2005年08月18日

下北沢X物語(333)〜夏・代沢を巡る自転車紀行(中)〜

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     昨日は、世田谷の戦跡をペダルでめぐった。まず、下馬2丁目の近衛野砲兵連隊の旧兵営(写真)へ行った。つぎに池尻4丁目の近衛輜重兵大隊の射撃場建物を巡った。そのあとぶらり輪行していると、「御用屋敷跡」という看板が目についた。将軍が駒場野に鷹狩りに来たときの休憩場所である。それを見ていると、大きな声が聞こえてきた。向こうから十五、六の少年が一人でやってくる。養護学校にでも通っているのかと思われた。その彼は「こわいよ、こわいよ」と言う。そして、ちょっと間をおいて、問いに自分で答える。
「そうだ、こわいよ、みんなこわいんだよ」
  繰り返し自問自答する声が蝉時雨の中、小さくなって消えていった。
 
   代沢巡りの話にもどる。
 池の上の三勝酒店のご主人に志賀直哉の妹が同じ地番内に居住していたと聞いた。教えられたところに行くとそのSさんの家はすぐに見つかった。その家の前を過ぎていくと六番の地番がとぎれるところの角に工事中の建物があった。そこを右に折れて二軒目が、かつての杉山元帥の私邸だったと聞いた。木々が茂っているお屋敷である。が、ここには今は関係のない人が住んでいるそうだ。
 
    杉山元帥は、終戦時、第一総軍司令官、戦争の最高指導部の位置にいた。太平洋戦争の開戦立案・指導にもあたったようだ。昭和20年9月11日、GHQは戦争犯罪指導者の逮捕指令を出した。杉山元・元帥は翌12日に市ヶ谷台で拳銃で自殺した。その妻である啓子は夫の自殺を確認し、池の上のここにあった元帥邸に帰り、短刀で急所を一突き、自刃したと言う。古くから地元に住んでいる人はこのことをよく覚えていると言う。
  
   「生きて虜囚の辱をうけず」という教えを受けていた。それで終戦を迎えて多くの将兵、兵士、それに民間人までが自死した。「聖戦」と唱えた戦争の悲劇である。
 旧元帥邸前の代沢の丘で立ち止まり、しばらく上から降ってくる蝉の音を聴いていた。
 
    鈴木郁之助さんの証言によるとこの杉山元帥邸にいた兵隊が焼夷弾攻撃による火災をNHK寮で食い止めたとある。自分が立っている地点の南西にその寮がある。寮の向かいは東条英機邸だった。杉山元帥邸と東条邸は5,60メートルしか離れていない。その東条英機も用賀の家で9月11日に自殺した。が、命を取り留めて東京裁判にかけられた。この近隣には著名な軍人や政治家がいた。
 
   八月五日の朝日新聞に「なぜ戦争を続けたか」という社説が載っていた。そこにこうあった。
 
   政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始していたという。情けない限りだ。
 
    戦争終結に向けて代沢の谷でも密議がこらされていたはずだ。とするならば、当然、戦争への立案、戦略などもこの一帯で練られたはずである。表舞台は永田町、裏舞台は鉄道交点の丘の隅だったとも言える。ネット検索すると、終戦の詔勅も荏原の谷間でひそかに練られたようである。
 
   杉山元帥邸の西方百数十メートルのところに横光利一邸があった。池の上2丁目14番である。その主は山形県に疎開していた。「雨過山房」の留守宅を守っていた一人の作家がいた。橋本英吉である。彼の代沢の丘の上での「終戦日記」が「東京大空襲戦災誌第4巻」(1973年11月刊 東京空襲を記録する会)に載っている。その八月十五日の記事がである。
 
   書かれた記事と今、その違いを知りたくてまた横光利一旧邸へ向かった。なんども訪れているが、路地を入ったところにあるのでわかりにくい。うろついていたら隣の男に声を掛けられた。怪しいやつがいるということで表に出てきたようだ。


rail777 at 20:28│Comments(0)│TrackBack(0)│

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