2022年03月

2022年03月30日

下北沢X物語(4456)―三軒茶屋の歴史文化と戦災 ―

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(一)三軒茶屋の歴史文化を探るという場合、手応えの感度が鈍い。一つは歴史の浅さである、三軒茶屋という地名として正式に認められたのは昭和7年(1932)、世田谷区成立時である。もう一つは戦災である。海野十三の『一坪館』の記述だ、「三軒茶屋は、大きな建物のならんだにぎやかな町だったが、それも焼けてしまって、ぺちゃんこの灰の原っぱになった」と、戦災で一切合切が焼き払われた。生活の断続性が断ち切られてしまった。我らは文化人の旧居を掘り出しているが、ほとんど当時の面影は残っていない。焼け出されて人々は他所へ移っていった。時間が継続することで文化は残る。が、三軒茶屋一帯はあらかた焼き払われた。痕跡がなくなると人の記憶も消え去ってしまう。

 三軒茶屋の歴史文化を探る過程で画塾「白田舎」の存在を知った。大正八年九月に三宿に開かれた。平福百穂画伯によってである。玉川電気鉄道三宿電停のすぐ近くだ。

 鉄道が武蔵野に敷設されたことは大きい。世田谷に芸術文化が花開いたのはこの影響だ。
大正八年に開塾の白田舎は玉川電気鉄道の開通に負うところが大きい。昭和2年に小田急開通と同時に世田谷代田に帝国音楽学校ができた。前者には画家が、後者には音楽家が付近に住まうようになる。

 画家の平福百穂は、『寒竹』という歌集がある。この中に三宿の画塾を詠んだ「白田舎即吟」五首がある。

 畑中にこの家つくり竹うえてことし六とせの春たちにけり

 画塾を開いて六年が経過した。大正十五年である。大山街道裏手の畑に画塾を建てた。瞬く間に六年が経ってしまった。

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2022年03月29日

下北沢X物語(4455)―三軒茶屋の歴史文化を探る ―

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(一)歴史と地名、深い関係がある。地名は手がかりだ、場所の認識をするには不可欠だ。「どこで何があった」ということから記録は始まる。当地域の歴史を知るには『世田谷の地名』が一番だ。郷名比定、その名がなぜついたか、他郷との関連において論じている、地誌観のレベルが高い。ところが、『世田谷の地名』には三軒茶屋がない。新しいからだ。昭和七年世田谷区成立時の区画図にようやく三軒茶屋町が出てくる。元は上馬引沢であった。三軒茶屋は古くからある町のように思われるがそうではない。さほど新しくはない。三軒茶屋から新町を経由して二子へ行く道は江戸時代中期に造られた新道だ、このときにここは追分となる。信楽(松本楼)、田中屋、角屋という三軒茶屋があったことに由来する。角屋は新道にあることからやはりこの名称は文化文政頃から言われ始めたものだろう。

 三軒茶屋を東西に貫通する道は、律令時代には駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道であった。足柄道、また足柄路とも呼ばれた。ここを東国から西国に赴任していく防人が通って行った。一本道だったときは単なる経過点だったに過ぎない。ただおもしろいことに現在の大山道道標がある地点は三軒茶屋遺跡あった。縄文中期のもので土器 打斧が出土している。この一帯は覚志郷の候補地である。この場所はちょうど尾根筋にある、彼等古代人は北斗七星を信仰の対象としていたという。ここで拝んでいたろうか。

 古代から近代へ、途中がどうであったかは分からない。古代の道は、一名矢倉沢往還とも言った。足柄道、足柄路とも言われる。一人の防人が万葉集にこう詠んでいる。

足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は 清見もかも (巻20-4423) 

御坂に立って袖を振れば、恋しいあなたは、私がはっきりと見えるだろうか。

 詠んだのは埼玉郡の防人だ、三軒茶屋を通ったのか分からない。が、多くの防人が通っていったのは間違いないだろう。

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2022年03月27日

下北沢X物語(4454)―ウクライナ侵攻を核廃絶の機会に ―

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(一)「ペンは剣よりも強し」という、言論は銃や大砲に勝るものだ、人類の理想である。この言葉は絵に描いた餅だ、しかし、今回の戦争ではおやと思わせることがあった。言論が間違いなく一つの力を持ったことである。ウクライナの大統領の言葉である、彼は多くの国の国会でリモートで参加し、虐げられている国民の現状を訴えた。言論を駆使して世界中にウクライナの置かれた窮状をアピールした。彼の演説は聴く者の心を掴んだ。多くの国々で彼の演説を讃え、立ち上がって拍手を送っていた。世界の言論を動かしたことが侵攻側のロシアを窮地に追いやった。言論という正義が力を持つ、すっかり忘れていたことを我々に思い起こさせた、「きちんとした言葉は力を持ち、戦争を牽制する力を持つ」ことを我々に知らしめた。平和というものは言葉でも訴えることができると。

 人間の歴史は戦争の歴史だ、争いに負けると時代の呼称が変わる。江戸幕府が官軍に敗れ明治となった。が、遠い過去を思い返すと縄文時代があった。驚くべきことにこれが一万年も続いた。狩猟民族の彼等は慎ましく暮らした。森から得られる恵を大切にして暮らしてきた。だから一万年も続いた。が、弥生時代になると人々が争いを始める。米ができるようになったことが大きい。これは蓄蔵ができる。持つ者持たないものの差ができる。蓄蔵した米を守るために環濠を掘った。敵から守るためである。人は奪うために戦争をする。人を殺めて領地を自分のものにする。

 しかし、近代戦ではルールを定めた。武力紛争の際の傷病者,捕虜,文民の保護に関して規定した国際条約。ジュネーブ条約だ。しかし、貪欲な人間はこれを無視する。今回、ウクライナを侵攻したロシアがそうである。意図的に民間人を殺戮している。ロシアの戦争のやり口は野蛮だ。

 ロシアは、ウクライナに対する戦争を「特別軍事作戦」と称している。「戦争」とか「侵攻」とか呼んではならない。そう呼ぶと十五年の刑に処せられる。一時ロシアでも戦争反対のデモが行われていた。しかし取り締まりが厳しくなって市民は外に出なくなった。
「デモに行こうものならとっ捕まって腎臓を蹴られて瀕死の状態で留置場に放りこまれるから怖くていけない」とモザイクのかかった映像でその当人は証言していた。
 ロシアの戦争のやりくちは野蛮で残酷だ、人権などという意識はこれっぽっちもない。

(二)
 ロシアは暴虐の限りを尽くしている。赤ん坊を子どもを、爺さんも婆さんも見境なく殺している。その実情をゼレンスキー大統領は静かに語る。そして感銘深い言葉をいくつも述べた。
ロシアのウクライナ侵攻は2月24日始まった。国中が騒然となった。そんな中で25日には、キエフにある大統領府の屋外で彼は、自撮りした動画で、語った。

「私たちはここにいる」
「私たちは全員、自分たちの独立と国を守る」


回りを取り囲んでいるのは国家首脳部だった。

 私は逃げはしない、私はこの首都のキエフにいる。私たちは全員ここに残って、この国家を守る。

国民を深く勇気づけた言葉だった。自国にいる若者も、また外国にいる国民も心底勇気づけられ励まされた。志願兵となって帰国したものも大勢いる。
 世界の人々も忘れていた正義を思い出した。

 ウクライナ侵攻が始まって日にちが経つ、ゼレンスキー語録も増えた。2月24日、ロシア国民に向けて投稿した動画の中で語ったことばだ。

戦争はあらゆる人々から安全の保障を奪う。
それによって誰が一番犠牲になるだろう? 人々だ。
誰が最も戦争を望まないだろう? 人々だ。
誰が戦争を止められるか? 人々だ。
しかし、あなたたちの間にそのような人々はいるだろうか?
私は『いる』と確信している


プーチンではなく、ロシア人に訴えた。ゼレンスキーの言葉による喚起、そしてウクライナ国民がSNS映像で語るウクライナの惨状、世界の誰もがこれを注視した。

(三)
 言葉は、あてにならないものと思っていたが、そうではなかった。言葉は力を持っていた。言葉の復権を讃えよう。

 皆さん、私たちは、世界でたった一つの被爆国です、広島と長崎に原爆が投下され、一瞬で何十万の人を亡くしてしまいました。言葉に言い表せないほどに悲惨でした。
 これを使用したのはアメリカです。おぞましい兵器を使用しました。原爆は人類が持ってはならない兵器です。
 被爆経験を通して私たちは、戦争を二度としないと誓いました。それで新しく憲法を制定しました。(Wikiより)

 第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

�◆〜姐爐量榲�を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.


私が思い描く宣言

今回のウクライナ侵攻を通して学んだことは、言葉は世界に通ずる、その可能性が見出されました。戦争はしないとはっきり断言しているこの日本を世界のみなさんは見ていてほしいのです。今回のことを機に、「世界が見ている」ということがどんに大事なことかを知りました。

 私たちは核は保有しません、核を製造もしません、核を持ち込ませません。世界平和に向かってこれからは言葉で対峙していきます。もちろんアメリカの核の傘にも頼りません。私たちは丸腰なのです。だからみなさんに見ていてほしいのです。


(四)
 世界の人々が見ている、蛮行を行えばたちまちに世界に伝わる。化学兵器を使えば、核を使えば、まちがいなく瞬時にそのことは全世界に伝わる。ロシアの信用はどんぞこまで落ち込むはずだ。立ち直れなくなるだろうと思う。

 人々が監視すること、人々が見張ることがいかに大事か。これが力となって戦争指導者を窮地に追い込むだろう。私たちは見張り続けなくてはならない。人々の目が戦争の抑止に繋がっていくのだと強く信じたい。(写真は広島の惨状)


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2022年03月26日

下北沢X物語(4453)―ウクライナ侵攻から学ぶべきこと ―

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(一)ロシアが侵攻したウクライナの戦況が刻々と伝えられる。今まで生きてきてこれほどリアルに伝えられる戦争はなかった。攻める側と攻められる側の落差が大きい。まず前者である、18日にモスクワのルジニキ・スタジアムでクリミア併合8周年を祝うイベントが 開かれた。会場内外に20万人集まったという。ロシア国旗を人々が振りかざす、国旗をほっぺにメークした若い女性が歓声を上げている。そこにプーチンが現れ、「東部の親ロシア派住民を助けるため」に侵攻したと演説をする。一方の攻められる側の街の風景は悲惨極まりない。住居が病院がことごとく砲撃されて街は廃墟と化している。遺体を埋める場所がないので前庭に穴を掘って埋めていた。どうしてこんな無慈悲な侵攻をするのだろうか。プロパガンダに洗脳された人々と哀れな市民、何と不条理なことだろう。人間は誰もが悪魔になる。それで平気で善良な市民を殺しもする。悪玉と善玉がこれほど分かりやすいものはない。今回の事件は戦争を学ぶ好機会だ。

 国家は嘘をつく、嘘の代名詞となったのが「大本営発表」である。
世田谷若林に住んでいた海野十三は「海野十三敗戦日記」を残している。昭和19年12月27日、東京上空に敵機が来襲した。このときの大本営発表をこう書いている。

〇七時の大本営発表「五十機来襲、十四機撃墜(内不確実五機)損害を与えたるもの二十七機、わが損害四機(体当たり二機を含む)」相当の戦果だ。

 味方戦闘機は、体当たりまでして敵機の侵入を防いだ。五十機中、十四機撃墜とは、嚇嚇たる戦果である。人々はラジオで戦況を聴いている。
「帝都上空に敵機が五十機飛来するも味方機は果敢にも体当たりをするなどした。加えて高射砲隊も活躍し十四機を撃墜し、相当数の戦果をあげたり」
 味方もよくやるじゃないか、と、大本営発表を聴いて人々は喜んだ。中には拍手をする人もいた。が、大本営発表は虚偽に満ちている。
 戦争になると負けていても過大に報告する。
「負けたとなると国民の戦意がガクッと落ちるからな、適当なさじ加減をして味方が善戦したように発表するのだ」と大本営の幹部。
 
(二)
 1944年(昭和19年)10の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。

「臨時ニュースを申し上げます。我が軍は台湾沖航空戦において、敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破し、米機動部隊を壊滅させる大勝利を得た」
 全くの嘘である、米空母や戦艦は一隻も沈んではいない。日本の大惨敗だった。

 戦争になると仕掛け人は嘘をつきまくる。ウクライナは大量の化学兵器を隠し持っているとロシア軍は虚偽報道を流している。ロシアが持っている化学兵器を使わんがためのフェィクニュースだと言われる。ロシア軍は短期間で占領できると思ったらしいがウクライナ軍の反攻によって苦境を陥っているという。ゆえに彼等が何をしでかすか分からない。それで世界中が恐怖している。核兵器が使われるかもしれない。

 ロシアは情報統制を敷いている。新聞報道では、「ロシア、軍事の虚偽情報に最大15年の刑 議会が法案採択」と伝えている。「侵攻」という言葉は禁句として使ってはいけなくなったという。議会そのものが情報統制に双手をあげて賛成している。

 市民の自由を縛り付ける法律は、つい最近中国でも制定された。
「香港国家安全維持法」である、これが中国の全国人民代表大会常務委員会で6月30日に全会一致で可決された。香港政府が同日にこれを施行した。
香港では街を埋め尽くすほどの群衆が出て中国の横暴を許さないとデモをしていた。が、法律が施行されると人々はもう怖がって街に繰り出さなくなった。言論統制の恐ろしさだ。

(三)
 専制政治では何でもできる。たとえ民主主義国家であっても多数を与党が握っていればなんでもできる。数の力の怖さだ。
 この民主国家?日本でも戦争中と同じように、国家は平然と嘘をつく。
 森友学園案件に関わる決済文書の改ざんは好例である。国はいけしゃあしゃあと嘘をつく。
 悪質なのは、嘘でないような嘘を平然とつきもすることだ。放射能汚染土の問題である。
汚染土は福島県に運びこまれているが、中間貯蔵開始後三十年以内に、福島県外で最終処分を完了するとされている。どう考えても不可能だそれを承知で国と県とが認めた。いまも大量の汚染土が運びこまれている。

 はっきり言う。
 民主主義、人権などは、与党が大多数を持つようになると守られない。戦争への動きも危ない、ウクライナ問題に端を発して、だから日本も核を持つべきだなどと怖ろしいことを言い出している。
 ロシアの例をみてわかるように、与党が多数をしめていると独裁者のいいなりになる。プーチンに反対するナワリヌイ氏に詐欺や法廷侮辱罪で禁錮9年の刑が言い渡された。専制国家は裁判所まで腐っている。
 民主主義を守るためには、どうすればよいか、与党に投票しないことだ。
 民主主義、これは力が拮抗することで個々人の人権は守られる。

〇連絡 北沢川文化遺産保存の会
 明日、27日、事務局邪宗門に会報、第89号を午後届けます。


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2022年03月24日

下北沢X物語(4452)―子の神とダイダラボッチ ―

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(一)考古学というのは数式で解法を見出すと聞いた。当地、荏原一帯に多くの古墳がある。ここからは鏃が出土する、ほとんどが神津島産だという、その輝度を測れば容易にわかると。隕石の成分から鉱石を割り出し、この物体がどの天体から来たか数式で割り出せるようなことも聞いた。これを聞いて、ダイダラボッチは数式化できないと思った。最近知ったのは「ダイダラボッチ」を主テーマにした書物がないことだ。ダイダラボッチには具体的なブツがない。伝承だけが頼りである。が、ダイダラボッチは古代日本人の心のふるさとだ。日本人の想像力の源泉である。国造りとかはここから発想されている。想像の原点である。柳田国雄は『ダイダラ坊の足跡』で、ダイダラボッチこれを「自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまわずに、今すこししんみりと考えてみたい」と述べる。しかし、沈着冷静に考えずに世は面白おかしく考えて、これを妖怪化してしまった。

 われらダイダラボッチ探検隊は鶴ヶ久保公園を探索し、柳田国雄が『ダイダラ坊の足跡』でいう。「第三のもの」という箇所へ行った、ここは「もう小字の名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなお七、八町も隔てた雑木林のあいだであった」と彼は述べている。

 ここはどこか?すでに何十回とここを訪れて私はその場所を特定していた。地形的な特徴を考えるとここしかなかった。

 この地には不思議な台地がある。これは東西に長い舌状台地である。ダイダラボッチとされる鶴ヶ久保はこの大地の北側の基部の谷頭にある。何度も訪問して分かったことがある。舌状台地の南部にも谷頭があった。ここに池があって弁財天が祀られていた。これが清水丸弁財天だ。

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2022年03月23日

下北沢X物語(4451)―鶴ヶ久保のダイダラボッチ ―

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(一)歴史は虚構に満ちている、私たちはそれを日々目の当たりにしている。クリミア併合8周年を祝うイベントがモスクワのスタジアムで開かれた。会場内外で20万人集まったという。ロシアの国旗を大勢が振りかざし、この中にほっぺに国旗をメークした女子などの若者が大勢いた。あの侵攻は「東部の親ロシア派住民を助けるため」とプーチンは演説した。観衆は熱狂する、気味が悪い、政治家ではなく神となった彼を思った。一方でウクライナの都市が無差別爆撃を受けて大勢の市民が犠牲になっている。力の強い者、権力者が歴史を作っていく、勝てば官軍だ。日本の歴史も勝者の歴史に他ならない。野沢のダイダラボッチ痕跡にもその片鱗が見られる。鶴ヶ久保公園である。この公園は昭和13(1938)年に東京市の公園として開園した。この時に名付けられたものだがこれ以前は「ダイダクボ」と称されていた。すなわちダイダラボッチである。

 ダイダラボッチの三条件、くぼみがある、神さまが祀ってある、近隣に古墳がある。いわゆるダイダラボッチ3Kである。すべてここには備わっている。古墳は、公園の北側旭小学校付近に縄文時代中期の北丸古墳がある。

 神さまは弁財天、鶴ヶ窪弁財天である。これは伝説に基づいた名付けだ。

 ある年吉宗公が、目黒三谷の池付近で鷹狩をしていたときに、鶴が舞い上がったので、その後を追ってきたところ、のどがかわいたので、窪地から湧き出す水を飲んでいるうちに、鶴を見失ってしまった。
 吉宗公は、「あの鶴を見失ったことは残念ではあるが、これ以上深追いするな」という啓示をうけとりひきあげる。そしてこの地を鶴ヶ窪と名付け、そこに弁財天と、水神を祀り、鶴ヶ窪と名付けたと伝えられている。
 「しもうま」 下馬史跡保存会 1970年刊


 鶴ヶ窪は、いわゆる谷頭に位置する、湧水のわく場所だ、ゆえに飲用に供されていたことは間違いない。下手に下って田を潤していたようだ。
 地名は、将軍吉宗公の逸話にあやかった。東京市民も徳川伝説には弱い。が、吉宗公云々は牽強付会だ。神さままで将軍にあやかっている。
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2022年03月21日

下北沢X物語(4450)―駒沢林愛作旧邸とダイダラボッチ 2―

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(一)ダイダラボッチとは何か?我が日本においてこれを学術分野でまともに取り上げたものは少ない。邪険に扱われていると言ってよい。昨年こんなことがあった。世田谷代田駅前広場にダイダラボッチの足形が完成した。マスコミにも連絡した。在京二紙から反応があった。一社は区に資料を取りにきた、もう一社東京新聞からは女性記者が取材に来た。広場を背景にして写真まで撮った。ところが記事には載らなかった。編集権は新聞社にある。事情があるのだろう。「こういう事情で載りませんでした」、マスコミ人士の最低限の礼儀だ。が、その後何の音沙汰もない。失礼極まりない。こういう事情の背景にはダイダラボッチなるものの市民権が得られていないということがある。「ああ、妖怪の一種ね」ぐらいの教養しか日本にはない。試みに東京都の図書横断検索で調べてみた。世田谷区立図書館、大田区立図書館が蔵書している「巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ」が光っていた。手前味噌ではあるが妖怪類の中では孤軍奮闘していた。

大正年間においてダイダラボッチブームが起こった。近代化との連関からである。明治維新以来、諸方面において開発が進行した。都市に隣接した武蔵野も開発の触手が伸びてきて地勢が破壊されるようになった。畑が転じて宅地になる。そういうときに農夫は境目の物語を語る。「ここはダイダラボッチ」だったと。

 ダイダラボッチの火付け役となったのは「武蔵野会」の論考である。昭和二年発行の柳田国雄の『ダイダラ坊の足跡』では、「あの頃、発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に二つのダイダラ坊の足跡があることが書いてあった」とある。それが「駒沢遠足」(鈴木堅次郎 大正八年七月)「武蔵野の巨人民潭」(谷川磐雄 大正八年十二月)である。柳田国雄はこれを読んで強く刺激された。それで荏原ダイダラボッチ巡礼を思い立って実施した。

 いわゆる「ダイダラボッチ論」では、正統的でまっとうな論考だ、ダイダラボッチ現象の深奥に日本人の深い歴史が潜んでいる。そういう見方でこれを書いている。

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2022年03月20日

下北沢X物語(4449)―駒沢林愛作旧邸とダイダラボッチ―

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(一)第172回のまち歩きでは、まず駒沢林愛作旧邸を訪ねた。広大な敷地を持つ元電通「八星苑」にはフランク・ロイド・ライト設計の建物が残っている。敷地は住友不動産に売却された。前は塀の上から中を覗けた。が、塀の上を目隠しするようにアルミ塀がぐるりと設置された。明らかに人の視線を遮ろうとの意図を感じる、貴重建造物を眺めたり、写真で撮影したりできないようにしている。勘ぐったのは保存運動が起きないように予防線をはるために塀をしつらえたのではないか。同行の別宮通孝さんの話だと、フランク・ロイド・ライト設計の残存建物は四つだという。帝国ホテル玄関、自由学園明日館、山邑邸(ヨドコウ迎賓館)、そして林愛作邸(電通八星苑)である。区内の著名建築物の保存運動をしている人に問い合わせたところ保存運動は起こってはいるとのこと。

 旧林愛作邸になぜ行ったか、大正八年六月一日「武蔵野会」の遠足が行われた。「駒沢行」である。渋谷を出発し代官山の猿楽塚を訪れ、上目黒宿山、駒繋神社、最澄寺などを経由してこの林愛作邸に着いた。この「駒沢行」は「武蔵野遠足記」として記録に残されている。一帯のダイダラボッチについて詳しい、鈴木堅次郎氏が書いている。ここに記録された「林愛作氏邸附近の地誌」は貴重である。(旧仮名遣い、旧漢字は書き換えた)

 林愛作市の新邸は駒沢村上馬引沢と同源沢との地境に在り、朋来居と名づく、四方田畑にして 東西南の三方は芝生の庭に続いて自家の畑越え、田を越えてゴルフ倶楽部の茫々たるグランドとなっているので眼界を遮る何物もなし、茫漠たる武蔵野の趣を味わうべく適当に造られてある。 而も此の地は頗る由緒に富んで居て領分関係から云えば林邸は大久保という旗本の領分、その前の帯の如き田は井伊領、其れを越えたゴルフグランドの地は井伊領と幕府領で邸の東方はデガシラ(出頭)という水源地で前は五町八反と俗称せられ明治14年2月6日、明治天皇が小松宮北白川宮両殿下を供奉として御乗馬にて此の地において兎狩りを遊ばされた旧跡で馳走遊ばされた御野立場であると伝えられてある。斯かる か興味深い史実も古老と共に消え去らんとしてる。若し此の邸内にでも記念碑が建てられるようのことあらば詳細なる調査書を発表しようと思う。之に就いて戸川さんに御面会折御願いしたら宮内省の方の材料も若干求め得られたと同氏から林さんに通報が来ている。
武蔵野特別号 大正7年7月 発行武蔵野会

 
大正六年 1917年、ライトにより林愛作邸(朋来居)が設計され、竣工された。帝国ホテルの新館建設はこの後になる。先駆性ということを考えれば、建物の貴重性は増すのではないか。
 林愛作邸には「朋来居」という別号がつけられていた。多くの人々を招いて野立てもしたようだ。やはり広大な敷地だった。屋敷から見下ろせる景色は広漠としていた。かつての武蔵野である。

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2022年03月18日

下北沢X物語(4448)―下北沢芸術・文士町文化地図―

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(一)昭和十三、十四年頃に世田谷代田に日本画家が多く集まっていた。「帝国新書画名鑑」から抜き出してみたところ十六名が確認できた。参集、蝟集だ、日本画家が集まる芸術村だったと言ってよい。隣接地域の北澤には三名が確認できたのみだ。どうして世田谷代田に画家がこれほどに集まってきたか。考えられることは子弟関係だ、名鑑には師匠筋の名が記録されている。「蓬春」が二人いた。日本画の大家山口蓬春はここ世田谷代田に住んでいた。居住は、昭和4年10月からで、昭和14年に祖師谷に画室を作って引っ越す。三宿の平福百穂とは懇意で奥さんは彼の門下生を娶っている。百穂の門下生と矢沢弦月の門下生がそれぞれ二人住んでいた。百穂は三宿、弦月は太子堂、弟子筋は師匠に近いということで世田谷代田に住んだ。

 昭和6年に萩原朔太郎は下北沢に越してくる、が、帝都線ができてうるさくなるだろうと昭和8年、世田谷代田に転居してくる。詩人、作家としてどこに住むか、ここから芸術家のポジション取りが想起される。朔太郎の弟子三好達治は代田に住んだ。彼は、当地のことを場末と呼んでいた。当地は、田舎度、田園度が高いと言える。景観もよい。眺めがよいというのは日本画には大事な点であった。

 戦後、疎開先から引き揚げてきた斎藤茂吉は世田谷代田に住んだ。

 冴へかへるわれの住む代田の家の二階より
       白糖のごとき富士山が見ゆ


 世田谷代田は高台にある。どこからでも富士が見えた。景観という点では隣接する北澤よりもよい。日本画家が集まったのは景の魅力もあったからではないか。

 代田の古老が言っていた、根津山にたたずむと向かいの尾根の上を車馬がゆっくりと進んでいく様子が見られたと。その間には菜の花畑があって得もいわれぬ景観があったと。

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2022年03月17日

下北沢X物語(4447)―芸術画家村としての世田谷代田―

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(一)「まさぐる」という言葉がある、手先であちこち探すことをいう。突っ込んだ穴から何が出てくるかわからない、よくあるのは筋違いのものを探しあてることだ。三宿にあった画塾「白田舎」を調べているうちに知った。三軒茶屋近辺に日本画家が多く住んでいた。さらに資料に当たったところ、なんと灯台下暗し、われらがフィールドワークしている世田谷代田に多くの画家がいたことだ。底流には文化人の武蔵野願望があった。とくには画家系統にはこれが強かったように思う。これにも歴史段階がある、まず玉電が武蔵野への通路を切り開いた。それでこの沿線に画家が住んだ。昭和二年になって小田急が開通すると今度はこの沿線に集まってきた。その一つが世田谷代田だった。新たなる文化論の切り口となるか?

 世田谷代田に住んでいた画家のひとりに八幡白帆がいる。画塾、「白田舎」出の日本画家である。「帝国新書画名鑑」昭和十三年版に記載がある。これの「帝国芸術院会員」として紹介されている。「官展九回入選者」である。

世田谷区代田町一ノ四二二 八幡白帆 四八 百穂 人物 花鳥

 昭和十三年で四十八歳である。「官展九回入選」というのは高いステータスがある。「百穂」とあるのは、平福画伯の門下生である。

代田の家から歩いて五分とかからぬところに日本画の八幡白帆画伯が住んで居られて、父の肖像を描いた。三十号の大きさで白髭の父が、物入れついた黒い前掛けをかけて、あぐらをかいて、南蛮船や出島をえがいた長崎の絵図を眺めているという構図だ。この絵は日展に出品されたのち、山形県庁に買われて、知事室にかざられた。
「茂吉の体臭」  斎藤茂太  昭和三十九年 岩波書店


旧住所は、現住所では代田三丁目四七当たりだ、1962(昭和37年版)住宅地図では「八幡」の名が載っている。画伯は、「昭和32年(1957)歿、64才」で亡くなっている。遺族が受け継いで住んでおられたのだろう。ここが終焉の地であるようだ。
家は、茂吉代田時代の近くである。足しげく出入りをしていたようだ。斎藤茂吉と八幡の師匠平福画伯とはとても懇意であった。画伯は歌人でもあった。
八幡白帆が描いた肖像画は、山形県上山市にある斎藤茂吉記念館に「茂吉の肖像」として今は飾られている。

 世田谷代田は平福画伯が住む三宿に隣接した地域だ。百穂の門下生がもう一人住んでいた。

官展十回以上入選
世田谷区下代田 八一 島田柏樹 四八 百穂 花鳥

画家の場合は子弟関係が濃厚である。それで師匠に近いところに居を構える、ということはあるようだ。世田谷代田と三宿は徒歩圏内である。
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2022年03月15日

下北沢X物語(4446)―ロシアの侵略戦争と私たち―

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(一)日々生々しい戦争の実写が映像で流される。ロシア軍の我が物顔の侵攻はすさまじい。ウクライナ側の住宅マンションをミサイルが攻撃し、病院をも砲弾で撃ち抜いている。血だらけの負傷者が運び出される、母親が子を殺されて泣き叫ぶ、神はいない、悪魔が跋扈している。ロシアのプーチンのやりたい放題になすすべもなく、戦争は進行している。プーチンはロシア帝政時代の栄光を取り戻そうとしているともいう。が、かの国の戦争の仕方は残虐だ、あらゆる武器を使ってウクライナを攻め立てる。明白なのは人権意識とかは皆無である。原始的、野蛮的な手法で市民を殺戮している。彼の蛮行を「世界が見ている」が、彼らには何の痛痒も感じていない。ロシアは論理も倫理も通じない野蛮国家だ。

 政権は権力を保持するためになんでも行う、外国にいる反体制派を毒殺する。そういえばロシアは国家主導でドーピング不正を繰り返していた。検査場の壁がぱっかりと開いて尿を取り換えるという場面が思い起こされた。今朝の新聞でも反体制派の新聞記者はよく
殺されるとも書いてあった。目的のためなら手段を選ばない。

 昨日は昨日で、ウクライナのメリトポリ市長が拉致されたが、「日曜日にロシア軍は元市議会議員のDanilchenko氏を新市長に指名した」という、彼女いけしゃあしゃあとテレビに出てきてウクライナは情報が少ないから皆不安に陥っている、これからロシアのテレビ放送を流すのでそれを見よと言っていた。

 ロシアの体制が放送するテレビは、ウクライナ軍事侵攻とは言わせない、「特別軍事作戦」と呼んでいる。ロシアにとってこの作戦は聖戦なのだと、これに基づいて報道規制をしている。そのために独立系の放送局は会社をたたまざるを得なかった。もうロシアでは大本営発表のプロパガンダ放送しか視聴できない。

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2022年03月14日

下北沢X物語(4445)―YouTube時代の世界―

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(一)「ネットが崩す公私の境」(黒崎政男)は今でも国語教材の定番だ、自身でも扱ったことがある。著書の中で「公私の境が溶け落ちる」ということが述べられていたが、当時はこの実感はなかった。が、このブログを開いたのが2004年8月だ、もう十八年も経過した。ネットによって公私の境目がなくなる、それは明確に実感できる。歴史なるものは公のもので、我らはこれを価値尺度にして暮らしてきた。が、ネットが歴史に隠れていた真実を暴いた。ネット発信は個別個別に届く、実は歴史というものは教科書にあるものではなく個人個人の記憶にあると知った。好例が「鉛筆部隊」だ、自身がこの語を投げかけたことが発端となってつぎつぎに人に伝わり、最終的にはこの全貌が分かり、今はウィキにも載っていて多くの人々が読んでいる。

 ネットが普及して誰も彼もが発信者となった。ネットにはあらゆる種類の文字情報や画像情報が載っている。このネット画像といのものも際立って面白い。

 今、いわゆる地上波は、はっきり言って面白くない。テレビ欄を見るが、見ようと思うものはない。テレビを点けると妙に派手派手しい連中が出てきて面白おかしく語っている。何の興味も湧かない。自身報道番組は好きである、が、この頃の通常報道には骨がない、突っ込みもなく、締めくくりとして「目が離せませんね」とお決まりの文句がくる。

 むしろこの頃ではネットの時事報道番組が面白い、本質をぐさりと衝いて議論している。地上波から離れた人々は今は間違いなくユーチューブに移行している。

 ネットにはあらゆるジャンルがある、ジャンク的でそこから面白いものを探し出す楽しさがある。ところが、人間恐ろしいものだ。

 自然災害のみを写し出す映像がある。例えば、洪水だ、上流から鉄砲水が襲ってくる。下流には見物人が押し寄せている。驚くのは皆スマホを掲げていることだ。誰も彼もが災害特派員だ。画像をどうしているのだろう?
「あのな、ペドロはアメリカの放送局に売りつけて一万ドルもうかったそうだ」
 という噂もある。

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2022年03月12日

下北沢X物語(4444)―世界が見ているという言葉の武器―

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(一)武器は強力だ、有無を言わさずに人々蹴散らす、一方、言葉は無力だ。戦争反対といくら叫ぼうともこれへの反応はあまりない。ところが今回のロシアによるウクライナ侵攻は様相が違う。戦争当事国は、嘘八百を並べ立てて自己を正当化する。これが強引だ、「ロシア狸さん尻尾が出ているのが丸見えだよ」と言っても構わずに恐喝する。原子炉はテロリストの巣窟になったから、病院も過激派によって占拠されたから砲撃したとのたまう。ただ現実には市民が撮った写真、マンションが真っ二つに避けた様子、産科病院の保育器が散乱した様子など、市民施設を容赦なくロシア側が砲撃している様がSNSなどで映し出される。戦争当事国はこれを見せないようにしているが我々はふんだんに見ている。今はネット時代だ、事件が進行している有様がつぶさに写し出される。「世界が見ている」という言葉は大きな力を集めつつある。ここに一縷の希望を我らはいま見出している。

 ウクライナの侵攻を関わってプーチンは度々核に言及している。「ロシアは核保有国の一つだ」また「現在のロシアは世界最強の核大国の一つ」と述べ、ロシアを攻撃する者は「壊滅され、悲惨な結果となるだろう」と平然と核使用をほのめかしている。

 核の使用をほのめかしてウクライナへの外国勢力の参戦を封じている。想定されているのは戦術核だ、短距離の小さい核弾頭を使って威嚇するものだ。それでもヒロシマ型ぐらいはある。被害範囲が狭まるとはいえ一旦使用したら被害が出る。放射能に汚染されてその土地が使えなくなる、が、ロシアはそれを狙っている節がある。

 核の使用は危ない。これが引き金になって核の打ち合いになると地球は滅亡してしまう恐れがある。しかし、これまでは核使用はタブーであったが、ロシアは大っぴらにこれの使用をほのめかすようになった。
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2022年03月11日

下北沢X物語(4443)―「人道回廊」への違和感―

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(一)ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが毎日報道される。ここでしきりと流れてくるのが「人道回廊」である、最初に聴いたときから違和感を覚えた。意味は民間人が戦闘地域から安全に逃げるための避難路である。疑問を感じるのはどこが人道的なのかということだ。言葉の勘所は観点である。つまりは発信者の意図である。「人道回廊」はロシア側の観点で発せられている言葉である、уманитарный коридор、前者は「人道的な、人情ある」という意味だ、後者は「廊下」という意味である。ロシア側の言い分として「おまえらな、お前たちの命を救うために避難路を作ってやるからな」、高飛車な言い様だ、そもそもロシアが侵攻してこなければ避難する必要も無い、大前提は他国を理由なく侵してはならない、ところがロシアはほとんど言いがかりをつけてウクライナに侵攻してきた。人の道にもとる行いをしておきながら、自分達が作った道を「人道回廊」と名づけた。回廊という詩語風の言葉までつけているから質が悪い。

 報道では、「人道危機を食い止めるための措置として期待される」などと言う。が、ロシアには、人道という考えすらない、「人道回廊」は、虚構であり、嘘である。

 ロシアは15年9月にシリア内戦に介入した。そして反体制派の牙城の北部アレッポでアサド政権軍と協力し激しい戦闘を行った。さんざんに攻撃したあげく、ここでуманитарный коридорが出てくる。新聞記事が報じている。

 露軍は16年、アレッポを包囲し、水や食料などの供給路を断った後に「人道回廊」を提案した。その後、反体制派の戦闘員や住民を退避させ町を制圧した。
 ロシアが主張する「人道回廊」については、「町を明け渡すか、爆弾にさらされるかを住民に選ばせる手段」(国際人権団体)との批判がある。


 ウクライナでも危惧されている。人道回廊で人々が避難した後、もう市民はいないということで徹底的に砲撃を加える。町に残った者は敵だということで殲滅してしまう。占領するためにはどんなことでもやる。それがロシアのやり口だ。

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2022年03月09日

下北沢X物語(4442)―忘れ得ぬ鉄道風景二題―

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(一)人生を意義づけると自身は鉄道全盛時代を生きてきた。ゆえに鉄道黄金風景を記憶に多く貯め込んできた。汽車に乗ると窓辺にかじりつく、飽きることなく移ろう景色を見てきた。その風景から紐解くとやはり人は海が好きだと思う。全国津々浦々を巡ると生者にも出会うが死者にもまみえる。丘の上や山の中腹には墓が見える。すべて海の方を向いている。海に抱かれて死ぬというのが我らの理想なのだろう。冬、東北のどこだったか?深い谷間が見えた。折も折高波が押し寄せて海岸の墓を今にも呑み込もうとしていた。むしろを巻き付けられた墓は、丘に必死にへばりついていた。今回は今もなお思いに残る鉄道風景を紹介しよう。

日田英彦山線上り七七四列車 きむらけん

列車番号744
日田発15時26分門司港行きは
黄昏れ時を走る汽車 かたこときゃたこと
小さな駅を 一つ拾ってはまた捨てる
香春、採銅所、呼野、石原町、志井、石田、城野……
夕暮れの陽は きゅるりきゅろきゅろ

黒いボタ山、黄金の稲田、薄紅色のカルスト台地
五彩に染まった窓辺は やがて瑠璃色
客車の鬼灯 ぼぁり点って きゃたこときゃたことてんてん
左手の海行く 赤と青のランプ
船の汽笛が ばぁうぼうと響く関門海峡 きゃたたんこととん

機関車の汽笛も ぼあうぅと応えて
もじこぅ〜、もじこぅ〜と よばう 駅のホームが流れて来て
線路は18時43分に 頭端式に行き止まる
着いた先の向こうの海は 壇ノ浦
海の底には 都があると ベベベンと語る琵琶法師
旅の情調は想い巡って イタリアローマのテルミ駅
薄暮に浮かぶ銅葺き屋根に 遠い異国が偲ばれる
門司港駅は終着駅
大正の時影漂う古い駅
 『青春と読書』2002年5月号 集英社
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2022年03月08日

下北沢X物語(4441)―人は風景を貯めて生きる―

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(一)私たちは風景を潜り抜けて生きている。その時々で好みがある、子ども時代は、多くは電車に憧れる。家の近くの稲荷橋陸橋は保育園児には人気だ、天気のいい日はここに陣取り電車が通る度に手を振る。すると運転士さん、「ぷぉぉん」とタイフォンを鳴らしてくれる。「ちぇんちぇぃ、青いでんちゃ!」、そうそう「あの電車は横浜から来るの」と先生。「みなとみらい線だよ」と得意になって言う子。東急東横線は私鉄各線が入り乱れて通る。目先が変わっておもしろい。赤や青や緑、多くの色が通る、そこに生まれてくるのが区別だ。電車を眺めては学習をしている。風景を勉強して人間は大きくなる。それにしても動くものはかっこいい、男の子は電車に憧れる。私も憧れた、チンチン電車の運転士になりたいと思った。見かけた電車は山陽電軌鉄道だ。とおの昔に廃線になってしまった。

 しかし、その風景はいまだ覚えている。関門海峡沿いを走っていた。海岸べりの人家のないところに電停があった。ぐぎぎぎと電車が停まる。すると「クロモン、クロモン」と車掌がよばう。ドアが開いても誰も降りない、誰も乗らない。静かだ、潮騒が聞こえる。

 風景を数多く潜り抜けたきた。その中で下関の風景は忘れ難い。2006年1月7日、あの懐かしい三角屋根の下関駅は放火によって焼失した。多くの人が嘆いた。私もその一人だった。市は「下関駅思い出文集」を作ろうと全国に呼び掛けた。私も応募した。

しものせき駅焼失を聞いて

長門市場のひしゃげた屋根を
車窓が食べ始めると
電気機関車はぴょっと笛を吹いて
構内徐行ゆっくり

右は漁港停泊の漁船のマスト
左は青いトタン屋根の駅舎
ホームに進入すると
対岸門司の風師山が見えて
列車がかてんと停まる

やけに長いホームが寝そべっている
古いレールが支えた屋根
その錆びた柱をたどると
山陰本線乗り換え口・出口と
下る階段は億千の人の通った跡
すり減ったその角を足が触って
「ああ、しものせき」と震える

大理石の改札口を出ると
丸柱が懐かしい駅コンコース
高い天井の梁には鳩
微かな潮匂い
歴史が起こされる
満州や大陸へ渡った人の魂が
揺らめいて行き交っている
昭和年代への思いのトリップ
旅を誘ってやまない通路だった

下関は本州最西端の駅
かの駅のシンボルは三角形
関門の天空を刺してしいた
青い屋根よ
思いを刻んだ三角よ
わたしの記憶の倉庫に
淡いブルーの屋根が
焼けないで残っている
(『下関駅思い出文集』2007年刊 発行下関市)

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2022年03月06日

下北沢X物語(4440)―人生とは風景である―

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(一)久しぶりの与太飛ばしだ。人は何のために生きているか?風景を貯めるために生きているのだと思う。振り返ると自然と浮かんでくるのは風景である、一つは、その多くは故郷の山河である。もう一つは人々である。親であったり子であったり、これは忘れ難い。「死んだ子の年を数える」という諺がある。詮無いことを言うことばだが、風景の根幹だ、愛しい人はいつまでも忘れることがない。我々はたくさんの風景を貯め込んで、そして死ぬ。人は死ぬときに一生をめくり絵のようにめくって死ぬ、数瞬に風景を浮かべるともいう。末期の風景は人には宝である。風景にも品質がある、人は常々風景をフィルターにかけている。気に入ったものを選んで脳裏に焼き付けている。その風景の蓄積こそが人生である。人生を豊にするにはいい風景をどれだけ貯められるかにある。

 つい二三日前、駒沢で路傍に休んでいる老人と話をした。御年80歳だという。
「ふと気づくと80歳になっていました。月日の過ぎ去るのは怖ろしいものですよね」
 沼津中学出身の彼と話していて風景の話になった。

「海からB29が編隊を組んでやってくるんですよ。高高度を飛んでいますが、金属のアルミがきらきらっと光のですよ。そして富士から進路を東に変えて飛んでいく。東京方面に向かうのですね、それをじっと見ていましたね」
 
「田舎は西伊豆でしたよ。イルカを食っていましたよ。湾に追い込んでひっとらえて解体する。私らイルカの干し肉を食っていましたよ」

「立正大学の法学部の教授をしていました。その頃は時代としては穏やかでしたよ。給料はそう高くはないけどそこそこ満足のいく生活はしていました」

「千本松原、懐かしい、青い海があって、緑の松、その向こうに富士、いいですね、なつかしきかなですね」
 しばらく話しこんでしまった。
「御殿場から沼津まで汽車通でした。汽車の中でよく勉強しました」
「あれは右側が富士の麓で折に富士を見ながらいったのですよね、下りだから下からこうこうこうといい音が聞こえてきたでしょう」
「あなたなんでよくそんなことを知っているの?」
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2022年03月05日

下北沢X物語(4439)―三軒茶屋と近代の夜明け―

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(一)世田谷には多くの美術家が住んでいる。この契機を作ったのは「関東大震災以降、私鉄各線の開通」だと言う。しかし先鞭をつけたのは玉川電車である。こちらは115年前の明治40年(1907)3月5日に開通した。渋谷を出た始発電車が三軒茶屋に来たときは見ものだ、三宿方向から四角い箱がやってくる。天井から竹竿みたいなものを突き出している。その先端がシュパッと音を立てて青白い光が走った。「おおっ!」、見物人は度肝を抜かれた。やがて箱は三軒茶屋に近づいた。若者や男の子たちは、腰をかがめて電車のスカートの下を覗き込む。「きれいなおみ足が見えるぞ!」と大人が冷やかす。馬もつけないで進んで来る理由がわからない。しかし、覗いても馬の脚は見えない、丸い車があるだけだった。ガッタンと音を立てて電車は三軒茶屋電停に着いた。近代の夜明けはあっけなくやってきた。

 三軒茶屋の近代は電車開通で始まった。この間に大震災があり、戦災があった。この二つの災難を乗り越えて今日がある。カタンカタンと三軒茶屋の分岐部で音を立てていた電車も今は見られない。地下に潜って田園都市線として走っている。

 玉川電車が開通して16年後の大正8年(1919)年9月である。世田谷村三宿九十一番地に画塾「白田舎」は建った。平福百穂の内弟子、舟山三朗はこう語っている。

「その頃世田谷三宿と言えば、まだ家はほんの少しばかり、あたりは雑木林と畠で、いたってのどかでのんびりしていてそのあたり三宿から三軒茶屋にかけて、多くの画家がすんでいた。
 小堀鞆音(こぼりともと)、松林桂月、矢沢弦月、野口謙次郎、郷倉千靱(ごうくらせんじん) 樫山南風といった人たち、以前は画家が土地の人に招かれて、いっしょにウサギ狩りすることもあったという。
 白田舎の敷地約千坪(三、五〇〇メートル)、建坪約二百坪(六六〇平方メートルも)、庭にはオシドリ、雁などいろいろの鳥が飼われていた」
「評伝 平福百穂」(加藤昭作 短歌新聞社 2002年刊)


内弟子舟山三朗は、昭和8年10月30日、平福百穂画伯が没すると彼が残務整理にあたった。「白田舎」は広く借地料も高かったのでここを整理して吉祥寺に転居する。

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2022年03月03日

下北沢X物語(4438)―三軒茶屋と芸術文化村― 

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(一)時代は転変して町は変化していく、大山街道の要衝にあった三軒茶屋は最も大きな変動を受けた。近代の荒波をもろに被った町だ、まず明治になって玉川電気鉄道が開通する。つぎに大正期の震災、そして昭和期の戦災、この三つによって町は大変貌していく。各期ごとに特徴があったが、とくには戦災が大きい。町が灰燼に帰したことであらかた失われてしまった。一帯には絵画系統の文化が育っていたがほとんど残っていない。三宿にあった画塾「白田舎」の存在は大きかった。主催者は平福百穂画伯である。この三軒茶屋近辺には著名な日本画家が住まっていた。画伯が当地で絵画活動を始めたことが大きい。近隣に住む画家たち同士、また画塾生も彼等と交流があったという。一帯は一種の芸術文化村が形成されていた。しかし、焼け野原となったことで痕跡などもあらかた消えた。

 大正八年九月に三宿に画塾「白田舎」を開いた。田は、痩せた畑だ、技倆の備わらない画塾生を育てあげ、才能を開花させる。自らが自らの畑、画才を耕すように仕向けたようだ。手を取り足を取りして教えることはしなかった。師は弟子にはこう言っていたと。

「上手な絵を描くよりも、下手でもよいから自分のものを描け」
「絵は技で描くものではなく、心で描くものだ」


教育論でもある、ついこの間、「邪宗門」で都立大学の高木慎介先生と出会った。環境応用化学域専攻の理系の先生だった。
「偏差値の高い学生が多くいます、しかし彼等の知識の多くが暗記によって覚えたものが多いですね、それは本当の知識ではありませんね。自らが考えて問題を解くということは不得手ですね……政治的不満を持つことはあるようです。けれどもデモに行っても無駄だと思っているようです。私は、デモに行って何かがすぐには変わらないだろうけども行くことで自分の意識が変わる、それが大事なのではないかと思っています」

「暗記的な知識の積み上げではだめなんですよ。やはり今の教育のやりかたに問題がありますね、勉強はさせられるものと思っているがそうじゃないですね、暗記することを主体としているでしょう。現今の四十人学級にも問題があります。教え込む授業しかできないでしょう。三十人ぐらいにして互いに意見を言い合って知識を獲得していく……」
 同感することが多かった。

 「白田舎」の熟生は四〇名ほどだという。彼等は三宿、太子堂、三軒茶屋に下宿していた。近隣に多く住む日本画家のところへは行っていたろうか。高名な画家が七八人いた。

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2022年03月02日

下北沢X物語(4437)―玉電と三軒茶屋と芸術文化村― 

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(一)荏原二万里、足かけ18年間荏原地域に埋もれた文化を発掘してきた。ひたすら自力で走り、歩いてきた。今回、現地調査をしてみての結果を報告した。「平福百穂画伯の画塾『白田舎』跡に行きましたよ。なるほどなと思いました。街道から一歩入ったところにそこはありました。通り沿いは家並みがありました。けれどもその裏手に入ると別世界ですね、そこは畑とか雑木林だったのです。敷地が千坪もあったのですね、場所は北のり面の緩斜面です。坂は底の方の烏山川まで下っていきます。だから景色が俯瞰できるのですね。文学者は風景には敏感ではないと思いますが画家はこだわるのだと思いました。画伯は、『ここはいい』と思って『世田谷村三宿三百九十一番地』に画塾を建てようと思ったと思うのです……」私は夢中になって秋田県の人に話をしていた。

三宿に平福百穂画伯が画塾を構えていたことを知った。その場所が分からなかった。調べていくと秋田県角館市に平福記念美術館があることが分かった。旧居がわかるのではないかと。電話をするとすぐに分かった。

 文化人の旧居を捜し当てるのは容易ではない。探す場合は年譜から入っていく。大概は居住場所が書いてある。ところがこれが旧番地で書いてある。難問だ、古い地図で確かめられはする。旧番地と新番地は対照はできる。が、前者の区域は広い、居住場所をピンポイントで探し当てるのは困難である。例えば三好達治だ、「世田谷区代田一ノ三一三岩沢方」、これが容易に分からなかった。半年経ってようやっと分かった。

「はす向かいの河野さんのお婆さんが覚えておられて、『三好達治さんところはそこですよ』と」
 これを聞いてきたのはやはり地元の人だ。旧居探しは過去を覚えている人を探し出すことが一番だと知った。

 ところが平福百穂画伯旧居『世田谷村三宿三百九十一番地』は、現在のどこか美術館の館長さんの小松さんが即座に教えてくださった。
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