2005年08月27日

下北沢Ｘ物語（３４２）〜夏草や言葉の館の夢の跡〜

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    ほんのつい先ほどの夕暮れのことである。畑の夏草を抜いている人がいた。それを見てあわてて自転車のブレーキをかけた。
「草刈りですか？」
「ああ、そうだよ」
　男はけげんなようすでこちらを見る。
「毎年、野菜作っておられるんですよね？」
「ああ、そうそう」
　男はそう言って畝の草をひき抜いた。夏草がむせ返る。
「ナスとキュウリとトマトですよね」
「よく知っているな」
「ええ、いつも見て通っていますから」
「この畑のご主人ですか？」
「そうそう」
「初めて見かけたもので声かけたんですよ。むかしは岩沢さんの家でしたよね」
「そうそう、もともと家のものだったんだけどね、岩沢さんから買い戻したんだよ。なんていうのかな、祖先から引き継いだところだからうちが買って、それでまた子孫に伝えていくんだな。だけどここら辺、マンションばっかりだからビル建ててもね、埋まらないんじゃないかって、こうやって駐車場にしてんだ。それでこの片隅に、まぁ、ちょこっと楽しみに野菜つくっているんだ。ああ、うちかそこの角の家だよ」
「そうすると、電気屋さんですか」
「ああ、そう」
「もとの炭屋さんですか」
「あれ、ま、よく知っているな」
「じゃあ、お宅の裏にお稲荷さんありますよね」
　屋敷の中にお稲荷さんがあって前に見せてもらったことがある。
「そうだよ、あるな」
「ここって、むかし、詩人が住んでいましたよね」
「まあ、そうね、昔だね」
　男は笑った。自分でも笑った。
　　駐車場の片隅に畑があって、赤いトマトが一つと、ひねくれたキュウリがなっている。耳を傾けると微かに秋の虫の音が聞こえる。
　
　昭和二十五年、一人の女がこの畑のところにあった一軒家を訪ねた。彼女は何度も男の名前をいうが応答はなかった。が、何度目かで、「玄関の右手の扉が明いて、寝起き姿の病人のような」男が顔を出した。「疲れた神経をむき出しにした不機嫌さ」に彼女はどうしていいかわからなくなった。と、男の顔がこわばった。
「葉子ちゃん、葉子ちゃんかい？」
「ええ、そうですけど」
「ああ、びっくりした、朔太郎先生かと思った。逆光だから顔が見えなくて、姿形だけで、もうお父さんそっくりなんだから」
　大男の三好達治は言った。
　
「それにしても、いっぺんに年を取った三好さんであった。慶子叔母と私の三人で箱根の湖畔を散歩した時の、若々しい姿はどこにもない。私は何から話して良いかわからなくなった。」（「天井の花」萩原葉子　講談社文芸文庫１９９６年）
 
　叔母というのは萩原アイ、朔太郎の妹である。三好にとっては最愛の人であった。が、その三好達治と彼女との結婚は破綻した。
 
「三好さんが悪いんですよね？」
　今年四月にあった世田谷文学館での対談、そこで佐伯彰一館長は言った。すると、萩原葉子は言下に「叔母が悪いんですよ」と答えた。聴衆はそれを耳にして大笑いした。
 
　畑は三好達治がかつて住んでいた地である。戦後ここで朔太郎の長女葉子とその父を慕う三好達治とが出会った。敬愛する師匠の娘である。彼女の文の才を開かせたのは三好達治であろう。ここでの出会いが萩原葉子の文学の開眼点ともなった。が、その彼女も、ついこの間亡くなった。過去は折り畳まれどんどん古びていく。
　
　夏の終わりの青草に赤トマト一つ
 （写真はつい数時間ほどまえの達治旧居の畑）
 


rail777 at 21:06│Comments(0)│TrackBack(0)│
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