2025年10月
2025年10月30日
下北沢X物語(5285)――21年間:数千人からの地域の聞き書き―

(一)古老は一冊の書物だ、前からの持論だ、ひたすらに街で古老をとっ捕まえては話しを聴いてきた。21年間にどのくらいの人に聞いたか、数は不明だ。恐らく何千人に及ぶだろう。十年前ぐらいは古老はそんじょそこらにごろごろいた。聞いてきて分かったのは男女の間に大きな差があることだ。女性の場合はお嫁にきている。土地の昔は知らない。が、女性の出身地における昔も大事だ、浜松生まれの某女は艦砲射撃の怖さを語った。茨城県からの女性は遠望した東京空襲を語った。西の空が真っ赤に燃えた。この世の終わりを思ったという。この頃での聞き書きで変化、向こうから歩いてくる人に声を掛けると、自分より若い人、この頃では自分が古老になってしまった。「土地の高低は大事です、ほらあの尾根筋、ここに用水を流していたのですよ。それは三田用水、流れ流れて火薬工場へ、はたまたビール工場へ」と今は古老からの伝承を話すこともある。
思い出深い人は何人もいる。下代田の柳下政治さん、だいぶ前に亡くなられた。代田七人衆の末裔だ。
「戦争が終わって家に帰ってきたんだ、下代田は焼けたと聞いていたんで心配だった、池尻の方から川沿いに歩いて来ると。うちの大欅が見えた。嬉しかったね」
この大欅のすぐ近くに加藤楸邨が住んでいた。ここで『十二月八日の霜の屋根幾万』を詠んだ。俳人は、その大欅の虎落笛を耳にした、この音を聞いて旅にそそられた。後鳥羽院の独り心を知るために隠岐への旅に出かけている。
北沢五丁目の佐山一雄さん、彼のところには何日も通い詰めた、彼から下北沢の昔を多く聞き取った。
家の側には鎌倉通りが通り、家の脇で道路が分岐し古道二子道へと繋がる。そして家のすぐ南には小田急線が走っていた。ちょうど沢の底に当たる場所で、ここには当地一帯の逸話が坂を転げ落ちて貯まっていた。
「可愛がっていたシェパードが徴用されたんだ、十円をくれたけど犬が可愛そうでならなくて兵隊が置いていった十円をそこの川に投げ捨ててやったよ」と一雄さん。
(二)
佐山家はすぐ南に小田急線があった。
「わしは今でも生鮭が食べられない。昔な、ついそこで電車の追突事故が起こったんだ。死人が出てな、ついその死体を見てしまったんだ、まさに生鮭だよ」
「線路の向こうには静仙閣があった火事になってよ、わしは消火に駆けつけたけどな」
伝説のアパート静仙閣である。高級アパートには多くの有名人が住んでいた。このアパートのことも掘り起こしてきた。
「下北沢 静仙閣」と検索に入れると多くは私が書いた記事がヒットする。このアパートの関係者の末裔の藤井剛さんから、「星霜」遠藤義之 非売品(1998刊)が得られた。また探していた建物の写真も彼を通して得ることができた。
「静仙閣」のことで忘れられないことがある。ここには作家の一色次郎が住んでいた。
1945年3月、彼はアパートからの退去を命ぜられた。
アパートは複数棟あったが、線路に近い方、小田急線寄りは強制疎開に引っ掛かった。それで彼は転居を余儀なくされる。世田谷区代田二ノ八二三の「見晴荘」に越した。それで昭和二十年三月二十七日に静仙閣にお別れの挨拶に訪れた。奥さんは管理人と話しこんでいる。
カノ子が管理人室で話し込んでいる間に、私は地蔵さんのまわりを掃除する。宝暦三年(1753)から立っている、この小さな地蔵さんも、こんどはどうなることだろう。地蔵さんの背中のサクラはまだ若芽も出ていない。枝ばかりの梢に夕もやが漂っていた。
「東京空襲」一色次郎 河出書房 昭和42年
静仙閣前の桜の樹はいまは切り株だけだが、数年前は見事な桜があった。が、地蔵さんは無かった。どこへ行ったのだろうか、ずっと気になっていた。
近隣を聞き回った。ちょうど交通安全週間のときである、佐山家近くにテントを張ってこれの活動をしている人がいた。土地の人だ。
「宝暦三年建立のお地蔵さんを探しているのです、ほらそこの鎌倉通りの踏切を渡ったところに桜の樹があるでしょう、あそこの下にあったものなんですよ」
「ああ、おれは知っている、地主の清水さんの家にあるよ!」
驚きだ、何十人も聞いて来て分からなかったことがあっさりと分かった。
(三)
宝暦三年のお地蔵さんは静仙閣跡からいくらも離れていない人の家にちゃんと祀られていた。これについては何の疑問も抱かなかった。つまり、古道鎌倉通りだから路傍に安置されていたのだろうと。
しかし、鎌倉通りは古道ではない。我らこの真偽を確かめるために道を歩いて点検した。普通は庚申塔や地蔵尊があるがこれは確認できていない。結論づけたことはデベロッパーの宣伝戦略だったのだと。
このごろ疑問に思うようになった、この地蔵尊はもともと違うところにあったのではないか? (小田急下北沢3号踏切、左手奥に佐山家、今はない。宝暦三年の地蔵尊、桜の樹)
2025年10月29日
下北沢X物語(5284)―"生きがいを求めて21年”―

(一)この間、「せたがや生きがいの会」から来春の講演を求められた、「題は何にしましょう?」と。それで「生きがいを求めて21年」と答えたら、そのまま採用された。副題もつけられていた。「下北沢の文化掘り起こし続けた文化探査者の物語」とあった。言葉が過去を浮かび上がらせる。ひたむきに駆けてきた21年が思われた。がむしゃら、これは性情だ、何事にも夢中になる。かつて鉄道模型に凝っていた。押し入れを活用した箱庭鉄道だ。作っていると夢が膨らんでくる。四角四面のレイアウトではおもしろくない、そんなときに壁穴隧道から機関車が飛び出てくるさまを夢想した、ふと気づくともう壁に穴を開けていた。思いつくと一心に走り廻ってしまう。その性情に変わりがない。
一時、若山牧水に凝っていた。寝ても覚めても若山牧水だった、なかんずく彼の鉄道描写が気に入っていた。彼の作品から鉄道場面も抜き出す。そのために全集を買った。くまなく点検していって鉄道に関する歌、そして地の文を抜き出していった。
自分が夢中になっても、世間、社会とはずれている。自分が思うほどに「若山牧水」鉄道に関心を寄せる人はいない。
この企画は途中で諦めてしまった。検索で「若山牧水 鉄道」で調べると出てくる。
美しい日本の鉄道〜牧水の鉄道を紀行する
ネットに放り込んだが、これはこれで生きているようだ。
一例では留まらない、日本文学の鉄道はあらかた掘り起こしてきた。一人二人ではない、確か十人くらいはいた、思いつくままに挙げると、夏目漱石、森鴎外、泉鏡花、宮沢賢治、萩原朔太郎、林芙美子などである。
人間の執心というのはすさまじい。よく好事家の収集品が紹介されることがある。プラモデルを作り続けて何十年、その人は倉庫まで建てていて、中には驚嘆するほどの模型が並んでいた。
私なども立体化するとそれぐらいはある。しかし、私の場合は場所を取らない。USB
一本で収まるくらいだ。しかし文字数は多い。軽く原稿用紙千枚は超えるのではないか。
(二)

会を発足させたころ、仲間と稲荷探しに夢中になったことがある。庚申塔や地蔵尊もこれに含まれた。庚申塔は辻の守り神だ、他所から悪霊が入ってこないようにと辻に建てられている。古くからあるこれらには独特の雰囲気がある。出会うと、あそこにもあったここにもあったと報告しあった。
文士町文化地図にも大きな情熱を注いできた。21年間の成果である。この間、期待の星、村上剛さん、「せせらぎ公園」に貼ってあった地図を見て、この地域の文化に目覚めたと。つまり、何でもない町だと思っていたら思いがけず多くの文化人が住んでいたと知ったと。
地図づくりの発端は、稲荷社探しがからんでいる。皆というか、私と東盛太郎さんの二人である。あるとき彼が作りかけの地図を見せてくれた。それには稲荷社、地蔵尊、庚申塔のありかがマークされていた。こっそりみせてもらったそれに思わず感動したものだ。実はこれが現在の地図の原型になっている。
会が発足しての2年後だ、「2006年(平成18年)5月世田谷区の助成を受け、冊子「『北沢川文学の小路』物語」を発行した」、デザインを東盛太郎さんが行い、文章は私が書いた。我らの最初のデビューである。
この冊子は、新聞に取り上げられた。朝日新聞と毎日新聞だ。東京版であるが両紙とも大きくページを割いて掲載した。事務局、「邪宗門」には冊子をもらおうと大勢の人が押しかけた。
「ふだんうちに来るようなお客さんではないんですよ。服装なんかもぴっちりと決めておられましてね、冊子は無料なんですけど、みなさんカンパをしてくださいました」
これが邪宗門の伝説となっている。
(三)
東盛太郎さんは、あいにく急逝された。下北沢のアレイホールでお別れ会があった。私は、彼が何者か知らずに付き合ってきた。本職はプロのデザイナーであった。遺作の一つとして「北沢文学の小路」が掲げてあった。
彼は、出来上がった冊子を中央図書館に寄贈に行った。
「収蔵するかしないかは検討いたします」
「何だと新聞にも大きく載った冊子だぞ、地域文化の新しい発見とまで言われたものだぞ、理解がなっていない、責任者を呼べ!」
大変な剣幕だった、これも語り草の一つだ、「下北沢文士町文化地図」現在は9版だ。今は献本に関して審査はない。これも歴史だ。
2025年10月27日
下北沢X物語(5283)―『街の座標』は優れた都市論―

(一)『街の座標』という小説がある、清水博子が描いた作品だ、秀逸なのは現実の街を座標として捉えている点である。下北沢の鉄道交差を言うものだ、すなわち小田急線をy軸、井の頭線をx軸と捉えた。彼女はこの街を番地ではなく「北沢と代沢と代田とを合体させて」形として捉えたのだ。が、その線形は整った座標ではない、「ひしゃげた座標」と形容している。彼女は街を思い描くときにこれを思い浮かべる。すると「頭蓋骨をじわじわと締め付けてくる」と。都市の形態が精神身体に影響を及ぼす。形而上的な都市論だ。「ひしゃげた座標」はゆがみである。これが都市の核であった。ひずみがあると混乱する。実際路地に入り込んで方位を失うことはよくある。が、小田急が地下化して基軸は消えた。それでもひしゃげた座標は存在する。見えないゆえに隠然とした力を持ち、人に影響を与えている。それが不思議現象に繋がっているのかもしれない。
詩人の吉増剛造は下北沢についてよく論じている。有名なのは『黄金詩編』の一節だ。
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え
る、なぜ下北沢、なぜ
(吉増剛造詩集「黄金詩編」思潮社)
彼には下北沢は鬼門であるようだ。まがまがしい街だと述べる。
こんな不吉な街はない、下北沢なんか裂けてしまえ、住んでいてもおっかねえ、という思いが自然に湧いてくる。なぜなんだ、なぜなんだ。
(二)
下北沢はまがまがしい街だ、とても恐ろしく感じられる。その理由は明白だ、当地に居住し、そして終焉を迎えた萩原朔太郎、その存在が今も感じられるからである。彼は詩人を深く敬愛し、信奉もしていた。「萩原朔太郎大全2022 in 大正大学」が11月16日に行われた。このときに吉増剛造さんが講演をされた。
「朔太郎は処女詩集『月に吠える』で日本語を一新した。自由詩の極点まで駆け上った。そしてやわらかい『竹、竹、竹』とかを詠み、日本語を一新して柔らかいビジョンを作り、だんだんだんだん青猫やなんかになって、55歳で『氷島』を創り上げる。昭和一七年戦争の来る前に亡くなっちゃう。それでこの『氷島』は色んな評価があるの、『氷島』の評価は、弟子達がボロクソに言ったりして低いのだけど、僕の評価は、まったく違っていて全部いい、一貫して物凄い霊魂のノスタルジアが詠み込まれている……」
帰結するところは萩原朔太郎だ。彼は、よく言う、「下北沢には次元の穴が至るところに開いている」と。永遠のさすらい人萩原朔太郎、代田の61号鉄塔下で亡くなった。が、彼の霊魂はいまだに近隣をさるき歩いている。
「その次元の穴の一つは、現在で言えば下北沢一番街の十字路も候補地ですね、彼には『猫町』という小説があるのです。角に煙草屋があったのですね、どうもそこでタイムスリップしたようなんですよ。忽然と目前に見たこともない美しい町に遭遇するんですよ。不思議経験ですね。ところがふと気づいてみると自分がよく知っている街だった。『煙草屋の店にいる娘さえも、杏あんずのように明るくて可憐であった』が、気づいてみると『煙草屋には胃病の娘が坐すわっている』のです。夢を見ていたのですね。ここの十字路とか交差路は時間がゆがんでいるのかもしれません。一番街の鎌倉通りと交差する道、あれも清水博子は『私立学園の前のよじれた四つ角』と言っています。「そこで、大原、北沢、代田と振り分けられる」とも言っています。いわゆる辻ですね、あそこに庚申塔があったんですよ。魔除けでもあるんです、悪霊が入ってこないように防ぐ役もあるのです……」
(三)

デレクターは庚申塔に興味を持ったようだ。
「区域、区域を守っていますから、昔は大事だったのですよ。辻の守り神ですから。たぶん吉増剛造に言わせれば、次元の穴だったように思いますね。たしか彼は下北沢2号の踏切のところに次元の穴が開いているようなことを書いていましたね……」
ひしゃげた座標、よじれた四つ角も大きな次元の穴なのかも知れぬ。
(写真は吉増剛造さんと)
〇雑記
柚ができたので柚胡椒を作ろうと思った。青唐辛子の入手が必要だが、近隣では売っていない。アマゾンで頼むとすぐに来た。分量が分からない、それで500グラムを買った。かなりの量である、捨てるわけにはいかない。大量のゆずを採って、スライスし、そして青胡椒は種を取った。当然だが大量の柚胡椒ができてしまった。
2025年10月26日
下北沢X物語(5282)―鉄道X信奉者はカルト系か―

(一)この頃、深い感慨を持つ「熱く、長く生きてきたなあ!」とつくづく思う。確かに夢中だった、景物を眺め、人に話を聞き、そして文章を書きまくってきた。人生、これら片鱗が時に物を言う、先だって取材を受けた、一時間半もカメラは回っていた。趣旨は下北沢の怪奇伝説についてである。事前の打ち合わせもなく、即取材だった。下北沢における不思議現象にはあまり触れていない。ゆえにどうして私にスポットを当てたのかという疑念があった。が、取材を受けているうちに分かった。ディレクターは『下北沢X惜別物語』を下調べで丹念に読んでいた。当地の土地文化についてこれほどマニアックなものはない。考えようによってはX交点を熱く思慕する者、これは都市伝説かもしれぬ。
もう何百回も聞かれた、どうして下北沢を調べ始めたのですか?という問いだ。
「東北沢4号踏切、これは交番前踏切、茶沢通踏切とも言われます。かつては開かずの踏切の代表格です。私は、中野区へ自転車通勤をしていました。ここで必ず捕まります。20分、ときに30分も踏切が開かない。この時間がもったいない。それで待ち時間を利用して付近をぐるぐる回ったのです、このことを通して知ったのがこの町の匂いなんです。一つはドブが臭うのです。もう一つは鉄粉ですね」
「鉄粉というのは?」
「もう二十数年前のことですね、その頃の電車はブレーキシューを履いていたのですよ。これは車輪踏面に押しつけることで減速させる摩擦材のことを言います。電車は止まるときに靴を車輪に押しつけるのです。このときに鉄粉が飛ぶのですよ。ほら、昔は駅の線路は回りが茶色だったでしょう。飛び散った鉄粉が雨で錆びるのですよ。今は、ディスクブレーキだから鉄粉は飛び散らないのです」
「昔の子どもは、上の電車下の電車と言っていました。上は帝都線です、下は小田急線です。両線の電車が停まる度に鉄粉をまき散らしていました。これが匂うわけなんです。しかし、これも微かにですよ。『おお、今日はブレーキシューの粉が匂うな』というのは、その筋のプロですね(笑う)」
(二)

電車は近代の産物である、東京では市内線が発達していく、路線が増えると線どうしがクロスするようになる。すると乗り降りが倍になる、それで電車の交差部は繁盛するようになる。電車の交差部は賑わう、『東京の三十年』で田山花袋が言っていた。この交差部は市内線の場合はフラットである。平面交差は文字通り十字交差路となる。
東京西郊は、いわゆる武蔵野だ、特徴は起伏である。ここで鉄道が交差する場合は、一筋縄ではいかない。丘陵を勘案しながら交差をする。井の頭線は後発組である。渋谷に発した鉄道は、既設線と交わる。一つは京王本線、もう一つは小田急線だ。どうやって交差をさせたのか。興味深い。
明大前は、京王本線と井の頭線がほぼ十字クロスで交わっている。どのように敷設したのかは分からない。が、この両線は別会社であった。後発組の井の頭線は本線京王へは邪魔にならないようにまっすぐにクロスさせたのではないか、これは推測である。
明大前ではよく乗り換える。が、井の頭線から京王線に乗り換えるときに、方位が狂わされる。下りを待っていると反対方向から電車がやってくる。これは何時乗っても同じである。十字クロスには時空のゆがみがあるのではないか?
下北沢の場合はどうか、小田急線と井の頭線は兄弟会社だった。これも想像だが、京王本線を潜るときに礼節を尽くしてまっすぐに交わったのではないか。交差を考える場合は、明大前を優先させた。下北沢の場合は、身内だからどう交差しようが許される。そんなことがあったのではないか。
(三)
取材では事前に企画書が送られてきた。
「下北沢という地域において、いわゆる『タイムワープ』『タイムスリップ』『パラレルワールド』あるいは『時空の歪み』『磁場の歪み』に関する現象が話題となっております。下北沢の不思議体験に関して、タイムワープなどが関係している可能性もあるのではないかと考えております。きむら様的に、なにかご見解をいただけないかと思っております。」
とあった。
私はこれを見て思った、これは都市論ではないか?と。
2025年10月24日
下北沢X物語(5281)―まち論都市論文化論―

(一)先回、今回、まち歩きを終えて、北沢地区会館、代沢地区会館でまとめの会を行った。下北沢地区を歩いたが、都市の空洞化が話題になった。時は刻々と変化する、と同時にまちも変化する、かつて下北沢の低廉な下宿やアパートでは青年が夢を熱く語っていた。詩人を夢見ていた者も少なくない。ところが今は貧乏学生は家賃が高くて住めない。それでも今は、楽器を他所から抱えて来てスタジオで議論するらしい、「やつの音は立ち始めたぜ」「しかしビートがいまいち」などと言って熱くなる。さてまちなるものは、単体で批評するのは難しい。AとBとがあって比較が鮮明になる。議論でおもしろかったのは下北沢と三軒茶屋の文化比較だ。意外な切り口で議論が始まった。
文化ということで言えば、意外なことを知った。
最近よく参加するようになったのは村上剛さんである。期待の若手だ、たまたま道を歩いているときに、北沢川緑道の区の掲示板、これの裏に「下北沢文士町文化地図」が貼ってあった。
「これですよ、これ、五六年前にこれを見てびっくりしたのですよ。ここはただのまちだと思っていたのですよ。ところがところどころに赤丸がついているでしょう。何のことか分からなかったのです。けどもそれは名の知られた文化人だったと知ったのですよ。『へぇ、こういうまちだったのか』とつくづく感心をしたのです。それ以来まちを見る意識も変わってきたんですよ」
彼は歩いているときにさりげなく言った。
公共の看板に「下北沢文士町文化地図」が貼ってあるのは、二箇所、一箇所は鎌倉橋たもと。そしてもう一つは「せせらぎ公園」である、村上さんはこちらのを見てこの土地の文化に目覚めたらしい。
月日は味気なく、ゆっくりと去っていく。ふと気づくともう十年も経っていたということはよくある。感銘とか感動とかは次第に薄れて消えていく。
それでも今も覚えている場面はある。安吾文学碑の門柱である。もともとこれがあったのは大田区東矢口である。打ち捨てられたままになっていたのを見つけた。もったいないと思った。持ち主は新潟日報社である、これを譲って欲しいと嘆願書を出した。一筋縄では行かなかった。大田区側も活用を考えていた。文化財を隣の区に持っていかれるとの思いもあったらしい。
日報社から、「譲る」との報があった。行政に精通している元議員に連絡したところ、すぐに作業員を手配してくれた。日を置かずに工事は行われた。門柱がクレーンでつり上げられ、トラックに下ろされた。私は荷台乗って、門柱を抱きかかえるようにして代沢校まで運んだ。やがて門柱は校内に着いた。「やっとここに来た」、このときばかりは嬉しかった。
(二)
討議では、三軒茶屋と下北沢との比較の話になった。まちあるきに参加されたお二人は、三軒茶屋からだ。井坂誠さん、杉野憲作さんである。
二つのまちの違いが話題になった。まずは境目はどこかという話になった。落ち着いたのは淡島通りである。
「空気が違うんだね、下北沢側が冷たくて、三軒茶屋側が温かいね。」これは杉野さん。
「風の影響があるかもしれませんね、三軒茶屋側は町並みがごちゃごちゃしていますね。それに比べると下北沢側は区画整理がしてあるから風が通り抜けていくのかもしれない」
これは石田洋子さん。
「おもしろい着眼点ですね、町並みとしては三軒茶屋側が早く開けていますね。震災の影響が大きいですね、大正十二年の震災時は、三軒茶屋側は玉電が走っていましたね。震災避難民が多く逃げてきた。住宅の需要が急にたかまってアパートを建てたり、長屋ができたりしたのですよね。つぎつぎに建物ができていったという名残がいまも太子堂あたりのやなみを見ているとわかりますね。風は三軒茶屋側が通り抜けにくいということはありますね」
「熱気の逃げ方というものがあるかもしれません。三軒茶屋246には高速道路の壁がありますね。風をふさぐとか、また車の排ガスなどがあって熱気が生じるのかもしれません」
杉野さんの話だ。
「冷熱というのは気温だけでなく人気もあるかもしれませんね。下北沢側は都会風でどちらかと言えば冷たい。震災では下町から多く逃げてきたということがあるようです。太子堂の商店街などは下町的ですよね。」
このところ会では忘年会や納涼会は三軒茶屋で行っている。三軒茶屋寄りに参加者がいることもあるが、雰囲気というものもある。何となく三軒茶屋側が温かい感じがする。
(三)

「一番の違いは、お風呂屋さんの数ですね、下北沢は石川湯だけ、しかし三軒茶屋はなくなりはしましたが、まだ数軒頑張っていますね、富士見湯、駒の湯、弘善湯、八幡湯とか、お風呂屋さんが開くのを待っている人がよく雑談していますね、下北沢側では見られない風景です……」
下北沢と三軒茶屋、比較都市論がおもしろい。
(代沢地区会館での討議風景、北沢八幡宮の戦勝記念碑、茶沢通りからの夕景)
2025年10月23日
下北沢X物語(5280)―北沢に住んだ小説の神様―

(一)「下北沢文士町」の頭目は横光利一である、彼は文士仲間が大勢いる阿佐ヶ谷から当地に転居してきた。周りは雑木林と畑しかない「四顧武藏野ノ大平野」「高燥眺望佳ニシテ空氣清イ」地に移り住んで文学をここで編んだ、もっとも関心が持たれるのは土地の固有性との関係である。今回、旧居を訪ねた。木犀が匂う屋敷街は静かだった。樹木の多い当地では今も四季がある、花の色や匂いで季を感じていた、また大事なのは音である。樹木の多い丘上の居宅は静かだ。耳が敏感な小説家は鳥の声を聞いて種類が分かった。北方250メートル地点には帝都線(井の頭線)が走っていた。電車の音を聞いて形式を聞き分けていたかもしれぬ。玄関の敷石を渡ってくる靴音で来客の用向きが分かった。有名な逸話である。この土地の文化が彼の作品にどのように響いていたか、最も興味ある点である。
かつては北沢と称していたが今は代沢だ。歴史文化の宝庫である、ここでの文化人の代表格は何と言っても横光利一である。言葉の組み立てに細心の注意を払ってこれを紡いだ。他愛のないことを書いても人を惹きつける。その秘策はどこにあるか、多くの文学者が彼の居宅「雨過山房」を訪れた。やってくる気配で人の心が読めるとのことで心胆に力を込めて訪れるが、「作品の落とし所に苦労しているようだな」とズバリ核心を衝かれて慌てたという者もいた。邸は迷路のような小路に取り囲まれている。ここをぐるぐる回りながら心を鎮めたものもいたほどだ。
(二)
私は、会が出している紀要に『北沢の丘の石畳文学論』(第2号 2013年11月22日)を書いた。その冒頭である。一、北沢の丘に転居してきた作家
山の手郊外北沢の丘に横光利一は住んだ。中原中也が一回だけある夏に訪ねて来たそうだ。このときに、「僕はあなたに忠告しますが、あなたはもう人とは逢わずに街の中に越してきなさい。そして、電話をひいてときどき話をするようにしませんか。」(『ある夜(覚書)』第十二巻)と言ったという。
中也は昭和十二年(1937)十月に亡くなっている。この年の夏のことのようだ。横光は「これと同じ忠告をしてくれた人は他にもある」と言う。「初めて逢つていきなり生活の忠告をしてくれた人はごく少い」と中也には面食らったようだ。
横光利一に会うには街から出てこなくてはならない。こんな田舎臭いところに住むより街へというのは他にも多くいたようだ。が、彼は北沢の丘に越して来て、そしてこの地を終焉の地とした。
近代文学の名手、「文学の神様」とも評された彼は東京世田谷の北沢の丘に敢えて住んだ。下北沢文士町を切り開いた作家である。
土地には固有性がある。北沢のそれは地名に現れている。北は荏原という郡部の北辺を意味する。沢は水が連続して続く地域、すなわち水路によって抉られた沢が多くあるところだ。起伏に富んだ地形で、畑や雑木林があった。いわゆる武蔵野である。
彼、横光利一はこの北沢に何時転居してきたのか?年譜にはこう記されている。
昭和三年(1928)十一月 東京市世田谷区北沢二丁目一四五番地に新居を建て移転。犬養健が〈雨過山房〉と名づけた。
(近代文学資料7『横光利一』井上謙 桜楓社 昭和49年刊)
阿佐ヶ谷から当地に引っ越してきた。なぜ北沢なのかということについては『睡蓮』冒頭に書かれている。
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好(かつこう)なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北澤(しもきたざわ)という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北澤といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩(も)らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北澤へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇(うすやみ)の中に際(きわ)立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植(うわ)っている平凡な畑だったが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦(あ)きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
転居してきたきっかけは、友人が「自分が家を建てるなら北沢へんにしたい」と言っていたことである。ところが、実際にそこに来てみると「芋が植っている平凡な畑」があるきりだった。しかし、その「一帯の土地の平凡」さが彼には却って魅力だった。「周囲には欅や杉の森」がある。いわゆる武蔵野だ。環境として申し分なかったようだ。
(三)
横光利一は土地の下検分に来て、北沢に住むことを決意した。そして家を建て、昭和三年(1928)十一月に転居した。下検分のときのことが『睡蓮』に秋とあることから、昭和二年秋のことだろう。
昭和二年(1927)四月に小田原急行鉄道は開通している。「友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたい」というのは鉄道開通によって北沢が大きく開けたからであろう。
2025年10月21日
下北沢X物語(5279)―逸話濃厚:下北沢第3象限東―

(一)21年間、地道な文化活動を行ってきた。期間が長くなった分、考察力もついてきた。半藤一利さんなどはじかに接してもきた、それが今は物故者として町歩きの探訪対象者となった。ジャーナリストとして知られているが、人間像までは踏み込んでこなかった。が、「原子力発電所については人間の手に負えない危険なものとして懸念してきた。」と。人間の奢りだ、核を人間は制御できない。なのに地震国のこの国家では何時の間にか推進へと舵を切っている。「微笑というものは人の心を殺す光線だ」は緑道の文学碑に刻んだ横光利一の名文句だ、自民党政治家は微笑を浮かべて、核はなんとかなるもんだよと言っている。「原水だって大丈夫だ」と。第三象限東半分は格言の宝庫である、故柳下家当主は「社会、世間『おもしろがればおもしろくなる』と私に言った。
半藤一利旧居は、海外植民学校の真ん中にあった。地図は新版9版地図、これには旧居のマークを施した。が、ご遺族に意向を確かめる必要があった。奥さんは未利子さん、当会の作道敬子が確認に行ったところ「どうぞ」との許可を得た。彼女は夏目漱石のお孫さんである。確認には私もいっしょに行きたかったという仲間もいた。
旧居といっても関係者が住んでいる。遠慮がちに遠くから見ていたが、「見て見たい」とのことで表札の確認に行った。
前に半藤さん宅に伺ったとき、すぐ近くの杉山元元帥邸のことは話題になった。ここで起こった事件も忘れ去られつつあるとの話しをしたような覚えがある。
半藤一利さんの代表作は『日本のいちばん長い日』である。この著作には杉山元帥は重要な登場人物として出てくる。
8月14日午前10時、天皇は御前会議に先立って杉山、永野、そして畑の3人の陸海軍の長老を呼び、ポツダム宣言受諾の決心を示したが、3人は戦争継続を主張した]。しかし、同日午前10時50分から行われた御前会議で、天皇はポツダム宣言受諾の決断(いわゆる聖断)を下した。(Wiki)
(二)

半藤邸からすぐのところに杉山元元帥邸はある。閑静な住宅街でひっそりとしている。
杉山元帥邸 昭和20年(1945年)、鈴木貫太郎内閣成立後、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。妻に「自決すべき」と迫られたとされる。自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。
歴史の一端である、ためらうことなく自刃した、が、その現場であることは次第にわすれられつつある。
代沢の戦争旧跡は濃厚である。路地の一角を巡るとすぐに東条英機邸である。ひっそりとしている。人は住んでいないようだ。
時は、どんどん経っていく、この家を案内してくれたのは東条由布子さんだ。もう何年前のことだろう。
彼女は世田谷区立富士中に通っていた。家路につくときにこの前を通って帰ったと。
「いずれは、この家を取り戻したい」
そう語っていた。
「印象深いことがあるのですよ。テレビ番組に出てきた東条さんが、小袋を取り出したのですよ。まず一つ目に取り出したのは煙草の吸い殻、死刑直前に吸ったものなんですよ。それから次ですね、小さなお守りを取り出したのですよ。なんとそれが『北沢八幡宮』のお守りなんですよ。この家から馬に乗ってお参りに行っていたそうなんです。北沢八幡宮の前に馬場があったというのですね、その馬に乗った東条さんに頭を撫でられたのが伊東さん、一帯の地主ですね、その人タクシーの運転士をやっていたというのですよ。彼、昔東条さんに頭をなでられたことがあると、たまたま乗り合わせた東条由布子さん、その伊東さんから話しを聞かされたと……」
(三)
東条家旧居は、清風園の中にあった。高級住宅地である。
「三大住宅地というのがあります。渋谷の大山園、そして松濤園、もう一つが世田谷の清風園ですね、いわゆる高級住宅地ですね、このはす向かいに著名映画女優が住んでいるんですよ……」
逸話は尽きない。(教会は聖三一教会)
2025年10月20日
下北沢X物語(5278)―下北沢の第3象限を歩く―

(一)下北沢の都市伝説についてテレビ取材を受けた。清水博子が指摘する「ひしゃげた座標軸」はまさに時空の陥穽、パラレルワールドへのトバ口ではないかと。18日、その座標軸の第三象限を歩いた。こここそは近代の歴史が濃厚にコンデンスされたところだ。政府中枢の高位高官などが住まいしたところだ。江戸期には鷹狩りに来た将軍が阿川邸で休憩をした。この家系が茶業に取り組み工業化を図った。大正期は海外雄飛を夢見る青年を育てた海外植民学校があった。昭和期では複数の首相が住み、私邸では開戦論、終戦論、沖縄処遇などが交わされたことは間違いない。日本の近代史の蔭が眠っている地域である。文士たちをも惹きつけた第一級の作家、横光利一が住んでいたことも大きい。新感覚派大御所の文学顕彰碑を北沢川緑道に建てた。「 微笑というものは人の心を殺す光線だ」である。ここには『微笑』に出てくる石畳の実物を横光家から頂戴し二枚設置した。
出発点は池ノ上駅だ。駅名が地形を読み解く鍵だ。「池の上にある土地」、呼応するのは池尻だ。池の上の坂を下りたところに池があった。この末端が池尻ではないか。
池の上の坂を下ると北沢川だ、この河畔にアパルトマン『倉運荘』があった。ここで名エッセイ『贅沢貧乏』が執筆された。森茉莉居住のボロアパートだ。
「魔利のアパルトマンのある辺りは湿地帯で、雨が続くと畳に黴が生える、それで蜥蜴、守宮、かみきり、蜘蛛なぞ、訪れる昆虫は多士済々である」
池の上の乾、池の下の湿、まっこと対照的だ。
(二)

池の上の近代はいつからか。明治になって殖産振興が行われ、産業として茶業が起こった。阿川家は製茶業を営んだ。これは明治二十二年東海道線が全通すると西から低廉な宇治茶が入ってきて衰退した。
池ノ上の近代は海外植民学校が創立されたときに始まった。 開校は1918(大正7)年4月28日である。学校を申請するにあたって書かれたこの土地の特徴は、つぎのように記されていたという。
附近ハ總テ田畑ニシテ四顧武藏野ノ大平野ナリ、唯點々農家ノ散在スルアルノミ 土地肥沃高燥眺望佳ニシテ空氣清ク教育ノ地トシテハ最モ清浄ノ土地ナリ
1939(大正14)年に植民学校のすぐ近くの代沢尋常国民学校分校に坂口安吾が代用教員として赴任してくる。その時の一帯の様子を「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。」と述べる。一帯はまさに武蔵野であった。土地が肥えていて丘上にあり眺望はよく、空気も乾燥していたという植民学校の環境と同じである。
(二)
海外植民学校は当地に創設された。
「南米などの海外雄飛を夢見た青年たちがここに集まって働き、そして学んでいたんですよ。語学も必要だからスペイン語を習っていたのですね。ここでは牛をたくさん飼っていてその搾った牛乳を学生らが近隣一帯に配達していたんですよ」
一帯は坂が多い。重い牛乳瓶を自転車で運ぶ姿が思い浮かんでくる。
「おもしろいのはこの学校の最寄り駅ですよ。どこだと思います?」
「?」
「大正7年だから井の頭線もない、小田急線もないのです。動いているのは玉川線、なんと最寄り駅は三宿なんですよ」
想像がつかない話しだ。しかし、昔の人は健脚だ。少々遠くても歩いた。
「三茶と下北沢は遠くないんですよ。私なんかしょっちゅう歩いているからわかりますけど」
(三)
途中で見聞したことはさておき、おもしろい話しがあった。
井坂誠さんと杉野憲作さんは三軒茶屋からの参加である。それで三軒茶屋と下北沢の比較文化論となった。
散歩でたどり着いたのが代沢地区会館だ。このごろは町歩き終わって反省会をする。このときに出たはなしだ。
三軒茶屋と太子堂では文化が異なる。
「大事なのは境界ですね、やっぱり淡島通りでしょう」
そうこれは大方が頷くところだ。
「空気が違うんだね」と井坂さん。
「それはおもしろい」
「三茶の家並みってあるでしょう、印象としてごちゃごちゃした感じ、ところがこちら側は区画整理がしてあって、道がすっきり、風が通り抜けるでしょう」
「うん、三茶は暖かいんだね、それに比べてこちらは空気が冷たい」
三軒茶屋と下北沢文化には寒暖の差があると、これはおもしろい文化論だ。
2025年10月19日
下北沢X物語(5277)―奇跡的に蘇った代沢小学寮歌―

(一)「戦後80年-あの日の名残-」と題された新聞記事で世田谷代沢小が関わる歌碑が取り上げられた。10月10日発行の『市民タイムス』だ。本タイトルは、「疎開学童を元気づけた歌」だ。私は2012年『鉛筆部隊と特攻隊-もう一つの戦史』を上梓した。反響は大きく、朝日新聞、日本経済新聞などの書評でもとりあげられた。テレビやラジオでも話題になった。長い間、歴史に埋もれていたことを明らかにしたものだ。発掘するきっかけとなったのが歌碑に刻まれた「聖が丘学寮の歌」である。歌碑は知ってはいたが、小さなものだと思っていたが、かなり立派なものである。埋もれていた歴史を掘り起こした歌は、石碑にしっかりと刻まれた。機械仕掛けでボタンを押すと曲が流れてくるという。
『鉛筆部隊と特攻隊』の冒頭はこう始まる。
あるとき、ネットのブログにコメントが飛び込んできた。遙かな旅への入り口を開けたのはわずか数語の言葉だった。「もし御存じでしたら教えてください」に始まる問い掛けである。
昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(郷福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
”広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、
父母の声、風が運ぶよ…… Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20
東京西部山の手、世田谷区に下北沢(しもきたざわ)駅がある。私鉄線、小田急線と井の頭線とがX状に交差する駅だ。私はこの一帯に眠っている歴史文化を調べては、日々ブログに書いて発信している。ちょうどこの二〇〇七年は世田谷区立代沢(だいざわ)小が創立百二十六年を迎えたときだ。それで寺子屋から始まったこの学校の歴史について触れていた。旭(あさひ)正章(まさあき)さんは、インターネット検索でこの記事に行き着いたようだ。
(二)

幼少時、旭正章さんは、郷福寺に縁故疎開をしていて、このときに代沢国民学校の学童が歌ううたを聞いた。これが忘れられないでいた。
代沢国民学校は1944年8月12日に長野県松本市外にある浅間温泉に疎開した。しかし、翌1945年になって当地でも空襲警報が鳴るようなった。温泉も安全ではなくなった。それで当地に疎開していた世田谷からの七校は安全なところに再疎開をする。
広丘村郷福寺に疎開したのは代沢国民学校の学童だ、主には柳内達雄先生が引率指導する浅間温泉千代の湯にいた者たちだ。先生によって鉛筆部隊と名付けられていた。ひたすらに鉛筆で文章を書き綴れば、学力は向上する。そういう信念のもと学童たちは書きまくった。それで鉛筆部隊と名付けられた。
浅間温泉では約2500名の疎開学童がいた。仲間だらけで気兼ねすることもない。が、再疎開となるとみんなバラバラになる。学校も村の学校に行くようになる。
村に来た疎開学童は田舎では目立った。靴はズックを履き、服装もこじゃれている。田舎の学童からすれば目の敵だ。一番めだつのは皆頭が良かった。すらすらと朗読ができる。算数もすぐ解ける。そんなことから村の子にはしゃくの種だった。それで自然と排斥するようになった、「疎開っぺ」と言って皆をいじめた。
学童はとても落ち込んだ。この子たちを励まそうと先生が歌を作った。まず洗馬村の真正寺、ここに浜館菊雄先生がいた、音楽の得意な先生は「真正寺学寮歌」を作って歌わせた。「みんな明るい私も僕も」と始まる歌には学童は勇気づけられた。
(三)
一方、郷福寺でも歌の評判が伝わってきた。それでこの寺でも寮歌を作ろうと担任の柳内達雄先生が詩を作った。作曲は浜館菊雄先生が手伝った。
戦争末期である、が、歌には勇ましい歌詞はない。メロディは明るく、そしてさわやかだった。都会の子が歌うとそのハーモニーは美しく村に響いた。この歌は田舎の子には鮮烈だった。疎開学童を勇気づける歌は、却って田舎の子の心を浮き立たせた。
そういういきさつをもった歌だった。ところがその全貌が分からない。ああでもない、こうでもない、と言っているときにまさに突然である。正確な歌詞が何者かによって書き込まれ、全部が分かったのである。奇跡である。
広丘村 郷福寺寮歌
1. 2.
広丘は僕たちの里 広丘はわたしらの里
青い空光る汗 お炊事のお手伝い
鍬をふる僕らの頬を つるべとる私の頬に
さわやかに風が渡るよ 父母の声風が運ぶよ
3. 4.
広丘の村の友達 広丘のゆかしいお寺
黒い顔肩組んで 郷福寺夜の杜
僕たちと高く歌えば 僕たちの明るい声を
松林風がわたるよ ふるさとへ風が運ぶよ
2025年10月17日
下北沢X物語(5276)―北沢川緑道の幻の文学碑―

(一)「北沢川沿岸に眠る文化遺産を碑に刻んで遺していこう!」会設立の発会式で最後をこう締めくくったら「賛成!」「賛成!」との声が飛び満場一致で会は発足した。もう21年も前のことだ。その熱い思いを受けて、建碑に向けての活動が始まった。今思うと熱病に罹ったようだった。結果として今は四基が緑道に建っている。妙なたとえかもしれないが現存碑は氷山の一角のようなものだ。計画をしたり、立案をしたりして試行錯誤を繰り返していた。現在は、「坂口安吾文学碑」、「横光利一文学顕彰碑」、「三好達治文学顕彰碑」、「代田の丘の61号鉄塔由来碑」の四基が建っているが、望みはしたものの建たなかった幻の文学碑があるのである。
〇森茉莉文学碑
森鴎外の愛娘の森茉莉は、「代沢せせらぎ公園」わきの旧倉運荘、代沢ハウスに居住していた。境涯におけるほとんどの作品がここで執筆された。
「北沢川文学の小路」に名を連ねる作家の中で今もなお高い人気を誇るのが彼女である。とくには女性が多い。全国各地から、こっそりとひっそりと訪れては、彼女が住んだあたりの空気や臭いを嗅ぎにきている。日本ばかりか台湾や中国からも訪れている。
当地で執筆されたのは「贅沢貧乏」だ。素晴らしいエッセイだ。ここに出てくる一節を選んで、これを刻んだ碑を建てる。しかし、文学碑は全国に掃いて捨てるほどある。造るのであれば地域の固有性を現すものを使いたい。
彼女は銭湯に通っていた。「贅沢貧乏」の中でこれは出てくる。「代澤湯」である。この銭湯はすでに壊されて今はない。解体される前に行った折、「代沢湯」の女湯の磨り硝子を得られた。これをうまく填め込んで建てられないかと思っていた。
文学碑は彼女の旧居跡が眺めれる「せせらぎ公園」の一角に碑を建てたい。
《夢こそこの世の真正の現実。そうして宝石。》 森茉莉
森鴎外の愛娘、森茉莉(1903-1987)は、この公園の道路一つ隔てた向こう、旧倉運荘、代沢ハウスに住んだ。境涯に於ける作品のほとんどはこの地で書かれたものだ。石碑に刻んだ文言は「贅沢貧乏」の一節にあるものだ。埋め込まれているガラスは彼女が行っていた代澤湯の「女湯」の磨り硝子を活用したものだ。
文学碑を建てる場合、好き勝手にはできない。文言には著作権がある。これの所有者に連絡を取り、許可をもらう必要がある。それで世田谷文学館を通じて版権継承者に連絡を取った。
関係者から返事をいただいた。森茉莉の文学について社会に伝達するというのはとても大事なことではあるが、文学碑に刻むことは認められないという返事であった。それで断念した。
(二)

中村汀女の文学碑
汀女さんは北沢川の桜を好んでいて花盛りには折々に娘さんと訪れていた。娘の小川濤美子さんが書いておられる。以前に、緑道「桜橋」に文学碑をとの提案をしたことがあるが、娘さんは、つぎの四句を候補として出してくださっていた。
ともかくも家離るれば遅桜 昭和52年 / 帰るべき細道見えて夕桜 昭和25年
見送られゐて夜桜の人通り 昭和34年 / 桜咲くまず真向かいの川風に 昭和35年
せっかく著作権所有者が許可してくださったのだがこの計画は実現しなかった。
2019年01月28日に「中村汀女さんの幻の句碑」として記事を書いている。
書類の山を整理していたら一枚の書き付けが出て来た。四句の俳句が記されている。「何だろう?」と句を読む。すべてに「桜」が詠まれている。とたんに思い出した。「そうだ中村汀女さんの句だ!」。書いた人は、小川濤美子さん、汀女さんの長女で俳人だ。以前に、中村汀女さんの桜を詠んだ句を北沢川緑道の「桜橋」に建てようという動きがあった。それで濤美子さんに選句して戴いたものだ。あれから時がだいぶ経った。彼女は2017年4月22日に死去した。新聞の訃報、「昭和を代表する女流俳人、中村汀女の長女。汀女主宰の『風花』を昭和63年から引き継いだ。句集に『富士薊』『和紙明り』、エッセー集に『中村汀女との日々』など。」で知った。「お母さんの句碑を建てます」との約束は果たせないままだ。
(三)
加藤楸邨文学碑
加藤楸邨は下代田に住んだ、当地居住時代に隠岐の島へ旅立つ。島流しに遭って隠岐へ流された後鳥羽院は懸命にここで歌道の真髄を究めようと努力をした。その後鳥羽院の独り心を明らかにしようと楸邨は島に旅だった。
そのときに居宅近くにある大欅が旅心を誘ったというのである。虎落笛を聞いて旅心をそそられた。その欅は柳下さん所有のものだった。だいぶ前に切り倒されたが、これの輪切りが家に残っていた。これを使った文学碑を作ろうと思い立った。
旅思ふ欅の春の露はしり
加藤楸邨のご子息は加藤穂高さんだ、彼は代沢国民学校の学童として浅間温泉に疎開している。それで私はそのときのことを聞き取って物語に載せた。
穂高さんとはそんな関係から文学碑に刻むことをお願いした。大筋では了解を取っていた。が、しかし、建碑の計画が煮詰まった段階で断りの連絡があった。
版権継承者は弟さんでそれの許可が下りないということだった。それでやむなく建碑は諦めた。
2025年10月16日
下北沢X物語(5275)―21年間:文学碑4基:記念碑3基―

(一)長く生きてきたと実感する、これまでを振り返ると、文学碑は4基建ち、記念碑は3基も建っていた。月日の積み重なりが思われる。つい最近、記念碑の一つが地方新聞記事に載った。お寺に建った歌碑のことである。機械仕掛けでボタンを押すと何と曲が流れるという。設置場所は長野県塩尻市広丘である。この歌、疎開学童を勇気づけようと引率の先生らが作った。その歌曲は清新だった。その一番だ、「廣丘はぼくらのさと/あおい空 光る汗/鍬をふるぼくらの頬に/父母の声 風が運ぶよ」明るいメロディだ、歌っている疎開学童だけでなく、地元の学童が励まされた。歌ったのは世田谷代沢校の学童だ。清新な歌は一帯に響いた。これが村の子どもの子の心をざわつかせた。
文学碑四基は北沢川緑道沿いに建つ、いずれもが文学碑だ。記念碑三基は、みな戦争に関わるものである。
・長野県塩尻市郷福寺内「聖が丘学寮歌」
・松本市美須々護国神社境内 石碑にはこう刻まれた。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
この記述は、当方の『鉛筆部隊と特攻隊』に記述されたことを事実の裏付けとして刻まれたものである。
・富山県高岡市明圓寺境内 鉄平石 裏面には「元伏木港防衛高射砲隊長 内藤悌三」と刻まれている。内藤さんは駒沢高射砲隊の隊長でもあった。私の取材がきっかけとなり、隊は、駒沢から伏木湊に移転したことが分かった。隊の宿舎となった寺に内藤さんが鉄平石を寄贈し碑が建った。
(二)

これまでの21年にわたる活動で忘れ難いのはやはりこの歌、「聖が丘学寮の歌」の発掘である。これが埋もれていた歴史を解明するきっかけとなった。『鉛筆部隊と特攻隊』という物語はここから生まれた。
発刊は2012である。以来、この話しをずっと追っている。根幹は、終戦末期、松本陸軍飛行場に飛来してきた特攻隊のことである。
ある程度分かってはきたが、全貌は闇に包まれたままである。終戦を迎えたとたんに各部署にあった記録類は焼却処分された。
浅間温泉には世田谷から七校の学童が疎開してきた。彼らが遺した日記や手紙がてがかりとなって秘められた歴史の一端が解明されもした。しかし、あれから80年経って全貌は見えてこない。戦後80年経って、戦争を覚えている人々がつぎつぎに亡くなっておられる。
この減り具合については一年で二つの県の人口が吹き飛ぶ勢いだと聞いて驚いた。嘘ではないかと思った。ネットで調べると、「総務省は6日、住民基本台帳に基づく人口を発表した。1月1日時点の日本人は1億2065万3227人で前年から90万8574人減った」と。6日は今年の8月だという。90万人は、確かに二県を合わせたぐらいにはなる。恐ろしいスピードである。
(三)
私は戦争の聞き書きをしている。
「あんたね、もう20年早ければどんなことでも聞けたわよ」
ある人から聞いて落胆と失望を感じたことがある。
『鉛筆部隊と特攻隊』は、2007年から2012までに聞き書きした話しまとめている。以来、老齢人口の激減期でもあった。今思うと書きとどめることが幸運にもできた時期だったと思う。たまたま鉛筆部隊の判子のある手紙を、全く見知らぬ人がとどけてくれたことでわかった。この持ち主である立川裕子さんもとうに亡くなられた。が、『聖が丘寮歌の楽譜』はその手紙の束に入っていたのである。奇跡的な発見だ。それが歌碑となって、機械ボタンを押すと曲が流れてくると言う。驚きだ。
(写真:下北沢駅小田急地下化工事、横光利一文学顕彰碑除幕式)
2025年10月14日
下北沢X物語(5274)―近代郊外風景としての「清風園」―

(一)SNSのアクセスによって社会の動きを感知することはよくある。昨年のある時期から当Blogの閲覧が急に増えた。しばらく経って新聞連載小説が因だと知った。「夫を亡くして」(門井慶喜著)である。夫は北村透谷。奥さんは美那子である。彼女は「昭和十七年四月十日北沢四の四一八にて死去。(北村透谷の長女の婚家)」とある。私は、かつて「透谷の妻、北沢に死す」という題で記事を書いた。これへのアクセスが新聞連載期間中、ずっと続いた。夭折した高名作家、その奥さんへの興味が高アクセスに繋がった。「透谷が自死し、娘と残されたミナは、英語を学び、教員となり、時代を駆け抜けます」という筋立てだ。土地のドラマでもある。
石阪美那子の生涯 『透谷の妻』(江刺昭子著 日本エディタースクール出版部 一九九五年刊)がある。これによると才女であった。
美那子は、明治三十二年(1897)に渡米し、インディアナ州のユニオン・クリスチャン・カレッジを経て、そしてオハイオ州のデファイアンス・カレッジをも卒業している。その後日本に戻ってきて長い間女子師範学校などの英語の教師を務めている。
「自分では文士と云ふ者の処へ参ったことを、悔いはいたしませんけれども、子供は決して文士にしようとは思いません。又、女の子なら文士の処には参らせようとは思いません。」
文士には生活の保証がない。貧困にあえぐこともある。娘の将来を思うと文士には嫁がせられない。それで娘も普通の家に嫁いだものと思われる。
家は池ノ上にある、1962年発行の住宅地図には、北沢4の418には堀越の名が認められる。駅近辺は商店など密集しているが、駅から一歩離れた一帯はお屋敷街である。その一角に堀越家はある。震災後赤坂から引っ越してきたとあることから由緒ある家柄だったと思われる。
(二)

池ノ上は、丘上に当たる。池ノ上辺りの尾根筋は高所にあって日当たりもよい。これが南に向かって転げ落ちて北沢川にぶつかる。この南のり面が「清風園」である。昭和二年の末にここの一角を売り出す新聞広告が載った。
此の地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になつて居りますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂「近代郊外風景」が居ながら恣にされます。
渋谷急行線はすぐに停車場を設置されます。水道、瓦斯、電熱の整ふた珍しい安い処分物です。
渋谷急行線は、今の井の頭線である。新設鉄道線の開通があることをここでは述べている。すでに小田急線は開通している。その上渋谷急行線も開通する。将来性が見込める土地である。新聞広告が出るやいなや人気の土地となった。
この広告にいう「『近代郊外風景』がいながらにして恣にされる」はウリの文句だった。
(三)
「近代郊外風景」が恣にされるは興味深い。言えば手つかずの武蔵野だ。ここに洋館を建てて木の間隠れに垣間見られる近郊風景を自由に作ることができる。ここを購入したのは中産階級である。家を建てて子を育てた。その多くが代沢小に行った。親の遺伝子を得た子は、学校で詩を書いたり、絵を描いたり、楽器を習ったりした。その子たちが長じて文化を創り上げる側に立った。
(代沢の森、及び代沢赤門)
2025年10月13日
下北沢X物語(5273)―代沢清風園を巡る町歩き―

(一)「照り映える」という言葉がある、文化なるものは当地では輝いて見えないが、余所ではより明確に輝くことがある。下北沢代沢校は戦時中に浅間温泉に疎開する。学童の世話をした寮母さんが代沢校の学童のことをこう批評している。「お父さんが大佐、大将等だったので驚きました。佐伯という息子の父親は東大の先生、福田は弁護士であったし、子どもたちの行儀はよかった。」と。学区域にどういう者が住んでいたか端的に表わしている。高級住宅地として知られている清風園風情でもある。戦時中のことだ、和装をきっちりと着こなした夫人がつかつかと教室に入ってきて「明日から官邸に参ります」と。子息が在籍している組にお別れの挨拶に来たのは東条かつ子夫人である、家は、清風園の一角にあった。
手元に「代沢1丁目(旧下代田町を中心とする)戦災地図」がある。代沢九条の会が作成したものである。
今、土曜日にここを巡る。資料として活用できることからこれをチェックしている。関連する項目を拾う。
〇清風園
昭和の初め頃、このあたりで最初に開発され、一区画400〜から500坪で売り出された分譲地で清風園と呼ばれた。ここから西方の北澤八幡あたりまでが現在も代沢の邸宅街。この邸宅街には、戦後故佐藤栄作総理大臣はじめ稲山嘉寛、大槻文平などの財界人、映画俳優などの著名人が住んでいた。
稲山嘉寛 新日鉄 社長 経団連会長など
大槻文平 三菱鉱業会長、現経団連会長など
(二)

戦災図には、個人宅の説明がある。
杉山元宅
杉山元元帥は、太平洋戦争開戦時の陸軍参謀総長。1945年(昭和20)年9月12日の敗戦の責任をとって拳銃自殺。これを聞いて夫人がこの家で後追い自決。近所でも話題となった。
東条英機宅
東條英機陸軍元帥は太平洋戦争開戦時の総理大臣。 A級戦犯として絞首刑となった。池之方面ではここだけが焼夷弾攻撃を受け、付近が類焼した。
〇五月二十五日の山の手空襲での被害である。確かに戦災図だけを見ると英機邸一角が燃えたことになっている。このことからB-29は東条英機邸を狙って爆弾を落としたとされる。が、彼は官邸に移り住んでいる。今なら別だが、ピンポイントで焼夷弾を狙って落とすというところまでは行っていなかった。それなのに一部が焼けたことで都市伝説が生まれた。
(三)
先の代沢九条の会が作成した「戦災地図」は地域の空襲被害を丹念に調べている。
代田地区で「戦災地図」をまとめて置こうという動きがある。小さな真実が集まると歴にになる。
学校の創立記念誌は記録の宝庫である。「池之上小学校創立50周年誌」(1991)が引用されている。
池ノ上小学校は1945(昭和20)年春より兵営になっていた。多くの児童が疎開し、残った児童のために町会事務所などが教育所となった。池ノ上小学校には焼夷弾が投下されたが、必死の消火で消し止められたという。
疎開学童の記録はあるが居残った学童の消息はほとんど分からない。が、こうして記録に留められると分かりもする。小さな記録は貴重である。
(先回の下北沢を歩くの記念写真、焼夷弾の筒)
第210回 代沢の戦争逸話物語を歩く 案内人 きむらけん
日時 10月18日(土)13時00分 池ノ上駅改札集合
代沢地区に残る戦争逸話痕跡を歩く・駅→海外植民学校跡→半藤一利旧居→杉山元帥旧居跡→東条英機旧居跡→横光利一旧居跡→佐藤首相旧居跡→東郷青児・宇野千代旧居→北沢八幡神社(大東亜戦争碑)などを歩く。(一帯は、高級住宅地『清風園跡』)
終了後 代沢地区会館 第1会議室にてまとめの会 17時まで
参加費は500円です。 申し込みは15日まで
町歩きの参加申し込みは、k-tetudo@m09.itscom.net
2025年10月11日
下北沢X物語(5272)―水戸東から出撃した第204戦隊の行方―

(一)通常の特攻は、短期間に編成されて時を置かずに出撃していくのが通例だ、しかし、この戦隊はすでに経験を積んだ隊である、水戸東に来る前は、比島マニラで防空任務に就いていた。ところがここでの空戦で操縦者30名のうち17名が戦死した。著しく戦闘能力を落としたことから1944年12月に内地に一旦引き揚げて「戦力回復」に務めた。水戸東で休養し、そしてこ間欠員を補給をした。もちろん機も補充した。乗機は一式戦「隼」だ最新式の�祁燭吠僂┐討僚亰發世辰拭�
私は、飛行204戦隊のことを記録した。この隊のことについては台湾八塊から出撃した。1945年5月20日に4機を率いて沖縄に出撃した隊長栗原義雄さんの甥御さんから度々話しを伺っていた。
鈴木豊さんである、彼は漬物の歴史研究家だ。軍隊における漬物の重要性を彼から初めて伺った。漬物、特には外地にいく兵隊には欠かせないものだという。食事に出てくる梅干しだの福神漬けがいかに重要な役割を果たしていたか。兵隊は外地にいくとレーゾンデートルを失う。ところが食事に出てくるつけものを食べると日本人意識が蘇ってくる。漬物はモチベーション意識を高めてくれるものだと。現今自衛隊も同じで吟味に吟味を重ねた漬物を必ず戦争に積み込んで勤務地に持っていくという。
(二)
戦力回復を終えると204戦隊は、再度南方進出の命を受けた、それで二隊に別れて飛んだ。第一隊は無事にサイゴンに着き、当地で防空任務に当たった。ところが後発隊は別の運命をたどった。
飛行隊長、高橋 渡大尉以下の後発隊(12機)は2月16日の米艦載機来襲で若干の被害を受けたが、24日水戸を出発し、上海を経由して台中へ渡った。
台湾に到着した直後、米軍の沖縄上陸を迎え、天号作戦が開始されたため。高橋隊は3月25日付けで第八飛行師団の指揮下に編入され、誠第204戦隊(長 高橋大尉)と呼称された。 『飛行204戦隊名簿』昭和60年1月
後発隊は南方戦線に向かう途中に、台湾台中に立ち寄った。ちょうどこのときに米軍の沖縄侵攻が始まった。機は虎の子である。師団としては渡りに船、ということで大本営と連絡を取り、師団の指揮下に戦隊を編入し、誠第208戦隊と名を変えた。
台湾に留まった誠第208戦隊は花蓮港南を本拠地にして訓練にここで励んだ。
(三)
誠第204戦隊の話は長い話しとなる。印象的な逸話を一つ紹介して終わろう。
208戦隊は二回に別れて出撃する。一回目が、5月20日だ、栗原義雄を隊長として八塊から五機が出撃していった。二回目7月13日だ、陸軍最後の特攻となる。小田保也を隊長として花蓮港南から7月19日に4機が飛び立った。しかし、これに搭乗するはずの中田輝雄軍曹が直前になって変更された。心の準備が整って本人も出撃するつもりになっていた。が、これを外されたことが終生の悔いとして残った。彼女の奥さんは中田芳子さんだ。
その心境を彼女は私に手紙にかいてくださった。
夫の内面 ほんとうに今思えば私たち夫婦のそれは壮絶な戦いでした。生きることに意味を感じられない、例えば美しい朝わたしたちは「ああ、生きていて素晴らしい!さあ、今日も!」そう思えるはずです。
でも主人は踏み出す一歩がみつけられなかった。それもずっーと。これは誰に何と説明しようもない……そう「ジレンマ」でもないし自責でもない、強いて言えば心の破壊?
それほど「自分だけが生きている」ことが辛かったのだと思います。
中田さんのご主人は平成十二年(2000)七十四歳で亡くなられた。その中田さんは奥さんの知らないうちに辞世の歌を書き残していた。
幾山河 戦の友がらと
空にて逢わん 五十年(いそとし)すぎて
(四人での記念写真、右から漬物研究家の鈴木裕さん、娘さん、中田芳子さん、わたし)
2025年10月10日
下北沢X物語(5271)―常陸教導飛行師団発足の第56振武隊―

(一)特攻へ行って死んだ者へどう弔意を表すか?問われることがある。私の場合は、埋もれてしまった彼らの事績を書き残すことが鎮魂に繋がると思っている。旧水戸東飛行場跡まで行ったのはそのためである。三年ほど前に『台湾出撃沖縄特攻』を上梓した。これは台湾八塊飛行場から沖縄へ出撃した隊の記録をまとめたものだ。当飛行場からは32名が沖縄へ出撃している。この中の一隊が誠第208戦隊である。隊はこの水戸東飛行場から出撃している。このうち9名は特攻戦死している。「水戸つばさの塔」の園内には、水戸東飛行場から出撃した特攻の歴史経過を記した石碑がある。「由来記」と記されたものである、ところが誠第208戦隊のことは記されていない。
由来記
昭和十三年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し、水戸陸軍飛行学校が開校、通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官、少年飛行兵等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。昭和十五年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。戦局の要請により昭和十八年八月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。昭和十九年六月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編、精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。この地にあってその職に殉ずる者および、昭和二十年二月十六、十七日の艦載機群邀撃等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於ても電鍵を片手に華と散った者数知れず、更に昭和十九年十一月以降、特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第二十四振武隊、第五十三振武隊、平井隊、 誠三十五飛行隊、第六十八振武隊の勇士七十余人は相ついで進発、レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。昭和二十年四月、師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。ここに終戦三十周年を期し、関係者ならびに有志相計り、この戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念してこの塔を建立する。
水戸東飛行場の歴史がここには記されている。設備、施設、機能などが総合的に整えられていたことが分かる。終戦末期になって運用の改善が行われ、「常陸教導飛行師団」が誕生した。当地出撃の機については隊名が記されている。ただ、文中に「平井隊」という用語が出てくる。これはどんな隊なのか調べたが不明であった。
(二)

石碑に記されている第五六振武隊は、三式戦、十二機、十二人からなる隊で、十名が特攻戦死している。この隊の一人が「きけわだつみのこえ」の巻頭に「所信」が載せられている上原良司少尉である。
記録によると1945年「4月15日に調布飛行場にて、常陸教導飛行師団で陸軍航空士官学校第57期池田元威少尉を隊長として編成された陸軍特別攻撃隊第56振武隊に配属となった」とある、彼の乗機は3式戦(飛燕)である。この機は調布飛行場で受領したようだ。
特攻で出撃する場合には故郷訪問が許される。故郷安曇野には4月6日帰郷している。彼の妹は登志子さんだ。彼はこう言ったという。
「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは、愛する人達のため。戦死しても天国に行くから靖国神社にはいないよ」と話すのを聞きました。幼なじみの友人には「死地に赴くのに喜んで志願するものは一人だっていない。上官が手を挙げざるを得ない状況を作っているのだ」と話したと言います。
「上原良司と特攻隊」(改訂版)安島太佳由 企画作品 2022年発行
特攻を募ると誰もが競って手を挙げたという。特攻には根底には国家のプロパガンダが潜んでいる。上官たちが特攻に志願するような下地造りがあってのことというのはうなずける。若い彼らはそそのかされたとも言える。
後胤という言葉がある。子孫とか末のことを言う。皇室の後胤は大きな問題になる。が、しかし一般人の後胤は特攻ではないがしろにされる。死ねば胤は尽きてしまう。このことにどれだけ泣いた母親がいたか。
(三)

誠第204戦隊のことだ。台湾から出撃したこの隊員は、9名が特攻戦死している。
残存隊は同期会を作って毎年隊の名、どおり二月四日に全員が集まって靖国神社に参り、終わった後に九段会館で同期会を開いた。
今夏、世田谷平和資料館資料館主催の講演会があって保坂正康さんが話をされた。
戦争後遺症というものは語られることがない。外国などでは医学的な手当が確立しているが日本にはない。戦後、雨後の竹の子のように戦友会が発足をした。同期が集まって戦争を語る、これが戦争後遺症を癒やしていた面があると。
とても納得できた話しだ。が、その戦友会は、ことごとくが高齢化の進行とともに潰え去ってしまった。
2025年10月08日
下北沢X物語(5270)―常陸教導指導団出撃の特攻機―

(一)閑散ローカル線の旅は最も好むものだ。何することなく移りゆく車窓を眺めて行く。畑に鍬を振る老人、田舎道を自転車を漕ぐ少年、草を食みながら流し目を送る牛など見飽きない。美しい絵景色を堪能して行く旅には自由がある。この旅の最後にたどりついたのは「つばさの塔」である、ここから飛行機に乗って殉死した人々を忘れまいと建てた碑だ。「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」と言う名言を吐いた彼もここから飛び立った。彼の言う自由とは何か、心置きなく自然を眺めたり、おこうこを食べたり、恋人を抱いたりすることだ。が、特攻は惨い、一切の行動が奪われ、ひたむきに死に向かわされた若者たちである。いかな国家でも精神の自由は奪ってはならぬ。特攻兵を偲ぶとき、その作戦の過酷、苛烈さが思われてならない。
戦史を学習していくと一つの用語にぶつかる、「常陸教導飛行師団」である。
戦争末期陸軍中央は飛行学校と航空整備学校を軍隊化した、このときに組織を改編して明野教導飛行師団と常陸教導飛行師団ができた。
後者は、すなわち、常陸教導飛行師団本部は水戸東飛行場にあった。この跡に「水戸つばさの塔」が建立されている。
私は、ここを訪れようと「ひたち海浜鉄道」平磯駅で下車をした。子猫が待っていた。駅から塔まで歩いて行った。途中地元民の柴 九月一日さんに出会った。それで場所が確認できた。
(二)

県道176号から県道108号線へひたちなか市新光町に来たときに白い立て看板が目についた「水戸つばさの塔」と記されている。一角が公園になっている。奥に「つばさの塔」があった。基部に菅原道大書(陸軍中将) とあって「散る桜 残る桜も ちるさくら」
と彫ってある。碑については、こうある。
常陸教導飛行師団で編成された特攻隊は、 比島方面二隊、沖縄方面一〇隊の合計一二隊であり、突入者は九五名で、それ以外に特攻隊に指定されていて戦死や殉職した者が一八名いる。また別に本土防空作戦で体当たりして戦死した者が六名いる。この塔は右特攻戦死者をはじめ水戸飛行場に関係ある戦死、殉職者七〇九柱を祀ったものである。
ここからは、陸軍の比島航空特攻が二隊が出撃している。この隊の総称は八紘隊である。1944年11月2日に大本営から発表された神風特別攻撃隊の戦果は国民に大きな反響を呼んだ。陸軍もこれを受けて特攻隊を編成した。その総数は十二隊だ。
第2 一宇隊 一式戦 12機
第10 殉義隊 一式戦 12機
一宇隊については解説のYouTubeがある。
特攻戦死した喜多川等の許婚の短歌が載っていた。
あたためてあげたき己がこの胸に
今尚水漬く君が屍を
特攻戦死者の屍はいまも皆水漬く屍である。米軍は戦後墜落機の徹底調査を行っている。機が墜落した場合、事後処置をどうするかまでが計画としてあったようだ。日本軍にはそういう計画は全く無かった。
(三)
私がなぜ水戸東飛行場に興味を持ったか。2022年に『台湾出撃沖縄特攻』上梓した。ここでは台湾八塊飛行場から出撃した隊を中心に描いたものだ。この中で飛行第204戦隊が1945年5月20日に五機、 7月19日に四機が出撃している。
「水戸つばさの塔」には由来記があって出撃機が記されている。が、水戸東から出撃しているはずなのに飛行第204戦隊の記述はなかった。なぜだろう。
(平磯駅で待っていた子猫。大洗沖で漁船によって引き揚げられた二式戦闘機の残骸)
2025年10月07日
下北沢X物語(5269)―土地の文化を古老は語った―

(一)
会津と水戸を巡る鉄道旅に出た。行程の途中、二つの場所を歩いて訪ねた。それは会津中学と水戸東飛行場である。前者は特攻隊員・長谷川信少尉の母校、後者は特攻出撃基地であった。どちらも駅から遠く、バスにも乗らず、ひたすら歩いた。かなりの距離だった。だが思う。学生にせよ兵隊にせよ、かつての人々は歩いたのだ。長谷川信は漕艇部員で、会津若松から猪苗代湖まで歩いて行ったという。土地の風光を感じるには、やはり歩くに限る。旧会津中学は鶴ヶ城の向こうにあった。道中、その城が見えた。なるほど、彼もこの城を眺めながら歩いて行ったのだなと思った。
昔からの習慣で、列車に乗ると必ず車窓に目を遣る。田地田畑が広がって見える。特に目についたのは稲田だった。刈り取られた田もあれば、まだ青い田もある。中でも、倒れた稲とそうでない稲の差が印象に残った。その違いは手入れにあるのだろう。篤農家は稲架掛けをして乾燥させていた。手間暇は並大抵ではないと思った。
まず只見線に乗って会津若松に至り、翌日は水郡線で水戸へ向かった。土地にはそれぞれ固有の風合いがある。山間部の生活は質素で、平地に出ると家々の佇まいも豊かになる。太平洋側に近づくにつれ、土地は明るさを増していった。
水戸に泊まり、翌朝は勝田へ。ここから「ひたちなか海浜鉄道」に乗る。ローカル私鉄である。この沿線にコマツ重機の工場があるという。
「通勤は皆、車ですよ。電車に乗る人はいません」
土地の人の話である。動き出した電車も、乗客はまばらだった。
(二)

平磯で下車した。電車は空っぽになった。
駅前には一匹の子猫が待っていて、「ニャァ」と鳴いた。
駅から県道176号中根平磯磯崎線を歩く。二車線で歩道はない。車が疾走していく。危険を感じながら歩く。だが、どこまでも平地が続く。全体が平坦地で、なるほど飛行場があるわけだと納得した。
沿道は一面の畑地。どこまでも芋畑であった。人家は点在し、車は通るが、人影はない。昨今の田舎はどこも同じで、道を尋ねたくても人がいない。
県道を歩いていくと、ようやく人影を見つけた。逃してはならぬと走って追いつく。
「つばさの塔へ行くには、この道をまっすぐでいいですか」
「そうそう、まっすぐでいいんですよ……平磯から歩いてきたの? 那珂湊からのほうが近いんですよ」
彼は散歩の途中だった。御年八十六歳。日々歩いている人はやはり元気だ。終戦時、六歳だったという。当時の記憶を語ってくれた。
「戦後はね、ここ一帯が米軍の射爆撃場だったんだ」
水戸東飛行場と、現在の「国営ひたち海浜公園」を含む広大な土地がそれにあたる。1973年にようやく返還されたという。
「子どもの頃は、訓練が終わると射爆場まで行って薬きょうを拾って、それを古物商に持って行って小遣いにしたものだよ。でもね、空薬きょうだけじゃなく実弾も混じっていて、火薬が爆発して指を失った女の子もいたんだ」
射爆場時代、米軍は我が物顔でここを使用していた。なかでも「ゴードン事件」は有名である。超低空飛行の米軍機が、自転車に乗っていた親子を死傷させた。米軍は「異常高温による事故」と発表したが、地元の人々は多くがいたずら飛行だったと信じている。
調べると、「日米行政協定により日本側の第一次裁判権が放棄され、捜査も終了した」とある。お咎めなしのまま、彼は本国に帰った。今なお見直されることのない日米地位協定である。新政権もまた、日米従属の維持が予想される。
このところ新聞は「日本初の女性首相誕生」と騒いでいるが、まるで批評性がない。最近は新聞を読むのが苦痛になってきた。
(三)

「この辺りは干しいもの産地なんだ。それでね、射爆場の中に松林があるんだよ。許可を取って松葉を拾い、肥料にしている。土は黒土で、芋の栽培に適しているんだ。風がいいんだね」
「それって筑波おろしですか?」
「いやいや、違うよ。海風さ。塩分を含んだ風が吹いてきて、芋を熟成させるんだ」
「なるほどね」
「でもね、台風が来ると芋がやられる。ところがよくしたもので、海から来る台風は房総半島が防いでくれるんだ。自然の防風山のお陰で、ここにはあまり強い風は吹かないんだ」
古老は、土地の文化を語った。彼の名は柴 九月一日という。
(写真、列車を見送る親子。城は鶴ヶ城。電車はからっぽ)
2025年10月05日
下北沢X物語(5268)―鉄道文化論:只見線をゆく―

(一)旅に出るとよく分かる。地方に行くと人がいない、が、東京に戻ってくると人が気持ち悪くなるほどいる。この国家のいびつな発展が実感できる。小出の商店街を歩いたがアーケード街はシャッター街、車道だけは行き交う車でせわしない。ローカル鉄道が廃れるはずだ。その典型が只見線だ、全長135.2km、新潟県の小出駅と福島県の会津若松駅とを結んでいる。言えることはたらふく車窓が楽しめることだ。山峡の自然が堪能できる路線だ。もうこの線、何度乗ったか分からない。ただ今回は沿線の過疎化が一層に進んでいることを実感した、無住の大きな屋根の家が目についた。過疎化、高齢化は深刻である。

只見線の存続が危うい。「只見線にみんなで手をふろう条例制定10周年記念」も危機意識の一端を表している。駅に着く度に人が迎えに出て手を振ってくれる。乗客ももらった団扇を振ってこれに応えていた。通りかかった学校の二階の窓からは学童が手を振っていた。
地元民と乗客とが手を振って別れる。滅び行く線を乗客に印章づけようとする活動だ。只見線が走ることによって地域が生かされている。
しかし、現実の生活では車である。買い物、病院、学校へは小回りの利く車が一番だ。列車に人は乗らない。それで鉄道ダイヤは痩せ細っていく。
沿線の過疎化は毎年深刻化している。特に目についたのは山間部、集落は軒並み廃墟化している。田舎の家は大きい、それだけにもったいなく思える。
(二)

只見線は好きだ。もう何度乗ったか分からない。長大路線でたっぷりと車窓が楽しめる。山峡があり、峡谷があり、木々の緑、田地田畑がある。なんぼう乗っても景色ばかり。
小出を出てしばらくは田圃が続く、この駅の住所は、新潟県魚沼市だ、米の産地である。
案内放送があって右手にカントリーエレベーターが見えてくる。「JA 北魚沼藪神」のそれだ。米の一大産地である。山から流れてきた清水が米を育てている。
やがて「魚沼田中駅」ここにも地元住民が出てきて手を振ってくれる。乗っている乗客もうちわを振って応える。
駅に着くと突然大勢が乗り込んで来た。地元の動員組か。
「前に河川の決壊で長い間不通になっていたときがありましたね」
前に座った人に話しかけてみるが反応はない。不思議に思っていると次に停まった駅でバスガイドが乗り込んできて
「団体のお客さんはこの駅でおしまいです」
ツアー客が只見線の体験乗車をしていたのだと分かる。
調べてみたら「2025年10月1日で、全線再開通から3年を迎えたJR只見線。」とある。
再開通によって乗客は増えたがまた減ってきた。観光振興策として地元に動員をかけて列車を見送っているようだ。
(三)

只見線の紅葉は有名だ、が、これだけで人を呼び込むことは難しい。沿線の家々は過疎化が進み、車窓から無住の家々が何軒も見かけられた。地方は人が減っていくばかり。
過疎地域の鉄道は、どこも窮乏している。運営側の鉄道会社も財力がない。根本的な問題は都市、都会への人口集中である。東京に戻ると駅には気持ち悪くなるほど人がいた。過密と過疎。行ってみないと分からない。
経済は窮乏してきている。なのに国防費を増やそうとしている。人々の生活の安定などは二の次だ。地方ローカル線問題は深刻だ、そう言えば、列車が走る度に木々の葉っぱがぶつかってくる。線路保守などにも金をかけなくなっている。地方ローカル線は危うい。
2025年10月04日
下北沢X物語(5267)―鉄道文化論:車窓もまた老いてゆく―

(一)もの心ついて以来、車窓を見続けてきた。その旅に出た、今回は只見線、水郡線に乗ってきた。ひたすらに車窓を眺めてきた。振り返ると若いときは山、川、海を眺めてきた。が、年老いた今、これまでと違って視線が変わってきた。谷筋を見るようになっていた。蔭の部分である、谷あいの棚田、人家などである。すると必然的にお墓がよく目につく。墓の多寡は土地の歴史を著している。土地が裕福な分人は手厚く葬る。もう墓はびっしりだ。めくられていく車窓には墓ばかり。現在老齢化の進行は顕著だ、生まれる子よりも死ぬ人の方が多い。車窓の墓面積はどんどん増大していくはずである。
只見線は上越線の小出から出る。二時間ほどの待ち合わがあって町を散歩する。魚野川を渡ると小出商店街だ。アーケードは立派だが人はいない、商店もあらかた閉まっている。
「うん、さびれたね。昔はね、みんな雁木だったんだけど今は皆アーケードなんだ」と地元古老。
「私は神奈川なんだけどね、縁故疎開でここに引っ越してきてそのまま居ついてしまったわけさ」84歳になると彼は言った。(名前を書いたメモをなくした)
「思い出しましたよ。さっき清水トンネルを潜ってきましたけど、東京から新潟に疎開に来た子がトンネルがあまりにも長いので東京に帰るのはきっぱりと諦めましたと言っていました」
「なるほどね、東京は遠いからね。けども今は新幹線、苦も無く峠は潜り抜けるからね」
(二)

「人は減っていくけどお墓は増えるんだよ。しかし、もう建てるところがないんだ。代々のお墓だって先祖で一杯だしな。そればかりか持ち主不明の墓ばかりになっちゃったんだ昨今の人は信仰心をもたないから、故郷のお墓はうっちゃっておくんだね。ただね子孫というのは子ができないと家系は続かない。若い人は結婚しないでしょう。結婚が成り立た
ないと、墓も持たない。もう今は墓の面倒を見る人がいないんだよ。むずかしい時代だね。うちのお墓を見せてあげようか。」
こちらは昼ご飯を食べていないので、どこかで食べようと思っている。が、彼は私の意向に関係なく歩きはじめる。いくうちに雨が降ってきた。すると 後ろから車がやってきた。乗っていたのは奥さんだ。
「行ってしまうと帰ってこないときもあるんですよ」
「そうなんですか」
「あなたどういう人ですか?」
返答に窮した。なりゆきでお墓を見にいくことになった。
「世間話をしているうちに盛り上がりまして」
もしかして詐欺かもしれない。そう奥さんは思ったかもしれない。が、私の話を信用したようである。
「お墓の担い手がいなくなってね、このままでは保守が難しい。公園墓地みたいなものにして共同管理するみたいな話が今、計画として出ているのですよ」
道々ご主人はそう話してくれた。
「また小出に来たときはうちへ寄ってください」
ご主人を家に送り届けて別れた。
(三)

小出駅に着くとうちわを配っている人がいた。それにはこう記してあった。
「只見線にみんなで手をふろう条例制定10周年記念」
13:12分小出発、会津若松行きは出発した。各駅には動員された地域住民がいて懸命に手を振ってくれた。
一日四本しか走らないローカル線、都市と田舎を繋ぐ閑散線だが地元には命綱である。各駅を一つ一つ拾って行くが人の住まない家が目についた。
人間いずれは亡くなってしまうのに、家はみな大きい。が、今、継ぎ手を地方は失っている。それでもローカルは命綱、これの存続に向けて皆一生懸命だった。
(写真 水上駅。土地の人に案内されてお墓見学、小出駅)
2025年10月01日
下北沢X物語(5266)―北沢川文化遺産保存の会会報231号―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第231号
2025年10月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1、下北沢は詩人のまち きむらけん
「下北沢文士町文化地図」は、現在9版である。改稿に改稿を重ね、一帯に居住する文化人の旧居をマークし続けてきた。「よくまあこれだけ調べられましたね」と人には言われる。しかし、全貌はよく分かっていないというのが本当のところである。
文士たちが多く集っていたのは確かである。それは詩歌人である、詩人、歌人、俳人である。これらはみなさすらい人である。実際にどこかからやってきて当地に寄留し、しばらく経つとどこかに行ってしまう。まさにさすらい人である。つまりは寄留期間が短いのである。だから痕跡が残っていない。
下北沢はさすらい人が集まる町だ。長く住んだ人の代表格としては萩原朔太郎、三好達治がいる。この二人は当地で終焉を迎えている。この二人もよくいう、流れ流れてきて当地に住んだと。自らをさすらい人だという。
下北沢はさすらい人が集まる町だ、これは交通によるところが大きい。具体的に言うと鉄道が交差していることだ。それは小田急線と井の頭線である。特徴は利便性である。近代の感性にあっている。当地にはさまざまなものが集まっている。手軽に降りて行動ができると言う点がある。
昔から歯科が多い、ちょっと降りて歯医者に、教会も多い。ちょっと降りて礼拝に、現在はスタジオが多い、ちょっと降りてスタジオに、ちょっと降りて演劇を見るもありだ。 ちょっと集まって句会をする、ちょっと集まって歌会を開くというのは盛んだった。有名なのは中村汀女だ、この間、茶師の大山景源さんに会った。彼は俳句をたしなんだ。彼は汀女さんの会に入っていた。下北沢在住の人は多く彼女の句会に入っていたと。
俳人では宇田零雨、上甲平谷、歌人では尾山篤二郎、清水乙女などがいた。
福田正夫は詩人である。下北沢に多くの詩人が集まってきたが彼の影響によるところが大きい。彼は早くに下北沢に住んでいる。
彼はもともとは小田原在住である。ところが大正十二年(1923)九月一日の関東大震災に出会い無一物となった。福田正夫全詩集年譜にはこうある。
十二月一日、福田家の事業を捨て、臼井四郎の援助にて東京市外世田谷下北沢八〇九番地に居を定め、一家を挙げて上京。
彼は、「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人である。それでこの下北沢の家に多くの詩人が集まるようになる。しかしこの場合の下北沢というのは京王線笹塚に近かった。この線は市電で単行であった。ゆえにこの電車を利用して詩人たちは集まってきた。
「詩神社」、詩の雑誌を発行する会社である。もともとは都内にあったが郊外の下北沢に越してくる。ただこれが何時だったか不明だった。しかし、ネット検索によって「よみうり新聞彙報欄『よみうり抄』・大正十五年(昭和元年)」につぎのような記事が見つかった。
大正十五年三月十六日
▲詩文雑誌「詩神」四月号より市外世田ヶ谷下北沢八百九主観社に発行所を移した。
笹塚を最寄り駅とする「東京市外世田谷下北沢八〇九番地」に大正十二年十二月に詩人の福田正夫が転居してくる。自宅には「主観社」という看板が掲げられた。「主観」という同人雑誌の本部である、詩文雑誌「詩神」もここで発行された。関係者が福田正夫宅に多く出入りしていたのはこれら雑誌の編集所になっていたからだ。
福田正夫の下北沢の家、彼はここから転居して隣町大原に引っ越す。彼は人と接することが好きだった。それで彼のもとには大勢の詩人たちがやってきた。『福田正夫 詩と生涯』(冬至書房新社 1980年)は詩人を偲ぶ追悼文集であるが、多くの詩人が稿を寄せている。このほとんどは彼の家に訪ねてきて親交を深めたひとたちだ。中には石垣りんもいる。
私を含む何人かの女性が、福田正夫の指導でわずか十頁ほどの同人雑誌『断層』を創刊したのが昭和十三年十一月。
福田は女流詩人を育てていた。
福田正夫は、下北沢から西隣の大原に居を移す。ところが昭和二十年五月の山手空襲で焼け出される。それで彼は下北沢に転居してここで生涯を終える。
吉田一穂という孤高の詩人がいる。彼の年譜「定本 吉田一穂全集 別巻」(小澤書店 1993年刊)昭和十三年(1938)にはこうある。
この頃の生活はまさに赤貧状態に達しており、以後二年にわたり福田正夫に物資的な援助を受ける。
福田正夫は面倒見のいい詩人だった。大原や下北沢に居住ているときに多くの詩人の精神的、物質的な支柱にもなっていた。これによって当地に住まいする詩人が多く集まってきた。下北沢はさすらいの詩人が多く集まる場だった。吉田一穂もこの下北沢に住んでいた時期があった。最近分かったことで言えば『若き日の詩人たちの肖像』を描いた堀田善衛も下北沢に住み、当地では三箇所を渡り歩いていた。
以前に、下北沢に密集している詩人たちのことを私は、こう書いていた。
改訂8版「下北沢文士町文化地図」には新しく旧居が判明した者を加えた。全体で詩歌人だけで20名ほどいる、加えて、詩歌関係では居住が分かっていても場所が分からない者もいる、宮柊二、吉田 一穂、伊藤信吉、別所梅之助、大岡竜夫、福田蓼汀、志田義秀、志田延義、志田素琴などだ。これとて氷山の一角だ、三十数人の上にさらなる人間関係を加えればどれだけ詩歌人が集まっていたかは分からない。「下北沢文士町」は詩人密度日本一というのははったりではない。なぜにかくほどに詩歌に関係する者たちが集ってきたのか?今は創られた街に魅せられて若者が集まってきている。が、詩は金ではない、心だ、かつてはこれに恋い焦がれて青年は集まってきていた。抒情の集まる街だった。
昭和初期頃は、文学青年たちは熱病に浮かされるように詩に憧れた。故郷にいて、上りの終列車のテールランプを見ると青年は熱病に罹った。金より心の時代だったと言える。
谷川俊太郎は、青年に詩人をめざすなと言ったという。理由は、詩人になったとしても食えないからだ。が、それでも詩は心を捉えて放さない。今でも趣味で詩を書いている人は多い。
2、文化サロン開催のご案内
期日は11月1日(土)14時から 邪宗門にて
こんどは十一回目となります。文化サロンと言っても雑談会ですが、三人寄れば文殊の知恵、会話を通して学ぶことが多いと思います。おもしろいのは断片的に蓄えられていたことがふとした会話によってつながり、真実を知ることはよくあります。
広瀬正二さん、森茉莉が倉運荘に住んでいたとき、彼女の真上に二年間も住んでいたとのことです。森茉莉のボロアパートはよく聞く話です。
「倉運荘はボロアパートで隙間だらけなんですよ。朝日が壁の隙間に昇ってくるのです」
この証言はとてもリアルなものだと思いました。サロンではこういうリアルなこぼればなしが聞けるところがおもしろいと思います。
会費はとりません、各自が飲んだものを各自が払うというのが参加条件です。どなたでも参加できます。どうぞおいでください。
3、代田の空襲とダイダラボッチ

28日の文化サロンでおもしろい企画を話し合った。これには代田の空襲を調べている伊東光子さんが参加された。代田一丁目の笠原一守さんも。
空襲もダイダラボッチも代田の伝承として伝えていかなくてはならない。それで「代田の空襲とダイダラボッチ」をアピールする会を開いたらどうかと。
12月に守山地区会館でやってみようかと思うのである。
4,シモキタ愛が、あふれだす。
下北沢は、懐かしくて新しいまち。ローカルでグローバルなまち。そして、人が主役のサブカルのまち。「下北沢あっぱれストーリーズ」は、そんな下北沢を愛してやまない人たちや所縁のあるモノ・コトについて、ダンスドラマや音楽ライヴ、トークショーなど多彩なメニューで表現するステージフェスです。あなたの知らない物語と、あなたと共につくる物語で、明日のシモキタ愛を紡ぎます。
これは一般社団法人「あびラッキー」が主催するイベントだ。
10月12日(日) ステージ1=13:00/ステージ2=18:30/交流会=21:00
10月13日(月祝) ステージ3=13:00/ステージ4=18:30。
前列指定席 4,500円(税込)後列指定席 3,500円(税込)
これは「下北沢あっぱれストーリー」で検索すると予約サイトがヒットする。
きむらけんは、2日目に出演する。
5、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第210回 代沢の戦争逸話物語を歩く 案内人 きむらけん
日時 10月18日(土)13時00分 池ノ上駅改札集合
代沢地区に残る戦争逸話痕跡を歩く・駅→海外植民学校跡→半藤一利旧居→杉山元帥旧居跡→東条英機旧居跡→横光利一旧居跡→佐藤首相旧居跡→東郷青児・宇野千代旧居→北沢八幡神社(大東亜戦争碑)などを歩く。(一帯は、高級住宅地『清風園跡』)
終了後 代沢地区会館 第1会議室にてまとめの会 17時まで
第211回 次太夫堀を歩く〜二子から丸子へ〜
日時 11月15日(土)13時30分 東急田園都市線二子玉川駅改札前集合
案内者 木村康伸
概要:世田谷区内を流れる次大夫堀(丸子川)に沿って歩き、この地域の知られざる歴史をたどる。
コース:二子玉川駅→上野毛自然公園→六所神社・善養寺→谷沢川合流点→宇佐神社・伝乗寺→田園調布八幡神社・照善寺→多摩川台公園→多摩川駅
*この行事せたがや広報に掲出を依頼する。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて500円 町歩きの参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む 宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net (211回は 600円)
■ 編集後記
▲毎回、エッセイや論考を募集しています。ぜひご投稿ください。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)会費は。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506
会費未納の方は、会費をよろしくお願いします。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を徴収している。
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。
下北沢X物語(5266)―北沢川文化遺産保存の会会報231号―
1、下北沢は詩人のまち きむらけん
2、文化サロン開催のご案内
期日は11月1日(日)14時から 邪宗門にて
3、代田の空襲とダイダラボッチ
4、シモキタ愛が、あふれだす。
5、町歩きの案内
第210回 代沢の戦争逸話物語を歩く 案内人 きむらけん
日時 10月18日(土)13時00分 池ノ上駅改札集合
代沢地区に残る戦争逸話痕跡を歩く・駅→海外植民学校跡→半藤一利旧居→杉山元帥旧居跡→東条英機旧居跡→横光利一旧居跡→佐藤首相旧居跡→東郷青児・宇野千代旧居→北沢八幡神社(大東亜戦争碑)などを歩く。(一帯は、高級住宅地『清風園跡』)
終了後 代沢地区会館 第1会議室にてまとめの会 17時まで
■ 編集後記



















