2022年10月
2022年10月30日
下北沢X物語(4579)―会報196号:北沢川文化遺産保存の会

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第196号
2022年11月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館 きむらけん
世田谷文学館では、萩原朔太郎没後80年を記念して展覧会が開催されている。今度の展覧会は特別で「萩原朔太郎大全2022』と称したキャンペーンが張られている。全国の52館で朔太郎関連のイベントが開かれると言う。これら全国展の中でもここ下北沢、そして代田は別格である。朔太郎は最晩年の11年間を当地で過ごしていてその痕跡が一帯のあちこちにあるからである。
10月10日、12日、二日に亘って萩原朔太郎展に関連して世田谷文学館友の会主催で文学散歩が開催された。下北沢の居住跡、世田谷代田の終焉の地を巡る小旅行である。 今回、面白いことに気づいた、世田谷文学館のポスターは「月に吠えよ、萩原朔太郎展」では大きく猫のイラストが描かれている。「月に」は犬である。全国レベルで言うとなぜ猫が描かれるのか分からない。
「ポスターになぜ猫が描かれているのでしょうか?実際に歩いてみて改めて感想を伺いましょう」。そう伝えて町を歩いたことである。
詩人は最晩年を世田谷代田と下北沢で送った。この間十一年間でなされた仕事はいくつかある。一つは詩集『氷島』の編集である。この中に収められている「新年」は、「昭和七年一月一日」とある、下北沢在住時である。木造家屋の二階が彼の書斎だった。ここで書かれたものである。この詩は、四番目に配列されている。
代田在住時に『氷島』は編集された。「自序」の末尾には「昭和九年二月」と記録されている。この締め括りとしては、「我が新しく心泣かんとす 冬日暮れぬ思ひ起こせや岩に牡蠣」とある、『氷島』を締め括るにあたっての感懐である。
詩編集に当たって腐心したのは詩の配列だ。冒頭には「漂泊者の歌」を持ってきている。自らを「ああ汝 漂泊者!」と描く。『氷島』主題の提示である、想像するにこの冒頭詩は代田在住時に詠まれたものではないかと思いもする。
下北沢及び代田在住時の日々の行動がこの冒頭詩から、透けて見えるように思う。ここで自身を漂泊者と述べるが、弟子の三好達治は、師を「旅行嫌いの漂泊者」と批評する。ここが面白い、代田居住時代に書かれた『秋と漫歩』では、「私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである」と述べる。さらに当地で書かれた『絶望の逃走』の序では、「大部分のトピックは、たいてい戸外の漫歩生活」で得たとも記している。
有り体に言えば、自宅を中心とした戸外の漫歩生活において思い浮かんだトピックが元となってアイディアが生まれ、それが文章化されたという。
典型的なものは『猫町』である、昭和10年代田在住時代に書かれた短編小説である。表題には「散文詩風な小説(ロマン)」とある、虚構である。最後の場面では北陸地方のU町が舞台となる。ここでとんでもない数の、猫、猫、猫、猫の大群に遭遇する。その町へは軽便鉄道が走っていて主人公はそこを偶然訪れて異変に出会う、結末が巧い。
私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟りくつや議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑している特殊な部落。猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必らず実在しているにちがいないということを。
あたかも実在したかのような「猫町」が見事に描かれている。詩人は北陸への旅行経験はない。虚構想像だ、これも近隣を漫歩しているときに思いついたものだ。
小説『猫町』の場面設定は二つだ、前半は居住地近くの町、後半は裏日本のU町である。さきにすべては虚構だと述べた。が、実際には現実の町をモデルにしているように思われる。それは彼が住んでいた下北沢であり、代田である。
主人公の私は、「運動のための散歩」を医師に勧められ、その忠告に基づき、「毎日家から十、四五町(三十分から一時間位)の付近を散策していた」、虚構ではあってもつい現実を想像する。出発地点は代田だと。詩人は、その散歩途中の様子を具体的に描いている。それが近隣の町である。一帯を散歩途中に不思議な経験をする。「樹木の多い郊外の屋敷町を幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと賑やかな往来に出た」、驚いたことにそこには見たこともない美しい町があった。ところがそれは幻影であった。「気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである」と。
そこは自宅から約1600メートルほどのところにある町だという。散歩の起点を居住区代田だとすると下北沢がピタリと当てはまる。
吉増剛造は下北沢には『次元の穴』が各所に空いているという。朔太郎の魂の存在が想像できる場である。確かに朔太郎陰翳は各所に認められる。先だって、猫町を巡る文学散歩を行った。下北沢旧居があり、ここの裏木戸から詩人散歩コースが辿れる。表通りは下北沢一番街だ。ここは戦災で焼け遺った。昔の街並も残っている。一番街裏手の野屋敷に行くと緑多い迷路的な小路が残っている。彼は、「小路から小路へ」とさ迷っていた。そういう道を辿って文学散歩では「代田の丘の61号鉄塔」へ着く。萩原朔太郎、葉子の生存痕跡を唯一残すものとの我らの提案が通り世田谷区地域風景資産に選定されたものだ。
下北沢や世田谷代田には萩原朔太郎の面影が偲べる場所が随所に残っている。愛用の煙草を買った店、常日頃出していた郵便ポスト、ヒマラヤ杉の大木、建築家が建てた家には奇妙なデザインの丸窓などが残っている。踏切地蔵など、彼をイメージできる場が立体的に残っている。まさに『下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館』である。
2、篠の井線でのこと 寄稿 ごうだゆうき
私は時々、松本に用事があって何泊かする。
それは、約束の場所へと向かう、篠の井線でのことだった。日ごろ都会にいるとしょっちゅう聞こえる、自分を責めたり急かしたりしてくる声が、このとき一切聞こえなくなる現象が起きた。
普段乗っている電車とはちがって、懐かしくやさしい気持ちになった。トトロに出てきそうな山や森や、古くなってもう誰も住んでいない空家の密集した景色をながめていると、いちばん古い、もしくはいちばん最後の自分と会っているかのような、不思議な感覚に陥ったのだ。ただの電車ではなく、人生をともに歩んでくれているかのような、というより人生そのものみたいな電車だった。
すばらしく綺麗な景色が見えたり、地味で陰鬱な景色に出会ったり、それから長いトンネルをやっとぬけた!と思ったらまたすぐトンネルに入ったり、本当に人生みたいだった。
わいてくるネガな声に対しても、「それで?それで?ほらほらもっと言ってみて。もっと嫌味を言ったり罵倒したり掴みかかったりしてごらんよ」と悠然と構えていられるようになり、それらはもはやなんの意味も持たない、霧のようにスッと消える声でしかなかった。
いやな思い出に対し「それで?」と問い続けられるようになり、思い出はあくまでも思い出でしかなく、それ以上自分に襲いかかってくることはできないという、極めて簡単なことがわかって、そこでピタッととまるのだった。
映画のスクリーンのなかの家が燃えていても、消防車を呼んであげることができないのと同じように。これが都会の喧騒ではわかりづらい。
誰かがちょっとやそっとミスした程度で誰も腹を立てないし、気にもとめない大らかさがあの街、もっといえばあの車内には漂っていた。それは無関心とはまたちがう、いいよ、という無言の優しさだった。私が普段、努めて見るようにしている神様の視点に、自然に立つことができる車内だった。
都会は、他人の声ばかり聞こえて、自分の声が聞こえづらい。良い意味で、目には見えない霊的な存在が宿りやすい地域というのはたしかにあって、できるだけそういう場所に身を置きたいと思った。それはただの現実逃避ではなく、人は本来そういうふうにつくられているということを思い出させてくれる体験だった。
ちがうバージョンの自分が街を歩いたり、車を運転したりしていて、みんなわたし。わたしでない人は一人もいない。叶っていない夢もない。そもそも全部持っていたんだと思い出させてくれるから、長野を、この土地を好きなんだと気付いた。
3、忘年会開催のお知らせ
12月10日(土) 時間17時〜19時 場所 三軒茶屋1-34-11萩原ビル1F
店名 お山のすぎの子(手打ちうどんと肴)03-5486-0094 費用4,500円(ドリンク込み)
年末繁忙期なので参加人数を早めに把握して店に連絡しようと思います。席数に限りがあります。参加される方は11月15日まできむらにメールでお知らせください。当日は町歩きもあります。雨天で散歩は中止される場合もありますが、忘年会は雨天決行です 忘年会 幹事 幾田充代・きむらけん
4、新刊発行のお知らせ。

北沢川文化遺産保存の会の活動過程において掘り起こした歴史事実を、これまで本にまとめてきました。第五巻目は『台湾出撃沖縄特攻−陸軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)が十一月末に発刊されます。売価は2500円。希望される方にはサインをしてお渡しします。忘年会の時に渡せると思います。邪宗門受け取りもできると思います。希望される場合にはこれも私にメールをください。
5、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)
第179回 11月19日(土)世田谷の尾根を歩く(品川用水)
案内者 谷亀�冢困気鵝陛�会会長) 千歳船橋駅改札口 13時集合
地形と文化は切り離せない、世田谷の背尾根を歩いて世田谷を知るという試みだ。
小田急線千歳船橋駅から田園都市線駒沢大学駅まで歩く。品川用水跡である。
・コースポイント:千歳船橋駅→千歳通り(玉石垣区間)→長島公園大榎公園(北見橋の礎)→千歳通り→北見橋跡(世田谷通り交差部)→蛇崩川最上流部(盗水?)→大山道交差部→246旧道(北側歩道)→品川用水単独区間(246北側)→旭橋→駒沢大学駅
第180回 12月10日(土)大山道をてくたくぶっくで歩く
案内者 木村康伸 東急田園都市線用賀駅改札口 13時集合
・用賀駅→玉電用賀駅跡→大山道追分→真福寺→無量寺→田中橋→延命地蔵→大空閣寺→将監山遺跡→慈眼寺→瀬田玉川神社→次大夫堀→砧線中耕地駅跡→南大山道道標→江戸道→二子の渡し跡→二子玉川駅
今年の歩き納めとして、玉川の郷土を知る会が建てた石碑を道しるべに、いま会で話題の大山道の一部を歩いてみましょう。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090-3501-7278
■ 編集後記
▲毎回、投稿を募っています。恐ろしいことに間もなく「200号」となります。12で割ると16年半となります。ぜひ投稿してください。
▲「鉛筆部隊同総会」コロナ禍で途切れていました。12月2日 歌手の寺尾紗穂さんが浅間温泉で武揚隊の「浅間温泉望郷の歌」を歌われる。これを聞くのと折からの新刊敢行を祝って浅間温泉目之湯旅館で開催する。参加希望は受け付けます。記事追加
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ
2022年10月29日
下北沢X物語(4578)―九品仏と菊田一夫―

(一)検索で「萩原朔太郎 菊田一夫」と引くと当ブログがトップに来る。二人の関係に興味を持って調べた。そのことを記事にしている。菊田一夫は17歳で神戸から上京してくる、そのときに鎌倉材木座に住んでいた萩原朔太郎に会いに行った。若い少年は文学に憧れていた。興味深いことがある、大正期の無名詩人を調べると多くが詩に憧れている。詩は麻薬みたいなもので青年心を熱くした。間違いなく萩原朔太郎の影響を受けている。詩人志望の少年が真っ先に訪れたのが鎌倉材木座に住んでいた詩人である。菊田一夫評伝では「上京した彼はたちまちに朔太郎に心酔した」とある、頷けない、地方にいて朔太郎詩に触れて心酔したというのが本当だろう。
鑑賞日本現代文学「萩原朔太郎」(角川書店 1981年)に菊田一夫のエッセイが載せられている。それは「鎌倉材木座-ある日の萩原朔太郎先生」である。萩原朔太郎が鎌倉材木座に住んだのは大正14年(1925)だ、菊田一夫は17歳だ、彼はこの年に神戸から上京してくる、詩人になろうと思いからだ、「評伝」では、「当時の、若い詩人がそうだったように、上京した彼はたちまちに朔太郎に心酔した」、それで思い切って鎌倉材木座にいる朔太郎を訪ねたものだろう。
大正十四年(1925)八月に『純情小曲集』は出ている。自序では、「何となくあやめ香水の匂ひがする」と詩人は書いている、菊田一夫はこれに当てられたのである。神戸では折々に東京行きの急行列車の尾灯を見て、都会と詩とに憧れた。『純情小曲集』トップを飾るのは「夜汽車」である。菊田一夫は何度も読み、すっかり暗唱するほどにもなった。この詩が契機となって彼は大成した。汽車なのである。
九品仏浄真寺に加藤楸邨の墓がある。これを知ってここを訪れやっと墓を見つけた。この過程でここに菊田一夫の墓があることを知った。
萩原朔太郎と菊田一夫との関係を調べていたゆえに身近なところに墓があることに興味を持った。一回目は見つからない、昨日も行ってみた。この墓地探訪はもう五六度に及ぶ。
境内への立ち入りは自由である、その延長で自身墓地へ入っていた。しかし、昨日気づいた。
「関係者以外の立ち入りを禁止する」
との看板が目に入った。見かけない看板だ。
都営霊園などでは著名人の墓の場所を記した地図さえある。が、ここは違う。
私は「別格官幣大社」を想像した。
死者にも格差がある、ここは上級者が埋まっているところだ、めったやたらと入るではないとのお触れである。
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2022年10月27日
下北沢X物語(4576)―北千束の加藤楸邨と中原中也―

(一)2006年5月「北沢川文学の小路物語」を発刊した、この中で「代沢の大欅と俳人物語」としたのは加藤楸邨の当地逸話である。この地で詠まれた句の中で最もよく知られているのが「十二月八日の霜の屋根幾万」である、この日開戦を告げる大本営発表がラジオで流された。全国民は「いよいよ来たな」という悲壮な感慨を持った、これを句にしたものだ。その俳人は四年あまり当地で過ごした後に転居した。1945年3月に代沢から西小山に転居している。当地も空襲に襲われるが俳人の旧宅は焼けなかった。ところが5月24日西小山一帯は空襲ですっかり焼け払われた。この時、俳人も火中彷徨し「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」と詠んだ。家族もちりぢりになったようだ。それで「明け易き欅にしるす生死かな」家の傍らにあった焼けた欅に、家族の動向を記した紙を貼って知らせたという。一番大きなショックは一切合切が烏有に帰したことだという。蔵書や原稿も燃えてしまったという。
ここ数日、北千束をうろうろしている。住宅街でひっそりしている。ずっと前に横光利一旧居を求めてうろうろしているときに近所の人から不審者だと思われ、声を掛けられたことがある。
俳人は1993年(平成5年)7月3日に亡くなっている。楸邨年譜(『加藤楸邨』田川旅飛子 1985)にこうある。
昭和二十三年(1948)四十四歳
大田区北千束六一五に新築した家に転居。
この旧番地がくせ者だ、いままでどれだけ苦労しきたか。探し当てるのは至難である。番号の振り方が合理的ではない。その番地が指す範囲が広くて、その場所を特定することは困難である。
新番地は北千束一丁目四十三番である。この一角が広い。枝番が分かればいいが分からない。これまでの経験では住民証言が一番である。
「この辺りに昔、小説家が住んでいましたが、そのは家わかりますか?」
「そこそこ、ほら見越しの松が玄関に植えてあるとことだよ」
住民の証言が一番だが、そう簡単ではない。
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2022年10月26日
下北沢X物語(4575)―加藤楸邨九品仏墓碑句碑―

(一)つい最近脱稿した作品のあとがきに当ブログを「もう一つのメディア」だと述べた。従来のメディアは単方向発信だ、が、ブログは双方向発信である。つまりは受信側からの反応があることだ。当方は数多くの現象事象を記事にしてネットに放ってきた。一例が駒沢高射砲陣地だ、偶然にこの実在を知って調べた。ところがよく分からない。その経過をネットで伝えていたところ、陣地の隊長は高齢だが今も健在であるとの応答があった。当人は長野県佐久穂町に住んでいると言う。そこで現地まで出かけて行き、直に面会して陣地の全貌を聞き取った。当方の発信がきっかけだ。反対に先方の発信に応える場合もある。加藤楸邨の墓に刻まれている句、これについての質問に応えていた。なんと十年も前のことだ、すっかり忘れていたが、検索によってこれを知って心底驚いた。
九品仏浄真寺の加藤楸邨の墓の脇に確かに句碑はあった。これはプライベートなものだ、パブリックなものは境内にあって。以前、これについて記事を書いた覚えがある。Google検索で「加藤楸邨 句碑」と入れてみた。するとなんと自分の書いた記事がトップに出てきた。そのタイトルは「加藤楸邨の句碑を訪ねて」だった、期日は2006/06/17である。なんとこちらは十六年前のことである。
しづかなる 力みちゆき 螇蚸とぶ 楸邨
昆虫の飛び発った瞬間を見事に描いている。螇蚸の細い四肢が目に浮かんでくる句だ。
さて一方、今度は十六年後に新たに見つけた墓碑に脇に刻まれた句だ。
落葉松はいつめざめても雪降りをり (楸邨)
どういう情景を描いたのかだろうか?
辞世の句なのだろうか?
まず、この句を検索にかけてみた。いくつかが引っ掛かった、その四番目である。
なんとこれもまあ、これも自分の書いたものだった。
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2022年10月24日
下北沢X物語(4574)―文士町の樹木因縁:加藤楸邨 2―

(一)加藤楸邨の句に「転校の子に泣かれゐる雪の中」というのがある。その子は加藤穂高さん、「代沢小はが勉強が進んでいて追いつけなかったから」と。代沢小への転校は昭和十六年二月、三年後の八月十二日、加藤穂高さんは長野県浅間温泉に疎開した。翌年塩尻市広丘郷福寺に疎開した。この組を引率していたのが柳内達雄先生である。学童を鉛筆部隊と名づけた人だ。このことを私は『鉛筆部隊と特攻隊』にまとめた。これを書くに当たって私は加藤穂高さんに取材している。「消え去ろうとする記録をよく留めてくれた」との穂高さんの批評。彼には前にも高い評価を戴いた。『北沢川文学の小路』という冊子を出したとき、「よくある郷土史家の土地愛を脱却して文学を語っている」と。加藤楸邨は下北沢文士町の重要な一員で私もだいぶ調べ上げた。そんなことから句碑建立へと行き着いた。碑ができたら九品仏にお参りに行きましょうと穂高さんとは話していたが、計画が挫折したことから話は立ち消えになった。が、新たな機縁から墓参りを思いついた。
九品仏は家の近くで散歩ではよく行く。ところが墓地に入ったことはなかった。事前に得ていた「奥まった細い道の壁際」を頼りに行った。しかし、なかなか分からない。墓地中を歩き回った。途中墓参に来た人に、「俳人の加藤楸邨の墓は知らないか?」と聞いたが、「さあ」と。何千と遺骨が眠っている、偶然でもない限り分からないだろう。
「寺の受付に行って聞いたらいいですよ」とその人が助言をしてくれた。言われるとおりにそこへ行った。
「俳人の加藤楸邨のお墓を教えていただきたいのですが……」
「個人情報ですからそれは教えられません」
恐らくこういう手合いはよく来るのだろう。受付女史のあしらいは手慣れたものだ。
応対の係は三人もいた。その様子を見て感づいた、ここが別格寺社なのだと。
我らの会には墓に詳しい人がいる。林立する墓を分け入って、ここだと。余程の手練れである、これまで数ヶ所の有名墓地へは行っていた。が、当、九品仏は都営霊園とは違う。墓の建て方、大きさなど風格がある。ステータスを持った人がここには眠っている、
「めったなことでは墓は教えられません」
女史の応答ぶりを聞いて思った。取り付く島がない。
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2022年10月23日
下北沢X物語(4573)―文士町の樹木因縁:加藤楸邨―

(一)おおよそ18年間、文学に映じた土地の文化を探してきた。やはり散文よりも詩にこれは現れる。端的に言うとこれは樹木だ、短歌や俳句という短詩形に著しい。北沢五丁目に住んだ歌人の尾山篤二郎は北沢を歌枕として詠んでいるほどだ。歌人は「北澤の澤に落ち込む岡なだり木立は赤く青く芽ぐみぬ」と詠んだ。「岡なだり木立」は対岸の景色、これは北沢四町目のこんもりした樹木を指す。場所は野屋敷だ。ここはお屋敷町緑がこんもりと茂っていた。ここに俳人の中村草田男が住んで居た。彼の句で教科書にも載っている有名な句がある。「万緑の中や吾子の歯生え染むる」、実はこの万緑は具体的には北沢四丁目の木々の緑である。折々文学散歩で当該箇所を通るが、草田男の万緑は、ここの緑だと説明する、下北沢は箱庭文学館と私は言っているが、この箇所もその一つだ。が、すぐそばにあった大島家のヒマラヤ杉も切り倒された。一帯の樹木は一層に色合いが薄くなってしまった。
つい最近、仲間の幾田充代さんから『俳句といのち』(新堀邦司著、里文出版)を見せてもらった。ここに「万緑の中や」が取り上げられている。
(昭和十四年)この年の一月草田男には次女が誕生している。生後半年、次女には可愛らしい歯が生えはじめ、すくすくと育っている。二児の父親となった喜びが伝わってくる。生命賛歌とも呼べる作品である。
この昭和十四年は北沢四町目、篠山さんところの家作を借りて俳人は住んでいた。きっと休みの日だろう、生まれたばかりの次女を抱きながら近所を歩いた、あやすと喜んだ、とふと口の中に緑に光ったものが見えた、何とまわりの木々の新緑に生え始めた歯が光って見えたのだ。やはり季語の万緑が効いている、これは野屋敷の緑に違いないのである。
萩原朔太郎『猫町』は虚構である、が、近隣の環境が微妙に反映されている、文中に「そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た」とあるが、「樹木の多い郊外の屋敷町」は、野屋敷の緑がぴったりと当てはまるのである。
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2022年10月21日
下北沢X物語(4572)―大人の遠足、丹沢大山へ・下―

(一)神様はうさんくさい、とくには神社である、日々荏原逍遙をしていると出会うのが神社である、その由来が麗々しく掲げられる。義家・頼義東征の折戦勝祈願を行った、奥州藤原氏征伐の途次頼朝が戦勝祈願をした。判で捺したようにこのことは謳われる。あっちでもこっちでも誇らしげに書かれる、その範囲や幅などを考えるとつじつまが合わない。神は由来を飾り立てて荘厳さを演出している。今回感じたのは神社支配の優位性である。明治になって国家は全体の統制に力を注ぐ。とくには明治3年に出された大教宣布詔だ、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。これに端を発して廃仏毀釈運動が起こり、大山信仰の中心だった大山寺は多くの暴徒に襲われ、本堂伽藍をことごとく壊されてしまった。その跡に建てられたのが現在の阿夫利神社下社である。一方山頂にあった大山寺本宮(石尊社)は大山阿夫利神社本社となった。
別宮通孝さんは、遠足のしおりを作られた。廃仏毀釈のことをこう説明している。
明治維新になると突如として廃仏毀釈・神仏分離の嵐が全国的規模で吹き荒れます。ここ大山寺もも1868年(明治元年)国学者・神道家の権田直助に率いられた右翼の暴徒集団数百人が押しかけて大山寺不動堂が瞬く間に破却されてしまい、その場所が現在の大山阿夫利神社に変わってしまいました。
我らは、大山ケーブルに乗り、大山阿夫利神社駅で降りた。道なりに行くとその当に大山寺が打ち壊された跡に建った大山阿夫利神社下社に着く。展望台からは相模湾が見渡せた。真っ正面に江の島が見える。
下社拝殿には柏手を打ってお参りする。この地下に行くと湧水がこんこんと湧き出ている。御神水だ。弘法大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となったという、その伝説の井戸なのだろう。
大山寺跡に下社は建ったという、伽藍は壊されたが井戸は残って今も使われている。かつては代参で大山詣をした人は、これを地区に持ち帰って分け与えたという。我らの仲間はこれを汲んだ。別宮さんはこの水でウィスキーを割るとうまいという。
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2022年10月20日
下北沢X物語(4571)―大人の遠足、丹沢大山詣・上―

(一)かつて大山道と名のつく道は八本ほどもあった。「すべての道は大山に通ずる」、人々はこの道を通って霊山に参詣した。今回、19日に第178回目町歩き、大山詣を別宮通孝さん引率で行った。初めての山行である。慣れないゆえトラブルもあった。電車集合がうまくいかない、また、自宅最寄り駅近くで自転車で転倒し怪我をしたという人もいた。それで大山詣の後は精進落とし、かつては江の島まで行ったそうだが、我らは山上から見える江の島を肴に一献傾けたことだ。話題になったのはやはり現地に来てみることの大事さである。我ら今年のテーマは三軒茶屋である、ポイントは三軒茶屋追分だ、大山詣での参詣人の増加によって分岐ができた。人々の行き着く先は大山であった。往時は皆、不動明王を祀った寺を目指した。が、山にどでんと控えていたの大山阿夫利神社であった。
大山は、別名、あふりさん、雨降山という。関八州の雨乞いの霊場だ。潤沢に雨が降る、ゆえに日照りが続くと関東一帯の農民はここに人を送り、雨が降るようにと祈らせた。
大山に登ると相模湾がよく見える。真南に江の島が望める。大山はこの海がポイントだ。相模湾の海が温められ水蒸気が発生し雲が湧く。これが南風に乗って丹沢連山にぶつかって雨を降らせる。地勢が大きく関係している。その仕組みを知った農民は、この山で天気観望を行った。
「大山の山頂に雲がかかると 雨が降る」
我らの会の坂口安吾文学碑は門柱を活用して造られている。表札地名には「矢口」と書いてある。彼の作品に『明治開化 安吾捕物』にこういう記述がある。
矢口のカミナリは主として大山の方角に発生した雷雲が横浜経由でのりこんでくるのである。一ツの地域へ五六年もすめば、それぐらいのことは分るようになる。
『坂口安吾全集 10』筑摩書房 1998(平成10)年
荏原では天気観望するのに大山は使われていた。
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2022年10月18日
下北沢X物語(4570)―若者の理想は隠遁DIE生活―

(一)メディアが大きく変わった。これまでは新聞やテレビが最大の情報源だった。これらは表街道だ。晴れ舞台でもある、が、これらへの興味は薄れた。視聴時間が大きく増えたのはYouTubeである。多くのジャンルがあって好きなものを選べる。よく視聴するのはリベラル系の討論番組である。表街道では出てこない話がまな板にのせられて鋭く突っ込みで料理される。遠慮会釈ないところが痛快だ。現今社会は依然建前が支配している。旧弊が相変わらずはびこっている。鉄壁の男社会が厳然としてある。今朝の新聞、女性自衛官が同僚に性暴力を受けていたことを大きく伝えている。四人が代わる代わる犯したと。この事件一旦は不起訴になっている。検察審査会で再度取り上げられ起訴となった。男優位社会の片鱗が覗いている。「男女格差、日本は世界120位 G7で最下位」だと、いまだに発展途上国である、旧弊の思考や思想がこの国に色濃く残っていることの反映だ。
YouTubeを見ていると社会が分かる。これも男社会の別の片鱗なのかもしれぬ。
発動機おじさんが多くいる。第一線から退いた農家のおっさんたちが納屋に眠っている発動機をリペアーして動かす。そして折々仲間で集まっては互いに見せびらかす。焼き玉エンジンの音は確かに懐かしい。動かないエンジンをやっきになって調整し最後には集まった者が拍手する。リタイア後の気晴らしとしてはいい趣味だ。
リタイア後の生活は、発動機を動かしてのんびりする、理想的な隠遁生活である。が、趣味的に生活を生きる、これは若者たちの願望でもあるらしい。
働いて暮らす、普通のことであるがこれも現実はなかなか厳しくなっている。競争が厳しいからだ。社会経験の少ない若者にとっては生きづらいということはあるだろう。かつては努力をすればそれなりに報われもした。が、今はそうではない。
人は夢を食って生きる動物だ。YouTubeを見てその夢の一端を知った、現実が生きづらいから隠遁する、隠遁生活に自分の理想を見出す者が増えている。
DIY(ディー・アイ・ワイ)が流行っている。面白い。ストーリーはこうだ。
田舎の一軒家が売りに出されている。まずこれを安く買うところから始まる。長く人が住んでいないからぼろぼろである。幸運なことに前住民の持ち物がそのまま残っているという場合もある。さて始まりだ、片付けだ。これがまた見ものである、箪笥からお宝が出てきたり、場合によってはへそくりが見つかったりもする。これらは言えば、物語の材料である、個々人の技倆によるが意図して順序だてて撮影していくとこれが金の卵を産む。
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2022年10月17日
下北沢X物語(4569)―時代転変激変異変―

(一)「トタン屋根にパラパラッと小石が落ちてきたと思ったらいつの間にか戦争になっていた」と、ある人が言っていた。が、この頃の時代の変化は激しい。トタン屋根に大石がドカンドカンと降ってきて穴が空いている。ところが日常では旅行支援が再開され行楽地が観光客で賑わっているとハッピーな情報が流れている。この旅行支援の原資は税金である。国家財政は破綻しかかっているのにと思う。財源が不足すれば国債発行で補う魂胆だろう。が、ニュースでは大きく報道されないが、「長期金利の指標となる新発10年物国債は業者間の売買を仲介する日本相互証券で取引が成立しなかった」と。国債をバンバン発行して予算不足を補うことへの赤信号が点った。浮かれてはいられなくなった。根幹は日本の魅力がなくなったことだ。危惧を持つのはこの国は沈みかけているのではないか?貧すれば鈍する、窮乏すると心までおかしくなる、このところ政府は民意とは全く反対の施策を矢継ぎ早に出してくる。国葬はその典型例だ。
今、多くの問題が噴出してきている、そんな中で異様と思ったのは、「岸田文雄首相は4日、政務秘書官に長男で秘書の翔太郎氏」を起用したことだ。現今政治システムの大きな問題は世襲議員が多いことだ。二世もいれば三世もいる。権力や権威が禅譲で成り立っていて新しい血が流れないでいることだ。
私は日々散歩する。ときどき家の前にポリスボックスをおいている家がある。「桜荘アパート」の前には置かれることはない、政界の重鎮の邸宅である。与党議員は金持ちである。
よく通るのは首相候補にもなった故大臣の家である。興味深いのはまわりにある家の表札を見ると同じものを掲げている。居住区の地主名であれば普通である。当地では根岸家などはその一例だ。が、故大臣は地主ではない、親が住み、そのまわりを親戚縁者が取り囲む。与党政治家を務めると実入りが多いということが推測できる。
今、若者たちは希望を失っている。この頃の現象をある批評家がこう述べていた。
「いわゆるネトウヨですね、世の中に希望を持てないで暮らしていて、まっとうな物事に対してイチャンモンをつけることで生き甲斐を感じている人がいる。いえば社会がそこそこ希望を持って暮らしていけなくなっているのですよ……」
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2022年10月15日
下北沢X物語(4568)―代田・北沢:萩原朔太郎の箱庭文学館 2―

(一)北沢・代田における萩原朔太郎、大きなトピックとしては『氷島』であろう。これには下北沢在住時に詠んだ「新年」も含まれている。編集の最終チェックは世田谷代田で行われた。巻頭の「自序」の末尾には、「昭和九年二月」と記されている。ここでは思いが熱く語られる「著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を敍べるのである」と。それこそ自己のイマージュだが、詩人の「心の上」に実際に有った高圧鉄塔線が思われる。至近の一本、「代田の丘の61号鉄塔」が世田谷区地域風景資産に認定されている。この関係で東京電力に何度か伺った。「区内には前橋線があったな」と係官。電気は水源の上流で起こされる。利根川水系だ、これによって起こった電力が東京へ送られてきていた。詩人の頭上渡されている高圧線は故郷に通じている。二月季節風が電線を唸らせる、そしてジリジリと青い火花を散らせる……『氷島』序は頭上を通過する線が意識されていたのだとの妄念は今も消えない。
詩集、『氷島』は、昭和九年六月に第一書房から出されている。
雑誌「薔薇族」を出して評判を高めた下北沢の伊藤文学さん、彼の親父さんは伊藤祷一さんだ。第一書房の社員である、住まいは朔太郎邸の至近距離にあった。その彼が朔太郎邸に行き、印紙に『萩原』という判子を何枚も捺していたという。
戦後、伊藤祷一さんは、詩人の田中冬二と美装本で有名な第一書房を再興しようと画策した。が、それがうまく行かず、伊藤祷一さんは、下北沢に第二書房を起こした。この会社を継いだのが息子の伊藤文学さんである。
朔太郎陰翳が、下北沢の出版物語につながっている。戦後、本は飛ぶように売れた。下北沢でも小出版社が続々と興された。が、なかなかうまくいかず倒産してしまったところも少なくない。
「朔太郎先生、家の前を通って東に行かれました。多分、淡島からバスに乗って渋谷に行かれたのでしょう……」
伊藤祷一さんの目撃談である。詩人が渋谷に行くときの裏ルートらしい。
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2022年10月14日
下北沢X物語(4567)―代田・北沢:萩原朔太郎の箱庭文学館―

(一)世田谷文学館で萩原朔太郎展が開催されている。今回のは特別だ。萩原朔太郎没後80年を記念して全国規模で文学館や美術館など52館が参加して行われる。これに関連づけての文学散歩が世田谷文学館友の会主催の文学散歩が10日12日の両日に開催された。手慣れた散歩だが、朔太郎展が全国規模で行われていることを知って観点や視点が広くなった。朔太郎最晩年の地は北沢・代田である、全国にはここ一箇所しかない。実際に代田や北沢の居住場所は存在する。彼は言う、ここを出ての漫歩から文学の発想やインスピレーションを得たと。容易に想像できるのは路地から路地へである。巡り巡ってまた戻るときに迷ってしまうがそこには立派な目印がある、「代田の丘の61号鉄塔だ」、二回の町歩きを通して当地が他に類例を見ない「萩原朔太郎箱庭文学館」だと認識した。核となるのは我らの手になる「下北沢文士町文化地図」である。
東京都内で文学館があるのは世田谷区だけである。会員数も多い、ゆえに実施する文学散歩も二回に分けて行う。会員は区内に限らない都区内また他府県にまで及んでいる。
ある参加者の言である。
「私のところは葛飾です、松尾芭蕉と寅さんぐらいなんですが、この地図に記されている文化人はすごいですね」
「確かにね、関東大震災の影響がありますね。東京東部に住んでいた人々が地盤の堅固な西の武蔵野に逃げてきたのは大きいですね」
地域文化発信の好材料ではないか
別の参加者の言である。
「この地図は感動しますよ、作家などの数の多いこと、第一級の文化人がこんなに多くいたのですね。全く知りませんでした」
そう言えば思い出した。我らの地図を北沢川緑道で配っているときの話だ。
「私は、前橋から来ました。萩原朔太郎は地元ですからよく知っていますよ。しかし、萩原朔太郎がここで亡くなっていることは初めて知りましたよ」
どこもそうだが郷土の誉れは、その地域を中心に考える。文学はそれは出自も大切だが、過程も大事だ、プロセスを通して成長する。ゆえに終焉の地も大事である。
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2022年10月12日
下北沢X物語(4566)―下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館―

(一)「萩原朔太郎没後80年を記念して萩原朔太郎が開かれています。今度の展覧会では「萩原朔太郎大全2022』と称してキャンペーンが張られています。全国の52館で朔太郎関連のイベントが開かれるとのことです。それら全国展の中でもここ下北沢は別格ですね。朔太郎は最晩年の11年間を当地で過ごしています。今でも当時の密やかな痕跡が残っています。それで私は、『下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館』と言いました。随所に痕跡がある、愛用の煙草を買った店、常日頃出していた郵便ポスト、ヒマラヤ杉の大木、奇妙なデザインの丸窓などが残っています。それらこそ彼のとっかかりである。当時の彼の生活は漫歩であり、徘徊である、ここから文学が生まれています。これから路地を巡っていきますが、路地の陰や木々の陰などにぽっかりと穴が空いています、詩人の吉増剛造が言う、『次元の穴』です、言えば詩人の霊魂が宿る場所……
北沢、代田で彼詩人は最晩年を過ごした。大きな仕事の一つが詩集『氷島』の編集である。終焉の地で編まれ、そして発刊された。昭和九年である、この詩の冒頭に持ってきているのが「漂泊者の歌」である。自らを歌っている。「ああ、汝漂泊者よ」と歌う、自分自身のことである。さすらいびとである。
漂泊者というと旅から旅へということがイメージされる。が、弟子の三好達治は、師匠を評して「旅行嫌いの漂泊者」と言っている。いえば遠くに行かないで近所をほっつき歩いていた。その近所はどこか、それは界隈である。
萩原朔太郎が、どうして下北沢や代田に住んだか?一番は便利だからである。ことには新宿、渋谷である。電車に乗ればすぐにいける。
よし、今日は東京急行電鉄にでも乗ってこよう。
特に武蔵野の平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷、武蔵小山、戸越銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高く聴きこえているのである。
「猫町 他十七篇」岩波文庫、岩波書店 1995年刊
近隣の電車線巡りというのも面白い。
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2022年10月11日
下北沢X物語(4565)―朔太郎の『猫町』散歩本番 1―

(一)昨日のことだ、駅前で、「詩人の吉増剛造は下北沢には次元の穴が至るところに空いていると言います。詩人の痕跡が各所にこそっと存在することを暗示しています。小田急の地下化によってこの町は大きく変わりました。こぎれいになった分、次元の穴が少なくなりました。それでも町の物影に路地に『次元の穴』らしいものが空いています。そこを求めての散歩だと言えます。本館では「萩原朔太郎没後80年展」が開かれています。言えば、当地は別館、「下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館」だと言えます。次元の穴はぽっかりと空いていません、ひっそりと物影にあります。みつけようと思えば、至るところに空いています、では次元の穴探検にこれから出かけましょう」
「皆さんは、『萩原朔太郎展』のポスターをご存じですね、キャッチが『月に吠えよ、萩原朔太郎展』です。詩の本当の題名は、『月に吠える』です。が、ここでは命令形にしています。なぜでしょうか?」
ポスター裏面では、つぎのように説明している。
日本の近代詩を代表する主人。 萩原朔太郎。 教科書などを通してその日の鮮烈なイメージとリズムに出会い、衝撃を受けた人も多いことでしょう。 世田谷は朔太郎が晩年を過ごした土地です。没後80年を記念して全国的に横断的に開催される「萩原朔太郎大全2022の一環として、当館でもこの。不世出の詩人に新たな光を当てます。
「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である」(『月に吠える』序文より)と書いた朔太郎の詩は、世代や立場による分断が進み、気づけば、一人、一人が孤立を余儀なくされている現在の私たちに鋭く強く迫ってきます。 しかし朔太郎は続けて、人間同士に共通するものを発見するとき「我々もはや永久に孤独ではない」とも書いています。 生活のすべてを詩に捧げた朔太郎が、孤独の先に見えたものとは…… 書き残された膨大な原稿やノートなどの資料や。 朔太郎に触発された現代の作家たちによる作品を通して見て行きます。
現代昨今の社会では、価値観の違いから大きく分断されているという。個々人が単に「吠える」のではなく、「吠えよ」、主体的に思いを発信することで世の変化への可能性を見出せると言うのだろうか。世田谷文学館の社会への発信である。
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2022年10月09日
下北沢X物語(4564)―萩原朔太郎と代田・北沢の関係性2―

(一)萩原朔太郎を話題にしたのは2004年10月12日、ちょうど18年前である。その最初の記事は「萩原朔太郎と下北沢」と題したものだ。その冒頭だ。「土地や風土はそこに住む人間に色合いを与える。小説家や詩人に大きな影響を及ぼす。感性を言葉に託して表現する詩人であればなおさらであろう。」と書いていた。十八年経って思うことは、朔太郎についてはここでいう「色合い」がないことである。娘の萩原葉子は、土地環境のことは具体的に描いている、家のそばにあったひまわり公園、北沢川のせせらぎの音とかを。しかし朔太郎の場合は代田、北沢の風光や風景は一つの例外を除いて一切ない。自ら「道を歩きながら瞑想に耽る癖があった」(『猫町』)と言っているが、目前の風景には目もくれないで歩いていた。土地には関心がない、詩人はいつも宙空を歩いていた。代田、北沢を歩いているが心だけが移動していたように思う。が、感覚は鋭敏だ、土地の霊は特殊アンテナで感知していたのかもしれない。
萩原朔太郎が前橋から上京してきて大井町に居住する。家族での東京生活は感銘深いものがあった。とくに大井町は気に入っていた。この地名は度々作品の中で語られる。詩集『青猫以後』では、「大井町」をタイトルとした詩やエッセイを書いたり、詠んだりしている。大井町は彼にとっては歌枕だったと思うことから2008年11月に「近代の歌枕『大井町』を訪ねて」という記事を書いている。その一例だ。
大井町!
まづしい人人の群れで混雑する、あの三叉の狭い通りはふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつている。どこへ手紙を出すのだろう。そうして黄色い貯金帳から、むやみに小銭を引き出してる。
空にはいつも煤煙がある。屋台は屋台の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車の列がつながってゆく。
「大井町」 「詩と随筆集」創刊号、昭和三年五月号 萩原朔太郎全集第三巻
大井町は工場街である、その雰囲気がとても気に入っていた。鉄道工廠のある町である。その町の持つ感性を「あっちこっちの屋根の上に/亭主のしゃべるが光だした」と描いている。
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2022年10月08日
下北沢X物語(4563)―萩原朔太郎と代田・北沢の関係性1―

(一)萩原朔太郎の没後80年を記念して世田谷文学館で朔太郎展が始まった。全国規模の大がかりなものだ。報道によると「詩人・萩原朔太郎没後80年にあたる2022年、朔太郎を介した企画展『萩原朔太郎大全2022』が全国52カ所の文学館や美術館、大学等で開催」されると。世田谷文学館もその一翼を担っている。当方はこれに協力している。館では関連企画としてコレクション展、「下北沢猫町散歩」も行う。「下北沢文士町文化地図」がここで活用されているとのこと。もう一つは世田谷文学館友の会が主催する朔太郎展関連の文学散歩を10日と13日に行うがこれの案内を務める。タイトルは「朔太郎の『猫町』から時空を超えて新開地『下北沢』を歩く」である。朔太郎が居住した代田や北沢に焦点を当てるものだ。全国52箇所中、終焉の地は当地だけである。
当地との関わりである。萩原朔太郎 四十四歳 昭和六年(1931)「九月、府下世田谷町下北沢野屋敷一〇〇八番地へ移り、母、二児、妹アイと住む」に始まる。この前の八月に東北沢へ越してきている。市谷台町からの転居だ。
亡くなったのは昭和十七年(1942)五月十一日だ、こちらは北沢に隣接した代田である。それで北沢、代田での生活は十一年間に及ぶ、晩年の地、終焉の地が北沢、代田である。
萩原朔太郎を信奉する吉増剛造は「なぜ、下北沢などにやってきたのだろう」(『氷島・下北沢』萩原朔太郎研究)と言っている。興味深い点だ。
やはり郊外電車の開通は大きい、四年前に小田急は開通している。武蔵野を横断する線である。おしゃれでもあった。昭和四年に流行ったのは『東京行進曲』だ、ここで歌われる「いっそ小田急で逃げましょう」は話題になった。これは駆け落ちだが、中産階級には都会の雑踏から抜け出て武蔵野の自然へ親しみたいという脱出願望はあった。
小説家横光利一は阿佐ヶ谷からこの北沢に越してきている。阿佐谷文士村では彼は注目が集まっていた。が、ムラ社会は狭い、彼には仕事中に大声を出す癖があった。ムラではどうしても他者を慮らねばならない。不自由さを感じていたようだ、引っ越しを考えていたときに武蔵野を突っ切る鉄道線の開通を知った。翌年昭和三年に当地に越してきている。
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2022年10月06日
下北沢X物語(4562)―鉄塔のヒミツ「代田の丘の61号鉄塔」2

(一)萩原葉子は当地に来て鉄塔に初めて接したとき「何となく暗い予感」(『蕁麻の家』)が頭をかすめたという。鉄塔ドラマの伏線だ、時が経ってその正体を知った、「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした」と認識したからである。ところが分かってみるとここにヒミツがあった。普通鉄塔は女子どもが登れるようなものではない。ところがこの鉄塔には誰もが容易に登れる階段がついていた。鉄塔のヒミツだ、なぜはしごがついているか?『鉄塔の保守点検は空中線と地下線とに分かれる。後者は空中線に不慣れだからはしごを設けるのだ』『ということは61を起点に地下線が延びているということですね、行き先は?』『富士見丘教会のすぐ東に斜めに延びている道路があるだろう。池ノ上の三角橋方向に地下ケーブルは延びて、東大航空研究所に行っていたと思うよ』電力会社を退職した古老からこの話を聞いた。
鉄塔ドラマだ、代田の丘の61号鉄塔は、地下ケーブルの分岐鉄塔だった。
世田谷代田の地に土地の下見にきたときのことが同作品冒頭に描かれる「青い竹はどんよりした空に向かって背高く延び」と。そこは竹藪であった。
『月に吠える』の中でよく知られている「竹」がある。
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
萩原朔太郎 日本詩人全集 十四 新潮社 一九六六年刊
朔太郎には独特の「竹観」がある。『月に吠える』ではこれが論じられている。「竹は天を直観する」と述べられている。彼詩人は、自らが竹になって根を想像する。竹の根がどんどん伸びていくさまが「竹」には描かれる。
萩原朔太郎は独特のアンテナを持っている。『氷島』の「序」世田谷代田で描かれたここで歌ううたは激しい。『著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んでいる』と記される、天界があれば地上界もある。居宅下の竹の根ならぬ高圧地下ケーブルが想起される。
ケーブルは東大航研に延びて
機器をうならせる
風洞の風がかしましい
戦闘機模型が左右に揺れて飛形をつくる
流線美は敵の目を眩ませ
つばくらめののように飛ぶ
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2022年10月05日
下北沢X物語(4561)―鉄塔のヒミツ「代田の丘の61号鉄塔」―

(一)ネットへの与太飛ばし、ふと思いついた言葉をネットに放り込むことを言う、これを何年も続けている。思い出したのは前に「鉄塔文学論」を放ったことだ。Google検索すると上位ワンツーで当方の飛ばしが並んでいる、トップにあるのは「鉄塔文学論:塔もまた漂泊者」とある、えっ!塔も歩き回るのか?……発信者の私が驚いてしまった。鉄塔は文学的なのか?が、朔太郎の盟友、北原白秋は鉄塔好きである。彼の歌集『白南風』の「序」末尾には「砧村の雲と鉄塔の下にて 白秋識」と記される。鉄塔の下で歌を詠んだと誇る。自然物と人工物は調和していたらしい。鉄塔は雲と調和していて心地良い風景を形成していた。ときは昭和九年四、この時期における詩人の鉄塔観がほのみえる。
白秋の詩集に『海豹と雲』がある、末尾に(世田ヶ谷若林にて)とある。若林在住時代にまとめられたものだ。この中に「われは見き」という一編がある。四連からなる単短詩だ。その四連だ。
神のごと美しきもの
鉄塔のうへに坐ししを。
銀色に光る鉄塔その上には言いがたい何か潜んでいる。詩人は鉄塔へ特別な感懐を持っていたようだ。ふと思ったのは実在鉄塔だ。若林白秋旧居から遠くないところに南北に高圧鉄塔が縦断している。もしやこの鉄塔を見ての思いかもしれないと思った。鉄塔駒沢線である、この上手に萩原朔太郎は越してきている。
実はこの鉄塔線若林と太子堂地境を走っている。この鉄塔敷設を巡って大規模な反対運動が起こっている。大正六年、敷設に反対する荏原農民が三軒茶屋の石橋楼に集まって決起集会を開いた。
「東京電灯の横暴を許さないぞ!」
高圧鉄塔線は既にあった。が、電力需要が高まったことから高規格の鉄塔を建て大電流を送ろうとした。ところが会社側は既存道路を利用して街の道沿いにこれを通そうとした。工事費の節約のためだ。これに対して太子堂の住民を中心に反対運動が起こった。
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2022年10月03日
下北沢X物語(4560)―文学碑「代田の丘の61号鉄塔」―

(一)「日本近代詩の父」とも称される萩原朔太郎は世田谷代田で終焉を迎えた。その場所はどこか、目印なるものは一切ない。会発足当初から詩人の、地元での事跡を私は調べてきた。そうして知ったのは詩人存在と鉄塔である。これは世田谷代田の丘上に聳え建っている。想起されたのは「鉄塔と詩人のいる風景」である。そこで思いついたのは、世田谷区地域風景資産へ推薦することだ。地域らしい特徴のある風景を選定してこれを保全していくというものだ。私はこれへの応募を思いつき申請をした。「鉄塔が風景資産になることはないだろう」との前評判であった。しかし、こちらの熱意が通じて塔は世田谷区地域風景資産になった。その呼称は「代田の丘の鉄塔61号」である。選定されてはや十五年、世田谷代田に生き、そして死んだ萩原朔太郎、これを偲ぶための目印として今ではすっかり当地に定着している。
その評価である。区のHPに掲出されているものだ。
萩原朔太郎にまつわる文学的、歴史的な価値のある鉄塔である。その価値を発信するための調査や冊子づくりなどの活動を多面的、継続的に進めている推薦者の取り組みとその成果を評価した。今後も、地域の思いを集めるなどより地域に根ざした活動を進めることで、地域全体へ風景づくりの輪が広がっていくことが期待される
萩原朔太郎は当地代田で終焉を迎えた。その痕跡は皆無だ。が、昭和元年に建てられた丘上の鉄塔は今も昔と変わりなく聳え立っている。萩原朔太郎、その娘葉子の生存痕跡を残す唯一のものである。
鉄塔が選定されるに当たって決定的なフレーズがある。萩原葉子が書いた『蕁麻の家』の中にこれは出てくる。
あの高い鉄塔に登り、感電死するのがわたしの運命のような気がした。
鉄塔はこれ一本ではない、他にもある。が、これは駒沢線鉄塔61号に他ならない。特徴のある鉄塔である。この記述から分かるのは自宅からよく見えることだ、実際、家のすぐ北側の真上に建っていてよく目立つ。
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2022年10月02日
下北沢X物語(4559)―没後80年記念朔太郎展へ向けて 3―

(一)文学の凋落は著しい。読まれなくなったからだ、近未来が想像できる。偉大な現代文学者が亡くなった。愛用のパソコンが遺品として展示され、「キーボードのKが消えかかっていますが、生前の作家の生々しい指跡です」と紹介されても反応はないだろう。文学の先行きは危うい。文学というのは重いものを伝えるものだ、が、人々が求めるものは軽いものだ。この需要に合わせていくと存在価値を失う、今がそうである。大成した人の発信は重い、が、享受する側が承知している。だから強い。萩原朔太郎は相当に難解だ、が、そうだから楽しもうという人も居る。掲げたポスタ、「下北沢猫町散歩」では、「楽しんでってくれ。下北沢の懐は深く、心は温かく、道は入り組んでいる」と藤谷治氏の文言を引用している。町の文化の深さと迷路路地をアピールしている。
「下北沢猫町散歩」は、観点の提示だ、表題が引っ張られているのは朔太郎作品の小説『猫町』である。これは純粋に虚構である。が、深読みしていくと彼が居住して下北沢や代田らしい土地の固有性が出てくる。そこを拾いながら読むと楽しい。
この『猫町』は、三部構成となっている。二部の冒頭だ。
その頃私は、北越地方のKという温泉に滞留していた。九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中では、もうすっかり秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。私はフランネルの着物をきて、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。
萩原朔太郎 日本詩人全集 十四 新潮社 一九六六年刊
彼が滞在するK温泉、ここから「繁華なU町へは、小さな軽便鉄道」が出ている。彼はここではまさに不思議な経験をする。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫の大群に出会うのである。この展開から『猫町』は軽便鉄道が通じているU町ではないかと言う人がいる。
それは決して嘘ではない、『猫町』全編は虚構である。UまちでもS町でもどこでもよい。
が、前半部は捨てがたい。ここでは不思議な経験をした、かどを曲がったとたん見たこともない美しい町に出会った。「幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた」という。ところが、とある瞬間気づいてみると。そこは「何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。」
この作品昭和十年に書かれた、世田谷代田居住時代である。医師の勧めによって散歩に出ることしした。時間と距離が書いてあるから面白い。ポストがあったり十字路があったりするから応えられない。そしてまた大事なのは詩人は世田谷代田には下北沢から越してきている。拭いがたい経験があった。
(二)
我らの仲間に東盛太郎さんがいた、彼も『猫町』の秘密をずっと追っていた。
「ポイントはポストだね」
「そうそうポスト」
全部のポストの位置を調べ上げたことがある。推論では旧北沢局のポストということになった。もうその彼も物故してしまった。いい大人がポスト探しに夢中になっていた。懐かしい思い出だ。
『猫町』にでてくる地域用語を探しているとこの地域が全部当てはまる、『猫町は下北沢でなないか?』となった。我々ばかりではないもっとディープな信奉者がいた。吉増剛造である。『氷島・下北沢』というエッセイの冒頭はこう始まる。
いまも萩原朔太郎が下北沢の「四つ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘が坐っている」「猫町」の裏通りを黒いマントを着て歩いている幻覚が浮かんでくる。なぜ、下北沢などに朔太郎はやってきたのだろう。
「萩原朔太郎研究」 那珂太郎編 青土社 1974年刊
そうなぜ下北沢にやってきたのだろう。
(三)
『父・萩原朔太郎』の中で、下北沢から代田に引っ越す話がでてくる。ここに「父が小田急線では一番大好きな成城学園」と言っている。娘の葉子は父に連れられて成城学園近くに住む北原白秋の家に行って知ってもいる。
が、成城学園というのはあり得ないと私は思う。なぜか区画整理がされすぎていて隠れるところがない。やはり『猫町』に路地は必要だ、隠れ潜む場は必須であると思うのだが。
(世田谷区地域風景資産『代田の丘の61号鉄塔』



















