2022年05月

2022年05月31日

下北沢X物語(4496)―会報第191号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第191号    
           2022年6月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、三軒茶屋地名考
                  当会主幹 きむらけん

(一)
  三軒茶屋という固有の地名は存在しなかった。今は、都内有数の繁華街として名はよく知られている。しかし、三軒茶屋は古くからある地名ではなかった。土地名として初めて名を表すのは、昭和7年(1932)10月1日、東京都が5郡82町村を東京市に編入して新たに20区を新設した。このとき荏原郡であった世田谷は東京都に編入され区に昇格した。このときに町名変更も行われ、晴れて地名として表舞台に立った。三軒茶屋と改名された元の地名は、荏原郡中馬引沢村、下馬引沢村、太子堂村等であった。
 興味深いことがある、明治40年(1907)3月6日に玉川電気鉄道が開通する、このときは道玄坂上と三軒茶屋間が開通する。これは当地域では画期的なことであった。終着駅であり、始発駅である。その駅名は、三軒茶屋である。もうすでに土地名よりも通称名の三軒茶屋が広く社会に知られていたことが分かる。

 徳富蘆花は名エッセイ『みみずのたはこと』の中で「青山高樹町の家うちをぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた」とある、千歳村粕谷に夫妻は住んだがそこへ行く途中に玉川電鉄の敷設工事に出会った。
 大山厚木街道を通って行ったようだ、線路は街道に敷設される、これを横目で見ながら脇を歩いて行った。呼称としての三軒茶屋はごく一般的に使われていた。電車ができてからの電停名であるが、電停の名称であるが、渋谷、池尻、三宿、太子堂、そして三軒茶屋だった。前三者は古くからの地名である、三軒茶屋方は通称が昇格して電停名にこの名がつけられた。先の徳富蘆花だが、「みみずのたはこと」の中でこうも述べる。

 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。

 千歳村粕谷から三軒茶屋までは武蔵野である。ところが、ここを過ぎると東京の場末となる。三軒茶屋が郊外の明確な結節点として捉えられている。

(二)
三軒茶屋のいわれは、有名だ、当地に三軒の茶屋があったからだ。その三軒とは信楽(後に石橋楼と改名)、角屋、田中屋の三軒である。問題は、いつ頃から三軒茶屋と呼ばれるようになったかである。
 当地を東西に貫いているのは世田谷通りである、古代の重要道であった、律令時代には駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道にあたり、「足柄道」または「足柄路」と呼ばれていた。万葉集に収録された防人の歌にも登場することから、8世紀頃には東国と畿内を結ぶ主要道であった。箱根路が開かれる前は東海道の役割を果たしていた。
 時代が下って江戸時代になると大山講が爆発的に流行った。江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地として愛されるようになった。一方、世田谷道はこれも当時流行っていた富士講道でもあった。講の道として混み合ってもいた。そういうことから三軒茶屋で道を二叉に分けることになり、大山へ向かう新道を作った。いわゆる追分となった。それでここに碑が建てられた。「大山道碑」である。

左 相州街道
大山道
右 富士 世田谷道・登戸道


現在この碑は、三軒茶屋の追分に今も建っている。碑の建立年代が刻まれている。
� ヾ憶籠麈�己己年(一七四九年)
�◆(顕酋綰�壬申 (一八一二年) �△砲弔い討蓮嶌椴蓮廖⊇ど�工事が行われたようだ。
  
寛延二年(1749)に三軒茶屋に分去れができた。一本道であった当地に追分ができた。言わば一本道は通過点である、が、追分は結節点である、人々が立ち止まるところとなった。「追分ができてからここで小便を垂れるやつが多くなった」との噂も。
 追分は立ち止まる場所、しばし憩う場所となった。が、そうなるとの予測は地元民はしていなかった。道が使われ初めてから人々は追分の重みを知った。
 追分に人が憩うようになって休み所が計画された。ただこの場合も計画的だったと思われる。三軒茶屋の一つの「田中屋」は太子堂の地主堀江家が関わっている。単に掘っ立て小屋みたいなもので建てればよいという考えではなかった。きちんとした体裁の休みどころの茶屋を作ろうと計画したようだ。言ってみればまちづくりの走りのようなものだ。出資者が資金を出して、旅人をもてなす三軒の茶屋を作ったようだ。

 大山道道標であるが、工事であちこち移動させられたが、今は元あった場所に戻されている。本来は東の渋谷方向に向いていたが、今は南を向いている。この大山道標はしっかりとした作りである。「江戸木材町八丁目 石工」と刻んである。金を掛けて作ってある。石碑を台座として上には不動明王像が刻んでる。大山寺本尊はこの不動明王である。
 昭和31年に三軒茶屋町会の「結成50周年事業」の一環として整備されたとある。この時も奉加帳が回って寄金を集めたと思われる。

 想像がつくのは「大山道道標」創建時にも奉加帳が回ったであろう。単なる道しるべではない。背面には、「天下太平国土安穏」、「五穀成就萬民稼業」と彫ってある。国家の安寧を祈願し、五穀の豊穣を祈るものでもあった。後者は興味深い、一帯は商業地帯ではなく農村地帯であったことを物語っている。その土地の人々が追分開通を機に、大山との結びつきを深め、御利益に預かろうした。道標建立については地元民の熱意が感じられる。

(三)
 問題は、いつ、三軒茶屋が建ったかである。道標が完成してすぐにという訳ではないだろう。当地に追分ができて次第に賑わいを見せてきた。そういう殷賑を見計らって茶屋建立に及んだのではないか。

 何か、根拠になるものがないか。探していたところ見つかったのは、「東都近郊全図」の弘化元年板である。これを見ると大山街道筋に地名が記してある。東から順に「中豊沢」、これは渋谷にあった地名だ、次が「池尻」である、そしてその次が「三軒茶ヤ」とあって追分にあるここは四角く枠囲いをしてある。重要地名の印だろう。
 弘化元年は一八四四年である。「東都近郊図」は毎年発行されている。比較すればよいと思った。が、資料は容易には手に入らない。
 「東都近郊図」が、国会図書館デジタルコレクションにある。これは文政十三年(1830)のものだ。道は一本道である、地名として三宿や太子堂はある。が、三軒茶屋はない。道標の建立は寛延二年(1749)だ、追分ができてから八十年は経っている。近郊図は毎年発刊はされる。が、現在のように情報がすぐに反映されるわけでもない。事実文政十三年のには追分すら描かれていない。

 ただ事実としていえること「東都近郊全図」が示すとおりは弘化元年(1844)には間違いなく三軒茶屋には三軒の茶屋が建っていたことだ。三軒も出来れば競いもする。
「おいしい荏原茶を淹れたばかりです、どうぞ寄ってください」
 呼び子を立てての争奪戦が行われたように思う。

 さてまとめだ、江戸期の繁栄を言うときによく文化文政と言われる。平穏で江戸を中心に町人文化が栄えた時期だ、大山詣も時代の爛熟期になって三軒茶屋も繁昌するようになった。従って三軒茶屋ができたのはこのまさに文化文政(1804-30)ぐらいではなかったか。そうすると弘化元年の「東都近郊全図」があてはまる。大事なことは何か。三軒茶屋は町をあげてのおもてなしだった。今、三軒茶屋はグルメの町と言われる、そのルーツはまさに三軒茶屋にあった。
「行きは茶で、帰りは江の島でしっぽり」 大山詣に手慣れた通の言葉だ。

2、第30回(2022年度) 『まちづくり活動部門』公開審査会

 日時:2022年 6月5日(日)
 当会は、世田谷トラストまちづくりに応募し審査を通過した。この日公開審査会が行われる。コロナ感染予防ということで出席者は3名と限定されている。田島哲夫さん、幾田充代さん、きむらけんが参加しプレゼンを行う。三茶しゃれなあどで行われるが、当日午後、YouTubeで生で中継される。アーカイブはないとのこと。財団、HP参照のこと。当会の出番は午後、13時20分 集合となっている。
https://www.setagayatm.or.jp/trust/fund/application_new.html

3、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)
 
第175回 6月18日(土)代々木上原から下北沢:沿線文化を歩く

 案内者 赤坂暢穂さん 代々木上原駅改札前 13時集合
概要:明治から現代までの当地の地域的な変容の特徴を、実際に現場を歩いて観察し、地形・地物・居住人等から考えてみたい。*当日雨天の場合翌日に延期。
コース:代々木上原駅→古賀政男音楽博物館→東京ジャーミー→徳川記念財団→大山公園→JICA東京、製品評価技術基盤機構(NITE)→上原川水源の池→東京消防庁消防学校(元・インドネシア留学生会館)→旧玉川上水跡緑道→ファースト・リテーリング会長柳井正邸 →オースティン博士旧邸→旧北沢小学校(現・池之上小学校)→三田用水分水→茶沢通り→北沢公園・矢吹申彦宅→東北沢駅→reload→下北沢駅東口

(*この町歩き終了後、歩く会に参加していた高澤由起子さんが金沢に帰るとのこと。下北沢で会が終わった後に、お別れ会を行う。どうぞおいでください)

第176回 7月16日(土) 三茶の昔を歩く
 案内者 堀江 鉄拡さん 三軒茶屋交番前 14時(時間に注意)
概要:今回は太子堂の古老、堀江鉄拡さんに太子堂のぐるりを巡っていただく。堀江家は鎌倉以来900年続く三茶の名門だ、堀江氏は太子堂四町目西山会会長である。記憶にある話をしていただき太子堂八幡神社に行き、太子堂西山囃子を見学する。会長さんとはここで別れ、近辺の古跡を巡る。太子橋跡→下の谷商店会→矢沢弦月旧居跡→荻原家住宅(登録有形文化財)→画塾楽田舎跡(平福百穂)→馬魂碑移築現場(覗き見る)→野砲兵兵営跡(韓国会館)→兵営関門跡→駅(なおこの企画は「まちづくり活動」の一環である。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                             

▲当会の文化探訪過程で発掘された戦争史話は、長編ノンフィクション、ついに五冊目になりこの6月31日にようやく脱稿した。会の仕事が輻輳する中でこの長編を書き上げた。『台湾出撃沖縄特攻−陸軍八塊飛行場』である。夏までに出るか?乞う御期待。希望者にはサイン入りで頒布しようと思う。台湾特攻は日本近代史の欠落した歴史だ。 
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ


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2022年05月29日

下北沢X物語(4495)―下北沢「新猫町散歩」―

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(一)没後80年を記念して萩原朔太郎展が秋に世田谷文学館で行われる。これに連動して文学館友の会では下北沢『猫町』散歩を実施する。このコースは何度も歩いている、が、町は下北線路街もできて一新した。どのようにルートを作るのかは課題だ。昨日、係担当の幾田充代さんとそのコースを歩いてみた。『猫町』を特徴づけるのは「次元の穴」だ、これが至るところに空いていると言っているのは詩人の吉増剛造である。萩原朔太郎の陰翳を言うものである。「もしかして到るところにあった次元の穴が減っているかもしれない」という予感があった。実際、おしゃれになった線路街には穴はなかった。が、いまもなお、ぱっかりと穴が空いていた場所があった、旧下北沢2号踏切側の踏切地蔵である。

「下北沢線路街全面開業とかテレビでやっていたでしょう。あそこに山本裕さんが写っていたよ」
 28日、北沢川文化遺産保存の会会報、191号を事務局の邪宗門に届けに行ったとき話題になった。これが発端になって「猫町散歩」の下見をしようということになった。
 その散歩の終点は、邪宗門である。それで逆コースでの下見となった。
 鎌倉橋「三好達治文学顕彰碑」、鶴ヶ丘橋「代田の丘の61号鉄塔由来碑」、ここに「定本青猫」の「自序」にある文言を刻んだ。

都会の空に映る電線の青白いスパークを、
大きな青猫のイメージに見てゐる
                  萩原朔太郎


 北沢川緑道、ここから世田谷区地域風景資産「代田の丘の61号鉄塔」が望み見える。そこに碑は建てた。

 今、手元にある「萩原朔太郎」(日本詩人全集14)にある原文を見なおす。ここで初めて気づいた。この自序を記した年号を見て驚いた。続きを読む

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2022年05月28日

下北沢X物語(4494)―さまよえる馬魂碑―

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(一)ちょっと怖い話:三軒茶屋は軍都だった、が、その痕跡はほとんど残っていない。それでも往時を偲ばせるものが二つある。一つはかつて当地に幾棟もあった兵営の一つが残存している、下馬の韓国会館だ、もう一つは馬魂碑を中心とする旧跡群である。後者については、都立青鳥特別支援学校仮設校舎の建築予定地と決まり、碑群の行方が危惧されていた。これらについては敷地北東隅に移築されたと聞いた。森に囲まれた場所からの移動だ、現場に行くと森を形成していた九本の樹木が近々伐採されると小さな張り紙に記してあった。馬魂碑を取り巻いていた静寂空間を形成した森である、碑は残ったが森は伐採、馬たちの魂は木々の緑によって鎮魂されていたが、今は丸裸になって塀の中に並んでいる。馬魂碑の祟りがないか?写真を撮ったら何やら黒い影だけが写っている写真があった。

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 戦時中は、この一帯、近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第八聯隊、野砲兵第一連隊の兵営がずらりと並んでいた。砲兵は、砲車を引く馬を多数飼っていた。この馬がこの土地一帯の農民に幸いを運んで来た。

 この地に練兵場や兵営が移転してきたことは、農家にとっても、馬のボロ(糞や寝わら)や人糞が、畑の肥料に大いに役立つことになりました。ボロはいったん下請けに卸されてから組み合いが買いとり、それを農家が買うという方法で当時は荷車一杯が五十銭ぐらいだったということです。
 『ふるさと世田谷を語る』 池尻、三宿編など 1999年 区生活文化部文化


 都心から郊外のこの地に兵営が移転してきたことで荏原農民は恩恵に預かった。朝、野菜を満載した荷車が大山街道を上った、帰りはボロや肥桶を積んだ馬車がくだった。糞尿を乗せた馬車は、ぴちゃちゃぷっという音を立てた。
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2022年05月26日

下北沢X物語(4493)―洗足池とリニア新幹線 2―

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(一)大深度法は伝家の宝刀だ、地下40m以遠の空間には地権者の承諾が無くても、公共目的であれば使えるという法律だ。地権者には被害が及ばないだろうとの考えで作られたようだ。が、この法に基づいて隧道掘削工事をしていたところ陥没事故が起きた。関係者を震撼させた外環道の調布陥没事故だ。この法律はリニアのために作られたようなものだ。2018年 5月17日にJR東海による大深度地下使用認可申請に関する説明会が奥沢小で開かれた。今、思い起こすと、居丈高だったという印象がある、「危険はないか?」、「安全です」、一点張りだった。洗足池の底が抜けることはない。説明会というよりも、単なる手順手続きだ、説明会を行ったという実績づくりだった。ところが伝家の宝刀が調布陥没事故で折れた。

これまでの説明では、大深度法を活用したシールドマシンによる掘削では、地上への影響は生じないとされてきたが、具体的な被害が生じた。このことから、この法は憲法が保障した国民の財産権を侵害するものだという声が上がった。

 リニア工事は大丈夫なのか?、誰もが不安に思うことである。
リニアもいよいよこの大深度法を活用しての掘削を始める。それで2021年6月8日、品川大井町でJR東海によるの説明会が行われた。調布陥没事故については、「特殊な地盤条件となる区間」で「施工に課題があった」との報告がなされたようだ。

 この説明会は夕方のテレビニュースで流された。会社側は、「ご納得いただけたものと思う」と述べていた。が、参加した人々は、ご納得はしていなかったようだ。

 この説明会を行った翌年、2020年10月14日、北品川非常口から巨大シールドマシンが降ろされ、いわゆる調査掘進が初められた。当初計画では、今年3月末まで300メートル掘る予定だった。しかし、新聞報道によると50メートル掘り進んでマシンは停まったと伝えている。何かのトラブルがあったに相違ない。が、JR東海側は原因を明らかにしていない。

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2022年05月25日

下北沢X物語(4492)―洗足池とリニア新幹線―

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(一)荏原第一の景勝地、洗足池にはよく行く、途中、必ず通るところがある。西の石川台から崖線を登り東の洗足池駅方向に下る。このときに左手に白いフェンスが巡らされている場所が見える。何の工事をしているのか、眺めただけでは分からない。ここはリニア新幹線の東雪谷非常口新設工事現場だ、外周の塀はまっさらだ、注意して見ていくと小さな紙が貼ってある。ところが、今回は「おや」と思った。塀の上の鉄パイプ越しにカラフルな宣伝幕が見えたからだ。(写真)が、違和感を覚えた。外に向けての広告ではなく塀の中にいる人に向けてのものだと知ったからだ。青地の横断幕に白字で記されている。「高める、つくる、そして、支える」この右にリニア先頭部の写真がある。下に「提供 JR東海」とあって、「東京・大阪を一時間で結ぶ中央新幹線」とある。気になったのは何を高めるのかだ?今リニアに対する風当たりは強い。それで働く人たちにエールを送り、士気を「高め」ようとしているのではないか。

 いつも工事現場を通るとき違和感を覚える。何かの工事をしているが、何をしているのか分からない。白いフェンスが工事現場を蔽い、中を見えないようにしている。工事をする方に負い目があるようだ。真っ白のフェンスがもったいない、「東京−大阪60分 夢のリニア新幹線工事中」、堂々とアピールすればよい。

 ところがそれをしない、塀の中にはその広告を出しているが、外には掲出しない。民主国家である、公明正大にアピールすればよい。くだんの白いフェンスはどこの工事区間でも同じだ。真っ白というところはミソだ、明るい工事現場を印象づけているのではないか。白は潔白、何のやましいところもないというサインかもしれない。

くだんの白い塀、何にも表示がないかと言えば、さっきの白い紙が目につく。目を凝らせば分かる。

近隣の皆様へ
中央新幹線東雪谷非常口新設 工事のお知らせ

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2022年05月23日

下北沢X物語(4491)―世田谷城半島森茉莉幻想行2―

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(一)森茉莉ファンはコアだ、彼女独特の世界に魅せられている女性は数多い。つい最近知ったことがある。彼女の終焉の地は淡島ではない。経堂フミハウスだ、会員の原敏彦さん情報では、フミハウスは壊され更地になったとのこと。彼女の遺骸は死後数日後にここで発見されている。ゆえに事故物件とされていたが空室は埋まった。前に、森茉莉散歩でここまで来たときに「彼女が亡くなった部屋で暮らすのは素敵、空けば住みたい」と言っていた。彼女の霊魂の籠もっている場所は魅力的だと言っていた。が、この頃森茉莉ファンには会わなくなった。母も娘もともにお宅では森茉莉語を交わして暮らしているという人に邪宗門で出会った。北海道からも台湾からもファンは来ていた。「森茉莉ノート」のアィデアは私が出した。が、後発組の「境界の彼方ノート」には大きな差を開けられている。森茉莉ファンはどうも減少傾向にあるようだ。

 我々も一時熱心で、「下北沢文士町文化地図」の初版には、「森茉莉作品関係舞台地図」を作っている。彼女がひいきにしていた店の名が地図に記されている。関係箇所に16個ものマークがついている。が、時が経った、2006年12月に作った地図だ。もう十六年になる。「風月堂、青柳、駅前市場、ボンジュール、クレイヨン、スコット」など軒並みなくなってしまっている。時代は風化していく、下北沢における森茉莉伝説も消えかかっている。

 案内役の幾田充代さんは、森茉莉の小説がいいという。が、やっぱりエッセイだ。
彼女は、淡島居住時代、毎日下北沢へ通った。が、一介の偏屈婆さんはある日正体がばれてしまう。皆驚いた。

(二)
 魔利が妙に目立つところへ雨の日も風の日も歩いて通る。 そこへ魔利の父親の鴎外という人間が、小学校へ行った者には全部名を知られていて、誰でも一度聞いたら(へえええっ)と驚いて忘れることのない。 馬鹿馬鹿しく有名な、肩書きの多い文学者と来ている。いやが上にも人に覚えられるように、有名な悪妻の鴎外の娘というを景物も、附いている。 かくして魔利は、毎日の道筋の多くの商人、二側も、三側も裏通りに住む人々に至るまでに顔と名とを覚え込まれた。
『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 1992年


 おもしろいし、たのしい、父親が全国民に知られた有名人だと言っているが、全く嫌みがない。さらりと説明しているところがよい。

 地元ゆえに地元ネタが多く転がっている。
「杏奴さんとは道ばたで擦れ違うことはよくあったらしいのですよ。けどね杏奴さんは顔を隠して擦れ違っていたのよ……」
 茉莉を見かけた人は西洋乞食のようだったと。

 前に、代沢小で森茉莉の話をしたことがある。そのときに父親が茉莉の部屋に出入りしている電気屋さんだった。
「いっつも、リモコンの注文をしてこられるのですよ。父親が行ってみるとベットの下にリモコンがいくつもいくつも転がっていたというのですよ」
「ついさっきまでベットの上にあったのだけど、なくなっちゃってね」
 掃除をしたり、書き物をしたり、狭い部屋を動き回っているうちにリモコンが落ちる。ありうることだ。

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2022年05月22日

下北沢X物語(4490)―世田谷城半島森茉莉幻想行―

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(一)古道、滝坂道を森茉莉の足跡を辿って歩くと、彼女が降臨してくる、それは彼女の土地勘が鋭かったからともいえる。我々は彼女の姉、梅丘の小堀杏奴旧居から、彼女の知友萩原葉子旧居をたどり、パウロやギドウが暮らした若林から淡島の倉運荘跡までを歩いた。その道筋の木陰にこっそりと隠れている彼女の気配を感じた。西洋乞食風の彼女の動きは素早い、ふっと消えたかと思うとまた木立の陰に潜んでいる。なぜそうなのか、理由は簡単だ、生前彼女はここらへんよく歩いていた。ゆえに地理は案外に知っている。が、地名には一ひねりを入れる、我々が集まったのは梅丘だ、森茉莉はこれを「夢ヶ丘」といい、また「若林陸橋」を、「月林陸橋」という、近隣の地名などはよく知っている。日頃、買い物袋を下げてゆるゆると歩く、常々サナトリウム歩きをしていたからだろう。

 東條湯布子さんは亡くなられた。彼女からは何度も話を聞いた。おもしろいことに近隣に住む有名人のインタビューを行っている。大空詩人の永井叔は彼女を通して知った。太子堂を拠点にさすらいあるいていた詩人だ。森茉莉、永井叔のは生の声が取ってあるので聞かせてあげると言っていた。ところが残念なことに森茉莉のは手に入ったが永井叔はもらい損ねてしまった。

 テープは貴重である。森茉莉は、この中で父と自分の違いを述べている。印象にある発言である。

「お父さまは、何でも整理をされていたのね、頭の中に入っている知識が抽出に整理されてあるの、必要なときに抽出からそれを取り出されるの。私も、抽出はないわけはないけれども中がごっちゃになっているの」
 非常によくわかる。『贅沢貧乏』は優れたエッセイだ。その冒頭だ。

牟礼魔利の部屋を細叙し始めたら、それは際限のないことである。

 こう始まって倉運荘の狭い六畳の部屋を説明する。がらくたが乱雑においてある。それをまるで宮殿であるがごときに描く。ここに彼女の素晴らしさがある。

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2022年05月20日

下北沢X物語(4489)―三軒茶屋の地名発祥伝説―

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(一)三軒茶屋は世田谷の中でもっとも知名度の高い町だ、ところが歴史は浅い。定評ある地名辞典、『世田谷の地名』(教育委員会発行)には出てこない。地名が新しいからだ。三軒茶屋が正式な地名として認知されたのは1932年(昭和7)に世田谷区が都に編入されたときに町名として初めて出てくる。この経緯を考える。当地を横断する東西道世田谷通りは重要道である。富士詣で、そして大山詣での参詣道でもあった。が、江戸期になってブームが起こり大山詣での人々が増えた、これがきっかけとなって当地で道を分岐させて大山道の新道ができた。この分岐点に三軒の茶屋が作られ、いつの間にかこれが通称となった。

 つまりは、当地が追分、分去れの町となったことが原因だ。一本道時代は単なる通過点だった、が、追分になったことで結節点となった、旅のけじめをつけるところ、「いよいよ富士へ」、「いよいよ大山へ」となる。「では、一杯お茶を所望してでかけよう」となる。

 容易に想像ができることは当地が追分なったことで茶屋はできた。では、いつできたのか、この点は大事である。我らの仲間、別宮通孝さんがこの点に興味を持ってブログにも書いていたので、昨日、問い合わせた。こういう返答がきた。

 三軒茶屋にある道標に記されております。文化文政期に一般に往来されてくるようになったと考えています。小生の見解では、新道ルートは事実上は品川用水が流れ始めた時期以降に新道ルートの往来が始まっていたと考えています。
 道標の建立されたのは、1812年ですが、人々の往来は、1700年頃に始まっていたものと考えます。


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2022年05月19日

下北沢X物語(4488)―忘れられた三軒茶屋の文化―

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(一)人間思い込みというのはある、三軒茶屋のうちの一軒は田中屋である。田中さんという人が経営していたのだと思っていた。ところが、先日の地元町会長面談では、太子堂西山町会長の堀江鉄拡さんが来ておられた。当地では指折りの古い家系だ、堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つつ田中屋を経営した旧家であると知った。三軒茶屋は町の発展形成を考える上で重要だ、三軒の茶屋できて発展の礎ができた。当地はかつては一本道だった。が、江戸期になって大山参拝の客が増えた、そこで当地に分岐点を作って富士山参道と大山道参道道を作った。ここで分去れができた。のっぺら棒だった道に追分ができた。分去れは結節点である、道中の目標が三茶までとなり、一休みする場に、三軒の茶屋が建った。三軒茶屋の始まりだ。

 よってこの三軒茶屋ができたことの影響は大きい。一本道であれば、単なる通過点となる。分岐点となると旅人の気合いも違ってくる。憩って出かける、そのときに道祖神に願掛けをしていく。

 江戸から近代へ、明治から大正へ、玉川電気鉄道が敷設される。このときにも三軒茶屋にはYが残った、分岐点だ。下高井戸線と二子玉川線の乗り換え駅となった。

「むかし、三軒茶屋で乗り換え券を配っていたのですよ。多摩川行って遊んで帰ってきて、降りる時に乗り換え券をもらうのです。日にちが書いてないから、それをとっておいて貯め込んで、それを使って好きなとこに行っていましたよ」
 堀江鉄拡さんの話だ、こういう話はおもしろくて楽しい、子どもの知恵だ。

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2022年05月17日

下北沢X物語(4487)―三軒茶屋地域町会長との面談―

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(一)今年度、我々は公益信託世田谷まちづくりファンド助成事業に応募した。テーマは『三軒茶屋文士町文化地図を創る』だ、企画に求められるポイントは地元との関わりである。それで三軒茶屋のまちづくりを推進している行政の「都市整備部 市街地整備課」に相談したところ便宜を図っていただいた。当地の町会長との面談が昨日叶った。昨日、太子堂まちづくりセンターで会合を持つことができた。区の担当官立ち会いのもとに太子堂地区連合会町会・太子堂四丁目西山町会 会長堀江鉄拡氏、三軒茶屋町会会長 杉江敏治氏との面談を行った。私たちは「埋もれた三軒茶屋の文化を掘り起こしたい」と訴えた。これがきっかけとなって「三軒茶屋の昔」という話になって、数多くの昔話が聞けた、「キャロットタワーができるまえは、あそこで豚が飼われていたんですよ」と、まさに昔話に花が咲いて盛会となった。

 5月17日、2時からの会合、当会からは山本裕さん、幾田充代さん、それと私の三人が出席をした。区の方は市街地整備課再開発担当のお二人が立ち会ってくださった。

 最初、当会のきむらが、経緯を簡単プレゼンをした。

・当会は、十八年間活動を続けて来た。活動の一環で生まれたのが「下北沢文士町文化地図」、改版を重ねて現在、八版で、総発行枚数は七万五千部。区のホームページにもアップされている。
・今回、下北沢の隣接地区、三軒茶屋の文化地図をつくりたいということで世田谷まちづくりファンドに応募した。基本は、「三軒茶屋文士町文化地図」を創りたいということである。三軒茶屋というが、太子堂と三宿は入っている。

・今回の面会は、「三軒茶屋の文化地図を作成したく、地元の歴史・文化についてお伺いしたい」ということでお願いしています。
 
・六月五日に、まちづくりファンドでのプレゼンを行う。
 ポイントは四つ
 ◎震災、戦災から生き延びた平和都市三軒茶屋
 ◎三軒茶屋の歴史文化を地図上に記録し未来に伝える。
 ◎三軒茶屋の街の文化をビジュアルに地図上に描く。
 ◎地図を創ることで当地が文化的な町であることを広く知らせる。

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2022年05月16日

下北沢X物語(4486)―沖縄と台湾と特攻

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(一)ウクライナ戦争ではロシアが劣勢に立たされている。「死体が山のようにあってあそこに放り込まれたら行方不明者となる」と敗残のロシア兵が語っていた。誰かもわからずにこの世から消えて行く、寂しいことだ、戦争で亡くなった人、沖縄の糸満市摩文仁の丘の「平和記念公園」には沖縄戦でなくなったこれらの名が刻んである。記名することで故人の霊が救われる。県民の四人に一人が沖縄戦で亡くなったという、県民だけでなく沖縄特攻で亡くなった特攻隊員たちも記名されている。沖縄を救おうと数多くの若者が特攻出撃している。が、途中で敵機に遭遇し撃墜されたり、機の不調で沖縄にたどりつけずに亡くなった者も、大勢いる、この彼等は名を刻まれてはいない。沖縄戦では名もなき戦士が大勢いることだ。沖縄戦における人々の死は、本土防衛の「捨て石」となったというが、沖縄を救おうと数多くの人々が懸命に奮闘していたことは忘れてはならぬ。

 台湾から出撃した沖縄特攻を調べている。台湾は本土から離れた辺境であった。物資は潤沢に送られてこない。大砲や銃という兵器がない、戦闘機もない、燃料も不足していた。そういう辺土で戦おうとするとき本土と同じ戦いはできない。

台湾の航空戦を担っていたのが「第八飛行師団」である。若い参謀がいて、合理的に物事を考えてこれを作戦に生かしていた。

 師団の作戦計画の基本は「司令部で特に計画をする場合のほか、邀撃は一切実施しないで、人員、飛行機、燃料、弾薬などのすべてを滑走路から遠く(二キロから八キロ)分散秘匿して損害を避け、機を見て敵の上陸用艦艇に対して一斉に決定的な攻撃を加え、その上陸前に大打撃を与える」ということにあった。
特攻の記録 「十死零生」非常の作戦 「丸編集部」編 光人社 2011年刊


 作戦の基本だ、一つは、「邀撃」、つまり飛来してくる敵を待ち受けて攻撃することは一切しないということだ。本土などでは邀撃は基本だ、しかし、台湾はできない。邀撃に出た機がやられればお終いだ、補充はない、所持している機は虎の子だ、一機でも失いたくない。

(二)
 作戦、二つ目、分散秘匿である、台湾は海に囲まれている、敵機動部隊は空母を伴ってやってくる。母艦から飛び発った艦載機が虎の子をつぶしにくる。いわゆる、掩体壕はあったが、敵は容易に分かるこれを爆撃で狙ってくる。それで飛行機、燃料、弾薬などのすべてを滑走路から遠く隠す、木陰である。これには大変な作業があった、機を出し入れしなければならない。機をロープで引っ張る、弾薬や燃料も運ぶ、人海戦術でおこなった。航空地区部隊、彼等が担当した。

もう一つ大事な点である、機を見て攻撃するという点だ。これを目撃した現地の人は、日記に記している。

  另一個特攻隊,以舊式的飛機搭載炸彈,直接衝撞美軍戰艦,每天傍晩趁美機來襲的空隙在機場上空,駕機向下俯街,練習衝撞敵艦。

 ここは非常に興味深い点だ、筆者の邱 垂棠さん、日本の攻撃隊には二通りあったという。一つはいわゆる特攻隊だ、もう一つは「古い飛行機に爆弾を積んで米軍の戦艦に突っ込む特殊攻撃チーム」である。

台湾は辺境の地にあるだけにものを大事にする。機は特攻で使えばこれで終わりである。特別攻撃隊があれば、普通攻撃隊もある。これが、「特殊攻撃チーム」だ。

 特攻機もそうだが、戦闘機は昼間出られない。特攻機は薄暮に出撃する。普通攻撃隊チームは、古い飛行機、九九式襲撃機を夜間に出して、沖縄に向かい敵艦に爆弾を落としてくる。米軍の感知能力は高い、夜間爆撃機がやってくると艦砲が火を吹く。空がまっ赤に染まるぐらいだった。九九式襲撃機は、その名のとおり、急降下して爆弾を落とし、そして引き返す、この作戦を第八航空師団は行った。
 危険が伴った、敵艦船の砲撃にやられて撃墜された機も多くいる。しかし、その彼等の名はほとんど記録されることはない。

(三)
 台湾には満足な飛行機はなかった。ともかく部品がない。唯一、高等練習機によって飛行一○八戦隊によって運ばれた部品で息をついていた。壊れた機を解体し、使える部品は使う、その再生した飛行機は百機をこえていたという。

突撃される側は、恐怖心を持った。これが憎しみへとも変わった。凄まじい艦砲射撃で徹底的に沖縄は傷めつけられた。そこに憎しみの暴発もあったように思う。
(知覧特攻会館にて)


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2022年05月14日

下北沢X物語(4485)―洗足池は文化の交差路―

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(一)文化探訪では、洗足池関わりで幾つも発見があった。一つの例示だ、以前、梅丘の宇田川家の欅の剪定に行き会った。「昔はな、大森の漁民がこの枝を買いに来ていた」と主人。それからだいぶ経って『蛇窪の踏切』を読んでいると、「洗足から大井までの長い間の道は綺麗に掃除がしてあった。道幅一杯の大箒で一息に一里余りが清めてあった」と。つまりこれが「海苔柴朶に伐った雑木」で、車からはみ出たこれが何と道を清めていた。本当にびっくりしてしまった。やはり大森の漁民が欅の枝を買いにきていたのだ。イメージがコトンと落ちて、とても感動したことがある。話はこれで終わらない。

今記した、「洗足から大井までの長い間の道」も大事である。いわゆる古道である、つまりは品川道なのである。これを「稲毛道」とも言う。江戸庶民が郊外への物見遊山に来て、洗足池池畔で憩った。ここには茶店があったという。

因縁の不思議、歌人の若山牧水はかつて新聞記者をしていた。彼が書いた記事に、京浜急行電鉄の青物横丁駅で降りて、伊藤博文公の墓所に歩いて行ったというものがある。何とそれが品川道なのである。この道は、荏原の奥地から青物、つまり野菜を運ぶ道だった、それで青物横丁というのだった。

因縁転変、伊藤博文公墓所が萩原朔太郎に繋がる。詩人は、大正十四年二月、前橋から大井町に転居してきた。それが「東京府下大井町6170番地」である。ここの手がかりがこの墓所であった。当地に転居してきた朔太郎が田端に住む室生犀星宛てに葉書を出している。それに家への道案内が書かれている。「伊藤公墓地前、八百ヤと玩具菓子ヤの横町入ル」(「萩原朔太郎全集」第13巻)とある。

朔太郎旧居探しでここには何度も訪れた。
 このときに、墓所前の「村田米店」の主人と出会った。
「不思議だよね、何年かおきに、萩原朔太郎の住まいを人が探しに来るんだよ」
「そうそう、私もその一人です」
 つい笑ってしまった。
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2022年05月13日

下北沢X物語(4484)―荏原ベストワン風景は洗足池―

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(一)人は風景を求めて生きている、深沢園芸高校の裏手の尾根を越えると丹沢山塊が見えてくる、目が安らぐ、思うのは人はいつも人工風景ではなく、自然風景を求めていることだ。私は、常に荏原逍遙を続けている、朔太郎流に言えば漫歩である。この頃、思うのはやはり域内では洗足池の風景が一番ではないかと。大町桂月は『東京の近郊』の中で、「十二社の池、三宝寺池、旧神田上水の源なる井の頭池など、池と名のつくもの多けれども、山湖の趣を有するは、西郊の洗足池のみ也」と述べる、大正十一年発表の紀行文だ、今もなお変わらずに近郊一風景を保っている。気がつくと自分の足はいつもこの洗足池を目指している。

「いつも感心するのは、この川口信さん、洗足池で一番眺めのいいベンチに座って池を眺めているのですよ。このベストポジションを知っている人はいませんよ」
 川口信さん、我らの会の旧会員だった。引退して洗足池の主になっている。

 ところが彼の姿が見えなくなった。数日おきにきているがいつもの特等席は空いている。「どうしたのだろう?」
 洗足池に行くときは、中原街道の坂を西から下ってくる。すると左手に池が見えてくる。ここのたもとに立って対岸を見遣る、すると件のベンチが見える。
 ついこの間だ、いつもどおり見るとベンチには人が座っている、左手には白、右手には黒、女性と男性が座っているらしい。ベストポジションは左手だ、川口さんかと思ったら違うようだ。

 池の右手からぐるっと回っていく、勝海舟の墓の前の公園は保育園児が数多く群れている。子どもをよけながらいくと水生植物園だ、カメラを持った人がここらにうろついている。ときに数十人もいるときがある、「カワセミ」を狙っているのだ。

 やがてベンチが見えてきた。左手には女性、右手には男性、川口信さんらしい、近寄ってみると川口さんだ、が、彼はこちらに顔を向けたが気づかない。人違いか?
「川口さん?」
 彼が顔を向けた、笑顔を見せる、やはり川口さんだった。

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2022年05月11日

下北沢X物語(4483)―ネット時代の戦争と日本国憲法―

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(一)ネット情報は危ない、「ガンを患ったA女史は重篤だ、莫大な遺産を抱えた彼女はあなたに相応の資産分与したい」という弁護人からの連絡、「あなたのパソコンを乗っ取った、ビットコインで金を払えば秘密の暴露はしない」というのもある。今朝の迷惑メール隔離通知では「Amazonプライムの自動更新設定を解除いたしました!番号:9195817」、「【JR西日本Club J-WEST】お支払い方法が無効です」とも。加入もしていないのに毎日来る。ネットは嘘に満ちている。が、自身の日々の発信へは、誠意ある情報が入ってくる、これまで歴史に埋もれていた真実をどれほど明らかにしてきたか、ネットのマイナス面もあるが、間違いなく新しいことを提示もしてくる。今回のウクライナへのロシアの軍事侵攻はネットが大きな力を発揮した。人類は、断絶してはいるが一面真実は伝わるのだという希望は見い出せた。それはロシアの悪辣さ、非道さ、強引さ、デタラメぶりを暴いたことだ。

 「国家は嘘をつく」、典型例が、「大本営発表」だ、あまりのデタラメ振りに、今では 政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報とされている。国家が嘘をつく、これは今も伝統として引き継がれている。都合の悪いところは隠す、改ざんする、日常的に行われていることだ。

 マスコミは国家が嘘をつかないか見張る役割がある、それがあってこそ公器となりうる。が、同調圧力が強く、真実は暴けない、今、スクープを放っているのは週刊誌である。〇〇砲と言われるものだ、が、これも記事を面白おかしく書いて儲かろうという算段が見え透いていて買おうという気はほとんど起きない。

 そんな中、活躍しているのがデジタルハンターである。これは興味深い。今やスマホ時代だ。笑ってしまうことがある、上流で洪水が起こった、その情報を聞きつけた素人ハンターが下流で待ち構えていると大洪水が襲ってくる、待ち構えていたハンターは皆これを写している。ど田舎らしいのだが服装は貧しくてもスマホは持っている。凄惨映像を撮ってどこかに売りつけるのか?
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2022年05月10日

下北沢X物語(4482)―人間の心は戦争に汚染される―

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(一)テレビでは娯楽番組は見ない、つい戦争を観る、先行きが不安だからだ。身近で変化が起こっている、この間、武蔵小山までアンパンを買いに行った。これが十円も値上がりしていた。戦争によって小麦の値段が高騰しているからだ。これはささいなことだ、やはり底知れない危惧は、核戦争が起こるかもしれないという不安だ。戦争を仕掛けている国の言うことが意味不明だ、軍事侵攻は「ウクライナのネオナチ集団との戦いだ」と言う。西側はロシア国内の報道統制によって国民が洗脳されているからという。が、当のロシアではプーチンに対する支持率は圧倒的だ、よく耳にするのは正確な情報を国民に届ければ事態は変わると言う。が、国民はロシアを引っ張っていくにはなにはともあれ「強さ」が必要だと思っている。プーチンはそれを体現しているから支持すると。根本のところロシアと西側では大きな文化観、価値観の違いがある。この軋轢によってもしかしたら核戦争は起こるかもしれない。怖ろしい時代だ。

 YouTubeをよく見る、何度も見ていると、その傾向の番組を発信側が選んでくれる。今、ウクライナ関係の戦争映像が数多く上がっている。圧倒的にウクライナ側の映像が多い。ドローンから撮った映像だ、一本の山道を戦車軍団が走ってくる、ドローンは前から順に照準を定める、そして、砲を発車する、それは光の弧を描いて戦車に命中し、爆発する。後続の戦車も順次狙われてことごとくドローンの餌食になる。敵である戦車、傍若無人に街を破壊し、老若男女見境なく砲撃するロシア軍は悪だ、その悪玉がつぎつぎに破壊されていく様は小気味よい。

 一台一台の戦車には戦闘員が乗っている、砲撃されて爆発した瞬間に要員は死ぬ。が、機械が爆発しているので人は見えない。

 ところが戦車や輸送車の回りには、点々と人が見える。歩兵である。見ていると戦車道に沿って銃を持って歩いて行く。が、上から狙われていることも知らずに散会せずに一定の集団を作って進んで行く。
「両側の森に逃げ込めよ!」

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2022年05月08日

下北沢X物語(4481)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか 5―

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(一)最近気づいたことがもう一つある、当ブログが「もう一つのメディア」であることだ。mediaは情報の媒介物、ブログとの決定的な違いがある、いわゆる、mediaは一方通行である。が、ブログには情報の相互性があることだ。受信が帰ってくる、今日のエントリー数は4481だ、これはネットに蓄積された情報だ、閲覧者はこの記事を見て情報をこちらに届けてくれる。これが発端となって歴史に埋もれていた真実が数多く明らかになった。つい最近の事例では、「根津山防空壕」の様子の具体的な証言、「若林のかむかむおじさん逸話」などである。ブログは、フェイスブックにも同時投稿している。一連の『長崎の鐘」関連関係でも、こちらのコメント欄でも新たな情報が入ってきた。

 世田谷代田に住んだ作曲家、古関裕而のことを話題にしている。彼の自伝「鐘よ鳴り響け」はおもしろい、巧く書けている。この前も引用したが、「日本列島そのものが、音楽になって響いてくる」と書かれていた。ここで思ったことは巧すぎる、きれい過ぎる。ここから直感したことは伝記ライターが書いたのだろう、ということだ。

 決定的なのは、空襲を三月十日と間違えているからだ、聞き書きをしていて空襲と出てくる。ライターは東京大空襲に間違いないと考えた、が、これは山の手大空襲である。

 古関裕而は娘二人を根津山の防空壕に避難させた。彼と奥さんは家を守った。奥さんの金子さんは、防空群長だった、率先して消火に当たった。

「古関さんの奥さんが、『空襲警報』と言うでしょう、あれはソプラノ、つい聞き惚れちゃうのよ」と近所の奥さん。ともかく隣組が奮戦して「我が家は焼けなかった」。

 問題は、この日はいつか?ということだ。先の、今井雄一さんは、24日に墜ちたB29を見ている。この機が千歳船橋の高射砲を食らったとき、代田一帯で見物していた人々は「万歳!」を唱えて小躍りした。が、その手負いの熊が代田まで直進してきて、右旋回していく、そのときに焼夷弾を捨てながら飛んでいった。
 味方の砲が敵の爆撃機をやっつけたと大喜びをしていると。突然焼夷弾の雨が降ってきて、住民は大慌てで消火にかかった。

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2022年05月07日

下北沢X物語(4480)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか 4―

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(一)物事の真相にふと気づいて戦慄することがある。先の30日、代田邪宗門で二人の人と出会った。一人は下北沢のことを調べているという若い学生、もう一人は奥谷民雄さんだ。前者からなぜ当地の文化を調べ始めたのかを聞かれた。「自転車通勤時に通り掛かった茶沢通り踏切で待たされたことがきっかけだ」と答えた。後者は、古関裕而の旧居を知っている古老がいると教わった、即刻電撃訪問をして旧居の確認ができた。この二つのことから大きな変化に気づいた。自転車通勤時代は線である。途中途中で聞き込んだ事実が点として記憶されていた。古関裕而旧居探索は面である。すでに旧居探索は何度も済ませていて、今回の突撃は一つの仕上げでもあった。このことから発見したことは、自分の文化探査が点から面になっていたことである。

 この間、奥谷民雄さんと代田の古老、今井雄一さんを訪ねた、彼は代田八幡宮の前の煙草屋さんだ。昭和4年生まれの93歳だという。当時17歳だった。5月の空襲のときには根津山の防空壕に避難したという。この話の中で谷亀さんのお婆さんの話が出てきた。
「防空壕に避難する途中に焼夷弾の直撃を受けて亡くなった」
 この話をブログで紹介したところ、谷亀�冢困気麕椰佑�らコメントがあった。

 昭和45年前後のことですが、小学生ながら、煙草の店番が私の仕事でした。夕方になると、浴衣姿の古関裕而さんが、いそいそとやってきて、『坊や、ピー缶二つね❗️』と懐から五百円札。ピー缶二つを袋に入れ、『ありがとうございました❗️』と何回繰り返したことか。当時は、『歌番組の審査委員長のお爺さん』としか感じておりませんでした。

古関裕而は愛煙家、ヘビースモーカーであった。谷亀さんのお母さんが、「家から買っていった煙草を吸って多くの名曲が生まれた」と言ったという。地元ネタの真実を表していると思った。

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2022年05月05日

下北沢X物語(4479)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか3―

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(一)先だっての町歩きで、世田谷代田の三大巨人は、ダイダラボッチに萩原朔太郎に古関裕而だと紹介した。三人の巨人に共通するのは移動だ、ダイダラボッチの痕跡は足跡だ、運動の途中に残したものだ、創作者も移動は欠かせない、詩人は「私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない」(『秋と漫歩』)と創作の極意を漏らしている、作曲家とて同じである。書斎に留まっていては作品はできない。外に出て外気を吸う、鳥の声を聞く、美しい女性を眺める、空を見るなどの刺激が必要だ。これらに触発されて詩も曲も生まれるものだ。古関裕而の二番目の居住地が特定できた。ここでは多くの作品が生まれている。「長崎の鐘」もその代表ではないか。この曲の発売は1949年(昭和24)7月1日である。居住地��旧番地1-408から��1-608への転居は1951年春だとすれば�△狼鐔算�代となる。居宅は五線譜に音符を書き写す場、すでに散策で曲は発想されている、近辺の心落ち着く場が創作場所と想定される。となると根津山である。

この間、代田八幡宮前の煙草屋さん、今井雄一さんに奥谷民雄さんと話を聞きに行った。昭和4年生まれの93歳だという。古老である。今では貴重である。
「あれ、B29の墜落は見ました?」
「見た、見たよ、ここの代田八幡宮から見ていたんだ。高射砲がボカンと当たってな」
「そうそう千歳船橋の高射砲にやられたんですよね」
「うん、そうだボカンとな」
「ぐるっと回りこんできたでしょう?」
「そうそう旋回しながら来て爆発して落ちていったんだ」
「豪徳寺まで見に行きました?」
「行った行った、牧場のところに落ちていた」
「あれは、5月24日、根津山の防空壕に避難したでしょう?」
「そうそう、ビンゴ」
「あのとき古関裕而は娘さん二人を防空壕に避難させていますね」
 「古関裕而自伝」にはこれが三月十日のこととして記録されていた。お孫さんの松本幸子さんに「五月二十四日」のことではないかと問い合わせたら「三月十日は間違いです」
との返答があった。

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2022年05月04日

下北沢X物語(4478)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか2―

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(一)朝ドラ「エール」は評判だった、放送前に事前調査に来た人と代田を歩いた。古関裕而の近傍巡りコースの実踏だ、一つのパターンは菓子屋から煙草屋へだ。作曲家は菓子好きで愛煙家である。「香風」は有名な和菓子屋だった。聞き込みで「餡子を包んだ餅」が大好物だったと知った。また駅前の煙草屋では本人が「ピー缶二個!」と言って買っていたという。「うちのピースを吸って多くの名曲ができた」とその家では言っていたとも聞いた。世田谷代田のピー缶と古関裕而の名曲、説得力のある逸話だ。が、世田谷代田の固有性は「エール」ではほとんど出て来なかった。国民的作曲家と言われる古関裕而、地元世田谷代田と彼との深い関係は国民は知らされることはなかった。文化とは地域の味わいである。彼は境涯を世田谷代田で過ごした。三度転居したが代田地内だ、ここを離れなかったのはやはり理由があるように思う。谷あり川ありの地形、それにもう一つに空がよく見えるということが挙げられる。

 福島から上京してきた古関裕而は、1931年から1989年までの58年間を世田谷代田で過ごした。暮らしはじめたきっかけは帝国音楽学校にある、当地に開校された帝国音楽学校に連れ合いの古関金子さんが入学したことが縁である。

 福島市出身の古関裕而は市の名誉市民第一号となっている。昭和54年(1979年)に同市で推載式が行われた。そのときの挨拶では、こう述べたという。

いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。

 故郷の誇りである古関裕而、ふるさとで名誉を受けることになった。その場合は、ふるさとを誉める、自分の曲はふるさとなしには生まれなかったと。これを聞いて聴き手は感動した。やはり、有名人である、その場でどんな挨拶をしたらよいか分かりすぎるほどに分かっている。

「あのな、ホームランを打ったときお立ち台に上がる、自分が頑張ってホームランを打ったというのは禁句だ、まず、第一点、皆様のおかげだという、第二点はアバウトにいう、幸運なことに当たったという、そして最後だ、これが大事だ、『これからも応援をよろしく』だ、いいか極意は自分を出してはいけないのだ」
 手練れの監督は新人にいいきかせる。

 古関裕而は半世紀あまりも代田で過ごした。「根津山や北沢川を思い出した作曲してきました」と言っても通じない、が、本当は心のうちで思っていたろうと思うのである。

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2022年05月02日

下北沢X物語(4478)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか?―

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(一)言霊があれば音霊もある、歌は作られた土地の霊と共鳴して響くのではないか。古関祐而作曲、「長崎の鐘」は世田谷代田で作られた。彼は当地では三回転居している。二度目の転居先代田1丁目408番地時代に産まれている。「古関祐而の代田を歩く」では何度か案内してはいるものの場所は示しても音霊が響いてこない、その場所への疑念があった。が、ついこの間、音霊の響く箇所が明確になった。先の土曜日のことだ、会報第190号を事務局の邪宗門に届けたとき奥谷民雄さんと出会った。彼は旧408番近くに住んでいる。作曲家の旧居は煙草屋の古老が覚えているかもしれないと言う、何はさておき検証一番、即座に今井雄一宅へ我らは直行直撃した。が、彼は「そこに住んでいない」と言い張る、「今ではなくて昔のこと」と何度も言うが通じない。昔と今とがごっちゃになっている。質問を変えた、「空襲のとき根津山防空壕に避難しましたか?」と聞くと。「ビンゴ!」と言う、これで記憶に火が点いて、「長崎の鐘」の作曲場所は探り当てられた。

 毎月、月末、会報を印刷して届ける。いつもこれを待ってくれている人がいる。橋本さんだ、B5版を郵送するために三つ折りにする。彼はこれを折るボランティアだ。いつも彼は、その日がいつか聞いてくる。折って会報を封筒に入れる、自分がやらねばならない仕事と固く心に決めている。
 橋本さんだけでなく、他の人もやってくる。
  
「今日初めて来られて会員になってくださいました」
 これは邪宗門の作道敬子さん。入会されたのは奥谷民雄さんだ。
「鉄道の信号屋ですよ」
「えっ、そうなんですか!」
 頂いた名刺には鉄道技術研究所とある。理系の人だ。私は鉄道は好きだ、が、情緒的だ。
こちらは鉄道文学系だ。
 小野十三郎に『出発』という詩がある。米原駅で待機していた機関車が出発する場面がある。

ガチン!と北陸へ
ポイントは切り替えられ
前方で
鋭い尖端軌条の切っ先が
月明かりの大地を牽いて動いた。


 信号が赤から青に変わって、ポイントが変わる。いよいよ出発だ。彼の話を聞きながらこの詩を思い出していた。

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2022年05月01日

下北沢X物語(4477)―会報第190号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第190号    
           2022年5月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、戦前にあった三軒茶屋の音楽学校 きむらけん

 世田谷代田に帝国音楽学校があった。こちらは昭和2年小田急開業時に開校している。多くの音楽家を育てた正統的な音楽学校だ、こちらはよく知られている。一方、代田の東南方向にある三軒茶屋には歌謡学校があった。戦前の昭和14年4月に設立されている。三軒茶屋は庶民の町、こちらには歌手を育てる音楽学校である。
 学校は、広く全国から生徒を集めようとしたのだろう、名を「国民音楽院」と言った。歌謡曲の歌手を育てる学校である。設立場所は、三軒茶屋165番地である。大山街道と世田谷通りが分岐する、いわゆる三軒茶屋の三角地帯である。角には三軒茶屋の一軒、おしゃれな茶寮石橋楼があった。ちょうど音楽院はこの裏手にあった。当地では一番繁華なところにこれが建った。
 
 創設者は、作曲家の江口夜詩である。彼が作曲した曲として知られているのは、「長崎のザボン売り」、「憧れのハワイ航路」、「赤いランプの終列車」などである。
 彼は昭和7年11月に大塚から三軒茶屋235番地に引っ越してきている。「国民音楽院」の創設は、7年後のことであることからすでに三軒茶屋には馴染んでいた。
 歌謡学校は、歌手をめざす青少年を育てあげる学校である。地方から来る者を集めて教える学校だ。常識的に考えると山手線沿線の新宿や渋谷などが若者を集めるのには好都合だろうと思われる。しかし、あえて音楽院を三軒茶屋に開いた点は興味深い。
 当時、三軒茶屋は軍都だった、当地には近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊、野戦重砲兵第8連隊の兵営が大山街道の南にびっしりと軒を接して建てられていた。町は兵隊で活気づいていた。そんな町に歌謡学校が設立された。
 一つには玉川電車が通る郊外都市として知られていた。多くは地方からやってくる。これからを歌手として生きて行こうという若者だ。課題は生活費だ、下宿代、食費、学費がかかる。これは低廉であることが望ましい。その点、三軒茶屋は物価も部屋代も安い、と言うことが勘案されて当地での開業が決まったものだろうか。
 当時流行っていたのは軍歌である。江口夜詩作曲の「月月火水木金金」は昭和15年に出来ている。19年には「轟沈」が作曲されている。町に流れていたのは多くは軍歌だ。
 「石橋楼覚書」(三軒茶屋石橋楼−三軒茶屋石橋楼発行 2006年5月刊 山本澪他)にはこの「国民音楽院」のことが記録されている。

 歌 歌を教える教室が仲見世の二階に店開きした。江口夜詩音楽事務所。白いガラス文字の居心地の悪さは早すぎたのか。つかの間を謳歌する女たちの城。

 「女たちの城」というのは女性が中心だったということを指す。が、開設時の記念写真がある。これに女性が何人写っているか。十人である。男性が約二十五名だ。多くが男性だった。知られている人物は、作曲家の高岡信行、作曲家の宮田東峰、作曲家の倉若晴生作詞家の高橋掬太郎などだ、歌手としては瀬川伸、小畑実、真木不二男、津村謙などがいる。真木不二男はここで育った歌手である。
 仲見世は今も三軒茶屋の三角地帯に仲見世通りが残っている。ここの通りの二階に開設された。通る度にきっと歌声が聞こえていたのだろう。当時三軒茶屋の名物でもあった。
 昭和14年に開校した。が、時代は戦争へと向かっていく、何年頃まであったのだろうか。戦争になると歌舞音曲の禁止されるようになる。昭和19年3月には多くの劇場が興業を中止している。国民音楽院もこの頃には募集も中止したのではないだろうか。
 休止した学校であるが、戦後になって、昭和31年3月に新宿区柏木に江口夜詩は日本歌謡学校を設立する。その時の生徒数は240名だったという。
 三軒茶屋時代の様子はよく分からない。が、主宰者の江口夜詩がここで育った真木不二夫のエピソードを記している。真木の本名は、小谷野章である。

 小谷野が国民音楽院に入校した頃の様子を、江口はのちに次のように振返っています。
「下駄履きに国民服という出で立ちの十八、九の青年で、軍隊言葉でまことにテキパキと物をいう好青年であった。名は小谷野章といい、単に歌が好きだというだけで何ひとつ満足に歌えず、もちろん楽譜等に関する知識は皆無だった。
「これは厄介な者が来たわい」
とは思ったが、何しろ開校第一番のお客様だから、こちらは喜んで入学を許可することにした」
 母親が買ってくれたアコーデオンを楽譜を見ながら練習していたはずの小谷野でしたが、東京音楽学校出身の江口から見ればズブの素人としか思えなかったのでしょう。
 同門には松平晃、小畑實、津村謙らがいました。それから丸4年の間、江口によれば小谷野は「雨が降っても風が吹いても毎日欠かさず」音楽院に顔を出し、勉強に励みました。やがて当時日本を代表する名テナー・奥田良三 (1903〜93) にもクラシック声楽の基礎を学ぶようになり、天性の才能に磨きをかけて行きました。 


国民音楽院が三軒茶屋に存在したのは短期間だった、昭和14年に開校したときに全国から歌手志望の若者が集まってきた。そのうちの一人が岩手から上京してきた真木不二男である。彼は懸命にここで学んだ、その労苦が実って歌手デビューができた。三軒茶屋で育った歌手である。ヒット曲としては、「泪の夜汽車」「パラダイス東京」、「泣くな片妻」、「霧の港」、「泪の連絡船」、「丘の上の白い校舎」、「空が晴れたら」などがある。
 おもしろい逸話がある。昭和30年に出した「東京へ行こうよ」が発売禁止となった。
「都会に憧れ家出をする少年少女が現れ出し、こうした家出奨励のような歌は好ましくないという理由からだ」
 その彼は短命だった、昭和43年に49歳で亡くなっている。

2、若林のカムカムおじさん Hisamoto Hiroshi

 朝ドラでは「カムカムおじさん」が取り上げられている。平川唯一である。この彼は我らのフィールドワーク圏内に居住していた。世田谷若林である。この本山を何度か町歩きで行ったことがある。
「カムカムおじさんの家の敷地は広かったのですが、今は分割されてしまってね、別の人の家が建っていますよ」と近くの人は言っていた。
このカムカムおじさんの情報が、「東京荏原都市物語資料館」のコメント欄にあった。興味深いものだったので記録としてこれを転載するものである
    
 およそ半世紀前の世田谷区若林。
 淡島通りを渋谷方面から環七通りに向かって進み、若林陸橋の手前を左折した所に平川さんの自宅があり、そのガレージを改造して黒板と長椅子を並べて「カムカム英会話」という教室が開講されていた。
 私は小学校に通い出す前後に、縁あってそのカムカム英会話教室に通っていた。当時の先生は唯一さんの2人の娘さんが中心になり、ウクレレを持って歌いながら英語を教えてくれたのを覚えている。その先生の一人をメリー先生と呼んでいたことも、唯一さんの奥様であろうと思われるおばあちゃんがいらしたことも覚えている。
 教室の生徒にはみんなイングリッシュネームが付けられ、私はチャールスという名前で呼ばれていた。テレビドラマ同様に、レッスンが始まる時と終わる時にはウクレレを伴奏に「カムカムエブリバディ、ハウデゥユドゥエン・・」と歌っていた。
 懐かしい!


3、第30回(2022年度) 『まちづくり活動部門』公開審査会

 日時:2022年 6月5日(日)
 私たちは、世田谷トラストまちづくりに助成を申請している。これについては、プレゼンを行い、公開審査される。場所は未定である。会員の存在を知らせるということもあります。時間のある方はぜひ出席してください。財団、HP参照のこと。
https://www.setagayatm.or.jp/trust/fund/application_new.html

4、町歩きにおいでなされ

 「死ぬまで歩きたい」、前に九十歳になる人が町歩きに参加されて言っていた。素晴らしいことばだ、人間は歩くにかぎる!
 われらは毎月、町歩きをしている。すでに回数は今回で174回目である。この間、臨時的なものも入っている。これらを勘案すると参加者延べ人数は二千人に達するのではないかと思われる。この町歩きの目的はただ一つ歩いて楽しむことにある。
 我らの会には文化の水先案内人が多い。その多くが参加者から出ている、嬉しいことである。我らの町歩きは文化発掘小旅行である。その中で、定番コースも幾つも育ってきた。「森茉莉を歩く」もその一つである。
長い間、私が行ってきたが今回、引き継いでくださるのが磯田充代さんだ。文化伝承はとても大事なことです。ぜひ町歩きに参加してください。先回の町歩きで宣伝したところすでに三名から応答がありました。みなさんもよろしお願いします。

5、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)
 
第174回 5月21日(土)森茉莉の足跡を歩く
 案内者 幾田充代さん 小田急線梅丘駅改札前 13時集合
概要:森茉莉は境涯を淡島で送った。彼女の生活痕跡や作品に描かれた場面を歩き回って確かめる。最後は、森茉莉の書斎、「邪宗門」に行く(飲み物代各自負担)
コース:梅丘駅→小堀杏奴旧邸→萩原葉子旧邸→若林陸橋→若林邸宅街(ギドウ・パウロ)→三好達治旧居→倉運荘→代沢ハウス→代沢湯→「恋人たちの森」冒頭描写とバームクーヘン→森茉莉の執筆部屋「邪宗門」


第175回 6月18日(土)代々木上原から下北沢:沿線文化を歩く
 案内者 赤坂暢穂さん 代々木上原駅改札前 13時集合
概要:明治から現代までの当地の地域的な変容の特徴を、実際に現場を歩いて観察し、地形・地物・居住人等から考えてみたい。*当日雨天の場合翌日に延期。        コース:代々木上原駅→古賀政男音楽博物館→東京ジャーミー→徳川記念財団→大山公園→JICA東京、製品評価技術基盤機構(NITE)→上原川水源の池→東京消防庁消防学校(元・インドネシア留学生会館)→旧玉川上水跡緑道→ファースト・リテーリング会長柳井正邸 →オースティン博士旧邸→旧北沢小学校(現・池之上小学校)→三田用水分水→茶沢通り→北沢公園・矢吹申彦宅→東北沢駅→reload→下北沢駅東口

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                
▲投稿原稿を募集しています。エッセイ、文化論など。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ
(写真は、北沢川文化遺産保存の会190号の発送に協力してくださった方々、「邪宗門」)



rail777 at 09:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化