押し寄せてきて収容できないほどである。建て増しに建て増しを重ねて街ができあがった。そんな中に安カフェができて、「よってらっしゃい、よってらっしゃい、お兄さんと」女給が声を掛けていた。今も迷路状に入り組んだ太子堂の街並は当時の面影を残している。
この間の町歩きでは下の谷商店街から太子堂中央商店街へ抜けた。前者はすっかりさびれた。「新日本紀行で取り上げられた頃は、それはそれは……」というのはもう語り草だ。太子堂の商店街は今も活気がある。惣菜屋、豆腐屋、八百屋など。この間は、豆腐屋でガンモを買った。いつも売り切れになるほどの人気がある。ここには東京下町の雰囲気が残っている。これも震災の影響だろう。

(二)
何と言っても大きいのは戦災の影響だ。昭和20年5月24日、25日、一帯をB29が襲ってきた。絨毯爆撃でここは狙われた。コースとしては下馬、三軒茶屋、太子堂、そして北沢となる。三茶一帯は執拗に狙われた。が、北沢の北方面は手を抜いた。戦争が終わった後に、この一帯にあるお屋敷を接収して高級将校の宿舎にする目論見があったからだ。
昭和20年5月25日、深更にB29の大軍がここを襲った。世田谷区太子堂町二七八番地から見ていた十四歳の中学生片野君はこう書いている。
寝てすぐだったので11時頃だと思う。やはり不気味なサイレンに起こされて外に出てみると、月夜に照らされてB29の編隊が東南から私達の方向に進んで来るのが見える。高射砲弾が敵機の周囲で炸裂する。不気味にも凄まじい落下音を発して空気を引き裂き、小型焼夷弾が落下してくる。
「東京大空襲・戦災誌」第2巻 1975年
戦災と街並形成は、大きな関係がある。我等の「下北沢文士町文化地図」は途中から戦災区域を載せるようになった。これは大きな評判となった。
「おれんところは焼けてないぞ!」
「おれんところは焼けた!」
これがまさにつぎ足し情報である。町の戦災痕跡を地図に残すことはとても大事である。やはり三軒茶屋、太子堂は準軍都であった。それで徹底して狙われた。北部には陸軍病院もあった。東部には、駒場の軍事施設が軒を連ねていた。

(三)
「夏は戦争」、前は一帯の軍事施設を歩くという町歩きを行っていた。いつも昭和女子大学の比嘉さんに連絡をして構内見学許可を取っていた。いろいろと便宜を図ってくださったが、この頃連絡をすることもなくなった。元気だろうか。
昭和女子大は近衛野砲兵聯隊跡である。裏手には往時を偲ばせる馬頭観音が祀ってある。また敷地外には馬魂碑が残されている。建物としては貴重な旧兵営が残っている。
これらの旧軍事施設の跡はぜひ地図上に残して置きたい。
(四)
「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」、構想は面白い、が、困難さがある。
〇地図をどのようにして手に入れたらよいか。
〇協力してくださる方がいると嬉しい。
知恵とか、情報を、ぜひ当会に。コメントか、メールか、何でも結構です。
ぜひ一報を
(写真はこの間の町歩きのときのもの)
2021年09月26日
下北沢X物語(4334)―三軒茶屋・太子堂界隈文化地図 上―

(一)先だって、三軒茶屋と太子堂近辺に住む文学者の痕跡を訪ねる町歩きを行った。歩く距離は多くなかったが随所で立ち止まっては話題を交わした。当地は面白い場である。参加者の田島哲夫さん、GPSを持参された。町歩きが終わってその行路と場所とが地図に落とされた。言えば、三軒茶屋・太子堂の文化地図である。これが私を刺激した。我等は「下北沢文士町文化地図」を創ってきた。今は、改訂8版となっている。老舗の合い言葉がある、「つぎ足しつぎ足し使ってきたタレ」と。現今文士町地図はまさにそれだ、発行すると新たな情報が寄せられる、今のはつぎ足しによって出来たものだ。文化というのは単独で成り立つはずはない、近接地域との交流によって文化は育っていく。隣接地域、三軒茶屋・太子堂地区から大きな影響を受けている。それで「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」を思いついた。今回は山田風太郎、大村能章、永井叔、林芙美子が中心だった。これらの痕跡を基軸にして、文化事象を順次つぎ足していき文化地図を造る、という構想だ。
三軒茶屋のポイントは街道筋の要衝であったことだ。後になってここを鉄道線が通るようになる。これによってY字が道にできた。分岐器である、ここは見せ場であった。玉電は二両編成である、三茶分岐器通過は晴れ舞台である。
二子玉川側から二両連接のデハ60がY字分岐に差し掛かる。カタンカタンと音がして車体がくねりと曲がる、車道側からは「腹見せ」と映る、そうここは電車の晴れ舞台、三軒茶屋では、電車は腹を見せて通った。
やはり 三軒茶屋のシンボルは分去れだ、大山道と登戸道の分岐(追分)には三軒の茶屋があった。まずは大山道、道標は必須だ、つぎはこの辺りにあった三軒の茶屋である。信楽(石橋楼)、角屋、田中屋、この位置を入れることは大事である。

(二)
先だっての町歩きでは、畑俊六旧居を案内した。丘上のこの一帯は鎌倉山と言われていたと土地の人から聞いた。烏山川左岸崖線の上である。陽当たりがよい、眺めがよい、井戸のポンプの水量も豊だ。それで邸宅ができた。が、この鎌倉山も鎌倉通りと同じだ。
場所は下北沢方面からきた鎌倉通りが淡島通りにぶつかったところを言う。ちょうど太子堂八幡神社の裏手に当たる。八幡神社のホームページ「御由緒」にはこの辺りのことについて説明がある。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-2番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
先にも話題にした、下北沢の西側を縦に貫く道がある。これを現在、鎌倉道と呼ぶ。「御由緒」にある鎌倉道と同じである。ただこれは一帯の土地を鎌倉に擬してデベロッパーが鎌倉通りとしたもので、『世田谷の古道』に「鎌倉道が本当に中世から道であるかは疑わしい」(世田谷区教育委員会1975年刊)と疑義を唱えている。
現在北沢川には並行して架かっているのが鎌倉橋と二子橋だ、それぞれ鎌倉道に、二子道に架かる橋を述べている。大正六年の地図を見ると後者は乗っているが、前者はない。
十一月に世田谷の古道を歩くことにしているが、二子道を最初に歩く、淡島通りで二子道はぶつかるがこの先に道はあってこれは尾根筋道で右に折れていく、太子堂八幡の裏手で左に折れると御由緒にあるとおり鎌倉道となる、これこそは二子道ではないか、ここから淡島通りに達して登戸道、すなわち二子道にぶつかる。

(三)
地図についてである。田島哲夫さんは自身が基盤とされているネット地図には文字、文言を落とせるという。部分的に今回行った旧居跡などは文字に落としてもらった。
地図の場合は版権が問題になる、例えばGoogleを使った場合、その旨を明示せよとある。つまりは出典を示せば使用が可能ということになる。
ただ会の米沢さんが言うには、ネット地図だと印刷原稿にはならないという。精度が粗いからだろう。
現在我等が使っている「下北沢文士町文化地図」は、この原型を創った東盛太郎氏が知り合いの印刷所の好意で許可を得て使っている。
〇三軒茶屋・太子堂地図について
・容易に手に入る方法はあるのか?
・当方は、造った地図を販売して利益を得ることはしない。
・市民に無料で配布して土地の文化について知ってもらうために配布する。
・これまで「下北沢文士町文化地図」は、世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」応募 して助成を受けてきた。この計画もこれへの応募を考えている。
〇地図のイメージ「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」
表面は、従来どおり地図上に文化事象を落としていく。(文化人旧居、社寺、記念碑など、名所旧跡……)
〇裏面 古地図 「世田谷」大正六年十二月印刷 大日本帝国陸地測量部
ぜひ情報を
・地図の入手方法
・地域各団体から協力の申し出
・意見、要望など
(写真上は、田島哲夫さんが試みに創った地図、中、寺山修司資料室 下、下北沢文士町文化地図)
2021年09月24日
下北沢X物語(4333)―三茶太子堂の文化探訪・下―

(一)三茶太子堂を歩いていると歴史にぶつかる、まず太子堂八幡神社だ、由来は「源頼義・義家親子が東奥征伐の折戦勝祈願に」と言う、神社由緒は皆同じだ、「この言い草、どこでもここでも書いてありますね」と皆笑う。神様の意義づけはうさんくさい。ここでは神社由緒に「鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し」と書いてある。が、この鎌倉道は「代田に鶴ヶ丘橋ってあるでしょう、昭和初期のデベロッパーが土地を売りつけるために『鎌倉通り』としたのですよ」と代田二丁目に住んでいる山本さん。神社から北へ行くとすぐに大村能章旧居、軍歌『同期の桜』の作曲家だ。このつぎは詩人、三好達治、「陛下は事情のゆるすかぎり速やかに御退位になるがよろしい」と天皇の戦争責任を問うた。詩人のつぎは三元帥の一人畑俊六旧居だ、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓を発案した人物だ、太子堂の丘で戦陣訓の発想は生まれた。そのすぐ坂下に放浪詩人の永井叔がいた。上官に逆らって営倉入り「天皇の命に従うこと能わずダンス」を踊ったという伝説の人物だ。
畑俊六旧居を町歩きで訪れるのは今回が初めてだ。ここすぐ南には急坂がある。
「元帥の馬が容易に下りられるようにと陸軍の工兵隊が削ったのですよ」
これはこの間、太子堂の郷土史家 中村甲さんに聞いた。
しかし、いわゆる戦陣訓の発案者だとは知らなかった。島崎藤村や・佐藤惣之助・土井晩翠などが校閲に当たったという。
沖縄戦で牛島軍司令官は六月十八日に自決を決意し最後の命令を伝える、この言葉の最後に参謀によって、「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と戦陣訓が付け加えられた、それで「この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることとなってしまった」、多くが言葉に縛られて自決した。
畑俊六旧居から永井叔旧居へと行く、「畑俊六坂」を下ったすぐ左手だ。大空新聞発行所でもある。
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2021年09月23日
下北沢X物語(4332)―三茶太子堂の文化探訪・中―

(一)土地の匂いを嗅ぎ分けながら歩きを楽しむ、まさに純粋な文化活動だ。今回も探索したことで風太郎の消息が分かった。路地で出会った人のお父さんが作家に部屋を貸していた。なるほどそこは土地が低く、かつては蛍が飛びかっていた湿地に近い。蛇崩川である。川沿いの敷地は低廉である、ゆえにそこに安普請のアパートが建つ、当時、一帯の大半が空襲で焼けてしまった。風太郎の居住は20年11月から。どうやら戦災に遭わなかった家だ、作家は三軒茶屋一丁目の世良さん経営のアパートに住んだ。そして日記を書いた。公刊されたのが『戦中派不戦日記』である。優れた日本人批評、戦争批評だと言える。それを書いた場所、三軒茶屋二丁目二十二番〇号というのは記録されるべきだ。その時の彼の考えに影響を与えたのは蛇崩川の湿気であり、また近くに建つ駒沢線高圧鉄塔の放つ青白い火花である。
今朝、メールをもらった。この間、町歩きを案内した幾田充代さんからだ。三茶太子堂文学散歩案内を知らせる文言だ。
街道と街道とが分岐する三軒茶屋は、人々が集まりまた去っていく分去れ(わかさ
れ)の町である。人々は生を躍動させ、物欲が渦巻くなかを生き抜く。そんな町にな
ぜか交わって生活し、流離っていた文人たちがいる。
医学生になった山田風太郎は三軒茶屋に住み始めた頃、『戦中不戦日記』に「大隠
は市に隠る、つまりは、真の隠者は、人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗
人にまじって町中で超然と暮らしているということだ」と記している。
戦後、道路の整備がなされぬまま急速に発展し、いまだに残るごちゃごちゃした町
並みは味わい深い表情を見せてくれる反面、不思議や秘密の隠れている町、三軒茶屋
の魅力を味わってみてください。(案内人メッセージ)
案内人というのは私である。彼女私が書いたことをうまく拾ってまとめている。
彼女は世田谷文学館友の会の幹事だ。今年末に再度「三軒茶屋・太子堂文学散歩」を企画した。その案内文である。案内人というのは私である。
彼女はコースを案内して知ったのは一帯の文化の深さだ、これを広げようと散歩を彼女が企画した。耕した文化を人に伝えることは必要だ。
暮れには私が今度は案内し、また幾田さんには来年また案内をしてもらおう。
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2021年09月21日
下北沢X物語(4331)―三茶太子堂の文化探訪・上―

(一)三茶太子堂の文学は路地に潜む、が、列をなして探訪者がここに入り込むと怪しまれる。「何事だ!」と住民、「風太郎!」と答えると「ああ、ふうちゃんね」答えが返ってくる。まったく町歩きはドラマだ、三茶の山田風太郎を捜して行ったところ、彼を覚えている人にばったり、「ああ、ふうちゃんね、あれね、母親に用事を頼まれて行ったところ、トイレから出てきたばかりでふんどしで手を拭いていた……」などと聞いて我等は騒ぎ立った。作品としては山田風太郎「戦中派不戦日記」、三好達治「東京雑記」、永井叔・大空詩人「永井叔自伝」、林芙美子「放浪記」だ、特徴的なことは土地の文化が描かれていることだ。これらコースの案内は新進気鋭、幾田充代さん、意欲的に取り組まれた、後継者が育ちつつある、コロナ禍の中で見出した希望である。
三茶太子堂の旅は、やはり分か去れ道の分岐点に置かれる「大山道道標」から始まる。ここに信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があったことによる。いわば三軒茶屋は旅の一つの結節点である。人が流れてきて休み、茶をすすり、そして去って行く。
ただ三軒の茶屋があったことで三茶というも能の無い話だ、文化は匂うものだ、「荏原茶はちょっと苦みがあるのが特徴だ」など、饗される茶の味に特徴があったように思うが。
三軒茶屋は郊外町であった。正岡容も一時住んでいたことがあったようだ。印象をこう語る。
三軒茶屋辺りでの生活の印象を回想すると、そもそもあの町々の文化といふものが、大武蔵野から「現代」へ直結してしまつた感じなので、いかんとも親しみにくかつたと云ふのが実感だらう。(『東京万華鏡』)
田舎町、郊外町であった。武蔵野の中に忽然とできた都市だ、きっかけは玉川電気鉄道の開通だ。まずは、(明治40年)3月6日 玉川電気鉄道の路線として道玄坂上 - 三軒茶屋間開業したのに始まる。電車線の重要駅だった。
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2021年09月20日
下北沢X物語(4330)―リニア批評的文学論・下―

(一)リニアは文学的たり得るか?つまりは鉄道文学の片鱗が見られるか?少なくとも素材として必要なのは音と絵である、走行音であり車窓美である。が、リニアはほとんど無音であり、窓辺にも絵は映し出されない。無音無美に文学を見出すのは困難だ。音や絵以外では情緒も文学には入る。新幹線の場合、「博多発新大阪行き最終」だと時間という間合いにおいて文学の色合いは多少滲む、「徳山の工場夜景が窓辺をかする」とか。リニアの場合、「名古屋発品川行き最終」となると時間がきつすぎて恋も生まれようがない。唯一残るは怪奇小説だ、「私の家の直下、大深度を青い蛇みたいなリニアがビュンビュン行き交っている姿を想像すると安眠できません」とは本当の証言だ、リニアに文学性が成り立たないのはなぜだろうか?
鉄道と文学、これは車窓に結びつく。リニアの並行路線として中央線がある。大好きな路線だ。以前、『旅の手帳』にこの路線の魅力を書いた。
峠の花と言えば、中央本線を思い起こす。韮崎を過ぎ、次の日野春あたりから始まる峠のパノラマは圧巻だ。八ヶ岳、駒ヶ岳など左右の車窓に日本の名峰が次々と現れてきて息を呑む。登山家、小島烏水は「全日本国で最も適当な大山岳の観望台」(「冬季日本アルプス観望汽車旅行」日本アルプス第三巻所収)と讃えた。が、峠探訪の旅では線路脇の光景も見逃せない。歌人若山牧水はこの観望台にさしかったときのことを、「秋草と虫の音」というエッセイに書いている。汽車の風にあおられながら咲いている紫色の秋草を車窓の両側に見かけた。それで旅詩人は秋の訪れを何度も知ったと。花は桔梗である。色鮮やかな撫子もよく見かけたとも記している。
汽車、電車には人が乗って旅をする。ここでの楽しみは景色と出会ったり、見知らぬ人と話したりすることだ。かつては列車で乗り合わせると「どちらまで」と聞いた。「尾道まで」などとあるとすぐに風光が浮かんで来た。
リニアの駅は、品川、相模原、甲府、飯田、中津川、名古屋の六つだ。乗車時間40分では「どちらまで」などは聞くこともない。以前指宿枕崎線でヒナの入った段ボールを持った人が無人駅で下りた。ピヨピヨという音が消えて一層にしんみりした。
リニアには趣がない、「中津川で錫杖を持った白装束の旅人が下りた」としても詩がない。「篠ノ井線の錫杖を持った白装束の旅人が下りた」、これは実際に見た。山伏はさらにこれから奥深い道をいくのだろうか」と思ったことがある。
旅には経路があってこそ生きる、が、どうもリニアの乗客には物語を感じないように思う。
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2021年09月18日
下北沢X物語(4329)―リニア批評的文学論・上―

(一)夏目漱石『三四郎』では志を持った青年が九州熊本から汽車で上京する。彼はこの旅において衝撃的な言葉に遭遇する、一つは、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と女に言われたこと。もう一つは、汽車車中出会った男との会話で、私は、「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、彼は「滅びるね」と応じた。青年にとって汽車旅とは何か?車中で、女と男との出会いによって人間と社会とを学ぶ機会に得た。人生でも旅でも重要なのは間であり過程である。女と出会って名古屋で宿屋に泊まるハメになったのも間あらばこそ。が、リニアではこの名古屋と品川が四十分だ。新幹線では九十分、大いなる怒りと疑問を覚えることは、たった60分を縮めるために、このアルプスの美しい自然を破壊してまでリニアを造る必要があるかということだ。人々の心のよりどころがリニア実験のために壊される。それこそ日本は「滅びる」のではないか?
この頃、テレビを観ない、某党のコップの中の争いをどこもここも仰々しく取り上げて垂れ流しているからだ。にっちもさっちもいかなくなった原発をどうするんだ?「モリ、カケ、桜」はどうするんだ?沖縄の辺野古はどうするんだよ?さらに言えば、リニアだ。
彼らはこれらに真っ向から向かおうとしない。リニアは一地方の問題ではない、これほどひどい環境破壊はないのではないかと思う。
テレビの代わりにYouTube、よく観るのが「リニアホント通信」だ、リニア反対の立場で番組を作っている。が、批評的立場を大事にして内容を伝えている点は好感を持つ。
最近見たのは、(24)「リニアまんが訴訟」だ。この動画を見て初めて知ったことだ。要点はネットにも記されている。
山梨県は、本年1月、「リニアで変わるやまなしの姿」(2018年)という冊子を発行した。山梨県出身の漫画家吉沢やすみ氏の手になるもので、リニアができると、生活が革命的に便利になり、産業の観光にも多大な好影響が生じるという内容である。デメリット、例えば南アルプスのトンネル掘削による自然破壊や、騒音などの生活被害にはいっさい触れず、利便性だけを強調した、一方的で偏向した内容になっている。
これを読んで想起したのが、双葉町に掲げられていた。
原子力明るい未来のエネルギー である。
看板ではないが「リニアで変わるやまなしの姿」の狙いは
「リニア新幹線明るい未来へ導く夢の超特急」
ということになろう。
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2021年09月16日
下北沢X物語(4328)―漱石と鴎外の汽車 2―

(一)地方出と在京作家とでは鉄道観が違う。鉄道文学が成り立つのは泉鏡花、宮沢賢治、内田百�里了或佑澄�出身地は金沢、花巻、岡山だ、共通している点は東京から長い距離をおいた所で育っていることだ。その分鉄道への郷愁が強くなる。一方、在京作家はどうか?すでに生まれたときから汽車はあった。日常的な風景の一つだった。鉄道を通して故郷を思うこともない。何が何でも鉄道というわけではない、案外に冷淡だ、いやここが大事な点だ、鉄道に対して批評的であることだ。漱石の『三四郎』は熊本から上京していく青年が描かれている。『三四郎』では汽車が東上するに連れ、女の色が段々に白くなっていった。在京作家だなあと思う。在熊作家だと、まず北九州で黒い山が点々と見える。関門海峡を渡って下関からの汽車で目につくのは白い山々である。石灰岩である。
初めて汽車に乗って上京するときに青年は誰しも興奮する。内田百�里倭襪魍�けっぱなしにしてずっと車窓を眺めていったと。北原白秋は、柳河から上京していくときには匂いの変化に注目した。「門司ではバナナや鳳梨の匂を嗅ぎ」、そして強烈だったのは、「私が東京に着いて一番に鋭く感じたのは新橋停車場の匂でした」という。田舎ではない、化粧や髪油や煙草などが混ざった独特の臭いだった。
三四郎が熊本から上京していくときに一番目を惹いたのは女性の肌の色だった。汽車で東上するに連れ、肌色が段々に白くなる。青年は「女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた」。色黒の女性に郷愁を感じていたところまさにその女が乗ってきた。しかも、列車の中で行き会った女、「この女の色はじっさい九州色であった」、自分が慣れ親しんできた「三輪田のお光さんと同じ色である」と。ところがだ、
ただ顔だちからいうと、この女のほうがよほど上等である。口に締まりがある。目がはっきりしている。額がお光さんのようにだだっ広くない。なんとなくいい心持ちにできあがっている。それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。じいさんが女の隣へ腰をかけた時などは、もっとも注意して、できるだけ長いあいだ、女の様子を見ていた。その時女はにこりと笑って、さあおかけと言ってじいさんに席を譲っていた。それからしばらくして、三四郎は眠くなって寝てしまったのである。
彼女は美人だった。三四郎は見惚れてしまった。チラチラチラチラと彼女を盗み見する。彼女の感触も悪くない。男の視線を受けて見返すほどだった。
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2021年09月15日
下北沢X物語(4327)―漱石と鴎外の汽車―

(一)明治末、鉄道隆盛時代の二大青春小説は漱石、『三四郎』と鴎外『青年』だ。近代の鉄道における人間を考える上で面白い。鴎外は『三四郎』に影響を受けて『青年』を描いた。これら作品における汽車というのは興味深い。青春というのがポイントだ、希望を持ち、理想に憧れ、そして異性を求めはじめる時期だ。ことには性愛的汽車論が面白い。漱石の場合は抑制的であるのに鴎外の場合は解放的であるように思われる。その辺りが汽車のカダンスとどう関係してくるのか、自身の興味の中心的観点だ。前に言いかけてそのままにしてあるが、『青年』において汽車がはためく場面があるが、自身の見立てではカダンスが煽ったと分析しているが、本当はどうなのだろうか?
『三四郎』冒頭は、汽車によって現出した近代空間から物語は始まる。その冒頭は「うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている」だ。近代鉄道空間が描出される。見知らぬ者同士がボックス席に偶然乗り合わせる。その狭い空間に否応なく閉じ込められて旅をする。そこに物語が生まれる。
汽車に乗ったら女と乗り合わせた。主人公は青年だ、異性には興味を持った。しかし、意識するだけで話はしなかった。狭い空間である。関心があるのに黙っている。窓辺を見つめる、景色が流れていく、床下からは絶えずカダンスが響いてくる、カタトット、トタトット、景色と音とが意識を支配する。「どちらまで?」と話掛けていたら眠くはならない。が、自意識の強い青年はそんなことはしない。黙っている。するとカダンスに引き込まれる。「うとうとして」というのはそれを指す。カダンスが眠剤の働きをしているのだ。
主人公が寝てばかりいるとお話、小説にならない。忽然と起き上がる。するとそこに変化が認められた。なんと爺さんと女とが親しげに話している。
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2021年09月13日
下北沢X物語(4326)―電車好きのワンコとばったり 下―

(一)電車好きの犬は少なくない。犬の散歩コースに踏切や跨線橋を入れていつも電車を見せているという人もいる。こんな話を聞きつけると期待をする。音を聞いて電車の何系かが分かる、東武か西武かメトロかを嗅ぎ分ける。「この子は東武線沿いで生まれたものだから9050系の東武車が来るとワンワン泣いて喜ぶの」なんて話があれば面白い。しかし、そういうことはない。犬が動くものを追うというのは習性である。かつて狩りをしていた時代の名残である。しかし、稲荷橋のピーチちゃん、下りには深い興味を見せるが、上りには興味が湧かないらしい。ここは謎である、上り電車で自分の恋人が去ってしまったかなどと妄想してみたが、理由は分からない。犬の飼い主とはかれこれ一時間ほど。稲荷橋で橋上談義をしたことだ。
「この間の3月末で都立大から成城学園まで行っていたバスが廃止になったのですよ。あれが廃止されて困ったという人が結構いたのですよ」
犬の飼い主が教えてくれた。
都立01は、よく知っている。散歩中至る所で出くわしたからだ。こちらにもそれなりの郷愁はある。言えば「武蔵野を走る最後のバス」だった。狭い道路をすり抜け、起伏を上り下りしながら10、6キロの道のりを走り抜ける、都会ローカル線バスの旅ができた。
「成城学園に子どもを通わせるのにとても便利だったのですよ。都立で始発に乗って、そして終点で降りる、こんな便利なバスはないですよ。学園はそんな出欠についてはうるさくない、途中バスが遅れることがあっても全く問題なかったのですよ。『可愛い子には旅をさせよ』じゃないですけど、子どもは子どもでローカルバスを楽しんでいるみたいでしたよ。ところがこのバスが廃止になるとなって、成城に通わせていたお母さんはおろおろしてしまったのですよ。どうやって成城に行けばいいのでしょう」
都立大学からだと東横線で渋谷まで出て、井の頭線に乗り換え、さらに下北沢で小田急線でも乗り換え、確かに面倒だ。
「等々力から成城学園行きが出ているのですよ。近くのバス停は不動前、そこまで車で送ってやるみたいなことをするという人もいるみたいです……」
彼女も子どもさんは成城学園だったみたいだ。
等々力からは東京駅南口行きのバスが出ている。一帯のお屋敷の坊ちゃん、嬢ちゃんたちが都心の有名小学校に通っていて、需要があるのかもしれない。
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2021年09月12日
下北沢X物語(4325)―電車好きのワンコとばったり 上―

(一)保育園児は電車が大好きだ。都立大稲荷橋陸橋は、電車展望台としてはよく知られている。いつも手すりに鈴なりになって子どもたちが手を振る。ここを通過する電車運転士は大サービス、タイフォンを鳴らしておほとんどの電車が返ししてくる。が、電車好きは子どもばかりではない。稲荷橋に電車好きのワンちゃんがいる、これは薄々知っていた。稲荷橋は柿の木坂の切り通しの上に架かっている。この側をいつも散歩で通っている。時々橋上にワンコと飼い主の女性がいるのを見かけていた。先日、ついに質問に及んだ、「おたくのこの犬って電車好きですか?」、「ええ、大好きなんですよ、だから毎日散歩のときはここに連れてきて、電車を見せてあげているのですよ」「やっぱり!」「ワンコの鉄道ファンですね。もしかしたら電車の系統まで分かるんですか?」
質問を投げかけたのは四五日前だ、鉄道好きの犬の話は大好きだ、だいぶ前に『トロ引き犬のクロとシロ』という童話を書いた。トロッコを犬が引っ張るという話だ。話が異色だったようで動物文学賞で大賞をもらった。名古屋で行われた受賞記念式典があった。このときに残念なことがあった。審査委員長は戸川幸夫さんだった。表彰式のときに彼に逢えるのを楽しみにしていたが、当日は体調が悪いということで出席されなかった。
以前、「犬と電車とベートーベン」という童話を書いてこのブログに載せた。
ヨシオというのが主人公だ。おじいさんが突然入院したために犬の世話を任される。初日にリードを犬につけた、彼はお構いなく走っていく。その場面だ。
「おいおいどこへ行くんだよ?」
坂をずんずん登っていくんだ。そうすると右手に線路が見えてきた。そこには東急東横線が走っているんだ。
「おいおい、ここかよ!」
そこは自分でもよく知っているところだったんだ。深い谷になっていて、その間を電車が通り抜けていくんだ。行くと谷を渡る橋が見えてきたんだ。跨線橋になっているんだ。
「おい、まさかあそこじゃないだろうな。」
ヨシオは小学五年生、保育園に通っていたときを思い出していた。あのときは公園にいくときもあったが、必ずここにきていた。
「まさかな」
そう思っているとジョンのやつは、坂を上っていって右に折れてやっぱりそこの階段を上っていくんだ。
「そうだ、思い出した、ここはいなりばしっていっていたなあ」
『みなさん、今日はお天気がいいですね、これからお散歩です、今日は、富士山も見えるでしょうから、いなりばしへいきまぁす。』
かよ子先生、なぜかいなりばしへ行くときは、「いきまぁす」と言った。するとおれたちはものすごくよろこんで「いきますいきます」と言っていた。でも、あのときは上っていく階段が高くてこわかった。
稲荷橋が舞台であったが、現実にそこで犬好きのワンコと逢ったのだ。
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2021年09月10日
下北沢X物語(4324)―鉄道文学的音楽論 2―

(一)林芙美子『放浪記』での尾道帰郷場面はほとばしる情感が言葉からこぼれてくる。「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る」、尾道駅へ進入していく手前で列車がカーブすると左に尾道水道が見えてくる、とたんにせつなくなる。進行するに連れ、車窓に煤けた街並が映し出される。ジョイント音は書かれない、が、故郷情景は床下で奏でられる音とともに現れてくる。カタトット、テテトットという車輪音と共に絵がめくられていく、あの海、そしてあの工場の溶接の火花、手前の瓦屋根の一軒一軒にも思い出がある。するうちにホームに滑り込んでいく。ブレーキ音が加わり、やがて列車は停まる。窓からは潮と魚のにおいがしてくる。ああ、尾道だ。
旅情と汽車の音とは欠かせないものだ。その音は音楽だ。しかし、美しい音に聞こえない人もいる。その場合は、恐怖音楽だ
汽車へ乗り込むや否や、ピーと汽笛が鳴って車輪ががたん、がたんと動き出すか出さないうちに、私の体中に瀰漫して居る血管の脈搏は、さながら強烈なアルコールの刺戟を受けた時の如く、一挙に脳天へ向って奔騰し始め……
谷崎潤一郎『恐怖』に描かれる、「Eisenbahnkrankheit(鉄道病)」の症状だ。人間、好悪がある、汽車好きの人と汽車嫌いの人がいる。これの判定は容易だ、汽車の窓辺に映った景色を美しく描いている人は、大概が汽車好きだ。その者に車輪音は音楽として聞こえる。
それを代表するのはやはり北原白秋である。彼は汽車の発する響きをカダンスと述べる。カダンスは馬術用語だ、速歩のことをいう。馬が軽快にぱっか、ぱっかと走るさま、汽車で言えば、カタタン、コトトンとなる。言えば軽快なリズムである、白秋は汽車の響きに音楽を聴き取っていた。
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2021年09月09日
下北沢X物語(4323)―鉄道文学的音楽論―

(一)鉄道の音に深い興味を持っている。これには特徴がある、一定の刻みがあることだ。
レールの長さは25メートル。車輪は機械的に継ぎ目を踏んでいく、この時に発せられるのがジョイント音だ、一分間に何回これが聞こえたか、これで速度が分かる。車輪がレールを刻む音、これは単なる機械音ではない。汽車での移動の間絶えず響いてくる音である。これが旅人の旅情、感情、情感、そして生理をも刻んできた。この聞こえ方は一様ではない、性差や年齢によっても違ってくる。人は自分に近づけてこれを聞いた。芥川竜之介は碓氷線を下る音を、「タカポコ高崎」と寺田寅彦は函館線の音を「くっちゃん札幌」と、種田山頭火は「残った、残った」と聞いた。汽車の響き、刻みは日本人の抒情を刻んでいたのである。しかし、鉄道近代化によって音は消えた、ロングレール化してもう音楽は聞こえなくなった。が、文学作品にこれがレコードされている。この変遷を辿れば見えないものが見えてくる。音の鉄道文化史だ。
音を人はどう聞くか?それは様々だ、が、音は人の情感に強く作用する。初めて太平洋に出会ったとき、何にも知らない子は、驚嘆する、広々と続く海、打ち寄せる大波、怖ろしいものでもあるがなぜか心惹かれもする。
機関車に初めて出会ったときにどんな思いを持つか。
北原白秋の『思ひ出』の中に『汽車のにほひ』がある。鉄道に初めて接したときの思いが描かれてる。
白秋の生家は久留米だ。ここから母親の実家の南関へ人力車で向かう途中、九州鉄道の汽車に出会う。四連のあるうちの第三連目を引用する。
汽車が奔る…………眞面目な兩の眼玉から
向日葵見たいに夕日を照りかへし、
焦れつたいやうな、泣くやうな、變に熱い噎びを吹きつける。
油じみた皮膚のお化ばけの
西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき…………
初めて出会った汽車をTonka Johnは一心に眺めている。これに強い刺激を受けた。
それを「焦れつたいやうな、泣くやうな、變に熱い噎びを吹きつける」と描く。
白秋「思ひ出」の冒頭で、この作品の意図を述べる。「畢竟自叙傳として見て欲しい一種の感覺史なり性慾史なりに外ならぬ」と。どう自身が性に目覚めたかをこれを通して描いた。
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2021年09月07日
下北沢X物語(4322)―朗読台本仕様:長崎にチンチン電車の鐘が鳴る―

(一)「こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ」で始まる『長崎の鐘』の出だしは美しい、すぐに八月九日の真っ青に晴れ渡った青空が浮かんでくる。が、この空が突然にピカッと青く光ってドンと鳴る。激しい衝撃音で一瞬に破壊され、地上には地獄絵が現出される。建物は破壊され、人々の死体が転がる、歌はここを抒情で染め上げる「悲しと思う せつなさよ」と。そしてさらに歌は、「うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ」と続く。「うねりの波の 人の世に」は、飛躍して人間の歴史を歌いあげる。そして広漠とした人生の荒野にぽつりと咲く、野の花を際立たせる。焼けて荒涼とした中に麗しい赤い野の花がめげることなく咲いている。そして締め括る「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」と。原爆の悲惨さはわずかに咲いた野の花で浄化し、鐘を鳴らす、カァン、カァン、カァンと。現実の惨劇とそれを浄化する鐘の音。できたのは昭和24年、米国占領下だ、残酷さは歌えない。抒情性をより高めて悲惨さを象徴する。ものみな滅ぶ、原爆もその一つだ、我々が抱えている無常観を歌ってもいるようだ。
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
「方丈記」の一節だ。人は生きて、やがて死ぬ、どこから来て、どこへ去っていくのか、それは分からない。悲惨さ、惨さなども歴史のほんの一瞬として同意してつぎへ向かう。
原爆の悲惨さをわたしたちは大きな流れとして、やむなく見送るのだろうか。
「長崎にチンチン電車の鐘が鳴る」ここでの登場人物は、94歳のお婆さん、被爆経験者だ、彼女は当時、広島電軌鉄道の女運転手として勤務していた。女子挺身隊の一人だった。作品は全編その彼女の独白となっている。
「長崎の鐘が鳴る」
あの歌、「こよなく晴れた青空を」ではじまるやろう。ほんなこつあの日は空は真っ青に晴れ渡っとったわね………忘れもせん、あの八月九日、突然にあの空がピカッと光ってドガンと割れたんばい。空から降ってきたんは地獄、歌では「悲しと思うせつなさよ」となるばってん、せつなかなんてもんやなか、胸がかきむしらるるようだった。そして、「なぐさめ、はげまし、長崎の」と続いて、最後が「長崎の鐘が鳴る」やろう。みんなは「カァン、カァン、カァン」と鳴る、大浦天主堂の鐘ばすぐに思い出すという。ばってん、うちゃ違う、誰が何と言おうとあれは電車の鐘ばい。
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2021年09月06日
下北沢X物語(4321)―朗読台本提供:長崎にチンチン電車の鐘が鳴る―

(一)戦争は刻々と風化しつつある。経験者の誰もが「どうあっても二度と戦争をするな!」と言っていた。これは伝承していかなくてはならない。が、戦争は悲惨だったと言っても伝わらない。どう具体的に悲惨であったかを伝えなければならぬ。自身経験者から話を数多く聞いてきた。中でも原爆が一番悲惨だった。それでこれをテーマに選んだ。以前広島に取材した話を「広島にチンチン電車が鳴る」にまとめた。電車が復興することで人々が心の灯りを点すという話だ。広島は有名だが、これは長崎にもあった。前々からこれを作品化しようと心に温めてきた。今度のは長崎版だ、それで「長崎にチンチン電車の鐘が鳴る」とした。広島では少年を主人公にした。長崎ではお婆さんにした。こちらは被爆体験した人の独白とした。すべてを彼女が長崎弁で語る。素案はネットに記したが、改めてこれを書き直した。作品の狙いは原爆伝承である。風化しつつあるこれを伝えようという人がいれば提供しようと考える。それでここに伝える次第である。
戦争をどう語るか、難しい問題だ。苦しみや悲しみ、そして苦闘、多くの人は人に知られることなくひっそりと死んでいる。玉砕した島の洞窟で死んだ人、レイテの山中で野垂れ死にした人、追いつめられてとうとうサイパンの崖から飛び降りた女の人、もう数え切れないほどにある。
戦争伝承というとやはり格好良く死んでいった人の話が多い。特攻などはその典型である。これの図書分類は217、5である。この棚には数多くの特攻物が並んでいる。
世田谷の疎開学童を調べている過程で偶然発見した。子どもらと特攻隊とがふれ合っていたという話だ。自身が書いたことで鉛筆部隊という用語が世に知られるようになった。これをきっかけとして掘り起こした戦争物はもう五冊ほどになった。そして今、この続きを書いている。機縁が機縁を生んで今は、台湾出撃の特攻をまとめている。
台湾は本土から離れている、ここに特殊性がある。一番の問題は機の整備、保守である。ところが部品などは容易に手に入らない。部品不足、機体不足、このことから特攻で出撃しても墜落したり不時着したりしていた。それは日常茶飯事だった。
台湾からの特攻出撃は130機である。が、これは特攻を完遂した者の数だ。出撃したが墜落した、不時着をした、敵機に遭遇して撃ち落とされた、などを入れると200機をゆうに超えるように思う。
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2021年09月04日
下北沢X物語(4320)―鉄道文学における音の響き―

(一)鉄道文学の根幹は絵と音だ、が、ともに失われた。前者は窓辺に移り行く風景であり、鉄道に関わる情景である。後者は汽車が発する音である。シュシュポッポはその代表例だ、が、文学の根幹は思念を刻んだ音だ、簡単に言えば、ゴットンガッタンである。北原白秋はこれをカダンスと呼んだ。つまりは音楽的な響きとして聞こえていたということである。音は明治五年、汽車が動き始めたとたんに発せられるようになった。が、このときは単車だ、これはガタゴトだ。先に述べたゴットンガッタンは、いわゆる二軸ボギー台車から発せられる音だ。人々の思念に関係してくるのはこちらである。我々は文学的な音律を保持してきた。五七五であり、五七五七七である、これも刻みである。万葉以来思念を刻んできたと言える。言わば近代はこれが汽車の音に変わったと言える。難しいことではない、カタタンコトトンが人の思念を刻むようになったということだ。が、音は消えてしまう。我等の旅の旅情を刻んできたこれは消えた。味のないものだ、絶えずコウコウクゥクウと床下から鳩の鳴き声が聞こえてくる。新幹線の走行音に耳を傾ける者はいない。
時代時代によって刻みは違う。午砲、ドンが刻んでいた時代があった。徳冨蘆花の「みみずのたわこと」は、粕屋村で聞こえていた音を記録している。その一例を、「東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿しめった日の電車汽車の響ひびき」と記す。午砲は、かつては日常を刻んでいた。皇居でドンが鳴らされる。やや間があって横浜のドンが聞こえてくる。なんとも懐かしい時代だ。雲が低く垂れ込めている時に、普段は大きく聞こえない音が聞こえてくる。電車は京王線、これは単車でゴトゴト、汽車は中央線、カタタンコトトンと聞こえてきたろう。
鉄道文学では景は記されるが、音は省かれる。
みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
『一握の砂』所収の一首である。「小樽出発後札幌を経て岩見沢に至る旅行の思い出を歌ったもの」だ。車中のつれづれにツルゲーネフを読んでいた。と、ふと本から目を離し車窓を見るとみぞれが降っていた。
音は描かれない、が、想像はできる。列車はときに軋みながら走っている。床下からは絶え間なく列車の車輪の音が響いていた。
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2021年09月03日
下北沢X物語(4319)―鉄道文学的品川論―

(一)正統的鉄道文学論で駅を攻めると上野駅や新橋駅ということになる。品川駅は埒外となる。が、ここは都会の外れだ、間の抜けた話があったり、考えられないようなことが起こったりする。都心駅との間合に妙味がある。寺田寅彦の『錯覚数題』というエッセイに「東海道を居眠りして来た乗客が品川で目をさまして『ははあ、はがなしという駅が新設になったのかなあ』と言った」と。もうそろそろかなと目を覚ましたらまだ「はがなし」駅だった。『人民詩人への戯語』では槇村浩は「列車が雨のふる品川駅につくと/彼は前衛の乗客を見送りながら/大きく息をついて/『さようなら』と言った/中野はいつも『さようなら』と言いたがる」と。中野重治の『雨の降る品川駅』は有名だ。品川駅は寂しい別れが似合う駅だ。「今日は松平直が出征するので品川駅へ見送りに行く」(『古川緑波昭和日記」)、出征兵士を見送る駅でもあった。また、「毎日十時四十分かに品川駅へシベリヤからの引揚者がつく」(『ヤミ論語』坂口安吾)、品川駅は出迎え駅でもあった。ひっそりと征き、ひっそりと還ってきた、都会の裏駅だ。
森鴎外の作品に『青年』がある。ここに東海道を西下する列車が描かれる。新橋を出た汽車が品川に差し掛かる。
読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの燈火が、流星のように背後へ走る。忽ち稍大きい明りが窓に迫って来て、車ははためきながら、或る小さい停車場を通り抜ける。
汽車は、新橋を九時に発った急行だ、日付は十二月三十一日だ。なるほど、では帰省だなと思う。が、さにあらずだ。
新橋で発車時間を調べて見ると、もう七時五十分発の列車が出た跡で、次は九時発の急行である。国府津に着くのは十時五十三分の筈であるから、どうしても、適当な時刻に箱根まで漕ぎ着けるわけには行かない。儘よ。行き当りばったりだと、純一は思って、いよいよ九時発の列車に乗ることに極めた。そして革包と膝掛とを駅夫に預けて、切符を買うことも頼んで置いて、二階の壺屋の出店に上がって行った。まだ東洋軒には代っていなかったのである。
ふと思い立って旅に出た。行き先は国府津である。
さて、汽車は新橋駅を発車して動き出した。
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2021年09月01日
下北沢X物語(4318)―品川都鄙境駅の物語 2―

(一)中野重治『雨の降る品川駅』よく知られている。品川駅のポジションに詩情がある。これが『雨の降る東京駅』だと詩にはならない、やはり品川は都鄙境駅だ、冒頭「辛よ さようなら/金よ さようなら /君らは雨の降る品川駅から乗車する」で始まる。「乗る」ではない「乗車する」だ、言外に余儀なく乗車させらるという意味合いもある。乗り込んだ汽車はどこへ行くのか「君らは君らの父母の国にかえる」、即ち母国朝鮮へ帰っていこうとしている。ここから列車の種別と行き先が読み取れる。すなわち、各駅停車の下関行きだ。しとしとと降る雨は悲しみを、悲哀を増幅させる。自分と親しかった同志が去って行く。昼なのか、夜なのかは描かれていない。が、これは夜だろう、乗り込んだのは夜行列車だ、「ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる」、見送り人は列車の先頭に方向にある信号を見る、青が点いている、雨の夜にこれが滲んで見える。出発だ。この詩が発表されたの一九二九年(昭和4)だ、牽引機は蒸気機関車だ。出発の汽笛が鳴る、ボォォォォと構内に谺する。雨に濡れた砂利が、錆びたホームの鉄骨が寂しい。
『雨の降る品川駅』ということで一つ思い出した。確か品川電車区ではなかったか。
教導運転士が運転席に乗り込んで来た。彼は古新聞の山を腕に抱えていた。新米運転手は聞いた。
「教導さん、それは何ですか?」
「見ての通り、古新聞だ」
「何に使うんですか?」
「いいか、こういうことも覚えておくんだ。こんな雨が降る日は一番危ないんだよ」
「何が危ないんですか?」
「鉄道往生志願者が多いということだ」
「えっ、それって自殺者ということですか」
「ビンゴ!」
「ゲッ!」
「事故も程度によるからな、ぶつかったぐらいはまだいいが、轢死は悲惨だよ。血がどこもここもべっとりだ、こういう時は新聞紙が一番いいんだ」
「今夜は危ないですか?」
「そう妙にしとしと降っているからな、こういう時は女かな?」
教導運転手は新米運転士を脅した。
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