2005年08月16日
下北沢Ｘ物語（３３２）〜夏・代沢を巡る自転車紀行（上）〜
一日の始まりに、人は自分の一日のあらすじを思い描く。その台本に沿って歩き始めると筋がめちゃくちゃになることがある。今日はそのいい例だ、あらかじめ作っていた台本がほどんど役に立たなかった。
波乱ぶくみのフィールドワークだった。代沢二丁目での不審者扱いは二度目だ。一回目は去年秋、痴漢だと、二回目は今日、空き巣ねらいだと疑われた。いずれも横光旧邸近くである。それは偶然ではない。必然性があってのことである。ジーンズに野球帽にカメラ、そして自転車はお屋敷街には似合わない。路地の家から男が出てきた。
「何をしているんだよ？」
「何をしているんだよ？」
そう問われたから横光利一旧邸の見越しの松を撮っていると答えたら、男は「ふぅぅん」と言ってこちらを見る。疑わしい目つきだ。
「ここら辺は、いま空き巣が多くてね」
不審者だと向こうは思っている。が、彼もかつての文学者を知っている。
「息子さんじゃなくて、お孫さんが住んでいると思うけどな」
疑った男の言葉も情報だとは思った。それでも空き巣ねらいだと思われたことには傷ついた。が、それも時間のいろどりだと思えばいい。
「ここら辺は、いま空き巣が多くてね」
不審者だと向こうは思っている。が、彼もかつての文学者を知っている。
「息子さんじゃなくて、お孫さんが住んでいると思うけどな」
疑った男の言葉も情報だとは思った。それでも空き巣ねらいだと思われたことには傷ついた。が、それも時間のいろどりだと思えばいい。
代沢二丁目には高級軍人、政府首脳も住んでいた。それに俳優もである。著名人邸宅はチェックが厳しい。折々自転車で現れる風来坊は防犯カメラに写っていて、要注意人物として登録されているのかもしれない。
それでも代沢を巡ってみたいと思ったのは一つの記録を読んだことによる。先日、世田谷区役所「区政情報センター」で世田谷区の戦争体験記録集「今、語り継ぐこと」（平成四年刊 世田谷区企画部企画課）を買い求めた。そこに鈴木郁之助さんという方が「空襲体験」というのを書かれている。リアルな経験がそこには描かれている。一番気を惹かれたのは末尾の一段落である。
それでも代沢を巡ってみたいと思ったのは一つの記録を読んだことによる。先日、世田谷区役所「区政情報センター」で世田谷区の戦争体験記録集「今、語り継ぐこと」（平成四年刊 世田谷区企画部企画課）を買い求めた。そこに鈴木郁之助さんという方が「空襲体験」というのを書かれている。リアルな経験がそこには描かれている。一番気を惹かれたのは末尾の一段落である。
昭和六十年頃、当地に住んでいて、アッツ救援に赴いて乗機と共に消息を絶った方の未亡人の方と、元杉山元帥宅脇に住む老婆の方を訪ねましたら、五月二十五日空襲の際、池の上南の留守の家に落ちた焼夷弾による火事、道を越え現ＮＨＫ寮から隣の老婆の家へ廻った時、元帥邸にいた兵隊がＮＨＫ寮で食い止め、わたしの家は助かりましたと話されました。元帥夫婦は米軍進駐直後自決されており、更（ママ）めて平和の尊さを思い起こしました。
たった数行の文章だが代沢の土地と戦争が濃厚に見えてくる。
「軍人は多かったね、軍人村と言われるほどだったんじゃないかな」
代沢二丁目の三勝酒店のご主人はそう言った。数日前、池の上の東条邸を教えてくれた人だ。指を折りながら著名軍人の名を挙げていくが、おぼろげにしか分からない。軍事はあまり好きではない。そう思っていると、意外な文学展開となった。代沢の谷陰に隠れている「暗夜行路」であった。
「軍人は多かったね、軍人村と言われるほどだったんじゃないかな」
代沢二丁目の三勝酒店のご主人はそう言った。数日前、池の上の東条邸を教えてくれた人だ。指を折りながら著名軍人の名を挙げていくが、おぼろげにしか分からない。軍事はあまり好きではない。そう思っていると、意外な文学展開となった。代沢の谷陰に隠れている「暗夜行路」であった。
「そういえばね、この同じ六番なんだけどね、Sさんと言われる方が住んでいたんだ。茶道の先生だね、なんどかお家に行ってお茶を淹れてもらったことがあるんだ。それでいっつも写真が飾ってあったんだ。」
酒屋の主人はそこで息を止めて、わたしを見た。
「誰の写真ですか」
「ええっとね、志賀直哉だよ。それで、不思議に思って聞いてみたんだ。『どうしてその写真を飾っているのか』って」
「そしたら、なんだっていうんですか」と自分。
そこへ酒の卸問屋の人が入ってきた。主人はビールと酒の仕入れ数を男に伝える。その間がもどかしく思えた。
「『あんた知らなかったのわたし妹なのよ』っていうんだよ」
「えっ、志賀直哉の妹ですか？」
疑問形で聞いた。確か志賀直哉は母を早くに亡くしていたと記憶していた。
「そう、そう、そうだったんだよ」
主人は大きくうなずいた。「暗夜行路」の影がこんなところに眠っているのかと思った。
話題を文学から戦争に戻した。
「杉山元帥宅ってわかりますか？」
「ああ、同じ地番だよ」
「じゃあ、奥さんが自決されたってここですか」
「そうだよ」
彼はこともなげに答えた。一日のあらすじがガラバリと音を立ててこわれていく。
（写真は池の上の通り、代沢２丁目）
酒屋の主人はそこで息を止めて、わたしを見た。
「誰の写真ですか」
「ええっとね、志賀直哉だよ。それで、不思議に思って聞いてみたんだ。『どうしてその写真を飾っているのか』って」
「そしたら、なんだっていうんですか」と自分。
そこへ酒の卸問屋の人が入ってきた。主人はビールと酒の仕入れ数を男に伝える。その間がもどかしく思えた。
「『あんた知らなかったのわたし妹なのよ』っていうんだよ」
「えっ、志賀直哉の妹ですか？」
疑問形で聞いた。確か志賀直哉は母を早くに亡くしていたと記憶していた。
「そう、そう、そうだったんだよ」
主人は大きくうなずいた。「暗夜行路」の影がこんなところに眠っているのかと思った。
話題を文学から戦争に戻した。
「杉山元帥宅ってわかりますか？」
「ああ、同じ地番だよ」
「じゃあ、奥さんが自決されたってここですか」
「そうだよ」
彼はこともなげに答えた。一日のあらすじがガラバリと音を立ててこわれていく。
（写真は池の上の通り、代沢２丁目）
