2025年04月

2025年04月30日

下北沢X物語(5168)ー北沢川文化遺産保存の会会報第226号ー

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第226号    
           2025年5月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 �冢�
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
…………………………………………………………………………………………………………
1,戦争経験を聴く最後の会

 戦後80年を迎える、コロナ前は戦争経験を聴く会を継続して行ってきた。体験者から多くの証言を聞いてきた、誰もが言う、「何があっても戦争をするな!」だ。やはり戦争経験者の生声は大事だ、「戦争はするなよ!」と言う忠告を耳で聴いて心に覚えさせる。戦後80年は大きな節目であり境目である。当時国民学校五年生だった人も91歳を迎えている。年を取ると「昔みたいに友達に気軽に電話は掛けられなくなる皆くたばっていくから……」と。高齢者はどんどんいなくなる、かろうじて存命している人に話を聞く、戦争を聴く最後のチャンスだ。昨日、代沢小学校に「戦争経験を聴く最後の会」の会場を貸してもらえないかと申し出たところ、副校長から許可を得た。

 私は多くの人から戦争を聞いてきた。80年前の戦争だが今も人々に暗い思いを残している。特攻兵だった兄を持つ人、戦争を心底嫌っていた。彼女は四人兄弟である、が、兄はフィリピンで戦死し、兄は特攻で殉死した、姉は勤労動員先で事故でなくなった。
「戦争を思うだけでも嫌になります、だから思い出したくないのです……」

 世田谷の学童が疎開先の浅間温泉で特攻隊と出会ったという話をずっと調査してきた。後胤の問題だ。特攻隊に選抜された若者は優秀なものが多い。残された家族が心配したことは家系が絶えることである。
 最近調べで子犬を抱いた特攻隊員で荒木幸雄伍長が松本に来ていたことを知った。十七歳である。こんな年若い少年を特攻にかり出すことは惨いと思った、決して美化してはならない。戦後80年を迎える、コロナ前は戦争経験を聴く会を継続して行ってきた。体験者から多くの証言を聞いてきた、誰もが言う、「何があっても戦争をするな!」だ。やはり戦争経験者の生声は大事だ、「戦争はするなよ!」と言う忠告を耳で聴いて心に覚えさせる。戦後80年は大きな節目であり境目である。当時国民学校五年生だった人も91歳を迎えている。年を取ると「昔みたいに友達に気軽に電話は掛けられなくなる皆くたばっていくから……」と。高齢者はどんどんいなくなる、かろうじて存命している人に話を聞く、戦争を聴く最後のチャンスだ。昨日、代沢小学校に「戦争経験を聴く最後の会」の会場を貸してもらえないかと申し出たところ、学科らの許可を得た。それで実施したい。
 私は多くの人から戦争を聞いてきた。80年前の戦争だが今も人々に暗い思いを残している。特攻兵だった兄を持つ人、戦争を心底嫌っていた。彼女は四人兄弟である、が、兄はフィリピンで戦死し、兄は特攻で殉死した、姉は勤労動員先で事故でなくなった。
「戦争を思うだけでも嫌になります、だから思い出したくないのです……」
 世田谷の学童が疎開先の浅間温泉で特攻隊と出会ったという話をずっと調査してきた。後胤の問題だ。特攻隊に選抜された若者は優秀なものが多い。残された家族が心配したことは家系が絶えることである。
 最近調べで子犬を抱いた特攻隊員で荒木幸雄伍長が松本に来ていたことを知った。十七歳である。こんな年若い少年を特攻にかり出すことは惨いと思った、特攻は決して美化してはならない。

戦争経験を聴く最後の会
日にち8月2日(土) 13時30分から16時まで
場所 代沢小学校 地下一階 多目的室
*改めて案内は出します。校内は土足禁止なので参加する場合上履きをご持参ください。借用施設なので会場の設置は人手で行う。会場設置にご協力ください。
〇証言者・演題   太子堂の空襲        山本喜三郎さん
          子どもが戦争から受けた影響 森本謙四郎さん
世田谷の疎開学童と特攻隊  きむらけん

 
会の開催については、世田谷区教育委員会に後援申請をし、「せたがや」広報に掲載申請を行う。7月15日号に掲載する。

2、北沢川文化遺産保存の会をテーマとした卒業研究

 執筆者は、早稲⽥⼤学教育学部社会科地理歴史専修の松浦遼さんである。そのタイトルは、「 住⺠団体によるまち歩き活動を通じた地域における歴史の共有と住⺠の地域に対する認識への影響」である。その研究の成果を送ってこられたことからこれを引用した。

北沢川⽂化遺産保存の会の活動
1. 通史
以下では北沢川⽂化遺産保存の会が⾏ってきた活動を、団体の主幹に対する聞き取り、
および団体の主幹によって運営されているwebサイト「Web東京荏原都市物語資料館」
(http://blog.livedoor.jp/rail777/)の記述を主体に、その他資料で補完しつつ整理する2。
 団体は、2004年12⽉に準備会として会員6名で発⾜した3。そのきっかけは、現在も団
体の主幹として活動するきむらけん⽒の活動によるところが⼤きい。きむらけん⽒は⽬⿊
区に在住し、勤務先である中野区の中⾼⼀貫校に下北沢周辺を経由して通勤するなかで、
街の歴史に興味を抱き始めた。⽒は元々国語教師で⽂学の知識があったこともあり、かつ
て⽂学者がこの地域に多く居住していたことに特に関⼼を寄せた。退職後には本格的にそ
の歴史を調べ始め、2004年8⽉からブログでの情報発信を⾏うようになった4。そこで⽣
まれたインターネット上での情報交換が対⾯での交流に発展し、共鳴しあった⽒と当該地
域在住の⼈々がこの団体を⽴ち上げた。彼らの邂逅の場が、現在も団体の事務局が置かれ
ている代⽥の喫茶店「邪宗⾨」である。
 2005 年には発⾜に向けた準備が本格化し、北沢川緑道の宮前橋から代沢せせらぎ公園までを「北沢川⽂学の⼩路」とし、説明板や碑を設置すること、また歌聖と詩聖の⽂学碑を建てることで、北沢川⽂化を後代に伝えていくという提案をブログにおいて⾏い、同様の趣意書を世⽥⾕区教育委員会に対して提出した6。その活動は徐々に具体化し、2006年7⽉に正式に団体が発⾜した7。同年には⽉1回の会報発⾏8や町歩きイベントを開始9、初の刊⾏物である冊⼦『「北沢川⽂学の⼩路」物語』を発⾏し、配布することとなる。町歩きは、⼩説『猫町』のモデルと⽬される街並みなど、⽂学関連のスポットを巡るコースや、
各種の伝承地や史跡を訪問するコースを、案内⼈とともに歩く形で⾏われ、2024年現在に⾄るまで⽉約1回のペースで継続され、2024年11⽉には200回⽬が開催されている10。
また冊⼦は当該地域に居住していた⽂学者の情報をまとめ、その旧居跡をプロットした地
図を巻末に掲載したものである。この地図は『下北沢鉄道X交点周辺⽂化地図』として同
年中に改めて発⾏され、のち『下北沢⽂⼠町⽂化地図』に改題されて2024年現在改訂9
版に⾄っている。
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3、文化サロン開催のご案内

 文化とは面白いものだ。土地、土地には固有の匂いがある。地域独特のものである。我々はそういうものを大事にしている。土地土地の風情について論じるのは楽しいものだ。
 文化サロンという場合、堅苦しく感ぜられるが、文化は参加して楽しむものである。四回目も面白かった。話題噴出、耳が三つないと話が聞き取れないのではないかと思ったほどだ。我等の会は下北沢をベースとして活動をしている。が、当地と異なったところに住んでいる人は、全く違った観点で物事を考えたり思ったりもしている。多種多様な人と話し合うことで目が見開かれもする。
 これへの参加は自由である。誰でも参加できる、開催場所は代田『邪宗門』である。ここで毎月集まって文化を語っている。参加費はかからない。各自が飲んだお茶代だけを払ってもらうということにしている。
 今度は六回目になる、期日は5月31日(土)14時からとしたい、おいであれ。

4,町歩きの案内
 
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。

第206回 特別企画 下北沢猫町散歩−朔太郎の忌日にゆかりの地を歩く−
5月11日(日) 案内者 きむらけん 集合場所下北沢駅東口 13時30分
雨天の場合翌日12日(月)に延期。順延は一日のみ。
駅前→下北沢の旧居→一番街の十字路→旧北沢局ポスト→一本松公園→御殿山小路→北沢4町目公園→緑小路→下北沢駅西口→下北線路街→世田谷代田駅(ダイダラボッチ広場)→代田の丘の61号鉄塔(世田谷区地域風景資産)→朔太郎の代田旧居→北沢川緑道→三好達治文学顕彰碑→鎌倉通→旧静仙閣跡(北川冬彦)→下北沢駅
当日雨天の場合は翌日とする。今回は区の広報にも案内を出すことにして定員を15名とすることにした。5月1日の区のお知らせ「せたがや」に掲載申請をした。特別企画ということで費用も資料代・保険代をひっくるめて800円とした。この回のみ。


第207回 烏山寺町を歩く−墓歩き名人の原敏彦氏案内ー
 6月21日(土) 集合場所 京王線烏山駅西口改札前 13時30分
・『世田谷区北烏山には、関東大震災後に都心部より移転してきた由緒ある26ヵ寺が集まっています。豊かな自然環境の中、墓地には江戸期のビッグネーム、宝井其角、喜多川歌麿、為永春水、長谷川雪旦等に加え、明治以降の多くの著名人が眠っています。いまや「世田谷の小京都」と呼ばれることもある烏山寺町の緑と静寂を味わいましょう。』
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて500円 町歩きの参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む           宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net

5,会報の配信について

 会報について、これは昨年に郵便料金が値上がりしたことから会報はすべてメールで配信をしている。会費については値上げをする予定だった。が、このメール配信に切り替わったことで郵便代がかからなることで年会費1200円は据え置いた。が、紙配信も必要だという方もおられることから印刷郵送は続けている。その場合は会費を1500円をいただいている。
 会計年度は一月から十二月とし会費を戴いている。ただ会費を集めるために人員は充てていない。ボランティアで事務局の作道敬子さんにやっていただいている。少ない会費であっても活動資金として大事である。会報の配布については会友なるものを設けて無料で配信してきた。会費が活動の助けとなっていることから配信を会員だけにすることにした。ただ公的な施設で情報を必要としている部署、また当会の活動を支えていただいている協賛社には無料配信を続けることにする。メール配信先に公的施設が入っているが漫然と送っているところがあるかもしれない。配信を継続を望む場合には当方にメールで連絡してください。現在の配信は六月まで続けたい。

■ 編集後記
▲毎回、エッセイや論考を募集しています。ぜひご投稿ください。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
会費をよろしくお願いします。会費1200円(据え置き)
散歩参加の折、事務局直接支払いもできます(封筒に会費としてお名前をご記入ください)
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。



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2025年04月28日

下北沢X物語(5167)―何といっても文化が最高だ―

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(一)27日は恒例文化サロン:文化とは何か?その時代の色や匂いや音、そして風景や情景である。「最初に下北沢に来たときはとっても長閑でしたよ、町並みが雑多でした。特別の匂いがありました」と渡辺睦子さん。「駅前市場は何かいろんな匂いが立ちこめていました。アメリカなんかのお菓子売っているところはどきどきでした。キャンディやチョコ、包みが色とりどりでした」と金田真紀さん。「代沢の家並みは独特でしたよ、緑濃い坂を上っていくと平屋の日本家屋があって鳥がうるさく鳴いていました。昼下がりはのどかでしたね。そしてね、今も変わりがないのが森厳寺の銀杏の紅葉です。」とこれは森本謙四郎御大だ。

 昨日は、定例の文化サロンだった。いつもそうだが本当にみな文化を熱く語っていた。飛び入りで来ましたという渡辺睦子さん、キャリアカウンセラーは、「やはり(文化を語る)こういう場所って必要ですね、人の居場所ですものね」と。全く同感である。

「人がいられる場があることは大事ですね、文化って言いますが、ここへやってきて昔話をすれば、それが文化になりますね」
 渡辺さんは下北沢と言ってもあちこちを転居しておられた。
「メンマ工場があったでしょう、あの近くに住んでいたんですよ」
「それは面白い、私たちメンマ工場の話が出ると盛り上がります」
「そうなんですか?」
「そうそう前にコメントをもらいましたよ。

26年前、メンマ工場でバイトしていた者です。当時三軒茶屋に住んでおりました。あのメンマ工場がどこにあったのか知りたくなり一生懸命探したところ、貴方殿のブログにたどり着きました。 食品加工の名目で日給がとても良かったのを覚えております。現場に行って驚きました。 食品加工なのに、作業着とスコップです。 茹でたメンマにスコップで塩をまぶしておりました。

 分かれば分かってくる。あのメンマ工場は高級なもので、安いラーメンに使うものではないと教わった。

(二)
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「あの辺りは物語が詰まっているんですよ。でもねすっかり近代化されたでしょう。跡地には、「SHIMOKITA COLLEGE」が建った。その向いにもカフェができましたね。」
「そうそう、あそこはよく通るんだけ、高級過ぎてちょっと入りにくい感じ」
 金田さんは言う。
「いやあ、もうびっくりですよ。ついこの間まであそこに古い日本家屋が建っていたんですよ。佐山一雄さんという古老が住んでいて何遍も通って聞き書きをしたのですよ。下北沢の近代史が埋まっているように思いました。この頃跡地に瀟洒なビルができましたね。」
下北パークフロントと言うらしい。

『うちの海棠はみごとだった、小田急線のすぐそばでしょう、通勤途中の人がみんな見ていきましたよ』
 佐山一雄さんの話だ、海棠も家も今は何もない。

(三)
「子どもの頃、初めてB-29を見たときは不思議でしたね、童話の世界みたいみえましたよ」
 森本謙四郎さん。
「あそこ昔、小田急線に下北沢2号踏切と3号踏切の間は築堤になっていたんですよ。今は公園になっていますが、付近より一段高くなっているので上空を通る飛行機がよく見えたのですよ。このすぐそばに静仙閣があってここに住んでいたのが一色次郎ですね。彼は築堤に上って通過していくB-29を観察してました」。

 クジラの頭部で、小魚が回転しているようだった。(『東京空襲』)

 クジラはB-29、小魚は迎撃しようとする日本軍の戦闘機、こちらは童話ではなく漫画みたいだった。(写真は文化談義、小田急築堤、左奥に見える二階屋が佐山さん宅。)



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2025年04月27日

下北沢X物語(5166)―成城学園を巡る町歩き 3―

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(一)成城の大岡昇平旧宅跡を初めて訪ねた。広い区画が分割されそこに数軒の家が建っていた。かつてここに彼の家があった。大岡昇平は若い頃下北沢に住んでいた。それは森厳寺左岸である、いわゆる崖線でそこに赤松林が連なっていた、十年程前はその木々が残っていた、しかし、宅地開発によってあらかた今は消えてしまった。坂のみが今は痕跡を残している、横光利一の家には崖線の緩い坂を上ったところにあった。大岡の親父さん、森厳寺わきの植木を土産に作家宅を訪れ、息子がものになるかと聞いた「他人が言わないことを言うから見込みがある」と。

 横光利一文学顕彰碑を北沢川緑道に建てた。地元種がこれに附属させられないかと考えた。思いついたのは横光家の石畳だ、家は改築されているが石畳は居宅にまだあった。文学碑を建てるので一枚譲ってほしいと横光家にお願いをした。が、据え付ける段になって一枚だと用をなさない。
 作家は、来訪する客筋を石畳を渡って来る音で聞き分けた。この逸話は小説『微笑』で描かれている。ゆえにの誰もがここを歩くときに意識した。

 結局、石畳の石はもう一枚もらって碑に取り付けた、二枚あれば音は出る。

 大岡昇平の親父さんは息子が心配だった。それで家を訪ねて息子の行く末を聞いたらしい。
「他人が言わないようなことを言うから見込みがある」
親父さんは嬉しくなって森厳寺そばの植木屋から椎の木を買って持って行ったと。

(二)
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 「下北沢文士町文化地図」にはもちろん横光利一旧居が記入されている。居宅調査で近辺を歩き回っているときに地元の人に怪しまれて、誰何されたことがある。
 森栄晃さんはだいぶ前に亡くなられた。生前にインタビューしたことがある。一番街大槻菓子店のおばあちゃんが彼を紹介してくれたことがきっかけだ。
 彼は文学賞をもらって将来は文学者と考えていた。横光家に出入りしているときに「これからは映画の時代だ」
 う言われて映画界入りしたという。

 あるとき横光家の学習会があった。庭に見慣れぬ鳥が来た。みんな気づいてその鳥に目を遣った。
「いいか、鳥が来てみな心を衝かれただろう。そこだよ、人がハッとするようなことを書くのだよ」と横光は言っていたという。

(三)
 思い出した。彼らが笑っているのは、私は彼らを喰べなかったからである。殺しはしたけれど、食べなかった。 殺したのは戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では喰べなかった。 だから私はこうして彼らと共に。 黒い太陽を見ることができるのだ。
現代の文学6 大岡昇平『野火』 講談社 1978年

 
大岡昇平『野火』最終章の一節だ、1945年昭和20年1月、マラリアでこん睡状態に陥っていた大岡は米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される。
戦場における自己の倫理観を述べた件だ。殺しはしたがその人肉を食べなかった。

 戦争は今も続いている、ガザにおけるイスラエルの殺戮は目を蔽うばかりである。敵とあらば女子どもでも容赦なく殺してしまう。倫理もへったくれもない。ユダヤ人虐殺すら想起される。この戦争をアメリカは支援している。批判すらも許さない。狂っているとしか言い様がない。


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2025年04月25日

下北沢X物語(5165)―成城学園を巡る町歩き 2―

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(一)人は生きているときが華である、死んでしまえば命は消えて無くなる。今まさに生命が謳歌する新緑の季節である。新緑が萌え出した成城学園では四人の文学者の旧居を巡った。柳田国男、水上勉、大江健三郎、大岡昇平である。誰もが今に心に残っている作家たちである。行き行くとその彼らの痕跡もあらかた消え果てていた。わずかに大江健三郎の旧居だけが残っていた。「自宅の門を開け、白い詰襟のシャツで現れた大江さんは、この瞬間に備えてあらかじめ待ち受けていた報道陣に向けて、沈んだように映るほど厳粛な面持ちで受賞の感慨を淡々と述べた」(尾崎真理子「大江健三郎諸説全解説)と。当時の門柱が今もある。が、人は時を経ていなくなる。

 近くに新居を構えた水上勉が「行くのはおやめなさい」と言われながらも菓子折を携えてご挨拶にと伺ったが大江健三郎はそれに応えなかったという。

 水上勉『私版 東京図絵』(朝日文庫 1999年)の冒頭は、駒込蓬莱町から始まる。

 父は彼を僧侶にしようと京都の相国寺の小僧にした。が、彼は何度もここは脱走する。そして満洲に渡り奉天の駅でクーリーを肺結核を患い、帰国した後に、上京し大工をしている父の飯場を訪れた。

 ところが父は「東京に来ても飯は食えんぞ」「去んだ方がええ」などといい、いさめたという。

(二)
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 苦難を経て行き着くところが成城六丁目だ。

 新しい家は、成城六丁目でも小田急線に近く、歩いて三四分の場所が気にいったのと、先に述べたようにホテルや旅館で仕事をするくせになっていた。私には居宅に執着する理由はなかったのだが、今度の家は庭も広くて階下も四部屋、二階二部屋の間取りも気に入った。 しかし、成城と聞くと高級な住宅地のイメージが強く。「俺も偉くなった気がするなあ」といった怖じ気も。生じないとは言えなかった。

水上勉の集大成である、行き着いたところが成城の邸宅街だ。
「俺も偉くなった気がするなあ」
 には感慨が染み出ている。
 結局、作家たるもの筆先勝負である、苦難、苦闘の人生だった、食うためには、尽きるところ筆先だ、ああ書いては消し、こう書いては消しという連続だった。句点の置き方を変えてみたり、言い回しを考えたり、尽きるところ筆先にすべてが掛かっている。絶えざる訓練である、
「自分が酔ってはいけないんだ、そしらぬふりをして淡々と描く」
 筆先を変えることで生きてきたのではないだろうか。

(三)
2004年9月8日に水上勉は亡くなった。私その翌日に追悼文を書いた。

  水上勉氏が亡くなった。それで彼の著書、「停車場有情」を取り出した。
「人の一生を旅にたとえる人がいる。もちろん、人間は、母の胎内を出た日から孤独な旅行者である。それにしても、故郷の駅は、現実の旅の出発点でもあって、暦の底の方でいつも輝いたり眠ったりしている」
 冒頭エッセイ、「小浜線若狭本郷駅〜故郷の駅〜」の一節だ。彼が出郷したのは「六つか、七つだった」という。朝日新聞には「水上さん 小僧体験、底流に」と見出しにあった。通り一遍に言えばそうかもしれない。が、彼の、文学の底流に潜んでいるのは旅だ。汽車旅経験である。彼の車窓を見るまなざしは素晴らしく冴えている。
 鉄道文学という見地から眺める人はいないが、わたしは彼を推挙したい。「野道が眼の下のレールにへばりつくほど接近したかと思うと、急にはなれ弓字なりに海岸へ逃げたり、踏切をつくって山裾へまわりこんだりするのが面白かった。」(若狭本郷)
 彼の視線が見えてくる。座席の片隅で息を詰めて車窓を一心に見ている少年、つぎにどのような景色が見えてくるのだろうか、不安と期待に戦きながら彼は窓辺を懸命に見ている姿である。彼の近代経験が出郷によって始まったともいえる。古い道は地形に沿って造られている、が、直線を欲する鉄道は古代の道を真っ直ぐに突き抜ける。古代道と線路道のクロス経験をつぶさに経験している。幼少時のその姿が浮かんでくる。

(写真:水上勉旧居前での記念写真、案内者の幾田充代さんが掲げているのはかつての水上勉邸)


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2025年04月24日

下北沢X物語(5164)―成城学園を巡る町歩き―

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(一)「成城学園はいつ来ても思うのですが、隠れるところがないのですね。萩原葉子が父はこの町が好きで下北沢から転居するときの候補地だったと言っているのですが、それはあり得ないと思います」と私、成城には路地はない。陰がない。やはり高級住宅地である。大成した者、成功した者はこの町にやってくる。やはり儲かった人でないと住めない。文学者も大勢いる。「これからの文学者で成城へ住める人は出てくるでしょうか。文学は大衆性を失っていますよね」文学では容易に儲からなくなってきている。

 まずは柳田国男旧居からだ、彼はこの町に深く関わっている、子息を成城学園に入れていて、先生たちと協力して教科書づくりを手伝っている。例えば、編集した『日本の社会』の中に、三年生になると「郷土を中心とした自然及び社会環境のなかに起こるさまざまな現象に興味を持つようになり」と言う、土地に対する意識の芽生えが生じるゆえに「日本各地の郷土の社会機能と協同生活が理解できるよう」すると、民族学者の思いを子どもに伝えようとしていた。

 町歩きには社会学者の赤坂暢穂さんが参加していた。

「柳田はここの町づくりに参加していたそうです。植栽については洋館はヒマラヤ杉を和風にはクロマツをという提案をしていたと聞きました」
なるほどと思った。

(二)
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「下北沢野屋敷のヒマラヤ杉は有名でしたね。一帯のランドマークでした。五本のヒマラヤ杉が堂々と聳えていましたね。大島さんところは洋館だったからヒマラヤ杉を植えたのでしょう。」

「ヒマラヤ杉のあるところは近隣の人の散歩道でしたね。あそこを通っている御殿山小路は素敵でしたね、近くに淀井敏夫という彫刻家がよくよく散歩していました。『あのヒマラヤ杉の向こうには別世界があるようだ』と言っておられたと聞いています。大島さんからは切ると決めたときに私に連絡がありましたよ。現行の『下北沢文士町地図』には「大島家のヒマラヤ杉跡」と記してありますよ。あの木は成長が早いんですよ、どんどん大きくなるんです。カラスが集まってきて針金でできた衣紋掛けを拾ってきて枝に巣をつくるのですよ。カラスがうるさい、ヒマラヤ杉の落ち葉が樋につまる、掃除が大変などの苦情が寄せられるのですね。個人では保持できなくなるのですね」
 洋館にはヒマラヤ杉をというのは単に成城にかぎらない。私は森鴎外の『普請中』というエッセイを思い出した。日本国家は普請中ゆえに、見た目によく見せなくてはならない。それで公共施設にも数多く植えてある。一種のこけおどしだとも言える。

(三)
  「文学者が住んだ成城」と検索すると、自ブログがトップから二番目に出てきた。
「下北沢文士町と成城文士村」である。
共に小田急沿線にできた町である、違いが多くある。
・地形
 下北沢は沢が付く、水路が入り組んでいて沢の低湿地は土地が低廉だ。高いところは高級住宅地である。アパートや下宿には学生や庶民が住んだ。修行時代に若者は多く住んだ。無名の文学者もいるが有名な者もいる。
 成城は、国分寺崖線の丘上のフラットな場所に邸宅が建っている。大成した文学者の多くがここには住んだ。
・圏域 。
新宿から成城学園前 6、6キロ
  新宿から下北沢  4、9キロ
副都心から離れれば田園度は増す。都を意識する場合の距離には意味がある。




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2025年04月22日

下北沢X物語(5163)―戦争経験を聴く最後の会―

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(一)戦後80年を迎える、コロナ前は戦争経験を聴く会を継続して行ってきた。体験者から多くの証言を聞いてきた、誰もが言う、「何があっても戦争をするな!」だ。やはり戦争経験者の生声は大事だ、「戦争はするなよ!」と言う忠告を耳で聴いて心に覚えさせる。戦後80年は大きな節目であり境目である。当時国民学校五年生だった人も91歳を迎えている。年を取ると「昔みたいに友達に気軽に電話は掛けられなくなる皆くたばっていくから……」と。高齢者はどんどんいなくなる、かろうじて存命している人に話を聞く、戦争を聴く最後のチャンスだ。昨日、代沢小学校に「戦争経験を聴く最後の会」の会場を貸してもらえないかと申し出たところ、副校長から許可を得た。

 私は多くの人から戦争を聞いてきた。80年前の戦争だが今も人々に暗い思いを残している。特攻兵だった兄を持つ人、戦争を心底嫌っていた。彼女は四人兄弟である、が、兄はフィリピンで戦死し、兄は特攻で殉死した、姉は勤労動員先で事故でなくなった。
「戦争を思うだけでも嫌になります、だから思い出したくないのです……」

 世田谷の学童が疎開先の浅間温泉で特攻隊と出会ったという話をずっと調査してきた。後胤の問題だ。特攻隊に選抜された若者は優秀なものが多い。残された家族が心配したことは家系が絶えることである。
 最近調べで子犬を抱いた特攻隊員で荒木幸雄伍長が松本に来ていたことを知った。十七歳である。こんな年若い少年を特攻にかり出すことは惨いと思った、決して美化してはならない。

(二)
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 浅間温泉で特攻隊員とふれ合った女性がいる。彼らが歌い残していった歌をずっと覚えていた人がいる。元東大原国民学校の秋元佳子さんである。もう一つ、彼女が覚えていたのは親しくしていた特攻隊員である、それは長谷川信少尉だ、この件を調べている過程で彼が『きけわだつみのこえ』に手記を寄せている者だと判った。
彼の批評精神が素晴らしい。手記末尾にあるこれは優れた戦争批評である。

人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
 今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、
 ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
 敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
 恐しき哉、浅ましき哉
 人類よ、猿の親類よ
 新版 きけわだつみのこえ 岩波文庫版 2009年刊

 世界では戦争はやまないウクライナ、そしていまはガザだ。もうここには人間性もへったくれもない。イスラエル側のパレスチナ人に対する仕打ちは、まさに「恐ろしき哉、浅ましき哉 人類よ、猿の親類よ」そのものである。

 戦争経験者が「何があっても戦争をするな」という。長谷川信は、戦争は「民族間の憎悪の爆発」だという。これを制御するのは難しい。

 戦争は始めるのは容易だが、これを終わらせるのは至難だ。軍人は敗戦に最後まで抵抗した。かつて下北沢タウンホールで海軍第十四期飛行予備学生の話を聞いた。その一人阿山剛男さんは、天山に乗って空から「徹底抗戦」を呼びかけるビラを撒いたと証言していた。

 始まった戦争は終わらせられない、無益に時間が過ぎ、その間に市民はころころ死んでいく。軍人はそんなのにかまわない。しまいには「一億玉砕」とまで言い出す。

(三)
 大事なことは武器よりも交渉だ。日本には大きな武器があるように思う。
「二度も被爆したこのおれたちに核を向けると言うのか!」
 これは言葉の武器となるのではないかと、素人の私は想像するのである。これは核の傘から抜けてようやく意味を持つ。

戦争経験を聴く最後の会
日にち8月2日(土) 13時30分から16時まで
 証言者は候補者は何人かいる。が、もしも体験者でこういう人がいる。
 という場合にはぜひご紹介を。が、我等はボランティア団体、謝礼は薄謝程度となることをご了解ください。

 



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2025年04月21日

下北沢X物語(5162)―果てもない因縁の旅―

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(一)歌手の寺尾紗穂さんが先月26日に「浅間温泉望郷の歌」をリリースされた。一月に満たないのにもう2000回以上も聴かれている。彼女のファンの金子忠政さんが私にコメントを下さった。歌のエピソードが載っている『鉛筆部隊と特攻隊』を手に入れて読みとても感銘を受けたとのこと。さらにフェィスブック・コメントで「浅間温泉の香蘭荘には、まだ彼の詩が記された案内板?は残っているのでしょうか?」との質問。「コメントありがとうございます。香蘭荘と文学者の関わりについてはうすうす聞いて知ってはいましたが残念ながら深く調べたことはありません。ご存じでしたらご教示ください。」と返したところ、寺尾紗穂さんの「浅間温泉滞在記」の「香蘭荘再訪」の記事を教えていただいた。彼女は香蘭荘が定宿であったこと。そしてもう一つ、何と堀田善衛がこの宿を定宿にしていたことだ。

寺尾紗穂さんの「香蘭荘再訪」の記事は、2022年1月4日とある。この冒頭である。

 高速バスで松本に着き、松本市図書館を目指す。風の民俗、ぼんぼん、青山様、三才山関連の資料、特攻隊や疎開児童の資料をコピーする。きむらけんという人の本が一階の地元の戦史コーナーに並んでいて、浅間温泉に特攻隊が滞在していたことを知る。

 「浅間温泉望郷の歌」は、これがきっかけとなって彼女は知ったと判った。そして彼女は、22年暮れに歌を紹介するコンサートを開いた。

(二)
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 このときは浅間温泉目之湯に泊まった。折良く地元の古老が来られた。
「この浅間には特攻機がよく飛来してきました、学童たちが一生懸命に手を振って見送っていました。中に大きな赤いものを持ち出して振っているのがいましたよ」

古老の話を聞いて鮮明な画像が浮かんできた。それは小柳の湯に疎開していた世田谷山崎国民学校学童である。「大きな赤いもの」で直感した。

 私は、帰京してから山崎の疎開学童だった長谷川直樹さんに連絡をした。
「浅間温泉の古老が言っていたんですよ。疎開学童の一人が大きな赤いものを振って飛来してきた特攻機を見送った、それは斎藤昌康さんですよね!」
「そうそうそれは間違いない、まっかな赤い毛布を持ち出して振っていましたから」
「その話を直接、斎藤昌康さんに聞いてみたいのですよ。連絡先を教えてくれますか」 これがきっかけとなってその当の本人から取材ができた。
 
 昨日は、成城学園を巡る文学散歩を実施した。帰りしな「一宮菴」に立ち寄って皆でお茶を飲んだ。元斎藤寅次郎監督の旧居を利用した料理屋である。ここに次男の昌康さんは住んでおられる。
 「一宮菴」は三男の厚生さんのお孫さんと結婚されたのが女将さんだ。彼女は寅次郎監督のことをよく知っていた。
「『東京五人男』では疎開から帰ってきた学童が電車で降りてくる場面がありますね。案内放送は『桜ヶ丘』というのですが、場面が変わって駅舎が出て来るのですね、何のことはない『梅丘』ですよね」
「そうそうあれは進駐軍認可映画第一号ですね、だからみんな映画撮影には進駐軍の係官が付き添っていたのですよ…」と女将さん。初めて聞く話だ。

(三)
 果てもない因縁の旅をしている。この発端はブログ開設にある、膨大な言葉をブログを通して放ってきた。「東京荏原都市物語資料館」、二十四時間稼働している資料館だ、これを閲覧した人が、言葉を返してくる、そこから物語が生まれる。ネットの海に漂っている館である、
 開館しての緊張は常に、いつなんどき新たな情報が飛び込んでくるかもしれないからだ。(写真は、『一宮庵』での記念撮影。藤は成瀬巳喜男監督旧居の玄関)



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2025年04月18日

下北沢X物語(5161)―下北沢の堀田善衛補遺―

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(一)下北沢のアパートに居るときだ、「××!××!いるか!あけろ!」とドアを叩くものがいる。身繕いをしようとしたときに「猿股をはいていないことに気づいた」とたんに若者は小学校に入る前初めて作った歌を思い出した「冬ノ日ニ雨戸クリアゲ小便スレバ、チンポコチジンデチョーチンノゴトシ」と。ドアを開けると公安だった、要人の来日に備え予防拘禁するために若者を捕えに来たのだ。要人は満洲国皇帝溥儀である。当方、歴史記録を当たれば堀田の在住期日が分かると思った。それは昭和十年四月だ。が、まだ在京していない?この間違いは、猪熊雄治先生に指摘された、再来日した昭和十五年五月だった。戦争前だ、この頃下北沢には文士や詩人志望の若者が当地にたむろしていた。1940年、この時代、詩が若者に信じられていた。

 先だって、堀田善衛研究者の野村剛氏から分厚い『堀田善衛研究論集』-世界を見据えた文学と思想-(2024年刊)を送っていただいた。発刊されたばかりの論集だ。 
氏は、次の論題で書いておられる。
「北国の小さな港町」をめぐる断層ー堀田善衛を育んだ伏木の町を歩くー

 論集の執筆者紹介で「堀田善衛の会事務局/地域文化研究」とある。土地を歩いて地域特有の匂いを嗅ぎ取る、そういうことをされているようだ。

 論考の最後の言葉は素晴らしい。

 鈍色の日本海と伏木の町を渡る風こそ、堀田の心証にある伏木として描くべきとの声を聞きつつ、この稿を終わりたい。

(二)
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 下北沢のアパートのことは、『若き日の詩人たちの肖像』上(集英社文庫 2019年刊)第二部の冒頭に出てくる。

 ふと目覚めて、窓のカーテンの隙間からさして来る薄明かりに。まだ一時間くらいはいいだろうと思って、ふたたび目を瞑り、昨夜の奇妙な楽しみを思い出していた。

 
 推測するに1945年5月の朝のことだ。先の「猿股をはいていないことに気づいた」に関連する。ゆうべ女性といちゃついていたことを暗示する。

 これは隣室に住む『朝鮮の大金持ちのぼっちゃんで、M大学のレスリングの選手をしている力持ち』と関連してくる。その彼は銀座や新宿でとてももてた。口ぐせのように言うのが「コノオンナカシタルカ」だ、どうやらこの彼の好意の恩恵にあずかっていたらしい。

 言えば下北沢の町のアパートには変な男もいる。その彼の恩恵にあずかって心地よい気分でいるところに
「××!××!いるか!あけろ!」との声、
公安警察である。

(三)
 『若き日の詩人たちの肖像』は、下北沢を渡る風の中で、詩人志望の彼の当地でどのように生きたか。まさにその青春の一頁である。

「ここには面白いアパートがあっていろんな連中が住んでいるんだ。そんな中、隣室に住むお坊ちゃんが自分の女を貸してくれて昨夜はいちゃついたんだ、そんな所に公安が来てパクられてしまったんだ」



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2025年04月17日

下北沢X物語(5160)―バラ屋敷の女主人はいずこに?―

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(一)日々歩かない日はない、コースは幾通りかある、頻繁に行くところもあるが、たまに行くところもある。数日前後者の一つ、根の道を歩いた。桜が終わり新緑が萌え出してきた。歩くのには最適な季節である、道は国分寺崖線左岸、丸子川に沿った道だ。帰るにはいずれ崖を登って行くことになる。適当なところで左に曲がると急坂になる。近くのグランドから嬌声が聞こえてくる、お嬢さん学校 田園調布雙葉学園 がすぐ近くにある。さらに坂を上っていくとふと既視感に囚われた。そうだここを行くと急な崖が上から転がってくるはずだ、視線を前に向けたとたん目の前にのけぞるような坂が立ち塞がった、その瞬間に薔薇の生け垣を思い出した。ここの右手に素晴らしい薔薇の生け垣があった。そこの邸の奥さんがとびっきりの美人だった。ああ、そこに違いなかった。と思って左に目をやった。 「あっ!」

 日々逍遙しているのは荏原、目黒、世田谷、大田だ。土地需要が高い、取引は旺盛である。樹木の多い家が忽然と更地になる、庭木などはほとんどが伐採だ、マンションが建ったり、新築家屋ができたりする。前者では介護つき老人ホームも少なくない。新聞広告ではチラシがよく入っている。いい値段である。よほどの金持ちでないと入れない。格差社会の一端が見て取れる。

 新築などは軽く一億を超す。もう一帯はセレブしか住めない。お隣中国では不動産バブルがはじけて建築中のマンションが建たないと。
 日本でも建築計画は提示されるが着手が遅い。建設労働者が不足している。家屋解体をする場合は大概が中東系の外国人だ。

(二)
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 くだんのバラ屋敷だ。
 あれは三四年前か、そこを通りかかるとバラが見事だった。垣根のバラは見事だった。丹精にこめて作ったことがよく分かる。
「見事ですねえ、すばらしい!」
「ありがとうございます」
「これって手入れが大変ですね、剪定したり、肥料をやったり、咲かせるまでが大変ですよね」
「たしかにそうでございますけど楽しみなんですね、手入れした分、花は正直ですから美しく咲いてくれるんですね」
「バラは奥さんの優しさにこたえたんですね」
「あら、そう言っていただけると嬉しいですわ、宅の宅の裏にも咲かせているのでございますよ。ごらんになりますか」
 言葉のやりとりで人は分かってくる。四大出の奥さんだ。仏文でも出た人ではないかと思った。その奥さん、裏木戸を開けて案内してくれた。
 そこにあったのは庭ではなく、ガーデンだった。色とりどりの花が咲いている。
「みごとですね!」
「そうでもないのでございますよ」
 ゴールデンレトリバーを二匹連れている女の人に会うときがある。一日の大半を犬と暮らしているのだと想像がつく。庭のバラから推測すると彼女は一年中バラと付き合っていたことが分かる。バラとともに人生を送った人だ。
「ふと思ったんですけどね、大学では語学専攻されたのでは」
「いえ文学でございますのよ」
「じゃあ現代文学ですか」
「いえ、『狭衣物語』でございます」

(三)
横浜バラ園
 優雅な人だった。私は、更地になった跡地を見て思った。
 ここに一人の文学好きの女性がいて、日々バラの手入れをしていた。
 が、その人はいなくなった。
 独身ではなく結婚をしておられた。ご主人とここに住んでいた。
 跡継ぎがいなかったのだろうか、独り身になった彼女は老人ホームに入ったのかもしれない。
(写真、田園調布の急さか、バラ園邸の更地、横浜公園のバラ)


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2025年04月15日

下北沢X物語(5159)―騎兵第8軍将校夫人の知性―

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(一)「本当にね、もうもうびっくり、まるでみんなお人形さん。だってね、髪は金髪、目は青色、お顔も鼻とかが尖っていてね、かわいいスカート穿いていてね、その子が目の前で拍手したり、笑ったりするんだから何かね、違う星に来たみたいだった」と。ミドリ楽団の団員がワシントンハイツのアメリカンスクールを訪れたときの印象である。見るもの皆驚くものばかり、芝生の上に洋館が建っていた、庭では犬が戯れ、小さな子が遊んでいる。まったくの別世界だった。

 戦後、日本はアメリカ文化に席巻された。人々のファッション、生活のスタイル、映画や音楽、どれひとつとって憧れないものはない。日本人の思考や考え方も破壊してしまうほどの大きな影響力があった。

「学童疎開から帰ってきて授業が始まったのは秋でしたね(1947)教室に先生が入って来ました。そのときにびっくりしました。アメリカ軍払い下げのシャツかなんかを身につけていました。先生は、教壇に立つと、『グッドモーニング』といい、黒板に白墨で大きく字を書いたのです。『START DASH』と。仰天しましたよ、ごちごちの海軍出の先生で、疎開生活では海軍の五分前精神を叩きこまれました。『日本は風船爆弾を考案し、実際に飛ばし、アメリカに被害を与えている。発想の柔軟性というか何とか敵に勝とうと風船爆弾を考えた、すばらしい、神国日本は勝つ、疑いのないことだ。そういっていた先生が、もうすっかりアメリカ風なんですよ。私たちはあっけにとられました……」
 山崎小の小市泰子さんの話だ。

(二)
騎兵第八軍婦人クラブ主催の音楽会は終わった。代表のエミリーさんが挨拶をされた。

「今日は皆さんの歌を聴いて心が震えるような感動を覚えました。私たちはあらかじめ聞かされておりました。団員の六年生は、戦争が激しくなってこの東京を離れ田舎に疎開されたそうですね、お父さんやお母さんがいなくてとてもさびしい思いをされたと。そんな中で楽器を手放すことなく一生懸命練習したのですね、そして今にある……」

 この話を聴いて六年生は「真正寺学寮歌」の一節、「父様母様これこのとおり」を思い起こしていた。何人かはハンカチで涙をそっと拭いていた。そのエミリーさんのスピーチは続く。

「ここにいる私たちクラブ員の多くには子どもがいます。可愛い子どもを手放すことがどんなに悲しく辛いことかよく知っております。そういうあなたたちが今日は音楽会を開いてくださいました。最後はドボルザークの『新世界』でした。この歌を聴いて思ったことがございます。ともすれば人間は自分中心だと思いがちです、しかし、あなた方の歌を聴いてこの日本には私たちとは異なった文化があることを気づきました。私たちのアメリカとこの日本は不幸なことに敵対し戦争をしました。共に大勢の犠牲者を出して戦争はやっと終わりました。アメリカと日本は友好国になりました。これからが大事ですね、ただ単に手を結ぶというのではなくお互いを理解してこそ平和は保たれます。私たちは今回、あなた方の演奏を通して日本を、日本人を知ることができました。あなた方は、あなた方の国は立派な文化を持っておられると知りました。浜舘先生は、『音楽に国境はない』とおっしゃっているそうですが、本当に今日はそのことを知りました。皆さんには、この婦人クラブを代表して、私、エミリーが感謝の言葉を申し述べさせていただきました。サンキュウ…」

(三)
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 今朝の新聞は、一面トップで「日本人過去最大89万人減」と報道している。「14年連続」とある、「少子化」は止まる気配もない。
 生まれてきた子どの自殺率は過去最高だと。我等の日本国は希望を失いつつある。まず、子を育て上げることが大変である、学校は金が掛かる、ところが日本人の給料は下がり続けている。非正規雇用が増えていることも一因だ。
 生活に困窮してきている人も増えている、子どもに腹一杯ご飯を食べさせられなくなってきている。一番大きな問題は格差の拡大だ。

 関税をふっかけてきたアメリカと交渉が始まるとのこと。予想できることは農産物の関税を下げること、基地費用の上乗せ、さらには防衛費を三パーセントに増やし、武器を買えと言ってくる可能性がある。しかし、防衛費二パーセントですら財政をゆがめている。三パーセントはほとんど無理だ。
 もうエミリーさんみたいな人はいない。やはり大事なのはできなきとはできないと言うべきだ。

 同じ新聞では、防衛相が、「東・南シナ海 朝鮮半島 一体の戦域」構想をぶちあげた。根幹は「中国への対抗を念頭に」とある。対抗というのは敵対だ、敵を作って味方煽る、プロパガンダの基本だ。
 トランプが引き起こした関税問題は、多国間で対応していく必要がある。中国とは敵対よりも対話が必要だ。こんな最中にあってなぜあえて「戦域」を提示するのか。
いまだに神国日本を信奉している人たちがいる。
(写真は、B-29のエンジン、B-29が武蔵野に落とした爆弾)


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2025年04月14日

下北沢X物語(5158)―騎兵第8軍将校夫人とトランプの知性―

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(一)「今の気持ちを言い表わせば不安につきる。きょうあすの暮らしにとどまらず、将来に対する不安も大きい」と天声人語の筆者は記していた。世界中の人々が思っていることだ、トランプ大統領の口舌攻撃に皆すっかり嫌気がさしている。彼の言葉の汚さには呆れる。アフリカ諸国からの移民について、「肥溜めみたいな国からなんであんなにやってくるんだ」と発言したという。気品などこれっぽっちもない。私はミドリ楽団を通してアメリカを学んだ。この物語にはトランプとは真反対の人物がいた。騎兵第8軍将校夫人メアリー女史である。

 もう十数年、ひたすら歩き続けてきた。何が変わったか、降雨だ、雨の降り方が尋常ではなくなった。もう熱帯のスコールと同じだ。雨は降るは悠長だ、雨は注ぐ、それと炎暑が絶え難くなった。農作物は高温が原因で不作など常日頃地球温暖化を肌で感じている。ところがトランプは、米政府が発表する気候変動を「信じない」と断罪、はたまた名称の強引な変更だ、メキシコ湾をアメリカ湾にした従わないメディアを出禁にしたと。

BBCニュースジャパンは、2025年2月26日に次のように報じている。

トランプ大統領は就任直後、政府の文書でメキシコ湾の名称を「アメリカ湾」に変更することを命じた。これについてAP通信が、記事の表記などを定めた「スタイルブック」で名称を変更しないと発表したところ、大統領記者会見などへの取材を禁じられた。

この件に関連して、4月9日
「米裁判所 AP通信への取材禁止は憲法違反 政府に仮差し止め命令」が出たと。
身勝手に地名を変えてそれを使えとするのは独裁そのものだ。

(二)
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 ミドリ楽団は、方々から出演依頼があって、ホテルや劇場に赴いた。
『騎兵第八軍婦人クラブ』からも依頼があった。
 これが開催されたのはウェンライトホールである。これは今も銀座に残っている。(写真)

「東京に進駐しているのがアメリカの第八軍の第一騎兵師団なんだ、ほら君らも見かけただろう馬の頭を描いた肩章をつけている兵隊を、あれだね。その進駐軍の将校さんの奧さんたちの集まりなんだ」
 浜館菊雄先生は言った。
「じゃあ、女の人ばっかり?」
「うん、そうなんだ、マダムと言った方がいいのかな、分かりやすくいうとお屋敷の奧さんだな、だからお行儀よく振る舞う」
 学童たちは兵隊やアメリカンスクールの生徒は普段から目にしている。けれどもアメリカ人のマダムの集まりというのは見当がつかなかった。


小説上ではその出会いを次のように描いている。

「うん、お洋服のね、色が派手なの、部屋の椅子には女の人たちが座っていたの、その人たちが立ち上がって拍手をしてくれたの、みんな色のきれいなお洋服を着ているの、青とか赤とか紫とか、まるでね映画を見ているよう……」
 横浜の「オクタゴン劇場」で見た映画の記憶が美奈にはある。女優さんがフリルのついたドレスを着ていた。ところが今日出会ったのは生身の人間だった。
「お母さん、天然色なんだよ。真っ赤なドレスを着た銀髪の女の人が『ウエルカム』といってみんなに握手をしてきたの、それがおかしいんだ。帰りのバスでね、『おれ、あのときさ、つい目をそらしちゃったよ。だってね、おっぱいが丸見えだもん』って男の子が言っていたの…」
「うふふふ、胸のところが出ていたのね…」と母。
「そうそうはだけていて、男の子が恥ずかしくなったと言っていたけど女の子だってね、そうだよ。慣れていないものね、ドレスだってね、ひらひらがついていたり、切り込みがあったりするしね、それと首飾りに、大きな指輪…それとね匂いね、あれが凄かった」
「香水のことね?」
「そうそう香水、みんなつけていてそれがぷぅんと匂ってくる」


 将校夫人との出会いはショッキングだった。ドレス、着飾った宝飾類、それだけではない、立ち居振る舞いが違う。
「あんなこと日本人にできないわね、絶えず笑顔で接するのよね。気品なんか考えたこともなかったが、私はね、ああ、これが気品だと思ったの」と、これは学童。

(三)
 トランプには気品はない、感じるのはさもしさだ、いぎたない、あんな者をどうしてアメリカ人は選んだのか。
 アメリカが全体に貧しくなった、どうにかして変革しなくてはらぬ。やはり貧すれば鈍する。やくざの親玉みたいなものを選ばないと変革はできない。そういう土壌が醸成されてきて今に至ったのか。
 
 騎兵第八軍婦人クラブのメアリーさんに学童は接するが、知性あふれる彼女の言動に楽団員は感動した。



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2025年04月12日

下北沢X物語(5157)―『ミドリ楽団』を米軍はなぜ厚遇したのか―

浜館菊雄先生
(一)かつて戦争経験を聴く会を継続して開いていた、学徒出陣組からも聞いた、印象深く覚えているのは、日本は物量ではアメリカに劣るが精神力では勝っていたとの証言だ、ところが、山本七平は「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヶ条」の中の五番目で「精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)」と挙げていた。負けたことで分かったのは圧倒的な物量の差であった。財力だけではない。山本は十九番目に「日本は人命を粗末にし、米国は大切にした」と。いわゆる特攻はその典型だ。敗戦で価値観が激変した「ミドリ楽団」は横浜オクタゴンシアターで演奏するがその頭上には「THE DAIZAWA SCHOOL CHILDREN’S BAND」という大きな横断幕が掲げられている。

 戦後のことだ『ミドリ楽団』の評判が伝わるに連れ、出演依頼の要望が数多く寄せられた。楽団は都内各所、時には横浜や埼玉の米軍キャンプへ慰問に出かけた。
 午後になると代沢小に米軍のバスが迎えにきた、そのステップをおそろいの制服をまとった団員が軽やかに上っていく。
「あれは、かっこよかったですね、憧れだったんだけど、入れてくれないんですよ」
 入団するにはテストがあった。音感の確かな子でないと入れない。が、力があっても親が入れてくれない。

「日本はアメリカに負けたんだよ、聞くところによると『ミドリ楽団』は米兵への慰問をしているそうだ。負けた国にそんなことをするのは許せない、どれだけの日本人がアメリカの空襲で亡くなったか、広島長崎への原爆投下では何十万と日本人が犠牲になっているんだ。そんなことを考えたら許せることではない」
 強く親が反対する場合もあった。

(二)
ミドリ楽団:第一回アニーパイル劇場公演1948.9.8
 『ミドリ楽団』送迎するバスのことだ。
 先に、昭和二十五年(1950)十月十七日の『毎日小学生新聞』の記事を紹介した。この中で慰問の回数が「百三十回」にも達していたとあった。これは楽団に対する出演要請がいかに多かったかを表わしている数字である。ひっぱりだこという言葉があるがそれがまさに当てはまる回数である。

 代沢小学校に頻繁に米軍のバスが迎えに来ていた。
「あのバスは凄いですよ、青山通り電車道を行くのですが、交差点にMPが立っていて、交通整理をしているんですよ。ぼくらのバスが来ると他の車を止めて、腕をぐるぐる回して走れの合図を送ってくるんですよ。それで銀座までノンストップで走っていきましたからね」
 「ミドリ楽団」はどこへ行ってもフリーパスだった。米軍キャンプ、アメリカンスクール、そして劇場などに行くときは優先的に通してくれた。

 なぜ「ミドリ楽団」はアメリカ軍に厚遇されたのか。『ミドリ楽団物語』でこれについて触れることはなかった。が、指導者の浜館先生はこう述べていた。

「あのさ、どうして君らが演奏する音楽にアメリカ人は感動するんだろう?」
「……………?」
 誰も応える者はいない。
「そうか質問が難しいか、例えば『峠の我が家』はみな感動していた。涙を流していたね、あれはどうして?」
「センセィ、やっぱりアメリカが懐かしいからなんじゃないですか」
「そうかきみらはそう思うのか、それはある、でもね、一つ言えば終わり方だよ、最後はどうだった?」
「どんぴしゃで揃っていた、あのときね俺は『おおって!』思った」
 団員の感想だ。
「うん、そうだ。そこだよ。終わりが揃っていたということは途中も揃っていたんだ。つまりはな、音が一つになって響いていたんだ、君らの楽器は一つ一つが小さい、ところがこれが合わさると大きな力となって響いてくる、音楽の力だ、これを君らが懸命に努力してきて高めたことがものをいったんだ」


代沢小の器楽演奏の歴史は古い。伝統を受け継いで来て今にある。

(三)
 トランプ大統領は、日米安保については不満を漏らしている。アメリカは日本を守るが日本は米国を守るわけではないと。双方に利益がないといけないとの考えだ。

 米軍はミドリ楽団を厚遇した。利益があるから歓迎をした。大きなものは兵士のストレス解消であろう。米本国から遠く離れた日本での勤務はストレスも大きかった。「峠の我が家」を聞いて兵士が涙を流したのも郷愁からだろう。
 朝鮮戦争は一九五〇(昭和25)年に始まる、これも兵士の精神に負荷を与えるものだったろう。

 「ミドリ楽団」は米軍には益があった。が、今の日本は米軍に益をもたらしていないのか。おれたちが守ってやっているからという考えでいるからアメリカは横柄な態度で我が物顔で日本に駐留しているのか?(アニーパイル劇場での公演、浜館菊雄先生)


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2025年04月11日

下北沢X物語(5156)―『ミドリ楽団物語』とアメリカの凋落―

スクリーンショット (6)
(一)トランプ関税が世界を揺るがしている。戦後80年、行き着く先にたどりついたとも言える、巨大な国アメリカの終焉である。その力は圧倒的だった。戦後の日本はアメリカ文化に席巻された。私は、2016年、「ミドリ楽団物語」-戦果を潜り抜けた児童音楽隊-を上梓した。学童たちがアメリカ文化に圧倒されるプロセスであった。アニーパイル劇場で『ミドリ楽団』は公演を行った。練習のために劇場に入る。すると肌も露わな女子団員が太ももを上げてのダンスに度肝を抜かれる。地下の食堂では手に持ちきれないほどのハンバーガーに目を丸くした。会場を埋め尽くした米国軍人が床を鳴らして演奏への感動を表わした。楽団団員の心は躍った。

 「ミドリ楽団」は、東京世田谷の代沢小学校で発足した器楽演奏をする児童楽団である。この楽団を指導してきたのは浜館菊雄先生である。活動は古い、器楽演奏クラブは、1939(昭和14)年4月に発足している。戦後になって「ミドリ楽団」と名を改め活動を行う。占領軍の病院、聖路加病院で米軍傷病兵への慰問演奏を行ったのが対外的活動の最初だった。

 彼らの活動を紹介する新聞記事がある。昭和二十五年(1950)十月十七日の『毎日小学生新聞』に載ったものだ。タイトルには「心をこめた演奏」とあり、続いて「傷ついた兵隊(へいたい)さんを慰める」とある。

 これは東京聖路加病院での慰問演奏のことを記事にしたものだ。

(二)
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 その新聞記事である。

きずついた国連軍の兵隊さんが、しずかにからだをなおしている、東京本所のアメリカ陸軍病院の劇場から、一昨十五日ごご、ラ・パロマやアメリカンメドレー、荒城の月などのうつくしいメロディーが流れました。これはいままでに小学生新聞紙上でたびたびお知らせした東京世田谷区代沢校のミドリがっそうだんのいもんえんそうでした。ミドリがっそうだんはいまから十年まえ学校をそかいしたころ、おんがくのはまだて先生を中心にうまれたのでした。年がかわり人がかわってもミドリ合奏団のなまえはうけつがれ、まいしゅうきまった日に、一生けんめいれんしゅうをしています。病院やアメリカン・スクールでえんそうしてアメリカのおじさんおともだちにもたくさんのファンができています。この日のいもんは、こうして外でえんそうをはじめてから百三十回目でした。がっきの中には、去る二月シヤトル市長ウイリアム・デヴィン氏などのアメリカ議員団のおじさんたちが日本にきたときにおくられた、ぴかぴかのシロフォンもありました。こころをこめた大ねっしんに、へいたいさんたちもすっかり元気をとりもどし、力いっぱいのはくしゅをおくっていました。

 『夢淡き東京』という歌謡曲がある。その一番だ。

 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛いガラス窓
  かすむは春の青空か あの屋根は
  かがやく聖路加か
  はるかに朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京


作詞はサトー・ハチロー、作曲は古関裕而である。世田谷代田に住まっていたときに作られたものだ。作られたのは昭和22年、戦災の被害がまだ各所に残っていた。が、歌は明るい、荒れた人々心を慰めるという意図は濃厚だ。
 聖路加病院が明るい夢のシンボルとなっているところが興味深い。
 音楽が人を勇気づける、音楽人である浜館はその信念を持っていた。子どもは音楽を通して成長すると。

(三)
 1950年の段階で慰問演奏の回数は130回に及んだ、いかにこの楽団に人気があったか分かる。その評判は駐留米軍の間に浸透していた。
 この活躍は、米国本土にも伝わった。アメリカシアトルの市長や議会議員が代沢小を訪れてこのミドリ楽団に新しい楽器をわざわざアメリカからやってきてこれを届けてくれた。
 いい時代だったと言える、資金が、財力が豊富であった。
 しかし、現今のアメリカは貧乏になった。
「このアメリカを食い物にしやがって富をかっさらっていることは許せない」
 トランプはいきり立って各国に高関税をかけることにした。これによって世界中が衝撃を受けた。大きな時代の節目を迎えている。(ミドリ楽団レコードジャケット)





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2025年04月10日

だから路面電車は生き返った 中田裕一著

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『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』(1999年)を私は発刊した。被爆三日後に広島電鉄が動きだした。この史実をこの度、広電宮島線の運転士として乗務していた中田裕一さんが4月18日に発刊された。史実調べで私にも取材調査があったことから寄贈があった。

 原爆投下時、当時の広島電鉄の電気課長が書き残した貴重な業務日誌・個人手帳の日記から、広島の路面電車の復旧を紐解いたものだ。当時の記録類を調べ上げての今回の発刊である。多くの市民が原爆で亡くなられたが、広島の電車復旧は絶望に陥った市民を勇気づけた。戦後80年、被爆の現実を探ることは大事だ。今になって思うと東京大空襲の無差別爆撃、その他全国都市をことごとく焼き払ったアメリカ軍、さらには広島・長崎への原爆投下。戦後、アメリカ文化に圧倒されたわが日本は、戦中の大量殺戮についてはあまり触れないで来たことを思う。
 戦後80年、今まさにトランプ関税が世界を揺るがしている。日米安保条約も鉄壁だと思っていたがそうではなくなった。これからはアメリカ一辺倒ではなく自立した外交が問われる、と同時に我々も問われるもする。
例えば沖縄における米軍飛行機の騒音問題は放置されたままだ。米軍は約束を守ることなく縦横に飛行を続けている。学童らが騒音によって授業が妨げられていると聞く。言うべきことを言っていかないと対米従属は終わらない。
(南々社刊 定価1500円)


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2025年04月09日

下北沢X物語(5155)―『浅間温泉望郷の歌』の歌詞分析―

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(一)歌は伝えである。何を訴えたかったのか?歌詞表現を分析してみた。まず言えることは表現全体に結構が整っていることだ。まず一点は、伝え手が明確に意識されていて平易さを心がけている。次に構成だ、分かり易く三段論法で思いが述べられることだ。第一段ではあなた方が恋しくてたまらないと女子学童への情愛を訴える、第二段は、私たちはあなた方の面影を宿した人形を乗せて特攻戦死をする。第三段は結論だ、死んだ後のことを率直に語る、「世界平和が来ましたならば」、我等の魂は心から愛しく思う日本をめざす、そして帰って行くところは決まっている。あなた方と共に暮らした想い出深い富貴之湯なのだと。

歌詞の意訳
アルプスの稜線が紅く染まって、この広い飛行場にはもう夕暮れが迫ってきている。
出撃が迫っていることから日々の飛行訓練はとても厳しい。それでも今日の飛行は無事終えることができた。機から降りて飛行服を脱ぐと土埃が舞う。そんなときに宿で待っているかわいらしいお人形のようなみなさんのことを思ったことだ。

 もう明日にも私たちは訓練に明け暮れたこの松本飛行場を飛び立っていく。そのときが思い浮かんでくる。颯爽と飛び立っていく愛機には皆さんが作ってくれたかわいいお人形を乗せている。その機で私たちは行きます前線へ

 私たちが突撃したならばきっと戦争が終わって世界平和が訪れていることだろう。その暁にはとても愛おしく恋しく思っているこの日本へ還って来たい。帰ればまっ先に浅間温泉を目指し、私は戻って行きたいあの想い出の富貴之湯へ


(二)
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 数日前のコメントに寄せられた質問だ。

 秋元佳子さんの音楽の才能と記憶力は驚くべきものですね。不思議なのは誰が作曲・作詞をしたのでしょうか?

 興味深い問い掛けだ。
歌は、巧妙に作られている。作詞者が皆に相談したとなると、
「先輩、我等のめざす常套語、轟沈や必沈は歌詞になくていいんですか?」
「相手は子どもなんだよ、そんな難しい漢語を使ってもわからんではないか。それとな一部は知っているかもしれないが、学童は特攻なるものはどんなものかよく分かっていないんだよ。『わたしゃ行きます〇〇へ』とぼかして歌えば、それなりに歌になるものだ……」
 壮行会までは間があった。学童たちも紙芝居を作ったり、寸劇の練習をしたりする時間はあった。隊員たちにも相談の時間があったはずだ。
 作詞者は少年飛行兵ではないだろう。「塵にまみれた飛行服脱げば」というリアルさは飛行経験を積んだものでないと出てこないセリフだ。

(三)
 2024年8月31日、「しんぶん赤旗」の記者が記事にしている。このとき問われて私は、こう答えている。「靖国ではなく子どもたちのいる『富貴之湯』へ帰りたいという願いや『世界平和』など当時としては類例のない発想です。反戦の思いがひそんでいます」と。

 この歌詞については、結構に心くばりがあること、あくまでも平易にといことを心がけている点、もうひとつは言葉へのこだわりがある点、武揚隊の隊員長谷川信作詞の可能性はあるように思われる。(了)
(写真は、猪苗代湖畔にある長谷川信碑、それと猪苗代湖)



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2025年04月08日

下北沢X物語(5154)―伝承され始めた『浅間温泉望郷の歌』― 

富貴之湯旅館
(一)はかないという言葉がある、むなしく消えていくさまをいう、私が連想するのは「墓ない」である、トピックとしては後の世に伝わらない墓石という意味、残るものは大筋であり、建前である。人々が望む勇士はかわい子ちゃんを愛おしがったり、平和を望んだりしてはならなのである。が、「浅間温泉望郷の歌」は、それを歌っている、慕情であり、平和である。それは生きていれば普通に希求するものなのである。が、戦争になればこれらは否定される。強者、勇者像が創りあげられる。それでもかわいい女子を慕ったり平和を希求したりした特攻兵はいた。これを伝承する歌がこの歌である、『浅間温泉望郷の歌』は、ネットには自発信だけの項目が並んでいたが歌のリリース以来、流れは変わった寺尾紗穂さんの歌がほとんどになった。今、密やかな伝承が全国に伝わりつつある。ここではつぶさに反響が見られる。

 『浅間温泉望郷の歌』が世に出るまでは多くのプロセスがあった。きっかけは桜まつりにおける地図配りだ。

 この時に知り合ったのが作曲家の明石隼太さんである。当初は、代沢国民学校の学寮歌の話をしていた。1945年4月、代沢校は再疎開をする。浅間では学校集団としては代沢中心主義でいられた。ところが各村々に再疎開すると学童らは少数派となった。数に勝る村の子に圧倒される。それでも疎開っ子は勉強がよくできる、ちゃんと靴を履いて登校する。そういう様子が村の子の標的となった。彼らの排斥運動に学童は嫌気をさして閉じこもりがちになった。そんなときに学童を勇気づけようと新しい楽曲を創り、学童に広めた。それが浜館菊雄先生であり、柳内達雄先生であった。

 疎外された学童を慰めようと二人の先生が歌を創った。これが村の学童の心を席巻したのである。新曲は定着した、学校への行き帰りに歌った、これを唱和したのは村の子達だ。

みんなあかるいわたしもぼくも……

 歌は都会的自由に満ちていた。これが学童の心を捉えて離さなかった。
戦時における都会音楽文化の浸透、明石さんとはこういうことを議論して知り合った。

(二)
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 『浅間遠浅望郷の歌』、遥か遠くの時代の歌曲を、秋元佳子さんは記憶に蓄えていた。すぐには信じられなかったが、彼女に会ったときに歌ってもらった。歌詞は正確であり、歌の抑揚もしっかりとしていた。私はそのときICレコーダーを持参していた。これで録音をした。
「これを再現できないか?」
 このときに明石隼太さんの名が浮かんだ。歌が再現できないかと打診してみると色よい返事があった。それで音源をメールで送ったところ、数日後にその再現された曲がたちまちに戻ってきた。

 そういえば思い出した。彼はこの歌を自ら弾いて、歌ってくれた。このときにNHKがニュースの取材に来た。それで2015年5月23日、8時のNHKニュースで流された。そのときの写真を掲げたものである。

 ニュースは短いものだ。ゆえに歌のいわれまでは踏み込まない。ただ単に事実を報道しただけである。
 戦争経験を聴く会を、下北沢都民教会で開いたときのことである。このときに歌を覚えていた秋元佳子さんもインタビューに答えていた。

(三)
 『浅間遠浅望郷の歌』はテレビニュースで広まるはずだったが、そうはならなかった。が、寺尾紗穂さんによるこの楽曲のリリースは反響を呼び始めている。

ネット検索すると次の記事が引っかかった。
「声なき者の声を歌う、寺尾紗穂ソロコンサート 」

「浅間温泉望郷の歌」は、浅間温泉と特攻隊との関わりから生まれた曲。
出撃前の特攻機の改造を松本飛行場で行うことになったことで、当時、浅間温泉に疎開していた世田谷区の児童たちとの交流が生まれ、疎開児童のひとりだった女性が曲と歌詞を記憶してくれていたおかげで、現代に語り継ぐことができるようになったとのこと。
二十歳前後で散っていった特攻兵たちが何を見て、何を思い、最期の時を迎えていったのか、私たちが知るすべはない。それでもこうして彼らが間違いなく存在していたことを語り継ぎ、時間を超えてまた交流をもたらしてくれる人がいて、場所がある。少し前に読んだ『戦争ミュージアム』の内容ともリンクして、「記憶」の継承が、多くの人たちの意志と地道な活動によって成立していることを改めて実感した。
「戦争はいけないね」と話して終わりにはとどまらない、また別のベクトルでの平和への関わり方というものが、確かにそこにある。


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2025年04月06日

下北沢X物語(5153)―復活『浅間温泉望郷の歌』寺尾紗穂 2―

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(一)情報の海には巨大な渦が巻いている。これが回転運動をしている。表面に浮かんでいたものも徐々に渦に巻き込まれ、奥深い底に沈んでいく。人間の一つ一つの営為などは底に沈んでしまい消えていく。「浅間温泉望郷の歌」は1945年3月30日に学童たちの前で歌われた。数十秒のことだった。終わったとたんに消えていく。これを聞いていた一人の女子が歌を記憶した。どうでもいいものだったら忘れてしまう。が、彼女には忘れ難い歌だった。なぜなのか、一つは自分たちのことを熱く歌っている、「私達の身代わりであるお人形を乗せて出撃していきたい」と歌っていた。二つ目は、世界平和が来たら、この自分たちがいる所に帰ってきたいと。

 時代には時代の空気感というものがある。この時は戦争中だった。学童たちは、戦意を鼓舞する歌を歌わされていた。ところがこの歌はそれとは違っていた。それだけに彼女は印象に残った。お別れの歌であったからでもあろう。

 他の学童たちの証言によるとこの歌は学童の中で流行った。しばらくは生徒たちの間で伝承されていた。

 東大原国民学校は四月には伊那に疎開する。秋元佳子さんは、座光寺で生活を送ったという。ここでもよく彼女は歌っていた。

「聞いてくださいよ。十一月にようやっと帰れるようになったのです。でも毎朝、『勝利の日まで』を歌わされたんですよ」
 彼女は歌好きだ、率先して歌っていたようだ。

(二)
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 浅間温泉にやってきた特攻兵はしばらく当地に滞在して、そして飛び立っていった。それぞれ個別の旅館では学童と別れる会があった。彼らの何人もが言っていたのは「靖国に会いにきてくれ」と言った。
 同級生の慰問を受けた誠第三十一飛行隊の飯沼芳雄伍長は友人たちにこう言い置いた。

今度会ふときは
 靖国の花の下


 特攻兵全般の思いである、自分が死んで亡くなったら靖国神社に咲く桜の花びらになるのだと、しかし歌では帰りゃまっ先富貴之湯へ、自分たちが泊まって学童たちと一緒に過ごした宿に帰ってくると。

 この歌には学童への思慕の念が強く歌われている。とくには女子である。白いマフラーを巻いた地方の航空養成所を出たあんちゃんたちには彼女らはまぶしかった。そういう思いが率直に歌に歌われている。

(三)
 昨日、アップした記事にはコメントが寄せられた。

 秋元佳子さんの音楽の才能と記憶力は驚くべきものですね。不思議なのは誰が作曲・作詞をしたのでしょうか?

 特攻兵たちが浅間を去るにあたって歌を創った。歌詞内容を吟味すると反戦的でもある。ここに何かの秘密があるのではないか。作詞者を考えるヒントになる。
(写真:篠ノ井線から北アルプス。台湾出撃特攻を寺尾紗穂さんに寄贈したとき。浅間温泉)





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2025年04月05日

下北沢X物語(5152)―復活『浅間温泉望郷の歌』寺尾紗穂―

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(一)この歌を私は「捨て歌」だと述べている。捨てられて消え去る運命にあったからだ。が、この歌、偶然にも生き残った。そしてこれが寺尾紗穂さんによってリリースされた。いきさつはこうである、私は二○一二年『鉛筆部隊と特攻隊』を著した。この取材過程で歌に出会った。なぜ捨て歌か、それは一晩限りで消え果てる運命にあったからだ。時は80年前にさかのぼる。1945年3月30日である。この日浅間温泉富貴之湯の大広間で特別攻撃隊を送る壮行会が開かれた。宿には東大原(現下北沢小)国民学校の学童が疎開していた。この学童の前で隊員が歌ったのが『浅間温泉望郷の歌』だ。四十日間の滞在の感謝を意をこめた心づくしの歌だ、特攻出撃すれば一晩で消えていく運命にあった。ところがこれを記憶にとどめていた人がいた。

 思い出すのは2012年8月15日、終戦記念日に市立松本博物館で講演を行った。「松本にやってきた特攻隊ー浅間温泉の疎開学童とふれ合った」という題だ。新たなる発見ということで新聞・テレビなどマスコミも取材に来た。

 終戦記念日は平和を考える機会である。
「今回、著作執筆の過程で埋もれていた歌があることを知りました。これには特攻隊員が熱く平和を歌っていたことです。最後のところで彼らは『世界平和が来ましたならばいとし懐かし日の本へ、帰りゃまっ先富貴之湯へと歌っています。特攻で死にゆく命が、熱く平和願っていた、松本発の平和として発信できると思います』と述べた。しかしその私の思いは取り上げられることもなく肩透かしを食ってしまった。

(二)
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 歌を覚えていたのは秋元佳子さんだ。当時国民学校五年生だった。二日ほど前電話すると「もう91歳ですよ!」と。
 しかし、今考えるとよくも彼女に出会ったものだと思う。偶然の積み重なりの果てにとうとうというのか、ついに彼女に出会った。

 歌のタイトルは、「浅間温泉望郷の歌」である。名前を付けたのは私である。歌の名前は無かった。題名が無いと伝わらない。歌の内容からこの名を付けたものだ。ただタイトルとしては真っ当過ぎるとの思いがあった。「浅間温泉望郷小唄」というのも一つの案としてあった。寺尾紗穂さんに聞いてみた。

「この歌の特異な発見のされ方を思うと、それらしいタイトルでプロの作家が生み出したかのように一般化しようとするよりは、現状のままのほうが、何だろう?と興味を惹くのでは、という気もします。」
 音楽家らしい、説得力のある意見だと思った。タイトルの変更はしないことにした。

(三)
 寺尾紗穂さんは「特異な発見」と言われたが、まさにそうである。言えばここに物語が詰まっているのである。

 簡略に説明ができない。

 人の記憶に埋もれていた歌があった。それは1945年3月30日に歌われた歌だ。
秋元さん、歌詞も節も覚えていると言われた。驚きだった。
(写真は浅間温泉望郷の歌を歌う寺尾紗穂さん、画像に写っているのは秋元佳子さん)


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2025年04月03日

下北沢X物語(5151)―桜まつり地図くばり2―

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(一)時が経つのは恐ろしい、現行、配布地図は、9版である。累計発行枚数は何と9万部に達している。よく作り、よく配ってきたと思う。時に人が声を掛けてくる「新しい版ですか?」と。旧版の存在を知っている人だ。初版発行2006年12月だ。かれこれ12年前である。この間の変化は大きい。感じることは景色の平板化であり、五感の希薄化である。人もまた変わった。とくに感じることは町場から古老がいなくなったことだ。地図を配っていると古老は現れて、昔話をひとくさり、この川には水車があってな、こっとんかったんと。「えっ!」と思ったことがあった。しかし、気づいてみると自身が古老になっていた。この代沢校、1944年8月12日夜、学童は提灯に案内されて下北沢駅へ、悲しい悲しい疎開へと旅だっていったのです、それは鉛筆部隊……昔話だ。

 地図くばりでは多くの人に出会った。
「お前たち、素晴らしい地図を作った、しかしな、これ以上やるな。なぜなら同人誌級になってしまうからな」
 確かにそうだ、改版する度に新たに旧居マークを増やしていった。精選という考えはなく機械的にマークしてきた。

 今はどうか、最近では堀田善衛の居住を知った。下北沢では3箇所住んでいた。一箇所は分かっている。文化集宅である。帝国石油北沢寮があった。近年まであったと思われる。彼の書いた『若き日の詩人たちの肖像』は記念碑的な著作だ、詩人をめざしていた頃の彷徨が描かれている。下北沢は詩歌の町、その片鱗に彼が身を寄せていたことは興味深いことだ。詩人をめざしていた青年が多くいたことは素晴らしい。

(二)
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 桜見学で透り掛かる人も平板化した。かつては雑多な人が通った。霊媒師などはその典型だ。地図を一目見たとたんに陰陽の地場を語った。
「ここ下北沢2号踏切の辺りは谷になっているんだ。あそこは霊気が強いよ」
「踏切地蔵がある谷でしょう、踏切では何人も死んでいるし、あの谷があぶないんですよね、鎌倉通りを坂で下るでしょう。底まで行くとまた上り、ノーブレーキで坂をすっ飛ばすと3号踏切までくる。来たところで代田側からきた上り電車にぶつかってしまった。そういう子たちの霊を弔っているのがあの踏切地蔵……」と私。
 もう過去の会話だ、今、旧下北沢3号踏切から世田谷代田にかけては下北線路街となっている、ずらりとお店がならんでいる。だれも気づかないが往事と同じ勾配、25パーミルの線路敷設時と同じ坂が世田谷代田駅まで続いている。
 
 ここを砂利運搬車が下るとき砂利全体の重みが軌道にかかって、車輪がギャギュギョと啼いた。
「きむらさんの使った擬音語、まさにそうだったよ」
 亡くなった黄金井さんが言っていた。
「ここの坂でよく急ブレーキが掛かったのですよ。キィキィキィと荒れ聞くと身の毛がよだちました。自殺があったり、事故があったりしてね」
 線路際の奥さんが話していた。今は、線路街を行き交う人の足音がするだけだ。

(三)
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地図の今後について
1,三軒茶屋文士町文化地図
 初版は、2023年3月31日「世田谷まちづくりファンド」の助成を受けて作成した。順次、新たな情報が集まりつつある。
 我等にとっては隣の領域である。この地図作成は意味あることだ。版を重ねていくちに全体の文化地図が精度が高くできていく。
 ただ現在のところ下北沢と三軒茶屋二股掛けた事業となっている。
 希望としては版を受け継いでいく団体を募りたい。町会でもいいし市民団体でもよい。ノウハウは我等は伝えるようにしたい。版がそのまま使えるようであれば譲ってもよいと考える。 興味ある場合には当方に連絡を。

2,下北沢文士町文化地図
 長年作ってきた。現在9版だが10版は作りたい。
 つい最近、世田谷区から「せたちゃれ」の案内がきた。
 地域や社会の課題解決につながる事業を大募集

 補助金額が100万円以上とのこと。
 対象団体は、法人格を有している団体。
 それに準ずると区が認める団体。これは条件に当てはまる。

 構想としては「下北沢文士町」の書籍して当町を全国に発信する
 これも方向一つか。区のホームページ参照のこと。
 https://www.city.setagaya.lg.jp/02100/23494.html#p1

(地図配りの古い写真がでてきたので載せる。区長さんが写っていたり、亡くなった当会の幹部が写っているものもあった。廣島氏、金子氏、道吉氏)


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2025年04月02日

下北沢X物語(5150)―桜まつり地図くばり―

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(一)30日に、北沢川緑道、安吾文学碑前で恒例の地図配りをした。いつも言っているのは、「地図配りは仕事ではありません、配って楽しむものなんです」と。地図配りは最高の文化活動である、なぜなら、人はこれをもらって立ち止まる、「えっ、」なにこれ!」と驚く人が多い、もらってくれることが嬉しい。今回も体の不自由な橋本さん、一生懸命配っていた、このことをすることによって自分が生かされると感じているよう。地図を配れば反応がある、「これって新しいやつ?」、「へぇ、こんなに文化人が多くいたの?」、「なんでこんなに多いの?」、「本当を言うとこの全体は分かっていないのです、ここはさすらいの地なんです、だから全部の人は把握できていないのです、もっと倍ぐらい文化人はいたのです……」

 30日は最高の日だった、雨もあがり、日も照って、これまでになく花見客が多か
「今年は受け取ってくれる人は多いですよ。こういうものに関心が深いのですよ。ここの北沢川緑道って知的レベルが高いですね」
 配り手の湊晴美さん。

「文化というのは土地柄ですね、さまざまな指標があります。たとえばワンワンバロメーター。住んでいるところによって犬種が違います。今は総じて犬が小型化しています。居住スペースの関係があるかもしれません。大型犬や中型犬を飼えなくなっています、ところがここはと案外に中型犬がいますよ。犬と文化の関係はあるかもしれません」

(二)
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「何十年ぶりだろうね。しかしね、習慣は恐ろしいね、下北沢南口の三叉路、お堂にくると自然と頭を下げてしまうんですよ。子どものときの習慣が蘇るのですね」
 彼は代沢校の卒業生だ。

「下北沢駅前の変貌ぶりはどう感じますか?」
「まるで別の町になったみたい、懐かしくなってここらを歩いてみたけどすっかり変わった。赤の他人になってしまったな」
「会社の寮なんかが多かったでしょう?」
「うん、どこに行ってもあった。そこから通ってきていた子もいたからね、庶民性があったね。そういえば下駄の音がしたなあ。とくに学生なんか、安く食べられるところがいっぱいあってね。パンの丸十なんかなつかしいね」

「今は住む人もすっかり変わったね、おれら普段着だったけど、みんなここはよそ行きを着ているよ。」

「戦前なんか、下宿だと安アパートに若者は住んでいたんですよ。ここには詩人志望の若者が多くいて、詩論を戦わせていたんですよ。お金はかかりませんね。」
「そうですね、昔は貧乏人の学生が多くいましたよ」

「では、この変貌ぶりはどう思いますか」
「アカの他人、まるで別人ですね。もう私には過去に過ぎ去っていった町」

(三)
 もうこの地図くばりは何年もやっている。が、変化がある、かつてはみな町論を語った。しかし、そういう人はいなくなった。
 昔は、とっかかりが多くあった町だ。路地とか踏切とか空き地とか、これらは大きなとっかかりであった。それらは消えてこぎれいになった。やはりドブが臭うぐらいでないと文化は生まれないのではないか。



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