2022年07月

2022年07月31日

下北沢X物語(4518)―会報第193号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第193号    
           2022年8月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 �冢�
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、戦争の夏:七十七回目(下馬馬魂碑について)

 私たちが、フィールドワークしている一帯には旧軍の施設が数多くあった。しかし、1945年8月15日を境にして廃止された。当会、発起人メンバーだった獣医の故廣島文武氏はこう語っていた。
「終戦後、しばらく経ってからGHQ,占領軍の係官が来て、図面を見ながら、一帯の敷地割をした『あそこは学校、向こうは公園、こっちは公団住宅』などと指示をし、そこにロープを張らせていましたね』と。その敷地が再び軍事施設として使われるのを恐れて強制的に平和施設にしてしまいました」
 現在の駒場地区や太子堂、下馬地区は指示どおりに今は使われている。このことはほとんど知られていない。
 広大な軍事施設は、指示どおりに学校、公園、住宅団地となった。見事という他はない変貌ぶりだ。が、そこに何があったかという案内看板はない。「臭いものには蓋」という考えがあるように思えてならない。
 しかし、丹念に調べて行くと、旧地を記念しての碑などは残っている。一つの例だが、下馬の都営団地の一角にあった「馬魂碑」がある、今年になってそこは更地になり、都立青鳥特別支援学校の仮設校舎建築用地となった。碑は建築の障害となるということで、用地の北東端に移築された。
 この「馬魂碑」は、近隣一帯の歴史を証すものとして貴重である。とくには裏に刻んである碑文である。原文は、文語文で書いてあって読みにくい、それでこれを現代仮名遣いにし、また旧仮名は新仮名づかいにし、漢字も平易なものに書き換えてある。

 わたしたちが今、保管して厩(うまや)で飼っている軍馬のことである。このわたしたちの隊の馬は、将校と兵士にとっては無くてはならぬものである。生死をともにするまたとない戦友である。ふだんにおいてもまた戦時にあっても、苦しいとかつらいとか言うことなく、黙々と任務を果たし、日本国内や国外においても多くの功績を残しているが、その一つ一つは数えきれないほどである。任務に就いている間に、不幸にして敵弾に倒れた者のもいるし、また思いもしなかった事故に遭って無くなった者もいる、そして病気なってついには死んでしまった者もいる、その馬たちの最後の様子を思うにつけ、とても悲しく哀れに思われてしかたがない。その彼等を想う気持ちからここに犠牲になった馬たちの霊を祀り、その冥福を祈ったものである、また加えていうならば、わたしたちがこれからも接するであろう現役の馬たちをいっそうに愛しんでほしい、そういう願いを広く知ってもらおうとここに碑を建てたものである。

   野砲兵第一連隊留守部隊長
   陸軍砲兵中佐正六位勲四等 原 捷吉
   昭和十四年十二月


 この地区には、三つの連隊があった。 野砲兵第一連隊、近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第八連隊である。各連隊では砲車を牽引する馬を飼っていた。

 歴史を知るときに時代というのは大事である、この碑が建ったのは昭和十四年である。ちょうどこの年に制定された法律がある。

 1939年(昭和14)4月に軍馬資源保護法が公布され、毎年の検査で軍用保護馬に指定された馬の所有者は、一定の管理や「鍛錬」への参加などを行ない、大日本帝国陸軍による徴発にそなえる義務を負うようになった。

 いわゆる機械近代化で馬の需要は減ってきたのではないかと想定されるが、そうではない、この法律が制定されたことは軍馬としての需要が多くあったことを示している。
 前線においては環境は過酷であった。戦いの最前線は泥濘地帯、荒れ地では軍馬は欠かせなかった。

 すでに二年前の1937年(昭和12)7月は、北京郊外で盧溝橋事件が起き、日中戦争は始まっていた。さらに1939年(昭和14)9月には、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。風雲急を告げる時代だった。それゆえに碑文はその緊張、すでに当地から外地の戦場へ渡った馬たちも戦争の危難に遭っていた。
 人間も戦争では斃れるが馬もまたそうである、人間に慣れ親しんだ馬であったが、その彼等は苦しみや痛みを口にすることはない、が、野砲兵第一連隊留守部隊長は、馬たちの訃報を聞いて、碑建立に至ったものだろう。

 下馬二丁目に建っている「馬魂碑」は、当地の歴史を物語る貴重なものである。先に碑文を引用したが、原文そのものだと意が通じないと想ったので、碑が言わんとしていることを意訳したものである。

 心掛けたのは、子どもにも分かるように書きまとめたものである。下馬、この世田谷の地にある「馬魂碑」は、学校での地域教育に欠かせないものではないか。そう思ってこのようにまとめたことである。
 単に馬の死を悼むだけでなく、動物愛護精神が述べられている点も大事である。「馬魂碑」を教材にという理由の一つにこのことがあったからである。

2、三軒茶屋の大宮館の思い出
 三軒茶屋には「大宮館」(たいぐうかん)という演芸館があった。これは古くから続く家系の堀江鉄拡氏(太子堂地区連合町会 太子堂四町目西山町会会長)から伺った。

 246三軒茶屋交差点より約150メートル位渋谷寄り北側
 やはり、昭和30年代まであったのではないか。演芸場で芝居や寄せの様なものをやっていた。大正年間には、有った様で、関東大震災後、広沢虎造が、浴衣姿で浪曲を披露しているのを私の父親が見たと言ってました。


 演芸館太子堂のことは何人かから聞いている。
 三軒茶屋大衆演芸が盛んだった。太子堂の古地図には、烏山川八幡橋近くに、「太子堂演芸館」があったことが記録されている。ネットで調べてみるとこうある。

 戦前には太子堂に「大宮館」と「太子演芸場」と言う寄席もあったと六代目三遊亭圓生さんの「寄席切絵図」に載っている。

 「大宮館」についてはたまたま貴重な記録をみつけた。

 色物をやる「大宮館」という芝居小屋もあった。こちらは子供が入れるところではなかったけれども。土地の人や文士崩れの人が集まっていて。 親父が好きだったから連れていってもらった。
 旅芸人が股旅ものや人情ものをやっていて、「あなたと別れるくらいなら、この小指を切りしゃんせ」なんて泣かせたね。
  芝居小屋といっても風がびゅうびゅう通る畳敷きだったから、書割が風で風邪でくるり返り、奥で三味線を弾いていた女衆の着物がはだけて腰巻き姿になって、必死で手拭いで隠しながら弾いていたこともあったけ。「大宮館」は、大正7年から昭和10年頃まであったと思う。 その後は戦争のせいでだめだった。
『三軒茶屋の本』 世田谷区企画部企画課編集 1991年刊


 戦前の町の様子が見えて興味深い。
 「大宮館」は、大衆演芸館であった。落語や劇が演じられていた。「文士崩れの人が集まっていて」はおもしろい、やはり流浪の町だ、文士崩れの人がいたという。
「あの近くに銭湯があって、役者がドーランを落とすのを見たことがある」
 と証言してくれた人もいた。
「富士見湯ですか?」
「銭湯はもっと近くにありました。確か銀座湯ではなかったか?」
*大宮館 ご存じの方は、ぜひ当会に連絡を。      

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

 第177回 9月17日(土) 三軒茶屋の戦跡を巡る(ファンド関連行事)
 案内者 上田 暁さん  田園都市線三軒茶屋駅改札前 13時集合
概要:三軒茶屋は軍都であった。昭和女子大構内→現存兵舎(韓国会館)・馬魂碑・野砲兵兵営跡を巡る→「下馬兵舎時代の思い出の地図」の痕跡を辿る→世田谷平和資料館
・昭和女子大構内入構:近衛野砲兵連隊跡、新体祈念碑、河井酔茗詩碑、トルストイ像などの文化的なものも見学する。(これも許可を得た)
・世田谷平和資料館:特別に見学することを申し出て許可を得た。満州国皇帝溥儀から頂いた恩賜の煙草を包んでいた布きれ。これに武剋隊今西修軍曹が疎開学童に「特攻出撃の思いを書いて」贈呈した。これを今回特別に見せてもらう。


第178回 10月15日(土)大山詣
案内者 別宮通孝さん 下北沢駅9時9分発の小田原行快速急行に乗る(最後尾)
 丹沢大山フリーパス切符 下北沢から2470円が便利 
下北沢9:09→9:55伊勢原秦野10:05→10:32大山ケーブル
 まず、ケーブル終点から阿夫利神社下社を見学。ここで休憩を取り、弁当を食べる。そしてケーブルで下りて途中大山寺駅で下車、大山寺参詣、ここからは女坂をゆっくりとくだって大山ケーブルバス停へ向かう。
〇行程は、基本的に電車、バス、ケーブルを利用する。
ケーブル山頂駅から大山山頂を考えていたが、この往復がかなり厳しいとのこと。それで阿夫利神社参拝、大山神社参拝に切り替えました。希望者が4名集まったら行うことにしていますが、すでに希望者は4名おりますので行います。が、天候との関係があります。
雨の場合は、翌日可能ならば順延とします。詳細については次号に掲載します。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090-3501-7278
■ 編集後記
▲事務局「邪宗門」の夏休み:8/10(水)〜8/18(木)土日は17時頃まで営業
平日は16時頃ですが、早めに締まることがあります、要望があれば電話下さいとのこと。
▲先号では、「三軒茶屋の歴史文化を巡るシンポジウム」を予告しました。しかし、今、コロナ感染者がかつてないほど増えています。開催は難しいのではないかと思います。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ


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2022年07月30日

下北沢X物語(4517)―女流汽車文学:林芙美子 4―

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女流汽車文学:林芙美子を連載していた。間遠になったが、今日は、それの四回目である。

 四国通いの汽船が波頭を蹴って、鶴湾の方へ消えてゆくかとみれば、赤い旗を立てて遠泳の群れが西瓜のように小さく泳いで行くのが見えたり、松風の音のように響くと共に、下り列車や上り列車が、忙しく行き来する。
 『港小景−女詩人の旅』 「週間朝日」昭和二年十月二日号


 尾道は港、船が行き交う、が、何と言っても忘れがたいのは汽車だ。海と山に挟まれたここには幹線の山陽本線が通っていた。上りや下りの機関車が頻繁に通って行った。上りの夜行は窓窓に灯火を点けてカタタンと去って行き、そして赤い後尾灯がスッと消えて行く。上りの先にはまだ見ぬ世界がある、果ての果てには東京があった。
下り列車は寂しい汽笛を鳴らして山の向こうに消えてしまう。こちらは芙美子の過去に繋がる。自身が点々と放浪した下関、長崎、佐世保、久留米、門司、鹿児島、直方などがある。
 『風琴と魚の町』という作品がある。生まれて初めてこの尾道入りしたときのことが書かれている。

 私達たちは長い間、汽車に揺られて退屈していた、母は、私がバナナを食んでいる傍で経文を誦しながら、泪(なみだ)していた。「あなたに身を託したばかりに、私はこのように苦労しなければならない」と、あるいはそう話しかけていたのかも知れない。父は、白い風呂敷包みの中の風琴を、時々尻で押しながら、粉ばかりになった刻み煙草を吸っていた。
 私達は、このような一家を挙(あ)げての遠い旅は一再ならずあった。
 父は目蓋をとじて母へ何か優しげに語っていた。「今に見いよ」とでも言っているのであろう。
 蜿蜿とした汀を汽車は這っている。動かない海と、屹立した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋にしまいながら、立ちあがった。
「ほんとに、綺麗な町じゃ、まだ陽が高いけに、降りて弁当の代でも稼ぎまっせ」
 で、私達三人は、おのおのの荷物を肩に背負って、日の丸の旗のヒラヒラした海辺の町へ降りた。 「日本の文学」 林芙美子 中央公論社 一九六八年刊


山陽本線糸崎駅を過ぎた汽車は、海岸縁に出て左手に瀬戸内海を見せながら走って行く。私はバナナを食べながら海を眺めていた。となりの母は、経文を取り出し一心にこれを唱えている。ときどき汚れたハンカチを取り出しては涙を拭く。向かいの父も退屈そうだ。脇においた風呂敷に包んだ手風琴を腰で押している。そしてキセルに粉粉の刻み煙草を詰めてマッチを点ける。青い煙が昇る、汽車がぐらりと揺れる。
 相変わらず汽車は海辺を走っている、カタトッテ、トタトッテ、車輪の響きは単調である。が、それでも私は飽きることなく車窓を眺めていた。白い雲と青い空、そして紺色の海は春の陽を浴びて照り輝いている、その向こうには自分の未来が広がっているように思えた。そんな時に向こうの島が迫ってきて海は川のようになった。すると汽車は汽笛ぽぉうと鳴らした。家並みが見えてくる、その家々に赤い日の丸が掲げられている。
 向かいの席で眠っていた父が起き上がって窓辺を覗いた。急に元気がでたようで窓を下ろして顔を外に出した。
 ココクック、コロコロクック構内の分岐器を汽車は踏んだ。じきに駅に着くらしい。
「賑やかできれいな町だ、お祭りでもやっているみたいだ、よし降りよう」
 やがて汽車速度を落としてホームに入った。
「おのみちぃ、おのみちい……」
 駅員の呼ばう声が響いてきた。
「そうか尾道じゃ」
 父はそういって風琴を肩に担いだ。

  一家三人はこの町に腰を落ち着けることになった。それで尾道尋常小学校に入学するために父と行った。



 


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2022年07月28日

下北沢X物語(4516)―ネット発信満19年 2―

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(一)人はまっさらから始まる、歌人の若山牧水は子どもの頃、美々津で初めて海に遭遇してその大きさに圧倒されたと、成長の奥には無が潜む、私たちは何も知らない、一つ一つに出会って世界が分かってくる、ネットもそうだ、これに出会ったときは恐る恐るだった、日記のようなものだと言うが、そんなものではない。発信されたら伝わる、どこの誰から何と言われるか分からない。ともあれ当初はならし運転だ、2004年08月18日は「久品仏川源流紀行」、19日「北沢川探索行」、20日「日々の旅は川を渡って」と続く、当初は沢に目をつけていた。番号がついたのは2004年9月13日からだ、NO1は「下北沢X物語〜下北沢の土くささ〜」としている、当地の固有性に目を向け始めた。「下北沢には踏切が多い。小田急下北沢駅の東側には五つ,西側には二つ。そして,井の頭線は東には三つ、西には二つ,計十二もある」と始まる、通勤途上何度もゆくてを遮られた。これも文化発掘の端緒だった。

 ブログもメディアの一つだ、が、大きな違いがある。記事をみた人がダイレクトに感想を当方に伝えてくる。いわゆるコメントである。このコメントはブログに残っている。たどるのが大変だ、『ページ」を一つ一つが、「前へ」にクリックしていく。膨大な数があって辿り着くのに30分ぐらいかかる。

 いりきもとき 2004/10/12 14:44

 こんにちは,いつの間にか30回目になりましたね。下北沢周辺の文化が中心を支えているという主張よく分かりました。このところ力を入れておられますね。
 のんびりはできないでしょうが,たのしんでやってください。楽しみにしております。


 いりきもときさん、09/21日にすでにコメントを戴いている。

 ひと味違う見方で街の特徴を書いておられますね。知らないことが書いてあってびっくりします。たのしみに読んでおります。下北沢の音楽っていうのも一つの見方かも知れません。

心したのは、やはり、人と同じことを言ってもつまらない、それで町の文化に斬り込んでいった。それがすぐに三十回を越していた。

下北沢X物語(6)〜頭と足に見る文化〜ここでは当町の迷路性をのべている。

 下北沢一番街のT字路を通っているとき、前から来た女の子の一人が「迷っちゃうわ」と連れに言っていた。だが、とくに困ったふうでもない。「迷っちゃう」ことを楽しんでいるように聞こえた。坂があって、路地があって、踏切がある。歩いているうちに迷ってしまう。間口のがそれほど広くもないお店がそれぞれ趣向を凝らして並んでいる。
 ついついよそ見してしまう。店先のカバン、あれよさそう。帽子も、あれしゃれてんじゃん。などと思っているうちに別の路にぶつかる。まあいいやと歩いている内に本当に迷ってしまう。それでもかまわないのが下北沢である。
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2022年07月27日

下北沢X物語(4515)―ネット発信満19年―

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(一)世界には始まりがあって終わりがある、こう書いたのは全体を俯瞰するところに来たからだろう。とは言っても全貌はよく分からない。が、自身がアクションを起こしたことで一つの世界が築き上げられ、活動が始まった。その証左は多くある、地図や冊子や著作などの発行物群、構築物としては文学碑四基、これに加えられるのが会の開催だ。その活動は広範囲に亘っている、が、尽きるところ2004年08月31日にブログを開設して発信を始めた、すべての活動の根幹はここにある。ネットでの繋がりだ、が、特記すべきはネットを通して多くの人々に出会ったことが一番大きい、何千人?何万人?もの人々との出会った。ブログ活動と人の出会い、それともう一つは調査だ、これも万巻を超える。今日のエントリー数は、4515である。一回単位、約1200字これを掛け合わせると、5,418,000字となる、活動の片鱗は文字でアップされ、ネット世界をさまよっている、そこから世界の誰かが一語を拾い上げ、コンタクトしてきて物語が始まる。

当初のブログの名称は、「浮遊的物語世界的日記」である。
 何にしても初めは、すべてがよく分からない。ブログを始めたときに、何をしようとしているのか分からなかった。が、漠とした世界があることは分かっていた。

 世界は浮遊しているものだ、その中にあって自分もまた世界に漂っている、そんな意味合いがあったように思う。しかし、何度もアップするうちに世界が見えてきたように思う。

 日々自転車を乗り回し、また歩き回った。やはり大切なのはどこに立っているかだ。段々分かってきたのが武蔵野だ、なかんずくは荏原である。

 今は、歩きだが、かつては自転車だった、散々走り回った。これによって筋肉がついてきた。とくには思い出深いのは多摩川左岸崖線だ、いわゆる国分寺崖線である。何百回と上り下りした。これによって筋肉が地形を覚えて込んだ。

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2022年07月25日

下北沢X物語(4514)―荏原学は、ありや、なしや 2―

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(一)昨晩のネットへの与太飛ばし、大成功だ、今朝、表題をGoogle検索に掛けるとトップに来ていた。googlebotは、ネット空間を絶えず巡回していて、少しの異変も見逃さない、「荏原学」は、たちまちに掬い取られて膨大な検索語体系に位置づける。具体的には100万以上のサーバーをデーターセンターで運用しているとのことgooglebot世界中をくまなく巡回し情報を収集している、この過程で「荏原学」は機械的に拾い上げられ認知された。機械が機械の感性によってこの語を拾い上げた、面白いことだ、この学の可能性を示唆するものである。特異性は間違いなくある。「東京荏原都市物語資料館」に潜む価値体系だ、現段階では混沌としている、ここには都市のカオスが匂う、突き詰めていくと東京西郊都市論……究極の都市論でもある、荏原都市はどういう都市であったのか?

 西小山の江戸見坂の逸話を紹介した。江戸の火事が遠望できた地点だ。夜空をまっ赤に染めるさまは、江戸の繁忙ぶりを映し出す。
一方、当地住民はほとんどが農民である、野菜を作って青物市場に出荷はしている。が、年貢を払うのもままならない。食うのでもかつかつであった百姓にとってはお江戸はやっかみの対象であった。

 江戸見坂からの火事場見物は、古代の話だ。これが明治に変わるとどうなるか。

 この江戸見坂の南手には稲毛道という古道が走っている。明治時代、この尾根道からは東京の繁栄ぶりが眺められた。

 不図見ると、東京と思う方は、宛然火事でも有るかの様に、明るさが空に映じて居た。瓦斯燈、電気燈、軒に並ぶ街燈、道行く提灯、虚飾と実用とに論なく、戸外に於て輝き合せ、夜の東京をして一層多忙ならしめて居る。その集団の遠き火光が、自づから大いなる背景を造つて、近き大崎田圃の発電所の大煙突二本を、切組絵の様に浮出さして居た。
 明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」 明治四十年


近代における東京の繁栄だ、これは美しいと景とも見える。が、手前には発電所の大煙突が東京の光を遮るように聳え建ち、黒い煙を吐き出していた。「切組絵」は、不気味に見える。

 『蛇窪の踏切』の主人公は若い女性露代だ、彼女は不治の病、肺結核に罹った。何とかしようと洗足家池畔の別荘に住む姉に助力を頼んだが、けんもほろろに追い返される。絶望した彼女は尾根筋道を通って品川へと向かう。このときに眺められた景色だ。決して明るいものではなかった。絶望している彼女には、繁栄が凄まじい生存競争として目に映る、

 作者、江見水蔭は、「如何とも仕様の無いのは生存競争の結果、倒れるものはどうしても倒れるのであろう」と述べる、実際に主人公はあ『蛇窪の踏切』で鉄道往生を遂げようとした。

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2022年07月24日

下北沢X物語(4513)―荏原学は、ありや、なしや?―

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(一)表題は、いつもの与太飛ばしだ、明日、「荏原学」が検索上位にくれば成功である、この言葉、先だって三軒茶屋で仲間内で納涼会を行ったときに言った言葉だ、「我らがフィールドワークをしているところが荏原だ、首都西郊のこの地域は、首都の中心部を眺め遣やる地点、東京を客体的な観点で眺められる地点である。ここがポイントだ、一帯の西郊都市の歴史をこの視点から眺めて再評価する、したがって荏原学というのは十分に成り立つ可能性を秘めている!」とアドバルーンをぶちあげた。皆、酔っ払っていたので、その反応が思わしかったのか、そうでなかったのか、よく分からない。が、荏原学というのは一つの観点としては存立しうるものである、と、考えている。

 徳富蘆花は、東京を逃れ千歳村粕谷に住んだ。彼は、明治39年(1906)ロシアのトルストイの家を訪ねた折に「農的生活」を勧められ、この翌年青山から引っ越して田園生活を送る、隠遁生活である。が、巨大都市東京の影響は大きい、絶えず意識された。

東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。
  「みみずのたはこと」 岩波文庫 上 1938年刊


 東京西郊の田園に暮らしたものの絶えず東京の影響にさらされた。彼の都市がどんどんと攻めてくる。安穏な生活を求めての転居だったが、それすらも侵そうする。この書き方には、首都から一歩退いて東京を眺め遣る観点が働いている。

 千歳村の場合は、東京から三里、約十二キロ地点だった、この距離というのは大事だ、荏原学にとっては東京との間合いは勘所だ。三軒茶屋などは東京から二里、約八キロ程度だろう。彼は東京から三里離れて東京を感じていた、まして二里ともなれば影響はさらに大きい。

 千歳村粕谷は田舎だ、静かである、が、「四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く」(同著)と言い、近隣の音も聞こえてくるが、都会の音も混ざって聞こえてきた。

 東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響き。稀に聞く工場の汽笛。

電車汽車は、粕谷北方を走る中央線ではないか、面白いのは午砲の響きだ。東京と横浜のこの音が一瞬ずれて聞こえてきたという。

 実は、この午砲、近衛野砲兵の兵員が撃っていた。今の昭和女子大は太子堂一丁目にあるが、ここに近衛野砲兵連隊があった、ここが午砲を担当していた。午砲を鳴らすために太子堂から皇居まで行っていた。 音の速さは340メートルだ。

 正午にドンを放つと、六秒遅れて音が三軒茶屋に響いた。この間合いこそが荏原学のキーワードだ。

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2022年07月22日

下北沢X物語(4512)―太子堂・三軒茶屋の古き思い出 2―

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(一)三軒茶屋は魔法に掛けられた町だとも言える。短時日で衣替えをしたからだ。かつてはどこもここも兵隊だらけの軍都だった、が、1945年8月15日を境に豹変した。突然の衣替えだ、終戦からしばらく経って進駐軍が来て、すばやく軍用地の区画割をしたと獣医の故廣島文武氏から聞いた。係官は図面を見ながら「ここは公園、ここは住宅団地、ここは学校」というふうに指示をした。現今、その指示どおりになっている。米軍情報部の日本研究は行き届いている。「国民は仇討ちを好む」、復讐や仕返しを恐れた、それで軍用施設の使い道を強引に決めた。反面、東京から離れた沖縄には米軍施設が次々とできた。東京での軍用地撤去、そして遠隔地での軍用地接収、三軒茶屋地区の軍用地の強制転用は、基地問題と間接的に関わる、が、軍事都市が魔法を掛けられたちまちに平和都市になったこと、我らはこれを全部忘れている。

 堀江鉄拡さんの「太子堂、三軒茶屋の古き思い出」を続けよう。

3、野砲連隊跡

 昭和女子大付近より、世田谷公園、池尻境くらいまでであったそうで。この兵隊さんを相手にした、茶屋、飲み屋などが、現在の中里旧どおりに沢山あったようです。


 三軒茶屋は軍都だった、が、こつ然と衣替えをして平和都市になった。三軒茶屋から池尻までの南側は野砲兵営が連なっていた。
野砲兵第一連隊、近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第八連隊である、現在の世田谷公園や自衛隊三宿駐屯地は、元の駒沢練兵場である。

 軍用地は広大な面積を占めていた。ところがその痕跡はほとんど残っていない。昭和女子大や三宿駐屯地の中に碑は建っている。が、自由に出入りできるところではない。

 戦争の痕跡、辛うじて残っているものが二つある。
 一つは下馬の韓国会館の建物である。野砲兵第一連隊木造兵舎がそのまま活用されている。が、その右半分は使われていないので朽ちかけている。

「韓国会館の野砲兵第一連隊兵の残存兵舎、壊されて去年の半分になってしまいましたね。あれは文化財的には貴重なものですよね。このままだと後の部分も壊されてなくなってしまう恐れはありますね。少しでも声を上げていかないと」
2012年02月09日のブログにこう書いている。建物について話をしたときに出た意見である。このときにせたがや街並保存再生の会の丸山さんがいた、彼は保存に積極的だったが、亡くなってしまった。
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2022年07月21日

下北沢X物語(4511)―太子堂・三軒茶屋の古き思い出―

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(一)時間は刻々と過ぎていく、今日は昨日に一昨日にたちまちになる。そのときに思ったり感じたりしたこともすぐに消えてしまう。今、三軒茶屋にはキャロットタワーが聳え建つ。以前は、広い空き地があって、サーカスの小屋がけがあったり、お化け屋敷もあったりした。…サーカス小屋に入ると動物の臭いが鼻についた、ライオンが吠えたときは怖かった。空中ブランコのお姉さんが手を離したときはひやりとした。暗がりからお化けが現れてきて追っかけてくる、死ぬほど怖かったという。が、そんなことは遙か昔の話、昨日も三軒茶屋を歩いたが、夏空には人参色のビルが建っていて、その下の道を人々が忙しく歩いて行く、あの昔は影も形もない。現実の乾いた時間があるだけだった。

 7月16日、太子堂連合町会の堀江鉄拡さんが町の案内をしてくださった。そのときに「太子堂、三軒茶屋の古き思い出」というレジメをくださった。町の記録としてこれを掲げて置こう。

1,キャロットビルの建つ前

 世田谷通りと三軒茶屋側と、太子堂側に同じような商店街がありました。太子堂側、商店街側、商店街の北側には、かなり広い空き地があり、昭和30年代初めには、サーカス小屋を掛けたり、季節になるとお化け屋敷などができた。その場所で豚を飼育いる人もいました。また6日には目青不動の縁日で世田谷通りには縁日が出て賑わいました。


 キャロットタワーは、商業・ホール・オフィスからなる複合ビルだ。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年に完成した。26階建ての高層ビルだ。当初は、風害やら日照の問題やらが心配された、地価高騰を招く危惧もあって反対運動も起きた。が、今は、キャロットタワーは三軒茶屋のシンボルとなっている。近代的なビルだ。

 これが建ったことで三軒茶屋は一変した、サーカス小屋があったり、お化け屋敷があったり、ヤギ小屋まであった。土臭い町だった、それが大変貌を遂げた。
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2022年07月19日

下北沢X物語(4510)―雨の三軒茶屋を古老と歩く 2―

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(一)三軒茶屋は尾根の町、道案内役の堀江鉄拡さんは、しばしばここの東西を横断する尾根筋道のことを言われる。その認識は土地っ子ならではの経験ではないか、子どもは動きが活発だ、尾根を境にして縦横に駈け回った。それが地形認識を深めたのではないだろうか。地図上で見る尾根道はゆったりと曲線を描きながら西へ延びている。一方、新道は南西方向へまっすぐに伸びている。本道は幾千年に亘って踏み固められてきた。動物や人間によってだ。しかし、新道は新たに作る道だ、まっすぐなのは測量機械の使用したからだと思われる。新道は近代の技術で開削されたものだろう。三軒茶屋は「ゆきわかれのちまた」となったが、近代が忍び寄っていたと考えると非常に興味深い。

 尾根状を走る矢倉沢往還に追分ができた。町の人々は、開通を記念して石碑を建てた。今、これは三軒茶屋三角地帯の突端に建っている。ところが最近になってこれが別の場書にあったことを知った。

 『ふるさと世田谷を語る』(池尻・三宿・太子堂など編 1994刊)には、
 
 大山街道沿いには寛延2年(1749)に建立された道祖神があって、当時道ゆく人の道しるべとなっていました。
 この道祖神は文化九年(1812)に再建されたものが今は三軒茶屋の分岐点に移された。


単なる石碑ではなく、道祖神として建てられた。これは辻などにあって悪霊や疫病などを防ぐ神として設えられたものだ。
 では、これはどこにあったか?。本文では図示されているのでそれを掲げる(写真)
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つまり初代は、道の向かい三軒茶屋1丁目38番地にあったようだ。国道246・大山道に面して建てられていたという。向きも問題だ、大山街道に面した道ばたにあった。正面は南を向いていたように思われるがどうか。碑の文言などは別宮通孝さんのブログ 三道楽ノートに詳しい。>http://blog.livedoor.jp/beckykusamakura/archives/46582027.html#commentsに詳しい。

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2022年07月18日

下北沢X物語(4509)―雨の三軒茶屋を古老と歩く―

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(一)文化とは言うが、何だろうか?今回太子堂八幡でお囃子の練習を見せていただいた。地域固有の伝承である。一昨日、好例の町歩きを行った。この途中で、まさに文化に出会った。わたしは、感想をこう述べた。「太子堂八幡神社はよく通ります。しかし、今日は偶然、皆様のお囃子と舞とを見せていただきました。あまり神様を感じることはありませんでしたが、笛の音を聞いたり、お祓いを受けたり、踊りを見たりして神を身近に感じたことです……」お囃子の構成員は子どもから大人までだった。何よりも楽しんでやっているところがよいと思った。このお囃子は古くからある神社の伝承ではない、二十数年前に発案されてそれが当地に生まれた「太子堂西山囃子保存会」の手によって受け継がれている。文化とは土の匂いのするもの、人々がこれに参加し、楽しんで行っていた。純粋に文化的だと思った。

 一昨日、町歩きを行った、「古老と歩く三軒茶屋」である。生憎当日は雨だった。集まったのは交番前である。第一の案内者は堀江鉄拡さん、太子堂四町目西山町会長である。

「太子堂の中心は、太子堂のある円泉寺一帯でした。あそこが本村でしたからね、家もそっちあってこっちに移ってきたのです……」
 重要な指摘だ、文禄四年(1595)阿闍梨法印、賢恵和尚が太子堂の地に寺を建てた。彼は大和の久米寺から十一面観音菩薩像と聖徳太子像を背負ってやってきた。そして当地に円泉寺を建てた。村人の多くはここに住んだ。中心になったのが七軒衆である。堀江家もこの一つである。

太子堂円泉寺は烏山川左岸の崖のつけ根、根は、山の尾根が立ち上がる麓の部分を指すものである。ちょうど谷頭にあってそこには泉が湧いていて、生活の場としてふさわしかった。それで本村がここに築かれた。(写真上は、「太子堂西山囃子保存会」の皆さんと記念撮影、中と下は踊りと舞)


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2022年07月16日

下北沢X物語(4508)―三軒茶屋は追分の町―

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(一)追分は古語である、「牛馬を追い、分ける場所」という意から発生したと言われている。追分は、道が二つに分かれる場所である。都内で有名なのは、一つは甲州街道と青梅街道とが分かれる新宿追分、もう一つは、中山道と日光御成街道とが分かれる本郷追分である。三軒茶屋も追分であるが、この語が被されることはない。検索で引くと当ブログが引っ掛かるが……、「三軒茶屋は追分の町である」ということは通例ではあまり意識されない。しかし、都市としての三軒茶屋を論じる場合、追分というのは重要なキーワードである。『わたくしたちの町世田谷』(世田谷区役所 1968年刊)に「三軒茶屋の名は、元禄(1688~1703)時代から記録にあらわれはじめています」とある。本当だろうか?

 三軒茶屋という地名はいつ頃できたのか、これは根幹の問題だ、都市形成の過程がここに関わってくるからだ。三軒茶屋という土地固有の名はない、追分ができてこの語が使われるようになった。

 ここが追分になることによって変化が起こった。もともとここを通る道は一本道、これは、「世田谷通り」、「津久井道」、「鶴川街道」などと呼ばれていた。やがて江戸時代中期なってここに分岐部が作られ、西下する新しい道ができた、相州道、大山道と言われる。

 追分は結節点だ、道程における節目であり、目印である。江戸を経っての初めて分か去れである。人々はここで憩うようになった。

その分か去れ地点である。三軒茶屋三角地帯の突端に今も道標が建っている。この碑の背面に建立された年が刻まれている。寛延二年(1749)とある。

 追分になったから三軒茶屋が生まれた訳ではない。追分ができて人が多く集うようになった。次第に賑わうようになって行った。その様子が文献に描かれる。

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2022年07月15日

下北沢X物語(4507)―鳥と散歩とビンボウカズラ―

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(一)ぼんやりしていると日々はあっと言う間に過ぎていく。その間、何かをしたか?ひたすら書きまくった、もう一つ誇れることはビンボウカズラを抜きまくったことだ。何本抜いたか分からない、これの繁殖力は凄いものだ、二三日、ほったらかしにしておくとニョキニョキ現れる。そして植え込みの景観を台無しにする。これを毎日散歩では抜いていく、まず、家の前の遊歩道を歩いて行く、約4500歩ほどで大山道に行き着く。途中駒沢通りまでが遊歩道で、その先は開渠式だ、後者では出て来ない。従って駒沢通りまでが自分の守備範囲?。ここまではひたすら抜きまくって行く。シーズンが始まってから五六千本?万本?は抜いているだろう。それで自分の守備範囲?の植栽はきれいに保たれている。

 抜いたビンボウカズラはゴミとなる、途中の家のおじさんは自身の奇癖を知っていて、遊歩道の決められたところに捨てて置くといつも片づけてくれる。

 習慣というのは怖ろしいものである。つい我を忘れて他所の家の庭のヤブカラシに手を出していることがある。敵は方々にいる、全滅は無理だ、それでなるべく見ないようにしている。それでもよく行く駒沢公園、守備範囲から外しているが、管制塔の北側のツツジの植栽だけは抜くことにしている。

 ビンボウカズラ抜き人は、不審者である。見ようによっては植栽荒しと見えなくもない。前は人が来ると止めていた。しかし今は堂々とやっている。やはり道というものはあるものだ、ビンボウカズラの抜き方だ、まず、先端を掴み、蔓の張り具合を確かめて奥まで手を延ばし、一気に引っこ抜く。やはり一つことを極めるには研究が必要だ。この頃手慣れてきたせいだろう。
「体育館に行くにはどういったらいいんでしょう?」
 公園の職員だと思って聞いてくる人がいる。
 
 ビンボウカズラ憎しという人はいる。
「これはね、すぐはびこるのよ。垣根の木々に巻き付いてさ、名前のとおりヤブを枯らしてしまうのよ。放っておくと心がビンボウになるから見つけ次第引っこ抜くの」
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2022年07月13日

下北沢X物語(4525)―追分比較:三軒茶屋&用賀―

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(一)用賀はよく通る、つい最近ここにある追分道標に気づいた。何のことはない、三軒茶屋で分かれた大山道はここで合流していた。「なあんだ」と思ったとたんに追分存在の濃淡が思われた。道の分岐点には、「大山道追分」の石碑が建っている、地元ではよく知られている「玉川地団協」が建てたものだ。一帯の名所旧跡には必ずある。失われた文化を後世に伝えようとする運動の一環だ、追分地点の明示は大切なものだ。昨日行ったとき石碑にはゴミ飛散防止の緑色の網が掛かっていた。道標への価値認識が薄くなっている証拠である。用賀と三軒茶屋の追分比較から、見えてくるものがある。やはり三軒茶屋追分の意義深さである。江戸を経った旅人が最初に出くわした追分だ、「大山道」道標の仁王像には頭を下げて別れを告げた。

 三軒茶屋で別れた道は、ここ用賀で旧道と合流する。どちらを行っても差はない、新道を行っても短くなるのは290メートルである。旅人は合流地点に来たとしてもさして気持ちが動くこともなかった。

 下りと上りの追分地点は、やはり下りでの印象が強い。三軒茶屋追分は江戸を出た旅人が初めて接する大きな分岐点である。旅の始まりにおける一里塚だ。通りゆく旅人の誰もが気にとめた。よし茶でも一杯という気持ちは強く働いたろう。

 追分ができて茶屋でき、それが三軒だった、このことから地名が生まれて今日に至っている。ところが用賀に着いたとしても何の感慨も湧かない。

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2022年07月12日

下北沢X物語(4524)―ミサイル教育より鉛筆教育を―

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(一)余波は、なごりとも言う、文学的である。言えば直接的ではなく間接的な影響を言う。この余波はネットでは度々遭遇する、当「東京荏原都市物語資料館」でも直接変化が起こる。一昨日のことだ、アクセスが急増した、通例は60ぐらいだがこれが254と跳ね上がった。都会のどこかで何かが起こったきざしだ。人が真相を知ろうと検索に走る、偶然そのことに関わる記事が当館にあって、それを皆が引っ掛けたようだ。その真相は何か、興味を持つ、近々起こった事件は、元首相が銃弾で倒れたことだ。そのことに関わることなのか?

 「余波」は文学用語として味わい深い。次は印象に残っている一節だ。

当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。

芥川竜之介の『羅生門』である、主人公は下人である。舞台は平安末の京都だ、当時、町は衰微していた。その余波を蒙って彼は首を切られた。今日現代でも通ずる問題だ。

 都会は、もっと広く捉えて現国家と置き換えられる。実際、この国は、衰微し衰退している。次代を担う児童が増えない。その因は経済の低迷だ、子が産めるようにするには若い人が結婚しなくてはならない、ところがその意志はあってもできない。結婚後の生活設計が見通せない、まず、育児に金が掛かる、そして次に教育費、これも高い。

 昨日、近隣の深沢を通った、そこには十数個の建て売りが造られていた。高級住宅地だ、軽く億は超えるものだ、通り掛かったとき若い美しい奥さんと子ども二人が一軒から出て来た。子育て費用も、将来の学費も困らないように思えた。今大きな問題は格差である。

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2022年07月10日

下北沢X物語(4523)―XとYとをめぐる虚構的都市論 ―

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(一)ついさっき、気づくと若者に熱く語っていた。「若いときって悩みますよね、でもね、おもしろがればおもしろくなるんですよ。例えば、道ですね、普通の道は歩いていても何とも思いません。でもね、妙に曲がっている道はありますね。そういうのはとっかかりですね、『何か変わっているのじゃない』と思うようになるとしめたものです。実際、そこの下北沢へ行く道ってさ、そこはかとなく曲がっているじゃない、こういうのは古道なんだよ。目を凝らして観察していくと古道の鼓動が聞こえてくる。やっぱり大事なのは、何かを見つけたときに、不思議だな、怪しいなと思うのですよ。それがとっかかりですよ……」

「今ね、私は、XとYというのに深い興味を持っているのです。言ってみれば街論ですね。Xというのは下北沢、鉄道が交差しているでしょう、といっても前はXがビジュアルに見えていましたね。ところが小田急が地下化してXはなくなりましたね。あれはおもしろかったのに、清水博子の小説に『街の座標』ってあって、『小田急線と井の頭線が交差するひやげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわしめつけてくる』と言うのですよ。街を形状化して意識しているのですね。ここはおもしろいですね、ひしゃげていなかったら症状は出てこないのですよ。街を理解するとっかかりとして『ひしゃげた座標軸』が作用する、精神に影響を与えるのですね」

「『ひしゃげた座標軸』はゆがみですね。地図でみるとなるほど線路はゆがんでいる。けどもあれ立体的にみるとWなんですよ。つまりWは沢ですね、地政学的には下北沢は沢地にあるんです。Xと言っても複雑なんですよ。しかし、線路の交差だからみんな一つひとつ気にはしません。が、沢地に敷設された鉄道交差をみなそれぞれに通り過ぎていくわけですよ。駅で降りれば出会いますが、乗ったままだとすれ違いですね。あの子は新宿へ、この子は渋谷へ、擦れ違って交差して別れていく。機械的ですね」

「一方、三軒茶屋はYですね、Yのしっぽは渋谷方向、分岐点が三軒茶屋の三角ですね。渋谷方向から来るとここで別れる。南西に行くのは大山道、北西に行くのは登戸道、富士道ともいいます。大山講の人と富士講の人がそれぞれに手を振って別れるわけです。フェイストゥフェイスの別れですね。だから抒情が濃厚なんですよ」
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2022年07月09日

下北沢X物語(4522)―XとY比較は究極の都市論―

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(一)長年に亘る文化探訪は、気づきの歴史だった。この間XからYになぜシフトしたのかと人に問われた。これも気づきを促した、観点の発見だ。つまりはXとYとの比較である。前者は下北沢の鉄道交差、この「ひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわ締めつけてくる」と清水博子(『街の座標』)は描く、精神軸に作用するものだ。朔太郎の小説『猫町』は似通った錯乱を描く。風変わりな街論だ、一方のYは三軒茶屋だ、ここは幕府が道普請をして追分を造った。それはなぜか、一つは大山信仰の隆盛、もう一つは物流の増加である。そして最近気づいたのは政治である、江戸幕府の危ぶみである。山の修験者が力をつけることへの危惧である。追分という短絡路を造ることで情報の速達性を図ったのではないか?

 やはり、大事なことはおもしろがることだ。想像力は飛翔する。XがあってYがある、すると自然とZが思われる。最近では邪悪を想起させる。ウクライナに傍若無人に侵攻したロシア軍はZで言い表される。

 Zは自身の妄想である。電光型を想像したのである。何を言いたいのか、高圧鉄塔駒沢線のことである。かつての桂川電力線である。電気は目に見えない。が、これも大きな流通路である。この線は、三軒茶屋そして下北沢の西隣の代田を縦貫している。XとYとに微妙な影響を与えている。

 先だって区の人から情報が入った。8月2日に『太子堂物語』が上映されるとの報である。早速に予約電話を入れた、が、一筋縄ではいかなかった。
 まず太子堂地区住民が優先され、つぎに区民となるとのこと。当方は該当しない、が、「観たい」という思いは強い。それで世田谷代田の事務局へ申し込みを頼んだ、願いが叶ってやっと観られそうである。どんな映画か、ネットから記事を拾う。

太子堂物語は、幕末から昭和にかけて、太子堂・三軒茶屋の生活や風景、戦時中の学童疎開の様子などを、古文書、絵、古老の話などをもとに映像化したものです。

我らは今、「三軒茶屋文士町文化地図」づくりに余念がない。当該地域の文化を描いたこの映画は見逃せない。

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2022年07月07日

下北沢X物語(4521)―三軒茶屋の追分はなぜ造られたか?―

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(一)三軒茶屋の追分地点に「大山道」の石碑が今も建っている。道普請時に建てたと思われるが、造立された年と思われる年号が刻んである、「寛永二年」、西暦1749年である。十八世紀半ばである、普請された道は今でいうバイパスだ。道の膨らみをまっすぐすることによって道程を短くする。旧道は三軒茶屋→代官屋敷経由→用賀、新道は三軒茶屋→新町経由→用賀というコースだ、当会仲間の別宮通孝氏は、新道経由で行けば290メートル短くなる。追分道普請の理由は大山詣に行く講の人々が増えたからだと言う。大山道は重要道、幕府采配による道普請である。大山詣での遊楽客のために新道を作ったというのは、エピソードとしてはおもしろいが、リアリティに欠けるように思われる。

 別宮通孝氏の言う、新道経由だと「290メートル短くなる」というのは気にかかる。
自身毎日歩いている、ときどき今日は歩数が足りないぞと思うときがある、その場合は遠回りをする、「290メートル」ぐらいは何のこともない。大山詣は道中の景色を楽しむものである。

 前に川崎にある「太山街道ふるさと館」に行ったことがある。ここのホームページを見ていると、こういう記述があった。

 江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣り」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になりました。
江戸時代後期には、駿河のお茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野のたばこ等の物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として利用され、これらを商う商人達で大変栄えました。


大山道の役割について、一つは参詣道としての道、もう一つは産業道路としての道とがあると。ものを運ぶための道というのはリアリティがある。

 これについてもっと分かるかもしれないと思って、自宅から歩いて行った。が、改装中で何も分からなかった。
「産業道路としての役割が大きかったのでは?」
 館員と思われる人に聞いたが、ただの役所の人だった。
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2022年07月06日

下北沢X物語(4520)―古典に出てくる「三軒茶屋」―

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(一)「むかし、むかし、ここに追分が出来ましての、つまりは分か去れですな、富士詣はあちら登戸道へ、大山詣はこちら相州道へ、『また会いましょう』と別れ行く、風情ある場ですな、『しばしの別れ』とばかりに茶を飲んで顔見知りが別れていくこともありました。それで自然と、旅人をもてなす茶屋ができたのですよ、伝説なるものは、『それらしい納得が必要なんです』、始まりは二軒説もあります。しかし、一軒じゃあ寂しい、二軒だと中途半端、三ですね、三は落ち着くのですよ。それで三軒茶屋になったのですよ。いにしえの本には七八軒も茶屋があったというのですよ。でもね、街道筋の茶屋はやはり繁昌しますね。何しろ語呂がいいでしょう、サンゲンヂャヤ」

 昨日、三軒茶屋を歩いた。
「ここに校舎が建ってから、もうかれこれ百十年経ちます、曹洞宗系の学校で歴史はあります。しかし、対外的にアピールできる碑などは校内にはありません。歴史に詳しい先生は今日はお休みです。日を改めておいでください」
 これは世田谷学園での聞き込みだ。

「校内にめぼしいものはありませんね、ここの正門にあるヒマラヤ杉がシンボルツリーになっていますけど。」
「ここも長野に疎開していますね」
「そうそう松本郊外の里山辺温泉に……」
「松本で一番最初に爆弾が落とされて、大変なさわぎになりました」
 こんな話をしたのは三宿小学校。

「前にも来ましたが我らは、『三軒茶屋文士町文化地図』を作っているのですよ」
「ああ、こういうのはここで配りたいですね、しかしここは窓口ですからね、私の一存で判断はできないんです、今本部に聞いてみますよ」と「三軒茶屋観光案内所」の係の人。 彼の紹介を受けて近くの世田谷区産業振興公社に行ってみた。

 『三軒茶屋文士町文化地図』の発注数は2万、相当なストック数になる。今から配布先を当たっていないいけない。

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2022年07月04日

下北沢X物語(4519)―X交差とY分岐の民族学 2―

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(一)今回は判じ物の表題をアップした、いつもの「ネットへの与太飛ばしだ」、昨晩、Google検索を掛けてみたが外れだった、かのロボット、googlebot.comは昨日110回も巡回してきたのに拾わなかった、が、今朝、再度検索を掛けると「X交差とY分岐の民族学」はGoogleトップページに躍り出てきた、「与太飛ばし」は成功だった、が、閲覧者の反応も素晴らしい、当会の新会長谷亀緑郎氏がコメントしてきた。「下北沢は低湿地。三軒茶屋は尾根筋」と鋭い考察を投げかけてきた。XとYの都市形成には地形が大きく影響していると。これは外せない。三軒茶屋の歴史の古さは尾根という地形に起因している。一方低湿地の下北沢だ、ここは近代になって機械力によって克服された。下北沢2号と3号の間の沢は近代土木工事によって築堤が築かれた(写真)、低湿地を克服したのは鉄道近代である。

 「下北沢文士町文化地図」からシフトして「三軒茶屋文士町文化地図」に手を染めている。後者の全貌が徐々に見え始めてきた。

 Yには神がいるがXには神はいない。古代近代の交通の差がここに端的に表れている。三軒茶屋のY、追分には「大山道」という道標が建っている。この上には不動明王像が鎮座まします、道は大山に通じている、ここの大山寺のご本尊は不動明王である。

 道標に鎮座ましますこの神が道をゆく人々の安全を守っている。それだけではない追分に建つ不動明王は他から入ってくる疫病や災厄を防ぐ役割を果たしている。追分の神は三軒茶屋の街を守っている。

 しかし、神霊が宿る道標はその現物そのものが心を持っている。不動明王の眼光は鋭い、これが他から進入してくる災厄をはねつけるものだ。大事なことはその向きである。現今の道標は、南を向いている。本来ならば東、渋谷方を向いているはずだ。よって不動明王の眼光は淀んでいる。像には心がある、不動明王が力を発揮するのは心身ともに正統的な方向を向いていることでその力は発揮される。
 ここの三角地帯の再開発を計画している部署がある。
「大山道標は大事なものです。三角地帯のシンボルです、再開発計画に『大山道道標』を正しい位置に置くことを計画の中に入れてください」と伝えた。
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2022年07月03日

下北沢X物語(4518)―X交差とY分岐の民族学―

1月7日 下北沢X交点
(一)歴史は日々刻々と刻まれている、が、街は絶えず変化する。重要なのはこれまでの道程である、XとYは、世田谷の二大都市下北沢と三軒茶屋を指す。これを比べるときにトラフィック、交通インフラを観察することは重要だ、両市を形状から記号化したのがXであり、Yである。言うまでもなくXは鉄道が交差した下北沢である。一方の三軒茶屋は鉄道と道とが分岐するYである。Xの形成は昭和8年である、Yは古い、Yのつけ根に建つ大山道標には寛延2年(1749)が刻まれている、こちらの鉄道分岐は高井戸支線ができてからである。大正14年である。近代おける交通インフラの変化は激しい、鉄道交差・分岐としてのXも鉄道の地下化でなくなった。が、三軒茶屋のいわゆる追分は明瞭に今も残っている。そして大事なことはYのつけ根には今も神が鎮座していることである。

 鉄道交差は機械的なものだ。昭和8年に小田急線と帝都線とが下北沢で交差した。この経緯については、以下のように記されている。(Wiki)

 鬼怒川水力電気の利光鶴松は1928年に渋谷 - 吉祥寺間の免許を交付されていた渋谷急行電鉄を東京山手急行電鉄に合併させて東京郊外鉄道と改称した後、収益性の高い旧渋谷急行電鉄の路線の建設を優先させることにし、社名を再度帝都電鉄と改め、1933年 - 1934年に全線を順次開業させた。

 鬼怒川水力電気とあるが、簡単に言えば小田原急行鉄道の前身である。帝都電鉄も小田急の傍系会社である。戦時中、国策でいわゆる大東急が構築され、小田急も帝都電鉄もこの傘下に入った。が、戦後になって大東急は解体された。ところが帝都電鉄は京王帝都電鉄に組み入れられた。同じ釜の飯を食った連中が他社路線となったことで小田急社員はこの処理に強い不満を持った。

 多くの路線が敷設されている都市近郊では、異線が交差することは珍しくはない。世田谷線「山下」では高井戸線が小田急線の下を潜っている。この線は大正14年に開業している。昭和2年開通の小田急は上になるはずだ。小田急は豪徳寺駅、乗り換え駅だが泰然自若東急は「山下」を貫き通している。先行会社のプライドであろう。
 路線交差については仁義みたいなものがあったのか。
「貴社の路線の上を跨がせていただきます」
 腰を低くして小田原急行は申し出たのではないか。

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2022年07月01日

下北沢X物語(4517)―会報第192号:北沢川文化遺産保存の会―

和装写真
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第192号    
           2022年7月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 �冢�
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、新会長の就任

 当会は2004年12月に発足しました。以来ずっと会長職に就いておられたのは長井邦雄氏でした。しかし、年を取られたこともあり引退を希望されていました。そこで後任を考えていました。地元の歴史にも詳しく当会のことをよく知っておられる谷亀�冢困気鵑紡膿任鬚靴泙靴拭�そうしたところ、「きむらさんが仕切っております会ですので会長をやらせていただけるのであれば、喜んで引き受けさせていただきます」と快諾をいただきました。当会の他の人々とも相談し、賛意を得られたことから谷亀�冢困気鵑鵬馗垢鬚�願いすることにいたしました。長井邦雄元会長のこれまでの尽力には深く感謝申し上げます。

2、会長就任挨拶文
                   新会長 谷亀 �冢�
  
 この度、「北沢川文化遺産保存の会」の会長職を拝命させていただくことになりました谷亀�冢困任瓦兇い泙后B綸弔棒犬泙谿蕕繊△海譴泙任裡苅闇�間、世田谷区職員として「地域の特性を活かした住民主導のまちづくり・都市デザイン」等の道を歩んで来たものですので、何かと不慣れな点が多々あるかと存じますが、よろしくお願い申し上げます。
 さて、本会主幹の「きむらけん先輩」とのかかわりは会の発足以前に遡り、私が当時都市デザイン担当係長として司会進行した、2002年の「第1回 地域風景資産選定会」において、きむら主幹推薦の「代沢せせらぎ公園と北沢川緑道」が選定されたときだったと記憶しております。
 その後の2004年に本会が発足し、2007年の「第2回 地域風景資産選定会」においても、「代田の丘の61号鉄塔」が選定されたのは皆様方のご記憶に新しいところと存じます。
 以来、本会の皆様方との交流・情報交換が加速し、世田谷代田駅前にある代田吹上館への「下北沢文士町文化地図」の設置や、先祖から伝承されている代田に纏わる情報、また、自らが経験してきた代田村名主家の齋田平太郎翁、作曲家の古関裕而翁との想い出話などを共有してまいったところです。
 今般のご推挙を受け、きむら主幹をはじめとした先輩諸氏のご指導を仰ぎつつ、本会の趣旨である「われらは自由である。われらは文化を探り求めるものだ。われらは自由である。」の精神を肝に銘じ、本会がさらに発展し、その展開がしっかり進んでいくよう尽力して参る所存でありますので、お仲間として、今後ともよろしくご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 2022年 7月1日 谷 亀 �僉]此並綸朕畩經曄�

3,「世田谷まちづくりファンド 公開審査会」体験記
  会員 田島 哲夫


 先月5日に開催された標記審査会に「三軒茶屋文士町文化地図を創る」で申請したプレゼンテーションメンバーとして、きむら先生、幾田さん、田島の3人で臨みました。
場所は三茶通り沿いのビル5階にある「三茶しゃれなあど」。待ち合わせ室に入ると審査要領が記された紙が貼ってあり、審査員は7人で、4人以上の賛同があれば当選とのこと。メンバーは有識者と呼ばれる熟年者なのかと思いきや、案内されて審査会場に入ると皆30代半ばに見える若い人ばかり。各分野で期待されている人たちなのでしょう。我々の申請は「文士町文化地図」である。この年代の人たちは文士や作家(同じですが)に関心があるのだろうか、目を向けて貰えるのだろうか、ブンガクなんか読んでるのかなあと一抹の不安を感じました。
 もうひとつ会場で感じたのは音響のひどさ。スピーカーからの音がこもっており、発言者が何かを言ってることは分かるが、モゴモゴ響いて内容は聞き取れない。了解度0。うしろを見ると係員らしき人が腰かけている。腕章には「担当者」と記されているので「あの、聞きとれませんね。調整して高音を強調すれば」。でも動かない。お役人の習性か、持ち場以外は関係ないようです。「使えねぇな〜、邪宗門のケイコさんとは大違いだ」と心の中で毒づくのみ。先生は、言っちゃなんだがお年寄り、他の発言者よりはお若くないということ。推敲を重ねてきた原稿には「1505字」と字数迄書いてあり、漏れがないよう読み上げるとおっしゃっている。マスクのままで、説明時間5分質疑応答5分、計10分の制限時間に気を取られながら発言すれば早口になりがちなので聞き取りにくくなるのは必至と思い、怖れながら申し上げた「声を大きめに出した方がよろしいと思いますが」。先生は黙ってうなずくばかり。頭の中でシミュレーション中なのだろうか。
 13時50分、出番がやって来た。説明用に貼り付けた模造紙に向かって先生は左側、棒差し係の幾田さんは右側に立ち、私はカメラ係で後方待機と体制が整い、いよいよ開始。
先生開口一番「マイクは要りません、声が大きいですから」。会場が「!」で一杯になった。
しかし、係員によれば、YouTube中継の都合上マイクは必要とのこと。
 「あ、そう」とマイクを手にした先生の口上を聞いて私の懸念は一瞬にして吹き飛んだ。大きくて明瞭な話し方、朗々たる声音、聞き取れないなんてトンデモない。強調すべきは強調する、早くも遅くもない、メリハリのある話法。音響性能なんのその。「30年以上、教職で鍛えたんだ」というのは伊達ではありませんでした。加えて幾田さんの、柔和な表情を湛えながらの的確な棒差し。他の申請者の説明は3件しか見てませんが概して平板であったのに比して、このプレゼンは解説というか演説というか、ある意味型破りですが、他の追随を許さない出色な出来だったのではないでしょうか。私はあちこち位置を変えてカメラのシャッターを押しながら心の中で快哉を叫んでおりました。会場内のギャラリーも惹きつけられた様子で、終了後は大きく拍手する人もいた程でした。審査員2、3人からの質問にもたじろぐことなく応答。印刷代金が高額なのではという質問には「版下費用というものがあるんですよ」と親切に教えてあげてました。
 あとの会話「あれで審査員か」←「まあまあ、沢山審査するんだから」。
以上、提灯持ちのつもりは毛頭なく、現場を体験した身の実感であり、機会があれば範にしたい貴重な体験でした。「3つの内1つしか言えなかったよ」とはいえど、審査員の眼力は極めて公正、実現の見通しのつく内容を勝ち取ることが出来ました。発案から採用に至るまで先生の引いた太い線の上で幾田さんは模造紙デザインと印刷、私は地図原案作りとお手伝いさせていただきましたが、書類作成に携わった皆様と一緒に、そもそもの目的「三軒茶屋文士町文化地図を創る」実現に向けてこれからも力を合わせて頑張りましょう。(2022.6 田島哲夫)

3、第30回(2022年度) 『まちづくり活動部門』公開審査会
 
 上記、田島哲夫さんの報告にある通り、公益信託世田谷まちづくりファンド助成事業に「三軒茶屋文士町文化地図を創る」を企画し、これへ申請を出していた。公開審査では合格し、31万7千円助成されることに決まった。このことから現在進めている「三軒茶屋文士町文化地図を創る」を事業として推進していきたい。
 まちづくりファンドの趣旨からして、単に地図を創るだけではなく、地域に密着した活動の推進も求められている。
 そのことから、好例の町歩きは三軒茶屋を中心とした計画を組み立てていきたい。まず七月だが、「二人の古老による三軒茶屋町歩き」を実施する、また、九月は、「三軒茶屋の戦跡を歩く」を実施する。暑いので最後は『世田谷平和資料館』を見学する。好機だと思って当館に所蔵されている。この日に「満州国皇帝溥儀から頂いた恩賜の煙草を包んだ布」、特攻隊員今西修軍曹がこれに特攻に征く思いを書きつけているもの、これの閲覧を申し出たところ対応するとの返事があった。

4、三軒茶屋の歴史文化を巡るシンポジウムの構想

 まちづくりファンド助成事業は、活動を通して地域への貢献を求めている。それで今構想しているのはシンポジウムである。こういうものはどうか?と提案している。
 我らの会員を中心に、三軒茶屋をトピックとした話題提供を行う。具体的には、11月の日曜日、三軒茶屋キャロットタワーの五階セミナー室(50名収容)を予定している。

・「三軒茶屋文士町文化地図」の進行状況  田島哲夫さん
・「三軒茶屋と玉電」 別宮通孝さん
・「三軒茶屋の富士講碑」         木村康伸さん
・「三軒茶屋の地名の由来」        きむらけん
・「三軒茶屋の昔の映像」         ハヤタヤスヒロ(映像保存再生の会)


 上記は取り敢えず、名前を挙げた人に話してあります。当会関係者、また一般市民でも挙手をしての発表参加は歓迎する。なお、「世田谷公共施設利用案内システム」、「ケヤキネット」に会として加入することにして作道敬子さんに手続きをしていただいた。
 *シンポジウムは企画はしているが、このところコロナ感染が増えてきている。冬に向かって増えるようなら開催は難しくなるようにも思う。

5、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)
 
第176回 7月16日(土) 三茶の昔を古老と歩く(ファンド関連行事)
 案内者 堀江鉄拡さん:中村甲さん  三軒茶屋交番前 14時(時間に注意)
概要:今回は太子堂の古老、堀江鉄拡さん。それと中村甲さんに太子堂のぐるりを巡っていただく。堀江家は鎌倉以来900年続く三茶の名門だ、堀江氏は太子堂四町目西山会会長である。交番から太子堂八幡神社に行き、太子堂西山囃子を見学する。会長さんとは円泉寺で別れ、その後、太子堂の大長老中村甲さん案内で円泉寺や寿福寺の案内をしていただく。帰りがてら三宿にあったという平福百穂画伯が主宰する「白田舎」跡を見学して駅へ向かう。
集合がいつもと違い午後2時であることに注意。(雨天中止)


第177回 9月17日(土) 三軒茶屋の戦跡を巡る(ファンド関連行事)
 案内者 上田 暁さん  田園都市線三軒茶屋駅改札前 13時集合
概要:三軒茶屋は軍都であった。昭和女子大構内→現存兵舎(韓国会館)・馬魂碑・野砲兵兵営跡を巡る→「下馬兵舎時代の思い出の地図」の痕跡を辿る→世田谷平和資料館
・昭和女子大構内入構:近衛野砲兵連隊跡、新体始祖之碑、河井酔茗詩碑、トルストイ像などの文化的なものも見学する。(これも許可を得た)
・世田谷平和資料館:特別に見学することを申し出て許可を得た。満州国皇帝溥儀から頂いた恩賜の煙草を包んでいた布きれ。これに武剋隊今西修軍曹が疎開学童に「特攻出撃の思いを書いて」贈呈した。これを今回特別に見せてもらう。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記
▲「三軒茶屋文士町文化地図」は、公益信託世田谷まちづくりファンド助成事業として認められました。これを何とか完成させようと編集員を初め皆頑張ってくれています。そんな中、偶然知り合った人がいました。三軒茶屋まちづくりの会で出会った人です。それは湊晴美さんです。なんと彼女はデザイナーでした。印刷関係に詳しく、地図の印刷に関して専門的な助言をしていただいて助かっています。当会は人の助けで成り立っています。▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ
(写真は谷亀緑郎、新会長)




rail777 at 08:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化