2025年11月
2025年11月30日
下北沢X物語(5306)―北沢川文化遺産保存の会会報233号―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第233号
2025年12月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1、邪宗門と片岡義男 きむらけん
(一)
月日が経つのが恐ろしいほどだ、この12日17日に我らの会は、創立21年を迎える。多くの活動を行ってきた。その重要な活動の一つとして「下北沢文士町文化地図」の発行がある。現在、配布しているの9版である。驚くことなかれその総発行枚数は9万部に達している。現在最新版は配布中である。2024年3月20日に発行した。これまで桜祭りなどで配布をしてきた。後、残りがどのくらいあるのだろうか。
地図の発行は、情報発信である、これによって間違いが分かったり、また新たな発見があったりする。やはり年月が経つといろいろなことが分かってくる。新たな居住地情報などは大切なものだ。堀田善衛は下北沢では三箇所で住んでいた。一箇所は掴めたが他二箇所は分からない。
最近知ったことで言えば片岡義男は、代田に25年間も住んでいたことが分かった。二箇所に分かれているがこれはだいたい見当がついている。ただ彼の場合は存命している。
我らの場合は、物故者の旧居を地図に載せている。それでこれは載せられない。
私は、片岡義男のことは知らないでいた。文化サロンで話題にすると、皆はよく知っていた。出席者の松山信洋さん、小説だけではなくハードボイルドも書き、音楽とか詩とか、総合芸術的な発信をしていたと。
なんとまあ、灯台下暗しだ、さらにびっくりしたことがある。片岡義男は店の常連であったことだ。
「片岡義男がうちの店によく来ていたということを知ったのは後になってからですよ」
邪宗門の若主人が言う。
「あるとき珈琲のことを書いた著作が送られてきたのです。そこにうちのことが書いてあったのですね。それで常連客と知ったのですよ」
その本は、『珈琲が呼ぶ』(2018年1月20日発行 光文社刊)だった。
邪宗門が出てくるのは「ときには森さんの席に座ることもあった」というタイトルがつけられていた。
片岡義男が邪宗門の近くに住んでいることは分かっていた。
「世田谷代田一丁目、そして二丁目に僕は25年間にわたって住んだ」(『あの道がそう言った』)とあったからだ。代田二丁目は十六番、これは分かっていた。世田谷代田駅前の一角だ。しかし、一丁目はどこなのか分からない。ところが、「ときには……」というエッセイの中に詳細な説明があった。
これまで苦労してきた、作家の旧居探しほど難しいものはない。手がかりは全集年譜である。しかし、これが作られる作家はかなり限られてくる。
全集に載っている住所は、旧住所だ、これがくせ者だ、旧の場合は1156番地とかが書いてある。ところがこれだけでは分からない。この場所が広範囲なのである。
これまでの経験では、作家本人を知っている人がいて教えてくれる、というのがベストだ。作家本人が自宅道順を書いている場合も助かる。
当時の僕は、自宅からごく平凡に歩いてその喫茶店まで、六分ぐらいの場所に住んでいた。 梅丘通で宮前橋の交差点に出るすぐ手前の道を右に入り、寺前橋を渡り上り坂の途中の右側にあった集合住宅の三階の部屋だ。
『珈琲が呼ぶ』2018年 光文社刊
これほど丁寧に書いている人は少ない。ここまで書いてもらえれば容易に分かる。寺前橋は、代田円乗院のそばにあることから名付けられたものだ。地図をたどると坂の右手に「鶴ヶ丘パークマンション」がある。これに違いなかろう。
我ら「下北沢文士町文化地図」に作家旧居を記している。が、これは物故者である。片岡義男は存命である。しかし、これは後々のために参考になる。
興味深いのは萩原朔太郎旧居のすぐ側である。片岡は詩も書いている。朔太郎は間違いなく知っている、かの詩人は意識されていたであろうか。
(二)
毎月、代田邪宗門で文化サロンを開き、文化を語っている。文化とは何か、土地固有の空気を言う。当地一帯は沢の町、丘があれば川もある。前者は日向臭い、後者はドブ臭い。空気がまぜこぜだ。山の手的匂いと下町的匂いがする。こういう中で育った作家が片岡義男である。この代田には25年間住んでいたと。著作を漁ってみると世田谷代田や下北沢のことが頻繁に出てくる。土地へのこだわりがとても深い作家だ、青春期に当地で過ごし、この土地の文化にすっかり馴染んでいる。世田谷代田や下北沢の固有性は吹きだまりだ。かつて集まったのは若い詩人、今は演劇人や音楽家だ。彼らは未来に対しては希望的だ。吹きだまりにはこそっと香水も匂っている。これもまた文化の片鱗だ。女性の色香である。
当地域で書かれた作品は数多くある。が、土地環境と本人との関係を描いた作品は少ない。が、片岡義男だけは異なる。彼は青春時代25年も代田に住んだという。彼の作品には世田谷代田、下北沢が頻繁に出てくる。地域文化が作品に滲み出ている。彼は代田の丘上に住んだ。その空気感はおしゃれである、干した布団は日なたくさい。近隣には知識人が住み、そのお嬢さんはみなかわいらしい、近隣からはピアノの音が流れてもくる。丘上は自由に満ちていた。片岡義男はこの土地の趣を細かく描いている。土地の文化と作家とを考える好個の例ではないか。
先に紹介したのは「ときには森さんの席にすわることもあった」(『珈琲が呼ぶ』光文社 2018年刊)である。この続きだ、彼は「邪宗門」で女性編集者と会う約束をしていた。家から店までの径路が文章に出てくる。
歩いて六分は所要時間であり、歩き方の経路には何種類もあった。その日の僕は、最も単純に歩いた。 集合住宅を出て、坂を下り、用水路を暗渠にして緑道と称している道を鎌倉道通りまで歩き鎌倉橋南の信号で梅丘通りを渡り、最初の脇道を右へ曲がった。
この記述から片岡義男の日常が想起できる。近隣を歩きまわることが好きだった。目的地に行くまで径路を変えて行っていた。同著にはこうある。
邪宗門へは何度も行った。自宅からちょうどいい距離にあった。店に入るなら、それはまごうかたなき喫茶店でもあった。歩いてそこまで行く径路には、すでに書いた通り何種類もあった。しかし、いくら複雑に歩いても、それは代田一丁目の中のできごとであった。
片岡義男の文章表現には道順がよく書かれる。下北沢から自宅に帰るにはどう帰ったかの細術もあった。駅西口から鎌倉通りを通っていく順路である。
(三)
六月の曇った日の午後には平凡に歩けば六分ほどなのに、三十分近くかかった。代田に住み始めたのは十三歳の夏からだからそのときすでに二四年も僕は代田の住人として過ごしていた。子供の頃にしばしば見た景色を一つずつ確認しながら歩くと、三十分近くかかった。
記述が具体的で径路が目に浮かぶ。家から坂を下ると寺前橋だ、彼はすぐそばの円乗院に入って境内の六地蔵を見たり、蓮の花を見たりしたのだろう。寺からは東にいくと、空中線を十二本の電線が横切っているのが見える。左手の丘上には鉄塔が聳え建っている。「代田の丘の61号鉄塔」である。この鉄塔を眺めて行ったことだろう。
ここら辺りに住んでいたのは萩原朔太郎、古関裕而だ。そして片岡義男、三人に共通するところがある。歩きながら材を拾うという点である。朔太郎は漫歩と称して近隣をほっつき歩いていた。とふと足を停めてはは懐からノートを取り出し思いついたアフォリズムを書き付ける。古関裕而も近辺を歩き回った、根津山(現羽根木公園)まで足を伸ばした。自宅に帰って来ると座卓に就く。ピー缶一本取り出してこれを吸う。吸い殻を灰皿に押しつけて、今度は鉛筆を取り出す。そしてやおら五線譜におたまじゃくしを書き込む。散歩中に貯め込んだ曲を一気に吐き出すように書き付けた。
2、文化サロン開催のご案内
期日は12月27日(土)14時から 邪宗門にて
こんどは十三回目となります。よく続いています。個別個別人の歴史は違います、町の思い出も違います。土地の文化を話題にすることが多かったですが、話題にする話は当然皆違って違います、それぞれが見聞したことを話していると思いがけない逸話を聞き知ることがあります。そこに発見があります。「欅の大木があってその虎落笛が俳人を隠岐の旅に誘ったのです」(加藤楸邨)と。これは新たな文化発掘だと言えます。土地の匂いをみんなで語る、そこにこそ文化がある。文化は参加して楽しむことです。今度は一年の終わり、一時を文化を語って楽しみましょう。
会費はとりません、各自が飲んだものを各自が払うというのが参加条件です。どなたでも参加できます。どうぞおいでください。
3、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第212回 ダイダラボッチ歩いて、語る(代田空襲も)
期日 12月13日(土)12時30分 小田急線世田谷代田駅 集合
コース 駅→ 代田吹上館屋上から駅前の足跡を見学→ダイダラボッチ川跡 → 出頭山跡 → 庚申塔→ ダイダラボッチ跡見学 → ダイダラボッチ本家看板
→ 守山地区会館・
ダイダラボッチを語る 場所守山地区会館第4会議室13時30分頃から17時まで 内容・ダイダラボッチの紙芝居 笠原一守さんほか
・幻想朗読劇「ダイダラボッチ」朗読 幾田充代、渡辺睦子、佐藤智恵、村上剛
・世田谷代田の空襲について 伊東光子さん(新婦人代田班)
・ダイダラボッチ討論会 谷亀緑郎 笠原一守 きむらけん
第213回 生田散策と新年会〜庄野潤三旧宅、明治大学平和資料館〜
期日 1月24日(土)午後1時半 小田急線「生田駅」改札前(1箇所)集合
案内者:きむらけん(補佐 幾田充代さん)
概要:新年の新しい企画 郊外にある作家・庄野潤三の旧居(「山の上の家」)をのんびり歩くものです。生田駅を出発し、庄野宅近くでは上り阪を登っていきます。復路では、明大生田キャンパスにある「明治大学平和教育登戸研究所資料館」に立ち寄ります。生田駅前に帰着後、庄野潤三行きつけだったという中華店「味良」(みよし)にて新年会を催します。コース:小田急線「生田駅」出発→庄野潤三旧居「山の上の家」→明治大学平和教育登戸研究所資料館(16時閉館)→中華店「味良」で新年会(17時〜19時)参加費:散歩費不要、新年会予算4千円/人
◎費用及び申し込み
参加費用500円 参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む
212回は先着20名要申し込み 宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
編集後記
▲毎回、エッセイや論考を募集しています。ぜひご投稿ください。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)会費は。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506 会費未納の方は、会費をよろしくお願いします。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を徴収している。
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。
2025年11月29日
下北沢X物語(5305)-吉本ばななの都市観-

(一)下北沢への都市観を誰がどう持っているかは興味深い。街の核を『街の座標』と捉えた清水博子の切り込みは素晴らしい。日野啓三は井の頭線下北沢3号踏切を渡っていく人をまるで舞台上の役者だと言ったのも都市批評だ。「この駅を囲み残りし家群よ 二十年わが住みし町よ」と詠んだのは堀内通孝、駅は下北沢だ、これも都市批評の一端だ。現役作家はあまり扱わない、がm偶然手にした『下北沢について』は立派な都市批評だと思った。年齢は61歳だという。作品には少女時代から惹かれていた街だという。経年的に観察してきた街が見事に描かれている、肌感覚的都市論だと思った。
深い共鳴と共感とを覚えるのは踏切だ。
下北沢にはもう一つ、忘れられない風景がある。
鎌倉通りを代沢に向かっていく元大きな踏切のあたりだ。
『下北沢について』 幻冬社 2016刊
小田急線の踏切だ、が、元とあるから小田急線が地下化した後のことだ。この踏切は小田急3号踏切と言っていた。鎌倉道踏切とも言う。
この一帯、下北沢の典型的な「沢」である、その凹みはお盆、いえばミニチュアの盆地である。降りる道は坂だ、「あの道よくベンツが転がり落ちてくるのよね」、「なんたって美女だよ、ヒールを履いた美女がカツカツと音を立てて転がり落ちてくるんだよ」
踏切では多くが死んだ、犬もだ。これはシェパードのジローだった。
「すぐそこ丘の上に名倉次郎という英文学者がいましてね、私が飼っていたジローをぜひともほしいということであげてしまったのですよ。しかしね、あの鎌倉踏切で轢かれて死んでしまいましたよ」
(二)

時代は変わった。鎌倉通りが坂を下りた凹みについ数年前まで日本家屋が建っていた。「うちの海棠が見事で土手をいく小田急線からよく見えた。季節になると皆乗客は眺めていったもんだよ」
古老の佐山一雄さん自慢していたがもう家はない。今は真新しいビルが建ち「Et-THECULTURALCOFFEEHOUSEE」となった。吉本ばななの記述の中にも古くからあった店がなくなって瞬く間に新しい店となった、あのおじさん、おばさんはどうなったろう。
下北沢鎌倉道踏切近くの佐山家には何十回も通った。忘れ去られた文化を私は彼の口を通して聞き取った。得がたい記録である。
吉本ばななは下北沢3号踏切辺りに漂う、おしゃれさとか異国観を感じとっているがそれはよく分かる。
踏切の南面は丘だ、上の方に俳人の中村汀女が住んでいて、彼女はそこを緑丘と言っていた。邸宅は広く庭木が生い茂っていた。ここに英文学者の名倉次郎が住んでいた。すぐそばは森葉子の実家である。
外国人留学生を受け入れていた実家には外人が多く出入りしていた。吉本ばななは踏切近くの家で絵に描いたような若い外国人の嫁を持つ二人と出会っている。
なんてかっこいい光景だろう。住宅街にロッカー夫婦、そして子どもたち。
「私は心底そのかっこよさにしびれ」と書いている。この谷はそういうところだった。
佐山一雄さん、家の前にあったのは経済書出版の千倉書房の倉庫、もぐりこむとそこには外車のデソートが置いてあった。やはりかっこいい、手で触りまくったと。
(三)
『下北沢について』の冒頭は、こうある。
よくよく考えてみると、下北沢に住みたいと思ったのは二つのきっかけがあった。
亡くなった父親と下北沢を歩いたことが忘れられなかったようだ。
(下北沢タウンホールでダンスをする青年)
2025年11月27日
下北沢X物語(5304)-坂口安吾と原発と日本人の執念 -

(一)新潟日報は地元密着した報道機関だ、原発についてはとくに綿密に報道している。集積した記事は全国民に公開していてネットでこれが閲覧できる。柏崎刈羽原発の再稼働も官及び政府が積極的に介入している。その集積した記事の一端だ、「交付金制度によって『アメ』と『ムチ』」を使い分け、立地自治体をコントロールしようとする国の姿勢は変わっていない。」と。協力すれば自治体に金が入る、しなければ搾る。これは最も効果的である。東電の地域支援という名目で10年程度にわたり、「総額1千億円規模の資金を拠出」するも同様である、金でがんじがらめにして再稼働させる。原発は心配だから稼働させないでくれという民意などは金で吹き飛ばされる。国家は原発推進機関だ。
我らは新潟日報と縁がある。2007年12月3日 - 世田谷区立代沢小学校校地の一角に『坂口安吾文学碑』を建てた。大田区矢口にあった安吾旧居の門柱をもらい受けて建碑したものである。実は、この門柱の持ち主は新潟日報社である。坂口安吾の兄献吉は同社の社長を務めていた。安吾はその関係で社有地に住んでいたようだ。
煉瓦造りの門柱は新潟日報所有のものだった。代沢小には坂口安吾が代用教員として務めていた時期があった。そのときのことを『風と光と二十の私』に書き残している。そんなことから私は、新潟日報東京支社に赴き、門柱を譲渡してくれるようにとの要望をまとめ、これを提出した。その関係で新潟日報社に何度も訪れた。
(二)

坂口安吾は小説家であるが優れた批評家である。独自の考えを作品に発表している。昭和23(1948)年作だから原発はない。が、『ヤミ論語』というエッセイでこう述べる。
必要は発明の母と云い、禍を転じて福となす、災害にこりる、こりるということは大切なことだ。こりないことは、罪悪だと私は思っている。
日本人は地震にこりないのである。近頃の有様では、殆ど戦争にも、こりていないようである。 「坂口安吾全集 06」筑摩書房 1998(平成10)年
懲りる、大事なことだ、「痛手をうけ、二度とやるまいと思うことだ」。地震は何度も経験している。が、時が経てば忘れる。地震はひずみの蓄積によって起こる。一度起こってもまた必ず起こる。しかし、人間は忘れてしまう。懲りることはない。
戦争もそうである。我々はあの戦争を経験した。日本の諸都市は敵機によって大半が空襲被害を受けて焼けた。ことに広島長崎の原爆は悲惨だった。確たる見通しもないままに戦争を始めたことが失敗だった。そういう経験から戦争経験者は「もう二度と戦争はするな」との忠告を遺した。が、昨今の社会の風潮は戦争を国家が近づけているように思う。
防衛費の増強、長距離ミサイルの配置、武器輸出の解禁などきな臭い話しがでてきてどんどんと進行している。原子力潜水艦の所持までもが議論されるという。政府は敵は軍備を増強している。いつ攻めてくるかわからないと。危険を煽って軍備を増やす、常套的なプロパガンダである。
一つ一つのことを考えると戦争への道をまた再び歩こうとしている。
あんなたくさんの犠牲者を出しながら、また再び戦争への道を歩こうとしている。
この国は懲りていないのだ。
(三)
原発のことでは大きな問題にならないが。私が危惧していることがある。「放射能が安全なレベルまで下がるのに10万年を要する」ということだ。原発を動かせば、高レベル放射性廃棄物が出る。これをどのように処分していくか。あまり議論されていない。原発はトイレなきマンションと言われるはずだ。
私が思うのは時の時の風化だ、これにどう向き合うかという問題だ。高レベル放射能廃棄物は、土を深く掘って安全容器に入れたものをここに永年貯蔵するようだ。十万年とすれば何十年にもわたってこれは引き継いで行かなくてはならない。ここで問われるのは民族の執念である。守り切って先々の祖先に実害を与えないようにしなければならない。そういう根性や執念をどう持てるか。これははなはだ心許ない。
坂口安吾は、『日本文化私観』の中で日本人の特徴を論じている。伝統的には確固とした復讐心を持っている人間とされているが、「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。」と述べる。日本人は淡泊で諦めも早いという。疑問に思うのは十万年にも亘って執念深く、放射性物質のありかを後代の人々に果たして伝えていけるだろうか、そういう疑念を深く深く持つものである。
(写真は大田区にあった安吾旧居の門、銀杏は東光寺、今日撮ったもの)
2025年11月26日
下北沢X物語(5303)-柏崎刈羽原発再稼働について-

(一)震災、戦災、そして原発災害、人は皆忘却する。あの未曾有の原発災害ですら忘れつつある。が、東日本大震災以来停まっていた柏崎刈羽原発である。22日新潟県はなずみ英世知事が稼働を容認し再稼働へ動き出した。これは単に一地方の問題ではない。発電されても新潟県民は恩恵を受けない。電気は首都圏へ送られる。が、原発事故が起これば即刻地元民が被害を受ける。遠隔地にいる都民は安泰だ。他者に危険を押しつけておいて安楽な生活を送っていいものなのか。柏崎刈羽原発再稼働は、首都圏に住む我々と無関係ではない。柏崎刈羽原再稼働については既に市民が反対運動を起こしている。その彼らが掲げるプラカードには、「県民意識の6割が再稼働の条件が整っていない」と掲げている。地元民の多くが望んでいない再稼働には間接的に関わりのある一都民としては反対だ。
新潟市民は、早速に運動を起こしている。BSN新潟放送はその様子を早速にネットに挙げている。
『県民投票』の実施などを訴え 市民団体が“人間の鎖”で新潟県庁を囲む【東京電力 柏崎刈羽原発】」
花角英世新潟県知事の東京電力・柏崎刈羽原発再稼働“容認”表明に反発する市民団体が、25日に抗議活動を行いました。
「再稼働の是非は、私たち県民が決めたーい!」
『人間の鎖』として新潟県庁や県議会を囲み、県民投票の実施や再稼働反対を訴えました。
【新潟市中央区の70代男性】
「怒り満杯です」
「約束守れ!ちゃんと数字に基づいたことで決めろ!」
「言葉は荒いけど、ここにいる人みんなそう思っていますよ」
【新潟市北区の80代女性】
「やっぱり県民投票をしていただきたい」
【柏崎市の80代男性】
「何も県民の意見を聞かないで一方的に判断したと思っています」
(二)

柏崎刈羽原発の再稼働は一地方の問題ではない。我々日本人全体の問題だ。
原発を取り巻く問題は山積している。過酷事故を起こした福島第一原発は廃炉作業を行っているが溶けたデブリを取り出すめどは立っていない。廃炉までどのくらいかかるかの見通しさえ立てられない。が、廃炉、それと被災住民への補償ということで東電は大きな負債を背負っている。柏崎刈羽原発を動かせば稼げる。この稼働は東電にとっても国にとっても悲願である。が、地元民にとって恩恵の少ない原発再稼働については歓迎されていない。それで、東電は地域支援するといことで、10年程度にわたり、「総額1千億円規模の資金を拠出」するという、言えば迷惑料である。しかし拠出する方の懐は痛まない。電気料金に上乗せしてこれを東電管内の各家庭から徴収される。
新潟県民の原発再稼働に関しての意見では「約束を守れ!」とある。これは現知事が選挙に出馬するに当たって掲げた公約のことを指摘している。
その公約である。
「原発については3つの検証をしっかり進め、その検証結果が出るまでは、再稼働の議論はしません。国や東京電力には県民の安全最優先の姿勢で向き合います。そして、原発に依存しない社会の実現を目指し、県民の安全・安心を守ります。」
原発に依存しない社会の実現を目指すなら再稼働はすべきではない。もう一つ「県民の安全最優先に姿勢」というが多くの県民は不安を抱えている。25日の朝日新聞は「豪雪 原発避難できるのか」と問うている。市民が納得できる対策は示されていない。
「納得できる対策を示さないのは、楽観主義に思える。起こりえないという原発事故が福島で起きたのだから」と一人の市民は言っている。原発は手に負えない代物だ。発電すれば高濃度汚染されたゴミが出る。これをどう始末するのか、これの見通しすら全く見えていない。
柏崎刈羽原発で発電された電力の大部分は都市部で消費さる。繁栄した地域の大量消費の生活が地方からの搾取によって維持されている。都会は繁栄し地方は衰える。原発は格差を生んでいる。都民はぬくぬくと生活できるが、が、原発で過酷事故が起これば地方は衰退する。原発は人間の平等をぶち壊す近代機械である。
(写真:新潟放送より)
2025年11月24日
下北沢X物語(5302)-多摩川左岸東京防衛ライン-

(一)今、社会の空気は異様である、それを今朝の新聞では、「緊張を高める高市発言に喝采し、異論を封じる国内の空気」と言い表している。ネットが荒れている。が、アルゴリズムが作用しているのだろう。自身のフェィスブックに流れてくる情報は真っ当だ、共感できる記事ばかりだ。が、とあるリベラル系の識者が「Xを止めました、とんでもない数のいちゃもんをつけてくるのです」と。高市政権になって右花が開いた。いけいけどんどんだ、中国と一戦を交えるかもしれない。非核三原則は見直す、原潜所持を検討する、武器輸出を行う、財政規律のタガはずして予算の大盤振る舞いなど、この国家は戦争に向けて準備をし始めたように思われる。そういう政府指針に対して、待っていました高市さんと国内挙げて賛同する風がある。戦争経験者は言った「二度と戦争はするな」と。成長戦略もなしに皆、どんどん貧乏になっている。「戦争をやらかせば日本は豊かになるんだよ」とでも思っているのだろうか。
幸田清和さん古老の話だ。満洲新京に滞在していたが、満鉄に務める父親が、家族で滞在していると諜報上問題がある、ということで彼の家族は日本に引き揚げた。台湾出身者は湾生というが中国からの引き揚げ者は中生とでも言うのか。
標準語を話し、ズボンもはき、靴も履いていた彼はたちまち標的とされた。
「先ず私を見る目つきが違うのですよ。とんがっているのです。私はよそ者扱いですね。いつなんどきやられるか分からない。だからいつも小型の武器を持っていました。小刀とかの……」
「日本の学校では必ずイジメがありますね。特徴的なことは徒党でやってくることです。一対一でやることはない。みなつるんでいるんですね。それで誰かが止めに入るなんてことはないですね。」
(二)

「そうそう日本社会の病巣ですね。軍隊時代から変わっていませんね。私は予科練生の話を聞いたことがあります。懲罰がありますね、誰かが血祭りの犠牲者になるのですよ。いわゆる見せしめ懲罰、上官が部下を精神棒でひっぱたく、『とくにその者がひどい間違いを犯したというわけでもでないのに、選ばれた者はとことんやられました。半殺しになるんですね』と軍隊時代に経験した人が言ってました」
大人の世界はもちろんのこと子どもの世界でもあった。こちらは若いだけに抑制が効かないということはある。疎開における女子のいじめはすさまじい。炬燵の上に一人一人が順番に乗せられて見ているものが肉体の欠点を言い合う、自分の番がいずれは回ってくるからあることないこと言ってしまう。思い出しただけでも反吐がでると言っていた人がいた、何十年と経過しているのに覚えていた。「いじめ」は、この島国にはいまだ巣くっている。
幸田さん、自分を守るのは自分しかいない。いじめから逃れるには自分を鍛えるしかない。ということで空手を習った。
自学自習、彼は徹底している。転職してIBMに入った。英語が必須だった。
「東大出にはかないません。しかし、うち勝つ方法がありました。語学に堪能になることが大事だと思いました。英語を本気で学びました。それでまず読むことからはじめました。懸命に原書を読みました。英語は日本語と違って名詞が多いんですよ。それを追っていけばいいのです。自然に頭に入るようになりました。アメリカへの往復は時間がかかるでしょう。そのときは原書を数冊持って行って往復する間に数冊読めましたよ」
英語は学ぶのに易しいというのは初めて聞いたことだ。幸田さんはシステムエンジニアだ、もともと英語には慣れていた。が、IBMへの転職で英語力がより求められた。それで気合を入れて読むことに徹したという。多読すれば頻出語が自然に分かってくる。頻度の高い名詞をマークしていった。そうしているうちに英語力がついた。何百冊も読んだと言われる。
(三)

人間は年老いて行く、何十年と歩いてきたから歩くのには自信がある。が、この頃、街中では人に追い抜かれる。身体が衰えてきたかと思いもする。が、通勤歩きと、散歩歩きは違う。ゆっくりと歩いて景色を見ていく。
今日は田園調布まで歩いた。が、残念ながら富士丹沢は見えなかった。が、多摩川台後援の紅葉は美しかった。
(四)
この間の町歩きで多摩川台に来た。映画新ゴジラでは、ここが絶対防衛ラインとなって、
丸子橋付近一帯の河川敷を戦場としてゴジラを迎え撃ったとのこと。
昨今の隣国との摩擦、異様ではないかと思うの中国バッシングである。根源は高市発言にあるのにネトウヨは、ここぞとばかり中国を叩いている。
人々の煽りが、戦争に駆り立てることはありうる。今、日本の空気は危ないところにきている。ひょっとして多摩川左岸が東京の防衛ラインになるかもしれない。
(写真、多摩川台公園、田園調布、今日撮った写真)
2025年11月23日
下北沢X物語(5301)-老いを生きるということ-

(一)幸田清和さんは邪宗門でよく会う。新京生まれの御大は88歳である。彼に感ずることはひたむきさだ。感心するのは課題克服へのたゆまざる努力である。何事に対してもいつも懸命である。この間会ったときに、書きものをしておられた。「何を書いているのですか?」「昔、空手をやっていたときのノートがあるのです。三十冊以上ありますね。その一冊一冊から大事な要点を書き出しているのです。基本は形なのですが大半は忘れていますね。書いてあることを頼りにイメージを蘇らせてこれを整理するのですよ」彼はペースメーカーをつけている。身体は自由には動かない。が、イメージで形を再現している。それを聞いて年老いても懸命に生きておられるのだと思った。生きるということはたゆまず努力を続けることである。
今日、昼間、三軒茶屋で幾田充代さんに会った。
「やっぱり歩きですか?」
「はい、このごろは三軒茶屋はもう徒歩圏内です。意地というわけでもないのですが歩きますね。『なんぼう歩いても道は続く』のですよ。血流とか、循環とか、やっぱりこれが促されますね。ついさっき路地で会ったおばさんと話しましたよ、木蓮の葉を掃いていました。『木蓮の葉は一目見て分かりますね。桜などと違って自分のところの樹の落ち葉と分かるから、放っておけませんよね』と言ったら彼女『そうなの』と言って笑っていました。路地歩きの小さなドラマです……」
「ただね、この頃物忘れをするんですよ。家から西に行くと川にぶつかるんです。ところがこの名前が出てこない。『あれ、何だっけ?』、だいぶ考えも出てこない。けども出てきたんですよ。矢沢川でした。これは忘れてはいけないと思いました。そのときにふと思いついたのですよ。『あっ、栄ちゃんだ』と、矢沢永吉ですよ。ここから定理を思いついたのです。『栄ちゃんは矢沢川』、これって必要ですね、忘れた名前は、連想法で取り戻すって……」
「幾田さん、沼部の早川製麺を知っているでしょう。『名前を忘れたときに』、東京駅から駅名を言っていくんですよ。東海道線は、記憶取り戻し法の立派なものさし。『東京。新橋、品川、川崎、横浜……ずっといって小田原、その次が早川、『そうだ早川製麺だ!』ってなるんですよ。
「ずいぶん遠いのですね」
(二)

幸田清和さんの話だ。
彼は新京生まれである。
「父親は満鉄に勤めていたのですよ。しかし、家族と一緒に生活をしていると、何か諜報上差し障りがあるらしいのですね」
お父さんは要職に就いていたと推測される。家族間の会話を通して情報が漏れることが心配されたのだろう。
「そんなことから家族は日本に引き揚げることになったのです。」
新京から日本へは汽車と船とを乗り継いでいった。
「長い旅路でした。大陸を横断し、朝鮮半島へ大回りをして釜山に着き、関釜連絡線で日本に帰ってきました。窓から見える風景は、大陸とはまったく違っていましたからね。まったく違う世界に来たように思いました」
新京は平原にある、が、朝鮮まで来ると山がある、そして最後は海だ。車窓を通して世界を知る。
そして、日本の田舎文化に触れる。最初は福岡だったと。
「学校なんかは、新京の方が立派でしたね。それでいよいよ学校に通うわけです。私は新京では標準語で話していましたね。これが田舎の子には通じないのですね」
『東京から来た子は東京弁でしゃべるんだよ。何かね気取っているよ。あいつらズボンをはいてさ、靴を履いているんだよ』
疎開学童と同じだ。すぐに分かるのは学力差である。
『東京弁で答えを言うんだよ。あれがしゃくだよ』
都会から来た子は異星人だ。
(三)
都会っ子が遭遇するのは、いじめである。
『日本の学校は、ひどいですね、福岡でも千葉でもいじめられました。これは今でもかわりませんね。子どもだけに際限がないのですね。結局だれも守ってはくれないのですよ。自分を守るには自分しかいないのです』
(幸田清和さんと私、邪宗門にて)
2025年11月21日
下北沢X物語(5300)-人生の真理はブルー:彫刻家岩野亮介展-

(一)日頃接しているのは時間芸術である文学だ、これに対比されるのが空間芸術である。ここの差異を個展を観て学んだ。展示してあるのは人像だ。これは静止している、像は停まったままで存在する。私たちはこれら作品を観るときは表情を見る。「笑顔というのは難しいですが、フランスには笑顔を描き続けた画家がいます」と岩野さん、それはフランス・ハルルだった。笑っている人物画を多く描いたことから「笑いの画家」と呼ばれたと。見ると皆、笑っている。が、この類例は多くはない。人生は至福ではない。悲しみや苦悩が人生である。笑いは溶けてゆくものだ。それゆえに芸術家は腐心する。人々の日常を描くとき自然に見えるのは岩野さんに言わせると「不機嫌」だという。確かに言われるとそうだ。笑ってはいない、沈思黙考、何かを考えているように見せることが肝要である。
人物の表情をどう描くかというのは芸術の根本だ。笑顔も一つである。しかしこれは人生の一断面にしか過ぎない。長い人生を考えたとき笑った時間はどれほどあるか。
「おれはな人生を笑って過ごしたよ」
こう豪語する人がいるかもしれない。が、時間にしてみるとせいぜい一二週間程度だろう。あとはしらふである。ゆえに尽きるところ、これをどう描くかであろう。これは至難である。が、芸術家はつねに迫られる問題だ。
(二)

岩野亮介展会場は、「下北沢 マサコ・パルファン店」である。初めていく店だ、下北沢駅西口から行った。まず道を右へ曲がってそして左に折れる。ふと気づいた、萩原朔太郎下北沢旧居へ行く道だ。図ではつぎの路地を左に入る、が、何となく感じが違う。曲がった先のすぐ右手だ、位置は同じである。行ってわかったことは、朔太郎旧居の一本手前の路地だった。
毎年、朔太郎の忌日には『下北沢猫町散歩』を実施している。この『猫町』は、朔太郎が代田居住時代に描いた短編作品を指す。詩人は毎日医師の指示にしたがって「十四、五町」ほどの散歩に出る。そのときにタイムスリップして夢のような町に出くわす。が、何のこともない、気づくと「何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎなった」、夢から覚めるとそこは下北沢一番街の十字路にほかならかった。
『猫町』は、彼の作品の一つ『定本青猫』から派生したものだ。この「青猫」とは何か、筆者は自らこの序で解説をしている。
著者の表象した語意によれば、「青猫」の「青」は英語の Blue を意味してゐるのである。即ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲労せる」等の語意を含む言葉として使用した。
さて、読者諸氏、お気づきであろうか。岩野亮介氏は彫刻表現の核心は「ふきげん」だと言われたことを。
(三)

朔太郎の代表作は、『氷島』である、ここに収められた「新年」は、この下北沢の家で詠まれたものだ。あまり関係がないが、下北沢 マサコ・パルファン店と朔太郎旧居はたった40メートルの距離だ。
『氷島』は、下北沢を離れ、代田1丁635番、すなわち世田谷区地域風景資産「代田の丘の61号」直下で編まれた。この作品冒頭は『漂泊者の歌』だ、自己人生を高らかに謳っている。第四連の最終章である。
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
主題は何か、「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」つまりが、岩野亮介氏言うところの「不機嫌」なのである。人生の真理はブルーである。(了)
(作中 引用文 典拠『萩原朔太郎』 日本詩人全集14 新潮社 1966年刊)
2025年11月20日
下北沢X物語(5299)-彫刻家岩野亮介の芸術論-

(一)「肖像の研究pt.12 岩野亮介展」を観た。「どうして黒人をテーマとして作品を創るのですか?」「もともと関心が深いからなんです」と岩野氏。確かに黒人には魅力がある、彫りが深い、その表情は奴隷として生きてきた歴史の片鱗が刻まれているように思う。おなじみの女のしほちゃんが展示されていたが、日本人は彫りが浅い。こういう場合どこに特徴を出すのだろうと思ってみると唇に妙な色気がある。ここがポイントなのかと思った。展示場所は下北沢のジャズ喫茶「マサコ」だ、店内にはジャズが鳴り響いていた。John Brownの全身像は座っている。が、呼気をしていてジャズを聴いているように思えた。
「この前の展覧会はいつでしたか」
「祐天寺のは7月ですね」
「そうでしたか。あちらとこちらではだいぶ違いますか」
「やはり、この下北沢の方が人は来ますね」
祐天寺は鉄道結節点の中目黒の隣だ。下北沢の隣の世田谷代田みたいな感じがする。
「やっぱり下北沢ですね、なんといっても鉄道交差は強みです。ちょっと降りて岩野亮介展へというのは芸術感覚としては似合うのかもしれませんね」
下北沢は文化が吹きだまってくるところ、まさにその一画、ジャズ喫茶マサコで人像の個展である。場、そしてここの空気感とがフィットしている。
岩野さんは芸術家だ、実際に作品が展示されている。展示されているものを観ると、聞いてみたくなる。
「顔を描くときは、ポイントというのはあるのですか、唇とか鼻とか。」
「いえそういうのはありませんね」
やはり大事なのは全体であるようだ。
岩野さんは、木や紙粘土で人形を造るという。顔は像の決め手となるものだ。像を造る過程での苦労が偲ばれる。表情を創り出すために細心の注意を払って粘土を削ったり、加えたりした。作業から離れても、「あの頬の肉はもう少しそげ落とす」などと考える。
(二)

像の創り手は何に心配りするのだろうか。
John Brown像を見ていると血の気が通っているように見える。これは岩野さんの技なのだろう。あたかも生きているように見せる。これが勘所ではないか。
7月に個展を開きそしてまた今度11月にこれを開いた。3,4ヶ月何をしていたが想像できる。絶えず考え、そして創ってきた、芸術家の宿命である。
想起されるのはバレリーナの鍛錬である。一日稽古を休めば自分に分かる、二日休めば師匠に分かる。そして三日も休めば観客に分かる。
岩野さんがどうしていたかは分からない。が、絶えず考えたり創ったりしていたのではないかと思う。
岩野さんと話していて知ったのは芸術なるものの時間観である。彼は、ストップ・モーションということを口にした。映像を停止させること言うようだ。が、彼は像は停止したとある瞬間を描いたものだという。問題は、その瞬時の捉え方である。
人は動く動物だ、顔の表情もさまざまだ。泣いたり、笑ったり、怒ったりと。そのどんな瞬間を写し取るかという問題だ。
新聞記者は写真を撮るときに「笑ってください」という注文をつける。前に経験がある。家に新聞記者が来て写真を撮るときに同様の注文をされた。驚いたことに数日経って中央紙の三面トップに載っていた。
「だいたいこういう三面には凶悪犯が載るからね。」
駅の売店のおばさんの批評だ。
しかめっ面した犯人の写真がよく載っている。市民のちょっといいエピソードを載せるときには当人の笑顔が必須だったと知った。
「笑顔は難しいのです」
岩野さん、人形の表情ことを言っている。
(三)
人間の情動は動く、笑顔は瞬時を写し取った一つだ。が、笑顔というものは消えていく。ものである。人は知っている、笑顔は儚いと。張り付いた笑顔を作品にするのは至難だという。では、芸術家は、笑顔ではなく何を描くか。
「それはですね……」
彼はそれを教えてくれた。なるほどと思った。(続く)
(写真、John Brown像と岩野亮介さん、下北沢マサコ・パルファン店前で)
2025年11月18日
下北沢X物語(5298)秋のどかな町あるき-次太夫堀をゆく 2-

(一)用水歩きをするときにいつも思うのが先人たちの自然への畏敬の念である。用水は創るときに掘削はするが自然を壊さない。自然地形を最大限に活用し、大地が創った勾配を巧みに利用して田地田畑への水を遠くまで送った。現今太陽光や風力を利用して発電を行っているがこれは著しく自然破壊をしている。森林を広範囲に伐採して太陽光パネルを設置する。山の尾根筋を削って風車を設置する。これによって生態系が破壊されている。熊の出没が大きな話題となっているが、環境破壊によって山中にいられなくなった動物が里に出没するようになった。原因のは人間が創り出している。自然そのものを大事にして用水を掘った人々とは全く発想が違う。現今の開発は、金目筋を求めて傍若無人に自然が破壊されている。地球温暖化はそのしっぺ返しだ。
用水沿いをのんびりと下る。国分寺崖線がずっと左側に続く、赤や黄色に染まった紅葉が美しい。
やがて前方に高架橋が見えてくる。第三京浜だ。このあたりを岸という。
かつての多摩川は蛇行していた。ここら辺りに緩やかな流れがあって筏が係留されたと。そのときにここで筏から薪や薪炭が降ろされた。これが一帯の生活用材として運ばれたという。川下り船頭の副業である。
筏流しは青梅辺りで切り出した杉などの材を下流に運ぶ。単純に材木を運ぶだけかと思っていたらそうではなかった。今で言えば「筏のヤマト運輸さん」だ。筏は空荷だ、ここがもったいないと活用されたようだ。
多摩川上流の産物が筏で運ばれた。薪や薪炭、キノコや栗、胡桃、イノシシや鹿の肉などが運ばれたのだろう。
(二)

多摩川両岸には同じ地名があるのは知られた話だ。等々力は典型的な例である。この地名は音が轟くから来ているようだ。これは土地の高低の落差から瀧が落ちたり、土砂がくずれたりするときに発生する。左岸には国分寺崖線があって高低がある、右岸は概ね平坦である。ということからすると左岸で生まれた語であろう。
多摩川は蛇行していた。これが河川改修などによってまっすぐになった。それで等々力地区は西と東とに分断された。
「田園調布側に住んでいる地主さんは、今でも川崎側に土地を持っておられますよ」
田園調布から参加された人の話だ。
野毛の渡し跡には石碑が建っている。
「ここは飛び地耕作のために欠かせない渡しだったのです。地名に昔の生活が映って見える。これはまさに民族学である。
渡し場には二艘の船が用意されていた。一艘は伝馬船で、領主からの拝借金によって新造した。もう一艘は徒歩船で、村民が作物の獲れ高に応じて修理に必要な金を負担していた。(資料集より)
「両岸にゴルフコースがあってプレイする人を運ぶ渡し船がありましたが、たしかもういまはなくなりましたね」と地元の人。
(三)

国分寺崖線の尾根筋には上流から下流までずらりと古墳が並んでいる。なぜに築造されたか、埋葬者の権威づけ、防災、尾根上にあれば流されない。景観、埋葬者が富士や丹沢を望める場所に埋められることで魂を慰めたなどが考えられる。
崖線の下道歩きはのんびりとして楽しい。つぎは尾根筋だけをたどるコースを設定して古墳巡りをしようかと考えている。
(最後の三人は野沢有さん、木村康伸さん、きむらけんだ)
2025年11月17日
下北沢X物語(5297)秋のどかな町あるき-次太夫堀をゆく-

(一)15日、211回目の町あるきを開催した。驚きだもう20年も続いている、しかしイベントは伝わらないと人は集まらない。今回は、世田谷区教委の後援を得て区報に載せた。見知らぬ人が集っての秋の日の町あるきは楽しかった。「人と歩くと知らず歩数が増えていくのです、ああ一万歩を超えた!」と参加者の野沢有さん。歩きは健康にもいいし心にも糧になる。人生何と言っても歩くに限る。今回は二子玉川駅から多摩川駅まで歩いた。根の道をゆく小旅行だ。根は崖縁、いわゆる国分寺崖線縁の道、いかだ道でもある、筏下りの船頭が荷を多摩川河口で下ろし、これを伝って青梅へと戻った。根道ゆえに平坦だ、ゆえに牛馬も通ったろう。地元民も通った。「今度できた野毛のお墓は立派だ、日が当たると光って見えるよ」などと話したろうか。
出発地点は二子玉川駅である。かつての印象は多摩川河原に近い、ほこりっぽいという印象があった。が、田舎くささは今はどこにもない、郊外のおしゃれな町として人気がある。
区報での公募なので初参加の人もいる、ちゃんと集まれるかという不安があった。しかし、歩く人は風体が他と違うようだ。嗅ぎ分けて来るらしい。時間前に集まった。
案内は木村康伸さんだ。世田谷の古道や水路を案内してきた。
ここ二子玉川は大山道が通っている。隣の用賀からは崖線を急坂で下る。行善寺坂だ、下り切った道が鍵型になっているのは坂道を勢いよく降りてくる人馬などを停める役割があったと。
すぐ側の高架を田園都市線が走っている。かつては玉川線、路面電車は急坂を登るときモーターは独特のうなり声を上げた。
二子玉川国民学校の学童は信州浅間温泉に疎開した。まずこの電車に乗って渋谷まで、崖線の坂にかかると吊りかけモーターは独特の音を出した。
「電車に乗ると坂を登って行きました。二子の町が下に見えていてだんだんに小さくなっていきました。家とはお別れだなと思うと涙が出てきました……」
学童の感想である。
(二)

崖線の基部である根道を用水に沿って歩く。左岸の台地は緑で蔽われている。もう紅葉が始まっている。
「この用水は多摩川中流域の和泉堰から取水しています。下流域になるといわゆる汽水域になります。海水が混じってくるのですね。農業用水に使えない。それで汽水域を避けて中流から取水をしたのです。もう一つ利点があります。国分寺崖線は水瓶でもあるのです。貯め込んだ水がハケから流れ出てきます。用水の水が増えるのですね。これも人間の知恵ですね」
と案内者の説明。
上野毛自然公園に行き着く。緑豊かな崖線の自然がそのまま遺されている。
「崖線の上はいわゆる邸宅街ですね、眺望がいいのですね、富士丹沢が見えます。景色が見えるというのもステータスですね。」と私。
高いところから景色を見るというのは、人間という動物は好きだ。動物の本能に由来するものがある。「眺望隠場理論」である。自分は安全なところにいて密かに敵の動きを眺め見る。これはやはり高いところに限る。
(三)
道道の雑談が楽しい。土地の値段の話、土地広告は皆一億円はする。
「誰が買うんだろう?」
「うちの近くも更地が売り出されましたけど、やはり億ですね。見学に来る人は中国人が多かったですね」と田園調布に住む人の話。
東京は、普通人が住める町ではなくなりつつある。
2025年11月15日
下北沢X物語(5296)―日本帰還:米兵所有の特攻機の破片2―

(一)特攻機のパーツを所持している米国人が、日本の遺族にこれを返却したい、ついては当該機と思われる第204戦隊の関係者との接触をしたいとの報が、私のBlogにあった。 2023年11月09日のことだ、協力する旨のコメントを返したが返答はなかった。当事者の岡田節子さんは各方面に声を掛けた。このことが2024/08/14 の読売新聞に掲載された。
「あの時の特攻兵の遺族を捜して…戦友亡くした祖父から託された機体の残骸、届けたい米国人男性」との見出しである。戦隊は戦後に「飛行204会」を結成し、毎年2月4日に靖国神社に詣で、そして九段会館で戦友会を開いていた。しかし、人は老いていく、関係者の多くは物故された。新聞の呼びかけに応える者はなかった。部品を所持している米フロリダ州在住の会社員マーカス・クレイコムさんはこの8月に仕事の関係で来日した。このときに部品を岡田節子さんに渡し、後事を託した。
金庫の金属片
米フロリダ州在住の会社員マーカス・クレイコムさん(写真)。祖父のジョン・トロイヤーさんは1944年に米海軍に招集され、高速輸送艦「レジスター」の乗組員になった。
「『Kamikaze attack』で友人ら複数人が死傷した」。祖父は特攻を受けた経験を10代だったクレイコムさんに語って聞かせた。決まって、「多くの命を奪う戦争は不必要だ」と口にした。
祖父は2001年に82歳で亡くなる直前、「特攻機の残骸の一部を金庫に保管している」とクレイコムさんに明かした。「艦上で拾った」と言う。金庫を開けると、少しさびた小さな金属片(縦約10センチ、横約25センチ)が一つ入っていた。
飛行第204戦隊は、陸軍だ、1945年5月20日に台湾八塊飛行場から出撃している。機種はキ43隼である。しかし、海軍の神風特攻隊の衝撃は強烈だった。以来、アメリカ人には特攻機はすべて「カミカゼ」だ。
(二)
乗員のジョン・トロイヤーさんは、負傷はすることは無かったがその経験はショッキングなものであった。破片を拾って本国に持ち帰った。金庫にしまったというところは勘所ではないか。彼にとって強烈な思い出だったからだろう。昨年10月、日本への出張をきっかけに事態が動き出した。奈良市に住む友人のリー・ジョンソンさん(55)に打ち明け、協力を求めると、「力になりたい」と引き受けてくれた。
ジョンソンさんの妻、節子さん(56)も図書館に足を運んだり、戦争関連の各地の史料館に電話をかけたりして協力した。
私に協力を求めてきたのが、この節子さんである。彼女は各方面に声を掛けた。
(三)
調査を進めるうちに特攻のことを調べている織田祐輔さん(38)と出会ったという。
織田さんは特攻隊の調査に力を入れており、特攻機の残骸に関する日米双方の報告書から搭乗者を特定した経験もあった。特攻隊戦果調査表などの記録から、レジスターを攻撃したのは、台湾の飛行場から45年5月20日に出撃した「誠第204戦隊」である可能性が高いとわかった。5機が特攻で出撃し、隊員5人が未帰還。残骸は5機のうちの1機のものと推定された。
ここのところが大事だ。5月22日に特攻出撃した隊は二隊あった。一つは知覧から出撃した第50新部隊だ、もう一つが台湾から出撃した第204戦隊である。共に機種は一式戦、キ43隼である。特攻戦死者は前者が9名で、後者は5名である。
記事では誠第204戦隊の可能性が高いと。が、その根拠は示されていない。印象批評的に第204戦隊ではないかとされている。ここはどうなのだろう。
(お寺は東光寺の銀杏)
2025年11月14日
下北沢X物語(5295)―日本帰還:米兵所有の特攻機の破片―

(一)沖縄戦では多くの特攻機が沖縄沖に集結してきた米艦船に特攻突撃した。いわゆる「カミカゼ」は米兵にとっては恐怖だった。つい最近になって得た情報がある。1945年5月20日の薄暮、台湾八塊を飛び立った誠第204戦隊の5機(キ43)が嘉手納西方洋上にたむろする米軍艦船に敵艦船に突入した。このときに「輸送船4,艦種不詳1隻を撃滅」(『戦史叢書』と。当該艦は輸送艦のUSS Registerだった。これに乗船していたのが海兵隊のジョン トロイヤーさんだ。彼は甲板に飛散した特攻機の破片を拾い、米国に持ち帰った。長年金庫にしまわれていた。が。お孫さんマーカスクレイコムさんが、「国を守るために戦った者たちの遺品を故国日本に返したい」と願った。これを知って動いたのが岡田節子さん。当該隊、第204戦隊のことをSNSに記していた当方にも協力の依頼があった。即OKとしたが返答が無い。ところが、11月11日に突然に応答があった、特攻機破片は日本に帰還したと。
まず、最初にコメントがあった、その日付は「Posted by 岡田 2023年11月09日 23:30」だった。これは、下北沢X物語(4044)―記録:誠第204戦隊の軌跡1―という記事に対してだ。
こんにちは。はじめまして。
当方、USSRegisterのキングポストに特攻を成功させた隊員が誠204戦隊のどなたであったかを探しております。USSRegisterが1945年5月20日19:25に沖縄で特攻攻撃を受けた際の特攻機の機体のパーツを持ち帰ったアメリカ人のご遺族が、この破片を特攻隊のご遺族にお返ししたいとのことで、お手伝いをさせていただきます。何かご存知でしたら情報をお待ちしています。
どうぞよろしくお願いします。
私は、即座に返事を返した。
>>1 特攻期日が1945年5月20日であるならば、台湾八塊飛行場出撃の飛行第204戦隊、栗原義雄中尉率いる五名の隊員だったと思われます。直接の関係者はほとんど亡くなっています。私は栗原中尉の遺族を知っているので、ここに書かれたコメントを送ってみます。
当事者は、栗原義男中尉の甥である鈴木豊さんである。彼は栗原義男中尉の出自など詳しく調べていた。
(二)

鈴木さんには連絡を取った。彼からはすぐに返事があった。それで岡田さんには返答をした。
早速に関係者に連絡を取ってみました。飛行第204戦隊の隊長の甥御さんです。鈴木豊さんからは、「叔父たちの特攻では5人と誘導機の一名が亡くなっていて該当の船に誰が特攻したかはわかりません。どのようなものか画像で判断したいのですが。いかがでしょうか。」とありました。画像を送っていただけるのなら送ってください。
Posted by きむらけん 2023年11月10日 09:09
岡田さんからの情報は思いがけないものであった。飛行第204戦隊の乗機はキ43、隼である。米国本国に持ち帰られたという特攻機部品というのは珍しい。先方は、敵戦闘機を操縦していた若いパイロットへ敬意と鎮魂の意味を含めて、遺族への返還を希望しているという。該当者は、鈴木さんの甥御さんではないか。そんなこともあって返答を期待した。
ところがその返事は無かった。
コメント欄には、発信当事者のメルアド欄がある。それも無かった。
ネットは便利である。相互通信がたちどころに図れる。が、宛先が分からなければ、ネットは闇となる。
業を煮やした私は、当Blogに記事まで書いた。「下北沢X物語(4836)―204戦隊関係者は遺品返還を歓迎する― 2023年12月02日」と。
(三)
時間なるものは恐ろしい。時が経てば人間忘れてしまうものだ。特攻機の破片問題はもう記憶から失せていた。そんな時に応答があった。
2025/11/11 07:50
こんにちは。メッセージのお返事をいただきながらメッセージそのことに気づかずお返事できておりませず失礼いたしました。
昨日5月20日USS レジスターに体当たりした特攻機の破片が日本に戻って参りました。(記事URL)https://www.yomiuri.co.jp/expo2025/20240814-OYO1T50048/
追って詳細をお送りするためメールさせていただきます。)
5月20日というのは、過去のことだ。が、5ヶ月前に、特攻機の破片は日本に里帰りをしていたのである。
(写真は、隼キ43、画像はWikipediaから。人物は飛行204戦隊隊長栗原義男中尉)
2025年11月12日
下北沢X物語(5294)―ネットがめくる日米特攻奇譚―

(一)SNS時代の戦争物語に多く遭遇してきた。ネットは広汎でグローバルである、私の発信が台湾まで伝わった。その人は少年時代に日本から来た特攻隊、誠第31飛行隊の隊長山本薫中尉と出会った、邱垂宇さんだ、飛行機乗りに憧れた彼は国軍のパイロットとなっていた。90を過ぎた御大とはついには台湾で出会えた。また新たな出会いだ。今回、この2,3日で起こった出来事である。今度はアメリカだ。この話2年前2023年11月9日に遡る。コメントに「USSRegisterが1945年5月20日19:25に沖縄で特攻攻撃を受け。この時の特攻機の機体のパーツを持ち帰ったアメリカ人のご遺族がいる。この破片を特攻隊の遺族に返還したい」と。私の記事タイトルは「記録:誠第204戦隊の軌跡」だ。この戦隊はまさに当日、薄暮16:50に八塊を飛び立ち嘉手納西方海上へ向かい5機が米艦船に特攻突撃している。その艦船が「USSRegister」だった。遺族は隊長栗原義男少尉の甥鈴木豊さん、私と彼とはこの情報を得て浮き足だった。
今回は飛行第204戦隊の話である。
因縁なるものは不思議である。先月旅に出た。この途中でふらりと立ち寄ったのは「水戸翼の塔」である。旧軍水戸東飛行場跡にこれはある。飛行第204戦隊が飛び立った飛行場である。南方から戦力回復のために当地に戻ってきて再度出撃をした。機種を改編し一式戦�祁燭望茲蟯垢┐拭�最新型の隼だ。
この隊、前半隊と後半隊とがあった。後半については、こうある。
飛行隊長高橋渡大尉以下の後発隊(12機)は、2月16日の米艦載機来襲で若干の被害を受けたが、24日水戸を出発し、上海から台中へ前進した。
台湾に到着した直後、米軍の沖縄上陸を迎え、天号作戦が開始されたため、高橋隊は3月25日づけで第8飛行師団の指揮下に編入され、誠第204戦隊(長 高橋大尉)と呼称された。 出典 「飛行204会名簿」(元飛行第204戦隊) 昭和60年1月。
フィリピンに向かう途中、台湾に着くと米軍侵攻が始まった。それで第8飛行師団傘下に入るようにとの命令を受けた。
(二)
水戸の「翼の塔」を訪れた。旅のついでというもので意図はなかった。ただ飛行204戦隊が飛び立ったところだという意識はあった。
この11月になって、知覧特攻平和会館から「台湾から出撃した陸軍沖縄特攻」開催のお知らせがメールで届いた。ちょうどこれと重なるように岡田節子さんからコメントが返ってきた。台湾がらみの情報である。
岡田節子さんからの件について、「この話2年前2023年11月9日に遡る。」と書いた。このときのコメントには驚いた。特攻機の破片がアメリカに保管されていると聞いて私と鈴木さんは浮き足だった。
記録によるとまさに5月20日に台湾八塊飛行場から沖縄に向けて出撃している。
・第204戦隊 昭和20年5月20日
搭乗機 一式戦 「隼」
栗原 義雄少尉 22 (埼玉) 特操1期
小林 脩少尉 22 (香川) 特操1期
田川 唯雄軍曹 18 (岐阜) 仙本
大塚 喜信伍長 19 (神奈川) 少飛13期
井澤 賢治伍長 20 (兵庫) 少飛13期
当日の戦果については『戦史叢書』沖縄台彎硫黄島方面 陸軍航空作戦(587ページ)に記録がある。
第二十二飛行団は五月二十日、誠第二百四戦隊の特攻隊が一六五〇、八錬基地から沖縄に出撃、栗原義雄少尉ほか四機が敵艦船に突入し、輸送船四、艦種不詳一隻を撃破したと報道した。 (八錬は八塊の間違い)
(三)
2年前2023年11月9日にコメントがあったことは記した。これへの返答は、私はつぎのように書いた。
早速に関係者に連絡を取ってみました。飛行第204戦隊の隊長の甥御さんです。鈴木豊さんからは、「叔父たちの特攻では5人と誘導機の一名が亡くなっていて該当の船に誰が特攻したかはわかりません。どのようなものか画像で判断したいのですが。いかがでしょうか。」とありました。画像を送っていただけるのなら送ってください。メルアドは表紙のトップに記しています。
ところがこれへの返答がなかった。それが、つい昨日だ。2025年11月11日 08:07にあった。何と特攻機の破片は日本に届いていると。(写真は、陸軍八塊飛行場跡で撮ったもの)
2025年11月11日
下北沢X物語(5293)―台湾から出撃した陸軍沖縄特攻―

(一)知覧特攻平和会館からの案内を戴いた。この11月から企画展が始まったとのこと。タイトルは「台湾から出撃した陸軍沖縄特攻」〜第8飛行師団の沖縄戦〜である。会期は来年3月31日までである。沖縄特攻といえばこのほとんどが九州からの出撃である。知覧特攻平和会館は、「特攻機が出撃した飛行場」をネットに掲げている。陸軍の沖縄特攻戦死者は1059名である、そのうち台湾からの出撃は135名である。出撃飛行場上位三位は、1.宜蘭37名、2.八塊32名、3.台中31名である。統計なるものは数で終わるが、地勢的な条件を考えると本土よりも出撃が遥かに厳しかったのは台湾だ。航空機は摩耗との戦いだ、飛べばすり切れる、本土から台湾に飛行するだけでも難しい。特攻総数135機にはこれに倍加する苦難がある。私は、『台湾出撃沖縄特攻』(2022)を上梓した。しかしこれは売れないで赤字だったと、特攻が日本から離れると人は知ろうとしない、と思った。
世田谷から浅間温泉に疎開した学童は、ここで特攻隊員に出会った。
「あのな、本当は言ってはいけないんだけど、俺たちは台湾に行くんだよ」
この特攻隊の全貌は資料が焼却されてしまったから分からない。が、彼らが所属した隊の数隊が「誠」隊であった。これは台湾在の第8飛行師団所属を意味していた。
戦争末期、1945年の春の段階で、第8飛行師団の参謀が新田原に来て、九州から直行する誠隊を直接に指揮をし数隊が沖縄へ直行している。
しかし、中には台湾行きを命じられた隊もあった。これは極めてハードな飛行だった。典型的なのが誠第31飛行隊である。新田原、済州島、上海、杭州、それからようやく台湾となる。距離が長い、敵機との遭遇確率が高くなる。実際、武揚隊は敵機に台湾海峡で遭遇し三機が撃墜された。
陸軍は長い洋上飛行は苦手だ、とくに少年飛行学校出身のものは飛ぶだけの技量が欠けていた。実際ベテランに変わってもらって飛行していた。
(二)
沖縄特攻はよく知られている。が、比島特攻は知られていない。「フィリピン戦で陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失って」いる。ここで秘められた逸話を紹介しよう。
大坪節子さんという人がいる。湾生である。台湾のエリート校、台北高等女学校に在籍していた。昭和3年(1928)年生まれ97歳である。彼女から聞き書きをした。その中で、「
特攻隊員のお布団づくり」というのがあった。これを裁縫の先生が指示した。
みなさん、いいですか、今日はお布団づくりを手伝っていただきます。誰のものかというと神風特攻隊員がお休みになるものです。日本本土から飛んで来た特攻機は、松山空港に着陸します。隊員の皆さんは北斗温泉に泊まられます。ここで皆さんが作るお布団にくるまってお休みになります。そして次の日には再びここを飛び発ってフィリピンに行かれます。ご自分の命を懸けて特攻に行かれるのだから心を込めて作ってください。
「その話を聞いたとたん、みんなから何ともいいようのないため息がもれてきました。『やがては神風として散って行かれるお方のお体を包むお布団、しっかりと作ってくださいね』との念押しを先生はされました。その与えられた布地は手触りもよくとても上等のものでした。私たちは布地にそっと触れました。級友たちは言っていました。『この布にお休みになるんだね、何だか心が震えてきそうだわ』、『真っ白でまるではかない花だわね、一晩夢見て、そして次の日にはレイテに行って特攻出撃される。せつないわね』、そう言って布に頬ずりする人もいましたね。でも、裁断したり、縫ったり、綿をつめたり、女子全員は一生懸命でしたよ。自分たちは力になれないけれど、気持ちよくお休みになるお蒲団は作ってあげられる。そんな気持ちでしたね。」
「軍国少女の出番だったのですね。」
「というよりもこのときは皇国少女、神風特攻隊の隊員はいずれ軍神におなりになる方、その人々にお仕えするという気持ちでした。それで私たち気持ちを込めて一生懸命一針一針縫いました。神風特攻隊の隊員の蒲団を作るなんて滅多にないでしょう。縫い上げると何か感慨深いものがありました。蒲団ができると先生方は縫いむらがないか、針が残っていないか、丹念に調べておいででしたよ。十数組作って、積み上げました。純白でした。それを見て涙が湧いてきそうでした。私たちはその蒲団の山にしばしみとれていました……」
比島特攻でフィリピンに向かう特攻隊員の布団を作った話である。どこにも記録されていないことなのでここに紹介する。
(三)
知覧からの知らせでは、つぎのようにあった。
きむらさんの執筆された「と号第31飛行隊 武揚隊の軌跡」や「台湾出撃沖縄特攻」も参考にさせていただきました。
一般の方は特攻隊は知覧や九州だけから出撃したものだと思っていますので台湾からも出撃されていることを知って欲しいと考えています。
一般的には沖縄特攻は、九州出撃との認識がある。台湾からの出撃もあったことはぜひ知ってほしいことだ。
2025年11月09日
下北沢X物語(5292)―美女にびしょ濡れ代田の片岡義男―

(一)世田谷代田に住んだのは萩原朔太郎である、田舎にいるときは、電線の青白いスパークを見て都会が切なく恋しく思われたと。かつては上りの赤いテールランプを見て青年は誰もが都会に恋い焦がれた。片岡義男の『東京青年』は、初めから東京に住まう文学青年が作家になっていくプロセスを小説にしたもの、「舞台は1950年代の東京、少年はこうして大人になった。少年は作家志望のヨシオの前にあらわれる美しい大人の女性たち。彼女たちの手ほどきによって、彼は次第に自分に目覚めていく…」と、田舎の青年たちと正反対だ、下北沢の側の世田谷代田の丘上に住んだ。学校に行く途中、近所の美しい女性、「これから映画を見にいかない」と誘われて、隣駅のオデオン座にいってしまう。
地方の文学青年は、結構人生が面倒くさい。上京して、苦学して、努力してそして作家になる。東京の文学青年は違う。『東京青年』の文庫帯紙にはこうある。
一九五七年に十七歳あるいは十八歳だった二人の少年達が、それぞれに年上の女性の本能的に正しい導きを得て自分たちの進むべき方向の出発点を発見していく、という物語がこの小説だ。少年の一人は、ヨシオという名になっている。
この小説の中で高木節子という人物が出てくる。彼女は、ヨシオが通う高校で購買のパンを売るアルバイトをしていた。その彼女のセリフだ。
「映画に出てみませんか、と言われることがよくあるのよ。小田急線に乗ってるとき、多いわね。成城の近くに撮影所があるのですって? 男の人がふっと私のそばに来て、名刺を渡してくれたりするの。物腰の柔らかな、しかし強引そうな人。映画会社の人かしら」
『東京青年』 早川書房 1996年刊
小田急線内でスカウトされる。ありうることだろう。映画人がよく利用するのが小田急線だ。戦後、珈琲が飲めなかった時代、下北沢駅前のマコトだけがマコトの珈琲を飲ませてくれた。松林和恵監督もここに通ったと、教えてくれた。
(二)

『坊やはこうして作家になる』は、少年から大人になっていく過程を描いている。そのときどきの経験や体験が自分を育てた。収められたエッセイの中でも『ぼくの肩書きは(お利口)としたい』白眉だ。
「僕が十三歳の頃、小田急線の車両はまだあずき色だった」で始まる。経堂の友達へ行っての帰り世田谷代田に着くまでのエピソードだ。
自分の斜め前にいる女性に気づいた。「片手で吊り革につかまり、もういっぽうの手に文庫本を開いて」読んでいる。その彼女は「小田急線の各駅停車の車両のなかで、彼女は相当に強力な違和感を」を発していた。
日常という平凡なレリーフのなかで、彼女ひとりだけはひときわ深く彫られ、ひときわ高く浮き出ていた、とでも言えばいいだろうか。 吊り革につかまって文庫本を読んでいる。彼女の周囲、三百六十度、全方位に、彼女のそのような魅力が放たれていた。
『坊やはこうして作家になる』 水魚書房 2000年刊
各駅停車でひときわ輝くその女性に少年は気づいて「どうぞお座りください」と言った。が、彼女はそれを制して年配の女性に声をかけて席をゆずった。その彼女、僕にむかって
「お利口なのね」と言った。そのことはすっかり忘れていた。
ある日、僕は下北沢を歩いていた。かつての下北沢には最も多い時で四軒の映画館があった。その四軒の映画館で上映されている映画のポスターが横一列ですべて掲示してある場所があった。
四軒とも二本立てならば、そこには八枚のポスターがならぶ。 八枚のポスターの取り合わせは常に面白く、そこを通りかかれば必ず僕は立ち止まり、ポスターを観察した。(同著)
そこに貼ってある、「日本映画のポスターを見て僕は驚いた」その一枚には、あの見覚えのある若い女性の笑顔があった。主演女優だったのだ。
あずき色小田急線の電車の中で、この女優のただならぬパワーに偶然に触れた十三歳の僕は、そのパワーに誘発された反射として、彼女に席を譲った。〔同著)
(三)
映画女優の美しさについては生前松林尚恵監督が語っていた。
「それはね、美しさでは語れないものがあったよ」
きっと美しかったのだろうなと思う、映画ではなく生の女優は「色気が滴り落ちるようだった」と言う以上にたまらなく美しかったようだ。
世田谷代田住まいの片岡義男は、小田急線沿いに住んだ、また代田の丘上にいたことで美女に恵まれた。近代の青年は、青白いスパークとか、赤いテールランプなどの意味することは分からない。
(写真は失われた代田、駅、そして踏切)
2025年11月08日
下北沢X物語(5291)―小田急的文化と片岡義男―

(一)居住地の鉄道路線は人の感性に影響を与える、その度合いが強い場合、とくに当事者が表現者であった場合、その作品群に鉄道場面が頻出してくる。とくに思春期、青春期を過ごした場合は影響は大きい。片岡義男には小田急カラーが濃厚である。実際、「小田急線と僕のロマンス」(『坊やはこうして作家になる』)を描いている、少年、青年期は世田谷代田に住み、隣駅の下北沢は馴染の町だった。近隣で見聞したり体験したりしたことは鉄道によって形成された文化によるところが大きい。代表作の一つは『スローなブギにしてくれ』だが、この作品の解説に「この作品には、全篇にわたって、”優しさ”というものが過不足なく存在していた」と批評している。彼を包みこむ温和さは、近隣の女性から受けた影響ではないか、小田急カラーの滲みの一端ではないか、と想像するものである。
この間の文化サロンでは小田急のことが話題になった。
「私は大分県出身ですが小田急と大分市との繋がりがあるのですよね、創業者が大分出身ですね、利光鶴松ですね、その関係で従業員を大分から雇っていると聴きました」
「そうそう大分県出身ですね、彼は小田原急行鉄道の敷設に心血を注いで完成させた。彼は大分へは日豊線で帰っていたはずですね、何度か乗りましたけど、あの国東半島の付け根を峠で越えていくでしょう。そして暘谷駅あたりで別府湾が見えてくるでしょう。あそこは素晴らしいですね、利光のイメージには故郷へ帰っていくときのあの別府湾の眺めが小田原の海に投影されているのではないかと思うのですよ。……『小田急五十年史』のこぼれ話の中に小田原駅で省線の操車係が鋼鉄製の電車を見てびっくりする場面が書いてあるのですよ。鉄道を敷設する熱意が違いますね。私はいつも感心するのは東北沢駅ですね。あれは真ん中に急行線があって両脇に各停のホームがあったでしょう。新幹線の小田原駅は、東北沢駅方式をまねたといいますね。真ん中を最速特急が通り、両脇にはこだまが停まるでしょう」
(二)
片岡義男は、失われた小田急線の風景を記述によく遺している。僕が利用する駅は、下北沢か世田谷代田だった。世田谷代田の駅は、上下線の両側に短いプラットフォームがあるだけの駅だった。プラットフォームの中央には、今でも田舎へ行くとあるかもしれない、蓋のない木製の大きな箱を横に立てたような、待合室とはとても言えないから、待合箱と仮に言う。そんなものが一つずつあった。壁を背にして腰掛けの部分が一列にあるという、あの様式だ。
『坊やは こうして作家になる』 「小田急線と僕のロマンス」 水魚書房 2000年刊。
この本のタイトルが面白い。『坊やは こうして作家になる』は、後書きに書いてある、「三歳の坊やは成長して作家になる」という意であるようだ。少年は、折々に小田急電車を見て、そして作家になった。住まいの最寄り駅は世田谷代田である。そうだったあまり駅としては特徴がない。が、長い木製の椅子は確かにあった。
思い出深い世田谷代田駅の印象だ。
駅舎は切符売り場を兼ねた小さな事務室だけであり、線路を越えて向こうのプラットフォームへ行くための橋はなかった。 線路を越えるための歩道橋のような橋は、鉄道用語としては跨線橋というらしい。 線路を跨いでいるはずだから、跨線橋なのだ。 線路を越えたり渡ったりする行為が、ある一定以上の高さのところで行われるから、跨線橋なのだと、言うべきか。
この跨線橋がなかった頃には、プラットフォームの梅ヶ丘よりに駅構内ものとしての踏切があり、人々は電車に気をつけながらそれを渡っていく、という方式だった。 跨線橋ができたのは、1950年代の後半だったと思う。 東京に人口が増え始めた。電車の本数が多くなった。 向こうのプラットフォームへの橋を作らなければどうにもならないから橋が作られた。(同著)
(三)
片岡は『東京行進曲』の小田急フレーズを話題にしている。
「小田急で逃げましょうか」の逃げるは、今度の週末は箱根の奥まったところにある 人目に付かない旅館で、二人だけでひっそり過ごしてみましょうか、という程度の意味か。新しい盛り場としてふくれ上がっていきつつあった新宿はイメージの触手を西へと伸ばしてた。その西には箱根と江ノ島があった。そして西へと向かう経路は、小田急線の電車だった。 (同著)
有名なフレーズは、副詞「いっそ」は抜かしてはならない。二人の恋は、「忍び会い」とあるからには浮気である、彼女は日々思い悩んでいる、「いっそ」とあるからには恋の逃避行を考えた、「もういっそのこと小田急で駆け落ちしましょう」である。萩原朔太郎の「夜汽車」が思い浮かんでくる。小田原で乗り換えてさらに西へ。
果てもない西への駆け落ちは浪漫がある。箱根でしっぽり濡れるは、イメージが断絶してしまう。小田急ロマンスは果てのない駆け落ち行がよい。
(写真は世田谷代田駅と駅前のダイダラボッチの足跡)
2025年11月06日
下北沢X物語(5290)―片岡義男:世田谷代田居住は25年―

(一)あやかるという言葉がある、幸運のお裾分けに与るという意。その人の住む近くにいることで幸せな気分になれる、邪宗門で月一回文化サロンを開いている。このときに片岡義男が描く、代田や下北沢にあこがれて下北沢に住んだという女性がいた。その片岡は邪宗門の常連だった。「ときには森さんの席にすわることもあった」に書かれている人は
森茉莉だった。窓際の席は彼女の指定席である。そこに人が座っているときは、彼女は中に入らないで外に待っていた。この逸話はマスターの作道明さんから聞いていた。片岡はこのことを具体的に記述している。なるほどだ、森茉莉は邪宗門に来たときは、常に外から中をのぞいていた。席に人影を確認するとドアを押さない。買い物籠を下げて外でじっと待っていた。
この逸話、森茉莉のこだわり、頑固さを表わすエピソードである。決めた席に座ることは譲れない。邪宗門は森茉莉の書斎とも言われる。常々彼女は買い物籠を下げていた。そこには原稿用紙が入っていた。それを取り出して執筆する。その席でないと思いがまとまらない。椅子の座り心地、それと陽光だ、間違いなくペンを留めては外を眺めた。
片岡義男はその窓際の席が森茉莉の指定席であることを知った。それ以来何度も行くが再び彼女に会うことはなかった。森茉莉は何をしていたのだろうか。
しかし、森さんが現れることはなかった。 そして、真夏のたいそう暑い日の午後遅く、僕は自宅から下北沢へ歩いた。 南口の商店街に南の端から入っていき、すぐに道が左右に分かれるその手前で、僕は一人の中年の女性とすれ違った。すれ違うときに、彼女は僕は見た。彼女のその視線を、僕は受け止めた。
「ときには森さんの席にすわることもあった」(『珈琲が呼ぶ』光文社 2018年刊)
下北沢駅の南口、ここにY字路がある。庚申塔が祀ってある。その手前、今の王将がある辺りだ。餃子屋の前身は北沢湯で、森茉莉御用達の風呂屋だった。彼女は一日に一回は下北沢北口の駅前市場に行っていた。その帰りであろう。
(二)

片岡義男は、もう一度会っている。「下北沢駅南口の階段を途中まで上がったとき、僕は思い出した。あの女性は森茉莉さんだ」と、彼女も彼を認めたようだ。
跨線橋の階段を降りてきた森茉莉に出会った。ここの階段の上り下りは急である。北口から南口へは彼女はよく通り抜けていた。そのことを考えると電車で下北沢に降りたものだろう。
そう言えば、この間の文化サロンでは井の頭線から小田急線への乗り換えが話題になった。
「前は、乗り換え時に関門はなかったですね、自由にいけたでしょう。今は改札が別々にあって不便ですよね」
昔は小田急と井の頭線は傍系会社で仲がよかった。が、戦後になって大東急から別れるときに井の頭線は京王に合併させられた。
「もともと私鉄というのは電気を各家庭に配電する会社でもあったのですね。戦後は電力会社は東電だけになった。京王線は本線だけの売り上げては食っていけない。それで井の頭線をくっつけたのですよね」
「小田急の地下は深いですね、各停と急行のホームが違うのでわかり憎くなったですね」
「前に新宿の小田急広報部に行ったことがあるんですよ。下北沢駅の記録を残すために行ったのですよ『京王さんはどうされるのですか?』ということを言っていましたが、その口ぶりが京王を格下的に見ているという感じがしましたよ」
(三)
先のエッセイ「ときには森さんの席にすわることもあった」には、「代田に住み始めたのは十三歳の夏から」とあって女編集者と会ったのは「三十七歳」とある。
片岡義男は戦争中岩国に疎開している。代田には十三歳のときに来たという。引き算をすると二十四だ。さきに別のエッセイ『あの道がそう言った』では、「世田谷の代田一丁目、そして二丁目僕は25年にわたって住んだ」と述べていた。邪宗門に通ってはいたがやがて転居したようだ。それはどこか小田急線の玉川学園である。
彼の文化には小田急線的な匂いがする。
2025年11月05日
下北沢X物語(5289)―代田・下北沢の文化と片岡義男―

(一)下北沢文士町地図の作成を通して当地の文学者を調べてきた。漂泊者が集う町は他所から流れて来て当地で最期を迎えている者もいる。これらは大成しての定住だ。当地で青春時代を送った者は、大岡昇平、安岡章太郎、和田誠、矢吹申彦、そして片岡義男の五人がいる。土地環境と本人との関係を描いた作品は少ない。が、片岡義男だけは異なる。彼は青春時代25年も代田に住んだという。彼の作品には世田谷代田、下北沢が頻繁に出てくる。地域文化が作品に滲み出ている。彼は代田の丘上に住んだ。その空気感はおしゃれである、干した布団は日なたくさい。近隣には知識人が住み、そのお嬢さんはみなかわいらしい、近隣からはピアノの音が流れてもくる。丘上は自由に満ちていた。片岡義男はこの土地の趣を細かく描いている。土地の文化と作家とを考える好個の例ではないか。
先に紹介したのは「ときには森さんの席にすわることもあった」(『珈琲が呼ぶ』光文社 2018年刊)である。この続きだ、彼は「邪宗門」で女性編集者と会う約束をしていた。家から店までの径路が文章に出てくる。
歩いて六分は所要時間であり、歩き方の経路には何種類もあった。その日の僕は、最も単純に歩いた。 集合住宅を出て、坂を下り、用水路を暗渠にして緑道と称している道を鎌倉道通りまで歩き鎌倉橋南の信号で梅丘通りを渡り、最初の脇道を右へ曲がった。
この記述から片岡義男の日常が想起できる。近隣を歩きまわることが好きだった。目的地に行くまで径路を変えて行っていた。同著にはこうある。
邪宗門へは何度も行った。自宅からちょうどいい距離にあった。店に入るなら、それはまごうかたなき喫茶店でもあった。歩いてそこまで行く径路には、すでに書いた通り何種類もあった。しかし、いくら複雑に歩いても、それは代田一丁目の中のできごとであった。
片岡義男の文章表現には道順がよく書かれる。下北沢から自宅に帰るにはどう帰ったかの細術もあった。駅西口から鎌倉通りを通っていく順路である。
(二)

六月の曇った日の午後には平凡に歩けば六分ほどなのに、三十分近くかかった。代田に住み始めたのは十三歳の夏からだからそのときすでに二四年も僕は代田の住人として過ごしていた。子供の頃にしばしば見た景色を一つずつ確認しながら歩くと、三十分近くかかった。
常々歩いているところだけにその情景が思い浮かぶ。家から坂を下ると寺前橋だ、彼はすぐそばの円乗院に入って境内の六地蔵を見たり、蓮の花を見たりしたのだろう。寺からは東にいくと、空中線を十二本の電線が横切っているのが見える。左手の丘上には鉄塔が聳え建っている。「代田の丘の61号鉄塔」だ。左岸の崖の高いうちからは大きな犬が二匹通りゆく人を見ている。この犬を構ったろうか。
ここら辺りに住んでいたのは萩原朔太郎、古関裕而だ。そして片岡義男、三人に共通するところがある。歩きながら材を拾うという点である。朔太郎は漫歩と称して近隣をほっつき歩いていた。とふと足を停めてはは懐からノートを取り出し思いついたアフォリズムを書き付ける。古関裕而も近辺を歩き回った、根津山(現羽根木公園)まで足を伸ばした。自宅に帰って来ると座卓に就く。ピー缶一本取り出してこれを吸う。吸い殻を灰皿に押しつけて、今度は鉛筆を取り出す。そしてやおら五線譜におたまじゃくしを書き込む。散歩中に貯め込んだ曲を一気に吐き出すように書き付けた。
片岡義男は女性編集者から二千字のエッセイを求められていた。邪宗門で彼女と落合って原稿を渡す。
店に入ってすぐ左の、窓を背にした席に落ち着いた。僕は、コーヒーを注文すると直ぐに原稿を書き始めた。どんなことをどのように書くかは、自宅から歩いてくる間に考えておいた。そのとおりに書けばそれでよかった。一杯のコーヒーがその作業に付き添った。二千字で、という指定だった。一時間三十分ほどで、僕はその原稿を書いた。
(三)
片岡義男はかなり早めに家を出た。邪宗門へは直行はしない、付近を散策しながら想を練った。邪宗門に着く、彼はマスターに珈琲を注文した。「はい、どうぞ」と、運ばれる。彼は一口啜って原稿を書き始める。手に持ったのは鉛筆である。
一帯に住むクリエーティブな者たちは、誰もが戸外で想を練った。想を刺激したのは代田の谷であり坂である。
(写真は邪宗門、作道明さん)
2025年11月03日
下北沢X物語(5288)―文化の日と文化サロンと世田谷代田―

(一)毎月、代田邪宗門で文化サロンを開き、文化を語っている。文化とは何か、土地固有の空気を言う。当地一帯は沢の町、丘があれば川もある。前者は日向臭い、後者はドブ臭い。丘上美人という人もいる、「丘の子はかわいかった」と。空気がまぜこぜだ。山の手的匂いと下町的匂いがする。こういう中で育った作家がいた。それは片岡義男である。この代田には25年間住んでいたと。著作を漁ってみると世田谷代田や下北沢のことが頻繁に出てくる。土地へのこだわりがとても深い作家だ、青春期に当地で過ごし、この土地の文化にすっかり馴染んでいる。世田谷代田や下北沢の固有性は吹きだまりだ。かつて集まったのは若い詩人、今は演劇人や音楽家だ。彼らは未来に対しては希望的だ。吹きだまりにはこそっと香水も匂っている。これもまた文化の片鱗だ。女性の色香である。
11月1日に11回目となる文化サロンを開いた。話題は多岐にわたった。ダイダラボッチ、鉛筆部隊、空襲、片岡義男、森茉莉、疎開など。文化のオンパレードである。
私は、片岡義男のことは知らないでいた。話題にすると、皆はよく知っていた。出席者の松山信洋さん、小説だけではなくハードボイルドも書き、音楽とか詩とか、総合芸術的な発信をしていたと。
邪宗門で片岡義男のことを話題にしていて、さらにびっくりしたことがある。片岡義男は店の常連であったことだ。
(二)

「片岡義男がうちの店によく来ていたということを知ったのは後になってからですよ」
邪宗門の若主人が言う。
「あるとき珈琲のことを書いた著作が送られてきたのです。そこにうちのことが書いてあったのですね。それで常連客と知ったのですよ」
「その本はありますか」
「そこらへんにあると思うが……」
結局は無かった。が、気になって仕方がない。早速に図書館に行って調べた。
『珈琲が呼ぶ』2018年1月20日発行 光文社刊
これがその本だった。邪宗門が出てくるのは「ときには森さんの席に座ることもあった」というタイトルがつけられていた。片岡義男が邪宗門の近くに住んでいることは分かっていた。
「世田谷代田一丁目、そして二丁目に僕は25年間にわたって住んだ」(『あの道がそう言った』)とあったからだ。代田二丁目は十六番、これは分かっていた。世田谷代田駅前の一角だ。しかし、一丁目はどこなのか分からない。ところが、「ときには……」というエッセイの中に詳細な説明があった。
(三)
作家の旧居探しほど難しいものはない。手がかりは全集年譜である。しかし、これが作られる作家はかなり限られてくる。
全集に載っている住所は、旧住所だ、くせ者だ、旧の場合は1156番地とかが書いてあるがポイントを指してはいない、この場所が広範囲なのだ。
これまでの経験では、作家本人を知っている人がいて教えてくれる、というのがベストだ。自分が自宅道順を書いている場合も助かる。
当時の僕は、自宅からごく平凡に歩いてその喫茶店まで、六分ぐらいの場所に住んでいた。 梅丘通で宮前橋の交差点に出るすぐ手前の道を右に入り、寺前橋を渡り上り坂の途中の右側にあった集合住宅の三階の部屋だ。
『珈琲が呼ぶ』2018年 光文社刊
これほど丁寧に書いている人は少ない。ここまで書いてもらえれば容易に分かる。寺前橋は、代田円乗院のそばにあることから名付けられたものだ。地図をたどると坂の右手に「鶴ヶ丘パークマンション」がある。これに違いなかろう。
我ら「下北沢文士町文化地図」に作家旧居を記している。が、これは物故者である。片岡義男は存命である。しかし、これは後々のために参考になる。
興味深いのは萩原朔太郎旧居のすぐ側である。片岡は詩も書いている。朔太郎は間違いなく知っている、旧居側に住んでいたという意識はあったのだろうか。
(11月1日の邪宗門)
2025年11月02日
下北沢X物語(5287)―文学描写から地域史を発掘する―

(一)世田谷代田及び下北沢が文学作品にどう描写されているのかを調べてきた。これは作家本人の感性に関わる、全く触れない場合と微細に描く人とがいる。後者は片岡義男である。「世田谷代田一丁目、そして二丁目に僕は25年間にわたって住んだ」(『あの道がそう言った』)と、この具体的な居住地明示は土地との深い関わりを暗示している。作品には両地区の変貌を写実的に描いている。この地域描写は新たな観点を示唆した。つまり文士町住人の地域描写を抜き出す、これを並べると町の文化史となる。坂口安吾は1925年の北沢の様子を「近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑」(『風と光と二十の私』)と描写する、町の原風景だ。今安吾在住からもう百年が経つ。当地域は外国人と若者とでごった返す町になっている。
片岡義男のことは前から気づいていた。作品で世田谷代田や下北沢のことをよく触れていたからである。時折青空文庫の一節が引っかかってきもした。
つぎは、『東京青年』の末尾文である。
下北沢ではなく、世田谷代田の駅に向かって、彼は歩いた。改札を入るとき、上りの各駅停車がプラットフォームに入って来た。彼は階段を駆け上がった。線路をまたいでいる簡単な建物を向こうへ越えていき、階段を駆け降りた。車掌の吹く笛の音とともに、彼は最後部の車両のいちばんうしろのドアを入った。ドアが閉じ、電車は発車した。
『東京青年』 早川書房 1996年刊
作品は小説である、仮構であるが解説文には「舞台は1950年代の東京、少年はこうして大人になった」とある。年代設定は具体的だ、そして居住場所も世田谷代田、このことからすると自伝でもある。彼は25年間も住んだ、多感な時代に世田谷代田や下北沢という環境が彼に影響を与えた。
引例は世田谷代田駅の様子を表わしている。かつてこの駅構内には跨線橋があった。南口からだとこれの階段をのぼっていく。
(二)
片岡義男が在校したのは都立千歳丘高校だ。これを知って思い出したのは高射砲陣地である。家から自転車で船橋のこの跡を探訪に行った。2005年8月のことだ。もう20年も前のことだ。通りかかった人に尋ねた。
「ここの丘の上に、都立千歳丘高校があります。正門を入ってグランドの方に行く道があります。そこを下っていくと松の木が数本茂っているところがあります。そこが高射砲陣地跡でしたね。確か礎石か台石のようなものがありましたよ」
何と彼は、この学校に勤めていた先生だった。
恐らくは片岡義男在校時代に教えていた先生ではないか。
都立千歳丘高校の最寄り駅は小田急線千歳船橋だ。「高校生の頃には学校に電車で行くなら小田急線だった」(『坊やはこうして作家になる』)常々慣れ親しんだの小田急線である。
小田急線の電車に関する僕の最初の記憶は二両連結であったということだ。 すべてが二両だったのではなく、暇な時間に短い区間を走る電車、例えば経堂発新宿行というようなのが二両だったのではないか。いつ頃のことですかと訊かれても、僕には答えようがない。当時の僕は、この程度のことならなんとか記憶しているという程度のことだった。 『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年刊
「大当たり三色娘」という東宝映画ある、下北沢を舞台とした映画だ、ここに小田急電車が映っている。リベットで壁面を打ち込まれた茶色の電車である。いわゆる区間運転の車両が二両だった。
(三)
電車はもちろん今は自動開閉だが、かつては自分で開けていた時代もあった。
二両連結だったという淡い記憶よりもさらに淡い記憶として、ドアは客が手で開けていたという記憶がある。全ての電車がそうだったのではなく、暇な時間に古い車両をふたつつなげて短い区間を走る各駅停車だけがそうだったのではないか、などと思ったりもするが、これは小荷物電車の記憶との混同だろう。小荷物電車のドアは、乗ってる作業員が 手で開閉していたから。(引用同上)
2025年11月01日
下北沢X物語(5286)―北沢川文化遺産保存の会会報232号―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第232号
2025年11月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1,21年間の活動:文学碑4基:記念碑3基など きむらけん
今年末、12月17日で、我らの会は、創立21周年を迎える。今回の会報は232号である。これを12で割ると約20となる。つまり会報もずっと出し続けていたのである。会報は事務局の邪宗門から送っていた。毎月末に店に届けていた。
「よく続きますね」、マスターの作道明さんの口癖であった。本当によく続けてきた。思うに会報は、時節の区切りを際立たせるものだった。一月はあっという間に来てしまうのである。会報を届ける時に、時間の過ぎ去る早さにいつも驚かされた。
21年間よく続けてきたなあと思いはする。継続は力とはよく言う。が、別の見方もできる。前にどなたかのコメントがあった。自分の居住区は田舎だから、語れるものがないと。確かに我々のフィールドは都会である。その上、鉄道が十字クロスしている。これは何と言っても大きいことである。人が多く集まる場である、来てそして去っていく。出会いがあってそして別れがある。幾多の思い出が形成された場である。
長い間活動が続いてきた理由は、文化鉱脈が豊富であったことも大きい。鉄道が交差する場は多くの価値が集まってくる。これが多岐にわたる。しかも時代が長い。来年は「昭和100年」を数える。つまり、令和8年(2026年)は、昭和元年(1926年)から起算して満100年を迎えるということだ。
当地域が、近代の町として動き始めたのは鉄道が開通してからだ。小田原急行鉄道が開業したのは昭和2年(1927年)である。ほぼこの昭和100年に合致する。鉄道が開通して開けた。典型的なのは帝国音楽学校だ、下北沢の隣、世田谷中原に開校した。鉄道開業がこれまでになかったジャンルの文化を呼び寄せた。大根畑に忽然と建てられた二階建ての校舎に全国、及び海外、台湾、朝鮮、中国、満洲などから音楽を志望する青年が集まってきた。典型的な例でいえば、古関裕而の奥さんがここに入学した、通いやすいようにと世田谷代田に作曲家は居を移した。
我らは、多くの活動を行ってきた。地図づくりも大きな活動実績だ。初版から9版まで9万部を発行してきた。つい最近のことだこの頃、活動によく参加するようになったのは村上剛さんである。期待の若手だ、たまたま一緒に道を歩いているときに、北沢川緑道の区の掲示板、これの裏に「下北沢文士町文化地図」が貼ってあった。
「これですよ、これ、五六年前にこれを見てびっくりしたのですよ。ここはただのまちだと思っていたのですよ。ところがところどころに赤丸がついているでしょう。何のことか分からなかったのです。けどもそれは名の知られた文化人だったと知ったのですよ。『へぇ、こういうまちだったのか』とつくづく感心をしたのです。それ以来まちを見る意識も変わってきたんですよ」
「下北沢文士町文化地図」が一人の青年を開眼させた。これには一帯に居住する文化人の旧居がマークされている。この地図は、毎春桜が咲いたときに北沢川緑道でこれを配っている。これをもらった人は、びっくりする。この活動、情報収集でもある。
「私は、家の近くに住んでいた詩人を知っています」
通行者が情報を寄せてくる。こういう人もいる。
「あなたたちの活動は素晴らしい、しかし、これ以上はやめろ、いいか精選というのは大事だ、才能の光っている者が載っているところに意義がある、これ以上集めると質が落ちる、あとは同人誌級になってしまうんだ」
面白い意見である。確かに誰かを発見してマークしたいという思いはある。実際夢中で旧居マークを施してきた。これらを眺め回すとあまり知られていない人も多い。
しかしである、無原則にマークしているわけではない、なにがしかの功績を残して人の旧居を記録している。しかし、このごろ思うのはここに載せている人はほんの一部ではないかと思う。
この町の歴史が長い、この百年間に当地で活動してきた人はすべてを網羅できていない。
最近では、ネット検索で多くのことが分かる。実は、これで拾った人々は多くいる。ただ情報が少ない。知りたいのは名前、住所、業績、活動期間である。しかしこれは困難である。長く住まいした人は年譜で分かるのだが。が、短期間の場合は分からない。
下北沢はさすらいの町だ、よそからふらりときて住み着く、が、ときが経つとふらりと去ってしまう。いえば漂泊者、これらの存在は断片的には把握できるが全貌は見えない。
いつも言っているが下北沢は詩人の町である。彼らはさすらい人である。町をかすめていくのである。しかし、これが面白い。さるサイトで調べると恐ろしく数多く名前がひっかかる。前に人に言ったことがある、「生きている間に真実を究めるのは不可能だ」と。
ともかく遮二無二走ってきた。地図もそうだが碑も建ててきた。が、自身が関わったことで建った碑もある。
・長野県塩尻市郷福寺内「聖が丘学寮歌」碑。代沢校の疎開学寮歌だが、これを発掘するきっかけとなったのは私のSNSである。
・松本市美須々護国神社境内 石碑にはこう刻まれた。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
この記述は、当方の『鉛筆部隊と特攻隊』に記述されたことを事実の裏付けとして刻まれたものである。
・富山県高岡市宗円寺境内 鉄平石 裏面には「元伏木港防衛高射砲隊長 内藤悌三」と刻まれている。内藤さんは駒沢高射砲隊の隊長でもあった。私の取材がきっかけとなり、隊は、駒沢から伏木湊に移転したことが分かった。隊の宿舎となった寺に内藤さんが鉄平石を寄贈し碑が建った。
文士町地区の碑だ、世田谷代田駅前広場にはダイダラボッチの足跡煉瓦を活用して描かれている。この代田のダイダラボッチついては一つの文化現象として早くから取り組んできた。ダイダラボッチ探検をしたり、劇を演じたり、歌を創ったりしてきた。そういう活動を会員の山本裕さんが、まちづくりの会で訴えた。これが奏功してダイダラボッチの足跡が世田谷代田駅前に作られた。我らの活動が間接的に影響を与えてできたものだ。
北沢川緑道には四つの文学碑が建っている。
1,2007年12月3日 - 世田谷区立代沢小学校校地の一角に『坂口安吾文学碑』を建立した。安吾は代沢小の代用教員を務めていた時のことを『風と光と二十の私』に書いている。碑にはこの一節、「人間の尊さは自分を苦しめることにある」を刻んだ。
2,2012年10月6日北沢川緑道に「代田の丘の61号鉄塔由来碑」を建立。これには朔太郎の詩『定本青猫』の一節が刻まれる。「都会の空に映る電線の青白いスパークを。大きな青猫のイメーヂに見てゐる」
3.2013年11月23日、横光利一旧居「雨過山房」近くの北沢川緑道に「横光利一文学顕彰碑」を建立した。このモニュメントには小説『微笑』に出てくる石畳(鉄平石)二枚が用いられている。これに響く靴音で訪客の用向きが分かったと作品には記されている。
4.2014年11月29日、三好達治旧居近くの北沢川緑道鎌倉橋に「三好達治文学顕彰碑」を建立した。碑文には当地で編まれた詩集『百たびののち』の一篇「閑窓一盞」を刻む。

2、文化サロン開催のご案内
期日は11月30日(日)14時から 邪宗門にて
こんどは十二回目となります。今年最後となります。一年を振り返ってみるのもいいですね。だいじなことはとりあえず続いているということがいいと思います。とくに大事に思うのは小さな発見ですね。ささいなことですが記録にないことがふっと人の口から出てくることがありますね。笠原一守さんや渡辺睦子さんによって南の島の戦いが話題になりました。飢えや飢餓で多くの人が亡くなっています。この実情がほの見えたことも良かった点です。 今年は戦後80周年でした。戦争が話題になりました。なかなか話す機会はありませんが、松山信洋さんによって戦死者を我々がどう弔うかという問題が提起されました。戦争経験を語る最後の会は、終わりになりましたが、終われば終わる、かろうじてでも語りつづけることは大事ということになりました。
サロンで出てきた問題は散歩などでも受け継がれています。
こんどはゆっくりと今年の反省ができればいいですね。
会費はとりません、各自が飲んだものを各自が払うというのが参加条件です。どなたでも参加できます。どうぞおいでください。
3、町歩きの案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第211回 次太夫堀を歩く〜二子から丸子へ〜
日時 11月15日(土)13時30分 東急田園都市線二子玉川駅改札前集合
案内者 木村康伸
概要:世田谷区内を流れる次大夫堀(丸子川)に沿って歩き、この地域の知られざる歴史をたどる。
コース:二子玉川駅→上野毛自然公園→六所神社・善養寺→谷沢川合流点→宇佐神社・伝乗寺→田園調布八幡神社・照善寺→多摩川台公園→多摩川駅
世田谷区教育委員会後援、広報「せたがや」11月1日に掲出される。
第212回 ダイダラボッチ歩いて、ダイダラボッチを語る(代田空襲も)
期日 12月13日(土)12時30分 小田急線世田谷代田駅 集合
コース 駅→ 代田吹上館屋上から駅前の足跡を見学→ダイダラボッチ川跡 → 出頭山跡 → 庚申塔→ ダイダラボッチ跡見学 → ダイダラボッチ本家看板
→ 守山地区会館・
ダイダラボッチを語る 場所守山地区会館第4会議室
13時30分頃から17時まで
内容・ダイダラボッチの紙芝居 笠原一守さんほか
・幻想朗読劇「ダイダラボッチ」朗読
・世田谷代田の空襲について 伊東光子さん(新婦人代田班)
・ダイダラボッチ及び代田空襲について質疑応答
◎費用及び申し込み
費用については 資料代含めて500円 町歩きの参加申し込みは、連絡幹事のきむらけんにメールで申し込む
宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net (211回は 600円)
■ 編集後記
▲毎回、エッセイや論考を募集しています。ぜひご投稿ください。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)会費は。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506
会費未納の方は、会費をよろしくお願いします。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を徴収している。
▲町歩き情報に特化したメールを配信している。配信希望はk-tetudo@m09.itscom.net へ。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけんへ。



















