2022年12月

2022年12月31日

下北沢X物語(4620)―ネバーエンディング・赤い毛布と特攻隊 了―

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(一)出撃していく特攻隊員は浅間で慣れ親しんだ学童に「敵をやっつけるまでは死すとも死せず、必勝を誓います。にっこり笑って散っていきますよ。では、お元気でつぎの世をお願いします」(武剋隊今野勝郎軍曹)と言い残した。命は順繰りである、若い特攻隊員は国のために死なねばならなかった。死んだ後の世を学童に託した。その学童を我ら大人はどう扱ったか?一つは疎開先の到着時だ、浅間温泉に疎開した学童は本郷小学校に集合させられた。8月13日代沢校はやっと着いたばかりだった、入村のセレモニーは村長を始めとしてのお偉方の延々の長広舌。また、終戦後、やっと辿り着いた梅丘駅では教員が長広舌を揮った。思うに大人は子どもの健康とか精神とかを考えない、寄り添う気持ちに欠ける。ついこの間の新聞の見出しだ。「子ども予算 倍増に遠く 防衛費との差が浮き彫り」子どもこそ未来の担い手である、子どもより軍備、間違った施策だ。

 山崎国民学校の疎開生活は、当事者から聞き取って知った。この学校は浅間温泉小柳の湯に疎開していた。やはりここにも特攻隊員が来ていた。が、どこの何隊かは分からない。分かっているのは三月下旬である。浅間温泉からいよいよ前線へと出て行く。そのときに松本陸軍飛行場から飛来してきて学童へお別れをした。

 このときに小学四年生の斎藤昌康君は、自分が使っている赤毛布を持ち出して、一生懸命に振ったという。赤いものを持ち出して振ったのは彼だけだったという。

 この彼らはどこへ行ったのか、多分椿の湯にお風呂に入りにきていた兵隊と同じ人であろう。この中の隊員の一人は小林三次郎と言った。前線から長谷川直樹さんにハガキを書いている。

 途中事故もなく全機集結、出撃の日を今日か、明日かと心待ちにして居ります。この手紙が着く頃はきっと戦果が発表される事でしょう。

 発信地は宮崎県佐土原である。近くに陸軍新田原飛行場があることからここに集結していた。実は、このころ台湾に司令部をおく第八航空師団から参謀がここに来て特攻の指揮を執っていた。よって小林機は誠隊傘下にあった隊である。

(二)
 この逸話、不思議である、新田原から出撃したと思われるこの隊員は満州の原隊に戻って、長谷川君に「元気か?」と手紙を寄越している。謎を確かめようと発信地の九州佐土原まで行ったことがある。紫明館は突き止めた。特攻隊員が宿泊していたという。が、いまだ謎は解けていない。

 特攻隊に関する記録はほとんど残っていない、浅間温泉に数多く特攻機が来ていたことは分かっている。ところがどこの何隊かはほとんどが不明である。ましてや台湾に渡った特攻隊の行方などはなおさら分からない。

 しかし、縁なるものも不思議である。自身が世田谷区に住んでいれば分からなかっただろうと思われることがある。近所の目黒区立中央図書館はよく行くところだ、奥の書庫に青い表紙の資料が書棚を占めていることは知っていた。今年の夏だったろうか、ふっとその背表紙を見ると「台湾日日新報」とあった。驚きであった。

 複写ではあるがほとんどが揃っている。なぜ所蔵しているのだろう?
 目黒区には守屋図書館がある、これは人名に由来している。守屋善兵衛氏である。1866(慶應2)年生まれ、台湾日日新報社・満州日日新聞社社長を歴任した人物である。彼所蔵になるものが目黒区に寄贈された。それで新聞はある。

 私は主には、浅間温泉から台湾に渡った特攻隊を調べていた。この新聞を見ていったところ何と武揚隊関係の記事がつぎつぎに見つかったことだ。このことは新刊「台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語」にすべて記録した。

(三)
 ―ネバーエンディング・赤い毛布と特攻隊―もここで閉じることにしよう。
 発端は、奥谷民雄さんの証言、「家の近くに斎藤寅次郎が住んでいた」である。その後彼から来たメールにはこうあった。

当家では大変お世話になった。特に小生が生まれるとき次姉(当時3歳)が斉藤さんの家(当時は塀などなく庭から行き来出来た)に知らせて、産婆さんを呼んでもらったとか。そのためか、小生の誕生日には毎年赤飯を炊き重箱に入れて、成城の家まで小生を連れて挨拶に行っていた。
虎次郎氏が亡くなった時、小生は香典を持って成城の家に弔問に行った。その時奥さんが元気で対応してくれた。

この奥さんというのは浪花友子という女優である。
縁が縁を産む、奥谷さんこの一連できごとが発端になって、今度斎藤昌康さんと出会うことになったと。機縁、奇縁続きの今年であった。
 
 どうか皆さん、よい年をお迎えください。
(写真は邪宗門、奥谷民雄さん、左は米澤邦頼さん)



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2022年12月30日

下北沢X物語(4619)―ネバーエンディング・赤い毛布と特攻隊 2―

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(一)文化探査は逸話の蒐集行である、十八年も経った今、成されるのは集めた逸話の総合化である。特攻隊が発端となって今度は疎開学童逸話に辿り着いた。戦後史の歴史の片鱗である。証拠の映像が残っていることが素晴らしい。それは斎藤寅次郎監督が撮った『東京五人男』である、驚くべきことは終戦を迎えた秋にできていることである。東京の焼け跡が生々しく映し出されている。特に驚いたのは疎開学童の到着風景である、しかもそれが梅丘駅でのことである。小田急電車が梅丘駅に着くとリュックを背負った学童が降りてくる、一方、駅には親たちがぎっしりと詰めかけている。改札を出るといとしい我が子との再会となる。が、これが引率教員によって遮られる。「整列!」の号令、例によって教員の長広舌が始まる。「あれは皮肉を込めた作り方をしていますね」と斎藤昌康さん。山崎小の疎開学童だ、山崎国民学校がモデルとなっていることは間違いない。

 疎開引き揚げは十一月の初めである。長谷川直樹さんからのメールである。

 11月12日朝、ぼくたち「吹上の湯」組みは梅ケ丘駅に帰京しました。
誰も迎えに来ていませんでした。
ほかの「高松寺」「保福寺」「弘長寺」では迎えがあったそうです。
が、映画のカメラがまわっていたとは誰も言っていません。
きっと映画用にエキストラを集めて撮ったシーンでしょうね。


 山崎国民学校は、浅間温泉から大糸線沿線の寺に再疎開した。十一月になっての帰郷は疎開学童の寮単位であった。例えば、こういう証言をしている学童がいる。

私は五年生の時に最初の集団疎開で「小柳の湯」に行きました。第四分隊第五班で、二階の十畳に十人で寝ました。なんでだか忘れましたがみんなでよく「海ゆかば」を歌いました。東京に帰り梅ヶ丘駅に着いた時、平先生の音頭で「勝利の日まで」を全員で歌い、出迎えの親たちが驚いていたのを覚えています。日本が負けてしまったのに、なんであんな軍歌を歌わされたのでしょうか。
 インタビュー「集団疎開の思い出」 沖香織 
 『ひかりとりどりに』 山崎小学校PTA会報 2005年12月20日発行


寮単位で梅丘駅に着き、引率の先生の裁量で「勝利の日まで」を歌わせたのだろう。やはり他にもこの曲を歌わせられたことに疑問を覚えている。この平先生には鋭い批評をしている者がいいる。「平先生は極めつけの軍国主義者でしたが、戦後あっさり平和主義者に転換しました。機を見るに敏な人だったのでしょう」(「集団疎開の思い出」沖 健嘉)

(二)
 疎開学童は梅丘に到着した、駅前では先生の裁量で解散集会を行った。
 「東京五人男」では、やはり駅前で整列させられる。ここではやはり引率教員が長広舌に及んだようだ、「日本は戦争に負けた、しかしな、心では負けていないのだ、皇国二千年の歴史は滅んではいないのだ……」みたいな演説をしたのだろう。

 しかし、映画ではここの場面は早回しである。音声がキャキュキョと流れて、教員がちょこまかと動く。斎藤寅次郎には思いがあったらしい。彼はつぶさに現地まで行って観察している。飲み虱に襲われて寝られなかったこと、出される食事が少なく、みな腹を空かせていた。やっと帰ってきた東京で、教師は身勝手な振る舞いをする。
「やはり、父はそういう先生を皮肉っているのですね」と斎藤昌康さん。

「あの疎開学童風景は実写なんでしょうか、親たちが迎えにきている場面などは臨場感があります。長谷川さんはエキストラを集めたのではと言っていますが」
「それは分からないです、父が生きていれば聞けたでしょうが」
 疎開学童の親を演じているのが古川ロッパだと思う。駅前で子どもを見つけるが教員に遮られる。そして演説だ、子は退屈しきっていて、隣同士とふざけあっている。親はその場でねむりこけ起きると「お父さん」と子が寄ってくる。

 その夜はドラム缶風呂に親子が入って再会を喜ぶ、それを歌でうたってきかせる。そのドラム缶風呂の向こうには焼け野原が広がっている。

(三)
 この映画記録としても大事である、彼のモットーは「やすい、はやい、おもしろい」だ、戦争が終わって素早くとって短期間で撮影を終えたようだ。昭和二十年十一月にできている。疎開の子を持つ親としての体験がこの映画に生かされている。
 このとき自分の子どもは山崎小に通っている、エキストラとして親を集めたり、子を集めたりするにしても山崎小には話しやすったのではないだろうか。
(梅丘駅頭での引率教員が長広舌をふるう場面)



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2022年12月29日

下北沢X物語(4618)―ネバーエンディング・赤い毛布と特攻隊―

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(一)今月八日発刊の「台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語」でけりを付けたと思ったら、新たなエピソードに遭遇した。そして今度はまた新手が!果てのない特攻物語だ、十二月二日、浅間温泉の古老から「疎開学童が温泉にやってきた戦闘機を皆で送るんだ、そのときに赤い毛布を振ってお別れをしていた」と聞いた、私は、即座に「それは山崎国民学校の学童だと思う」と応じた。そして十数日経った二十五日に邪宗門で雑談していたときに奥谷民雄さん、「家のそばに斎藤寅次郎監督が住んでいた」と言う。そのとたん、赤い毛布を振ったのはこの監督の息子さんではなかったかと直感した。なぜなら山崎小の長谷川直樹さんから赤い毛布逸話の当事者は映画監督の息子と聞いていたからだ。「監督の家は山崎小の学区域ですか?」と聞いたら「分からない」と奥谷さん、湧き起こった疑問、いてもたってもいられなくなった。その夜に、長谷川さんに監督というのは斎藤寅次郎さんではないかとメールで問うたところ、なんと図星だった!

 私自身、確証のある話ではなかった。が、特攻機に向かって赤い毛布を持ち出して振ったというのはとても印象深く覚えていた。
「昭和二十年三月、再疎開に行く前に特攻機が小柳の湯までお別れにきたでしょう。そのときに斎藤君は赤い毛布を持ち出してきて振ったんだっけ?」
 長谷川さんは斎藤さんに電話で尋ねてくれた。
「そうそうその通り!」

 この顛末を聞いて斎藤昌康さんに私は深い興味を持った。小さな戦時体験だ、が、話の裏に何かがあるように思った。
「長谷川さん、斎藤さんの電話番号をぜひ教えてください」
 彼は快く教えてくれた、それで斎藤正康さんに話を聞いた。

「あれはね、小学校四年のときでした。まだ幼かったので戦争の情勢だとか、そんな深いことは分かっていませんでした。だから兵隊さんが特攻隊員だったなどというのは分かりませんでした。ただ若いお兄さんぐらいの人とは慣れ親しんだことは確かです。あのとき山崎小学校の疎開学童はほとんどが小柳の湯にいました。私たちは小人数、十八名くらいの男子は椿の湯という旅館に泊まっていました。多分本館の方が混んでいたんでしょうか、兵隊さんたちがお風呂に入りに来ていました。それでお風呂で一緒になりました。あるとき兵隊さんから『君は天皇陛下のために死ねるか?』と聞かれたんです。死ねませんとは言えなかったように思うのです、それで『死ねます!』と元気よく答えたことを覚えています」
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2022年12月27日

下北沢X物語(4617)―2022"最後の文化談義 IN 邪宗門 2―

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◎我々の多くは文系だが、奥谷民雄さんは理系だ、発想や考えは緻密である、理系的な知識がある。我々が世田谷区地域風景資産にした「代田の丘の61号鉄塔」については、「ああ、あれは立ち上げ鉄塔だね」といともあっさり言ってのける。地中ケーブルを引き出して建った鉄塔のことを言う、引き上げ鉄塔だとも言う。つまり、架空送電線から地中送電線の地中へと配線するための鉄塔。この認識に至るまで五年もかかっているのに彼には常識であった。この話を聞いたときに、私は、萩原朔太郎はこの鉄塔の正体をここに家を建てるときから知っていたのではないかと想像したことだ。

〇只見線のこと
・「只見線は11月に行きました。そのときは混んでいて座れないほどでした」
 これは山本裕さんのことだ、やはり開通後は二月ほどは相当に込み合ったようだ。
・「ここの仲間の別宮通孝さんも只見線乗りに行ったそうですよ」
・「あれ、結構皆行っているんですね、私は只見線に乗って会津若松から仙台に行きました。その途中福島で降りて古関裕而記念館に行ってきたんですよ」

〇古関裕而のこと
「下北沢文士町文化地図」では古関裕而のことを紹介している。作曲家は代田区域では二度転居している。代田地域を離れなかった。当地への思い入れが深かったという。地図には旧居を記している。ここを特定するに当たって古関裕而の関係者に当たっている。その一人が記念館の学芸員である。報告がてら地図を持って訪問をした。ところが、その方はは辞めたのか代わったのかおられなかった。代わりに若い女性が対応してくれた。その彼女梅丘に住んでいたこともあったという。
・展示場では古関裕而のスケッチ画が数枚展示されていた。作曲と絵は深く結びついている。絵を曲にできる人だとさらに深く認識した。
・展示では世田谷代田の自宅の書斎がそのまま再現されている。座卓が三つ並べられ、その一つ一つに座布団が置かれている。作曲は同時進行で行い机を替えては行っていた。その作曲現場が生々しく残されている。
・「古関裕而さんの書斎というのは有名ですね、あれを見て思ったのですが、机を替えることでイメージを変えるのですね……」
 私は若い学芸員に話しかけていた。
「……古関裕而さんは絵を浮かべながらその絵を曲にされるんですね……」
「ええ、そうですね、自伝にも書いておられますよ」
 彼女は本を出してきた。

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想念がまとまり構成を決めてしまえば、音楽が湧き出してくる。ふるさとの山ばかりではない。私には私自身の日本全国の音楽地図がある。無数の山、また数え尽くせないほどの幾筋もの川、それに湖沼も。町や昔ながらの村もある。人もいる。祭りもある。それらを思い浮かべただけでも、私は音楽で満たされる。日本列島そのものが、音楽になって響いてくる。
『鐘よ鳴り響け』−古関裕而自伝 集英社文庫 2020年


 作曲するにはまず絵を思い浮かべる、それを脳裏にきっちりと思い浮かべる。構図がしっかり決まったら、その絵を思い浮かべながら五線譜に音符を書き上げる。彼に取って風景は必須だった。

〇小関祐而の作曲法について
 今年度末になって萩原朔太郎展2020が開かれている。彼の下北沢時代、世田谷代田時代をよく考える。年数にすると十一年間だ、詩人も作曲家も下北沢や代田を徘徊していた。川があり、丘がある、ここを行くことを詩人は漫歩だという。

 歩いたり、散策したりする、これによって構想したものが固まってくる。書斎でいきなり書くことはない。やはり作曲家にしても詩人にしても前準備が必要だ。それが近隣界隈の散歩である。歩くことで構想を揺らし、そしてこれを確かなものにする。

「小関祐而さんも世田谷代田では散歩する姿を見かけている人がいます。近くの根津山に行ったり、北沢川の縁を歩いたりしています。そのときに想を練っているのですね、そうすることで構想が固まってくる。家に着いたところで鉛筆を握り、浮かべていた曲を一気に書いたのではないかと思ったのですがどうでしょう?」
 古参の学芸員にこのことを問いたくて記念館に行ったのだが会えなかった。

〇古関裕而の自伝

「自伝の中で、三月十日の東京大空襲のときに根津山の防空壕に避難したことが書かれています。書き手には空襲といえば三月十日という固定観念があったと思います。しかし、当地一帯は五月二十五日の山の手空襲ですよね。……ほかもそうですがあまりにも巧く描いていると思います。想像するにゴーストライターがいてその人が作曲家本人から話を聞いて書いたように思うのです」と私。
「それは普通ではないですか」と奥谷民雄さん。
(上、福島駅前の小関祐而像 下、只見線只見駅)





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2022年12月26日

下北沢X物語(4616)―2022"最後の文化談義 IN 邪宗門 1―

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◎「どんなくだらないことでも記録しておくことが大事だ」昨日25日、今年最後の文化談義をしていたときに奥谷民雄さんが言った金言だ。本当のところ、人間の記憶ほど当てにならないものはない。町は急速に変貌を重ねている。そこで人は何をしてきたかは忘れ掛けている。町の代表者古関裕而、日々の足取りが語られた。駅前谷亀さんところでP缶を二個買い、佳仙で日本茶を買い、隣の香風であんころ餅を買う。それらが作曲の種になった。「香風の前の煎餅屋には行ったか?」はわからない。しかし、今はなくなった和菓子香風は地域一帯の文化と密接に結びついていた。中村汀女さんは句会での和菓子はここから取り寄せていた。「中原町のお屋敷のご主人が亡くなると需要がごそっとなくなる」とかつての主人から聞いたことがある。町の成り立ちと人の暮らし、大事な文化である。

・世田谷代田駅の聖地巡礼
「今日も、世田谷代田駅は聖地巡礼ですごい込んでいるよ、写真を撮るための順番待ちをていたよ」
 テレビドラマの「silent」の撮影で使われている世田谷代田駅、今や聖地巡礼の若者で込み合っている。
「ドラマでは『向こうに山が見える』ぐらいなことしか代田のことは言わないわないんだ。駅前にある『ダイダラボッチの足形』なんか若者なんか見向きもしないんだ」
 ドラマは小田急と結託してやっていて、世田谷代田駅では、劇中音楽を流すサービスまでやっているという。
「ダイダラボッチ音頭を流せばいいのに」
 朝ドラ「エール」も同じだった。古関裕而は上京して世田谷代田から離れることはなかった。
「世田谷代田の川とか沢が作曲家に大きな影響を与えていると思うけど、このことについて触れた論述は全く見かけないんだよね」

〇村田履物店の脇の庚申塔
「米澤さん、庚申塔に車がぶつかってお堂が壊されたってSNSで報告していたけど、あれはどうなったの?あれは天羽さんが推奨していたけど、あの人消息が分からないんだ。ある人によると入院しているらしいとか、亡くなったんじゃないかと言っているよ」
 第二回、世田谷区地域風景資産で「北沢地域に隠れている石造物群 〜茶沢通り(旧二子道)界隈〜」として認定された。
「あれは、弁償するというか、小屋を作り直すそうだけど、ああいうものを修復する業者がいないんで時間がかかると言っていました」
「あれは、確か、持ち主は地主の安野さんだと聞いていたね」
「履き物店の奥さんが花をやったり、水をかけたりして世話をしてきたんだけど、足を傷めてしまってできなくなったというんです」
「天羽さん、我らの会にくっついて活動やっていたよね……」
 検索で調べて見ると石像物群を推薦したのは、

団体名 北沢川文化遺産保存の会石造物部会

我らは町の文化・歴史を語っていた。ところが現今の町は急速な変貌を重ねている、どこに何があったか忘れ掛けている。世田谷代田には和菓子屋「香風」があって町の文化と密接に繋がっていた。中村汀子さん、句会のあるときはここの店から必ず茶菓子を取り寄せていた。餡の練り具合が命だと主人は言っていた。頃合いに寝られた餡を口にして、名句が生まれもした。一つの事象が文化を浮かび上がらせる。近隣では句会や歌会が開かれていた、和菓子は必須のものだった。店の名を思い出すことで当地一帯の文化が薄らと見えてくる。そうやはり記録は大事だ、松林宗恵監督も我らが座っていた「ひばりルーム」で「記録は大事だよ」と生前いつも言っていた。

〇やたらと流行っている外来語
みんなで文化談義をしているときに論者がみな英語を使って話す、英語を使って格好良く見せようとしている。日本人の悪弊ではないか?
・「インバウンド、アウトバウンド、よく使われるけどようやく意味が分かってきたわ」・「ここら辺一帯の土地需要が高いでしょう。相続税対策ということもあるらしい。跡地に一軒の家ができることはなく、こじゃれたマンションができる。そうするとみんなこじゃれた名前がつく、大概は英語だよね、フランス語もあるけど、時々『梅花荘』なんて出くわすと、懐かしくなる。
・「防衛論議でも突然、専門用語が出てくるんだね。『スタンドオフミサイル』なんてそうだよね、敵の対空ミサイルの射程外から攻撃できる射程の長いミサイルのことを言うらしいんだ。何か防衛論議なんて、おっさんたちが格好つけて議論しているんだよね。『敵基地攻撃能力』なんてさ、あほらしくて聞いていられない、妙な動きをする敵基地を全部把握して打てるものか、まったく机上の空論だよ……」
「そうそう、防衛費倍増なんていうけど国民にぜひを問うことは無かった。先にバイデンに約束しちゃうんだよね、アメリカの属国に完全になっているのが日本だね」

〇モスキート音なんて知らなかった
「コンビニとかモスキート音を出しているんですよ。あれで若者をおっぱらうんですよ」
「そんなの初めて知ったよ」
 検索で調べてみる。

この高周波音、若者にしか聞こえないというの特性を活かして、駅やコンビニエンスストアでは若者がたむろするのを防ぐという目的で使われていたんです。その他にも、ファミリーレストランで長時間滞在する若者や万引きへの対策などにもこのモスキート音が用いられてるのだとか。この不快な音、大人には聞こえず影響はないようで、若者であるがゆえに聴こえてしまうというなんとも不思議な特性があったんですね。

 文化談義、話は尽きることがない。(続く)写真は、文化談義のメンバー



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2022年12月24日

下北沢X物語(4615)―全線開通した只見線へ―

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(一)「朝五時にタクシーの配車はできません」/只見線にどうしても始発から乗りたいという願望があった。それで始発駅小出近辺のホテルを取ろうとしたが、いづこも満室だった。それで仕方なく隣の浦佐にホテルを取った、が、フロントマンに断られた。「歩いてどのくらいかかるの」、「まあ、二時間はかかるでしょう」と。仕方がない朝三時に起きて小出まで歩こうと思った。ところが部屋に戻ったところで電話が鳴り「配車できました」という。翌朝早く起き、五時にホテルを出るとタクシーは来ていた。「十月に開通したときは人が大勢来ていましたよ」と運転手、とすれば5時36分の始発は人で一杯になるかもしれない。急げタクシー。

 十二月初旬、大人の休日倶楽部パスを手に入れ鉄道旅に出た。最初の宿泊地は、浅間温泉である。寺尾紗穂さんのイベントに出席するためである。因縁が湧き出る浅間温泉である。今回も、全国展開で特攻隊ミュージカル『流れる雲よ』を運営しておられる劇団の関係者が面会に来られた。劇の中では安曇野出身の上原良司が登場してくるとのこと。
「ここの温泉富貴之湯に長谷川信少尉は滞在していました。上原良司とは熊谷陸軍飛行学校では同期で兵舎では一緒に暮らしていますね、そのときの記述が『きけわだつみのこえ』にそれぞれ載っています……」

 長谷川信少尉は特別見習士官として特攻機で当地に飛来してきた。四十日あまり過ごすが、このとき彼は故郷の会津若松に帰郷している。会津には墓があり、また、猪苗代湖畔には石碑が建っている。

私は、2010年10月に只見線に乗って彼の故郷会津に行って歩き回った。鉄道で行く場合は、東北線経由で行くのが常道だ、が、このとき只見線経由で行った。猪苗代湖畔にはひっそりと彼の碑が建っている。「きけわたつみのこえ」に手記が載っている彼を慕う人は多い。みなこっそりと長谷川信詣でをしている。

今回、浅間温泉でのイベントには長谷川信の上司である、山本薫中尉の親族、甥御さんの山本さんご夫妻とその長男が来られていた。
「会津西蓮寺のお墓、大きなお墓ですね、びっくりしました」
 山本記美代さん。墓参に行かれたようだ。
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2022年12月23日

下北沢X物語(4614)―歌姫詠美衣との数奇な出会い 3―

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<一>18年前の12月17日に世田谷代田で文化遺産保存の会は発足した、以来、文化探訪を続けてきた。それはとうとう台湾まで行き着いた。昨日、邱 垂宇さんからの手紙には「私のストーリーを日本語で初めて著した大著、深く感謝を申し上げます」と。新著「台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語」への感想だ。ちょうどこの12月、詠美衣の十周年を記念するライブが行われた。彼女との数奇な出会いだ、思ったことは自身18年間縁の穴を掘ってきたのではと。詠美衣との数奇な出会いもその一つだ、彼女は十六歳のときに父親の自殺に遭遇した。最愛の人を失い途方に暮れ自死しようともした。不登校から抜け出て授業に出た。たまたま私の授業で与謝野晶子の歌「冬の夜の星君なりき一つをば云ふにはあらずことごとく皆」に出会った、最愛の夫を亡くした時の詠だ、死んだら星になるという晶子の歌に救われたという。その歌を私は教師役となってライブで朗読した。

詠美衣*10周年記念LIVE で配られたパンフにはこうある。

(えみい)プロフィール
平成元年4月17日生まれ。東京都狛江市出身のシンガーソングライター
16歳のときに父親を自殺で亡くしたことをきっかけに、歌うことが好きから�犹請猫瓩里茲Δ砲�けがえのないものに変わる。
誰にも打ち明けられない、言葉にならない悩みを、唯一解き放ってくれた「音楽の力」を身をもって体感し、生きる希望と勇気の光を灯す�猖牟棒鵜瓩里茲Δ焚里ぜ蠅砲覆襪海箸鮖屬后�


 高校生の十六歳、多感なときである、彼女は苦難を乗り越えた。が、思い出したのは一人の男子生徒のことだ。彼もどう生きるかで真剣に悩んでいた。真面目で優秀な子でとても気に掛けていた。が、我らの心配をよそに彼は自殺してしまった。その悲報を聞いて自宅に行った。自室のゴミ箱に岩波文庫の哲学書が捨てられていた。
「どう生きるかで苦しみ悩んだのだ」
 そう思った。通夜で僧が「必ずや天国に召される」と言っていたことが印象に残っている。が、彼の死を深く悼んでいるときだったので強い違和感を持った。

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2022年12月21日

下北沢X物語(4613)―歌姫詠美衣との数奇な出会い 2―

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<一>下北沢の文化を調べているときに突然課題が降ってきた。夢中なってこれを調べ『鉛筆部隊と特攻隊』を上梓した。2012年7月、ちょうど十年前だ、詠美衣もこの年6月にデビューしたという。振り返るとこの十年、憑き物がついたように調査を行ってきた。ちょうどこの暮れに五冊目が刊行された。このときに取材中知り合った寺尾紗穂さんのイベントがあるというので浅間温泉に出かけた。ここで門脇菜生さんと出会った。彼女から詠美衣のことを知った、教え子だった。「こんど、詠美衣が10周年記念LIVEをやるの、ぜひ来て、だってね、先生の授業のときに知った与謝野晶子の星の歌を知って、救われたというの!」、歌手と私は、それぞれに別々のテーマを持って生きてきた。が、偶然特攻がキーワードになってシンガーソングライターの詠美衣を知った。18日、私は彼女の舞台で晶子の歌を朗読した。コンサートが跳ねた後、感動しました、泣きましたと見知らぬ観客から声を掛けられた。

<二>
 門脇菜生さんは浅間でのできごとを綴っている。先に引用したが続きだ。

すぐに彼ら(特攻隊員)が泊まっていた目之湯旅館の温泉に
入りに行き、ご主人に話を聴かせていただきました。
すると12/2にこちらの本の著者のきむらけんさんが目之湯旅館に泊まりに来る、しかも昼間にわたしたちが滞在している場所であるイベントに参加しに来るとのことでした!😌
それは行くしかないと直感で感じて、
どんなイベントがあるのかも知らずに
浅間に向かっていました。
たまたま前夜に久しぶりに友人である
詠美衣からメッセージをいただいて
ボイスメッセージで返しており
すると深夜に詠美衣からなぞの
ビデオ通話があり、
それは無意識でかけてたそうで
ビデオ通話しようって潜在意識の声じゃない?
近々、ビデオ通話しようね。
でも私は今、特攻隊シンクロに集中してて
浅間に向かってるから、落ち着いたらね。
内容は投稿したから読んでねと
浅間に向かうバスの中からメッセージしたら、
詠美衣から涙のボイスメッセージがきた。
まさかのわたしが会いに行こうとしていた
きむらけんさんは詠美衣の恩師だったのだ!!
高校時代に父親が亡くなり、
ショックのあまりしばらく不登校になり、
久しぶりに登校した日の最初の授業が木村先生で、その日に読んでくれた与謝野晶子さんの詩に救われて、今まで生きてきたことを、涙ながらに伝えてくれていました。
木村先生に会ったら、
菜生ちゃんお礼を伝えていてほしいと
伝言も預かりました。
そんなことある?という驚きの事情がわかり
興奮気味で会場に着きました。
イベント前に木村先生には声かけさせていただいて、イベント後に目之湯旅館の応接間に移動してお話しさせていただきました。


(三)
 目之湯の主人中野さんからは私に会いたい人がいると聞いていた。それが角脇さんだった。その彼女と目之湯の応接室で話をした、そのいきさつは彼女が書いた通りだ。

「先生、詠美衣に会おうよ」
 門脇さんスマホで東京の詠美衣につなぐ。彼女が映る。森田詠美さんだ、当人に会うと記憶が戻ってきた。
『そうだ、お父さんが自殺してしまったんだ!』
 父親との関係は分からない。しかし、きっとお父さんが大好きだったのだろう。それゆえに突然の自殺は、彼女を絶望させた。(舞台で熱唱する詠美衣)



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2022年12月20日

下北沢X物語(4612)―歌姫詠美衣との数奇な出会い 1―

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<一>運命の糸が幾重にもからまっていて、何をどう説明していいか分からない。亡くなった鉛筆部隊の田中幸子さん、浅間温泉に来るといつも何かが起こる、「不思議ね」を連発していた。が、今度の顛末は不思議を超えている。何と表現しようかと思ったときに浮かんだのは、「数奇」である、今度の出来事をつぶさに目撃した若い人は、シンクロや奇跡だと言っている。まず、ドラマが始まったのは浅間温泉だ。こここそ因縁、奇縁の湧出源である。記録を調べてみたら2010年1月22日にここを訪れていた。駅には田中幸子さんが待っていてくれた。「バスは一時間に一本なの」と彼女、繁華な温泉歓楽街を想定していたがそれは幻影だった、自身が描いていたのは夢・幻だった。実際に温泉に着いて町を巡っていくと、町の角角に疎開学童や特攻隊員の面影が潜んでいた。過去を巡る私の旅はこの辺りから始まっている。そして2022年12月18日、青山の劇場「月見ル君思フ」に行った、リハーサル最中に入れてもらった。そのステージでは青いギターを持った詠美衣がマイクを握りしめ歌っていた。

 星が物語のキーワードになるとは思ってもみなかった。南十字星と北極星だ。この物語十二月二日に始まって十八日に終わる。振り返ってみるとすべて歌因縁だった。

 歌手の寺尾紗穂さんが浅間温泉で十二月二日にイベントを行った。特攻隊員たちが最後の壮行会で「浅間温泉望郷の歌」を歌った。自身の取材過程で偶然に拾った歌だ、「歌うと出ますよ」と私は冗談まじりに寺尾さんに言っていた。亡霊は現れない、が、彼女の歌声に彼らが唱和している声が聞こえたように思った。

 1944年3月末、14人の特攻隊員は富貴之湯の大広間のステージに立って、学童たちにお別れの歌をうたった、「浅間温泉望郷の歌」である。寺尾さんは、情感たっぷりに三番最後を歌った、「帰りゃ真っ先浅間を目がけ/わたしゃ行きます富貴之湯へ」と。歌は死んでしまった彼らを呼び戻したに違いない。歌い終わった後にも歌声が私の耳にいつまでも響いていた。その彼らの中に五来末義軍曹がいた、特別慕わしく思っていた、子細は省くが彼がいなかったら物語の全貌は分からなかった。

 その五来軍曹は、富貴之湯にやってきた慰問の女子学生の求めに応じてサインをした。

君が為南十字星の下遠く
花と散るらん
大和ますらお


 この軍曹は五月十七日、台湾陸軍八塊飛行場から飛び発ち南十字星の下に散った。


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2022年12月18日

下北沢X物語(4611)―風の便りに聞いた代田橋の噂―

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(一)「インカレ女子 六連覇」という張り紙を横目に歩いていると、突然目の前におばさんが現れた。「タクシー乗り場はどこだね?」と。「えっ!」、思わず空を見た、この人空から降ってきたのか?「おばさん、なんで来たの?」「救急車!」「ああ、そうか!」すべてを了解したそこは東京医療センターの救急病棟のそばである。「お父さん、熱を出しちゃってさ、高熱だよ。ハアハア言っているものだから測ったら39度、苦しそうだったので救急車を呼んだのよ」「どっから?」、「ほらあそこ有名だろう、大原交差点のすぐそば」「ああ、あそこから、ダイダバシだね」「そうそうダイタバシだよ。あんたよく知っているね」と。ダイタバシはなつかしい。調査でよく行っていた、駒沢線がここを抜けている。「鉄塔は撮っちゃいけないんだよ!」ととがめられたことがある、土地の爺さんだ。「そんな馬鹿な、これは風景だと、風景を撮るなという法律があるのか!」

「結局ね、検査してみたらコロナの陽性なの。脳梗塞をしているから基礎疾患があるのそれで感染しちゃったでしょう。肺炎にもなっているというの、重症だとお医者さんは言っていたのね。それで付き添うわけにも行かないから家に帰ろうとしたの」
「それでタクシーで帰ろうと思ったのよ」
「タクシー乗り場は左手の建物の玄関のところ、ちょうどお昼どき、東京医療センターのにロータリーはタクシーが多く客待ちをしていますよ」

「ATMはないかね?タクシー代ぐらいはあるけど、着いたら買い物しなきゃいけないからね」
「タクシー乗り場は病院の玄関だよ、普通大病院はATMはあるはずだ。すぐそこだから一緒についていくよ」
「ありがとう」
 このおばさん、コロナ陽性のお父さんと一緒にいた。濃厚接触者ではないのか。

(二)
「この頃の代田橋はどうですか?」
「いや、すっかり寂れちゃったね」
「駅近辺?」
「そうそう昔は賑やかだったのにね、ほら、隣の笹塚とかがどんどん賑やかになっていくでしょう。下北沢もそうだよ、こぎれいになってね、みんな若い人はそっちへいっちゃうわよ。ちょとしたもの買おうと思ってもね、お店がないのよ」

ネットで町のうわさを拾う。

駅周辺は、お店もあまりなく物価も高い。京王ストアがあるが値段が高くて買えるものがありません。道路も狭い道が多いです。

北口商店街はかつては賑やかだった。が、今はさびれてしまったようだ。
「代田橋にロバのパンがあったでしょう」
「ああ、むかしね、鈴を鳴らしてロバがパカパカ歩いていたね」

「あれ、お父さんはいくつ」
「85歳!」
「じゃあ、おばさんは75歳?」
「あんた言うじゃない、82歳、しかしね、おどろきだね、いつの間にか年取っていたわね、テレビでさ、あれあんな歳を取っちゃってと思う人がいるんだけど、きっと自分もそうだわね、時は止められない」
「ということは旦那さんと色恋物語があったんだね」
「そんなの、昔のことよ」

(三)
 代田橋には、代沢小に勤めていた坂口安吾が住んでいた。

 私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。私は時に遅刻したが、無理もねえよ、若いんだからな、ゆうべはどこへ泊ってきたかね、などとニヤニヤしながら言うのがいる。みんな家へ帰ると百姓の手伝いをする子供だから、片仮名も書けないけれども、ませていた。

大正十四年当時のことが『風と二十と私と』に書かれている。安吾はこの主任のことを批評している。「主任は六十ぐらいだが、精力絶倫で」と描く。授業は人に押しつけて近隣の有力者のところにお茶を飲みに行っていた。

 何をしに行っていたかというとここの学区の大原小を新設するために奔走していた。それは開校した大原小の教員として名を連ねていたことから分かった。

「おばさん、代田橋はダイダラボッチが架けたというんだけど知っている」
「聞いたことはないね、ダイダラボッチというのは土建屋さん?」
(駒沢公園から見た東京医療センター)


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2022年12月17日

下北沢X物語(4610)―戦争経験者の遺言:どうあっても戦争はするな―

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(一)今朝の朝刊を見て嫌な気持ちになった。即座に思い出したのは「昭恵夫人は公人ではなく私人」だと閣議決定したことだ。その何ともうさんくさい閣議決定によって安保三文書が認められたという。この一つが敵基地攻撃能力の保有だ。これまでの専守防衛からの大転換だ、戦争ができるということだ。戦争経験者の誰もが「何があっても、どうあっても決して戦争はするな」と言った。「戦争になると戦争に染まってどうにもならなくなる。戦争がすべて善になるんだ、問題が起こっても絶対に口に出していえない。悪くなればなるほど讃えなければならなくなる。生活は苦しくなる、食い物はなくなる、焼夷弾が落とされて家は焼ける、人は死ぬ、が、どうなっても文句は言えない。それとな、戦争になると敵を憎まなければならない。ルーズベルトやチャーチルを描いた絵に画鋲を当てる。そんなことまで強制される。軍隊は恐ろしいところだった、規律を保つためには一人を血祭りにする、オスタップでの懲罰はひどかったな。理非もない、戦争になると全部がメチャクチャになるんだ。一切の歯止めが効かなくなるんだ……」

国防を担う自衛隊は、英訳ではJapan Ground Self-Defense Forceだった。自国を防御する隊である。平和憲法の縛りがあったからだ。

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
�◆〜姐爐量榲�を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 我々は第二次世界大戦を経験してきた。悲惨な闘いだった、大空襲では何万人もの人が焼け死んだ、広島長崎の原爆では十数万の人が空から投下された爆弾で死んだ。あの戦争は無謀だった。

学徒動員兵された人々からも話は聞けた。精神力では日本は最強だ、負けることはないと言われていたと言う。冷静な分析を怠って、勢いで戦争に突入し負けた。

(二)
 今朝の新聞の見だしだ。
 
戦後日本の安保、転換 敵基地攻撃能力保有、防衛費1.5倍 3文書決定

安保政策の大転換である。これらが閣議決定された。新聞一面の論説はこう述べる。

 戦後日本の防衛政策が大転換された。にもかかわらず、熟慮も国民への説明も後回し。新戦略の内容だけでなく、進め方も将来に禍根を残しかねない。

 今後の日本の未来を決定するものなのにほとんど恣意的に決定されていることだ。国家は国民あってのものである。その国民を初手から無視している。大きな変更ゆえに国民への説得は必要不可欠だ、それをしない、国会でも議論がなされなかった。想起されるのは隣国ロシアである。まるで独裁政権のようである。

(三)
 一衣帯水ということがよく言われる。日本の地政学的特徴だ、隣国とは海を挟んで接している。つまりは島国である。それゆえに独善に陥り易い。社会のガラパゴス化はその好例である。今回の戦後日本の安保政策の大転換も島国的独善が作用していないと限らない。

 新聞論説は言う。

 国家戦略では軍事だけでは描けない。新戦略は軍事偏重で、外交や経済が果たす役割とその戦略に関する記述は少なく、熟慮が見られない。

 間違いなく軍事偏重である、国家予算は底を尽きかけている、なのに軍事費を増やすという。新戦略では「国民決意」が必要だという。が、決意するに足りる説明が全くない。軍事費を増やし、福祉予算はカットするという大方向だけを決めこれを国民に押しつけようとしている。
 
 ミサイル一発で子どもへの予算がどれだけまかなえるか?そういう配慮など全くないだろう。国民生活全体を考えて軍備費の在り方など考えた気配はない。熟慮はない、もっと不足しているのは外交だ、これをしないで初手から軍備だ、中国との軋轢があるならば粘り強くしたたかに話し合うべきだ。島国の役人は外交が下手くそだ。中国や北朝鮮と外交でやり合う度胸のある人材が求められる。

もう一度言おう、「戦争はどうあってもするな!」と。


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2022年12月15日

下北沢X物語(4609)―「五島慶太翁碑」を通して戦争を考える―

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(一)ジーゼルは青い煙を吐いて野山を蹴って走る。古い土蔵の脇には赤い柿の実がたわわに実っている。杉木立の間に「先祖代々の墓」と刻まれた墓石、老婆が一心にクワで畑をおこしている……車窓を眺めながら日本の山河は美しいと思った。が、ジーゼルは廃屋の集落をもかすめていく、老齢化による地方の衰退も生々しく車窓に映していく。若い頃も汽車に乗って窓を眺めていた、レールの先にある未来を思っていた、が、今日本には夢がない。かつて松本で古参弁護士に会った、「この国家には人権はない」と。今それを痛感する。防衛費倍増、原発推進……国民にも言う権利がある、それらを一切封殺して強引な国家運営を行っている。防衛費GNP2%の増額は米国の殿様との約束で出発している。若者の、子どもの夢を蝕むのが今の国家だ、儲かるところには金を注ぐ、不採算路線に未来はない。カタコトと涙を流して窮状を語るローカル列車には痛く同情した。

 先だって近くの寺の九品仏浄真寺で加藤楸邨の墓をようやく見つけた。この時に知ったのはここに東急電鉄の創業家一族の墓所があることだ。五島慶太もここに眠っている。
時間があったので飯山駅周辺を散策した。このときに駅前広場の一角に「五島慶太翁碑」が建っていた。こんなところにと意外に思った。

 飯山線を開通させるに当たっては認可がなかなか下りない中、このときに鉄道院監督課長五島慶太が尽力を図ったことで敷設に至ったという。そしてこう碑は記す。

 飯山鉄道は、大正十年十月二十日豊野・飯山間が開業され、その後逐次延長されて、昭和四年九月一日十日町まで全通した。しかし当初から経営が困難で、昭和七年以降何回か政府に買収を請願したが、入れられなかった。
 たまたま太平洋戦争が激化し、激増する軍需輸送に対処するために、戦時陸運非常体制の強化策がとられ、その一環として信越線・上越線・短絡する鉄道として、昭和十九年六月一日国鉄に買収されて、現在に至ったのである。


 非常に興味深く思った点がある、飯山線は、「信越線・上越線・短絡する鉄道」だったことである。その背景には、「戦時陸運非常体制」があった。

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2022年12月14日

下北沢X物語(4608)―篠ノ井線、飯山線、只見線、常磐線―

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(一)この暮れ久方ぶりの汽車旅をした。存分にローカル線に乗り、たっぷりと車窓を眺めた、床下から聞こえてくる鉄道音楽、カダンスに聞き惚れたことだ、が、異様に感じた音声があった、片田舎を走る一輌編成でも英語の車内放送が絶えず流れる、日焼けしたおいさん、ほうかむりした婆さんにはいかにも縁遠い。鉄道旅を阻害する騒音だ。さらにショックを感じたのは時刻表を持って旅している人は皆無だったことだ、皆スマホを見ている。覗き見すると地形まで見ている。が、それはそれ、やはりローカル線は素晴らしい。風景がたっぷりと楽しめた。途中やむを得ず新幹線に乗った。こちらの車窓はつまらない。人間には消化できる速度というものがある、新幹線の車窓の縞模様には何の情緒も感じない、リニアには覆いが掛けられるという。鉄道は車窓こそ命、無窓リニアには決して乗るまいと思った。

 使った切符は、自身がいう、じじばば切符、「大人の休日倶楽部パス」、JR東日本乗り放題切符である。ところが選んだコースはほとんどが在来線である、仙台から帰るときに乗ったのは、品川行きの「ひたち」であった、途中、福一に近い辺りでは、朽ちかけた無惨な家並みを見た。このところ原発再稼働推進、さらには新炉の建設すら叫ばれている。民意を全く無視した政権には憤りを覚える。

 行きは特急「あづさ」だった。今は自由席はない、自由席は廃止されて「座席未指定券」なるものとなった。未だにこのシステムがよく呑み込めない。

 かつての旅が懐かしい。自由席で行くと鉛筆部隊の田中幸子さんが八王子から乗ってきた。そして甲府からは矢花克己さんが乗ってくる、彼はいつも冷やしたブドウを持ってきて車内で振る舞ってくれた。しかし、田中幸子さんも亡くなった。矢花克己さんもお母さんの介護で忙しい。久しぶりに鉛筆部隊の同窓会をと思ったが、これは叶わなかった。
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2022年12月12日

下北沢X物語(4607)―辣腕女編集長との出会い:宮田毬栄 2―

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(一)宮田毬栄女史は編集者だ、作家の書いた物を読み手に伝わるように作品全体を整理したり、構成したりする、これは公の務めとしての仕事である。が、彼女と出会って知ったことは、作家人格の編集者にとして立ち会わされることだ。高名な作家は経験を重ねて名を高める。そのブランドを保持するために優秀な編集者が送り込まれる。ここで作家と編集者という人間関係が生まれる。が、大家はやがては死ぬ。編集者は必然的に作家の葬儀を手伝い見送ることになる、A氏の葬儀があり、B女史のそれもある。人ゆえに思いも違う、愛しく思ったり、少し冷徹に感じたり、作家、作家に関わった編集者はそのプライベートな思いを心のうちに秘めている。公にされざる作家生涯の編集である。宮田毬栄女史との話を通して感じたことだ。

 いきなり宮田毬栄女史の話から始まったことから「なぜ邪宗門に宮田女史が」と思われた方もいるようだ。経緯はこうである。

 下北沢LadyJaneのオーナーの大木雄高さんとは知り合いである。詩人大木惇夫の甥御に当たる、詩人の次女が宮田毬栄女史だ、先だって大木さんから連絡があったとき宮田さんの話が出た。私が会って話を聞きたいと言ったことから彼女との面会が叶った。

 三人で話しているときに
「萩原葉子さんは下北沢に井の頭線ができることから転居することになった、そのときに『父が小田急線沿線では一番好きな成城学園』と書いていますが、彼女の思い入れにしかすぎないと思うのです、朔太郎は成城学園では似合わない、道が広くて見事に区画整理した町では隠れるところがない、成城学園では『猫町』は生まれなかった。やはり『猫町』は下北沢や代田でないといけない」
 これは大木さんも宮田さんも賛成だった。
「小田急の立体交差というのは鉄道だけじゃない、道路が絡んでくるんだ、そこのところが未だに曖昧で、気持ち悪い」
 こぎれいになって下北沢線路街には大木さんも好印象を持っていない。やはり心の底には鉄道の十字クロスから進展発達した路地的な町の印象が強いようだ。
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2022年12月11日

下北沢X物語(4606)―辣腕女編集長との出会い:宮田毬栄―

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(一)文学が衰えてきている、が、人の精神をほぐす文学は必要なものだ。新たな書き手が育ってほしい、女編集長として辣腕を揮ってきた大木毬栄女史は言う、書き手に求められるのは「情熱」、「勇気」、そして「塾考」であると。「編集者は書かないのです」というが「忘れられた詩人の伝記」(読売文学賞受賞作)、「追憶の作家たち」(文春新書)を書いている。話していて気づくのは逸話の紹介が巧い、本当の編集者だと思った。書き手というものは自分の思いから解放されない、つい同じことを書いてしまう。それが品質を落とす、それで書き手に断って大幅に削除もしたという。彼女は女性として日本で初めて文芸誌編集長に就任し、男性作家と格闘してきた。御年86歳、意気軒昂、彼女は詩人大木惇夫の次女である、詩的感性は親譲りだろう、話は巧みだ、聴き手の私は彼女から活力をもらった。(邪宗門にて)

 彼女の著作に『追憶の作家たち』がある。ご自身が編集者として関わった作家が七名挙げられている。松本清張・西条八十・埴谷雄高、島尾敏雄、石川淳、大岡昇平、日野啓三である。「下北沢文士町」に関わる作家は三名いる。一時住んでいたのは大岡昇平、石川淳だ。日野啓三は当地が終焉の地である。

 作家を列挙してみて気づいたのは皆、東京西郊に住まう者たちばかりである。
「大岡昇平さんはそこの森厳寺裏手に若い頃住んでいましたね。坂を登ると横光利一邸でよく訪れていたと。大岡さんは、第一回目の横光利一賞を『俘虜記』で受賞されていますね、居宅へ仏前報告に行くときに門から玄関に続く敷石を渡っていきます。この石、横光利一の小説『微笑』に出てきます。石は鉄平石でここを渡ってくる訪問者の用件が足音を聞いて分かる、大岡昇平は石畳を渡っていくときにそのことを思い出したと書いていましたね。その石、私は横光家から戴いたんです。文学碑に添えようと思ったのです。ところが、一枚では足音は聞こえない。それで懇願してもう一枚石を分けてもらって文学碑に据え付けました……」
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2022年12月09日

下北沢X物語(4605)―発刊:台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語 2―

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(一)執念深く特攻を追っている、十年の間に五冊を上梓していた、縁が縁を生んで新しい情報がもたらされる。ずっとこれを夢中になって追っていた。奇縁がかくも続くのか?人は特攻隊員の霊魂が取り憑いたからだと言う。が、考えるとネットが大きく作用しているように思う。従来のメディアでは市民が関わることは少ない。ところがネットは違う。人々が容易に関われるからだ、その特徴は敷居が低いことだ。ふと思いついた言葉でも気軽に検索ができる。この簡便さが眠っていた戦争逸話を発掘させた。時はどんどん過ぎていく、もう戦争から76年も経つ、戦争経験は風化しつつある。特攻も同じである、が、この言葉は人の心に熱く響くものがある。国家のよこしまな思いは別にしても純粋に戦った兵員の存在は忘れられないのだろう。

 先だって、世田谷平和資料館に行った。ずっと館に埋もれていたものが日の目を見ていた。こちらの働き掛けが功を奏したからだ。疎開史の一端を明瞭に明かすものだが収蔵庫に埋まっていた。館で世田谷区長と対談したときに展示をお願いした、これが功を奏し、陳列ケースに解説入りで展示してある。

 それは誠第三十二隊・武剋隊の一人今西修軍曹が所持していたものである。黄色い布である、これに軍曹は出撃するに当たっての思いを記している。代沢小学校の疎開学童の立川裕子さんに宛てたものだ。四連の詩が達筆で綴られている。その冒頭だ。

男兒一期の快。
生還もとより期せず、
唯壮絶悠大
未だ嘗てかくの如きはなかりき。


 立川裕子さんの言によると皇帝溥儀に戴いた恩賜の煙草を包んだ布だという。仲間の特攻隊員も多くがこの布きれを大事にして背嚢にしまって日本に持ってきていた。満州国皇帝に接見し激励の御言葉を戴いたことが彼らにとって大きな誇りだった。

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2022年12月08日

下北沢X物語(4604)―発刊:台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語―

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(一)今日八日は開戦記念日だ、この日からさかのぼること六日、十二月二日、開戦指示の暗号電報、「ニイタカヤマノボレ」が打たれた。この時大日本帝国の最高峰は台湾の新高山3952mだ、符牒は意気込みをも表す。高山を制覇して世界の頂点に君臨する、軍部の希求だ、が、その目論見は瓦解した。科学と情念との闘いは完敗に終わった。最後、日本が選んだのは特攻である。敵に一矢報いて敗戦を有利に導こう、一撃講和が狙いだった。しかし当事者は皆必勝を期して特攻出撃した。が、この特攻、普通は本土からの出撃だと思われている。しかし台湾各所にある陸軍飛行場から特攻機は出撃した。辺土なるゆえの困難があった、部品もない、燃料もない、機材もない。そんな悪条件の中で第八航空師団傘下の特別攻撃隊は老朽機を駆って勇敢に出撃した、台湾に渡った彼らは本土とは異なる気概があった。困難な特攻行ゆえである。仲間同士深い紐帯感で結ばれていた。「笑って征きます」という特攻用語があるが、彼らはこれを地で行っていた。/今作は台湾の古老、重鎮 邱 垂宇さんと出会ったことで実を結び、今日の発刊に至った、浅間温泉に最後まで粘ったのが武揚隊だ、彼らは八塊飛行場に辿り着き陸軍最後の特攻として出撃した。

 この十二月二日、浅間温泉で寺尾紗穂さんの公演があった。この中で「浅間温泉望郷の歌」の解説があった。世田谷の疎開学童が記憶していたものが復元された。歌は感慨深いものがある、松本飛来の特攻についてノンフィクションをまとめたのは2012年である、この中にこの歌詞は記していた。
 歌は、特攻隊民謡である、その地に滞在した隊員が、別れ難く思いながらも出撃していく、その思いを即興的に披露したものだ。歌はそのとき限りである。一回しか歌われない、それが一疎開学童によって偶然に記憶されていて蘇った。

 2012年8月15日に松本博物館で講演をしたときにぜひ地元の一つの文化として残してほしいと言った。これが十年経って蘇って、歌われた。
「音と音との間から彼らの声が聞こえてくるようでした」
 私は、寺尾さんにそう伝えた。

 この歌の歌詞の中に、「わたしゃ行きます〇〇へ」とある。目的地はぼかされているが沖縄である。歌をうたったの誠第三十一飛行隊だ。誠は、台湾・第八航空師団の通称号である、すなわち第八航空師団傘下にあることを示している。

 1945年3月、第八航空師団は九州新田原に参謀を派遣して本土にいる誠隊を新田原に集めた。そして九州から沖縄に直行突撃させていた。が、誠第三十一飛行隊は新田原への集結が遅れた。それで台湾行きを指示された。苦難の特攻行が始まる。この経緯については『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』で触れている。
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2022年12月06日

下北沢X物語(4603)―旅と特攻と人生 2―

316653634_2773707856097062_7577167198417697122_n(一)時刻表を携えて旅に出た、が、旅の必携品を持って旅をしている人はいなかった。しばらく旅に出なかったが、旅の方法が激変していた。スマホ持参が普通だ、位置も時刻もボタン一つで画面に表示できる。浦佐と仙台ではビジネスホテルに泊まった、前者は田舎だからすぐ場所は分かる、後者都会では分からない。コンビニに入って店員に聞いた、外国人労働者で日本語は分かるがホテルの位置は分からない、思いあまって駐車場の老齢の人に聞いたら一発で分かった。人に聞いて場所を突き止める、これは浦島太郎がやる方法だった。旅の方法でもう一つ知ったのは、キャリングケースを携帯しての旅が普通だった。今回知ったのは自分が時の流れから取り残されていたことだ。ともあれ松本に着いた、2010年1月に田中幸子さんと駅で待ち合わせて会った。「浅間行きは一時間一本しかない」と彼女から聞かされて驚いたものだった。私のイメージの中には最盛期の旅館街があった。しかし、時は過ぎゆく、浅間温泉も衰亡した、田中幸子さんも亡くなってしまった。

イベントの会場は、浅間温泉田辺薬品二階とあった。製薬会社の寮なのかと思ったら、そうではなかった。薬局の裏手の階段を上がったところが会場だった、そこがかつてのいわゆる検番だった。芸者衆が芸を磨いた練習場だった。

温泉での芸者遊びが盛んだった頃、浅間温泉にも二十軒近い置屋があり、百人余の芸者さんたちがいたという。これを知ってふと思い出したことがある。

 特別攻撃隊が1945年2月から、沖縄戦を控えて機体改造のために陸続と戦闘機がやってきた。乗員の宿泊は浅間温泉だった。
「土地の人が慰問にいくわけですよ。ところが皆、若い、少年兵ですよね。色恋いも知らないで特攻に行って死ぬ、気の毒でならなかったのです。それで差し入れを持っていったのです。お大尽などは芸妓を驕ってやったと、しかし若い少年は、誘われても蒲団に入らずに正座したまま夜を明かしたと聞きました。驕られて初体験をした子もいましたが、拒んだ子もいたんですね」
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2022年12月05日

下北沢X物語(4602)―旅と特攻と人生―

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(一)このところずっと気を傾注していた仕事があった、これが八日の開戦記念日に公刊される。ちょうどいい機会だと旅に出た。ところがまたしてもあらたな因縁、これが嵐のように降り注いできた。奇縁というのか奇跡とでもいうのか?人生の不思議な物語を仄聞しては目眩がしてしまった。思ったことは。「人間はそれぞれが夢を編んで、その物語に生きているのではないか?」と思った。旅の発端は寺尾紗穂さんの浅間でのイベントに参加するためである。彼女は浅間温泉の文化を仲間とともに発掘している、今回はピアノによる弾きがたりとでもいうのだろうか、ピアノ、朗読、映像を交えてのデモンストレーションには彼女らしい感性が表現されていて深い感銘を受けた。

 このイベントにも経緯がある。今年の初めに、「特攻のことを書いているきむらさんですか?」と始まるメッセージが寺尾さんからあった。浅間の文化探訪をしているうちに『鉛筆部隊と特攻隊』に辿りついたようだ。中でも特攻隊が最後に出撃していくときに歌をうたった、これを今なお覚えている秋元佳子さんに深く興味を持たれたようだ。秋元佳子さんとの面会は二度に及ぶ、二度目は映像作家の三好大輔さんも来られて、生でうたう秋元さんの映像も撮った。

 名前のない歌である、名前をつけないと残らないということで『浅間温泉望郷の歌』と名づけた。
 じつはイベントの内容を聞いてきたのは秋元さんである。せっかくの機会だがお母さん行ったらどうと勧めてくれた彼女はいう。
 コンサートには二人が加わる、よし私も加わろうと思った。魂胆が浮かんだこともある。二三年まで鉛筆部隊同総会を開いていた。これを機会にみんなを呼んでみようと思った。ところがイベントの日程が決まって秋元さんところに電話をしたら「寒いから行かない」と。これで目論見が崩れてしまった。
四国からは鉛筆部隊の仲間の山本さんご夫妻もこられる。とこが、奥さんが足を悪くされてイベントにくるが同窓会には出られないと。
 
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2022年12月02日

下北沢X物語(4601)―学童百人に戦争を語る―

戦争と平和展:松本博物館
◎子どもたち百人に戦争を語った。その彼ら六年生も今の悲惨なウクライナでの戦争は知っているはずだ。しかし、どれだけ絶望的であっても人は言葉に頼るしかないことを本能的に感じ取っていると思った。話が終わった後、彼らからは熱い反応があった。挙手した代表者は「先生の言われたとおりこれからは言葉を大事にしていきたい」と、これは希望である、大人はカッコウを付けたがる、ペンよりも刀だ、武器を出せば相手も武器を出す、世界は広い戦費を教育に充てている国もある、なのに軍事費を二倍にしようと大人は言っている。一人の男子が戦争で死んだ人をどう考えればいいかと。「今日は特攻隊の人たちの話をしました、この人たちは記録されるのです、でも、戦争で死んでいった人々の大半は誰にも覚えられることなく無惨な死に方をしているのです。戦争が始まるともうメチャクチャになるのです、やっぱり戦争はやってはいけないのです……」

・「鉛筆部隊は今はどうなってしまったのですか?」と問いかけてきた子もいた。純真で鋭い質問だ。が、難しい。「人間は歳を取っていくでしょう、鉛筆部隊の人たちも八十代、どうしても身体が弱ってくるでしょう?」、私は鉛筆部隊員を思い出していた、『人間みんな歳を取って死んでいくんだよ』とも言えない。「きっとね、思い出を胸にしまって時々それを取り出しては懐かしく思っているでしょう」と答えたが、田中さんも鳴瀬君も鹿子木君も皆死んでしまった。現今を生きる子どもが鉛筆部隊の行く末を問うた、そういう疑問を持つことが追憶や記憶に繋がっていく。生きている者は戦争を忘れることなく覚えておくべきだ。

・「疎開というのはつらいものですか」
 そうつらいです、お父さんやお母さんのもとから離れて、集団生活をするわけですからそれだけでもつらいのです。つぎの年から一二年生が来ますが泣いてばかりいました。「それで私たちはその子達の背中をさすって慰めてあげました」と六年生。
「君たち、遠汽笛って知らないでしょう、浅間温泉にいると汽車の汽笛が遠くから聞こえてきます。『あの汽車に乗っておうちに帰りたい』とだれもが思って涙を流しました」

・「つらいことは何ですか」
「それは数多くありました。自由がないのですね、集団生活だから決められたとおりに毎日が進行していきます。起床に始まってみな時間は決められていました。これに従うことがとても大変でした」

「やっぱりいじめというのがありましたね、上級生の指示で一人一人がみなの欠点をいうのです、いいたくなくても、自分の悪口も言われますからしかたかなく、人の悪口を言っていました。これはとてもつらいものでした」

「きみたちは、ひもじいと言っても分からないでしょうが、戦争が激しくなるに連れて食糧事情が厳しくなってきました。ある日「お手玉の中に豆が入っているのを知って、みんな競ってお手玉を裂いて食べてしまいました……お手玉は食べるとなくなるのです」

・「疎開生活がつらくて逃げなかったのですか?」
「それはだれもが考えました。何とかして東京に戻りたいと、で、だれもが考えるのが線路です、これを伝っていけば東京に着くと、それで数人で逃げ出した子がいました。途中で駅員に捕まってしまって、その駅員さんが出してくれたお握りがおいしくておいしくて涙が出たそうです」
「悲しい事件もありましたね、一人の男子がいじめに耐えられなくて冬に逃げ出してしまい、道に迷ってしまってとうとう死んでしまったのです」

・「どうして今野勝郎さんは、死ぬと分かっていながら、田中幸子さんに結婚してほしいと告白したのですか」女子二人は、真剣に考えたらしい。
「難しい質問だね、恋心だから後先を考えないということはあるかもしれませんね。好きだから好き、だから結婚してほしいと……特攻隊の人たちが最後に浅間で歌ったうたがあって『世界平和が来ましたならば、帰りゃまっさき浅間をめがけ……彼らは死ぬと靖国神社に行くと言われていました。浅間が恋しいものだから浅間に帰ってきたいと。これは魂のことなんでしょうね。」

「戦争で死んでしまった人をどう思えばいいのですか?」これはとある男子だった。本質を衝く大事な問題だ。

「なかなか鋭い質問ですね、人がどう戦って死んだか?例えば、特攻隊員の人たちは、特攻で死んだと確認がされるとまず二階級特進する、そしてしっかりと記録される。恩給も出されたはずです。しかし、多くの兵士たちは野垂れ死にしました。南方のジャングルで餓死するとか。そういう人の記録もないのですよ。例えば、台湾からは特攻隊も出撃していますが、夜間航空隊もでています。往復分のガソリンを積んで、爆弾を抱えていくのです。敵はそれを感知して全艦船が砲撃する、その間を縫って降下して爆弾を落とすのです。そしてまた帰ってきて、そしてまた行く、が、多くが撃墜されています。そういう人たちの記録はないのですね。

 昨日、メッセンジャーを通して、梁田貴之さんが「戦争の文化」ジョン・W・ダワーの記事を私宛に紹介された。「大半の特攻隊員は自分の小さな集団に帰属意識を持っていた」と。台湾特攻のことでは思い当たる。台湾という外地では特殊的な帰属意識を彼らはもっていたと思った。


 学童たちに戦争を知ってもらうことは大事である。若い語り部を育てていく必要があると感じた。


rail777 at 08:29|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化