2024年04月
2024年04月30日
下北沢X物語(4932)ー北沢川文化遺産保存の会会報第214号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第214号
2024年5月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、東大名誉教授:辻瑆さんのこと
きむらけん
長年、文化活動を行う中で多くの人と出会ってきた。文士町は知の集積地である。教養豊かな人と出会うことはしばしばだ。辻瑆氏もその一人である。毎年地図配りをしているがその時に偶然に出会った。このことはブログに記しているので日にちが分かる。2017年4月のことである。7年前のことだ。
氏は著名なカフカの研究者だ、ネットには、辻 瑆(つじ ひかる、1923年1月23日 )は、ドイツ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授とある。もう百歳を越えておられる。
氏と出会ったときのことを私は書き記している。
大正十二年(1923)年生まれの九四歳だ。東京大学からの学徒出陣兵だった。入営したのは東部十七部隊、駒場にあった近衛輜重兵連隊である。
「入営して三ヶ月は蹴ったり、殴られっぱなしでした…」と辻さん。
「以前、海軍第十四期飛行予備学生だった人に話を聴いたことがあります。やはり東大からの学徒出陣兵でした。『アメリカは確かに物量的に勝っているけれども、精神力では負けていない』と言っていました。実情としてはどうなんでしょう?」
「そういうふうな分析はしませんでしたね。大きな時代の流れがあってそれに対してなすこともなく身を任せていたように思います…今はドイツにいることが多いのですが、やはりよそから見ていると日本全体は顕著に右傾的になってきていますね。知識人もそれをはっきりと感じとっていますけどもね、皆黙っていますね…」
確かに言われてみると右傾化している。これは七年前のことだ。右傾化はさらに進行している。あの戦争は侵略戦争ではなかったといい、最近では自衛隊が太平洋戦争のことを大東亜戦争だと言い始めるといことがあった。
三十年近く給与が下がり続けている、この日本は今、傾きかけいる。人々が誇りを持てなくなってきている。それで過去の栄光にすがるという傾向もある。
辻さんに出会ったとき私は森鴎外のことを話題にした。
「私は、文学における車窓に興味を持っています。ドイツのことで言えば、森鴎外ですね。彼は汽車でドイツ旅行をしているのです。そのときに車窓を描いています。やはり医者の目というのがあるのでしょうか、景色が一つ一つ区切られて描かれています。それでその風景がくっきりと浮かんでくるのです。まるで腑分けされたように…」
「興味深いですね、『腑分けされた鴎外の車窓』ですね…」
やはり知識人だ、現象や事象を短く言い換えて表現することに長けていると思った。
この辻さんのお手伝いをしていたのが邪宗門の敬子さんだった。そのことを知って辻さんと話をしてみたいと思った。老齢でもあることだから電話でインタビューするということにしていた。電話番号も聞いていたのだが忙しさに取り紛れて失念してしまった。
「私もお手伝いに行ったとき話を聞いたのですよ。駒場の輜重兵だから馬がいますね、それを連れて池ノ上まできたときに庭の葉っぱを食べたのですって、そこの娘さんが今の奥さんなんですって、馬が引き合わせて縁ですね、それで終戦になって除隊したときに馬をもらってきたんだそうです。それを箱根の別荘まで連れていったんですって、もちろん歩きですよね。」
辻さん、箱根まで馬を連れていったという。馬はとても役だったという。車もない時代である。おまけに箱根は坂道ばかり、食糧を運んだり、荷物を運んだりしてくれたそうだ。「きっと名前がついていたんですよ『アオ』とか!」と私。
「『アオね』、そうやっぱり名前はついていたでしょうね」
「ドイツ文学者だから『カフカ』とか?」
「日本の馬だから『カフカ』じゃわからないかも。ああそうそう、百一歳のお誕生日のときにミュンヘン大学からおめでとうの国際電話があったと……」と敬子さん。
しかし、私はインタビューする好機を逃してしまった。深い見識を持った方だったのに。
最近、私はオンエアされているテレビは見ない。もっぱらYouTubeである、ここにおける言論は鋭い、批評や批判がとても鋭いと思う。
「このごろ各地で地震が起こっているでしょう。そうすると〇〇原発では異常はありませんと報ぜられる。やはり福島の原発の事故があったでしょう。あれ以来我々は心の底に原発に対する不安というものが芽生えてきて、我々の心の裡にとぐろをまいているのです。未来に対する不安を持つようになった、この地震国に原発は無理ですね。これを取り除かなくてはならないのに政府与党は原発回帰を打ち出した、我々の不安は増大していくのではないかと」
そんなことを評者は言っていた、同感である。
私は、辻さんに聞いてみたかたことは、我々のこれからのことである。
「希望が持てない中で、どのように生きていったらよいか?」
百一歳になった知者,辻さんは何と答えるであろうか?この一月に百一歳となられたがお祝いの国際電話がミュンヘン大学の学長から掛かってきたと。
2、NHKTV「美の壷」のロケ地は戦後、進駐軍高官の公邸だった
赤坂暢穂
来年で戦後80年を迎える、現在の北沢界隈の文化を考える際、どの程度関係があるのかないのかわかりませんが米国進駐軍の影響はあるように感じます。その一例を以下に述べます。この文章は、きむらけんさんのブログ「下北沢X物語」(3666)2018/12/9の記事と一部重複します。
私は82歳、我が家は1941年から現在の北沢4−7−7にあります。我が家の西、道を隔てた約2.5mの高台にW邸があります。ロケ地は更に高いところに洋館、和館があります。敷地は約3300m2、庭木は世田谷区の保存林になっています。和館が主にNHKTVで草刈正雄が出てくる「美の壷」のロケ地です。この屋敷は戦前、朝鮮殖産銀行頭取有賀光豊(貴族院議員)さんのご自宅でした。終戦後、米軍により接収され、進駐軍高官の公邸として正確な時期はわかりませんが1950年代後半頃まで利用されていました。進駐軍が接収した家は、我が家の東北約500m、渋谷区大山町に約15軒ありました。その内、敷地の最大規模は約10000m2、現在の住人はファーストリテーリング(ユニクロ)の柳井正さんです。米軍は恐らく東京に進駐後、良好な住宅地を確保するため、予め空撮、候補地は空襲しなかったのではないかと思われます。その結果、住宅地、下北沢駅周辺も空襲をほとんど受けず、区画整理が行われず、ごちゃごちゃ迷路のような街区が残り、それがかえって歩いて楽しめる街、猥雑な街等として今日、人気になっているように思います。何が幸いするかわかりません。
1955年、私の小学校中学年の頃、我が家の西の道路で友達と野球の真似事をしていて西側の高台の接収されていたお屋敷に野球のボールが入り、遠くにある正門からボールを拾いに行くのは面倒、約2,5mの石垣をよじ登り、敷地に入るや否や放し飼いの警察犬のシェパードがワンワン、ウーと唸り声をあげ襲ってきました。竦んでいると日本人のMPがやってきて、しこたま叱られました。今となっては良き思い出です。
3、疎開学童80周年
疎開は昭和十九年夏に始まった。この夏は80周年を迎える。昨年は学徒動員80周年だった。これは全国各地でイベントが行われた。学業途中の学徒が戦争に行かされた、中には特別攻撃隊員に選ばれた者もいた。そういう点では話題性に富んでいた。が、疎開は地方に集団で避難して生活を送った。よく語られるのは食糧難だった、食べようにも食べ物がない、学童は辛い思いをした。お手玉の豆を食べたとか、健胃錠をお八つ代わりに食べたという話もある。
しかし、あまり表だって語られることはないが、誰もがいじめで苦しんだ。同級生同士もあったが、引率教員によるいじめもあった。これは深刻であった、中にはいつかは殺してやると思っていたという人もいた。これも語られることはないが教員の変節である。軍国主義ばりばりだった先生が、戦後になると民主教育をとなえた。
「生徒に謝るということはなかったですね」という人もいた。
戦争経験を聞く会を長くやってきた。長らくやっていないのでこの際と思ったが、これが困難であることを知った。疎開学童の高齢化である、年を取ったりなくなったりして伝達が困難になってきた。が、動きとして世田谷平和資料館や図書館などが展示会や講演会を開こうという企画がある、私も協力を頼まれている。
4、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第195回 特別企画 下北沢猫町散歩−朔太郎の忌日にゆかりの地を歩く−
5月11日(土) 案内者 きむらけん 集合場所下北沢駅東口 13時30分
雨天の場合翌日12日(火)に延期。順延は一日のみ。
駅前→下北沢の旧居→一番街の十字路→旧北沢局ポスト→一本松公園→御殿山小路→北沢4町目公園→緑小路→下北沢駅西口→下北線路街→世田谷代田駅(ダイダラボッチ広場)→代田の丘の61号鉄塔(世田谷区地域風景資産)→朔太郎の代田旧居→北沢川緑道→三好達治文学顕彰碑→鎌倉通→旧静仙閣跡(北川冬彦)→下北沢駅
◎今回は、新地図「下北沢文士町文化地図」9版の完成を記念しておこなう。これには「シモキタザワ猫町散歩」のモデルコースを新たに記入した、加えて裏面全体を萩原朔太郎を特集し、下北沢・代田と詩人との関わりを中心にまとめたものだ。今回は朔太郎の忌日、5月11日(土)に日にちを設定しておこなうものである。当日雨天の場合は翌日とする。今回は区の広報にも案内を出すことにして定員を15名とすることにした。5月1日の区のお知らせ「せたがや」に掲載される。込み合うことも予想される。特別企画ということで費用も資料代・保険代をひっくるめて800円とした。
第196回 築地本願寺和田堀廟所掃苔行 案内者 原敏彦さん
6月15日(土) 13時30分 京王線明大前駅改札前
コース:明大前駅→キッド・アイラックホール跡→築地本願寺和田堀廟所→明大前駅
築地本願寺和田堀廟所は、震災後に陸軍火薬庫跡地の払下げを受け、築地から墓地を移転したことに始まり、わが国最初の公園式墓地といわれます。
◎文化人・芸能人では、樋口一葉、古賀政男、海音寺潮五郎、中村汀女、内田吐夢、水谷八重子、九条武子、嶋中雄作、渡辺淳一、大藪春彦、吉本隆明、横綱照国・吉葉山、さらに最近再ブレークの笠置シヅ子、服部良一、その長男服部克久・・・その他多数の著名人がここに眠っている。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて通常は500円 希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
■ 編集後記
▲当会は、北沢川緑道に四基の文学碑を建てている。これを保守管理してくれていたのが金子善高さんであった。が、彼は亡くなった。ところがこの後を継いでもよいという人が現れた。木村正也さんである、月一回は、碑面を拭く作業をやってみたいと。若いボランティアである。受け継いでもらえるのはとてもありがたい。
▲エッセイを募集しています。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲新版9版については富山県射水市の人からぜひ欲しいとの連絡があった。また神戸在住の研究者奥谷俊輝さんから森茉莉の足跡を案内してほしいとのことで関係箇所を歩いた。対外的な一種のサービスである。今後、要望があれば対応していきたい。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。
2024年04月29日
下北沢X物語(4931)―学童疎開・特攻から80年 2―

(一)戦争末期、陸軍松本飛行場に沖縄戦に備えて特攻機が数多く飛来してきた。その乗務員は浅間温泉に宿を取った、ここには東京世田谷から疎開してきた学童約二千五百名が滞在していた。必然的に両者はふれ合うことになる。しかし、それはどこの何隊であったのかは分かっていない。かろうじて二隊だけは分かっているが、が、他多くの特攻隊は素性すら分からない。中でも小柳の湯滞在の隊は、謎に満ちた隊である。ここには山崎国民学校の学童が疎開していて彼らと接している。本館とは別に椿の湯にも分宿していた。斎藤晶康さんはここに滞在していた、そのときに特攻隊員がお風呂に入りに来ていたと。
本館(小柳の湯)と分館(椿の湯)の生徒同士はほとんど交流がなかったという。椿の湯は今も営業している、こじんまりとした旅館である。浴槽も一つしかなく五六人が入れば一杯になる。ここに本館から若い隊員が入りに来ていた。将校たちは本館にいてお風呂に入っていたのだろう。下士官の若い連中は気軽に入れるというのでもらい湯に来ていたらしい。
「本館では隊員と親しく接していたらしいですけどね、僕らは彼らが来るととても緊張しましたよ。『こんにちは』とか『さよなら』みたいな言葉は掛けたかもしれませんがやはり出会うと固くなりました。若いお兄さんたちでした、身体もがっしりしていました。あるときお風呂に一緒に入っているときに一人の隊員が話しかけてきました。『君は天皇陛下のために死ねるか?』と。『死ねません』とは言えません、それで『はい死ねます!』と大きな声で答えたのですよ、あのときのことは忘れられませんね」
「時期とかはあまりはっきり覚えたおりません。でも六年生が受験準備で帰った後ですね、同室の人数が減っていましたから。三月のことです。湯船は五六人で一杯になりますからやってきたのは多くはありません」
「若いお兄さんだとすると少年飛行兵ぐらいですね、将校等は本館の広い浴槽に入っていたのでしょう。若い隊員は遠慮して湯船が小さい方に来ていたのでしょう」
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2024年04月27日
下北沢X物語(4930)―学童疎開・特攻から80年―

(一)今年は学童疎開から80年である、当時10歳だった人も、もう90歳となる。当事者の高齢化は体験の風化に直結する。一昨年、浅間温泉に行ったとき土地の古老から、「特攻機を見送ろうと持参の赤い毛布を引っ張り出して窓から振った学童がいた」と聞いた。とたんにそれは映画監督の息子ではなかったかと直感した。人を介してそれを確かめてみたところ当たっていた。ついには昨日、当時10歳だったというその当人から直接に話を伺った。「どうせ振るのなら目立つものをと家から持参したまっ赤な毛布を特攻機目がけて一生懸命に振りました」と家は世田谷代田にあった。80年目の真実である。
表題の「学童疎開・特攻から80年」は地域で今夏のイベントとして企画されているものだ。この表題は自身も深く関わってきた。口頭発表の予定もあることから改めて整理をしている。
世田谷から松本・浅間温泉に疎開したのは七校の二千五百名である。学童は沖縄戦に備えて飛来してきた特攻隊員と宿で遭遇する。この事実を私は偶然知った。以来、ずっと調査を続けてきた。最近気づいたことは、両者の交接期間がとても短かったことである。つまりは昭和20年3月の一月であったことだ。4月には再疎開があって世田谷組は市外地へと移動する。
いわゆる沖縄特攻は3月から7月まで行われている。その中での一月間を知ったに過ぎない。4、5、6、7月においても多くのエピソードがあったはずである。たまたま疎開学童は手紙や日記に記録していた。が、3月以外は分からない。
たまたま私は近代戦争史の断片に遭遇して記録をまとめてきた。が、改めて考えると史としての事実が問われる。自身が知って調べた範囲は極めて限定的であった。なぜなら突き止めたのは疎開学童たちからの聴取などが主だったからである。それは3月に限定される。
さらに言えば、自身の入り方が極めて限定的であったと言える。つまりは偶然行き会ったのは鉛筆部隊だった。この話題性が大きく他を顧みる暇はなかったということだ。
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2024年04月26日
下北沢X物語(4929)―駒沢の民族学を歩く 4―

(一)私たちはか弱い存在である、ゆえに何かに頼って生きていく、その場合の神の存在は大きい。しかし、歴史の浅い古代においては手掛かりが少ない。ゆえに人々はとっかかりを求めた。柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』の中で「すなわち岩や草原に残る足形のごときものを根拠としなければ」と述べる、つまり身近にあるダイダラボッチが生きていく上での手掛かりにしたとの示唆だ。これを現実問題に当てはめるともっと面白い。先にU字状の舌状台地のことを述べた。このそれぞれの谷頭がダイダラボッチだとされる。興味深いのはこのU字状の台地には名前がついていた、「子の神」なのである。この台地の最先端には神が坐しました、それは駒繋神社なのである。
駒沢の民族学を歩く、これは「覚志」という地名はどこであったかを探る歩きである。
先に述べたのが旭小学校伝説である、ここには訳の分からない逸話がある。学校のある辺りが「『覚志郷(かがしごう)」とよばれていたのが、なまって『あさひ』になったと言われています」と。
確かにアサヒは耀くものには違いないが……。
旭はどこからきたのか、学校の校内には「旭橋」という親柱が保存されている。これは現在の246号と環七とが交差したあたりに架かっていた橋の親柱である。かつてここには品川用水が流れていた。ここに架かっていたのが「旭橋」である。学校発祥地はこのすぐ側の宗円寺である。旭と覚志の関係はよく分からない。
柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』で荏原のダイダラボッチ探訪行を描いている。第一の足跡が代田である。第二と第三は駒沢村にあったと彼は述べ、実際にフィールドワークをしてこの場所を特定している。私たちもこの二箇所を探訪した。そこには両方ともに水神が祀ってあった。それは�…瓮�窪弁財天であり、�∪郷綏κ杠眦靴任△襦�いずれも谷頭から湧水がでていた。
この�,�ら�△惺圓�には丘を越えていく。この丘は西から東へと向かっている舌状台地である。ここの旧地名は、「子の神丸」という。
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2024年04月24日
下北沢X物語(4928)―駒沢の民族学を歩く 3―

(一)野沢稲荷神社の杜を右奥に眺めながら先に数歩進めると左側に谷がこつ然と現れる。いわゆる谷頭である、抉れた谷からの湧水は左奥の池に流れている。柳田国男が『ダイダラ坊の足跡』では「駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡がある」と述べているが、ここに間違いない。現今の「鶴ヶ窪公園」である。ここはダイダラボッチである。これまでにその資料典拠を示してきた。�〇┿錙愽霏¬遏拌萋鶸�第二号収載『駒沢行』�¬�田国男「ダイダラ坊の足跡」��「ふるさと世田谷を語る」上馬・下馬編所収「野沢絵図」などである。今回も公園で遊んでいた小学生に聞いてみた「ここはダイダラボッチの足跡なんだけど聞いたことがない?」「そんなの知らない」と二人とも答える。近くの中丸小学校の学童のようである。代田小学校では教えている、ここでもぜひ教えてもらいたい。
ここの「鶴ヶ窪公園」は、昭和13(1938)年に東京市の公園として開園した、世田谷区内でも古い公園のひとつだという。「鶴ヶ窪」は伝説と地形形状を言い表している。鷹狩りにきた将軍吉宗公が鶴を追ってやってきたが見つからない、そこでここで足を止めて水を飲み「あの鶴を見失ったことは残念ではあるが、これ以上深追いするな」と言ったという。それで鶴ヶ窪と名がついた。実際ここは谷頭で湧水が湧き出ていた、動力を使っての循環水だが、今も池が設えてある。たもとには鶴ヶ丘弁財天が祀ってある。
昭和13年に公園が築造されたとき名がつけられた。当地の字名をそのまま活用して名づけた。地形形状としては窪地であった。谷頭から湧き出る水があってこれが蛇崩川に注いでいた。「鶴」がついていることから吉宗公伝説にあやかった、とすれば地名は江戸時代のものということになる。
鶴ヶ窪以前は、ここをダイタクボと人は呼び習わしてきた。このダイタクボは、さいたま市にある。太田窪と表記する。レファレンス共同サービスにこうある。
さいたま市南区にある太田窪(だいたくぼ)という地名は、日本各地に伝わる巨人伝説“大多(ダイタ)ぼっち(巨人)”に由来するものと思われる。ダイダラボー、ダイダラボウシ、ダイダラボッチなどとも呼ばれるこの巨人伝説では、池や窪みの地形を巨人の足跡だと称している。 東京都世田谷区の代田(だいた)も同様の由来を持つ。
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2024年04月23日
下北沢X物語(4927)―駒沢の民族学を歩く 2―

(一)駒沢の民族学黄金道路と自分で名づけてほくそ笑んでいる箇所がある。すなわち、明治薬科大跡地に建った「アクティ三軒茶屋」の南手にある、西に向かう道路のことだ。まず、古代遺物ザクザクの坂がある、次に寛文十年の庚申塔、そして伝説の手鼓天坂、覚志に関係する旭小学校、極めつけはダイダラボッチである、よく通る道でいつも私はゾクゾクしながら歩いている。じつは今日もこの道を往復した。下馬図書館で企画の打ち合わせがあったので通ったのだ。帰りしな「この道はなんという道ですか」住民に聞いてみた。「名はない」と。どうせなら下馬野沢境界民族学黄金道路と名づけよう。Googleマップで測ったらたった655メートルしかなかった。
まず「アクティ三軒茶屋」の南手の坂のことだが、過去記事にダイダラボッチの所在を示す大事な記述がある。雑誌『武蔵野』第二巻第二号だ。ここに『駒澤行』、「武蔵野会遠足記」が載っている。遠足では下馬西澄寺から、この明治大学運動場側の坂道を通っていった。そのときの記述だ。大正8年6月1日実施の遠足である。
明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見し包含層がある。鳥居、大野、村高の諸先輩の既に詳説示されてゐる場所である。その先にダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池がある古来灌漑用の水源となつてゐる。傳説に曰く此處はタイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を堀り木を伐ると、罰が當ると、蓋し水源保護の為めであらふ。
まさに私が言う、民族学黄金道路のことを言っている、ここを行くと「ダイダクボ」があると述べる。そここそはダイダラボッチの足跡なのである。動かぬ証拠だ。
坂道を上って道をまっすぐにいく。古道は二間巾だが、明らかにここは拡幅されている。駒沢練兵場の砲車や車馬の通り道だったからだと思う。この道西に行くとまた坂がある。この右手に庚申塔がある、寛文十年建立のものである。これは境界によく鎮座する。ここは下馬と野沢の境である。他所から悪霊が入ってこないようにとの願いもあってここに建てられたものだ。いわゆる三尸(さんし)が体内から出ていかないように庚申の日には、ここで夜通し酒を飲んだりして起きていた。
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2024年04月21日
下北沢X物語(4926)―駒沢の民族学を歩く―

(一)昨日、まちあるきを行った。今回は時空を超えての旅、千年前の痕跡をたどる探検行である。三軒茶屋駅に集まったときに、「千年村構想というプロジェクトがあります。それは千年前あったとされる地名を探り当てるというものです。典拠は『和名類聚抄』という地誌です。ここに往時の地名が載っています。それが今のどこに当たるのかを探り当てるものです。しかし、探し当てた例は少ないのです。その未確認地の一つがこの一帯にあります。それは『荏原郡覚志郷』です。その『覚志』はどこなのかを推理していく旅なのです。遙か彼方の古代への旅路だと言えます」
まず、駒沢という地名である。かつて当地に駒沢町があった。1889(明治22)年5月1日 - 町村制の施行に伴ってできた町。まちあるきで向かうところ、下馬、上馬、野沢はかつての駒沢である。
「大山道道標」から出発した。
道標に来ると自然に追分の話となる。江戸時代中期に追分ができて、三軒の茶屋ができ……という話になる。が、ここでは古墳の話をした。
「知られていないことですが、この三角地帯は古墳遺跡です、縄文時代中期のもので土器や打斧が発掘されています。三軒茶屋遺跡と名づけられています。五千年前は三軒茶屋という呼称は全くありませんでした。呼び名をつけるときに分かりやすいということでつけたのでしょうが、私には何となくすっきりしません……」
国道246沿いに行くと、旧道大山道が左に分岐していく。
「ここは面白いですね、なぜに左に道は曲がっていくか?川を渡るためですね、本道246は一段と高い、やはり渡るには一番低いところがよい、それで左へと古道は曲がっているのです。川は蛇崩川です……」
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2024年04月20日
下北沢X物語(4925)―森茉莉の幻影を求めて歩く―

(一)下北沢文士町の居住人で今もその面影が追慕されるのは朔太郎である。彼の行状を三好達治は「飄々として影のやうに裏町をゆかれる」(「師よ 萩原朔太郎」)と描いている。実際裏路地を行くと面影が浮かんでくる。先だって神戸から来られた研究者を案内した。森茉莉の足跡をたどる町歩きだ。実際歩いて行くと随所で偲ばれた。彼女は自らの歩きを「サナトリウム患者が松林をお散歩」と言っている。買い物籠をさげてゆるゆると歩く姿が思われた。「彼女はこの一帯をよく歩いていたと確信できますね。それは土地の雰囲気を捉えて描いているところがよくあるからですよ。例えばですよ。若林ですよ。よく知っていたと思いますよ。物語の舞台にここがよく出てくるのですよ」
「上北沢というのはどうですか?」
奥谷俊輝さんは神戸在住で森茉莉が住んでいたところの土地の様子が分からない、それで上京を機に土地のことを知りたいというので私に案内を頼んで来た。
「確かに上北沢は出て来ます。彼女の散歩範囲には上北沢はありません、コンテキストからするとこの上北沢は下北沢のことです。下北沢と明確化させないために上北沢としたのではないか……しかし言語学専攻はとても興味がありますね。」
京大大学院で言語学を学んだという。
どんなことを学んだのか興味深い。京大大学院のホームページに紹介がある。
専攻、文献文化学 専修 西洋古典学 奥谷 俊輝
修論のタイトルは、「Synaesthetic metaphors in Aeschylean Tragedy」
「大学院では、ギリシャ語、ラテン語を学びました」
「あまり人は手をつけないところですね?」
「そうです、語学というと英米系が主流でしょう。わたしはそういうのが好きではないので」
「なるほどね、私もね、もう二十年間、土地の文化を調べてきましたが、やっぱり文化というのは本流にはなくて支流ですね、ここに真実が眠っているんですよ。こっそりと探っていくとひっそりと真実が眠っています。それを探るのが面白いのですよ」
「ええ、それは共感できますね。生き方のスタイルでもありますね」と奥谷さん。
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2024年04月18日
下北沢X物語(4924)―学童疎開・特攻から80年 2―

(一)疎開学童と特攻隊員とが出会った。この奇遇は初代知覧特攻会館館長の故板津忠正氏は、隊員にとっては命の洗濯になったと。学童たちにも大きな刺激となった。昨年暮れ、鉛筆部隊の後輩に当たる六年生に授業を行った。「旅館でともに暮らした学童に特攻隊員から手紙が来ました。『この手紙が着く頃には、もうこの世の人ではありませんとあって、<後の世のことは君たちにお任せします>と結ばれていました」と紹介をした。授業について学童たちが感想を書いてくれた。百幾つの感想の中に『後の世のことはまかせてください』と書いていた学童が三名いたことだ。特攻隊員のメッセージが時を経て伝わっていることを思った。80年も経過して戦争伝承は困難になってきている、が、それでも学童の心に伝わるものがあったのだ。
特攻隊員と疎開学童との出会い。田舎のあんちゃんと都会の子との巡り会いだ。彼らはことに女の子には淡い慕情を抱いた。
彼らが出撃前夜に歌ったうたを覚えていた疎開学童がいた。二番の一節だ。
かわいいみなさんのお人形乗せて
わたしゃいきます〇〇へ
彼らはおしゃまな女の子に心惹かれた。彼らは別れに際して彼女らに頼んだのはお人形である。実際にこれは現実にあったことだ。
春三月二十七日、沖縄中飛行場を武剋隊の前半隊が飛び発った。このとき整備の係を点検する。いずれの操縦席にも世田谷の女子学童に創ってもらったお人形が飾ってあった。
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2024年04月17日
下北沢X物語(4923)―学童疎開・特攻から80年―

(一)ここ数年、80周年を迎えるイベントが続いている。萩原朔太郎大全2022これは文学散歩、そして歌物語の台本原作で関わった。2023学徒出陣80周年では長谷川信少尉のパネル展示で協力をした。そしてこの2024は「学童疎開・特攻から80年」で大きな節目を迎える。『鉛筆部隊と特攻隊』はこのテーマの核心だ、舞台の中心となる世田谷区ではこれに関わるイベントが企画され、動き始めている。一方、現地浅間温泉はどうなのか、昨日、目之湯に電話して聞いてみた。「そういう動きはありません」とのこと。「私も一つの機会と捉えて疎開を調べ直しています。浅間温泉での学童と特攻隊とのふれ合いは話題になりました。しかし、あれは1945年の3月だけなんですよ。4月に学童はもういません。が、沖縄特攻は7月まで続いています。4月5月6月は欠けているのです。言えば戦争史の欠落、ここが補えればいいのですが」……
「学童疎開・特攻から80年」、これは一つの大きな節目である。今、これを機会に見なおしをしている。それで山崎小のOBで元疎開協の役員の長谷川直樹と連絡を取っている。下北沢小OBの臼井良雄さんも疎開に関しては関心が深い。彼からは、学校側で整理している疎開関係資料のリストを戴いた。詳細な記録を残しておられる。長谷川さんもこれに触れて驚いておられる。山崎小にはそういう記録はないとのことだ。学校によって意識がだいぶ違うようである。
私自身、疎開にはすっかり染まってしまった。その資料は膨大だ、疎開学童と特攻隊との接触については多くを取材し,著作にも書いてきた。
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2024年04月15日
下北沢X物語(4922)―疎開学童日記から歴史を読み解く 4―

(一)疎開学童の日記の断片、まず大田幸子さん、1945年3月28日、吉原軍曹が富貴の湯上空で宙返りしたとあった。同機が女鳥羽川河畔で目撃され、大槻統さんは絵日記に書いた、このとき着て来ていた服を脱いで懸命に振ったと。この吉原香軍曹のことである。歴史舞台にちらりと顔を出して消えた。こういう兵士は気に掛かる。どうなったのか?彼は誠隊所属だ、3月末に松本飛行場から新田原に向かった、ここを飛び発って台湾に向かう途中済州島で不時着をしてしまった。同期の久貫兼資さん、家にも来ていたとのことで生還したようだ。以前に『遺された声』〜ラジオが伝えた太平洋戦争(NHK)〜が放送された。何千枚と残されたレコード盤の中で再現されたのはたった二人、その一人が吉原香軍曹である。「故郷の皆さんお元気ですか、国語の先生もお元気ですか?」と問い掛けている。
浅間温泉に疎開していた世田谷の疎開学童と特攻隊員とが遭遇した。七校の国民学校である。
太子堂 12 東大原 9 駒繋 4 二子玉川 1 第一師範附属 4
代沢 6 山崎 2
数字は分宿した旅館の数である。その旅館数の数は38校である。私は、各学校での実情を取材した。何と7校のうち6校で学童と特攻隊とがふれ合っていた。
ただ浅間温泉疎開組の7校のうち6校で交渉があったと書いたが、大元の数字を書いただけである。個別個別の旅館毎に当たった訳ではない。分宿して疎開していればそれぞれで起こったことは具体的に聞かないかぎり分からない。
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2024年04月14日
下北沢X物語(4921)―疎開学童日記から歴史を読み解く 3―

(一)疎開学童の日記に「ちゅうかえり」という言葉があった。特別攻撃隊の隊員が旅館上空で宙返り飛行をしたという。この一語には含蓄がある。多くの日記資料を見てきたゆえにそう判定できる。浅間温泉では疎開学童と特攻隊員とがふれ合った。心が通じ合ってくると学童らはついおねだりをするようになる。飛行機は憧れだ。その思いが募って「ねえ、お願いだから飛行機で飛んできて」と。学童ばかりか旅館の女中さんもねだった。後者では大型爆撃機「飛龍」で旅館の屋根すれすれを飛んで脅かしてやったとの証言もある。どうやら吉原軍曹も学童にせがまれて宙返り飛行を敢行したようだ。彼は学童とは数十日間つきあってきた。近々出撃も迫ってきていた、永久の別れだ、約束を果たそう。
「吉原さん、操縦がうまいという噂ですよ、宙返りをしてみせてよ」
武揚隊の構成は隊長の中尉、陸士出だ。その次が少尉、操縦見習い士官・学徒兵、さらに軍曹、伍長と続く。
吉原香軍曹は、運輸省航空養成系の航養、出身だ。操縦は巧い、「宙返りなんかお茶の子さいさいだ」とでも自慢したのだろうか。
「しょうがない、まあ、慣れ親しんだ君たちともお別れだからな」
吉原さんは約束をした。いついつに飛んでくるからと学童に伝えた。これを聞いて皆は歓声を上げた。
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2024年04月12日
下北沢X物語(4920)―疎開学童日記から歴史を読み解く 2―

(一)我らの文士町も全国的になった。北陸からは新地図をぜひほしいと。今日は今日で神戸から来訪された研究者を案内した。代沢小の近くで学童に出会った。「何年生?」「六年生!」「じゃあ、鉛筆部隊は知っているよね」「知らない!」「ああ、そうかキミらは新六年なんだ。前の六年生には鉛筆部隊の話をしたんだよ。きっとね年末にはキミらに会うことなると思うよ」と言って別れた。何とまあ歳月のはやいこと、気持ちが追いついていかない。こちらは回想にふける。80年前の8月12日のことだ。この日の夜、代沢国民学校は浅間温泉への疎開に旅立った。先導する教員は提灯を持っている。下北沢駅へ向かう坂を行列がさわさわと足音を立てて進んだ。
当夜が運命の別れ道だった。夜9時に壮行式が行われた。このときに浅間温泉の分宿する六つの旅館ごとに列に並んだ。各旅館はあらかじめ地区別に分けられていた。
「私と立川裕子さんは北沢四町目だったのだけど、いいからいいからと下代田の組に入れられてしまたのですよ。それが千代の湯だったのです」
故田中幸子さんがそう証言していた。その千代の湯こそが疎開学童と特攻隊の出会いの主舞台となった場である。二人は特攻隊員と出会って、いたく可愛がられた。
学校ごとに行った先の旅館でもそれぞれに運命の出会いがあった。東大原校の大田幸子さんは富貴の湯に滞在した。彼女は疎開初日から日記を書いた。とても几帳面で細かなことまで記録されている。
昨日の記事にコメントがあった。「太田さんは今でも健在でしょうか?」と長年のフェィスブック仲間の野沢有さんからである。
下馬の大田幸子さんに取材したのはもう十年前だ。「学童疎開80周年」ということから日記の行方が気になっていた。世田谷平和資料館の帰りに下馬を通り掛かった。そのときに久しぶりに家を訪ねた。
「母は、骨折しまして今入院しています。そうですか母の日記が気がかりで来られたのですね、母に伝えておきます」
息子のお嫁さんが言う。
(上段ポスター写真、兵隊に腕を首に巻かれているのが大田幸子さん)
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2024年04月11日
下北沢X物語(4919)―疎開学童日記から歴史を読み解く―

(一)歴史の礎となる記録は大切だ、これを基点に過去や未来が考察される。が、我々はこれを大事にしない。好例が終戦時にポツダム宣言受諾した後に公文書を焼却したことだ。私は当ブログを運営しているが、あるとき問い合わせがあった、これがきっかけとなって過去に埋もれた歴史を調べることになった。戦時中、世田谷の学童は松本市外浅間温泉に疎開した。昭和二十年春、当地に飛来してきた特別攻撃隊の隊員は泊まり合わせた学童と知り合った。が、特攻隊の動向を記した公文書は残っていない。しかし疎開学童が書き記した日記や手紙、新聞記事などの記述から、松本陸軍飛行場に飛来してきた特攻隊のことが次第に明らかになってきた。小さな記録が歴史真実を紐解いたのである。
私は、2012年『鉛筆部隊と特攻隊』を発刊した。鉛筆部隊とは、代沢国民学校の疎開学童である。浅間温泉に疎開をして分宿をした。その一つが千代の湯旅館である。ここを受け持った柳内達雄先生が学童たちを鉛筆部隊と名づけた。
疎開出発は、1944(昭和19)年のことだ。
八月十二日 土曜日 天候晴
疎開児童四百五十名並ニ派遣教官十名及付添教員三名午後十時校庭出発。
学校日誌に記録されている記述だ。公的機関、学校であれば学校日誌に一日の重要な出来事は記される。
松本には陸軍飛行場があった。当然のことだが「飛行場日誌」や「陣中日誌」があったはずである。日々の出来事、〇月〇日 午後15時、特攻機飛来 十五機、機種、九九式襲撃機、引率隊長〇〇〇〇中尉 などと最低限のことは記したろう。
代沢国民学校の鉛筆部隊は1920年4月10日、浅間温泉から広丘村に再疎開する。宿泊したのは郷福寺だ。このことを知って現地調査を行った。その時に出会ったのが代沢国民学校の疎開学童と出会ったという人だ。
「終戦になってから飛行場の方から黒い煙がぼうぼう上がったのを見ました。敵に渡ったらまずいというような書類を燃やしたと聞きました。」
公文書の焼却であろう。
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2024年04月09日
下北沢X物語(4918)―疎開学童80周年―

(一)歳月は矢のように過ぎ去る。思いが時間に追いつかない。あの80年前の苦難は消えがたい思いとして疎開経験者には記憶が残っている。「最後のチャンス、80年を振り返ってみたらどうだろう?」と私。「きむらさんに言われて心当たりに当たってみたけど、皆ね、その気になれないのですよ。何せ皆年ですよ。六年生だった人はもう九十越えていますからね……」山崎小学校のOB長谷川直樹さんの話だ。彼は疎開協の役員をやっていた。活動もやめたという。「しかし、ラストチャンスですね、浅間温泉に世田谷から行った学校は、七校ありますよ。同窓会もあることだし連絡を取り合って最後の協議会をやったらどうですか」と私は提案している。昨年の学徒動員80周年は話題になった。ところが疎開学童80周年は盛り上がらない。心は動いても身体は動かない……何とかできないか?
疎開は、敗退の予兆である。いわゆる絶対国防圏が敵によって攻められ落とされた。その一つがマリアナ諸島だ、敵はここに飛行場を作った、これによって大型爆撃機は日本本土をダイレクトに襲うことが可能になった。日本の諸都市が爆撃を受ける、この難から学童を守る。そのために学童を地方に強制疎開させた。縁故疎開も行われたが、それにも行けない者は学童集団疎開に参加した。
戦争は決してやるなと体験者は言う。戦争は融通が利かないことを知っているからだ。
どんなに戦況が不利になっても戦いは継続される。絶対国防圏が打ち破られたことは戦況にとって大きな綻びだ。が、戦争指導部は勝利への執念を燃やす。人間の習性だ、ファィティングポーズを取るとコブシが降ろせなくなるのだ。最近俄にきな臭さを感じるの敵基地攻撃能力だ。「おれたちだって戦争はやれるんだぞ」とい裏が見える、危険だ、戦争にならないようにする努力が一番だが、大人は恰好をつけたがる。人に潜む獣性は制御が効かない。
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2024年04月08日
下北沢X物語(4917)―文士町における啄木の系譜―

(一)伊藤文学さんから下北沢に啄木の係累がいることは聞いていた。詳しくは分かっていなかった。が、代沢小の疎開関係の資料から啄木係累と当地との繋がりが見えてきた。啄木の研究家の須見正雄は啄木の娘京子と結婚し,石川家に入籍して養子となり石川正雄となった。二人の間には晴子と玲児がいた。京子は昭和5年に急死した。正雄は後妻を娶り靖児を設ける。居住したのは北沢2−224、森厳寺に接した地所である。正雄と京子夫妻は函館から上京し協力して啄木研究雑誌『呼子と口笛』を創刊する。石川の自宅では啄木忌も開いていた(1955年4月13日)。三男の靖児は代沢国民学校の疎開学童として浅間温泉に行き浜館菊雄引率の蔦の湯、また再疎開先ではやはり浜館の真正寺で過ごしている。ネットには「昭和館」が後妻の節子と靖児との往復書簡をネットで公表している。正雄は北沢2−224で死去し、ここが終焉の地となっている。
(参考「石川啄木をめぐる人々考」(岐阜成徳大学国語国文 2004年3月刊 貞光 威 )
石川夫妻は上京し協力して啄木研究史『呼子と口笛』を発刊するが京子の急死によって昭和6年9月発行の第2巻9号で終刊をしている。この後、石川正雄は啄木研究家として啄木関係の著作刊行にたずさわっている。彼は昭和43年4月10日に69歳で死去している。
先に述べたように石川宅では、啄木忌が開催されていた。啄木を思慕する関係者が集まっていた。宮崎緑雨や野田宇太郎などである、当地域の啄木研究家の集いでもあった。石川正雄宅が拠点になっていたのではなかろうか。
石川正雄と石川京子は、啄木の業績を残そうと「呼子と口笛社」を発足させた。これの本拠地はどこかは分からない。しかし、編集などは自宅で行っていたと思われる。啄木の集いは函館が盛んだが東京では石川正雄宅ではなかったろうか。
伊藤文学さん、石川正雄のことはよく知っている、今日電話を掛けてみた。
「介護に行っていましてね」
「帰ってこられて電話でお話できますか?」
「いやあ、どうだか、もう92歳になりましてねてね……」と奥さん、電話取材も難しいようだ。
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2024年04月06日
下北沢X物語(4916)―文士町文学論文化論:了―

(一)コロナ明けの地図配りの再開だ、以前との変化はある。外国人が増えたことだ。町会のおばさん、「増えたわね、ここの緑道の花壇の手入れをしていますが、外国人はよくとおりますね。ジョギングの人も多いですよ」と。外国人といっても多様だ。下町から来た人はあちらではアジア系、中国人やベトナム人である。ここ北沢緑道で目につくのは色白金髪の西欧系が主流である。昨日、北沢4丁目に住む赤坂暢穂さんからのメール。「確かに外国人が増加しています。拙宅の近所には民泊があるようです。我が家の西の道、茶沢通りを良く外国人が通ります。また外国人の定住者も増えています。戸建は2,3億円すると思います、格差社会の例が顕在化しているのでしょう」と。外国人の下北沢人気、それは民泊が対応している。外資系の高級取りは区域のマンションに入って来ている。下北沢へ若者が来はするが家賃が高く定住はできない。「下宿と定食は下北沢」は既に過去。
先の代沢の堀江さんの話だ。彼は出戻り、一旦当地を離れていた。親が亡くなったことから土地を相続しなければならぬ、居住すると税が安くなる。やむなく戻ってきたと。
「同級生は皆同じですね、親父さんが昔、ここが便利だというので引っ越してきたんですよ。多くが戸建てでした。地価が上がっているから皆相続で苦労しています。
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2024年04月05日
下北沢X物語(4915)―文士町文学論文化論―

(一)地図配りでは見知らぬ人と地域文化を語るの楽しい「この一帯に居住していた文化人を地図上マークしているのはお宅の会だけですね。ある意味、地図にマークされるのはステータスを得た人ですね。が、けれどもこの町には名もない芸術家というか、音楽家や詩人や俳優は多く居ますよ。先々はどうなるか分からない、だけど夢を追って生きているんです。短時間でもステージに立ったり、舞台に出たりする、それが花なんです、生きている実感を得られるのです。そしてね舞台が跳ねた後に、安酒飲んで仲間と語り合うのですよ。『今日のやっくんは音が立っていて、銀ちゃんのは音が寝ていた』とミュージシャン。『桜子さんのセリフはキレがあった。けど、吉ちゃんのは言葉が死んでいた』と劇団員。言い合って時が過ぎていく、それが青春だ。当人が有名になってこの土地にマークされるかなんてこれっぽっちも考えていない。『下北沢芸術町混沌地図』というのがあるんだよ!」
「そう世の中、認知されない若い人は、ここには大勢いますね。有名と無名の境に生きている人です。自らの発信が世の中のどこかに微かに響いているという認識が彼らのレーゾンデートルになっているのです。つまりはこの地図からこぼれ落ちている人がここには蠢いているのです。YouTube的有名人なんかざらにいますからね」
文士村と文士町はことなる。
この4月3日、読売新聞オンラインが田端文士村を取り上げている。その見出しだ。
板谷波山や芥川龍之介ら100人超…「文士芸術家村」田端の魅力は美術学校に近く手頃な家賃
若くて大成することはない、文士芸術家は貧乏だ。衣食が低廉であることは必須だ。この下北沢にいたこともある井上靖は、「下北沢は下宿と定食屋の町」と言っていた。ここには学生や若い勤め人が多い。下北沢は沢筋だ、丘上は邸宅地で地価も高い。が、川筋は地価は安い、そこに建つ家は一階は店舗や住宅とし二階を下宿部屋としていた。若者がここに住んだ。そういう者を相手にする定食屋は安い。地の利がよくて大学に通うのに便利だということで若者が大勢住んでいた。
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2024年04月03日
下北沢X物語(4914)―気の集結地点としての文士町―

(一)下北沢文士町は、文化人密度が濃い地域だ。知性のある人々が当地域に参集してきたのは鉄道交差という利便性があったからだ。この知の集積には継続性がある。一つには受け継ぎがある、文士町という町場で受け継がれた血統である。当地域の学童が疎開したときに行った先では彼らがショックを地元に与えている。当地で育まれた都会的感性が田舎では光って見えた。作文を書かせると巧い、歌を歌わせるとハーモニーが素晴らしい。知性ある親から受け継いだ遺伝子である。当地における気の集積はある。この気が論ぜられることはない。しかし、文士町にはこの気が張っている。地図配りのときに通り掛かった祈祷師「沢というところは人の気が集積されるところだ。歩いてみれば分かるよ」、気が充満している文士町はクリエイティブな気に満ちている。
代沢小安吾文学碑前で我らは地図を配った。今度の新地図には代沢小に関しては新しい情報を加えた。「鉛筆部隊の母校」である。この鉛筆部隊はWikiにも詳しく載っている。私はここ三年ばかり6年生に「鉛筆部隊と特攻隊」の話をしている。
昨年十二月に「鉛筆部隊と特攻隊」というテーマで授業は行った。百数名の六年生は授業の感想文を書いてくれた。一人一人が丁寧に感想を書いていた。私は、自身鉛筆部隊の伝承者だ、やはり思いが伝われば嬉しい。それで全ての感想文をワープロで起こし、これをこのブログにすべて記した。記録としても貴重と思ったからだ。
「鉛筆部隊と特攻隊」では、核になる部分がある。特攻隊員が鉛筆部隊に手紙を出す。「この手紙が着くころにはこの世の人でない」と書いてあった。「皆さんに後の世を託します」と締め括っている。
今回、六年生が書いた作文の中に「後の世はまかせてください」と書いた者が三名もいた。心温まる思いが感想を通して伝わってきたことだ。私自身、思ったことは当地における気の伝承である。気概とか、気脈とか……
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2024年04月02日
下北沢X物語(4913)―やはり人は地図を配って死ぬ―

(一)我々の地図をAIに問うてみた。「『下北沢文士町文化地図』は、改訂九版で、下北沢の文士たちの足跡をたどるのに役立つ貴重な情報源です。興味深い文学碑や旧居跡を探索する際に、ぜひご活用ください 」と。九版を認識しているのは驚きだ。この地図配りを30日31日と行った。北沢川緑道安吾文学碑前だ、桜は咲き始めたばかりで人通りは少ない。しかし、好天気で暑いほどだ、人はそこそこに通る、子犬を連れての散歩人、足早に歩く外国人などだ。時に立ち止まった人と雑談をする。「ここを一旦離れたのだけど、親が亡くなり,相続税を払わなくてはならない、住めば税が安くなる」という出戻りの人も。緑道沿いは公示地価が軒並みアップした地域だ。新築一軒屋は皆一億円を超える。並みの給料では買えない。
「若者が住もうと思ってもここには住めませんね」と言った人がいた。
我々の地図配りはボランティアである。地図を配ってもいいし、配らずに椅子に座ってぼんやりと道行く人を眺めていてもいい。とがめだてられることは何一つない。
「ここに何もしないで居られるというのは幸せですね」と幾田さん。
「それは名言ですね」と私。
言わば黄金時間である。先年、地図配りでの記念写真を取り出してきたら、なんと九人写っている中で五人も亡くなっていた。ここから「人は地図配りをして死ぬ」というフレーズが浮かんで来た。実際ボランティアをしてみると皆がこの活動にやってきた理由が分かる。何をするでもないが、ここに居るという時間は安らぎだ。歩く必要もない。ただのんべんだらりと桜を眺めて座っていてもよい。
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