2024年11月
2024年11月30日
下北沢X物語(5069)〜戦後80年への胎動 3〜

(一)戦後80周年は、最後の機会だ、戦後百年になると関係者はいない、80周年は関係者ギリギリの生存ラインである。彼らが遺す言葉は、「もう二度と戦争はするな」だ。戦争末期になると軍部は破れかぶれになってきた。「特攻は戦果ではない、死ぬことが目的なのだ」というようになった、前村弘さん、機の不調で基地に戻ってきたら「特攻は出撃したら死んでくるものだ」といわれたと。敵艦をやっつけるのではなく、最後まで果敢に戦って相手を怖じ気させることにあると。特攻が敵には脅威だったことはある、敵は常軌を逸した攻撃を見て異民族への恐怖心を募らせた。何をしでかす連中か分からない。徹底的に叩けとなって、重爆による都市無差別攻撃、挙げ句の果てには原爆を使用した。
特攻に行きそびれた人は大勢いた、敗戦が決まると、故郷に帰って身を隠せと言われた隊員もいた。加害側が、敵に畏怖心を与えたことはヤバいことではなかったかと思ったからだろう。証拠となる手紙などがあったら燃せと言われたのではないか。
いわゆる公的な飛行場、出撃基地、ここには日報や日誌がある。が、これらはことごとく焼却されてしまった。後世に遺す記録としては大事だとは誰も思わない。証拠があることによって追及を受ける。残っていなければそれはない。それで必死に焼却をした。
『特攻の総括』 深掘道義著 (原書房 2004年刊)の第二章は、先に挙げた「特攻は戦果ではない、死ぬことが目的だ」という表題を掲げている。ここに海軍兵学校出身の新郷英城少佐の回顧を載せている。
特攻なんて誰だって反対ですからね。然し言えない。言うだけの材料がない。他にどんな方法があるのか、理論的に言い返すことができない。……ですから、皆黙ったままでした。一人として堂々と反対論を述べるものがいなかった。恥ずかしいことですが。
人々の思いの底に、やはり生身の人間を武器として使うのはおかしいという思いがあった。
(二)

『特攻の総括』では、「なぜ途中でやめられなかったか」を論じている。この理由として挙げられることは、「敷島隊の戦果があまりに大きく、体当たり攻撃を過信しすぎた」という。
1944年10月29日の敷島隊の特攻攻撃戦果を華々しく報じている。朝日新聞、朝刊は一面トップで紙面を割いて記事を載せている。
横見だしトップは、「神鷲の忠烈萬世に燦たり」と彼らの武功を最大限の褒め言葉で讃えている。これが全国民を熱狂させた。「敵艦隊を補足し/必中必殺の體当たり」
新聞、ラジオは、敷島隊の戦果を大きく報道した。国民は欣喜雀躍した。
我が日本軍は強いのだ。負けるはずがない。国民を狂信させるほどの大ニュースだ。やればできる。劣勢にあっても必死で戦えば道は開けるものだ。そういう過信をこの事件は人々に与えた。このことはこの民族にわだかまる考えにも大きな影響を与えたという。
我が日本民族の資質の問題である。これは外国人の日本民族に対する批評であるが、わが民族を「狼の群れ」か「羊の群れ」かの二者択一で論ずれば羊の群れであるというのである。しかも世界に類を見ないほどの羊の群れだという。羊の群れというものは一人の牧童の後におとなしく突いていく、群れから外れる者があっても牧羊犬の言うことを聞く。 こういう民族は優れた指導者が出た場合はその民族は興隆する。その反対の場合は絶滅にまでその突き進んでしまう。
『特攻の総括』 深掘道義著 (原書房 2004年刊)
レイテ戦における敷島隊の活躍、そしてつぎは沖縄戦における武剋隊の活躍も似たような点があるのではないか。華やかな戦果が、特攻を過信させはしなかったか。
(三)
疎開学童に終戦をどう思ったかと聞くと。「神国日本が滅びることはないと思っていたのに」という子も案外にいた。我々は壮大な歴史物語に酔わされてもいた。酔いやすい、そして、だまされやすい民族でもある。少数与党に陥った自公政権は今までのように一強体制で好き放題を行ってきたがそうは行かなくなった。やっぱり大事なのは赤だけではだめだ、赤もいて白があることが大事だ。
(写真は多摩川台公園の紅葉と田園調布駅)
2024年11月28日
下北沢X物語(5068)〜戦後80年への胎動 2〜

(一)戦争を改めて知る、とても大事だ、戦後80年の節目を「もう愚かな戦争はやってはならない!」という教訓の機会にしたいと思う。元広電の中田祐一さん、いただいたメールに「来年は被爆80年です。特攻も原爆も、決して忘れてはならないことです。きむらさまの取り組みも大切なことだと思います」とあった。特攻も原爆も二度と繰り返してはならないことだ。この二つ共に悲惨だ、前者について「一撃講話」ということが言われる。特攻によって米軍に一撃を与え、国体護持などで終戦交渉を有利に導こうとのこと。青年の犠牲によってそれを導こうというのは誤った考えだったと私は思う。原爆の惨劇はもっと悲惨だ、二次被爆は終生つきまとう被害だ、なのに「核の傘」を含む戦力で日本を守る「拡大抑止」まで議論されている、核がとんでもない終末兵器だという認識すらもなくなってきている。寒々しさを覚える。
新京生まれだという幸田清和さんとは邪宗門でよく会う。この方、徹底した自立思考を持った人だ、新京には日本各地から人が集まった。自然学校では標準語となる。が、日本に来ると、妬まれ、博多でも銚子でもいじめられたと。彼はこれに対抗しようと身体を鍛えたという。力での対峙でいじめを撃退したと。いじめは、日本のどこに行ってもある、今でもはびこっている拭いがたい底流文化である。
戦争を知ることは大事だ、今年、疎開学童だった人、五六人に話を聞いた。それこそ疎開から80周年だ、学童だったからこれに10歳ほど加えることになる。すると90歳ぐらいになる。この人たちの話、一言一言が貴重だ。が、もうその体験談は得がたくなって来ている。
戦争のことを知る場合、やはり記録というものは大事だ。最近読んだ本では、「陸軍最後の特攻基地ー万世特攻隊員の遺書・遺影ー(苗村七郎編著 東方出版 1993年)だ。
特攻基地だった知覧や新田原には行った。が、万世のことは念頭に無かった。ところが、ここが一つの重要な基地として浮かびあがってきた。この基地の歴史に私が調べていることを解く鍵があるのではないかと思ってきた。
(二)

万世飛行場は、戦争末期、にわか作りの補助飛行場だった。海沿いにあって砂地で地盤が脆いため、衝撃に強い旧型の固定式脚の機のみが出撃していった。この固定脚といった場合、思い出すのは九九式襲撃機である。
浅間温泉でよく見かけた飛行機だ。何度も紹介するが東京第一師範の大槻統さん、当時四年生だった彼は絵日記を残している。飛行機好きだけに絵がうまい。1945年3月28日と4月14日に飛来してきた、前者は単機、後者は三機が描かれている。女鳥羽川で遊んでいたときに見かけたものだ。
前者は素性が分かっている。誠第31飛行隊所属の吉原香軍曹だ、彼は前々から学童たちに「腕前を見せて!」と頼まれていたようだ。それで浅間温泉まで飛んできて疎開宿舎、富貴之湯の上空で宙返りを披露した。彼の隊は、武揚隊といった。乗機は九九式襲撃機である。絵には単発、複座、固定脚のまさにこの機種が描かれている。
4月14日の三機もどう見ても九九式襲撃機である。これは陸軍松本飛行場各務原分廠での爆装改修が終わって、この日松本を発った。温泉で世話になったことから挨拶のために三機がお別れに来た。当時の特攻隊の編成だが、武剋隊、武揚隊は十五機だ。三機で構成されることから、本隊から離れてお別れにきた。十五機のつぎは十二機である。
この辺りは、もう私の勘でしかない、つまり四月中旬頃にこの辺りでうろうろしている特攻機の行き先だ。この固定脚機は、あるいは万世から出たのではないかと思いもする。
(三)

先の『陸軍最後の特攻基地』には日記がある。104振武隊の松土茂伍長は、4月13日万世から出撃し、特攻戦死している。彼の日記がこれに採録されている。
三月二十七日
十七時本部前全員集合、隊長どのより思いがけぬ情報発表に驚く。
なんと武剋隊の戦果の発表だ。この未明に出撃してのその情報が、白城子飛行場、満州国白城子近郊の平台に置かれた飛行場にもう届いていた。彼は23教育飛行隊、つまりは武剋隊の出身母体の飛行隊に所属していた。
(今日は、富士を見に多摩川台公園に行った。富士はやっと見られた)
○お知らせ
会報221号は、12月1日(日)午後2時に邪宗門に届けます。印刷は最後となります。
時間のある方おいでください。
2024年11月27日
下北沢X物語(5067)〜戦後80年への胎動〜

(一)このところ80周年のイベントが続いている。萩原朔太郎大全2022は、詩人の没後80周年だった。2023は学徒出陣80周年、今年2024は、学童疎開80周年だ。そして来年は2025は、戦後80周年だ。この区切りに向けて水面下では動いている、数日前、元広電宮島線の運転士をしておられた中田祐一さんからコンタクトがあった。広電が被爆三日後に動き出した、このことについて自身も物語や論考で書いていることから、問い合わせてこられた。来年80周年に向けての胎動である。これはマスコミも同じだ、トピックをどのように取り上げるか、腐心をしていることが間接的に伝わってもくる。私もまた、これまでの数冊の発行物の整理とまとめを行っている。
80周年というのは大きな節目だ。戦後100周年もあり得るが戦争の記憶を宿している人はほとんどいなくなる、生きている人がいてこそ意味があるものだ。そういう意味で考えると80周年は一層に意義深い。しかし、戦争検証は難しくなった。
「先生、もう二十年早かったら何でも聞けたわよ」と秋元佳子さんは言う。記憶の宝箱には宝が埋まっているが、時が経てば宝は失われていく。
ただ彼女、往事をよく覚えている。
「富貴之湯で壮行会があった後、翌日旅館を発っていかれました。トラックが迎えにきました。私は長谷川信少尉のところまで言ってお別れをいいました。そのときに長谷川さん『すぐに帰ってくるから大丈夫だよ』と言われたのですが、その言葉はとても不思議に思われましたね、行ってしまったら帰ってこないと思っていましたから」
最後は、握手をして別れたという。
(二)

私はもう十数年も調べを続けている。すると何がたまるか、それは資料である。部屋の隅に段ボールがあってこれに収まっている。一種泥沼のようだ。ときに、あれはどこだといってその泥沼をひっくり返すことがある。この間も、ひょっこり出てきたのは東京第一師範附属国民学校の大槻統さんの資料だ。
この間、誤字だらけの下手な日記に大好きな飛行機のことはよく記しています。浅間温泉を超低空で訪問する「飛龍」(実は一式陸攻と思い込んでいましたが)は何度も見ており、特に5月は7日、10日、14日、23日、26日、28日の日記にはその記述があります。東石川旅館は浅間温泉の一番南(?)で見晴らしがよく、また私たちの部屋は旅館の3階にあり、味方標識の主翼前縁を黄橙色に塗った双発機が近づいてくるのを誰かが見付け「来たゾー」と叫ぶと皆が窓辺に走り手を振りました。28日の日記には『(飛行機)中で手をふっていた」と記述しています。
見落としていた資料だと思った。東京第一師範附属国民学校は、世田谷からの浅間温泉疎開組である。世田谷から七校が浅間温泉に疎開するが六校は区立校だ、師範附属のみが国立だ。公立校は一九四五年四月に再疎開をする、が、一校だけ居残った。これが師範附属だ。
世田谷組を含めて大勢の学童が温泉にいた。多くは日記をつけていた。そこに歴史事実がひっそりと書き記されていた。ところが、公立校は浅間温泉から退去してしまった。記録者が急にいなくなった。わずかに残ったのが師範附属だ。特記すべきはこの中に飛行機少年の大槻さんがいたことだ。四月、五月の記録は彼の独り占めだ。彼は、温泉で見かけた飛行機をチェックしていた。四月分は他校でも確認できるが、五月分はない。この記録はとても貴重だ。
(三)

一番最初に、浅間温泉に行ったとき、鉛筆部隊の田中幸子さんと千代の湯に行った。女将さんだった梅恵さんがおられた。(お二人との写真)
「それが卒業式の日でしたよ。昭和二十年三月だったと思うのです。日にちはわからないのです。式の真っ最中に、講堂の上で音がして私たちは窓のところに駆け寄っていきました。飛行機だったんですね。二三機いたと思うのです。その飛行機が低空で二三回学校のまわりを旋回していって飛び去ってしまいました。確か、教頭先生が『卒業のお祝いに特攻機で空を飛んでくださる』というようなことを言っていたように思います」
小林さんは後になって卒業証書を調べた、すると日にちは三月二十九日だった。
いま、思うこれの話を皮切りにして特攻機が数多く温泉にまでデモンストレーション飛行を数多く行っていた。これの意味するところは何か。
(思い出の写真、日付2010年1月25日、浅間温泉できむら、小林梅恵さん、田中幸子さん、お二人とも物故された。神社は護国神社、富士は東工大から)
2024年11月25日
下北沢X物語(5066)〜町歩き200回:筏道を歩く 2〜

(一)昨日、日曜、邪宗門で散歩談義となった。歩くことで治癒力が増すという話になった。私たちは体に不調を来すとすぐに医者に掛かる。症状を言うと、処方箋を書いてくれる。抗生物質とかいろいろの薬を処方してくれる。しかし抗生物質はきつい、飲んでいるとじんましんが出てくる。体が拒絶反応を起こす。歳をとると対応力が弱ってくる。本当は私たちには自然の治癒力が備わっている。中でも歩き薬というものは素晴らしい。歩けば変化が起こる。とくには血液の循環は大事だ。歩いていると気分がすっきりしてくる。活力も生まれてくる。面白いものでエンジンと同じだ。最初は掛かりが弱い、が、動き出すと滞っていた血が回り始める。青空が一層に青く見えてくる。希望が湧いてくるのですね。大事なのは耐性つけること、歩いて脳を、内臓を、そして足を鍛える。歩きは万能薬である、自分の足には�辰�宿る、これを信奉してもよいのではないかと思いもする。
町歩きを200回も続けてきた。思い出が数多くある。
「私は死ぬまで歩いていたい」
90歳を過ぎた人が歩きに参加され、こう言っていた。深い意味合いがあるように思えた。
「歩きの楽しさは、景色ですね、私が思うには人間は景色を貯め込んで生きています。人生とはいい景色を何枚見たかではないかと。それを脳裏に貯め込んで、反芻しながら生きていくのです……」
(二)

今回の町歩き案内人は木村康伸さんだ。資料にはこうあった。
江戸時代、江戸の町では火事が頻発したこともあり、材木の需要が多かった。それを満たしていたのが青梅や奥多摩など多摩川上流で切り出された材木である。市中の普請用材木や江戸城の修築、幕末には台場建設にも使われていたという。
この材木は筏に組まれ、筏流しという形で多摩川の河口部まで運ばれていた。その筏を操っていた。その筏を操っていた筏師が帰路に通ったのが筏道である。多摩川河口の六郷から多摩川沿いに世田谷、狛江、調布、府中を通って奥多摩方面へと続く道を筏と引き換えに大金を懐にした筏師たちが歩いていった。沿道にはかつている筏師が泊まった宿の跡などもある。
筏師は時代の寵児だった。馬車が現れてこの馬車を操る御者などは、制服をまとってかっこいい。女性にもてたという。
筏師はどうだろうか、半天を着こなし、頭にはねじりはちまき、長い竿をもって急流を巧みに操っていく若者などは若い女の子が心をときめかせたのではないだろうか。
参加した人の感想。 佐藤智恵さん
お恥ずかしながら筏道という言葉も知らなくて、本当に初めて知ること、初めて訪れた場所ばかりで、大変楽しく有意義な時間でした。珍しい鳥居や竹林を眺めていると、修学旅行に行ったような気持ちになりました。
案内をしてくださった、木村康伸さんにも感謝申し上げます。わかりやすい説明ばかりか、ポイント毎の資料のおかげでスムーズに頭に入りました。今回の案内のために心を込めて入念にご準備くださっていたのを感じました。
日常生活では色々とたいへんなこともありますが、皆で街歩きをしている時間にはそれを忘れて楽しく若返って、学ぶことができますね。本当にありがとうございました。
ご主人と参加された佐藤容子さん。
昨日は、充実した内容のまち歩き、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます!とても興味深く勉強になりました。夫も大満足と二人で話も弾んでます!?康伸さんによろしくお伝えください。
ハヤタさん
200回記念のまち歩き、確実に文化探査調査は若い世代にも引き継がれているのですね。講師の木村康伸氏の説明やそれに対する質問も、楽しく聞くことができました。
(三)
町歩き200回を超えての課題である。・やはり案内人の養成が必要である。地域文化に興味を持った人をみつけ、案内人にする。現行は参加費500円である。これは案内人に報酬として集まったお金はそっくり渡している。十人参加すると、謝礼は5000円。もう少しあげてもよいように。
・新コースの発掘、結構行き尽くした観がある。最近は水路系統の歩きが少なくなってきた。これもやはり趣味を持った人がいて成り立つものだ。
ぜひ、興味を持った人に参加してもらいたい。
・鉄路探索もよいか、前は世田谷線を歩いたり、下北沢の線路沿線を歩いたりしていた。
井の頭線を歩く、京王線を歩くなどもよいか。
・広報の難しさはある。
北沢川文化遺産保存の会のフェィスブック頁はある。これをもっと活用できないか。
やはり保守整備する人が必要だ、どなたかおられるといい。
(四)参考情報
筏流しを調べていたら、高等小学新唱歌(第1學年)/昭和10年が出てきた。
1
深山の奥に丁々(とうとう)と
木を伐(き)る斧に 風薫り
山の沈黙(しじま)に淙々(そうそう)と
■響く谷川 光あり
2
流るる水の 行末(ゆくすえ)は
筏を流す 川となり
筏浮かべて 人里を
■めざす二人の 櫂(かい)と竿
3
鳥鳴く朝(あした) のどけくも
ゆられゆられて 花の岸
流す二人の 筏師(いかだし)の
■唄ふしらべの おもしろや
昭和十年頃は、筏師が現役で働いていた。川を下る筏師には情緒があり、風情があった。それを歌にしてうたった。
学童たちは、筏師に思いをはせた。この歌、作詞・作曲者不明だとのこと。
(富士は今日の東工大構内から)
2024年11月24日
下北沢X物語(5065)〜町歩き200回:筏道を歩く〜

(一)昨日、町歩き200回を達成した。しかし、誇ることもない、気づくと200回だった。町歩きの楽しさは、土地の頁をめくっていくことである。柿がたわわに実っていたり、庚申塔がひっそり建っていたり、それらを眺めては歴史を思う。歩きは刺激を求めての運動だ、体が動くばかりではない、脳内血流が刺激されもする。歩きは治癒力を高める/お尻が急に痛くなった、診てもらうと前立腺炎だった。大量の抗生物質をくれる、飲んでいると炎症が起こる。調べるとひたすら歩けと。その通りにしたら治癒した。ここ数年苦しんできたのは後鼻漏だ、鼻が喉に流れ込む、この気持ち悪さは罹った人でないとわからない。耳鼻科に行くとこれまた大量の新薬。耳鼻科に行っても治らない。どうしたか、かかりつけ医に行って漢方何番を処方してと。その薬を飲み、そして歩く。ふと気づくと後鼻漏から解放されていた。歩きは万病の薬である。
町歩き200回、8月は行わない。それで母数を11としこれで割ると18となる。十八年間歩いてきたのである。最初の頃は、自分がすべて案内していた。回数を重ねているうちに案内人が育ってきた。もう今では私が行うのもときどきとなってしまった。
初回から200回まで何人が歩いたろうか。毎回十名までは行かない、平均すると七、八名ではないか。8名とすると1600名となる。参加した人で亡くなった方も多くいる。が、そういう人と共に歩いたというのは思い出だ。
長年文化活動を行ってきた。文化はカルチャー、耕すものだ。我らはひねくれもの集団だ、まっとうな誰もが行くようなところには行かない。
そういえば、区切りとして100回目があった。これは、駒沢線鉄塔を歩くを行った。
洗足池脇の第一号から我らが世田谷区地域風景資産に推薦した「代田の丘の61号鉄塔」までをひたすら歩くもの、皆で鉄塔少年になって歩く。
(二)
昨日は、筏道を歩いた。喜多見駅から二子玉川駅までである。天気はよかった。が、喜多見に行こうとしてつまずいた。家から小田急線沿線駅に行くのは容易ではない。東京の鉄道は放射状にはあるが、縦線路線はない。結局は東か西のターミナルに行って、目的地をめざす。当方、東横線、南部線経由小田急線を選んだ。最寄り駅の都立大駅でひっかかった。電車が事故でこない。参加者の携帯に連絡するがこれがなかなか通じない。やきもきしていたがやっと原敏彦さんにつながり、皆に伝えてもらった。十分遅れだった。
今回、筏道を歩くがテーマだった。筏道なるものは片道しかない。青梅で杉などの材を組んでこれに乗って多摩川を下る。終点は羽田だった。ここで筏師は仕事を終えて、多摩川沿いに帰ってきた。行きは一気に下った。帰りはゆるゆると歩いて帰る。
背中には籠を背負ったろう。タバコやキセル、着替えなどが入っている。多分、左手の多摩丘陵を見て道を遡行していく。川沿いだから道はフラットだ。それでも多摩丘陵を左に見て行った。どんな感慨を持ったろうか。
歩き初めて、そうだ筏師とは反対に下っていくのだと気づいた。
(三)
筏師の道は、交通発達史の道だ。江戸から明治になって大きく時代は変わる。まずは都普請のために木材が運ばれる。明治四○年になって多摩川電気鉄道ができ、建築部材は材木から砂利へと変わって行った。
多摩川上流の杉の木材が、また近代になって多摩川の砂利が東京に運ばれて街が形成されていった。産業構造の変化はリストラの歴史だ。きっぷのいいあんちゃんたちはどんな職業に就いたのだろうか。
(写真、木村康伸と。知行院での記念撮影)
2024年11月22日
下北沢X物語(5064)〜追悼:谷川俊太郎を偲ぶ 了〜

(一)下北沢文士町には多くの詩人が痕跡を残した。当地に流れてきて住み着いた人もいればまた去った人もいる。詩の魂魄密度のこれほど濃いところは他に見当たらない。その秘密の一端は沢地形にある、沢は坂に通じる。代田小路微傾斜文学論がここに生まれる。三好達治の寓居のある小路は緩やかな坂だ、人がここを歩いてゆくときに音が響いた。かそけき音を聞いて人生を読み取りもした。朝、坂を下る音で、年配の新聞配達人の労苦を聞き分けた。またあるとき聞き慣れぬ足音が聞こえてきた。その一人はヒールで足音に色気がある、もう一人の靴音はかすかに韻を踏んでいた。予想通り足音は居宅前で止まった。玄関の戸を開けると谷川俊太郎と許嫁の女性が立っていた。二人は結婚媒酌人に挨拶に来たのだった。
三好達治の代田寓居から近いところに代沢小学校がある。あるとき校長室で昔のアルバムを見せてもらった。その一冊からはらりとこぼれ落ちて来たものがある。手作りの詩集である。が、表装もそうだが詩も巧みだった。これを手がけたのは和田誠だった。小学生にしてもう鋭い言語感性と美的感性とが見てとれた。彼に大きな影響を与えたのが当校柳内達雄先生だ。詩の指導もしていた。「人が描くようなことを描いてもだめだ、大事なのは自分の視点を持つことだ」、そんなことを指導されて彼はイラストレーターになった。
「『谷川俊太郎×和田誠』黄金コンビが織り成す名作絵本たち」これもよく知られたことである。イラストを通して詩をサポートした。この和田誠、萩原朔太郎の旧居の近くに家はあった。一帯は文化がきらめくところだった。
萩原朔太郎賞がある。
「谷川さんは1993年、詩人の萩原朔太郎の出身地・前橋市が設けた第1回萩原朔太郎賞を受賞。 哲学者の父、徹三氏についての詩『父の死』などを収めた『世間知ラズ』が受賞作品となった。(Wiki)」
前橋文学館には詩碑があって、「言葉の素顔が見たい」という文言が刻まれていると。
(二)

先に谷川俊太郎の処女詩集の冒頭を飾った三好達治の「はるかな国から」は、第一連はすでに引用した。第三連のまとめはこうだ。
ああこの若者は
冬のさなかに永らく待たれたものとして
突忽とはるかな国からやってきた
彼の父親からに託された「創作ノート」は三冊あったという。多分びっしりと詩が書かれていたものだと想像する。昼は昼で庭に降り立ったキビタキの声を聞きながら。
夜は夜で鉄塔57号から聞こえてくるジリジリという音を聞きながら読んだ。第二連には、「この若者のノートから滑り落ちる星でもあらうか」と描く。行間からはまさしく青く光る言葉の星がこぼれおちてきた。
夢中で読んでいるうちに、表の小路を新聞配達の男が駆けてゆく。
「今度のは若いな、しかし、苦学生だ、学生食堂で食ったカレーライスが彼に力を与えているようだ」。と足音から読み取った。
最終連は、深い深い感銘を述べる。詩界はこのような若者を切に欲していたのだ。その彼は「突忽とはるかな国からやってきた」。抒情詩人の最高の褒め言葉だ。
しかし、詩人は滅んで死人となる。これはいかんともしがたい。
(三)
人々は詩人に憧れる。下北沢静泉閣に一時中山義秀が住んでいた。二二六事件の後だった。下北沢の喫茶店に多くの文学青年がたむろしていた(『台上の月』)と言う。この場合の文学は詩である。詩が当時の文学青年の心を熱くした。
しかし、谷川俊太郎。
「詩人になりたいと言われたら『絶対やめなさい』って言いますよ」
理由は簡単だ、詩では食っていけないからである。詩だけではない、今では小説も売れない。言葉が力を失ってきている。
今、権力を持ったものは、鐘とミサイルとで権力を誇示する。言葉は通じなくなった。谷川俊太郎は「いのち」という短詩で、最後、
とうのいのちはとうにしに
じゅういちのいのちのいちがたつ
と結ぶ、意味不明だが、命の市が立つということは、何かの希望だ。
結局我ら言葉を使って生きるしか他に方法はない。
谷川俊太郎は、
「言葉を信用していないから、詩を書き続けている」と。
信用できなくても、これに頼るほかはない、書き続ければいずれ光明は見えてくるといいたいのだろうか。
(写真は、今日の洗足池)
2024年11月21日
下北沢X物語(5063)〜追悼:谷川俊太郎を偲ぶ〜

(一)「戦後現代詩を代表する詩人の谷川俊太郎さん13日、老衰のため死去した」と新聞は伝えていた、人の死因を「老衰」と言うが美しくない、この語は機械的だ、老いさらばえての死が想像されて好きではない。訃報は詩人を悼む記事で埋め尽くされている。これらの記事の中で光っていたのは詩人の詩的な死批評だ「死ぬことですね、もう92年生きてきたから生きることは分かったような気がするんだけど死ぬっていうのはどういう感じなのかな。想像してみるんだけど、困ったことに死んでみないとわからないんだよね」さりげなく語られているが、心に突き刺さってくる死批評だ。人間想像は自由である、しかし死後世界をリアルに描くことはできない。言葉の限界を思わせもする。
人が死んでわかることがある。我ら「下北沢文士町」では谷川俊太郎は縁遠い、僅かに関わりがあったのは息子さんの谷川賢作さんだ。自身が原作を書いた「幻影の『猫町』下北沢朔太郎X線の彷徨」に出演されてピアノを弾かれた。
ところが谷川俊太郎が亡くなられて初めて知ったことがある。彼が世に出るきっかけを作ったのは文士町の大詩人三好達治であったことだ。
谷川俊太郎は高校時代詩作を続けていた、そのノートを父親、哲学者の谷川徹三が知り合いの三好達治に見せたらしい。これを読んで詩人は深い感銘を受けた。これが機縁で三好の紹介で昭和二十五年に「文学界」に「ネロ詩五編」が載った。詩壇デビューである、そして昭和二十七年に処女詩集「二十億光年の孤独」を刊行した。このとき三好達治は詩集の序として「はるかな国から」という詩を贈っている。
(二)

詩は土から生まれる、日々息づいている土地の陰影と無関係ではない。ことに詩となると土霊が思われるのでのである。
三好達治は世田谷代田に居を構えて、ここを終焉の地とした。が、当地に住む前は、福井三国に疎開をしていた。三好達治は昭和二十四年二月に、「東京都世田谷区代田一ノの三百十三番地岩沢方へ移る」(写真)代田の寓居である。
谷川俊太郎のデビューの経緯を見ていくと、三好達治との関わりは、疎開生活を切り上げ東京に上京してきた以後に生まれたようだ。
谷川俊太郎の創作ノートを見たのも「はるかな国から」という詩を書いたのもこの世田谷代田の家だったと思う。
三好達治寓居のすぐそばには高圧鉄塔駒沢線、五十七号鉄塔が聳えている。ここには明治神宮から小鳥がよく飛んできた。そして木立がこんもりと茂っている岩沢方の庭にやってくる。この小鳥の声を聞きながら一人酒を飲んだり、詩作に耽ったりしていた。
「二十億光年の孤独」の序とした「はるかな国から」も一階の書斎机で書いたものだろう。三好達治がこの寓居で編んだ詩集に『駱駝の瘤にまたがって』がある。創元社から出されているが『二十億年の孤独』も同じ社である。
そのえたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
おれは地球のむかうからやってきた。
もちろん「おれ」は私、三好達治自身だ。さすらいの挙げ句にここにやってきた。
彼は寒庭にやってくるコサメヒタキの鳴き声を聞きながら書いた。その第一連だ。
はるかな国から
三好達治
この若者は
意外に遠くからやってきた
してその遠いどこやらから
彼は昨日発ってきた
十年よりもさらにながい
一日を彼は旅してきた
千里の靴を借りもせず
彼の踵で踏んできた路のりを何ではからう
またその暦を何ではからう
詩集を出すときに、名のある詩人に序を書いてもらう。通例的な形式だ。が、三好達治は若い谷川俊太郎に詩を贈った。谷川俊太郎批評でもある。
(三)
三好達治はさすらい人、かれは駱駝の瘤にまたがってきた。が、谷川俊太郎は歩いてやってきた。ストロークを足で稼いでやってきた。どうやら長い道のりを一気呵成に旅をしてきたらしい。ここの核心は「彼の踵で踏んできた路のりを何ではからう」、詩語の長い隧道を彼は自分の足でくぐり抜けてきた。トンネルはまっ暗だ、普通であれば他者が照らす明かりを借りて潜り抜けたであろう。が、彼はそれを借りずに独力で歩いてきた。そこに新しい詩世界が開けていた。
(写真解説、門柱は世田谷代田の岩沢方、もちろん今はない。海は三好達治が一時滞在していた小田原の海である)
2024年11月19日
下北沢X物語(5062)―我がネット人生を回顧する―

(一)「ネットに与太を飛ばす」は、私の造語だ、試みにこのフレーズを検索するとページトップに「ネットに与太を飛ばして生きてきた」という私のブログが出てくる。ネットの仕組みは分からない。しかし、言葉の底なし沼に素材となる言語を数多く放り込んでおけば、数が多ければ多いほど検索に掛かる率は高くなるはずだ。すでに私のBlogのEntry数は5000を超えている。前はアクセスが100を超えることは少なかった。しかしこのところ継続してこれを超えている。自身がネットに「与太を飛ばしてきた」、ぶちまけてきたもの、トップで引っかかるものを列挙してみよう。まずこの頃では「静仙閣」が多い。検索するとトップには下北沢X物語(5060)―静仙閣前の野良桜の末路 2―」が引っかかる。つぎに「下北沢文士町」を引く、これも自身の造語だ、検索で引くと世田谷区のHPがまず最初に引っかかる。二次認識だと言える。
「下北沢X惜別物語」もまた私の造語である、引くとトップには「下北沢X物語(4832)―改訂新版:下北沢X惜別物語 了―」が引っかかる。発行したのは2007年3月20日だ。もう17年も前だ。が、引っかかったのは最近の話だ。再版を出すのも良いという話だ。」その記事だ。
『下北沢X惜別物語』に書かれなかったエピソードを黄金井さんは当ブログに書いてくれた。改版のタイトルは「改訂新版:下北沢X惜別物語」とした。本体そのものに補遺という形で補うとよいかと考える。
しかし、発行は容易ではない、計算すると現段階で原稿用紙256枚に及ぶ、改めて補遺として出すと300頁は超える。一冊の本としてはまとめられる分量である。これにDr.オースチン博士の写真を載せられればベストだ。今思いつくのはクラウドファンディングか、Kindleである。しかし、まとめるだけでも大変である。気長にいこう。(了)
(二)
ブログを始めてかれ数多くの文化事象を渉猟してきた。その一つ一つが検索するとトップに出てくる。「ネットに与太を飛ばして生きてきた」ことの実績だ。これらを見ていくと現地踏査を数多くしている。
思い出深いのは「駒沢高射砲陣地」である、これを検索するとトップに来るのは、下北沢X物語(4683)―駒沢高射砲陣地跡ぽっかり現る 下―である。比較的新しい、この敷地を購入した人が跡地に家を新築した、その時に基礎がぽっかりと現れたのである。
単なる事象現象だけではなく、当時高射砲陣地を使っていた陸軍軍部の戦略まで分かったきた。首都東京は5月24日25日の山手空襲で壊滅的な被害を受ける。敵将は東京にはもう爆撃する目標地点は無くなったと述べた。
この駒沢高射砲陣地、この砲身機材は4月に東京を引き払い、大陸交通要路の伏木港に移転させていた。軍部はもう東京を見限っていて、大陸航路の要である伏木港に高射砲陣地を移転させたのである。これによって東京を軍首脳は見限っていたということになる。
明白な負け戦だ。実際、五月の空襲では東京大空襲を上回る爆弾を東京に投下して首都東京を壊滅させた。実質日本は負けたのだ。が、軍部はメンツにこだわった。負け方である。ほとんど負けているのに何を言い出したか、徹底抗戦、一億総特攻である。戦争首脳部は体裁メンツしか考えていない。現行の政府与党も同じだ、国民のことなど考えていない。私服利権を肥やすことばかり、それで今日最貧国に転落しつつある。
(三)
この二十年間、よく歩いてきたと思う。「幻の蛇窪踏切探訪行」は、検索すると二つの記事がトップに引っかかる。自分には懐かしい紀行だった。
『蛇窪の踏切』は江見水蔭の小説だ、明治四十年六月に刊行されたものだ。内容的に日露戦争後の個人主義が跳梁してくる中でその犠牲になって滅びゆく女性を扱ったものだ。しかし、私はここに描かれる地形に魅せられて関係箇所を歩き回った。
このごろよく行っている洗足池や洗足小池が出てくる。一番驚いたのが梅丘の宇田川さんから聞いた話だ、地主の彼の家は大きなケヤキが何本も生えていた。
「この剪定した欅の枝を昔大森の漁民が買いに来ていたんだよ!」
当主から教えられた。驚いたことにこの『蛇窪の踏切』では荏原奥地で伐ったケヤキの枝を満載した車の描写が出てきたのだ。
以来、『蛇窪の踏切』の虜になって附近一帯を渉猟して歩いた。思い出深い、ゆえに『蛇窪の踏切』ということばをネットの海に放り込んできた。その成果が、ネット検索でワンツーで出てくるようになったのだ。
(写真、初雪富士探訪多摩川台公園(見えず)、ヘビクボ道(現存)多摩川台公園の紅葉)
2024年11月18日
下北沢X物語(5061)―なぜに清水博子さんにアクセスが集中?―

(一)ブログのアクセスが急に高くなるときがある。ここ数日は、「〜透谷の妻、北沢に死す〜」と言う記事だ、これは「夫を亡くす」という新聞記事が始まったことが原因だった。ところが昨日から急激にアクセスを伸ばしている記事がある。それは、「〜追悼:清水博子さんを偲ぶ〜(2013年11月30日)昨日のアクセス数は480だ。もう11年前の記事である。フェィスブック仲間の野沢有さん、同姓同名の皮膚科の先生がいるが、その人との関係か?と。ツィッターでは彼女が「テトリス」を持って退屈極まりないシベリア鉄道を旅したという記事を書いている人がいた。これが興味を持たれたのか?真相は謎だ。
清水博子さん、2013年10月10日、45歳の若さで亡くなっている。彼女の作品で『街の座標』は素晴らしい、鋭い批評性を持っている。街は下北沢であり、座標は、下北沢の鉄道クロスを描いたものだ。
私は、「〜追悼:清水博子さんを偲ぶ〜」ではこう書いている。
交点教の素晴らしい教祖がいた。彼女は、鉄道交点を「ひしゃげた座標軸」だと形容する。私は、「ひしゃげた座標軸教」信者だった。
ところが信仰の中心地点は小田急線地下化によって無惨にも消えてしまった。旧駅舎の跨線橋、ここの西側の窓からは惚れ惚れするようなXが拝めた。上の築堤を井の頭線が、その真下を小田急線が潜り抜けている。座標軸教の聖地である。
この聖地は見た目の形ばかりのものではない。精神性を伴う。我らの教祖はこう述べる。そのバイブルにはこう書いてある。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締めくる。」と。教祖の言葉はまことに尊い。
(二)

文学とは何か、さすらいであり、漂泊である、交点文化の基幹ははここにあった。自由に来られるし、勝手に立ち去れもする。もう一つ大事なのは自由性である。障害なく自由に行き来できることだ。
小田急地下化が完成して駅の構造も変わった。一番大きな変化は小田急線と井の頭線の行き来が不自由になったことだ。今は別々に改札口がある。以前は入ってから渋谷へも新宿に行けた。今は改札を入る前にどちらに行くかを決めてから改札に入る。ここでの自由性がなくなった。
戦後、下北沢北口に闇市があったころのことだ。元オリンピック選手の田中英光と水上勉とがそこにあった屋台で酒を飲んだ。メチルアルコールが混ざっている。親父はケチって味を薄くしている。正義感の強い田中は許せない。彼は水上に目配せをする。次の瞬間、大男は屋台を持ち上げ、そしてひっくり返した。一升瓶が音を立てて割れる。彼ら二人は脱兎のごとく逃げる。彼らはあらかじめ準備をしていた。電車が駅に進入してくる気配を悟っての行動、チャンス到来ということで行為に及んだ、木造の跨線橋の階段をガタピシと音を立てた、ホームにたどり着くと電車が入ってきた。ドアが開いたとたん電車に飛び込んだ。
鉄道交差点での工夫だ、悪事を働いて、そして逃げる。鉄道交点における自在性だ。どちらへも逃げ延びられる。そこが当駅の魅力でもあった。
(三)
「ひしゃげた座標軸」は、融通無碍という点もあった。自分の意志でどちらにも行けた。その線がひしゃげているというのも味である。いびつな形状は、一癖も二癖もあるということだ。人々を迷わせたり、さすらわせたりもした。そこに深い魅力があった。
(写真、富士は世田谷代田駅から金田真紀さん提供、看板は下北沢駅構内)
2024年11月16日
下北沢X物語(5060)―静仙閣前の野良桜の末路 2―

(一)高級下宿、静仙閣は繁盛した。中山義秀はこう評する「私のいた木造二階建てであったが、著名な詩人や映画監督、留学中の満州国皇帝の弟などもいる。この付近では随一の高級下宿だった」(『台上の月』)が、中山義秀には性が会わない。「私の無頼ぶりは下宿人の顰蹙をかった」中山義秀には水が合わなかった。見方によっては映画と文芸との衝突だったと言える。監督は成瀬巳喜男、詩人は北川冬彦、が、昭和11年「全国映画館録」には前者は「PCL・監督」と後者は「キネマ旬報同人」となっている。他にも菊森英夫、田中利一などは映画プロデューサーだったり、映画評論家だったり、映画関係者の牙城だった。義秀は正装した銀座の女性達を部屋に引き込むなどの無頼ぶりを見せつけていた。質素な映画組と派手な文芸作家との対立があったと。攻め寄せる映画と文芸ということはあったのかもしれない。
下北沢文士町の一角に占める映画文化の拠点は静仙閣にあった。
亡くなる前松林宗恵監督は映画に関係する下北沢の各所を案内してくださった。一番面白かったのは、北口にあったカフェ「マコト」だ。
「撮影所での仕事は、きつい、とくにはライトだな、あれが煌々と点っていて、その光にさらされるわけだ。撮影が終わってライトが消えると本当にホッとしたものだ。そんなとき無性にコーヒーが飲みたくなる。戦後のことだからコーヒーがないんだ。しかし、下北沢のカフェ『マコト』は本物を出してくれた。進駐軍から流れてきたものだから本物だ、あの苦みというか、コーヒー独特の匂いを嗅いで、喫むと本当に疲れが取れたからな。東宝の監督連中はみな行っていたよ」
「下北沢には映画関係者が多かった。あそこには俳優、女優の大部屋の寮があったからな」
これは亡くなった富安好恵さんがよく言っていた。
「玄関のたたきのところに下駄とかぞうりとかが脱ぎ捨ててあるのですよ。いつも脱ぎっぱなし、ちらかしっぱなしでしたよ」
「よく撮影所から日比谷の本社へは行った。小田急線で下北沢で降りて、コーヒーを一杯ひっかけてから行く。行かない日はなかった。下北沢は中継点だからつい降りるんだな。当地に映画人が多く住んでいたのはその関係もあった」と監督。
(二)

「全国映画館録 昭和11年度」には、映画人住所録があって、静仙閣にいた二人、成瀬巳喜男監督と北川冬彦が載っている。前者は監督、後者はキネマ旬報同人となっている。
私が興味深く思ったのは、北川冬彦のことだ。この静仙閣は萩原朔太郎の家に近いところにある。朔太郎の小説『猫』を見ると、世田谷代田の家から元彼が住んでいた下北沢へはよく行っていたようだ。
静泉閣は小田急下北沢3号踏切のそばにあった。このアパートの玄関の前を朔太郎は通っていた。朔太郎と冬彦は知り合いであった。朔太郎は代田で個人雑誌『生理』を発行している。この第2号に冬彦は寄稿している。散歩の傍ら、静仙閣を訪れていたのではないか想像する。
二人の関係性について検索で調べていたところ、こういう記述に会った。
北川の絶頂をなす第三詩集「戦争」は当時最大の影響力を持つ小説家・横光利一が序文、脅威を感じた萩原朔太郎が長篇詩論「詩の原理」の中で集中の話題作『馬』を徹底批判したことでも記憶される。
北川冬彦『戦争』『馬』ほか
北川冬彦は、横光利一のところにはよく出入りしていた。
「この間、空襲があったでしょう、私は東京高校のプールに飛び込んで一命を取り留めたんですよ」
北川冬彦の『花電車』に子細は描いてあった。が、「青空文庫」には載っていなかった。
版権が切れていないのである。
(三)
あの野良桜のあったところに靴屋さんが小屋がけをして、ずっと頑張っていたんですよ。その屋根に桜の花びらが降ってきてね……あの靴屋どうしたかしら。
邪宗門の大奥さんが言っていた。
(写真、建物は静仙閣跡に建ったマンション、写真、公園は小田急築堤、これの右手に静仙閣はあった)
2024年11月15日
下北沢X物語(5059)―静仙閣前の野良桜の末路―

(一)時は瞬く間に過ぎる、光陰矢の如しとはいうがリアリティに欠ける。一つ思い出した、何気なくTicTokを見ていたら突然葬式の場面になった。参列しているのは喪服を着た女性ばかりだ。とある瞬間、曲が流れてきた。するとそのおばさんたちが手でYを、Mを描く、その腰つきはやや覚束ない、が、かまわずに続ける、Cを描きながら涙を拭く者、Aでは感極まって「ヒデキ!」と叫ぶ者、月日の隔たりたりの残酷さをこれほどリアルに感じたことはない。時に猶予はない。言いたかったのは野良桜のことだ、かつては息をのむほどに見事に花を咲かせていた。が、ついこの間だ、2024年11月10日の昼過ぎ、そこに行って仰天した。静仙閣前にあった桜の幹はごっそり切り取られ、切り株だけになっていた。
文士村、同類の人々が集まる場である、自然とたまり場、サロンができる。田端文士村では、「ポプラ倶楽部」があったという。下北沢文士町では個別に好んでいた喫茶店はあった。しかし、多くが集うという場はなかった。が、そんな中で数多くの文化人が集っていたのは静仙閣である。我らの「下北沢文士町文化地図」には、の名が記されている。
北川冬彦(詩人)
中山義秀(作家)
一色次郎(作家)
成瀬巳喜男(映画監督)
愛新覚羅溥儀(書家)
検索から新たに次の名も発見された。
田中利一(映画プロデューサー)
北澤喜代治(詩人)
菊森英夫(映画評論)
北川多紀(詩人・冬彦夫人)
小林堅三(作家)
鄭禹
鄭禹(1885-1945年)福建省閩候出身。満洲国国務総理などを務めた鄭孝胥の次男。彼は日本留学経験があり、満洲国成立後、国務総理秘書官、国都建設局長などを経て、1942年に奉天市長となる。こういう情報も寄せられている。この情報は下記より『星霜』 1998年 遠藤義也 (自家版)
これら新情報は、鄭禹以外は、国立国会図書館デジタル情報で得られたものだ。もう一つここで分かることがある。ここには名簿が掲載されている。これを見ていくことでで何年に誰が住んでいたかが分かる。また人々の動向や物事の動きも分かる。
(二)

とくには名簿が参考になる。電気学会一覧はログインしなくても閲覧ができる。作成されたのは「昭和七年十月未日調」とある。昭和三年生まれの早稲田の人が入居人として記録されている。これは「静仙閣」が何時建ったかを考える材料になる。
下北沢で印刷事業を興されたのは遠藤政治さんだ。小田急は昭和2(1927)年4月に開業をする。彼は新しくできたこの線の沿線で事業を興したいと考えた。
新宿から電車に乗って各駅に降り、毎日駅ごとに乗客数を調査し、将来性を調べ結論として下北沢を選んだと言っていた。
確かにその予測は正しく数年後には、新線の井の頭線も下北沢を経由して建設され、沿線屈指の大きな町となったが、しかし当時は森有り林ありの田舎町だった。
『星霜』 1998年 遠藤義也 (自家版)
義也さんの父が政治さんだ、「父は生まれつきの仕事人間だ」と義也さんは評しておられる。新規事業を始めるに当たっての小田急沿線各駅の乗降客調査、なかなかだ。これは井の頭線開通前の話である。
昭和七年に静仙閣を建てた、高級アパートは需要があると踏んでの投資であった。静仙閣の線路を挟んだ向かい側には中原百貨店が建った。これは下北沢にもう一本の線、帝都線ができることで商売がはやると考えての投資だった。が、中原百貨店は思ったほど客足は伸びなかった。ところが静仙閣は成功した。町全体には下宿やアパートはあった、が、それは学生や勤め人向けだった。中産階級用のものはなかったことでそこらを見通しての投資だったようだ。それが当たったのである。
(三)

野良桜についてだ、この桜、前にも伐採計画があった。通学路にあったこの桜、代沢小の学童が、嘆願書を小田急に出して、これが通って伐採は免れた。が、今は、もうばっさりと切られ見る影もない。
桜は今は、どこもここも寿命を迎えている。恐らくこの樹も虫がついたりして弱ってきて、倒れる恐れがあったことから伐採したのだと思う。切り株から新芽が出ていることからこれを見守ろうというのではないだろうか。
この桜の樹の下にあったお地蔵さん、心配になって見に行ったら、ちゃんと安置されていた。
2024年11月13日
下北沢X物語(5058)―衝撃:今日から水道水を飲まないでください―

(一)貧すれば鈍する、私たちが陥っているのはこの状況だ、このところ大きな話題となっているのが103万円の壁だ、これを超えるとバイト代やパート代に所得税が発生する。それで働く側がこれを超えないように自己制御する。「こんなんじゃあやっていけない」、手取りを多くするには103万円を取り払って178万円にせよというのが国民民主の主張だ。が、この話一筋縄ではいかない。明白なのは税収が減る、これはできない、旧来勢力の考えだ。しかしこの没落国家は本当はにっちもさっちも行かなくなってきている。103万円の壁の解消、が、これは弥縫策に過ぎない。根幹の税制を変えていかねばならないが、自分たちの権益を最優先する旧来勢力はそんなことはこれっぽっちも考えようとしない。
日々歩かない日はない、範囲は目黒、世田谷、大田だ。歩きは観察だ、これで分かることは住宅需要が高いことだ。あっちでもこっちでも行われている。不動産会社は、この一円に激しい攻勢をかけている。「土地を売るならうちへ」と大手不動産会社は手ぐすね引いて待っている。
人口が全国的に減っている、にもかかわらず東京への一極集中は衰えない。これに伴って住宅建設需要は衰えない。名エッセイとされる『方丈記』の成立は、1212年(建暦2)だ。800年前のこれは当時の時代状況を写し取っている。ここでは「大家滅びて小家となる」とある。まさにこれが都内でも昔と同じように進行している。塀に囲まれた緑豊かなお屋敷に急に立て看が建つ。解体が始まる、「アブダビ、ブルダビ」というような声が聞こえてくる。中東からきたと思われる外国人が工事に関わっている。
お屋敷には大きなケヤキの木がある。が、これは容赦なく伐採される。解体が終わった敷地には広告看板が出る。敷地は三等分して売り出される。
この国家、あこぎと思えるほどに財産税を収奪する、緑なんか残せないのだ。それで小分けして売り出す。
今朝の新聞の見出し
「規制法改正 首相年内に」 自民、企業、団体献金に反対相次ぐ
利権構造にどっぷりつかっている自民、この国家の利権構造がこの日本を堕落させた。
山本太郎が言いそうなことだ。
(二)

もうだいぶ経つ、オンエアーされている放送は全く見なくなった。どこもここも体制寄り、批判精神が乏しい。それでもっぱら見るのはYouTubeとTikTokだ。前者の場合、右よりのもある、が、左寄りというか、リベラルな媒体は数局あって、しっかりと体制を批判している。この報道姿勢には共感が持てる。いわゆる通常のマスコミが切り込まない分野を鋭く抉って見せてくれる。
この前見た中で、衝撃的だったものがある。とある中国地方の自然豊かな町で突然に放送が流れたそうだ。しかも夕方に。
「今日から水道水を飲まないでください」
これは2023年10月16日午後5時ことだったという。
忽然と市が町民にアナウンスしたという。山に囲まれた自然豊かな町の住民は耳を疑ったという。皆パニックに陥ったという。生活に関わる水道水は一切手をつけてはいけないという。それは吉備中央町である。晴天の霹靂とはこのことだ。
翌日にすぐに説明会が開かれたという。まず、説明されたのは
「2022年度の調査で、円城地区に給水している円城浄水場から、国の目標値50ナノグラム/Lを超える1,400ナノグラム/Lの有機フッ素化合物『PFOS、PFOA』を検出していました」
これを聞いても、多くが何のことか分からなかったろう。国が定める目標値が50ナノグラムだが、吉備中央町の水道水から、これを遥かに超える1400ナノグラムも検出されたということだ。基準値の28倍にもあたる。
これはYouTubeのデモクラシータイムスで11日に「なぜPFOAが水道水に(岡山 吉備中央町)」が放送されここで調査を進めている「Tansa」の所員が出演して説明を行っていた。が、異常な数値の高さは、町が知ったのではなく、県の職員が偶然に見付けて報告してきたものだという。やはり町にとっても住民にとっても寝耳に水の話だった。
(三)
PFOAによる水道水汚染は、確かに前から話題になっていた。これは米軍基地で起こった。この物質は。アメリカ軍が航空機火災などに使う「泡消火剤」にPFOAは含まれていてこれを垂れ流していた。ところが米軍基地は、日本の監査や調査が自由に及ばないところで、日本側が自由に基地内に立ち入って調査したり、調べたりできいない。いわゆる日米地位協定がネックとなっていて思うような調べができていない。
が、吉備中央町の汚染というのは米軍がらみではない。この中央町に特別な区画があるそうだ、住民共有の土地、財産区だ、ここに活性炭が多く散らばっているという。これにPFOAが含まれていて降った雨などによってダムに流され、ここから取水している水道水に流れていたらしい。この活性炭は企業が廃棄したものらしいがまだ詳しいことは分かっていない。
PFOAの調査なども当局はあまり熱心ではないようだ。「いまのところ健康被害は出ていませんから」みたいな言葉でお茶を濁している。この吉備地域では流産件数も多いとも聞く。当局も国も血液検査をするなどについては積極的でないと聞く。
昨日だったか、共産党は首班指名では石破首相に投票したと聞いた。野党第一党、何をどうしようとしているのか見えない。ここがネックになっているように思う。(ここの点については共産党は野田氏に投票したと「しんぶん赤旗」に記事があることを確認した、よって私の間違いである)
○参考記事
Tansa PFOA入り水道水、いつから飲まされていた?【岡山・吉備中央編-2】
https://tansajp.org/investigativejournal/10674/
NHKPFOA汚染 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240606/k1001447145100
2024年11月12日
下北沢X物語(5058)―北沢と透谷と富士―

(一)このところ昔の自分によく出会う、この間、邪宗門でも言われた。先生我慢できないんですよね、話を聞きさしたとたん雪の降る中を飛び出していったでしょう。店の大奥さんはいう。昔「終末期の『すきもの』登蓮法師」という論文を書いた。国立国会図書館で検索すると出てきた。何と48年前に書いた論文である。真実を極めるには一刻の猶予もならないということで「すきもの」は聞きさした話の真実を確かめにいく。まさに登蓮と同じだ。あの頃、三好達治の代田の住まい跡を探していた。が、長い間分からないでいた。そんなときに大奥さん、情報を聞き込んできた。その全部を聞き終わらないうちに私はその現場に駆けつけた。寓居住まいをしていた詩人が住んでいた場所は、なるほど「ここだったか!」彼が住むには好適な場所だったと知った。
このところ、急にアクセスが増えた記事があった。尋常ではない数だ。八年前に書いた「透谷の妻、北沢に死す」というものだ。昨日、この理由がやっと分かった。「夫を亡くして」という新聞小説で透谷の妻のことが取り上げられていたからだ。
2016年06月23日 下北沢X物語(3062)〜透谷の妻、北沢に死す〜に書いたものだ。
北村透谷は「恋愛は人世の 秘鑰 ( ひやく ) なり」、恋愛こそ至上だということで、許嫁もいた女性、その当の恋愛の相手、石坂美那子、透谷の妻は思いがけず北沢の地でひっそりと亡くなっていた。娘の婚家先だ。
石阪美那子の生涯 『透谷の妻』(江刺昭子著 日本エディタースクール出版部 一九九五年刊)がある。巻末に、年譜が載っている。
一九四三(昭和17年) 七七歳 四月十日、東京都世田谷区北沢の堀越家で老衰のため死去(満七十六歳)。麻布狸穴教会でキリスト教式の葬式。芝瑞巌寺に葬られる。
七七歳で老衰で死んだと。今の高齢化社会ではまだ若い。老衰というのは哀れだ。
(二)
北村透谷には、「富嶽の詩神を思ふ」という論述がある。富岳こそは詩神、日本文学の源泉だという。
富士好きの人は大勢いる。自身もつい二三日前、北風が強いというので、初雪が降ったというこの山を見に行った。田園調布の国分寺崖線だ。が、残念、丹沢山塊の向こうに見える富士は姿を見せなかった。が、私と同じ手合いがいて仕方なくカメラを丹沢山塊に向けていた。が、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」である、あのたおやかな、そして、みめうるわしい富士をのみ見るべきものであろうか。雲に隠れた富岳を想像し、夢見ることで富士がいっそうに愛おしくもなる。
大岡山東工大の大井町線と目黒線をまたぐ陸橋は富士見名所だ、ここはよく行く。富士を目当てに通ってくる人は多い。ここで出会った女性。
「私ね、あの富士がなかったら死んでいたわね」
意味が分からない、彼女は富士を見ることで慰められていた。あの山がなかったら絶望のうちに死ぬしかなかったのよということか?
富士は、文学を、詩歌を、芸術を古くから産みだしてきた。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
山辺の赤人 万葉巻3-318
田子の浦ゆの「ゆ」が、いい、経由してという意味だ、岩岩が視界を遮っている。ちらちらとその間から姿を見せている、ところが大岩を曲がったとたん、富士が見えてきた。遮蔽物が取り払われて富士の全身が見えた。その感動を歌ったものだ。
(三)

透谷は、「富嶽の詩神を思ふ」をこう締めくくる。
人麿赤人より降つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遙するが為に、富嶽の周辺を往返して、形なく像なき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味あぢはひあり。
現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房 1969
多くの人が富士に心を打たれた。その中で最も好きなのは西下する特攻機から眺めた富士を描いた市島保男の文章が一番好きだ。
足柄山上空通過の頃、右手に崇高極まりなき富士の山を見、よくぞ日の本に生まれけるの感涙にむせぶ。機上より富士の姿は、あまりにも荘厳なり。想像を絶す。機上の桜の一、二枝を富士に捧げ、一路西進す。
新版 きけわだつみのこえ 岩波文庫 2009年
彼が富士上空を過ぎたのは昭和二十年四月二十一日だ。
彼は谷田部空を零戦で発っている。ちょうど満開を迎えた桜を同期生が操縦席に飾った。その様を「まるで市島は桜の花に埋まっているように見えた」と書いている人がいた。なるほど美しかったろう、その場面を想像して心を熱くした。
が、人は風景を美しく飾りたがる、私はその場に居合わせた人から直接聞いたのは。
「いや、操縦室には桜の花を挿すところなどはないのですよ。風防の溝に二三手折った花を挿しました。桜の花に埋まるなんてことはありません」
(飛行機からのは鹿児島知覧に行くときの撮ったもの。地上のは大岡山工大から。
ツーショットは作道雅明さん、日本でのボディボーダーの第一人者だったと)
2024年11月10日
下北沢X物語(5057)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」7―

(一)やはり大事なのはAとBとがあることだ。比較対照ができるからだ。具体的には静仙閣のことだ。これの意義についてchatGPTに聞いた。彼は、あっと驚く物語を組み立てて提示をしてきた。文豪永井荷風ゆかりのアパートだと、その壮大な物語展開に息をのんだことだ。つまりは虚構である。これに対するものが事実である。これによってAとBとの比較ができる。Aという壮大な物語、Bという現実事実だ。思ったことはAという奇想天外の物語が組み立てられるほどの素材をBが持っていたということだ。AIのことだ、ネットから素材を見い出したに違いない。これを提供していたのは自分自身であった。
それで静仙閣・永井荷風と検索してみた。つい笑ってしまった。検索トップに出てきたのは、前編、下北沢X物語(5056)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」6―だった。「ふふぅん、なるほど!」……
私は、「ネットに与太を飛ばす」というフレーズを自身の造語として言っている。念のためと思ってこれをGoogleでググると何とワンツーでページトップに躍り出てきた。「ネットに与太を飛ば」してきた成果である。実際のところ本当に私はこのネット世界に何万語も言葉を放り込んできた。これらの情報を拾い上げてchatGPTは壮大な「下北沢静仙閣物語」を編んだに違いないと思った。
しかし、自身も嘘をついていた、改めて点検してみた。最初に静仙閣について触れたのは、2005年04月09日「下北沢X物語(204)〜伝説のアパート下北沢静仙閣� �」であった。16年前ではなくて19年前であった。この記事自分で書いたものだが結構、読み応えがあった。
苦労したあげく、やっと静仙閣前にあったお地蔵さまを見つけた、そのときの記事だ。
(二)
実は、昨日、思いついて静仙閣の痕跡を求めて一人町歩きをしてきた。懐かしい箇所ばかりだ。やはり思い出は一番街にある。ここも様相がだいぶ変わった。行き交う人、外国人が多い。
昔、お茶屋さん、住吉園があった。もちろん今はもうない。ここの娘さんだったのは富安好恵さんだった。
「きむら先生はわたしの言うことを信じないだから」
彼女の口癖だったように思う。
「うちの二階で女流の集まりがあったんですよ。父は宇野千代さんが来られるのを嫌っていました。彼女、化粧が濃いのですよ。香水などの匂いが茶に移ることを心配していました」
これはとてもリアルな逸話だ。その彼女、横光利一の奥さんをよく知っていた。いつだったか作家の初版本を多く持っていて見せてもらったことがある。彼女はだいぶ前に亡くなった。思い返すのはあの初版本はどうしたろう?今でも思う。
お茶の住吉園、それから銭湯、八幡湯、ここは今は一階は古着屋である。今でもそうだが二階のコンクリートの壁に「エト邦江歌謡教室」の看板がずっと掲げられている。歌手の彼女は代田の帝国音楽学校を出ている。十八番は「カスバの女」だ。
この後最後に邪宗門に行くと、大奥さん作道貴久枝さんが出てきた。
「きむら先生が来るようになって昔話をもちだすものだからそれが刺激になってとてもよかったわ」
何と昨日は九十歳の誕生日だった。
「『カスバの女』は私の十八番だったのよ」
「あの桜ね、『野良桜』というのよ」と彼女。
「へぇ、そんな名前がついていたんですか?」
なんと静仙閣前にあった桜のことである。
(三)
静仙閣の痕跡は何も残っていない。だいぶ長い間、駐車場として使われていた。ところがそこは工事が始まったかと思うと、マンションが建ってしまった。唯一残っていたのが桜の樹だった。それを野良桜と呼んでいたという。
野良桜とは何か。「花見の名所ではないところにぽつんと咲く桜」をいうらしい。
確か、自分で写真を撮った覚えがある、自パソコンを調べてみると、出て来た。まさに野良桜だった。近隣の名物だった。
(写真は旧静仙閣前の野良桜。三人で写った写真、花籠を持ってきたのは、次男の作道雅さん、日本でのボディボーダーの第一人者だったと)
2024年11月08日
下北沢X物語(5056)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」6―

(一)「静仙閣」はこれまで何度も取り上げてきた。ブログ内検索だと162回も出てくる。
一番最初に取り上げたのは、2008年10月03日だ、もう十六年前だ。このアパートのことを知ったのは伊藤文学さんの父親の祷一さんの指摘だった。「昭和十二年ごろ,一一一三に静仙閣というアパートがあったことを,ご存じの方もあろうと思うが,ここに詩人の北川冬彦氏がおられた。氏は,詩壇の重鎮であるばかりでなく,映画評論家としても著名である。映画といえば同じこの静仙閣には文芸映画の多く傑作をのこしている映画監督,成瀬巳喜男氏が住んでおられた」(「北沢に住んだ文芸人」)。と。さらに輪をかけたのが一色次郎だ、このアパートの前の桜の樹の下に宝暦三年から建っていたお地蔵さんがあって日々お参りをしていたという。その桜の樹はあるが、お地蔵さんがない、これを必死に探し回ったときがあった。あるとき地元の交通安全の係の人が、「すぐ近くだよ!」(写真)と教えてくれた。そういう積み重ねの上にこの高級アパートの全貌が分かってきた。歴史的にも意味あるものだ。果たしてchatGPTは知っているか、聞いてみた。
下北沢静泉閣(しずせんかく)は、東京都世田谷区の下北沢エリアに位置する、文化的な背景を持つ歴史的な建物の一つです。この施設は、かつて日本の著名な作家である永井荷風(ながい かふう)の自宅兼アトリエとしても知られており、荷風が愛した静かな環境と自然に囲まれた場所として、彼の文学活動にも影響を与えました。
永井荷風と静泉閣
永井荷風は、20世紀初頭に活躍した日本の小説家で、特に『あめりか物語』や『市川』などで知られています。荷風はしばしば静かな環境で創作に集中したいと考えており、そのため下北沢にある静泉閣に住むことになりました。この場所は、荷風にとって創作の拠点であり、また彼の文学的なひらめきや感受性を育む環境だったと考えられています。
静泉閣の特徴
静泉閣は、荷風が好んだ自然と静けさに恵まれた場所に立地しており、彼の文学や思想に深い影響を与えました。建物自体は、昭和初期の風情を残す美しい日本家屋であり、当時の日本の住宅文化を感じさせる作りが特徴です。
静泉閣は現在、一般には公開されていない場合が多く、荷風の足跡をたどることができる場所として、文学愛好者や歴史的な価値を見出す人々にとって、非常に重要なスポットです。
まとめ
下北沢静泉閣は、永井荷風の生活と創作活動に密接に関わる歴史的な建物であり、その独特な雰囲気とともに日本の近代文学に与えた影響を理解するための貴重な場所です。この地域はまた、下北沢という若者文化や音楽、アートのエリアでもあるため、文学に興味がある人々にとっては一度訪れてみる価値のある場所です。
驚きだ、小説家永井荷風がこよなく愛した建物だという。
(二)

下北沢関係の事績で興味を持って調べたことは多くある。例えば下北沢店員道場もその一つである。これもよく分からなかった。しかし、行き着いたのは今井兼介さんである。彼のお父さんが建築家の今井兼次であった。彼の父親が設計図を引いた。それで息子さんはよく知っていた。学校のカリキュラムもよく分からなかったが、一番街の古い商店主が往事の学校案内を所持していて全貌が分かった。
静仙閣は解明するまで長い時間を要した。付近、近辺の聞き込みもした。が、戦時中燃えてしまったことから記録類はほとんどない。静仙閣の前に住んで居る人。
「ああ、そういえば静仙閣の写真はあったな。探せばあるんだけどな」
とても期待していたが出ては来なかった。
ただ、聞き込みの様子やまた資料調べで分かったことはネットに報告をしていた。結果としてこれが功を奏すことになる。これは、昨年のことだ。
富山県に住む、藤井剛です。
最近、東京の兄が亡くなり古いアルバムなど見ていると、北沢の静仙閣の事を思い出し、検索した所、きむらけん様のページに静仙閣の話を見つけました。
小さい頃、祖父(遠藤政治)や父親から何度か静仙閣の話を聞かされていました。
送付した写真は父の弟(遠藤義也)が書いた自伝の中の静仙閣についてき書かれた部分です。ご参考までに。
貴重な資料である、「星霜」はとても短いもので親類や親戚に配ったものであるようだ。
ここにでてくる遠藤政治さんは、小田急開通後に当地に商機を見いだして商売をはじめられた。
(三)
まず遠藤印刷所を下北沢で開業した。昭和4年頃のことである。商売は順調に伸びた。印刷需要が相当にあった。
このあたりも当地の文化に関係してくるように思う。詩人、俳人、歌人、小説家などが集まってきた。
当地に詩人は多く集まってきている。その彼らのステータスは詩集を出すことだった。もちろん商業出版ではない、自費出版である。多分遠藤印刷所にもこういうものが多く持ち込まれたのではないか。
商売が順調になって投資を行う。それが高級アパートの経営である。中原百貨店は廃業したがその跡地にはローラースケート場ができた。これも遠藤政治氏の投資によるものだ。
「乳酸菌アイン製造所」(写真)である、謎だ、下北沢のどこに作ったのか?(写真)
」
2024年11月07日
下北沢X物語(5055)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」4―

(一)「下北沢文士町」は何か?この全体像は掴めない。感知していない情報が歴史時間の中に深く埋もれているからだ。根本は町の特性にある、それは流浪性を支えている鉄道交差があるからだ、行き来の利便性が多くの人を集めた。来ては行く、その場合は寄留場所が必要だ。それにはアパートや下宿が利用される。井上光晴が言った「下宿と定食は下北沢」は往事の町の特性を言い表している。これには沢地形が影響している。沢と丘、庶民は前者に住んだ、土地は低廉ゆえに家賃も安い、貧乏な学生、詩人や文学志望者が集まる。必然的に定食も安くなる。文学はさすらいだ、町の性質としてさすらいやすいようにできている。下宿の他、アパートにも人は集まった。これには上下がある、静仙閣は上、北沢会館はその下だ。ここに多くの詩歌人、文学者、芸術家が集っていた。
消えた寮には愛着がある。それで下北沢文士町文化地図にもいくつか書き込んでいる。七島学生寮、嘉穂寮、虎ノ門タイピスト学校寮
七島学生寮は長い間、表札だけが掛かっていた。試みに国立国会図書館デジタルコレクションで引いてみる。50件もヒットした。
・黒潮に生きる東京・伊豆諸島 上巻 「世田谷区代田6丁目に"七島学生寮"がある。この学生寮は、伊豆諸島の子弟で勉学のため上京し」とある。
・甲子園の心を求めて : 高校野球の汗と涙とともに では、「野球部の選手たちは、七島学生寮の卓球室でその日行なわれた試合内容をスコアブックを追いながら……」とある。
寮内での生活の一端が見えて興味深い。
福岡産炭地の嘉穂寮も旧跡は記した。検索では三件、「世田谷区北沢二の二四八嘉穂寮」と明治学院同窓会名簿として引っかかる。
最近知り合った永久企画の永水恒徳さんは、この嘉穂学寮出身だ。
(二)
下北沢静仙閣は、下北沢を代表するアパートだ。文化人の巣窟だ。
「下北沢文士町文化地図」では、北川冬彦、中山義秀、一色次郎、成瀬巳喜男、愛新覚羅溥傑が居住したと記録している。これら以外で目についたのを挙げる。
デジタルコレクションで拾った清仙閣に関わる記述。
・田中利一文集 「上京、北沢の第二静仙閣というアパートに新居をかまえた。周子夫人は彼と同じ生粋の船場」とある、彼は映画プロデューサーである。
・佐藤忠正 陸軍航空本部東京監督班 軍人
文芸年鑑 1937年版
・世田ヶ谷區北澤一ノ一一三靜仙閣科本名日畔忠彥、詩人、小說家、明23生、舊ナツブ員、日畔忠彥の来歴はよく分からない。
・世田ヶ谷區北澤一ノ一一三靜仙閣(電世田ナ鳴筆名狹路庵、海要吉�冑�/
狹路庵も来歴不明。
詩集 1935年 世田ヶ谷谷區北澤一ノ一一一三靜仙閣北澤喜代治「詩精神」同人。詩集「兄への最後の手紙」の著がある。北沢 喜代治は作家
・世田ヶ谷區北澤一ノ一一三靜仙閣菊森英夫(『近代映畫』) 映画評論家か?
静仙閣についてはめぼしい人を拾ってみた。成瀬巳喜男監督がいたことと関係するのか映画関係者が多く目に付く。その他、詩人や小説家もいた。
(三)
伝説のアパート静仙閣は雑多な文化人が住んでいた。検索で引っかかった中に、森敦が書いた『文壇意外史』(朝日新聞社 1974)がある。これの部分情報が面白い。
「義秀さんも北沢の静仙閣にいたころは、北川さんに痛めつけられたりしてたからな。」
芥川賞作家の中山義秀がここに住んでいて何かと諍いを起こしている。中でも詩人の北川冬彦とはよく喧嘩をしていたという。
「近くの丘にある静仙閣というアパートに移り、いまの女流詩人北川多紀さんと結ばれる縁」とある。
森敦は、晴保荘というアパートに住んでいた。自分が住んでいる近くの丘にある静泉閣に北川冬彦は移り住み、ここで多紀さんと出会い、結婚をした。
伝説のアパート『下北沢静仙閣』は、戦争末期に火事に遭い燃えてしまった。満州国皇帝溥儀の弟も住んだというこのアパート、『下北沢静仙閣物語』として一編の作品になるのではないか。
(山の写真は大山だ、初冠雪したという富士を見に多摩川台公園まで行ったが今日はごらんの通り見えなかった)
2024年11月05日
下北沢X物語(5054)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」3―

(一)文士村という場合は、人が中心である。しかし文士町の場合は機械が核である。人が集ってくる場合、交通機関は大事だ。行きやすい、来やすい、田端文士村の場合は省線田端駅、馬込文士村の場合は省線大森駅だ。両方とも線は一つだ、歴史的には省線の方が古い。下北沢の場合は私鉄線。歴史は新しい。小田急線は1927(昭和2)に帝都線は1933(昭和8)に開通している。田端や馬込は鉄道線一本だ、が、下北沢は鉄道線二線が交差している。機械的なものである。しかし、この交差は重要だ、四方向から来られる、と同時に行ける。これは人々の自由性につながる、それは人の放縦性につながる、往来の自由性と文学は深い関係がある。下北沢における自由交通性は文学と結びつく、文学とはさすらいだ、ゆえに鉄道交差部には文学が集ってきた。
下北沢への文士参集、特異な現象である。わが国でも類例をみないものだ。この実態については一応段階的には、地図を創って彼らの居住痕跡をここに網羅している。版を重ねて今は9版となっている。が、「下北沢文士町」の全貌を突き止めるのは至難だ。
人々は融通無碍に気楽にのんびりと集まってきている。しばりがない。孤高的だ。
「親父は早稲田建築、大体同僚は住むところは西武線沿線なんですよ。しかし親父は徒党を組むということを嫌っていましたから、新天地のこの下北沢に来たんですよ」
今井兼次の息子さん、兼介さんから聞いた。このところもう久しく彼には会っていない。
国立国会図書館のデジタルアーカイブの検索ができる。これで引くとフレーズが出てくる。作家本人が居留したり寄留したりしたアパート名が出てくる。緑陰荘とか北沢荘とか。
素晴らしいのは静泉閣がでてくることだ。
アパートには寄留して、そして去っていく。そういう手合いが当地には多かった。
(二)

ChatGPTに尋ねてみる
下北沢には数多くの文学者が集っている、そのことから当地は下北沢文士町と呼称している。なぜ文士が多く集まったか、大きな理由は鉄道の交差にある、小田急線と井の頭線が交わったこの地には文学者が多く集った。文学の基本はさすらいだ、鉄道の交差とさすらいには深い関係があるように思うが、どうだろうか。
下北沢が文士町と呼ばれる理由は、確かに鉄道の交差点としての立地が大きいですね。小田急線と井の頭線が交わるこの場所は、交通の便が良く、さまざまな人々が行き交うことで、文学者たちが集まりやすい環境を作り出しています。
また、文学には「さすらい」の要素が根付いていることも重要です。作家たちはしばしば新しいインスピレーションを求めて旅をしたり、街を彷徨ったりします。その意味で、鉄道はさすらいの象徴とも言えます。下北沢のように、さまざまな文化や人々が交差する場所は、創作活動においても刺激的な場となるでしょう。
この地域の雰囲気や風景も、作家たちの創作に影響を与える要素です。カフェや本屋、劇場などが点在し、文学的な感受性を養う場が多いのも特徴的ですね。こうした環境が、文学者たちを引き寄せる要因となっているのでしょう。
ここでの回答の眼目は、第二段落だ、AIの教養も伊達ではない。結構、私が指摘したことについて筋道の通った回答をしている。
(三)
文学研究者の猪熊雄治先生、折々にアドバイスを下さる。今日もくださった。
またメール差し上げますご無礼お許し下さい。猪熊雄治です。「下北沢文士町」2の記事を拝読し、小泉苳三と下北沢の関係を知り、ちょっと検索してみました。小泉が創刊し主宰していた「ポエナム」の71巻4号(1994・4)には「小泉苳三先生転居覚え書き」の頁があり、昭和5年1月〜9月 下北沢666にいたようで、下北沢に「仮住まい」していたことが載っています。
小泉とは離れて恐縮ですが、もう一件で吉田健一のことです。昭和12年5月頃〜14年?月 吉田健一が「北沢二丁目九二四番地の借家」に弟と住んでいたようです(当時吉田茂は駐英大使)。近所に中村光夫(「松原町四の一四〇」)がこの頃在住し、交友を重ねていたとされています。(長谷川郁夫「吉田健一」) また長谷川氏は横光のところも頻繁に訪れていたとしています。既にご確認されているかもしれませんが、先ごろ目に触れましたので、念のため、小泉の件とともに、お知らせさせて頂きました。
下北沢文士町の一端である。言えば、「下北沢文士町」は一種の小宇宙である。この全貌はいかなものか、星々がきらめくこの世界はAIもたじろぐほどである。
2024年11月04日
下北沢X物語(5053)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」2―

(一)町のことを聞いてもchatGPTは分からない。流浪の町だから人の動向はつかめていない。たとえは、小泉苳三だ、歌人であり学者である。彼は歌集「くさぶち」の中で「下北沢仮寓」と三度も描いている。」当地に仮住まいをしていた。こういう場合、どこに住んでいたかは分からない。歌人の足立直郎も『緑蔭の書卓』(交蘭社、1929)に「東京市外下北澤九七五番地の�儖�莊に」とあり、「昨年の中秋、この下北澤の地にささやかな家を作り、居を定めてから」と。そして、「小田原急行線の『下北澤』である。この沿道は京王電車と違つて、乘り心ちも素的」ともある、1929は昭和2年である。開け始めたばかりの頃に住んでいた。こういうことは検索で分かるのみで細かく調べるには一つ一つ国立国会図書館に行って調べないと分からない。下北沢文士町は詩歌人密度日本一だ。
chatGPTに聞いてみる。
どうして下北沢文士町は形成されたか
下北沢文士町が形成されたのは、主に昭和初期から中期にかけて、文士や芸術家たちが集まったためです。この地域は、交通の便が良く、静かな環境が整っていたため、多くの文学者やアーティストが住むようになりました。彼らはここで創作活動を行い、互いに影響を与え合いながら文化的なコミュニティを築いていったのです。
また、当時の下北沢は、下町の雰囲気とともに、東京の新しい文化の発信地としても知られていました。小さな劇場や画廊、カフェなどが立ち並び、文士たちの交流の場となりました。こうした背景が、下北沢文士町の形成に大きく寄与したと言えるでしょう。
理由としては、まず「交通の便が良く」という。この場合、鉄道の交差のことは触れてはいない。1923,昭和2に小田急が開通したこと。そして1933昭和8に帝都線が開通して鉄道交差都市になったことはもっとも大事な点である。「静かな環境」も大事な点だ、昭和3年に横光利一は阿佐ヶ谷から転居してくる。彼は大声を出す癖があるが、それで気が引けるということがあった。北沢の高台の武蔵野に引っ越すことで存分に奇声を発することができるようになった。
(二)

形式段落二段目の回答は、あたりさわりがない、ロボットらしく、それらしくまとめている。「東京の新しい文化の発信地」というのも漠然としている。文化の発信地ということで言えば戦争が深く関わる。
映画プロデューサーの森栄晃さんに直接取材をしたことがある。彼は文才を認められて横光家の水曜会に出ていた。
「戦前ですけどね、下北沢には古本屋が多くあって、それは魅力でしたよ」
本のことで言えば、下北沢中心部は焼けなかった。屋根のある家があることは大事だ。交合ができる。しもた屋がいわゆる連れ込み屋となった。面白い使われ方をする。
戦後は活字に飢えた時代だ、出版が活況を呈した。焼け残った下北沢の家は編集室となった。伊藤文学さんところの第一書房はそうである。
大がかりなものでは文潮社だ、各地から作家を集めて書かせる、彼らを缶詰にして連れ込み宿で書かせた。水上勉はその一つが「名月」だと言うが、聞き合わせてもそんな宿はありはしない、適当に書いたのだと思う。
下北沢一円に小出版社が数多くできた。これらを総称していえば、「東京の新しい文化の発信地」となるが、「小さな劇場や画廊」というのは戦後のことだ。
(三)
「下北沢文士町」の形成は鉄道の交差と深く関係する。
文学の根幹はさすらいだ、これと下北沢における鉄道の交差が関係するがどうか?
これをChatGPTにぶつけてみよう。
2024年11月02日
下北沢X物語(5052)―chatGPTに聞く「下北沢文士町」―

(一)長年、下北沢地域に居住した文化人を調べてきた。彼らが当地に密集して住んでいることを知り「下北沢文士町文化地図」を創った。改版を重ねて現在では9版を配布している。この発行枚数は9万部に達した。文士が多く集う場は、普通は文士村と呼ぶ。が、ここでは「文士町」という呼称をつけている。文士村というのは一過性の集いだ、中心人物がいてそのもとに人が集った。が、人は年老いて死ぬ、と共に村も実態が無くなる、文士村は実質は文化遺跡となる。町と名付けたのは文化が命脈を保っているからだ。文化人の新陳代謝が継続していることから「文士町」と名付けた、これは自身が名付けたものだ。
当文士町の嚆矢は詩人の福田正夫であろう。彼が東京市外世田谷下北沢八○九番地に住み始めたことから始まる、1923(大正12)年である。今年は百一年に当たる。当文士町が詩人から始まっていることは興味深い。大正の終わり、若い人を惹きつけたのは詩である、思いを語るものとしての詩は若者に深い共感を与えた。
民衆派詩人福田正夫は人が好きだった。それで彼のもとに人が多く集まった。下北沢だから小田急線と思いきや、これは違う。下北沢八○九番地は笹塚に近い。最寄り駅は京王線のこの駅だ。正夫のご子息は福田達夫、当時の電車をこう書いている。
私が子供だったその頃、京王電車は一輌で走っていた。それも運転台が吹き抜けの市電の車輌であり、ステーションは低く乗る時も降りる時も一段タラップを踏まなくてはならなかった。市電と違うのはあちらが緑と黄色の鈍い色分けをしていたのに対して、京王線が焦げ茶色をしていたことだ。ギシギシと音をたてて揺れる木製の電車は走っているのを見るだけで一生懸命さが感じられ親しみのある形だった。クレヨンで描く画にもなり易かった懐かしい思い出の電車だ。
戦争中の中学3年生 私立日本中学校勤労報告隊の記録 日本中学校 昭和21・22
福田正夫宅に集まった詩人たちは、京王線の市電に乗って集まってきていた。
福田正夫はこの後、大原に転居した。ここが空襲にやられて一番街裏手の下北沢に引っ越してきて、ここで生涯を終えている。
(二)

下北沢文士町について、chatGPTはどう答えるか。
下北沢文士町は、東京都世田谷区の下北沢エリアに位置し、特に文学や芸術にゆかりのある場所として知られています。この地域は、多くの文士やアーティストが住んでいたり、活動していたりした歴史があります。下北沢自体は、古着屋やカフェ、劇場などが点在し、独特の文化的雰囲気を持っています。
文士町としての特徴は、文学の香りが漂う街並みや、文学に関連したイベントや書店、アートスペースが存在することです。また、近くには小劇場やライブハウスも多く、演劇や音楽を楽しむことができます。
この地域の魅力は、ただ単に歴史的な背景だけでなく、現代のクリエイターたちが集まり、文化が息づいている点にもあります。下北沢は訪れる人々にとって、過去と現在が交差する特別な場所となっています。
解説では、「文学の香りが漂う」と使っているが、この解説からは全く文学の香りは漂ってこない。評価すれば15点ぐらいなものだ。
文士町の特徴として「文学に関連したイベントや書店、アートスペースが存在することです。」と言うが全くの的外れだ。
この下北沢は萩原朔太郎が描いた『猫町』の舞台ではないかとされていて彼の命日には『下北沢猫町散歩』が行われている。当地は朔太郎、終焉の地で意義深い場である、というふうに踏み込みはしない。
(三)
chatGPTは、回答を出すまで時間が掛かった。彼は、自ら考えることなるネットに検索をして適当に要点らしきものを拾い、回答を導き出した。まったく文学性に欠ける回答である。
ただAIは学習する機械だ、ネットに情報が蓄積されれば分析も高度になっていくはずだ。ロボットの学習効果を期待しよう。
Wiki検索項目として「下北沢文士町」は成り立ちうる項目だ。どなたかが立ち上げて創ってくださることを期待する。
(写真の庭は、昭和女子大構内にあるもの)
2024年11月01日
下北沢X物語(5051)ー北沢川文化遺産保存の会会報第200号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第220号
2024年11月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、筏道を歩く 木村 康伸
かれこれ十年以上、この会の「都市物語を歩く会」の案内役を年に一、二回務めさせてもらっている。
私の興味分野は歴史なので、毎回歴史散歩になってしまうのだが、ここ数年は世田谷区内の古道歩きに特化するようになった。古道歩きが専門というわけでもないのだが、道というのは文字通り人を導いてくれる。その古い道を案内することで、参加者の皆さんがこの世田谷地域の理解を深めていくための一助になればと思っている。
そんな古道探訪シリーズの最新回を今月の「都市物語を歩く会」で実施することとなった。今回歩くのは筏道である。
江戸時代、江戸の町では火事が頻発したこともあり、材木の需要が多かった。それを満たしていたのが青梅や奥多摩など多摩川上流で切り出された材木である。市中の普請用材木や、江戸城の修築、幕末には台場建設にも使われたという。
この材木は筏に組まれ、筏流しという形で多摩川の河口部まで運ばれていた。その筏を操っていた筏師が帰路に通ったのが筏道である。多摩川河口の六郷から多摩川沿いに世田谷、狛江、調布、府中を通って奥多摩方面へと続く道を、筏と引き換えに大金を懐にした筏師たちが歩いて行った。沿道にはかつて筏師が泊まった宿の跡などもある。
今回はこの筏道のうち、世田谷区内の部分を歩いてみたい。小田急線の喜多見駅から東急田園都市線の二子玉川駅まで、野川や六郷用水に沿って歩く。
ただ、筏道というのは前回まで歩いた大山道(相州往還)のように、多くの人々が行き交った道ではない。それだけに、その道に関わる痕跡は少ないのだが、この道の通っていた喜多見・宇奈根・大蔵・鎌田・岡本といったあたりは歴史的には見るべきものが多い。筏道をたどりながらこの地域の歴史に触れ、世田谷区内でもあまり知られていない場所を歩くことで世田谷の新たな魅力を発見したいと思っている。
なお、今回の「都市物語を歩く会」は奇しくも第200回にあたる。これまで多くの方々が案内役を務めこの会を紡いできたことと思うが、その先人の案内に恥じぬよう、またこの会がこれからも末永く続いていくよう、案内役をしっかりと務めたいと思っている。
2、ある運転手さんの戦後 佐藤 すみれ
大分空港に向かうバス停の前で、私はひとり途方に暮れていました。便利な東京の暮らしに慣れきってしまい、田舎のバスの便が少ないことを忘れていたのです。次のバスは一時間後で、それだと帰りの飛行機の時刻に間に合いません。タクシー料金は高額になるでしょう。当時の私は東京と大分の遠距離介護を始めたばかりでした。両親が急に体調を崩してしまったのです。先の見えない不安に押しつぶされそうになっているときに、この自分のミスによる出費…けれど、いつも空港に車で送ってくれた元気な親は、もういないのです。力なく通りかかったタクシーに合図しました。
後部座席に乗り込み、顔を上げると私はすぐにこの車に乗ったことを後悔しました。運転手さんはずいぶんな高齢のようです。八十はとうに超えているようです。どうしよう…大丈夫なんだろうか…もし事故でも起こされたら…。
ですが、もう乗りかかった船。いえ、タクシー。空港までと告げてしまいました。私たちの一蓮托生のドライブが始まりました。
「お客さん、空港バスに乗り遅れたんね?」
そう、大分の高齢のタクシー運転手さんは大抵話しかけてくれます。私も知らない人と話すのは大好きです。
「はい…。親の介護で東京と行ったり来たりしてるんです」
「そうね…そらたいへんじゃね…遠くから…ところでね、お客さん、昔、別府に大きな大仏様が立っちょったの知っとる?」
あとで調べたのですが、一九二六年から八九年まで、別府市には大きな大仏様があったのでした。
「わたしがこどもの頃はねえ、夜は別府大仏のなかで眠ってたんよ」
それから空港に着くまでの約四〇分の間、運転手さんは幼いころの戦後の暮らしを私に話してくれました。
元々は大阪の出身であったこと、両親、兄弟と共に満州から引き揚げてきたけれど大阪まで辿りつけず、途中の別府市で暮らし始めるようになったこと。家が狭くて家族全員が寝るスペースがなく、こどもたちは雨風をしのげる大仏様のなかで毎晩寝ていたこと。
「…あの、布団はどうしてたんですか?」
にわかには信じられない話に私は驚いていました。
「ははは、布団はないよ」
「それじゃあ、体が痛くて眠れなかったでしょう」
「いや、大仏のなかは温かくて、腰かける場所もあるし、よく眠れたんよ。それに近所
の子もいっぱい来ちょったよ。あの大仏はコンクリに遺体の髪の毛を混ぜとったんじゃ。中の壁を削って遊ぶと髪の毛がバラバラ出てきてな」
「…満州から引き揚げてきて、ご両親は仕事はどうしてたんでしょう」
「おやじと海で蟹を採って、売りに行きよったで。あとはあの時代は日雇いの道路工事を男も女も関係なく、やりよったな。おふくろも真っ黒になって働いていた」
私が小学生だった当時の大分の小学校では原爆投下日である八月六日と九日に平和教育が行われていました。六年間、多くの悲しい戦争中の話や映像に触れました。けれど、戦後の暮らしがどのようなものであったのかということまでは学ぶ機会はありませんでした。そして、実際にそういった話を体験者の方の口から聞くのも初めてのことでした。私にとって、戦争はいつも遠くにあるものでした。
運転手さんは、昔の日本には本当にこんなことがあったんだぞ、信じられないだろう、といった雰囲気で明るくニコニコと苦労話を語り続けます。
けれど私は、冷たいコンクリートの上で身を寄せ合って眠る幼いこどもたちのことを、長い長い海までの道を歩く親子を、当時の人たちの苦しい生活を人生を想像し、涙が出てくるのを運転手さんに悟られないようにするのが大変でした。戦争によって、あきらめなくてはならなかったことも多くあったことでしょう。
少し前、バス停で自分一人だけが苦労を背負ってしまったような気持ちになっていたことを恥ずかしく思いました。戦争で多くの人がその寿命を全うできずに亡くなってしまったのです。小さなこどもが勉強もできずに働いていたのです。無事に高齢者になることができた私の両親は恵まれているのです。
運転は確かなものでした。何の問題もなくスムーズに大分空港にタクシーは到着しました。
最後まで運転手さんは笑顔でした。タクシーが見えなくなるまで見送りました。
3、甘粕大尉の下北沢在住
ネット渉猟していて「聖代暗殺事件 (悪の華文庫 ; 第2)」に遭遇した。著者 高田義一郎 著 出版者 万里閣書房 昭和5である。ここに甘粕大尉の消息が記されている。
洋行帰りの甘粕大尉は、今、小田急線の下北沢の南約二町の地にある赤瓦の洋館にスイート・ホームを営んでゐる。夫人の手に奏でられるピアノの音が、いつも長閑に洋館の窓から流れる様に響いて来て、近所の人の羨望の的となつてゐるといふ。
帰仏後の若夫婦が当地に住んだことは興味深い。現代沢5丁目辺りではないかと推察される。しかし、一時であれ、甘粕正彦大尉が居住していたことは初めて知ったことだ。しかし、文化人ではないが、どこに居住していたかは興味がある。
4、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第200回 11月23日(土)筏道を歩く〜知られざる世田谷の歴史を訪ねる〜
案内人 木村康伸さん 小田急小田原線喜多見駅改札 13時30分
・喜多見駅→喜多見慶元寺・氷川神社→稲荷塚古墳→知行院→次太夫堀公園→宇奈根観音寺→大蔵永安寺→岡本民家園→吉沢橋→二子玉川駅
○二子玉川より上流の多摩川沿い、鎌田・岡本・大蔵・宇奈根・喜多見あたりは、世田谷区内でもあまり知られていない地域です。そこに筏道という古道があります。筏道とはどんな道でしょうか。そしてその沿道にはどんな歴史があるのでしょうか。筏道をたどり、世田谷の新たな歴史・魅力を発見しましょう。(注:実施日が変更になりました)
第201回 12月14日(土)「生田春秋苑掃苔行」
案内人 原敏彦さん 集合 小田急線生田駅改札口 13時15分(厳守)
春秋苑は昭和33年に開苑した宗教不問の公園墓地。柳田國男、平塚らいてう、尾崎士郎、横溝正史、山岡荘八、古関裕而、三船敏郎他多数の著名人に加え、旧臘26日、79歳で亡くなられた当会会員、別宮通孝さんも永遠の眠りについておられます。
今回は別宮さんのお墓にお参りの後、時間の許すかぎり多くの著名人のお墓を巡りたいと思います。
※ 13時30分発の無料送迎バスを利用しますので、集合時間は厳守願います。広大かつ起伏の多い墓苑ですので、足に自信のない方はご遠慮下さい。
○忘年会の開催。今年最後の町歩きの後、忘年会を行います。
小田急線生田駅そば「中華 味良(みよし)」17時から 予算 4千円/人
忘年会係担当 幾田充代さん 忘年会だけの参加も歓迎します。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて通常は500円 町歩きの参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む 宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
■ 編集後記
▲先だって、代田演芸会に出演した。二次会が梅丘で行われた。このときに記録映画を編集しているという温海鋼一さんに会った。代田在住も長いと。中原商店街のこともよく知っていると。「中原商店街の思い出」を書いてもらえないか頼んだところ、快く引き受けてくださった。
▲エッセイを募集しています。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲町の隠れた情報を発掘し、ブログに書いて発信しています。これも情報を乞う。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲会費について:郵便代が10月から値上げになった。封書は84円から110円に。これまでは会報の発送は封書で行ってきた。110円で計算すると年1320円となる。それで来年度から値上げを考えていた。しかし、これまでは大半の人がメール配信で受け取っている。紙印刷をなくしてメール配信にすれば値上げの必要はない。が、どうしても紙印刷でないとだめという方もおられる。これへの対処だが、毎月末の第4日曜日2時に事務局に印刷した会報を届けていた。これからは保存用1部+紙印刷希望者数X部を届ける。これを事務局から発送してもらう。よって紙印刷希望者のみ会費は1500円とする。
◎会報発送日は、私はこれまでと同じように2時に会報を事務局に届ける。これまでは発送日として会員有志が手伝いに来られていた。これは一つの機会である。このとき「北沢川文化遺産サロン茶話会」を開く、雑談、文化談義を行う場だ。参加は誰でも自由とする。散歩だけではない、雑談、談義を行って楽しく過ごす。きむらは印刷を届けなくていいということにすると事務局とも遠ざかるのではと危惧する。それでサロン茶話会を開くとしたものだ。来年度からの会費、メール配信の場合は1200円、紙印刷希望の場合は1500円としたい。会費の払い込みは、銀行、直接事務局へ、散歩の折に、いずれか。
*紙印刷希望者は当方か、事務局作道敬子さんに意向を伝えてください。なお、毎月のメール版にはPDFを添付して送るようにしたい。
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。
(写真は、筏道を歩く関連)



















