2006年01月29日
下北沢X物語(485)〜宇野千代と三好達治〜
宇野千代は東郷青児と別れて代沢赤門の近くの淡島を去った。そこを流れる北沢川とも縁がそれで切れたのかと思うとそうではない。昭和十七年五月代田の丘上で萩原朔太郎が亡くなったときに彼女はお通夜に来ている。また戦後になって折々この地域を訪れている。それは三好達治との関係である。
昭和元年の暮れ、肺結核を患った梶井基次郎を伊豆湯が島に転地療養させたのは三好達治である。翌、昭和二年尾崎士郎と宇野千代がこの温泉にやってくる。このときに多くの出会いが生まれた。三好達治が生涯師として慕った萩原朔太郎と出会ったのもここである。彼が宇野千代と顔見知りになった地点でもある
私と三好達治とは、私たちの湯ヶ島時代に、梶井基次郎たちと一緒のグループで、仲よくなってから、殆ど四十年もの間、断続したつき合いをしていたのであるから、友だちとしては、こんな我が儘の出来る間柄はなかった。
宇野千代「生きて行く私」 角川文庫 平成八年
こういう機縁から三好達治の東京の住まいは決まった。疎開先の福井県三国から引き揚げて来るとき彼は東京の寄留先を宇野千代に託した。同書にこうある。「『東京へ行きたいから、どこか小さい部家を見つけておいてくれ』と言う手紙が三好から来たときに、私は郊外の或る家の離れを借りて置いのであった」それが代田一丁目一番地の岩崎方だった。
三好達治は家族と一緒ではなく、たった一人で越してきた。どう言う訳で、一人で来たのか、と訊くことさえ、私はしなかった。この頃の二、三年、或いはそれが最後で、三好とのつき合いは、途切れたのであったかと思うが、わたしはその頃、しばしば、この三好の離れの家を訪ねたものであった。
生きて行く私 角川文庫 平成八年
淡島の地を去った宇野千代は、そのすぐ近くの三好達治の家を何度も訪れたという。渋谷から若林折り返し所行きのバスかタクシーかで行ったのだろう。そのバスや車が通るのは淡島通りである。渋谷方向から来て富士見坂を下る。そのすぐそばに淡島の白いコルビジェ風の家はあった。小説「色ざんげ」のもとになる話を東郷青児から聞き取った場所だ。内容は彼の情死事件の顛末だった。作中の「つゆ子」は情死事件の相手だ。その彼女が現実の本名、盈子となって宇野千代から東郷青児を奪い返す。千代に取っては悔しい恋敵であった。が、それはとおの昔のことだ。
東急バスで代田中筋で下りた彼女はふと「あれ、どっちだったかしら」と思ってみると高圧鉄塔が見える。駒沢線五十七号だ。その近くの角を曲がるところに「河野炭店」の看板がある。いつもそこが目印となった。
角の炭屋を目標に横町の路地を入ってゆくと、右側に「岩沢」と表札の出た平屋が見え、足を止めると「三好」と、目立たない表札が出て、ひっそりとしている。
こう書いたのは萩原葉子である。達治のことを書いた小説「天上の花」(講談社学術文庫)にある一節だ。
今日は、三好達治旧邸前の路地に立って、物思いにふけった。北斜面の路地である。この谷の南斜面には萩原朔太郎が住んでいた。朔太郎は南面の詩人、達治は北面の詩人である。その位置取りが巧みである。前者は王道、「詩語のコンパス」を持った詩人、後者は密かに詩語の「測量船」を出しては、その反響をじっと待った。
淡島通りからゆっくりと着物姿の宇野千代が坂を下りてくる。河野さんのところの椎の木の下で彼女は髪に手をやった。侘び住まいの男でも男は男だ。愛人をとっかえひっかえた彼女の人生は「書いた、恋した、生きた」と謳われる。男やもめをたびたび見舞う女性というと気になる。が、石原八束氏の本だったかと思う。女性が来ると達治は彼に同席を懇願したとある。萩原アイとの一徹な恋情からしても詩人の女性への心は秋の空ではなかったのかもしれない。
遠い日の詩人の住まいは代田一丁目一番地、赤白の車の花が咲いていて、冬の終わりの薄黄金色、隅の畑の蜜柑は詩の海への抜け穴。(写真)



















