2024年12月
2024年12月31日
下北沢X物語(5090)〜 嗚呼サヨナラ24:マタキテ25〜

(一)鎌倉時代成立の「徒然草」は、「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ」といい、暮れから新年にかけての風情の変化を巧みに伝えている。まず晦日だ、音が消え果て「年の名残もこころぼそけれ」といい、そして年明けて、「大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。」と述べる。古代人は年変わりに次年に期待を持っていた。が、現代人ははどうか、多くが巡ってくる年に感じるのは不安だ。戦争、原発崩壊、財政破綻、地球温暖化、極大地震などがある。ここのところの物価高などもひどい。教育費の高騰は教育システムを破壊しかねない。痛切に感じるのが貧富の差である。たまたま放送で聞いた夫婦へのインタビュー、「ギリギリ作っても一名ですよ」と。
年が明ければ「戦後80年」だ、何のためにあるか?一言に尽きる。悲惨な戦争を伝えるためである。当事者は死に絶えつつある。戦後100年も時期は来るが、関係者は死に絶えている。生存者がかろうじている、伝承者がいるから「戦後80」年には意味がある。
戦争体験者千人に聞いた、実数はこれ以上だ、誰も皆口をそろえて言ったことは
どうあっても
何があっても戦争は絶対するな!
戦争は格好つけだ、見た目にかっこよい。
「昭和二〇年三月の終わり、疎開宿を発って行かれる特攻隊員を見送りました。玄関に整列すると号令が掛かりました。瞬時に並び終えると『隊長殿に敬礼!』とたんに軍靴がかちっと鳴るのです。かっこ良かったですね。軍隊に憧れました。」
疎開学童一人の回想だ。
「神風特攻第一号の成果を報じる、新聞の一面には度肝を抜かれましたね。いまだにあの見出しは覚えていますよ。『神鷲の忠烈 萬世に燦たり』特攻には憧れました。おれも飛行機乗りなって華々しく散ろう」
これは当時、松本中学だった人の言だ。
その瞬間は格好いい、が、人生は長い。戦争は一瞬ではおわらない。敵艦体当たりは昭和二十年十月二十五日。神風特攻の戦果が素晴らしかったから誰もいちゃもんをつけるものがいなかった。それで特攻は継続されたと。多くが、生身の人間を武器に使う戦術は、どう考えても変だ、心の隅で思っていたがそれを口に出していう人はいなかったと。
(二)
開戦を告げる報があった。
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。
これで思い出したことがあった。2020年12月08日に書いた記事だ。
世田谷代田の萩原朔太郎は、明治大学の文芸科講師を務めた。このときに学生に、美文と思われるものを書けと指示した。とある学生が、開戦のニュースを認めたところ合格だったという。
短文で、すっきりと頭の中に入ってきて、そしてかっこいい……戦争は国家によって飾り立てられて伝えられる。覚えておくべきことだ。
戦争の開始はかっこよい。が、終わりは不様だ。我々は、この戦争から大きな教訓を得た。
始めた戦争は終えることができないことだ。人々の様々な思惑にけじめをつけることはできない。それが人間だ。どんなに不利であっても「必ず神風は吹く、徹底抗戦」だと言うやつが必ずいてこれに振り回される。分析とか戦略が全く意味をなさなくなる。
「国体断固保持」、「一億総特攻」とか御託を並べているうちに「ジャップをやれ!」と原爆投下がなされた。そして彼らは言う。
「広島・長崎に原爆を落とすことで戦争は終わりを迎えたのだ」
(三)
このところ報じられているニュースだ。
防衛財源 所得税の増税 開始時期の決定先送り 自公が合意
2024年12月13日 12時01分
防衛増税は無理難題だ、アメリから言われてああそうですかと同意したに過ぎない。特段中国からミサイルが飛んでくる危険は感じない。が、北朝鮮は何時使うか分からないと言って脅し、これがまた筋違いだ、南西諸島にミサイルを配置する。方向が違うのだが、中国を念頭にしているわけではないと国家は嘘をつく。
(四)
自民が「原発依存低減」の削除要請 エネ基本計画改定で首相に提言書原発の「依存度低減」文言削除へ 次期エネ計画案
その理由、AIの普及で電力が足りなくなるからと。私はchatGPTに聞いてみた。
AIの使用によって電力が増えるから原発を使う、これ本当ですか
結論
原子力発電がAIの電力需要を満たすための解決策になるかどうかは、エネルギー政策や技術の進展、社会的受容性によって異なります。
短期的には現実的な選択肢となる場合もありますが、長期的には再生可能エネルギーの拡充やエネルギー効率化がより持続可能な解決策と考えられています。
原子力村が自分たちの権益を守るために原発再稼働を述べているに過ぎない。
(五)
もう一つ大きな問題がある。日本海側にずらりと原発がある。北朝鮮がミサイルで狙えば、日本は壊滅する。
「これはどう防ぐのか?」
誰も答えられない。
原発から出る高レベル放射性廃棄物の処理方法も定まっていない。気の遠くなるような時間の掛かるこれをどう処分するのか、すべて当座しのぎで対処しているだけである。生きているものが生きている間だけ責任を取ればすむ問題ではない。やはり地盤脆弱なこの国に原発は無理だと思う。
2024年12月30日
下北沢X物語(5089)〜嗚呼’24年:晦日の終わりの文化談義〜

(一)年の瀬も押し迫った28日、第一回、北沢川文化遺産保存の会の文化サロンを開いた。皮切りの話題は『静仙閣』である。貴重な映像、玄関先などを撮った数枚の写真を今回は持って来て皆に見せた。最盛期三棟もの建物があって部屋数は百室もあった。食堂賄いつきの高級下宿は繁盛していた。多くの文化人がここ陣取って活動をしていた。下北沢文士町の核となる施設である。詩歌人、文人、映画人などがここに居住し熱く文化論や映画論を交わしていた。その記録は断片的にしか残っていない。「下北沢文士町における静仙閣」は文化史として重要だ、戦争末期になると一色次郎が住み、空襲を中心とした記録を残している。45年1月1日、空襲警報で壕に飛び込むと化粧の匂いが充満していたと。静仙閣には囲われた女性も多数いた。
文化談義はキリがない。三軒茶屋にできたスーパーマーケットのことが話題になった。ここで起こっているのがスーパー戦争だ、まずベルクスの進出、そしてスーパー東急のリニューアル。加えてスーパーオオゼキが参戦してきた。旧来の西友、そしてハナマサもある。
私はこのところベルクスにはよく行く。水産系統の魚介類はここは安い。ただ評価はさまざまだ、「確かに安いけど、品物がね、東急は高いけど品がいいのよ」と我らの仲間のセレブがいう。
ともかく物価が高い。昨日の農業新聞「キャベツ3倍に高騰 ミカンは5割り高」という。じわりと物価が上がっている。御嶽山のイオンのパン売り場でここ何年と一個100円のメロンパンを買っていた。ついこの間行くと20円も値上がりしていた。
一番の話題は米が高いということだ。どうもこの背景にはもちろん夏の異常気象があるが、根底には自民党の農政政策の失敗もある。米を作らせないで他の作物を作らせそこに補助金をばらまく。
農業新聞12月21日では、「米相対 最高値を更新」「集荷競争の過熱などで流通業者間で不足感が出ている」という。米の総量が少ないようだ。同じ新聞紙面では「輸入米七年ぶり全量落札」とある。米があるあるといいながら全体に不足しているようだ。
だいたい基本は三千円超えの米、新米が入ったら下がると言っていたが下がらない。農業新聞によるといわゆる作況指数は平年並みとされていたが今夏の高温で稲の育ちが悪く歩留まりが悪い。農協に出荷せずに個々の業者と農家は対応していると。米高騰に対して政府は無策だ、備蓄米を放出する手段があるがそれはしない。利権によって構築された米相場がある、ひとたび施策を行えば火の粉が降りかかる。
(二)
文化談義は世田谷代田オンパレードだった。奥谷民雄さんの隣に斎藤寅次郎の家はあった。こ
こら辺りの学区は、山崎小学校である。監督の息子昌康さんも浅間温泉小柳の湯に疎開している。彼は、特攻機が小柳の湯にお別れに来たとき真っ赤な毛布を持ち出してそれを懸命に振ったという。
「あれは親父の趣味だね、あんなときに真っ赤な毛布を疎開先に持っていくことなんてないよ」
奥谷民雄さんは自慢げに言う。
「何しろうちは貧乏だったものでね、隣の斎藤さんの奥さんのところに行ってお金を借りていたぐらいだから」
恩を忘れることなく、おかげさまで元気に育っていますと。成城に越してからもその日にはお赤飯を届けていたという。
彼の親父さんは奥谷松治、検索すると著作が出てくる。昭和時代の社会運動家である。
『思い出の人々』には、彼が生涯か関わった人が出てくる。徳富愛子もその一人だ、徳富蘆花の奥さんである。
蘆花『みみずのたはこと』は、武蔵野を調べるものに取っては避けては通れない作品である。昔の旧弊などがよく記録されている。
しかし、私は彼の代表作品は読んでいない。『不如帰』には、武雄と波子の物語は多分に奥さんと実生活が反映されているという。
「不如帰波」で有名な波子の言葉が二つある。
あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!
あ丶辛つらい! 辛い! ――最早もう婦人なんぞに――生まれはしません
(三)
昨日たまたまYouTube「若い女性たちが消えた」という番組を見た。
地方都市では高校を卒業した男性はある程度地方に帰ってくるが若い女性はほどんど戻ってこない。その根底にあるのはジェンダーギャップである。男と女とがいて地域は成り立つ、が、男ばかりでは子はできない。地方の少子化は一層に大きくなる。消滅の恐怖すらある。
男女間格差は、歴然とある、狭い島国日本、男性優位社会はゆるがない。
夫婦別姓への根強い反感は、島国的狭量さが今もある。少子化問題の背景にも強固とした伝統が根付いている。これをどう打破していくのか。
(三軒茶屋のスーパー。静仙閣跡にできたマンション)
2024年12月28日
下北沢X物語(5088)〜嗚呼’24年:世田谷から平和を考える展〜

(一)今年も残りわずかだ、振り返って一年を考えるとやはり大きなテーマは戦争だった。
今夏、世田谷下馬図書館で開催されたパネル展は、自身の調査の集大成だった。時間を掛けての調査が日の目を見たものだ。世田谷の七校の学校は浅間温泉に疎開した。1945年春、沖縄特攻を控えた特攻隊が陸軍松本飛行場に飛来してきた。宿舎を温泉に取ったところ、ここにはどこもここも疎開学童だらけだった。彼らにとっては一期一会の出会いだった。これからを生きていく学童たちは生命力に溢れていた。一方、彼らは自分の命を捨てて敵艦に突撃していった。松本は、特攻の後方基地であった。最前線のような緊張感はない。興味深いのは、出撃していくときの好例のルーティンだ、飛行場を発った機の多くは温泉まで飛来してきた。お別れのデモンストレーションを敢行して立ち去った。これは何を意味するか。
松本出撃特攻については、これまで六冊にまとめてきた。温泉へのデモンストレーション飛行についてはこれを点検すると数多く出てくる。お別れ飛行は公務から外れるように思う。機は編隊で行動する、身勝手な飛行は許されない。上司の許可を取って来ていたはずである。責任者もこれを許していたようだ。
特攻隊員たちは、疎開学童には一際心惹かれたようだ。後ろ髪を引かれる思いで松本を発っている。松本の次が各務原だ、ここへ一拍して出撃地に向かう。ここへ着くと淋しさが募ってきて、思いを寄せていた女子に手紙を書いている。私はその二通を知っている。特攻に行くというのは根本は建前に支配されている。私情は許されない。松本はローカルな出撃飛行場である。規制や縛りが緩かった。それで隊員たちは自由にお別れ飛行に来ていたのではないか。
(二)

「もしもピアノが弾けたなら」という曲がある。私は、ピアノも弾けないし音譜もよめない。音楽的感性はあまりない。
「世田谷から平和を考える」というときに、音楽が関わってくる。いえば疎開学童たちは音楽にまみれていた。
「疎開先の伊那から帰ってくる朝までずっと『勝利の日まで』を歌わされていましたよ。90歳の元東大原校の秋元佳子さんは言う。
世田谷から来た学童は、音楽的な感性が豊かだった。都市東京の片隅、世田谷に住んでいた子供たちは音楽に触れる機会は多くあった。
例えば、引率の先生が、みんなを元気づけようと曲を作る。よし練習だと言ってお寺の本堂に集められる。ここで差が出てくる。なんとなく集まって並んだときにすでにパートパートに別れている。誰か出てと言うまでもなく指揮者が列の前に出てくる。先生が前奏を弾く、指揮者の腕が上がる、合唱が始まる、もう初手から音が合っている。音は本堂を音響板として響き、外に漏れる。村に歌声がころげおちる。すると耳さとい地元の学童がお寺へやってくる。
数度の練習でたちまちに歌声がハモる。田舎の子にはこれがたまらないらしい。実際、何十年経って、地元のお寺で講演をしたとき、おじいさん、おばさんとなったかつての学童は往事の歌をしっかりと覚えていた。
(三)
代沢国民学校の浜館菊雄先生、「歌が子供の心に火を点ける」と。根本、基本、歌は平和である。歌っていれば心はやすらぐ。
私のこれまでの調べでいくつか眠っていたものを掘り起こした。「浅間温泉望郷歌」はその一つである。これは特攻隊員が創り、歌ったものだ。三番に出てくる、「世界平和が来ましたならばいとしなつかし日の本へ。帰りゃまっさい富貴之湯へ」と歌う、まさにこの富貴之湯旅館、女の園、かわいこちゃんがいっぱいいた。その彼女らへの思慕の念がこれには歌われている。 展では、この歌詞が掲げられていた。
(写真は、今日行われた文化サロン第1回。邪宗門にて。もう一つは三好達治旧居跡)
2024年12月27日
下北沢X物語(5087)〜嗚呼’24年:文学と流離〜

(一)SNSのコメントで難解な質問があった。それは「文学と流離の関係」である。刺激的な問いである。どう答えるか考えていたときにふと思い出した詩集があった。世田谷代田でまとめた『駱駝の瘤にまたがって』だ。主語は私だ、述語は、行くとか、さすらうである。駱駝は、進行の速度を想起させる、ぽっくりぽっくりのんびりと歩いて行く様である。移動していく駱駝の背に乗って歩いてきた、実際の旅でもあり、また精神の彷徨でもある。三好達治は「もとよりおれはそれだからこんな年まで行き先なしの宿なしで」と歌う。さすらいはあてがない、ゆえに宿なしだ、とはいうものの彼は代田の寓居に一人住まってはここに飛んでくる小鳥と戯れていた。さすらいの果てに着いた住まいである。
世田谷代田一丁目の三好達治旧居跡は、よく通る。痕跡などは何もない。かつて彼が住んでいた詩人の旧居跡は今は駐車場になっている。北のり面の敷地でマンションなどにはしにくいのではないか。土地の陰影にさすらいの詩人が住んだという面影が感じられる。
この跡地に来ると思い出すのが福井三国東尋坊に建っている黒御影石でできた詩碑である。抒情詩人の堂々とした存在を示すものだ。「荒天薄暮」が刻んである。
まことにこれ戰ひやぶれし國のはて
波浪突堤を沒し
飛沫しきりに白く揚れども
四邊に人語を聞かず
ただ離々として艸枯れて砂にわななき
われひとりここに杖を揮ひ
友もなく悲歌し感傷をほしいままにす
三好達治は、この三国に疎開生活を送っていた。三国は北前船の寄港地だ。往事の殷賑も消えて今は淋しい港町となっている。彼の流浪地の一端だ。詩人は好んで住んだようだ。ここを引き上げて東京世田谷代田一丁目に住んだ。
(二)

私は毎日毎日、流浪している。歩きながら考える。
もう今年もおしまいになる、振り返ると旅には行かなかった。境界を越えて行ったのは横浜だけである。しかし不満はない。日々歩いている。これによってフラストレーションを発散しているのだと思う。
今日考えたのは、人間は景色を食べて生きている動物ではないかということだ。私は歩きながら風物を見て行く。今日は呑川遊歩道を歩いた。立ち止まって眺めたのはカラタチの花だ。花びらに日が差している情景は美しい。
駒沢通りまで歩いて行って横断歩道を渡る。すぐに左を曲がる。日本体育大学の校舎に沿った道だ。坂になっている。ずっと上っていくと尾根筋に出る。ここから西に見える風景が好きだ。丹沢山塊が見えこの上に富士が見える。この自然情景を観ると心和む。
人はなぜさすらうか、情景を眺めたり、観たりすることで自分を感じることができるからではないか。実際、このときに感興とか詩興とかが湧いてくる。
私は歩いていくときに景色を見るのが好きだ。高台では東も見える。こちらに都心方向があって林立する高層ビル群が見える。これを観てもあまり何も感じ無い。やはり自然風景が一番である。人の魂は死ぬと山の彼方に行くという。これは信じられる。
(三)
「分け入っても分け入っても青い山」は種田山頭火の句だ。ひたすらに流離い続けている彼の姿が浮かんでくる。詩人はじっとしていられない。自分の足がひとりでに動いていくのであろう。私もまたひたすらに歩いて行く。と、ふとサザンカに魅せられて立ち止まる。が、それも一時のことだ、休んでいると「さて、こうしてばかりはいられない」病が頭をもたげてくる。それで歩を進める。当てはない、が、確信がある。「歩いていけば、必ずどこかに着く」さすらいの心は、自分の胸にあるのではなく足にある。ふくらはぎあたりがうずうずするのでここに流離いの神は宿っている。
2024年12月25日
下北沢X物語(5086)〜嗚呼’24年:文士町物語2〜

(一)この間、下北沢の月村さんと話していたときに、よく散歩するが迷うという。「でもね、歩いていれば着くのよ」と。いい言葉だと思った。これ漂泊者の哲理だ。さすらっているとどこかに着くのである。文学とは何か、さすらいであり、流離である。絶えざる感性の磨きがこれによって得られる。当文士町も多くが来たっては立ち去った。文学者の年譜や紀伝などにその事実がさらりと記録されていることがある。文学隆盛時代、当地には下宿やアパートが多くあった。それら一時寄留していた人は数多い。が、それはたまたま分かってのことだ、「下北沢文士町」は文化人は記しているが、その全貌は分かっていないのである。無名人、有名人は当地に接近しては離脱している。根本は流離いの町である。
画家の麻生三郎のことは知らなかった。彼は三軒茶屋に居住していた。蛇崩川のほとりでアヒルなどを飼ってくらしていた。ところがここを襲って来たのが都市開発だ。玉川線の地下化、そして街を押しつぶすように高速道路建設が始まる。彼の代表作の一つが「としより」だ。
ネット版「美術手帳」(2023.4.22)には次の記事を載せている。
麻生三郎、生誕110年に見る三軒茶屋時代の作品群。描くことで向き合い続けた激動の時代
麻生が生田へ転居した背景には、首都高速道路や地下鉄の建設工事による制作環境の悪化があった。展示の最後を飾る《としより》は、麻生が工事現場の片隅の公園でベンチに座る老人を見たことをもとに描かれたもので、麻生が三軒茶屋を離れる決心をしたきっかけのひとつとなったという。
都市開発が人の心をむしばむ。我らは「三軒茶屋文士町文化地図」を作ったが、下北沢と違って当地を終焉の地とした文士はほとんどいなかった。
(二)

環境の悪化を懸念して転居したのは萩原朔太郎だ。小田急線一本だったところに帝都線ができる。工事での環境悪化を懸念して代田に転居した。
今回の地図で特徴的なことは文化人旧居が代田側に多くなった。敷地や緑では代田側が勝る。それで下北沢側から代田に詩人は越した。
彫刻の淀井敏夫旧居は北沢三丁目に記している。
「淀井先生は、御殿山小路がお気に入りの散歩コースで、八幡湯わきの路地を北に抜けていかれるのですよ。すると大島家の五本のヒマラヤ杉がよく見える。あれが好きでね、あの樹の向こうには別世界が広がっているのではないかと言っていらっしゃったわね」
ヒマラヤ杉は野屋敷のランドマークだった。地域風景資産にしようと話ていたところ、大島家当主から連絡があった。「この度、万般やむを得ずヒマラヤ杉を切り倒すことにしました」と。
そして今は、この木々がなくなり。向こうに高層ビルが聳え立っているのが見える。
昭和九年の地図にはこの一帯の路地には名がつけられていた。緑小路、檜小路などだ。実際緑が多かった。これらが切り払われてずいぶんと緑が失われた。
万緑の中や吾子の歯生え初むる
これは中村草田男の有名な俳句だ。国語の教科書にも載っているものだ。彼はかつて北沢4丁目に居住したいた、そのときの作品だ。一帯は新緑に包まれる。我が子を抱きながら歩いていると吾子の歯がきろりと光った。かすかな緑の光の反映で子の成長を知った。
宅地環境、緑の多い場所が、今はどんどん削られている。文学は緑とも結びつくがこれらが切り払われて風情がなくなって来ている。
(三)

文学なるもの整い過ぎていてもいけない。成城学園などは道が碁盤目状になっていて迷う恐れがない。朔太郎の娘萩原葉子は、下北沢が鉄道敷設でうるさくなることから父は転居を考えたと。父の好きな成城学園も選択肢に入っていたという。その成城には転居しなかった。世田谷代田に落ち着いた。ここが「猫町」のキーステーションである。入り組んだ路地があって、まことに迷い安い。ふらりふらりと迷った末に、見たこともない美しい町にたどり着く。が、ふと気づくとなんのことはない、自分がよく知っている下北沢だった。文学には迷路が、よどみが、あるいはいびつさも必要である。が、今これらが失われかけている。
(写真は、三好達治文学顕彰碑建立時の写真、撮影きむらたかしさん)
2024年12月24日
下北沢X物語(5085)〜嗚呼’24年:文士町物語〜

(一)時よ、止まれ!いくら押しとどめても止まらない。刻々と時は過ぎ、そして老いゆくばかりだ。今年は何をしたか。2024年3月20日に「下北沢文士町文化地図」9版を発行した。これの裏面特集は「幻影の『猫町』下北沢〜詩人の詩魂が今も生きている町」である。さっそくに世田谷区ホームページで公開されて、どこからでも見られる。この「下北沢文士町」は、地図を創った当初から発信してきた。今ネット検索で調べる。トップに出てくるのは「下北沢文士町(改訂9版)」世田谷区。二大巨匠が住んだ文士町. <北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念. 下北沢文士町: 類例のない文学都市>と出てくる。そうだった、我々の会は発足してもう20年になる。地図の改版はもう9版である。時とともにもう20年間も歩いて来た。安吾文学碑完成時の写真が出て来た。驚きである。
「類例のない文学都市」と書いたのは私である。ここは「類例のない文化都市」とすべきだったと思う。つまり、文士町は文芸人だけではないのである。文学、芸術、音楽など多岐にわたるからだ。
文学の一端を表す興味深い新聞記事が載っていた。詩人の谷川俊太郎さんが亡くなった。その関連記事で目を留めたものがある。それは詩人愛用のパソコンを写した写真だ。文学の行く末をも暗示するものだと思った。
全国に文学館がある。岩手県花巻市には宮沢賢治記念館がある。深い感銘を受けるのが彼の字体である。これは独特である、自筆原稿だったり、書だったりが展示されてある。これを見ることで賢治そのものの息づかいが感じられる。
しかし、今は大半は、パソコンを打って作品は作り出される。ペンはパソコンに変わった。時代は大きく変わった。
陳列品は作家愛用のパソコンである。タッチボードのKが消えかかっているが、これは多用されたからである。キーを見るとそれぞれのキーの文字が薄れかかったり、はっきりしたりしている。キータッチの様子を想像することで故人を偲べます。
文学館に展示された場合、こういう表示がでるのだろうか。筆跡は展示物としては大事だ。これからはこれに代わってパソコンが展示される。これほど味気ないものはない。文学館は減ることはあっても増えることはない。
(二)
文学で大事なのは、固有性や独自性である。この間、町歩きで川崎生田の春秋苑墓地を巡った。尾崎士郎の墓もあった。馬込文士村の重鎮である。尾崎放送局と言われていたらしい。
「おおい、みんな馬込におれは住んでいる。いいところだみんな来いよ」
彼が宣伝したことで文士たちが集まってきたという。
人々が参集する蝟集する場合はきっかけが必要だ。こういう親玉がいて村が形成されもした。
先の「下北沢文士町」の検索だ、二番目に引っかかるのは次だ。「江戸町めぐり」というホームページである。
第5回:昭和の文士が次々と居を構えた。下北沢がカルチャーの街になった理由……
ここでは横光利一文学顕彰碑を取り上げている。
この碑の足下には2枚の石が敷かれているのだが、これは「雨過山房」と名付けられた横光邸の玄関に通じる石畳の“鉄平石”を用いたもの。菊池寛や川端康成もその上を歩いたという石畳の現物は、ぜひ現場でご覧ください。
石畳設置は苦労した。この石は前から目をつけていた。作家旧居は建て替えられている。が、石畳はまだ庭にあった。剥がされて片隅に寄せられているものもあった。前から欲しいと思っていた。これには小堀家の口添えもあったと聞く。即ち小堀杏奴の娘は横光佑典(作家・横光利一の二男)嫁いでいたからだ。
最初、石は一枚いただいていた、が、これだと足音はしない。それでもう一枚を所望して二枚にしたものである。我らの会の歴史エピソードである。
(三)

作家横光利一は、昭和3年、小田急が開通した翌年に北沢の丘に、阿佐谷から転居してきた。文士町の重鎮である。彼が当地に越してきたことは大きい。文士たちが大勢集まるきっかけを作った。
下北沢は「類例のない文化都市」だ。大作家横光利一が当地に来たことは大きい。が、文士町は、一過性のものではなく長年に亘って形成された。今も文士町でありつづけている。このことはこの町の都市の成り立ちに関わることである。
(墓は、尾崎士郎。記念写真は、安吾文学碑ができたとき、物故者も数名写っている)
2024年12月22日
下北沢X物語(5084)〜歩きは万病の妙薬 了〜

(一)「ネットに与太を飛ばす」、私の造語だ、昨日表題のテーマをネットに放った。今日検索するとこれがトップに来た。もう十数年、毎日、毎日歩いて来た。私は実感的に思うのである。歩きは万病の妙薬だと。昨日は歩いて前立腺炎を治した話をした。今日は、もう一つ苦しみ抜いた病から抜け出した話をしよう。これは後鼻漏だ。前立腺炎の場合、歩けば臀部がくの字への字になる。患部刺激が治癒に繋がったと思う。が、今度のは鼻の不具合である。喉に鼻水が流れてくる疾患である。これは気持ちが悪い。罹った人でないと苦しみは分からない。簡単にまとめると新薬から漢方に変えた、ここが肝心だ、症状に適応した漢方を探し当てて治療をすることだ。歩きとの直接的な関連はないように思うが、漢方を飲み、そしてひたすら歩いてきた。このことが治癒に繋がったと私は確信している。
後鼻漏の苦しみは罹ったことのない人には全く分からないだろう。これは鼻水が喉に流れこんでくる病気だ。とても不快である。ここ五六年ほど苦しんできた。とは言っても当初は、これが病状だとは分からない。症状に気づいて調べていくうちに後鼻漏だと知った。町医者耳鼻科に通った。例によって医師は症状を聞き取った上で薬を出してくれた。やはり新薬である。
調べると、加齢により鼻や上咽頭が乾燥しやすくなるという。それで歳を重ねて後鼻漏感が起こるとも。後鼻漏という病名はあるが、原因は明確ではない、大概は抗生物質や抗炎症剤、抗アレルギー剤が処方される。その薬は数種類に及ぶ、効けばいいが容易ではない。
(二)

漢方は、すぐには効かない。一日三回、空腹時に服用する。根気が必要だ。最初の耳鼻科では処方された薬を数ヶ月飲んだ。が、治らない。男性医師もあまり治そうという熱意は感じられない。それで耳鼻科をはしごする。Bに行き、Cに行った。最後の女医は鼻のレントゲン写真を撮って、原因を突き止めようと言う。が、その後の対処は余り変わらない。後鼻漏は医者にはやっかいなものらしいと分かった。
医者が処方箋を書いてくれると薬局に行く。あるときそこの女主人が麦門冬湯エキス顆粒という漢方がいいらしいと教えてくれた。こういう場合は、もう耳鼻科に行く必要はない。懇意にしているかかりつけの内科医に事情を話してその薬を出してもらった。
この漢方は二三ヶ月飲んだろうか。症状が改善されたことはあった。その薬剤師さんにお礼を言ったことだ。
漢方を飲む、効き目が出てくる。これも体験である。最初のAは効かなかった。つぎのBは効いてきた。分かったことは自分の症状にあった漢方薬を飲むことだ。
この間、後鼻漏研究も怠らない、「鼻うがいがよい」ともあってこれも試したがあまり効果はなかった。
漢方薬も調べた。自身の症状に効く漢方薬はないか。
(三)
ネットで調べた挙げ句、葛根湯加川辛顆粒がよさそうだと思った。これも内科医にお願いして処方してもらった。この方法はいい、耳鼻科は混んでいる。長時間待たされる。が、近所の内科医だとそんなに混んでいない。
新しい漢方を服用し始めた。もう三月ぐらい経つだろうか。ふと気づくと喉に鼻水が落ちなくなった。それで薬は一月分を半分にしてもらった。今はだいぶよくなった。
毎日の歩きは欠かさない、そして漢方を真面目に飲んだ。いまでは克服一歩手前となった。やはり、陰の力としては歩きによる効用は見逃せない。歩きは、万病の妙薬だ。
2024年12月21日
下北沢X物語(5083)〜歩きは万病の妙薬〜

(一)つい最近、家を訪ねてきた卒業生に「先生、具合の悪いところはないのですか」と聞かれた。そういう質問を受ける年齢になって来ていると思った。完璧に健康だとも言えない。しかし、病気を乗り越えてきたという自負はある。その基本は歩きである。昨日も今日もひたすらに歩いてきた。これが確実に健康保持の妙薬ではなかったかと想う。数年前だ、臀部の奥がずぅんずぅんと痛む。泌尿器科で診てもらったら前立腺炎だとのこと。医師はさっそくに処方箋を書いてくれた。抗生物質を中心とした新薬だ。結構な分量だ、しばらく服用していると湿疹ができてきた。それで新薬に頼らないで治す方法はないか調べた。自転車がいいとのこと。それでさっそくに乗り回した。が、改善はしない。発症部に刺激を与えなくてはならないが、肝心の臀部はサドルに固定されたままだ。直感したことはお尻がへの字くの字に波打たなくてはならない。それには歩きが一番であると思った。
その病気になると罹った者でないと分からない。前立腺炎は臀部の奥が痛む。座っていいると痛みが下から突き上げてくる。居ても立ってもいられない。
「患部が臀部だから身体の端っこでしょう、薬がなかなか届かないので量が多くなるのです」と医師。
昨今の療法は対象療法である、症状を聞いて薬を手当してくれる。保険の点数稼ぎがあって数種類もくれる。健康法について医師は教えてくれない。自分で調べるしかない。この病気どんなものか。
前立腺炎の発症原因は通常は不明です。 細菌感染が尿路や血流から前立腺に広がる結果、前立腺炎を起こすことがあります。
前立腺に炎症が起こって、そのため痛みが生じる。考えたのは血流の滞りだ。炎症は細菌によってもたらされている。やはり患部をもみくちゃにして刺激する必要があるのではないか。自転車では基部となる臀部はあまり動かない。
検索で丹念に調べていくとやはり歩きがよいと。これは渡りに船だと思った。
(二)

自転車は捨てて歩いた。なるほど歩くと尻はへの字くの字に曲がる。これだと思い歩きに徹した。どのくらい歩いたか分からない。が、しばらくすると変化が生じてきた。痛みが薄れてきた。効果があるとモチベーションは上がる。
ただ歩くにしてもやみくもに歩いてもだめだ。身体の病気には心が伴う。鬱屈という、気持ちが塞がることだ。この気を晴らすことも大事である。歩いて愉しむことが必要だ。歩けば棒に当たる、それは人との出会いだ。保育園児はとても新鮮である。これからを生きて行こうとする彼ら純粋だ、顔が輝いている。
彼らと出会ってすれ違うときに一人一人の顔を見る。生き物は自分に関心を向けられると反応する。目をみてあげると見返してくる。手を挙げたり、笑ったりすると喜ぶ。そんな気配を保育士さんが看取して、
「おはようございます」と。保育園児でも可愛い声で応じてきもする。
徒歩旅行者は変化を大事にすべきだ、すれ違う人、美女などは刺激的だ、犬だってばかにできない。これも目を見るとこちらに反応してくる。
路辺は刺激に満ちている。草木や樹木、色づいたり、実を結んだり、また匂いを発する。ものみな生きているのだと思うと感動もする。これが大事だ、木犀が香ってくると生き返る。路傍の石も大事である。なんでこんなところに落ちているのか。ここである、人間は怪しむべきである。つまりは怪する心を持つことだ。りっしんべんは心だ、路傍に落ちている土くれを手にとって何これと思うのが「怪」である。人は対象を怪しむことで血の巡りがよくなる。
(三)
人間の身体には毛細血管がはりめぐらされている。そこに血流がある。血は体内を循環している。運動すれば、歩くという動作をすればこれが促される。いわゆる新陳代謝が促進する。歩けば神経が刺激される。つい二三日前、洗足池でカワセミを見た。瑠璃色で美しい。池畔の紅葉も美しい。立ち止まって見ていると心が洗われもする。
結局である、例の前立腺炎は、二三ヶ月もすると痛まなくなった。ふと気づくとその症状を忘れてしまっていた。
明日は、長年苦しんできた後鼻漏の話をしよう。
2024年12月19日
下北沢X物語(5082)〜今年最後の町歩き:墓地歩き 了〜

(一)死とは形である、自身が生きることで思いが形成される。あの時やこの時のエピソードが記憶に貯まっていく。その重層が人生である。やがて死が巡ってくる。死ぬに当たっては貯めてきたエピソードを振り返る。死ぬ時は自身の人生が瞬時に走馬灯のように流れて行くともいう。そしてこと切れる。生という形が破壊される。ここに残るのは何か、魂だという。が、それは人の思いに過ぎない。人は死ねば、すべてが消えていく。人は寂滅する。悟りの境地に入ることを言うが、消滅すること。死ぬことである。死は消滅することである。魂というのは生きている人が思うことである。自分が消えていく準備をすることが終活だ。
人は、この世に思いを残す。この世界に生きてきたことは素晴らしかった。俳優だいすけ加東大介も思いを墓前の碑に残している。
碧く澄んだ広いもの
それは 海だ
それよりも広いものがある
それは 空だ
それよりももっと広いものがある
それは 人を愛する心だ。
広大な海、そして空、それが世界である。しかし、広いものは、その現実世界だけではない。心というどこまでも広がる精神だ、人を愛する心は何よりも深い。
下町っ子らしい気風の良さで誰からも好かれたと。それゆえに人の愛の深さをいうのであろう。この詩は人への感謝である。
(二)

流れ来たり ながれゆき
刻々とその像は
変わりつつも
やがて消え去る
白雲の如く
儚くも亦 美しき派
人の命なり 平賀勇
俳優長門勇である。「ひょうきんで人懐こい、うだつの上がらない人物を装い、いざという時に凄腕を発揮する、といった役どころを得意としていた」と。それでも彼なりの生活哲学を持っていた。
春秋苑の特徴は映画関係者が多いことだ、監督や俳優である。やはり大事なの小田急である。映画撮影所が成城などにあったことから小田急線は親しみ慣れている。家は大概が小田急沿線にある。
「やっぱり、お父さんのお墓は春秋苑がいいわね。電車一本で行けるから」

古関裕而の墓も当墓所にあった。彼が友人に出した手紙「春三月 多摩川堤には 早 若草が萌え出ます。朝夕美しい富士の姿を窓から見て元気です」
多摩川や富士は彼のお気に入りだった。こちらも小田急線一本でお墓まで。
「古関裕而は、代田円乗院で葬儀を挙げているのですね。終生代田から離れなかったひとですね」と私。
(三)

墓巡りを終わって生田駅前中華料理「味良」で忘年会を行った。別宮道孝さんに献杯をした。墓歩きの後の紹興酒は格別にうまかった。
「ここの名物はね、ここの近所に住んでいたという庄野潤三が食べていたタンメンなの。食べる?」
「昔、若い頃はよく読んでいたような気がする。多摩丘陵の上にあって風が吹くとよく家が揺れると」
「きむら先生のブログには笑った写真が一枚もないのです」

これは原さんの指摘、びっくりした。写真家でもある上田さんに撮ってもらったがなかなかうまくは撮れない。
忘年会では今後の町歩きを話題にした。一月は、「森茉莉の足跡をたどる」幾田充代さん、二月は六郷用水を歩く、木村康伸さん。三は未定。四も未定。五は、おだまきき5月13日朔太郎命日に猫町を歩く。六七は戦争遺跡を予定している。
2024年12月18日
下北沢X物語(5081)〜今年最後の町歩き:墓地歩き 3〜

(一)人は死ねばどうなるのかは分からない。肉体は滅んでも魂は生き続けるという。また、説教口説では、人は死んだら天国に行くという。が、これは生者を安心させる宗教的意義づけはないか、だいぶ前に若くして自殺した者の葬儀に出たときに僧侶が天国に召され新たな命を得るとお経で述べていた。当人は苦しんで自殺した。それを知っていただけに説得力はなく、むしろ反発を覚えた。死んだらどうなるか。どうもこうもならない、ただ消えてしまうだけではないかと思う。この暮れに墓巡りをした。墓を巡ることは生きて死んだ人の物語をめくっていく旅だ。一人一人の人生の頁をめくって行く。すると死者は、死なるものの意味を教えてくれる。
多摩丘陵に広がる春秋苑墓地を、歩いた。原敏彦さん、そのリストを作っていた。32名である。晴れてはいたが丘陵は標高が高い、風が強く吹き付ける。しかも寒い。しかし、一人の落伍者もなく歩き切った。最後は生田駅前の中華料理「味良」で紹興酒の熱燗で祝杯を挙げた。
「墓歩きした後の酒はうまいね!」
「死んだ者たちがご苦労さんと言って、もしかして味覚に味付けをしているのかも」
「懸案だった仲間の別宮通孝さんの墓参りができたことが良かった。去年、別宮さんの道案内で大山詣に行きましたね。あの後、幾らも経たないうちに亡くなっているのですね。」
12月29日、79歳で亡くなっている。
「私と同じ歳ですよ、歳を重ねると何時亡くなるか分かりませんね。」
彼の戒名は、知光院大通尽孝居士だ。なるほどである。彼の自慢は五街道を走破しきったことである。我らは彼を街道歩きの達人と称していた。
「しかしね、彼も堕落したと思いましたよ。シルバーパスを持っているのですよ。あれ確か年間二万数千円しますね、私なんか買おうと思ったことは一度もないですね、歩いてばっかりだから二万円分も乗らない……」
「え、別宮さん。シルバーパスを持っているのですか、じゃあ上町あたりでバスに乗って三軒茶屋で降り、そして今度は北沢タウンホール行きバスに乗り換える?歩きの達人の堕落ですよ……」
(二)

人間には個性がある。墓にも個性がある。墓には言葉を添えている人もよく見かける。自らの意志という場合もあるが、関係者が作る場合もある。
柳田国男の場合は、墓のそばに大きな石碑がある。冒頭に「墓誌」とある。
柳田大人明治八年七月三十一日播州……
いかに偉大な民族学者だったか。末尾には「門下有志撰」とある。金も出し、口も出して彼の業績を彫ったものだ。
浜田廣介は、墓の脇にそっと詩碑が建つ。
花ふくらめば 影やはらかに
花が膨らんで来ると全体に花のたたずまいに陰影が生じて、より美しく見える
そのようなことを言っているのか?
(三)

一番気に入ったのは土井まさるだ。アナウンサーだった彼は俳句を好んだ。墓石の脇に、大きな碑があって刻まれている。
木守柿 蔕を残して 失せにけり
58歳の彼は癌を告げられ、余命半年と告げられ。そんな中で死を予期して詠んだ。
柿には木守柿というものがある、柿を収穫する際に最後の実だけは残し置く、それを木守柿という。柿の木の最後の主である、色づき熟れたこの実は多くは鳥がついばむ。散々に鳥に食い散らかされ細っていき、残るのは蔕だけだ、それが寒風に揺られいる。蔕だけが命の証だ、が、それもしまいには風の最後の一吹きでぱらりと落ちる、彼の運命か。
辞世の句、いろいろあるがこれは意味深い句だと思った。
(墓誌は柳田国男、俳句は土居まさる。祈っているのは別宮さんのお墓)
2024年12月16日
下北沢X物語(5080)〜今年最後の町歩き:墓地歩き 2〜

(一)昨日、墓地歩きの報告を行った。その際、「ネットに与太を飛ばした」、いつもはタイトルにこれを持ってきていたが、今回のは、地の文に埋め込んで発信した。まさかと思ってその「死者たちの世田谷区」とGoogleで検索したらトップに出てきた。驚きだ。が、このフレーズ決して与太ではない。柳田国男は日本人の死生観について「死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉を顧慮している居るものと考へ出した」(『先祖の話』)と。これを基盤にして「柳田は、永遠の安らぎの地を生田の丘陵の上に定めた」という。やはり西方富士ではなく、自らが生業を営んだ成城方面を墓の中から見守っている。彼は、停滞している日本をどう見ているのだろうか。(原資料参考)
赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ(万葉4417)
春秋苑はこの多摩の横山の一角を占めている。対岸、多摩川の向こうには武蔵丘陵が広がっている。東京側から見れば稜線をそろえた丘陵が続いていく様がよく見える。武蔵丘陵は低い。が、多摩の横山は案外に険しい、アプローチが長い、かつて自転車で来たことがある。登攀にとても苦労した覚えがある。
「多摩川を隔てて武蔵丘陵と多摩丘陵とがありますね。川一本隔てただけなのに高さが違うのですよね。どうやってできたのか?富士との距離が関係するのでしょうか。この一帯の地層は富士箱根の火山灰が積もったことで形成されていますね。降灰は順次降り積もって行きますが、遠いところほど薄くなる。武蔵丘陵の手前にある多摩丘陵には多く積もった。それでこうなった?」
その多摩丘陵頂部が都市東京、世田谷をよく見下ろせる。それで世田谷の死者たちは、子孫のなりわいを今もじっと見つめている。
(二)

吾々の活動は下北沢を起点にして周辺一帯に及ぶようになった。下北沢文士町は一定の区域である。ここで文人、詩人、歌人、俳人などが多く亡くなった。案外にここを終焉の地とした人が多い。
「きむら先生が言っていますね、下北沢も三軒茶屋もさすらい人が多いが、三軒茶屋で亡くなったという人は数が少ない、葛西善蔵ぐらいなものとか言っていましたね。三軒茶屋はなぜ人が居なくなるのか画家の麻生三郎の事例を見て行くとよくわかりますね」
「私はね、三軒茶屋文士町文化地図に麻生三郎が載っていないのが残念なのですよ。彼はこの地をとても愛していましたからね」
原さんはそう説明をした。しかし、私は画家の三軒茶屋居住のことは知らなかった。
「娘さんは、あそうまゆ、次女ですけど彫刻家なんですね。蛇崩川のほとりで小動物を飼ってのんびりと暮らしていたらしいのです。
父は、平和や人の命、存在することをすごく大切にしていたので、人間らしく存在できるものを求めて、戦争なんて早く止めて、自由な世界にならなくてはならない。そういう気持ちを込めて描いていたと思います。
麻生まゆ『父・麻生三郎の三軒茶屋時代』(談話)
麻生作品に「としより」(1969)というものを描いている。全体が灰褐色で人物は明瞭ではない。都市開発によってすべてが危うくなっている姿を、絵を通して描いたと。
都市開発は何か、いわゆる玉電の地下化、そして空を押しつぶしてしまう高速道路高架工事、のんびりした三軒茶屋がこれらによって一気に破壊された。
周囲の騒音や環境破壊に悩んだ結果、静かな制作環境を求めて川崎市玉川区生田に麻生は転居したと。
(三)

当該地ではなく、離れたところで改めて土地を知る。やはり三軒茶屋の高速道路工事、地下鉄工事は街の環境を一変させた、それで人が離れた。
下北沢ではどうか、中心部の環境破壊を嫌って代田に逃げたのが萩原朔太郎である。都市の発展と衰亡、そういう中で人は居住地を変えもした。環境が人に与える影響は大きい。クリエーティブであればなおさらだ。
春秋苑は、死者の世田谷区、下北沢文士町の核となる古関裕而もここに眠っていた。
(写真は、墓めぐり終わって、北沢川文化遺産保存の会:12月14日、町歩きの後、忘年会。生田駅・中華料理 味良にて)
2024年12月15日
下北沢X物語(5079)〜今年最後の町歩き:墓地歩き〜

(一)昨日、第201回町歩きを挙行した。川崎多摩丘陵に広がる「春秋苑」だった。人気の墓地である。死者たちの望郷の丘を思った。ここに眠る死者たちは、都市世田谷の文化の間接的な反映がある。理由は三つ、一つ目、都市世田谷の知性が数多く葬られている。二つ目、自己の暮らした生前の懐かしい場が景観として眺め見られる。三つ目、広大な世田谷に住む文化人が、ここでは塊となって永遠の時を刻んでいる。死者のステータスがここに築かれている。一方、遺族側からの観点だ、「何しろ春秋苑は小田急線一本で行けちゃうところは大きな利点だわね」、川崎市多摩区のこの墓苑は、死者たちの世田谷区だ。
案内人は、原敏彦御大だ、彼は日本有数の墓歩きの達人だ。東京一円の墓地を知っている。今回は、201回目の町歩き、この歴史には墓地歩きが含まれている。何カ所巡ったか思い出せない。このブログを点検すれば分かるが、そのチェックでさえ大変だ。
私の家の近くに九品仏浄心寺がある、下北沢文士町関係では加藤楸邨と菊田一夫とが眠っている。場所は社務所では教えてくれない。原さんだったら分かる。加藤楸邨はようやっと分かった。菊田一夫はまだ見つけられない。
歴史を積み重ねれば、墓は混んでくる。春秋苑などは丘の斜面がすべて墓で埋め尽くされている。ここら辺では富士が望み見えるというのも価値である。が、死者の視線は西ではなく東だ。昼間は遠くに高層ビルが聳える東京が、夜間は東京のネオンのきらめきが見られる。そこが死者にはたまらない。そう言えば作詞家大高ひさおの墓もここにあった。「銀座の恋の物語」を作っている。
東京で一つ銀座で一つ
若い二人が誓った夜の
真実の恋の物語
死者は、切なく銀座のネオンを思い出しているだろう。やはりここでは死者の魂はみな東を向いているのではなかろうか。
(二)

昨日は風が強く、寒かった、こんなときに墓歩きをしなくてもと思うが懸案があった。仲間の墓参りという目的があったからだ。去年の暮れに彼は亡くなった。その数ヶ月前に彼の案内で大山詣でをしたばかりだった。あっという間に亡くなった。
別宮通孝さんだ、我らの町歩きを先導したり、会の文化活動に加わったりして、会では大きな存在だった。彼が春秋苑に眠っていると知ってから、いつか墓地巡りをしながら彼の墓に詣でようと。
つい最近、一周忌が行われようで大きな花束が墓に飾られていた。(写真)
墓歩きの達人は、歩きの達人だ、すでに彼は街で花と線香を買い、事前の準備をしてそれで我らが集合場所である生田駅に来ていることが分かった。
墓前では皆手を合わせて祈った。幾多充代さん、缶ビールを持参し、これを開けて紙コップに注ぎ、墓前で献杯をした。一口飲んで酔うはずもないが、「何だかわからないけど、足にきたよ」と私。
「別宮っていうのは珍しいね」
「なんかルーツは四国だと聞いたな」
調べると、現愛媛県である伊予国越智郡別宮村が起源である、とのことだ。
墓場は日本全国の姓の陳列場だ。
やはり春秋苑に眠る人々は、それなりの地位のあった人だ、原さん、この人の出身地はといって地方の名を挙げる。
(三)
「花散るや尾灯は闇へ蛇行せり 五島高資」
上り列車の尾灯を多くの青年が見送った。紅く悲しい光は彼方の都会を思わせた。灯りが憧れを募らせもした。そして青年は上京し、都会の光彩に呑まれてしまう。苦学をし、苦労を重ねて青年は一人前になった。挫折したものも多い。が、努力が実って成功した者もいる。が、いずれも寿命が尽きて人は死ぬ。
春秋苑からは東京の夜景が見える、昔、華やかな東京に憧れてやってきた。灯りを見ると若い頃を思い起こすよ。昔はな、上りの汽車のテールランプを見て気持ちを熱くしたものだ。辛酸をなめたこともあったが、あの灯りの下で懸命に苦労してきたことで今にある。死んだ後は、東京の夜景が見える春秋苑で眠るのも悪くはない。
2024年12月13日
下北沢X物語(5078)〜師走:三軒茶屋の戦跡を巡礼する 了〜

(一)間もなく新年を迎え、戦後80年に突入する。24年は前触れの年だった。「世田谷から平和を考える-疎開学童・特攻から80年という企画に参加し、展示、講演会、そして戦跡巡りの町歩きを行った。最後の町歩きは三回も行った。今年はこれまでの活動の集大成であったと言える。文化活動は今年で21年目に入っている。物故された方も含めて多くの戦争体験者から話を聞いて来た。千人には及ぶ、メッセージは一言だ、「もう二度と戦争はするな!」、これに尽きる。一時を凌げば楽になる、それまでは我慢だ、国に尽くせ、格好いいスローガンにだまされて、死ななくてもいい人が何千万と死んだ。大事な学習は、「始めた戦争は終えられないことだ」降参ができない。その間に人はコロコロ死ぬ。恐ろしいことに核の使用をちらつかせて人を脅す、戦争は無意味だ、戦争はするな!
この年末になって戦争痕跡を歩くまちあるきを行った。世田谷線三軒茶屋駅前で集合したときに、「ここ三軒茶屋は軍都でした」と言った。
世田谷通りも大山厚木街道も、軍馬の、軍靴の、キャタピラの音に満ちていた。路には馬の糞がいたるところに落ちていた。ゲートルを巻いた兵が行進していくと茶色の土埃が舞った。
「そういえばムチの音が響いていましたよ。六頭だての砲車が通るのですよ。いうこときかないとムチが飛んでいました。食らうとヒヒンといなないていました」
「新道と旧道は、だいぶ違いました。旧道は概ね尾根道、登戸道はそうですね。しかし新道は三軒茶屋を出ると坂になります。蛇崩川まで下っているでしょう、坂でははずみがつくんですよ。止まれないで前の砲車にぶつかって梨花号はけがをして、馬は足にけがをするとつかいものにならなくなるんですよ」
(二)

野砲兵第一連隊の兵営が今も残っている。
「韓国会館として使われてきたから今も残っているんですね。年々朽ちて行きます」
明確な戦跡として残っているのは、これだけだ、町歩きをする場合の大きな目印でとても重宝している。
「当地一帯にはこれと同じ兵舎が数多く残っていました。焼けなかったのですね。軍事施設だから狙われても当然ですよね。残ったのはなぜでしょう?」
「意図的に残したから」と参加者の一人。
「米軍が焼夷弾攻撃からわざと外す。それはありますね。代々木上原、大山町はそれですね。この東側に代々木練兵場があったでしょう。米軍が接収してワシントンハイツになった。あの高級住宅地は米軍将校の宿舎として使われたのですよ。そのために爆弾を落とさなかった。ここ下馬の兵営は意図的に残そうとしたのではないです。5月の山の手空襲のとき、季節が5月だから南風が吹いていたと思うのです。焼夷弾が流されて太子堂方面に落ちたのではないか……」
我らは、旧兵舎跡から馬魂碑へと巡る。これには馬たちへの哀惜のを著す言葉が刻まれている。馬たちの「最後の様子を思うにつけ、とても悲しく哀れに思われてしかたがない。その彼等を想う気持ちからここに犠牲になった馬たちの霊を祀り、その冥福を祈るものである」記されている。昭和十四年十二月に建立されたものだ。馬への深い哀惜が刻まれている。
(三)
今夏、下馬図書館の「世田谷から平和を考える」のパネル展では、武揚隊の「浅間温泉望郷の歌」の歌詞が紹介されていた。自身の調査過程で発掘されたものだ。「しんぶん
赤旗」は、2024年8月31日号でこの歌を取り上げている。ここで私の談話を載せている。
「靖国ではなく、子どもたちのいる富貴之湯へ帰りたいという願いや『世界平和』など当時としては類例がない発想です。反戦の思いが潜んでいます」ときむらさんは話しています。
この問題指摘で大きな課題を背負ったと感じている。今この歌の成立背景を考えている。一つ分かったことは、壮行会開催が予告されていたことである。
つまりあらかじめプランがあって、この会がどう運営されるかという討議がなされていたことである。その結果、いついつに壮行会を開くので出し物をよろしくと伝えられていた。壮行会を開く準備期間があったということだ。それで学童も企画を立てた。当然に兵隊側でも企画を立てた。その中に「浅間温泉望郷の歌」が入っていた。この場合歌は、特定の人が作ったのではなくて、複数の兵隊が相談しながら作ったと考えられる。
「内容的に、この歌はまずいんではないのか?」
「しかし、一晩で消えていく歌だよ、残るわけないからかまわないんだよ」
そんな相談をしたのではないか?。ところが歴史は皮肉である。この歌を覚えている人がいて今日に残った。内容からするともしかして長谷川信が作詞者ではないかと思えてきた? 大きな謎が湧いてきた。(了)
2024年12月12日
下北沢X物語(5077)〜師走:三軒茶屋の戦跡を巡礼する 3〜

(一)足下の戦争を知ることは大事だ。三軒茶屋一帯に広がる野砲兵兵営跡を訪れた、まず近衛野砲兵連隊だ、連隊と称するものは三個大隊が揃ってなければならないが実質は二個大隊しかなかった。見せかけである。『平家物語』の一節、「平氏の大将維盛、通盛、稀有の命生きて、加賀国へひき退く。七万余騎が中より、わづかに二千余騎ぞ逃れたりける」。連隊なり騎馬隊なり、数が多い方が格好いい、が、近代戦争も、古代戦争も数にさばを読んでかっこよく見せていた。山本七平が指摘するように軍隊そのものが規模を偽っていた。為政者のすることはいい加減だ、戦争末期における大本営発表などは、うそこだらけだった。国家は嘘をつくものだ。
いわゆる国防費を二倍にした、財源はない、が、ここは巧妙に彼らは嘘をついてくる。所得税については27年1月から税額に1%を付加する防衛特別所得税(仮称)を新設する。復興特別所得税の税率は1%引き下げる。まやかしだ震災復興費から1パーセントちょろまかしてミサイルを買おうとの魂胆だ。震災復興だったら仕方がないかと思いはするが、武器を買うためであれば賛成しない。
武器を備えれば緊張が高まる。なぜに列島にミサイル基地を増設する必要があるのか?
私は、千人の戦争経験者に聞いてきた。彼らの伝言は「戦争を二度とするな!」だ。千人以上は数がよく分からない。が、一万になったとしてこの伝言は同じだろう。ともかくあの戦争は悲惨だった、B-29の無差別爆撃で人は死に、原爆二発で何万と死んだ、むごい死に方である。放射能の二次被爆も生涯を苦しめる。
戦争に備えるよりも戦争にならないように努力する、これが一番だ。戦争をはじめれば止められないのが現実だ。戦争を始めた方は、プライドを捨てない。負けると自分たちが危なくなるからだ。それで空元気を出す、一億特攻すれば何とかなる、神風も吹くから最後まで諦めるな。
(二)

近衛野砲兵連隊跡の昭和女子大では、記念写真を見せた。
「この写真にはとびっきり美しい女性が写っています。ほらみてごらんなさい」
「ほんとうだ!」「たしかに!」
町歩きのときに配った資料に解説を載せた。
昭和女子大構内で1956年(昭和)10月7日に撮られた集合写真がある。「晴雲会 第五回 懇話会記念」と題されている。蒙疆で急死した北白川宮永久王を偲んでの十七回忌(祭)を記念してのものだ。王の父の成久王が植えたヒマラヤ杉をバックにして写真は撮られた。この列の真ん中に四人の女性が写っている。黒の洋装の女性は一際美しい。未亡人となった北白川宮祥子妃である。三島由紀夫が若いときに熱く恋をした人で彼の短編小説『玉刻春』に描かれている。
急逝した北白川宮永久王もとびっきりの美男子だ。
永久王は 1940年(昭和15年)9月4日蒙疆方面で殉死する。若き貴公子の死は全国高女生を嘆き悲しませた。全国津々浦々の若き高女生はプリンスを悲しむ歌を詠んだ。それが「仰徳集」という冊子に載っている。
「仰徳集」に載った歌姫たちの中に二人の女流作家がいた。それは橋田壽賀子であり、杉本苑子である。
大阪府 府立堺高等女学校 二年生 橋田壽賀子
餘りあるかしこさなりき悼みまつる言葉もなくて唯涙しぬ
東京都 駒澤高等女学校 四年生 杉本苑子
白菊のにほふ朝けは神去りし御霊たふとむ思ひふかむに
(三)
昭和女子大構内で撮られた元近衛野砲兵連隊の面々は晴れがましい表情で写真に写っている。皇室と繋がる栄誉が彼らの表情に見て取れる。元近衛野砲兵連隊は、戦後でもつぶしがきいた。ここに写っている多くが役職者である。
一方悲惨なのは近衛野砲兵連隊のつぎに行った野砲兵第一連隊だ。晴れがましい同期会の記念写真はない。この隊は、226事件に加わった第一師団傘下で、この煽りを食らって北満に飛ばされ、さらには戦争末期、連隊本隊も南方派遣準備を命じられレイテで玉砕しているのである。記念碑を建てようにも仲間がいない、金も集まらない。
(写真は、今回のグループではなく、今夏行ったときのもの。兵営前で写真を撮り損なったことからこれを使った。銅像は北白川宮北白川宮能久親王)
2024年12月10日
下北沢X物語(5076)〜師走:三軒茶屋の戦跡を巡礼する 2〜

(一)「学童疎開・特攻から80年『世田谷から平和を学ぶ』」は、今夏下馬図書館で開かれたパネル展である。町歩きの参加者にこれを観た人がいた。「そうです、このときに作られたパンフが立派でした。私はこれを長野県の新聞社に送りました。すると三社の記者がこれに応じる形で世田谷まで取材に来ました、自身もまた学びましたよ。山本七平が近衛野砲兵連隊の将校として勤務していたことを図書館の人から教わりました」と応えた。彼、山本は、この野砲兵連隊に来て『帝国陸軍なるものに最初に、疑惑を感じた』と述べていた。パネル展では学徒兵長谷川信も取り上げていた。山本七平と長谷川信には関係性はない。が、私はこの両者に共通性を感じた。読者に媚びない、おもねらないという点だ。
山本七平は、三宿の近衛野砲兵連隊に赴任してくる。彼の年譜だ。昭和19年(1944)、23歳のときだ。7月1日に予備役野砲少尉任官して近衛野砲兵連隊の営門を潜った。このときに一人の将校が隊内の建物の説明をした。これに対して彼は大きな疑問を覚えた。
「おかしいではないか? その表現は……」と私は内心で考えた。それではこの部隊が連隊と称するのは嘘で、近衛野砲兵二個大隊がその内容に即応した正規の名称のはずではないのか。それとも何かの事情で、一時的に一個大隊が欠なのであろうか。私は兵営の中を見渡した。しかし、どう見ても。兵舎の数も砲廠の数も二個大隊分しかない。創立以来、初めから二個大隊しかなかったと思わざるを得ない。なぜそれを連隊と称するのか?これは基本的に誇大表現と同じではないのか? 何のためにそういうことをするのか? あの将校は、それを少しも不審とおもっていないのか? 私が帝国陸軍になるものに最初に疑問を感じたのはこの時であった。
下級将校の見た帝国陸軍 文春文庫 1987年
連隊という場合は、三個大隊があるべきはずだが、この下馬の兵営には二個大隊しかなかった。このことから彼は、「従って、私は今も戦史に登場する何個師団とか何個連隊とかいう言葉を、絶対にそのまま受け取っていない」と、陸軍組織を痛烈に批判している。
(二)
山本七平の批判は鋭い。山本学とも称される彼の批評性は図抜けている。「日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条」というものがある。これの五番目だ。
精神的に弱かった (一枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
かつて戦争経験を語る会を北沢タウンホールで行った。このときに海軍飛行予備学生だった人に来ていただいて話を聞いた。皆学徒動員兵である。この中の一人の証言は今もって鮮やかに覚えている。
父親から聞かされていたことでもあるが、アメリカは物質的に豊かな国である、しかし日本には強靱な精神力がある。これはアメリカには負けない。
確か彼は東大生だったと思う。「へぇ、そんなことを考えていたのか!」と衝撃を受けた覚えがある。こういう考えは今はない。が、どこかに日本人の精神力の強さを信じる気風は残っている。
今もやっているのかしらない、「クールジャパン」というものがあった。私自身はこれになんとなくいやらしさを感じる。「Youは何しに日本へ?」という番組もある。これにも何かいとわしさを感ずるものだ。
(三)
今、国力が停滞している、むしろ世界と比べると落ち込んでいる。しかし、妙なプライドだけは今も生きているように思う。
戦争をすれば、勝ち負けが決まる。しかし、容易に想像がつくのは戦争を始めた方は、容易に負けたがらない。徹底抗戦だと叫ぶ。
しかし、ふと考えた。戦争をはじめて劣勢になってきたときに果たして降参という言葉が使えるのか。太平洋戦争ではポツダム宣言を受諾したことで敗戦が決まった。が、今、複雑に入り組んだ国際社会で降参という言葉は通じるのか。
仮想的に思う、台湾有事で戦争に日本が巻き込まれたときに、日本は降参しますといえるのか。アメリカはまだ始まったばかりだから頑張れと言わないとも限らない。ふんばっているうちに戦死者が出てくる。また沖縄がまっさきにやられないか?
2024年12月09日
下北沢X物語(5075)〜師走:三軒茶屋の戦跡を巡礼する〜

(一)開戦記念日の昨日、お茶の廉売広告を見て駆けつけた、二種類あって濃茶は中性脂肪に効ありと。行ってみると濃茶の棚はすっからかん、が、緑茶はたっぷり。人は皆、日頃食欲を制御できないないのだと思った。開戦なるものも所詮欲望の発散だ。報を聞いて欣喜雀躍したと。「十二月八日の霜の屋根幾千万」は下代田にいた加藤楸邨が詠んだ句だ。息を潜めて今後どうなるやらと思う姿が浮かぶ。あの開戦から83年経って思うことは、開戦は不幸の始まりだったことである。7日は、三軒茶屋の戦跡歩きを行った。この時期に開催するのは極めて珍しい。戦後80周年が近づいている。これへの意識の高まりが開催へと結びついたのか。「戦後百年だってある、が、とりわけ80周年は重要だ」関係者の生存ギリギリラインだ。生存者の伝達項目はたった一つ、「二度と戦争はするな!」だ。
町歩きの表題は、「けんさんと歩く」〜三茶周辺の戦跡を歩く〜だ。この2024年このコースの町歩き、今年はもう三度目だ。先月生協の組合員を連れて案内したばかりである。来年の戦後80周年を意識しての開催だろうと思う。
七日土曜日は冷えた。午後一時半に世田谷線三軒茶屋駅前に参加者は集まった。
「まず、最初に言いたいのは三軒茶屋はかつては軍都だったことです。この直ぐのところに世田谷道が走っていますが、西へ行くと北原白秋の旧居跡があります。
風塵のはげしさは非常であつた。三軒茶屋から登戸への街道に面し、牛車、タンク、砲車隊等の轣音、囂音、火山灰の旋風は堪へがたかつた。(歌集『白南風』)
自宅前の登戸道をひっきりなしに軍馬が行き交っていました。耐え難いほどだったと言います。この三軒茶屋を通る大山厚木街道の南には兵営がずらりと並んだいた。多くの兵隊がいて馬がいた。そんじょそこらの道には馬糞が落ちていました、今はもう全く軍都という面影はありません」
(二)

例によって真っ先に向かったのは昭和女子大である。もう何度も入構しているので門衛でのチェックも簡単である。もうここへ通い初めて十数年経つ。
女子大への入構は「近衛野砲兵連隊跡」(写真)の石碑見学をするためである。この碑ついこの間まで、大学敷地東南端の片隅にひっそりと置かれていた。今年になって連絡があり、大学が庭園空間として造成した「昭和の泉」の目立つところに移築したと。
「もう私は十数年ここに見学に来ています。このほど碑は目立つところに移築されました。私たちの戦跡案内活動が奏功したものだとだと思います。前は本当に片隅に置いてありました。やはり大学も時が経って、改めて歴史を見直し、大学の歴史として日の当たるところに置こうという考えに変わったと思います」

「昭和女子大のことで言えば、なんといってもシンボルのヒマラヤ杉(写真)です。それは、北白川宮成久王お手植えのヒマラヤ杉です。ついこの間まで大学のシンボルツリーとしてあったのですよ、資料に印刷しておきました。」(写真)
「近衛兵というのは天皇を警護する役目を負っていました。だから兵隊も近衛兵という名にプライドを持っていました。戦争が終わったら、軍隊経験というのはあまり役立たなかったと思います。しかし、『私は近衛兵』だったというのはつぶしが効いたと思います」
私が知っている人では田中義輔さん、近衛野砲兵連隊に将校として務めていた。彼は通信会社の会長だった。つぶしが効いたものの一人だ。
近衛兵は得をする、前線に行かされる確率は低い。生き残る確率も高い。戦友たちのネットワークが各人の地位向上に役立っている。再就職などにも有利に働いた。
(三)

開戦の日に開戦を考える、大事だ。詩人高村光太郎は開戦の報を聞いて「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた」と随筆「十二月八日の記」に書いている。彼も欣喜雀躍した一人だ。確かに開戦によって新しい地平は開けた。しかし、戦争指導者に展望はあったのか疑わしい。
3月10日、東京大空襲があった。5月24、25日には山の手空襲があった。こちらは爆撃の規模では東京大空襲を遥かに上回るものだった。焼夷弾投下トン数が前者は2000トン、後者は、両日で6,900トンだった。これによって首都は壊滅した。その結果、「東京は攻撃のリストから外された」、ほとんど負けた等しいが戦争は終わらなかった。戦争を始めた者は、戦を止めたがらない。徹底抗戦、一億玉砕などとたわけたことを言う。
戦争を始めるのは容易だ。が、終わりにけじめをつけられる人はいない。いつまでもグズグズと戦争は続いて、その間に人は死ぬ。人間は戦争を始めることできても終わらせられない。だから開戦は不幸の始まりなのである。(昭和女子大構内での記念写真)
2024年12月07日
下北沢X物語(5074)〜思いがけない問い掛け〜

(一)つい先日、森厳寺の銀杏の紅葉がきれいだというので見に行った。意識せずに歩いて行ったら何のことはない、森茉莉が下北沢へと行く通り道だった。彼女の作品『恋人たちの森』の冒頭にモデルとして出てくる道筋だった。森茉莉の地理認識は淡島的世界観に基づいている。だいぶ前に彼女の取材に来た女性記者に語ったことがある。記事は子細には覚えていないが、記者は「淡島的世界観」のことについて触れていたように思う。つい最近のことだ、森茉莉を修論で書いている人からの質問がメッセージで寄せられた。「『薮内は、荏原の言い換え』はなぜ言えるのでしょうか?教えていただければ幸いです。」と。この頃、森茉莉とはご無沙汰だ、以前は熱中して取り組んでいた、私がだいぶ前に記述したことについての論評だ。しかし、興味深い問題である。
質問者本人からは、「枯葉の寝床」を関する修論を書いております。この記事を拝見して非常に勉強になりました。」とあって、くだんの質問となったのだ。
即ち、『枯れ葉の寝床』の冒頭である。
といってもこの作品には巻頭詩がまずある。
恋人たちの火は、太陽も月もない、
鈍い黄金色の果実と、
薄紅い、花から発する光の中に……
とあるものだ。最後に『義童(ギドウ)』とある。
冒頭のっけから、森茉莉世界が開陳される。強引に読者を連れ込んでしまう。『枯れ葉の寝床』の解説は、「男同士の禁断の愛を純粋な官能美の世界にまで昇華させた」ものとある。同性愛ワールドである。
(二)

「枯葉の寝床」の冒頭である。
厚木街道の外れ、藪内郡の、一塊の家の集団から一軒遠く離れた家がある。街道から下へ二度大きくうねる細い道が、荒れた畑地を通り、その畑地もすぐになくなって、その大きな竈のような建物にぶつかる。
新潮文庫『恋人たちの森』 2004年
「ネットに与太を飛ばす」、自身の造語である、以前に森茉莉と民族学を絡めたフレーズで、「与太を飛ばした」覚えがある。検索するとすぐにヒットした。「下北沢X新聞(2040)〜民俗学の鼓動を求めて森茉莉を歩く〜」だ、期日まで分かる。2012年03月19日だ。
森茉莉を知って、最初に作品に触れたのは「枯れ葉の寝床」だった。ギドウとレオとの男色世界にはあまり興味を抱かなかったが、彼女の地理観には感銘を受けた。つまりは、淡島のボロアパート倉運荘を世界の核とした世界観に心惹かれたのだ。
2012年03月19日は、十二年前だ、この頃は自転車に乗って付近を隈なく乗り回していた。地形、地理習得の時代だったと言える。そういう経験があるから分かる。この冒頭に言う、「街道から下へ二度大きくうねる細い道が」というのは大事だ。街道は、大山・厚木街道だ、現在の国道246号である。これが東西を突き抜ける、道は台地上を走る。台地があれば下る、それが地形のうねりとなる。すると彼女の意識では東西に走る街道から北上していく感覚だ、具体的には坂を下ると底には烏山川が流れている。ここからさらに北へ行く。多分、感覚的には今でいう茶沢通りを意識しているのだと思う。再度上って行くと台地の尾根に着く、ここは淡島通りと交わる。そして下ると北沢川がある。
「二度大きくうねる」とあるが、地理上は一度である、が、文学的言い回しとしては二度とした方がイメージが湧く。彼女の場合は、車道は想定されていない、「細い道」である。いずれにせよ茶沢通りに平行する農道だ。これを上っていくと畑地から住宅地に変わる。森があって家がある。想定される土地は若林である。
(三)
質問をされた方は、「『枯葉の寝床』を関する修論を書いております。この記事を拝見して非常に勉強になりました。」とあった。そういえば、森茉莉を研究しておられる方がわざわざ神戸から来られた。そのときに森茉莉の足跡を一緒にたどった。
『枯れ葉の寝床』では、冒頭で土地の匂いのする一文があった。このことからもしや、具体的地名があるかもしれない。作品すべてを点検したが見つからない。一方、『恋人たちの森』では、地名が頻繁に出てくる。ここから類推すると義童は若林に住んでいたのではないかと思った。
2024年12月06日
下北沢X物語(5073)〜隣国の大事件をなぜ報道しないのか〜

(一)隣国の韓国で「非常戒厳」が出された。が、六時間後の四日未明に尹錫悦大統領によって解除された。衝撃的なニュースだった。日頃地上波は見ていない。これがどう報道されるのかと珍しく四日夕刊の各局報道番組のタイトルを点検してみた。ここで驚いた、非常戒厳の解除などという言葉は一切載っていない。報道ステーションは「欧州で政治混乱が拡大仏でも政権崩壊の危機」がトップにあった。隣国で大事件が起こっているのになぜそれを取り上げないで欧州の政治混乱のニュースを流すのか。これはNHKも含めて各局同じである。隣国に非常戒厳が出されたことは、わが国にも大きな影響を及ぼす話だが、等し皆無視を決め込んでいる。どうかしていないか?
テレビの報道番組はもう二三年前から見なくなった。なぜかつまらないからである。切り込まない、突っ込まない、そして最後には「これは見逃せませんね」などと締めくくってお茶を濁している。もっぱら視聴しているのはYouTubeである。こちらは報道系のお店揃いが豊富だ。しかし、単に視聴回数を稼ぐために作られた番組は多い、その文言は派手だ。「○○をフルボッコ」とか惹句を派手にしているが、内容を見ると何の訴えもない。
とくに右よりが派手である。誇張的なパフォーマンスを行い視聴者を惹きつけているがほとんどが期待外れだ。右寄りのYouTuberなどはひどい。場所は沖縄方面だと思われた。自衛隊基地の反対運動をしている人のところに押しかけ。
「あんんたね、自衛隊は国を守っているんだよ、それに対して失礼じゃないか!」と突っかかっていく。声を荒げて老齢の人々に面と向かって抗議している。とても後味が悪い。
(二)
韓国の尹錫悦大統領は与党国民の力を引っ張って政策を推進してきた。北朝鮮とは対峙していく方策を取っている。これによって日米韓はより親密性を増し、同盟を強化して北に対抗しようとしている。一方の共に民主党は、「伝統的にコリアのナショナリズムに基づいた外交政策を支持しており、日本と中国を非難し、アメリカとの同盟関係とロシアとの友好的な交流を支持してきた。」(Wiki)北朝鮮政策だが、将来の統一を追求し、統一に向けた南北間の共同体の基盤を漸進的に強化したいと。前の文在寅政権は日本に対しては厳しかった。尹錫悦大統領は、用意無く「非常戒厳」を命じた。が、これはたちどころに共に民主党が動いて、解除せざるを得なくなった。これは憲法違反だとして今弾劾裁判に掛けようと提起されている。この様子からすると再び共に民主党が政権を取っていくだろう。
当然のことながら日本に対しては厳しい政策を取っていくはずだ。
思うに、四日夜韓国の「非常戒厳」が日本のニュース項目としてトップにならなかったのは。一つには事件が起こったばかりで全体の動きがつかめていなかったこと。尹錫悦大統領政権の崩壊が予想される、新しい政権になれば日本に厳しくなる。メディアは下手なことは言えない、いえば自分たちに火の粉が降りかかるのを避けようとしたのではないか。このごろのマスコミはふぬけだ。
韓国の「非常戒厳」事件については、YouTubeではもう昼から韓国からの現場中継をしていた。こちらは小回りがきく。刻々と実情を報告していた。これを聞き知った一般市民が続々と国会に押し寄せた。日本の市民運動では考えられないものだ。
(三)
現今、日本全体では右傾化している。先の自衛隊基地に行って右翼が反対運動の高齢者に高飛車な意見を言って脅す。今年になって、群馬の森にあった朝鮮人追悼碑を群馬県が撤去された。在日の女性は、「撤去することは、過去にあった事実を記憶していかないという意思表示のようだ」と批判している。
この国では、あったことがなかったことにされつつある。
あの戦争は、侵略戦争ではなかったと言い始めて今日に至っている。
このまま行けばまた革新政権が誕生する。韓国は言うことは言ってくる。それに対して日本の、腰の定まらない石破政権はどう対処するのか。韓国の「非常戒厳」措置は大きなニュースだった。が、これを真正面きって日本のテレビは向かい合わなかった。しみこんだ日和見主義はなかなか抜けきれない。
2024年12月04日
下北沢X物語(5072)〜人生と月日と池上線〜

(一)人は絶えず次を求めていく、「さて、こうしてばかりはいられなくて」という思いに追いかけられている。人は一カ所にとどまっていることができない。人間の本性でもある。この根本には飽きがある。どんなに気に入った風景に出会っても長くはいられない。先だって多摩川台公園に歩いて出かけた、富士詣でである、三回目にしてようやく雪を被った富士が見られた。富士はいつまでも見ていられる。北村透谷は富士は「尽きず朽ちざる詩神」(『富嶽の詩神を思ふ』)だという、日本人の詩神を刺激してやまないものだと。しかし、ものの十分も経つと「さて、こうしてばかりはいられなくて」という思いが湧いてきて散歩漂泊を続けて、そして今度は、田園調布駅前のイチョウ並木を眺める仕儀に及ぶのである。
今は紅葉の季節だ、イロドリが美しく歩き甲斐がある、自身毎日散歩に出かける。今日は天気が良かった。このところ定番となっている洗足池コースを歩いた。まずは南に向かう、東横線、大井町線・目黒線、そして次が池上線だ。ここに行く途中、呑川でカモが朝日を浴びて川底の藻を食べていた。水面のきらめきが美しい。(写真)
ここを下ると中原街道、そして向こうに鉄橋が見えてくる。池上線である。走っていく走る電車がいい、三両という短編成だ。
呑川と池上線が交わっているところは、高架になっている。このすぐそばに高層マンションが建っている。石川台ハイライズだ。この3階に詩人の石垣りんが住んでいた。
もうその彼女は物故してしまった。
彼女の詩に「崖」というものがある。国語の教科書に出てくる定番の詩だ。ここの中で難解なのは、「崖はいつも女をまっさかさまにする」だ。これをどう解釈するか難しい。私は経験を踏まえてこれを解釈している。これが「下北沢X物語(4292)―崖はいつも女をまっさかさまにする―」だ。これが結構よく、検索されている。多分解釈に困った国語教師が参考に見ているのではないかと思う。
(二)

『焔に手をかざして』(筑摩書房 一九八○年)という彼女のエッセイ集がある。ここに「電車の音」が載っている。もちろんこれは池上線だ。
私が住んでいるアパートの三階と平行の高さで、少しはなれた土手の上を、私鉄の電車が横一文字に走っている。乗っている客の多少が、だいたい見当のつく距離である。その音がうるさいでしょう、と、知る人は同情してくれる。ちょうどいいのと、と答える。
今日は昼間、ここの土手を電車が走る場面を撮りに行った。都合よく撮れるのは石川台1号踏切だ。ここは映画「秋刀魚の味」に出てくる。(写真)
池上線が眺められる三階の部屋に石垣りんが住んでいた、というのはとてもいい。
彼女、池上線の音がちょうどいいという。
電車の音は、言えばカダンスだ。土手の上をカッタン、コットンと走ってくる。早くもなく遅くもない。その響きがよい。
ひとり暮らしの私には、それがにぎわいになっている。徹夜した時など一番電車の近づいてくる音に、そっとベランダに出てみる。お客さんの影がひとつもなかったりすると、ご苦労さまです、いいたくなる。
電車の音は友達だ。これはやはり池上線でないといけない。
(三)
彼女は言う「私はさびしがりや」だと、その本人を電車の音が慰めてくれる。
この池上線のさきにいくと新幹線が走っている。この脇をよく通る。電車は瞬時に走り抜けていく、スパスパスパという音を立てては消えていく。これも「さて、こうしてばかりはいられなくて」と新幹線は走っていくのだが、その走り方が異常だ、どうしてあんなに速く走っていくのだろうか、散歩派の自分はいつも疑問に思うのだ。
2024年12月03日
下北沢X物語(5071)〜会報発行と18年の日々〜

(一)光陰矢の如しは手垢にまみれた語だ、これには無常の酷薄さは皆無だ。あるときTikTok見ていると喪服を着た大勢の熟女が映った。と、西城秀樹のYMCAが流れる。途端に彼女らは踊り出した。が、彼女らの腰つきの乱雑さは時の崩壊を思わせた、いかな美女も年老いていくもの。TikTok映像では3,11津波がある、海の水が膨れ上がって防波堤を軽々と越え船も車も圧倒的な力で飲み込んで行くさまも極大無常だ、人間などはたかが知れている。自然に勝てるはずはない、なのにこの国家は原発へ回帰しようとしている。原発政策は破綻している。驚くべきことに野党の国民民主は、立て替えや増設を主張している。
原発廃棄物の処理の見通しもないのに原発への回帰、未来を考えていると思えない。
「北沢川文化遺産保存の会」は会報を発行している。今、12月で221号を数えた。
12で割ると年数が出てくる。18年とちょっとである。毎号の文字数は6400文字である。毎回記事を書き、ひたすら埋めてきた。18年間、よくやってきたものだ。
しかし、会報を発行するに当たっては問題が生じてきた。郵便料料金の値上げだ。封書84円が110円になるという。我らの会の年会費は、1200円だ。すると110×12は1320円となる。切手代を入れると赤字になる。考えられることは値上げである。
今、なんでもかでも値上げである。人々の生活がより苦しくなっている。しかし、新聞広告ではクルーズ船旅行や海外旅行の広告が多い。格差の広がりは今深刻だ。食べて行ける人と行けない人の貧富の差が大きくなってきている。
社会現象として大きな問題となっているのが若者たちのヤミバイトだ。これに応募し、強盗事件を多く起こしている。主には老人を狙っている。間違いなくこの根底には格差の広がりがある。若者が真っ当に食えなくなっている。社会全体の貧困化も背景にあることは間違いないだろう。
(二)

「北沢川文化遺産保存の会」年会費は1200円である。紙印刷を続けるとすれば現行会費では立ちゆかなくなる。対処するとすれば値上げだ。郵便料金値上げに対応するためには1500円はもらわなくてはならない。この問題考えた末に、結論を出した。値上げは断念し現行のまま据え置きとすることにした。
現在では大半がメール配信である。すべてをこれにすると費用は掛からない。とは言ってもネットやSNSに触れない人もいる。これも考えた。そういう人は多くはないのではないかと。いたとしても事務的な負担はあまり掛からない。それで紙印刷の希望があればその人は1500円負担してもらう。その人だけは郵便で送ろうと考えたのである。
私は、会報を毎月事務局の邪宗門に届けてきた。三軒茶屋の市民活動コーナーで印刷し、そしてこれを届けていた。紙を三つ折りして封筒に入れていた。
この作業をボランティアとして続けてきた人がいる。橋本さんである。彼は手があまり自由に動かない。それでも一生懸命三つ折りしていた。このことによって人に尽くすことになるとずっと手伝ってきてもらった。作業が終わると、「先生、この次はいつですか」と必ず聞いてくる。会報を折ることを通して社会に関わっているという意識を持っている。これが一切なくなってしまうのは忍びないと思う。
希望として紙印刷をという人が出てくるとよいがと思っている。これまでは市民コーナーで印刷していたが、数枚であれば自分のプリンターで印刷はできる。この数枚を橋本さんにやってもらおうかと考えている。
(三)
会報を印刷して、邪宗門に届ける、毎月のルーティンだった。このときに人が集まってきて雑談、文化談義になることはよくあった。
それで思いついたのだ、私は印刷したもの一枚は記録として邪宗門に届ける。また、印刷希望の人がいればそれも届ける。この機会が利用できないかと考えた。
会員の接触は毎月の町歩きだけである。それで思いついたのは文化談義の日である。毎月末に集まって、人と雑談をする。文化談義ができればよい。
この日は前もって予告する。221号では予告した。
文化サロン開催のご案内 12月28日(土)14時から邪宗門
ぜひ皆さん、お暇な折にはおいでください。どなたでも参加できます。
また、会報のメール配信希望の方は、私に連絡をください。
(写真、最後の印刷会報、邪宗門で金田真紀さんと:紅葉は森厳寺の銀杏)
2024年12月01日
下北沢X物語(5070)ー北沢川文化遺産保存の会会報第201号ー

1、環七に消された街の青息吐息 世田谷代田界隈
熱海鋼一記
私が代田4丁目に住んだのは60年前のこと。鶴見に家がありましたが、私の仕事の都合で25歳の時に、世田谷代田駅近くの母の妹が嫁いだT家の近くに下宿したことに始まります。
私が小中学生の頃よくT家に行って遊んでいました。大正末期に畑と雑木林があったこの地を買ったそうです。広い庭には井戸があり、夏にはスイカやトマトを井戸水で冷やして食べました。中原商店街から4〜5軒奥にあり、静かで清楚な場所でした。今、そこには信誠コーポという10階建てのマンションが建ち、私はそこで暮らしていますが、目の前が環状七号線です。

大震災後の東京大改革計画の一環として、1927年(昭和2年)に計画が決まった環状七号線は、1964年に開通します。その為、中原商店街を壊滅させるほどの店や家が立ち退きました。1968年の信誠コーポの建設写真を見ると隣にはお屋敷の塀があります。ビルが出来上がると当時10階建てのマンションは珍しく、遠くから記念写真を撮りに来た方もいたそうで、その後隣に相次いで二つのマンションが建ちました。
私の仕事は映画やテレビの編集で、休日も少なく追い込みとなると最終電車か明け方の帰宅が続きましたが、商店街の生き残りのお店が、その後も次々と消えてゆく寂しさは感じていました。あ〜ここは環七に殺された街だと。
重宝したそば屋は旧商店街と新代田駅近くの二軒が残り、気がつくとお店をやっている方々は老人ばかり、跡継ぎがいないという同じ悩みを抱え、そのうち杖をつくようなご老体が配達をしている姿を見かけました。ある日二軒とも消えていました。
生き残った宮川うなぎ店の前の信号先のポプラは、商店街にあった升本酒屋が今の位置に越してチェーン店となりました。そのすぐ隣に小さな八百屋があり、若いご夫婦が継いでいましたが、だんだん仕入れが少なくなり店を閉じ、ご主人がタクシーの運転手をやっていると聞きましたが、そのうち居なくなりました。
信号脇には魚屋さんがあり、踏ん張っていましたが、ある日そこはラーメン屋になっていました。代田界隈の環七沿いがラーメン街道と観光誘致までしていた頃でした。そのラーメン屋は脱サラの方がやっていましたが、素人経営のせいか1年も持たずに撤退しました。寿司屋も数軒はあつた記憶があります。宮川の近くに若者が開いた寿司屋がありよく出掛けましたが、客足が減り、だんだんネタの魚の質が落ちてきて、消えてゆきました。

2024年の秋、下北沢から延びる新しい道の環七を超えた先のイタリアレストランが撤退、本格的なパン屋に変わりました。
パン屋と言えば世田谷代田駅近くの三河屋が長く生き残り、美味しいのでよく買いに行きましたが、経営難が続き、銀行に土地を買われビルが建ち、店終い。お店に立っていた奥様が、パン作りが好きなのにと悔しそうに話していたのが印象的でした。
思えば、まいばすけっとが近くなのに日常の用足し程度で、買い物は散歩がてら梅ヶ丘か下北沢に出掛けてしまう。環七に分断されたこの街に似合うお店って、どんなお店なのでしょう。 写真は現在、左手一番奥が信誠コーポ
この場所は居心地よく交通も便利です。新しい街つくりの試みに期待している一人です。
2、下北沢静泉閣の居住人
静仙閣は文士町の文化サロンだったと言える。文士町地図に書き入れがある居住人は、
北川冬彦(詩人)、中山義秀(作家)一色次郎(作家)成瀬巳喜男(映画監督)愛新覚羅溥傑(書家)を記録している。これら以外の居住人が分かったことから付け加えておく。
満州国初代国務院総理の鄭 孝胥の次男、鄭禹
田中利一(映画プロデューサー) 日畔忠彥(小説家)北川冬彦のペンネーム
狹路庵(歌人か?) 北沢 喜代治(詩人・作家) 菊森英夫(映画評論)
3、文化サロン開催のご案内
毎月発行している「北沢川文化遺産保存の会」の会報は、郵送料が値上がりすることから、経費の掛からないメール配信にします。毎月末は、会報を印刷し、これを邪宗門に持っていきボランティアの人・主には橋本さんに用紙を折ってもらい、封筒に入れてもらっていました。会報を印刷して持って行くこともないし、発送の仕事もなくなります。
何もなければ人間何もしないものです。それで考えたのですが、毎月末の同じ時間帯に私は、会報だけは事務局に届けることにしました。それでこのときに文化サロンを開き、みんなで雑談をする会を開こうと思います。
このところ、下北沢文士町とは何かという議論があります。話題は限ることもないのですが、みなで集まって雑談をする会です。とくに無理強いするわけでもありません、よしたまには行ってみるかとう感じで自由に参加するものです。
ときには誰かが話題提供するのもよいと思います。とくにこの場合、会員・非会員という区別をしなくもよい、誰でも参加できるものにしたいと思います。開催する日にちは予告します。
12月28日(土)14時から邪宗門で。みなさんおいでください。
4、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第201回 12月14日(土)「生田春秋苑掃苔行」
案内人 原敏彦さん 集合 小田急線生田駅改札口 13時15分(厳守)
春秋苑は昭和33年に開苑した宗教不問の公園墓地。柳田國男、平塚らいてう、尾崎士郎、横溝正史、山岡荘八、古関裕而、三船敏郎他多数の著名人に加え、旧臘26日、79歳で亡くなられた当会会員、別宮通孝さんも永遠の眠りについておられます。
今回は別宮さんのお墓にお参りの後、時間の許すかぎり多くの著名人のお墓を巡りたいと思います。
※ 13時30分発の無料送迎バスを利用しますので、集合時間は厳守願います。広大かつ起伏の多い墓苑ですので、足に自信のない方はご遠慮下さい。
○忘年会の開催。今年最後の町歩きの後、忘年会を行います。
小田急線生田駅そば「中華 味良(みよし)」17時から 予算 4千円/人
忘年会係担当 幾田充代さん 忘年会だけの参加も歓迎します。
第202回 1月19日(日)森茉莉の足跡を歩く
案内者 幾田充代さん 小田急線梅丘駅改札前 13時30分集合
概要:森茉莉は境涯を淡島で送った。彼女の生活痕跡や作品に描かれた場面を歩き回って確かめる。最後は、森茉莉の書斎、「邪宗門」に行く(飲み物代各自負担)
コース:梅丘駅→小堀杏奴旧邸→萩原葉子旧邸→若林陸橋→若林邸宅街(ギドウ・パウロ)→三好達治旧居→倉運荘→代沢ハウス→代沢湯→「恋人たちの森」冒頭描写とバームクーヘン→森茉莉の執筆部屋「邪宗門」 写真は、旧倉運荘跡
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて通常は500円 町歩きの参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む 忘年会参加も。 宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
5、会費について(基本据え置きとした)
会費について:郵便代が10月から値上げになった。封書は84円から110円に。これまでは会報の発送は封書で行ってきた。110円で計算すると年1320円となる。それで来年度から値上げを考えていた。しかし、これまでは大半の人がメール配信で受け取っている。紙印刷をなくしてメール配信にすれば値上げの必要はない。が、どうしても紙印刷でないとだめという方もおられる。これへの対処だが。希望者がいれば、対応したい。毎月末の第4日曜日2時に事務局に印刷した会報を届けていた。これからは保存用1部+紙印刷希望者数X部を届ける。これを事務局から発送してもらう。よって紙印刷希望者のみ会費は1500円とする。私はこれまでと同じように2時に会報を事務局に届ける。これまでは発送日として会員有志が手伝いに来られていた。これは一つの機会である。先に述べたようにこのとき「北沢川文化遺産サロン茶話会」を開く、雑談、文化談義を行う場だ。参加は誰でも自由とする。散歩だけではない、雑談、談義を行って楽しく過ごす。来年度からの会費、メール配信の場合は1200円、紙印刷希望の場合は1500円としたい。会費の払い込みは、銀行、直接事務局へ、散歩の折に、いずれか。
*紙印刷希望者は当方か、事務局作道敬子さんに意向を伝えてください。なお、毎月のメール版にはPDFを添付する。これを紙で必要な人は自宅で印刷してほしい。
■ 編集後記
▲次年度からの新会員金田真紀さん、佐藤智恵さん
▲下北沢文士町文学論、222号 松山信洋氏、223号 猪熊雄治氏に原稿依頼。
▲エッセイを募集しています。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲町の隠れた情報を発掘し、ブログに書いて発信しています。これも情報を乞う。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。
(森厳寺の銀杏、森本謙四郎)



















