2006年01月14日
下北沢X物語(470)〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学(下の3)
小田急は歌謡曲に、井の頭線は文学に、それぞれ描かれた。前者は駆け落ち路線、後者は犯人逃避行路線、メジャーを外しているところが面白い。東海道線での駆け落ちは正統的である。萩原朔太郎の「夜汽車」は駆け落ちの王道を行っている。が、東京から遠く晴れて山科辺りにさしかかると古典文学の匂いがしてくる。そこを攻めた詩人はさすが第一級である。
中央線での逃亡行は危険度が高い、新宿は公安上のチェックポイントである。中央線沿いの阿佐ヶ谷、荻窪、中野は知名度が高い。井の頭線沿いの久我山、浜田山、東松原はローカルである。文学は王道を外れたところに存在する。そういうポジション取りが文学だ。東松原を利用していたのは紀行作家、宮脇俊三である。その隣には北杜夫が住んでいる。宮脇俊三は井の頭線に深い愛着を持っていてここに移り住んできた。彼の家は下北沢のすぐそばにあった。「池ノ上」について書いた文章がつぎである。
井の頭線で渋谷から三つ目の池ノ上で下車し、線路の北側を西へ三分ほど歩くと、下北沢の繁華街を見下ろす斜面に出る。
そこに樹木の鬱蒼と茂った二千平米の一角があり、「旅館・晴光園」の表札がかかっている。門内の砂利は右へと曲っているので玄関は見えない。ひっそりと静まりかえっているし、入りにくい旅館だ。
茂みのなかに避雷針を立てた二階建ての古びた西洋館と、それにつづく日本建築の長い瓦屋根がわずかに見える。一見して戦前に建てられたものとわかる邸宅で、建坪は五百三十平米もあるが、旅館のつくりではない。
この邸が建ったのは昭和十年六月、売りに出たのが敗戦直後の二十年十月、買い主が旅館を開業したのは同年暮れであった‥‥
宮脇俊三 「池ノ上」。(「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 1988年刊)
下北沢を見下ろす高台にある邸宅は彼の住まいだった。いまこの「旅館・晴光園」はない。個人所有のビルが建っている。特徴的なことはその家の屋上に赤い鳥居が見えることだ。かつて屋敷神として祭られていたものがどこにも置きようがなくそこに持っていかれたのだろう。近隣はすっかりビルが建ち、かつては宮脇俊三の家から見えていた鉄道線路は見えない。
私は驚いた。小田急や井の頭線が走っていることは私の家から見えるのでわかっていたが、山手線や上野からの汽車が動いているとは意外だった。
宮脇俊三 増補版 時刻表昭和史 宮脇俊三鉄道紀行全集2 角川書店 平成11年
昭和20年3月10東京大空襲のときのことだ。都市は空襲で壊滅しても鉄道は動いている。鉄道への愛が濃厚な宮脇俊三にはそれは深い感動だった。彼の鉄道文学の核となる部分は、終戦の日のことだ。彼は米坂線今泉駅前で玉音放送を聞いた。
放送が終わっても、人々は黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車ははしっていた。
宮脇俊三 増補版 時刻表昭和史
宮脇鉄道紀行文学白眉の場面である。おおよそ人間の思いに関係なく鉄道は分秒刻みで動いていたということに対する感銘である。その彼は井の頭線には深い愛着を持っていた。母の言葉としているが自分もそうだったはずだ。
母は、なんとしても井の頭線の沿線に住みたいと主張し、他に条件のよい土地があっても見向きもしなかった。そして、ようやく決まったのが池ノ上から三駅先の東松原下車の土地であった。当時の番地は「世田谷区松原四ー三五四」であるが、かつて住んでいた池ノ上の土地は「世田谷区北沢四ー三五四」。この数字の偶然の一致は母をいたく喜ばした。亡夫の導きのように受け取っていた。
帝都線は、郊外型の電車である。池ノ上と下北沢の間の築堤上を走る電車はスマートだった。ドアエンジンがついていて、鳴らす警笛もその響きが素敵だった。子どもたちも下の電車、小田急よりも、上の電車が好きだった。(井の頭線駒場東大前、池の上間の線路際の帝大敷地を示す杭)
*記録、北沢川文化遺産保存の会の会合が代田「邪宗門」で4時から開催された。会長を初めとするメンバーがそろって協議を行った。



















