2024年05月
2024年05月31日
下北沢X物語(4953)―疎開・特攻・梅丘 8―

(一)「伝えたい私たちの戦争経験」(松本市発行 2013年)に女学校を出た人が証言している。彼女は飛行場に勤めた、1945年4月だ、仕事が「飛行機を直す整備員がどこの格納庫に何人いるか」と日報に記録することだったと。ここから容易に想像がつくのは飛行場の日報だ。何時、戦闘機が何機来たか、機種、機数、飛来地などが記録されていたはずだ、が、敗戦が決まると記録は燃やした。何もないので歴史が掴めない。彼女岡野さつきさん1923年生まれは記録している。特攻機が「飛び立つとき芸者の人が飛行場まで見送るのを二回ほど窓から見た。きれいな和服姿で二三人いた」とも。学童の見送りは何度も聞いた。色っぽい見送りもあった。が、この証言者は大正12年生まれ、生きていれば101歳である。
小柳の湯隊の行方を追っての話はいつまでも終わらない。そろそろけじめをつけなくてはならない。
小柳の湯隊は1945年3月某日に出撃に向けて陸軍松本飛行場を発った。編隊の一部、が浅間温泉まで別れに来た。小柳の湯の上空を旋回し、最後は機体を左右に揺すってさようならを告げた。南方向へ去っていく機を学童らはいつまでも見ていた。
松本の次は各務原である。ここから列島沿いに南へ向かう。どこへ行ったか。宮崎県新田原飛行場である。ここは不便である。彼らは近辺の佐土原、紫明館に宿を取った。
4月3日ここから小林三次郎さんは小柳の湯の学童に手紙を送った。
事故もなく全機集結。この手紙が着く頃はきっと戦果が発表される事でせう。
(堤、小川君からもよろしくとの事です。両君つかれてよくねむっている)
この手紙が着く頃はきっと戦果が発表される事でせう。どうか我々の活躍を御期待下さい。
全機というのは何機だろうか。武剋隊,武揚隊は15機だった。それにつぐものだろう。続きを読む
2024年05月30日
下北沢X物語(4952)―疎開・特攻・梅丘 7―

(一)終戦末期、陸軍松本飛行場に多数の特攻機が飛来してきた。記録は焼却されていてその全貌は分からない。が、飛来機の多さは、そこに意味があったからだ。例えば事実として把握できているのが第五航空軍、平壌からの飛来である。爆装改修のためである。これは1945年3月だ、目的意図は沖縄出撃するための準備だ。武剋隊・武揚隊は第二航空軍、新京からの飛来だ。前者の隊長廣森達郎中尉は、松本に2月に降りて「航空分廠に整備を依頼された」、これは「各務原陸軍航空廠松本出張所」だ。ここは新京飛来の戦闘機の爆装を最初に手がけた。これが成功し緒戦では大きな戦果を挙げた。これが関係各所に伝わった。小柳の湯隊もこの情報を得て飛来してきた。満州からだ。第二航空軍から沖縄侵攻を目指してやってきた隊である。
松本陸軍飛行場に飛来してきた特攻隊で具体的な話を掴んでいる隊は多くはない。武剋隊、武揚隊は別格だ、大本営直属隊で扱いも特別だった。機付きの整備兵がついていた。東山温泉にはこの彼らが寝泊まりしていた。ここには駒繋国民学校の疎開学童がいた。
疎開経験者からぜひとも話を聞きたいが、叶っていない。
小柳の湯のほかに湯本湯がある。ここに疎開していた代沢国民学校の疎開学童から話を聞いている。
「必ず靖国にお参りに来てくれよな」
隊員からは強く頼まれたという。ここにいた一人は、「振武隊」と書いてくれたという。
第六航空軍傘下の特攻隊である。九州が本拠地である。
全貌は掴みようがない。が、特攻二隊が分かっていることは幸いだ。この隊を通して類推することができる。
機種機縁も手掛かりだ。特攻二隊の機種は九九式襲撃機である。
1945年2月10日、新京で特攻四隊は発足した。このうち武剋隊、武揚隊、蒼龍隊は当初各務原で爆装改修を行う予定だった。前者二隊は三菱重工業製の九九式襲撃機であり、後者一隊は仲島飛行機製の一式戦(隼)である。
各務原は三菱重工業があった。その関係で各務原航空工廠は九九式は扱い慣れていたのではないか。各務原にやってきた特攻二隊は急遽予定を変更し松本に向かった。理由は敵による空襲の恐れがあったからだ。しかし、航空機は隊長の一存で好き勝手に動かすことはできない。
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2024年05月28日
下北沢X物語(4951)―疎開・特攻・梅丘 6―

(一)記録が歴史を創っていく、我々にはこのことに対する認識が希薄である。だから大事な戦時記録もあっさりと燃やした。それで歴史が分からない。先に「旧陸軍松本飛行場は本土決戦の航空拠点か」と原明芳さんの提起があったが、多数飛来してきた特攻機からすると沖縄決戦の航空拠点であった。が、飛来した機の素性は二隊しか分かっていない。不明な中で三隊目が分かりかけている。小柳の湯隊だ。歴史解明の最後の砦だ、ここの三人の疎開経験者から話を聴いている。みな90歳である。後がない,今どれだけ聞き出せるかだ。しかし、分かったのは断片だ、これを総合して推論を組み立てるしかない。
一人目は斎藤晶康さんだった。分館の椿の湯に来た特攻隊員と接触した。湯船は本館にもある。湯船の小さいこちらに来たのは、上官に遠慮してのことだろう。その彼らから覚悟を問われた。
「お前、天皇陛下のために死ねるか?」
興味深い問い掛けだ、きっと若い兵に違いない。少年飛行学校出の19歳とかが浮かぶ。
若者らしい衒いを感じる,俺たちは天皇陛下のために死んでいくがお前は?
彼は特攻出撃しての死を考えていた。
「はい、死ねます」
聞かれた者はこうこたえるしかなかった。斎藤君は四年生だった。
斎藤君は,分館椿の湯に滞在していた。男子だけの十数名だ。特攻隊員との関わりは風呂場だけだった。が、出撃お別れのときは、まっ赤な赤い毛布を持ち出してきて一生懸命特攻機に向かって振った。本館と分館は百四五十メートル離れて居る。お別れ,デモンストレーション飛行はこちらにも情報が届いていた。つまりは全校学童が知っていた。
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2024年05月27日
下北沢X物語(4950)―疎開・特攻・梅丘 5―

(一)訃報をまた聞いた、カフカ研究者、東大名誉教授の辻 瑆(ひかる)先生、5月14日に死去されたと。御年101歳だ、この一月には101歳の誕生日を迎えられミュンヘン大学から祝意の電話が掛かってきたという。生前お話を聞こうと思っていたがそれも叶わず亡くなられた。学徒動員で駒場の輜重兵連隊に入られた。度々鉄拳制裁を浴びたと。生前学者が総じて沈黙するようになって批判の声を聞かなくなったと。国家の右傾化を嘆いておられた。戦争を経験してきた世代には骨を感じる。91歳の小市泰子さん、疎開時代から大人の行うことに不信感を持っていた。学童に送られてきた食料品を家族で疎開してきた先生は貯め込んで自分たちで消費していたと。軍国主義の先生は手のひらを返すようにもうアメリカ風だったと。
昨日、邪宗門に行った、代田の山本裕さんが来て雑談。今津博さんの『代田の昔』の話になった。
「もう亡くなられたけど本当に貴重な記録を残されましたね。あれには戦争前の中原商店街の店名が載っています、貴重な記録です。人々がどんな生活をしていたか分かりますね。魚屋が三軒もあるのですね、面白いのは三軒とも店先は東向き、西日が当たらないようにしているんですね……やっぱり記録に勝るものはありませんね。この頃代田の西どなり梅丘のことを調べていますが。代田とは異なった文化がありますね。駅ができるのが遅かったのですね、梅丘以外は小田急開通年の昭和2年開業しているんですけど、梅丘は昭和9年、代田・下北沢地域とは文化が違いますね。取り残された分、自由性が高いというか、のびのびと暮らしていたみたいですね……」
一昨日だ、私は梅丘の小市泰子さんに電話した。何やかにや話しているうちに。
「あなたが私の人生をちゃんと書き換えてくれるんですね!」
彼女の証言がつじつまが合わない。口述と記録には乖離がある。特攻兵と東京で出会ったというのは記憶違いだったようだ。
彼女の言葉を聞いて人生修正師を思った。記憶の間違いを直して正確なものにする。
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2024年05月25日
下北沢X物語(4949)―疎開・特攻・梅丘 4―

(一)80年も前の戦争のことを調べている。まずは聞き書きだ、大切なのは裏取りだ、話は本当なのか?手に入れた日記や手紙で当たってみる。記録ほど確かなものはない。つまずいたのは話で聞いていたことと事実とが全く合わないことがあった。本人は、てっきりこうだったと信じて居る。ところが記録にあることとは全く違う。今回の一つの大きなトピックに小柳の湯で出会った特攻隊員と疎開学童の女児とが戦後に出会ったという話がある。類例のない話である。だいぶ前にこの話は聞いていた。当然のことながらその落差は大きい。これを知って「生き神さまとは会ってならない」と思ったものだ。今日改めて当人に確かめて、記憶違いが分かって安心したと同時にがっかりもしたことだ。
小柳の湯にいたのは正体不明の特攻隊だ。この旅館のはす向かいには富貴之湯がある。こちらの隊は、誠第三十一飛行隊がいた。隊員は15名だ、そのうちの一人が長谷部良平伍長である。どういう訳か彼が小柳の湯に度々遊びに来ていた。この宿のすずえさんは訪れてくる少年の相手をしてやっていた。この娘さん、戦後のことだ、長谷部伍長の母に手紙を送っている。
良平様はほんとうに良い方でした。小柳のみんなに可愛がられて居りました。元気で無邪気でお話好きで、良平様方の宿舎は向かひの富貴の湯さんでしたのに、夜などはほとんど毎夜こちらに遊びにいらして、飛行機のお話、ご自分の希望など、面白くお話なさるので、一人二人と此の可愛い兵隊さんを取巻いて愉快に過ごすのでした。朝、飛行場に行かれるとき、わざわざ小柳の玄関までいらっしゃって、「行ってまいります」と敬礼された……
『白い雲のかなたに』−陸軍航空特別隊 童心社 一九九九年刊
小柳の湯のはす向かいが富貴の湯である。
「雪が降ると互いの窓から雪合戦をしていましたね」
長谷川直樹さんは言う、それほどの近さである。
その富貴の湯から小柳の湯へ毎日のように長谷部良平伍長は遊びに来ていた。
疎開学童も姿を見かけているはずだが誰一人として「記憶にない」と言う。
この話はだいぶ前に教えてくれた人がいて、手に入れて読んだ。
この頃思っていることは、長谷部良平伍長は小柳の湯の隊員を知っていたのではないかということだ。武揚隊は満州平台にあった第23教育隊出身の特攻隊員だ。分かってきたのは小柳の湯の隊員も出身地は満州平台のようである。そんなことから長谷部良平は、仲間がいると知って小柳の湯に遊びに行っていたのではないか?
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2024年05月24日
下北沢X物語(4948)―疎開・特攻・梅丘 3―

(一)浅間温泉小柳の湯に疎開していた長谷川直樹さんと小市泰子さんから往時のことを聞いた。小市さんからは日記を借りた。「日記に言葉を書くときは本当のことは書きません、言いたいことがあれば学校に行くときにそっと手紙に書いてうちには知らせました」と小市さん、差し障りのあることや秘密は記さない。確かに日記には先生の朱が入っていて点検されていたことが分かる。疎開学童は日記を書き、手紙も書いた。この二つを読み解く場合は、日記には教師によ点検があることを勘案して読まなければならない。が、それはそれとして日記に当たると行間を読み解くおもしろさがあることを知った。
二人が特攻隊員と接したのは1945年3月だ、丹念に読んだが特攻隊に関わる記述はあまりない。それでも一箇所あった。小柳の湯に来た特攻隊は3月に滞在していた。なぜこの時期にここに来たか。理由は明瞭である、この月に米軍の沖縄侵攻が始まった。これに備えての飛来である。
どこから来たのか、これを推理する楽しさがある。これまでの経験から出撃地は第二航空軍、つまり満州在の特攻隊ではないかと思われる。この隊の目的は沖縄侵攻である。これに備えて彼らは朝鮮経由で当地にやってきたようだ。
小市泰子さん、旧姓は生方である。日記は丹念に書かれている。特攻隊の動向を考えると3月が中心になる。しかし、先月の2月25日の出来事も関連してくる。この点は大事である。(仮名遣いは読みにくいので現代仮名遣いに変えた)
2月25日 日曜 雪
六年生がかえるというのにちらちらとたくさん雪が降っている。今日は朝飯は赤いごはんだし、お昼も天ぷらだ。
六年生は二時に出発した。私たち五年生は浅間の駅まで見送りに行こうとする途中警戒警報が出、駅につくと間もなく空襲警報が出て敵B29が上空を五機で三回まわり、伊深の山のうらに爆弾を一つ落とし、焼夷弾を百くらい落としたがひがいはなくすんだ。
六年生のいない一夜だ、少しさみしかった。これからは五年生でしっかりやろう。
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2024年05月22日
下北沢X物語(4947)―疎開・特攻・梅丘 2―

(一)「疎開列車が山の中で停止をしました、そして後ろ向きに走り出したのです。『先生、こわいよ。このままだとぶつかってみんな死んじゃうよ』、『だいじょうぶだ、これは鉄道の仕組みなんだ、汽車は急勾配を上がれない、だからジグザグに坂を上るんだよ。これをスイッチバックっていうんだよ』、代沢小で疎開のことを話しているが、エピソードでこのスイッチバックの話をしている」山崎国民学校の藤居康宏さんの御両親が子どもに面会に行く途中、笹子トンネル近くを走行中事故に遭ったと。これを知ったときスイッチバックでの事故にちがいないと思っていたらまさにドンピシャリであった。御両親の突然の訃報を聞いて子はどれだけ悲しんだろう。が、これを人生の試練と捉えて子は必死になって頑張った。それは並大抵の労苦ではなかった。
遺された兄弟、弟は藤居康宏さん、兄は藤居寛さんである。こちらは帝国ホテルの社長を務めた人でウィキペディアにも事故のことが載っている。
東京都出身。終戦直後の夏1945年9月6日、15歳で両親を中央線笹子駅構内脱線転覆事故で亡くした。さらに事故の10日後に、身元確認のため埋葬されていた遺体を掘り起こし、その後自らの手で一晩かけて火葬した。以後、土木作業員などとして働き、祖母、妹、弟を養いながら学校に通った。
大学は一橋大学である、多分苦労を重ねたのであろう、努力が実って帝国ホテル社長を務めておられる。寛氏は終戦時は十五歳、疎開から引き揚げてもう中学に通っていたのだろうと思う。早くに親を亡くし,自分が頑張るしかないと懸命に努力をされたのだろう。
興味深いのは、彼の座右の銘がMBWAだったと。"Management by walking around(マネジメント・バイ・ウォーキング・アラウンド)"の略、訳すと「マネジャーは現場に足を運び、ブラブラしながら仕事をしましょう」、つまりマネジメント層が現場に足を運ぶ重要性を説いた言葉だという。
現場を歩く、大事だ、一昨日長谷川さんと小市さんと梅丘で会った。梅丘は土地の文化としても興味深いところだ、写真を撮りそこなったこともあって昨日また梅丘へ行った。
バス路線として梅丘から等々力操車場行きというのがあって興味を引いた。帰りにこれに乗った。乗客は案外に多かった。梅丘を南北に貫く道路は、東京山手急行の路線跡だ。
東京の交通網は放射状が主である、等々力行きバスは、南北縦貫線ラインとしてそれなりの需要があって運行されている、全線を乗ってそれを実感したことだ。
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2024年05月21日
下北沢X物語(4946)―疎開・特攻・梅丘 1―

(一)今年は疎開から80周年、当事者はもう90歳だ、今のうちに記憶を聞いて置きたい。昨日会ったのは長谷川直樹さん90歳、小市泰子さん91歳だ(写真)、共に山崎国民学校の疎開学童である、疎開先は浅間温泉小柳の湯だ、ここにも特攻隊員が宿泊していてこの二人は彼らと接している。が、彼らは、どこの何隊なのか不明である。松本に飛来した特攻隊二隊,武剋隊・武揚隊は調べ尽くして分かった。数多く飛来している特攻隊はほとんど一切が不明である。が、この小柳の湯隊はお二人からの情報でその素性が分かりかけている。昨日、小市さんが持ってきた彼らからの葉書に「神鷲隊」とあった、すわ、小柳の湯隊の正式名称かと湧き立った、この二人、またとない戦争の証言者だ、二人が語る話は、消えて行こうとしている近代戦争史の一端だ、記録をきちんと取って置かねばならない。
二人と出会った場所は、梅丘だ、昨日邪宗門に行ったとき、梅丘で取られた映画のことが話題になった。山崎国民学校の斎藤晶康さんのお父さんは斎藤寅次郎監督だ、梅丘に帰ってきた疎開学童を映画に撮っている。「東京五人男」だ。
「銀座カンカン娘」、「牛乳屋フランキー」、「驟雨」などなど多くある。
「『代田・梅丘のロケ現場を歩く』は、面白そうだ、ぜひ行いたい」
お二人と出会ったにはその梅丘だ。
「私の家から一番行きにくいのがこの梅丘なんですよ。電車は遠回り、バスは本数が少ないのです、一番は歩きです、家からひたすら北上するとここに着くのです、ぴったり一時間で着きました」
帰りも、山崎小を写真に撮っていくからといい、結局は歩いた。
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2024年05月19日
下北沢X物語(4945)―鎌倉橋の「閑窓一盞」碑 2―

(一)北沢川緑道鎌倉橋たもとに三好達治文学顕彰碑を建てたのは2014年(平成26年)11月29日だ。もう十年の月日が経った。世田谷代田は詩人の終焉の地である。先だって神戸から来られた研究者を案内した。旧居跡は駐車場になっている「何もないのですね?」と。そう全く何もない、かつて福井東尋坊に行ったとき横七メートルもある黒御影石に「荒天薄暮」が刻まれていた。また近くには『測量船』の巻頭の「春の岬」を彫った歌碑もあった。昭和期最大の抒情詩人の三好達治をこの土地は最大限にもてなしていた。が、終焉の地代田には全く何もなかった。そもそも当地に住んでいたことさえ人は知らない。それで何とかして碑を建てたいと思った。が、膨大な詩がある、どれを碑にするか?
四番目の詩碑だった、土地ゆかりのものを刻みたい。
第一番目の『坂口安吾文学碑』は、代沢小学校の一角に建立した。彼、作家は当地を舞台とした『風と光と二十の私と』を作品に描いている。そのことから一節ここから抜き出して碑に刻んだ。
二番目が、「代田の丘の61号鉄塔由来碑」である、萩原朔太郎の生存痕跡を記すものとし鉄塔を世田谷区地域風景資産に申請し、認められたことから建立した。緑道から鉄塔が望める場に建立し、碑文には萩原朔太郎『定本青猫』の一節を刻んだ。
三番目が『横光利一文学顕彰碑』だ、これには横光家の協力を得て、庭に敷かれていた鉄平石二枚を敷いた。小説『微笑』で有名な石だ、つまりこの踏み石を渡る音で、訪問者の用向きが解ったと横光利一は書いている。
土地ゆかりのものや景色を文学碑に生かして建ててきた。このことを踏襲して建てたいと考えたものである。
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2024年05月18日
下北沢X物語(4944)―鎌倉橋の「閑窓一盞」碑―

(一)後になって、ああそうだったのかと思うことはよくある。つい最近、こんな記事に出会った、「『閑窓一盞』は昭和二十九年一月一日の朝日新聞に同紙の都合で『朝晴』と題して発表されたものである。後年、吉田精一教授出題の東大入試問題にも挙げられて、一部には早くから注目せられた佳品である」(『三好達治』 石原八束)とあった。北沢川緑道に詩碑を建てるときに達治詩のどれを刻むかさんざんに悩んだ。そうして選んだのはまさにこの詩であった。如上のいきさつは全く知りもしなかった。三好達治は1945年2月福井三国から疎開生活を切り上げ世田谷代田に転居してきた、そして1964年4月に死去する、当地では19年間居住した。昭和期最大の抒情詩人と言われる詩人、彼の生の痕跡は代田には何もなかったことから詩碑を建てた。
2004年に北沢川文化遺産保存の会を発足させた。まず埋もれた文化を耕すことから始めた。その一つが三好達治の旧居探しだ。年譜には「世田谷区代田一ノ三百四十三番地」とあった。しかしこの旧番地が今のどこに当たるか分からない。
旧番地探しは難しい、一応、旧番地は新番地のどこに当たるという資料はある。しかし、昔の番地は広い、それゆえにピンポイントで探り当てることは難しい。一番の情報は土地の人の覚えだ、「確かうちのはす向かいに三好さんは住んでおられた」と近くの河野さんのお婆さんの証言があった。これが決めてとなって分かった。
この話を聞きつけたのは夕暮れだった。半年も探していたゆえにその場所を確認せねば気が済まない。薄暗い中、そこへ急いだ。やはりその場に行くことは大事だ。
坂道になった路地の側に、その敷地はあった。「なるほどここだったか!」,感動を覚えた。坂道ゆえ駆け下る人は音を立てる。詩人はエッセイの中に、ここをくだる新聞配達の男の足音を聞いて年齢を当てていたと書いていた。
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2024年05月16日
下北沢X物語(4943)―忌日の『猫町』散歩はミステリアス 4―

(一)吉増剛造は「なぜ、下北沢などに朔太郎はやってきたのだろう」(『氷島・下北沢』)と投げかけている。彼朔太郎は「都会!それこそ我ら人間の久しい恋人」(『あたらしき欲情』「幻影の都会」)と都会を渇望していた。その彼が当地にやってきた。それは都会の片鱗が渦巻いていたからでは?つい数日前富山県射水市の人から伝説のアパート下北沢「静仙閣」の写真が送られてきた。高級アパートである。メールには「祖父はローラースケート場もやっていました」とあった。その祖父こそは静仙閣のオーナーである。この彼は下北沢での成功者である。印刷会社を経営し、高級アパートも造った、事業欲はとどまらずスケート場に手を伸ばした。その跡に今の「SHIMOKITA COLLEGE」が建つ。
この建物の右隣につい数年前まで日本家屋が建っていた。土地の古老佐山一雄さん宅である。彼から一帯のことについて数多くの話を聞いた。(写真道路の右奥)
「家の庭にあった海棠の樹は大きくてな、季節になると花を咲かせ、小田急線からこれがよく見えて通勤客の目の保養になっていたんだよ」
そのお宅は、更地になり、いまは全く別の新しいものが建っている。ちょうどここは小田急線路と小川(ダイダラボッチ川)と交差する場所だ。線路と鎌倉通と旧道とが集まっているところだ。
このお宅に何年通い詰めたのだろう、佐山一雄さんが体験した話は、彼から聞き取り、ここにほとんど全て記録してある。彼は、隣にあったローラースケート場の名手であった。そのスケート場はフリーパス。彼は毎日練習していた。超高速で滑走して行って急ブレーキを掛け、そのときにくるんと一回転して停まる。お得意芸だった。
「佐山さんがスケートに夢中になっているときにここの鎌倉通りを詩人の萩原朔太郎がよく通っていたんですよ。知りませんか。」
佐山一雄さんの西隣は斎田さんの田んぼだった。ちょうど小田急線と井の頭線の交差が完成してとおりは賑やかになるはずだった。が、人の流れは大きく変わらずに、田んぼに建てた中原百貨店は店を畳み、その基礎を活用してローラースケート場ができた。
入ってきた情報によると藤井剛さんの祖父がここのオーナーだったようだ。とすると新しい百貨店構想も彼の発案ではなかったか?
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2024年05月15日
下北沢X物語(4942)―忌日の『猫町』散歩はミステリアス 3―

(一)詩とは何か、「世界を凍らせる言葉」と言ったのは吉本隆明である、詩語に接した途端、世の真理を知って凍り付くことはある。「星と月は天の穴」と言ったのは吉行淳之介だ、認識の盲点を衝いた言葉だ。しかし、詩はもっと深いところを突き刺してくる。人生認識へのくさびを打ち込んでくる。朔太郎は謳う、「過去は寂寥の谷に連なり/未来は絶望の岸へ向かへり/砂礫のごとき人生かな!」(『氷島』「帰郷」)人生とは味気ないものだ。人間は決して幸福ではない。それでも微かな望みを持って生きている。そういう微温的な人生を破壊してしまうのが詩でもある。詩は世界を凍らせもする。が、微かな希望もある、なぜならここにはまだ色があり音楽があるからだ。時に「幻影のやうなオーロラを」垣間見せもする、そして「魂も切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居」もいる、それらは色であり、音楽であるからだ。
朔太郎の忌日に歩いたことで詩への認識を深めた。その時代の空気に触れ得た思いがした。朔太郎は1942年5月11日に亡くなった。82年が経過した、その往時が思われた。あの時はどうだったか、率直に言うと「詩が熱く生きていた時代だった」、詩が青年の心を捉えて放さなかった。菊田一夫は神戸から上京してくるがまっさきに鎌倉材木座に住む朔太郎に会いに行っている。彼は詩人志望だったのだ。「萩原朔太郎 津村信夫」と検索すると。トップに引っ掛かるのが「四季」だ。昭和11年10月号だ。「萩原朔太郎 室生犀星 立原道造 津村信夫 三好達治 丸山薫 他」とある。田舎の詩人志望の青年は四里もの向こうの駅前の本屋にこれを自転車に乗って買いに行った。「入荷は明日だ」と言われ,青年は駅で夜を明かした。東京行きの急行の最終のテールランプを見て彼は涙を流した。あの時代、詩は青年の心にふつふつと生きていた。
まだ私も文学青年なのかも知れない。大田図書館まで四里はないが一里はある。ここへ行くために田園調布を突き抜けていく。今は薔薇の盛りだ、が、大邸宅の田園調布では薔薇はあまり見かけなかった。前に尾山台の邸宅街の一軒が薔薇に蔽われていた。見とれていると奥さんが出て来てどうぞご覧になってくださいと。彼女の白い着物は歩くとそれぞれの薔薇色に染まった。薔薇に生きている人がいる。
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2024年05月13日
下北沢X物語(4941)―忌日の『猫町』散歩はミステリアス 2―

(一)朔太郎忌は何と呼ぶのだろうか、真っ先に浮かぶのが「おだまき」だ、代田の家は空襲で焼けた。「書斎の真ん中に父の写真と一緒にいつもこの額が飾られていた」(『天上の花』という、『父・萩原朔太郎』出版記念のときに三好達治が持ってきてくれたのが「ところも知らぬ山里に/さもしろく咲きてゐたる/おだまきの花 朔」,家宝の色紙だ。朔太郎詩「夜汽車」の末文だ、朔太郎は好んでこれを書いていたと。おだまきの花期は5月である。「おだまき忌」は「き」が重なるので語呂が悪い。が、「おだまき忌」に「猫町散歩」をするというのもいいのではと思う。
忌日に「猫町」散歩をしたのは初めてだ。葬儀は代田の自宅で行われた。大勢の詩人、文人が訪れたという。中でも室生犀星は病をおして来たという。参列者が群れをなして鉄塔61号脇の急坂を下っていった様が想像された。転げ落ちるように下る、病気だった室生犀星は介添人い支えられて坂を下ったのではないか。
この坂はネックである、当時は舗装もされていなかった。石などがあればつまづいて転んだところであろう。萩原葉子は祖母から言われたようだ「朔太郎が転ばないように石を除けておきなさい」と。
急坂はネックである。この坂はよく通る、大概が上から下へ降りる。が、前に安曇野から来た人を案内したことがある。路地を西から来て、角を曲がる、そのとたんに鉄塔がのしかかるように聳え建っているのが見えた。
「これはすごい!」
通常とは反対の方向から行くと鉄塔が違って見える。
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2024年05月12日
下北沢X物語(4940)―忌日の『猫町』散歩はミステリアス―

(一)「下北沢『猫町』散歩」は何度も催してきた。が、命日に行うのは初めてだ。生誕の地では前橋文学館主催の朔太郎忌が行われている。当方は、終焉の地だ、息を引き取った場である、苦しみの声を聞いたという人の家も確認できた。それは生々しいものだ。終焉の地は意義深い、『氷島』冒頭は、『漂泊者の歌』だ、その一節、「ああ汝 漂泊者!/過去より来たりて未来を過ぎ/久遠の郷愁を追い行くもの」と、彼は永遠の漂泊者である、命が絶えることはさすらいが終わることだ。が、肉体は滅びても魂は生き続ける、吉増剛造『黄金詩編』には、こつ然と「下北沢裂くべし 下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生える、なぜ下北沢、なぜ」と描かれる。意識下に朔太郎が命を終えた場という認識があってのかくなる表現だろう。私達は路地路地で詩人の気配を感じながら歩いた。
「吉増剛造氏は、朔太郎を思慕し続けている詩人ですね。彼はエッセイの中で『下北沢には至るところに次元穴が空いている』と言っています。彼もまた当地を朔太郎の面影を求めて歩き回っていた。ひっそりと終焉の地めぐりをしている人は結構多いのですよ」
まず下北沢駅前では昭和17年5月12日に載った訃報を紹介した。
詩人萩原朔太郎氏は十一日午前三時世田谷区代田一ノ六三五の自宅で肺炎のため死去した。享年五七、告別式は一三日午後二時から三時まで自宅で営まれる。
「この葬儀には大勢の文学仲間が駆けつけています。告別式のときの写真が残っています。一番左側に『北原白秋』と書かれた花環が飾ってあります。調べたら彼は自宅で病気療養中だったようで参列できなかったのではないかと。無二の親友の室生犀星はやはり病気でしたが、病を押して参列したようです。朔太郎の自宅に行くにはころげおちそうな急坂をくだっていくのです。室生犀星にはきっと介助の人がいて支えられながら下ったと思います。」
斎藤茂吉、堀辰雄、谷崎潤一郎などが駆けつけたと。この葬儀委員長は佐藤惣之助である。朔太郎の妹アイのご主人である。朔太郎の葬儀のことを思い出すと、ここにまた新たな人生模様が浮かび上がってくる。ドラマである。

(二)
「一昨年は、没後80年、萩原朔太郎大全2022が行われました。全国規模で参加館は52箇所にも上るものでした。映画も創られていますね。萩原葉子『天上の花』ですね。萩原朔太郎終焉の地におけるドラマですね」
葬儀委員長だった佐藤惣之助は葬儀が終わって四日後に急逝してしまいます。あわただしですね。今の季節は、薔薇が咲いていますね。
心労が祟ってのことだろうか、あるいは酒を飲みすぎたのだろうか突然に亡くなってしまった。
実は、私は、この佐藤惣之助旧居ずっと探している。番地は分かっている。当時の住居で言えば、雪が谷だ、が、今の新番地表示だと東雪谷である。居住していた場所は分かってはいるが当時を覚えている人がいないかずっと探しているが、まだその人に行き会ったことはない。
丘上の邸宅街である、垣根にはやはり薔薇が咲いている。
外はまぶしい初夏の日が陽がてって、前日師が最後に生きて家を出られる時、しばらく母上とその花の匂いをかいでいらっしゃったという薔薇が二株、沢山の花を咲かせている。又つゆ草やなるこゆりやデージーも沢山の花を咲かせている。
「かく逢った」 永瀬清子 編集工房ノア 1982年刊
詩人の長鸚胸劼郎監A敘圭を師と仰いでいた。それで葬儀に駆けつけた。萩原葉子も参列していて惣之助が薔薇の花に埋まっていたと書いている。が、彼女は家を洗足池としている。居宅は荏原病院のすぐそばだ、かつての伝染病隔離病院で丘上に建つ、洗足池的な雰囲気はない。
惣之助宅は季節の花々に埋もれていた、奥さんアイの趣味だろうと思う。
(三)
朔太郎が死に、佐藤惣之助が死んだ、それで新たなドラマが生まれた。
萩原葉子『天上の花』の一節にこうある。(講談社文芸文庫 1996年刊
出発の三十日の朝、母があまり気を揉むので私は気おくれがしたが、思い切って発った。途中で空襲に遭ったらと、そればかり案じたが運を天に任せた。
これは「慶子の手記」となっている、主語は慶子、すなわちアイである。期日は、朔太郎の二周忌を終えた5月30日のようだ。世田谷代田の家を出たというとだ、駅は、小田急線世田谷中原駅だ。夫が死んで、実家に戻っていた、慶子は三好達治から求愛されて、それを肯ったそれで彼の待つ福井三国に旅立った。
三好達治は、早くから慶子に心を寄せていた。惣之助亡き後、独り身なった慶子へ求愛をした。妻子或る身だが離縁しての結婚である。
「幾田さん、映画を見たといっていましね?」と私。
「よくできていましたよ」
「私はね、なんか筋立てが見えるのですよ。詩人を悪者にして、美人を美人に描く、そして詩人と美人はやはり合わないみたいな筋が想像されるのです……」
2024年05月10日
下北沢X物語(4940)―朔太郎忌日に「猫町」を歩く 2―

(一)終焉の地は一箇所しかないと述べている。これが意味するところの肝要な点は「生々しい」ということである、つまりは晩年の彼の姿が具体的に想像できる場面が方々にあることだ。詩人の住まいの側には鉄塔があった。青空を穿つて聳え建つ銀色のこれは「快適な微笑を与えるもの」(『新しき欲情』)と詩人は言う、一方娘の葉子には不安を萌すもの、「あの鉄塔で感電死するのが運命」(『蕁麻の家』)と述べる、これこそが「代田の丘の61号鉄塔」である。これは世田谷区地域風景資産として申請し認められたものだ。この鉄塔、風が吹けば風切り音が鳴る、またジィジリと火花をも放つ、青猫である。かくのごとく終焉の地には生々しい痕跡が今もある。『猫町散歩』のハイライトである。
1942年5月12日、葬儀が自宅で挙行された。大勢の詩人が参列したという。病を押して出席したのは無二の親友室生犀星である。彼の自宅の目印となった鉄塔、そこから家へは急坂を下る、人に支えられて下ったのだと思う。新築したときも呼ばれて彼はここへ来ている。葬儀のときにこの家は苦労して作ったのだと言っていたという。
娘の葉子は、家の下には川が流れていてこの瀬音が耳に入ったと言う。人がしゃべっているように聞こえたと。朔太郎の故郷の川は「広瀬川」だ。これを描いた『抒情小曲集』には
広瀬川白く流れたり
時さればみな幻影は消えゆかん。
ひとが喋るように聞こえる川音を詩人は世田谷代田で聞いていた。広瀬川が想起されただろうか。北沢川である。
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2024年05月09日
下北沢X物語(4939)―朔太郎忌日に「猫町」を歩く―

(一)遙か昔の青春、公務執行妨害で逮捕され大井町署に留置された。面会にきてくれた先生、「静謐な人生を生きるのだ」と、これは鮮明に覚えている。目立たず生きることの大切さだ。先日、世田谷広報に「萩原朔太郎の忌日にゆかりの地の下北沢代田を歩く」を出した、心配は目立ち過ぎだ、が、そこそこの反響があって安堵した。反応で面白いものもある。驚いたのは申し込みの女性「私は今でも下北沢の踏切が忘れられないのですよ」と。「そうそう忘れてはいけませんね。私ね踏切との別れが惜しくてエッセイを書いたんですよ」と「えっ、本当ですか!」と。彼女の問い返しを聞いて瞬時に想起した。「無限に遠き空の彼方/続ける線路の柵の背後に/一つの寂しき影は漂ふ」、萩原朔太郎の『漂泊者の歌』の一節だ。小田急線の線路脇を歩いていたのか?
申し込み者と電話で盛り上がった。つい先だって亡くなられたフジコ・ヘミングさんの話になった。
「金子ボクシングジムのわきの坂を上ると踏切がありましたね。あのそばにフジコ・ヘミングさんは住んでいました」
「そうそう、東北沢3号踏切です」
「3号踏切というのですか?」
「そうそう、交番前踏切が4号、それから路地踏切の5号、そしてあのオオゼキ前の開かずの踏切だったのが東北沢6号なんです、懐かしいですね」
「ええ、よく分かります、そうして番号をつけていくと場面が鮮明になりますね」
「そうそう、大事です。それぞれの踏切には固有性がありました。」
「へぇ、そうなんですか、初めて聞きました」
「3号はのどかだったんです。警報器がカンカンと鳴るでしょう、そうするとピアノ練習しているフジコさんの連弾が聞こえてくるのです、しゅわるる、たらららとか、そうすると警報器がセッションして、くわんくわくわんと鳴るのですよ」
「へぇ、素敵ですね!」
「フジコさん、外国にもお家を持っていらっしゃるそうです」
「それは知りません、私ら文化人の旧居マークを地図につけていますが、新しいのにはつけないと……」
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2024年05月07日
下北沢X物語(4937)―小さな歴史真実を求めて 2―

(一)長年、小さな歴史真実を追い求めてきた、私のこの一断面を描いている人がいる。宮崎神宮の禰宜職に就いておられる黒岩昭彦氏である、「ある初老男性の宮崎神宮参拝に始まる」(『米良の桜』)と彼は逸話を紹介している。端的に言えば自身の訪問によって神社二千年の歴史の一端を覗き見ることができたと。常々自身は、事を秘かに行うことを心掛けている。昨日、呑川緑道を歩いていると、「あんたよくやるね、ここのヤブカラシをいつも黙々と引っこ抜いているでしょう!」と御大は言う、お忍びでの所業がついにバレたか?と思った。何を隠そう、自称、呑川緑道(写真)ヤブカラシ退治隊の隊長である、部下はいない。ただひたすら緑道の景観を汚しているツルを退治して回っている。習性は恐ろしい、気づくと個人宅の垣根から伸びているこれを懸命に引っこ抜いていた!
その御大は、昭和19年4月生まれ、ついに80歳になったばかりだという。
「それは素晴らしい、70歳を越えるのは第一関門、第二関門は80歳なんですよね」
「いや、まったくそうだね、やっぱりどう生きるかだね、ヤブカラシを取っては散歩する、素晴らしい健康法だね」
彼とは立ち話をした。言葉を交わすことで人の生きざまがわかる。彼は人生をおもしろがって生きている、これは必須のことだ、おもしろがれば面白くなるのである。
私は、日々歩きながら考えごとをしている。その場合、過去に蓄積した記憶を材料に思いに耽る。
長年、疎開学童と接した特攻隊のことを調べてきた。公的記録はほとんど残っていない。主には疎開学童が残した手紙や日記、そして聞き取りを軸にしてきた。核となる疎開学童も年老いてしまい、新たに話を聞くことも少なくなった。
ただ最近では、新たな情報は得られないがこれまで蓄積してきたことに重要なヒントがあると思うようになった。
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2024年05月06日
下北沢X物語(4936)―小さな歴史真実を求めて 1―

(一)ずっと謎を追いかけている、取るに足らないことかもしれない。けれども十年経っても気がかりだ。浅間温泉小柳の湯に特攻隊が滞在していた、同宿した世田谷山崎国民学校の学童と仲良くなった。やがて出撃の日が巡ってきて陸軍松本飛行場を飛び発った。その折戦闘機で宿屋にお別れにきた。つい先日斎藤晶康さんからこの時のことを伺った。彼はまっ赤な毛布を振って見送ったと。その彼らは前線飛行場にたどり着いた。この時に学童へ葉書を送った。間もなく出撃の予定だ、新聞をよく注意して読んでくれと。彼らの隊の戦果報道への注意喚起だ、ところが時が経ってこつ然と満州から「みなさん元気ですか」との手紙が舞い込んできた。一体出撃はどうなったのか?
小柳の湯にいた特攻隊はどこの何隊なのかは全く分からない。航空隊は空からやってきて空の向こうへ消えていく。飛行機ゆえに記録がなければ何も分からない。
陸軍松本飛行場には数多くの特攻機が飛来してきた。が、明確にその隊名と行程とが分かっているのは二隊だけである。武剋隊と武揚隊だ。
昨日は、世田谷公園まで行った、その折に世田谷平和資料館に立ち寄った。ここに調べを一つ依頼していた。それで挨拶に立ち寄った。
「駒繋小学校(写真)のことについて調べをお願いしています。学校は浅間温泉に疎開をしていますが分宿した旅館に東山温泉があります、ここに90名ぐらいがいました。そこに居たどなたかに話を伺えないかと……」
その温泉旅館には兵隊たちが泊まっていた。彼らの世話をした女中さん、彼らが特攻兵だと思って思いやりをもって接した。ところがその彼らは特攻隊に同行していた整備員だった。
往時の学童たちが彼らのことについて覚えていないか、ぜひ知りたい。これも歴史の小さな真実である。
「ええ、聞いています、調査結果はいずれ電話でお知らせします」
その整備員は武剋隊の機付き整備兵である。
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2024年05月05日
下北沢X物語(4935)―「子どもの日」に思うこと―

(一)日本の報道の自由度世界70位と今朝の新聞は伝えている。メディアが報ずべきことを報じない。公器としての役割を果たしていない。これは子どもの未来と直結する話である。言えば大人社会は、深刻な問題を子どもへつけ回してをしている。大きな問題は防衛費増額であり、原発再稼働である。これらは未来の子どもに大きな負担を押しつける問題だ。私達は経験から知っている戦争が始まれば終わることはない。なのに政府与党はアメリカのいいなりになってミサイル防衛網を築こうとしている。戦争に備えるのではなく当事国との話し合いが一番だ、アメリカの国務長官は中国周主席と会談をした。が、我らの国家はそういうことをしない。もう一つ我々は深刻な不安を抱えている、この列島で地震が頻発している。近々大地震がきて日本中が核汚染されるのではないかとの危惧だ。地盤軟弱で地震が多い日本に原発は不向きだ、なのに政府与党は再稼働をしようとしている。途方もない原発のゴミを次世代につけ回そうとしている。報道自由度70位は頷ける。
今、この国家は縮みはじめている。人口偏在がますます大きくなり、都市は栄え、地方はどんどん寂れている。東京一極集中は顕著である。自身の居住区は荏原である。住宅需要は堅調だ、空地が出るとすぐに売れる。建築計画がすぐに表示される。しかし、大きな問題が生じている。資材高騰、人手不足で思うように建設が進まない。
繁華街を歩くと不動産屋がセールスをしている。住宅の値段、金額を見ると一億,二億というのはざらだ。東京湾沿岸のタワマンは売れ行きが好調だと、数億はするらしい。が、共働きの夫婦に人気だという。
共働き夫婦で高給取り、共に裕福な家庭で育った人だろう。有名大学に通わせる資力がないと進学は難しい。自力学習ではなく有名私塾で鍛え上げられた。そしてお有名大学に入り、大手企業に就職した人だろう。通常,我々一般人は、一流私塾、一流大学に行くのは難しい。
一般家庭で子どもを進学させるのは大きな負担だ、何と言っても学費が高い。私立高の生徒と行き会う。ジャージには皆名前が刺繍されている。単価は高いに決まっている。何か社会の仕組みが学費を押し上げていると感じる。
一般家庭の通常収入で進学させるのは困難だ、それで奨学金を申請してそれをもらい大学を出る。が、皆が厚遇されるわけではない、卒業したとたんに一千万単位の借金があって、その返済に汲汲とするばかり、結婚すらもままならない。子ども生まれるわけはない。
(二)
毎日散歩をする、保育園児と出会うのは愉しい、公園で「アリンコがいた」と保育士さんに報告する姿は可愛い。高架橋にはいつも子どもがたむろしている。通り掛かった電車にいっせいに手を振る、すると運転手さん、タイフォンを一発鳴らしてそれに答える。
小学校では運動場で子どもがボールを追ったり,駆けたりしている。子どもが潑剌と動いている姿を見るのは愉しい、こちらも活力をもらっている。
しかし、今過疎化は深刻だ。子どもがいない。
「最近な、下の方でなんと赤ん坊が生まれたというんだ、わしはな一里ばかりの道を歩いてそのお宅にいったんだ、そうするとなオギャーオギャーという泣き声が聞こえる、何十年ぶりに聴いたもんか、あの声を聴いてわしゃあな、生き返ったよ、冥土の土産ができたよ……」
全国交通網の構築、高速道路、新幹線、これが巡らされた。東京を中心にこれらが作られた。東京は一層に便利になった、この交通システムが東京に人を吸い上げた。田舎では閑古鳥が鳴く。一方の東京に行くと、渋谷には気持ちが悪くなるほど人が溢れている。国土の均衡的な発展と進歩はない、東京ばかりが肥え太っている。
(三)
子どもは幸せか?
親の平均年収は減るばかりである。通常働いても人一人が食っていくのが精一杯だという人もいる。問題は山積している。官製ワーキングプアも一つだ、地方では時給は1027円で変わらない。ゴールデンウィークがある五月は十万円切る、食べることすらままならないという。
現今日本では貧富の格差が著しい。富める人はいっそうに金持ちに、貧しい人は食すらままならない。子どもがいる家庭では子すら育てられない。欠食児童すら出ている。
現今与党、自民公明の一強体制が大企業偏重の日本を作ってきた。政治献金をちょろまかして大企業が肥太る構造を作ってきた。
驚くべきことに30年で平均年収がほとんど変わっていないという。
現今政府与党をこのまま温存させていたのでは社会は変わらない。野党主導の政権政党が期待される。選挙に行って健全野党に投票するしかない。
(写真は、今日の世田谷公園、碑文谷公園)
2024年05月03日
下北沢X物語(4934)―学童疎開・特攻から80年 5―

(一)山崎国民学校の疎開出発は遅かった。19年8月27日である、梅丘駅から出て行った。午後8時から行われた学校での壮行会では「海ゆかば」が奏せられたと同窓会報「光りとりどり」では記してある。それで悲しい気持ちになったと。反対に到着時には駅前で「勝利の日まで」を歌わされたという。「なぜにこの歌をうたわなければならないのか」違和感を覚えたと書いている人もいる。この帰着は宿舎がバラバラで帰着時に何もなくてただ解散という組みもあったと。とても興味深かったのは梅丘駅帰着時は映画で撮られているという話を長谷川直樹さんがしていた。何という映画かと聞いたが分からない。撮影者斎藤寅次郎監督の息子さんに聞いてみた。それは『東京五人男』である。
監督は斎藤寅次郎監督である、敗戦でショックを受けた国民を励まそうという意図で作られた映画だ。これからは映画の時代がやってくるという確信的な見通しがあって撮ったようだ。終戦直後の秋にクランクインしている。この映画はYouTubeにアップされている。
まず疎開学童が帰ってくる場面だ。駅前に群衆が詰めかけている。写っている駅舎は梅丘駅である。駅構内が写ってそこに各駅停車が入ってくる。
「桜ヶ丘、桜ヶ丘」との駅案内放送がある。が、ロケは梅丘駅で行われている。
駅前に集まった親たちが盛んに手を振る中を学童たちが列を組んで小走りに駆けてくる。そして下車してきた学童たちは駅前に整列させられる。前に立ったのは男の教員である。出迎えた校長が挨拶する、歓迎の式典である。
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2024年05月02日
下北沢X物語(4933)―学童疎開・特攻から80年 4―

(一)記録は歴史の根幹だ、が、我々はこれをないがしろにしてきた。都合の悪いものは焼却したり書き換えたりする、戦時記録もそうだ。飛行場日誌もあった、着時刻、機数、機種、所属隊、人数などが書き記されていた。が、昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定する。即座に軍関係の関係書類の焼却が命令された。歴史は闇に葬られた。終戦末期沖縄戦を控えた陸軍特攻機が信州山岳地帯にある松本飛行場に陸続と飛来してきた。しかし公的記録は焼却され残っていない。僅かに残された記録。疎開学童が書いた日記や手紙から事実を掘り起こす。これらを丹念に見ていくしかない。先だって山崎国民学校斎藤晶康さんから聞き取りをした。改めて2005年発行の同校同窓会報「光とりどり」読み直してみた。
小柳の湯は浅間温泉でも一二を争う大旅館であった。山崎国民学校の学童はここを本館とし175名が入った。分館の椿の湯は15名が収容された。春三月、ここにも他の旅館同様、特攻隊員がやってきた。その総数は分からない。が類推するに他隊の編成からすると十五名であったと思われる。
ここに滞在していた特攻隊員は全員がここに起居していた。浴槽も広かったが下士官たちは上官に遠慮して分館の椿の湯にもらい風呂に行っていた。
本館は学童の人数も多く、互いに接することも多く。顔見知りとなったようだ。
本館の湯船は広く大きく、隊員と学童とが一緒に入った。
彼らは昼間飛行場に出かけては飛行訓練を繰り返した。とくに若い隊員は練度が不足していた。それで練習はとてもきつかった。旅館に帰って風呂で油で汚れた身体を洗い、湯船に浸かった。気持ちよくなると歌を歌った。
学童が一緒に入っていると「歌は好きか?」といって話し掛けてきた。兵隊との交流の一端を今井賢治君はこの文集に書き記している。タイトルは「誰も書かなかった集団疎開」である。
大きなタイル張りの浴槽に硫黄分を含む温泉に毎晩入浴できたが、子どもには有難味はなかった。軍事演習帰りの兵隊がドヤドヤ入ってきたが、子ども好きで軍歌を歌われる。
ロッキー山脈アルプスの
雪の峰峰見下ろして
操縦棹を握れば
エンジンの音懐かしく
心も躍る雪の上
アアそうなるや航空兵
この歌は、「航空兵の歌」である。作詞 久保木巌 昭和3年(1928)とある、飛行兵の愛唱歌だった。特攻隊員たちはこの歌をよく歌っていた。
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