2006年04月07日
下北沢X物語(552)〜一日遅れの「達治忌」に寄せて(中)〜
三好達治が見たという「欅の老樹」を探した。彼が述べている「バスの車庫」というのは小田急バス若林営業所に他ならない。ちょうどその裏手、三好達治の家の崖線と同じ斜面である。代田七人衆が住まった所だ。北傾斜である。そこに今も欅の老樹が十数本とまではいかないが七八本すっくと天に向かって直立している。
道路一本隔てて一段土地が下がったところに学校がある。花見堂小学校だ。この名前が詩的である。伝統のある名だ。土地の「麦打ち歌」に「代田に名所が三つある/鶴塚にだいだらぼっちに花見堂」と歌われている。
欅の下、花見堂小学校の脇、そこを南北に走る道が見える。北を見ると丘上に高々と鉄塔が聳え立っている。例の駒沢線61号鉄塔だ。代田サラダボールの南傾斜の頂点に立っている。丘の上にすくっとそびえ立つ高圧線鉄塔は印象的な風景である。萩原朔太郎の家はその下にあった。近代鉄塔と和洋折衷の屋根の尖った家、建築主は明らかに下から見えるということを意識して作っている。あるじは萩原朔太郎だ。
萩原朔太郎は「風景なんぞに興味はない」と三好達治に言った。が、言葉の虚構を編み出した彼の居住地点は風景の上に存在した。代田サラダボール南面崖線だ。見事な土地選定だ。家のすぐ西には代田円乗院がある。代田七人衆の菩提寺だ。寺社は安定した土地に建てる。ゆとりがあれば人が安定した土地を求める。大震災の記憶も生々しく残っているだけにそういう願望は強いはずだ。地盤のよい、日当たりのいい丘上は、文学を編むにも好都合だったろう。
今日ペダルを漕ぎながらふと不思議な感懐が湧いてきた。中村汀女、萩原朔太郎、宇田零雨は同じ崖線上であったなと。磨き磨かれた言葉は南面誉れの地から生まれ出でるのかもしれない。そんなことを思いついた。
萩原朔太郎は代田の風景は書かなかった。が、「父は北側の書斎の方ではめったに書かず、南向の広い洋間の真ん中に座布団をと机を置き、仕事をした」(萩原葉子「父・萩原朔太郎」筑摩書房)と娘の葉子は言っている。竹藪を切り開いて造成した関東ローム層の土地は強固だ。その上で思念をして、そして、書いた。彼を包み込む地盤はすることによってより深い思考にたどり着く、それはあるのかもしれない。
欅の老樹の下に立って、代田サラダボールを見ながら別の思いが湧いてきた。花見堂から61号鉄塔と続くラインを見ていて気づいたことがある。代田伝説ラインである。
つまり、自分がいるところは検知の地とも言われる「花見堂」である、その道は北に行って北沢川にぶつかる。そこには鶴ヶ丘橋である。鶴塚伝説に近いところだ。そして、鉄塔61号、その鉄塔を辿って70号までいくと守山小学校だ。この学校のそばにだいだらぼっち、巨人の足跡があったという。代田の南北ラインは伝説ラインでもある。その上に朔太郎は自ら朴して家を建てた。彼の特殊なアンテナに代田伝説ラインはキャッチされていたのかもしれない。
代田伝説ラインは駒沢線鉄塔70号から67号まで続く。今となっては詩人伝説ラインもそこに重ね合わされる。朔太郎、達治ラインである。
代田風景を内在化させていたのは朔太郎だと思う。これは自分の解釈である。一方、代田界隈風景を顕在化させていたのは三好達治だ。近隣を歩き回っては目についたものを随筆に書き記している。
このあたり、板べいごしに、びつしり花をつけた蘇芳の枝ののぞいてゐるのが次つぎに目にとまった。どういふものか、それもあのどこやらいぢらしい奉祝ちやうちんと似かよつたものにながめられるのを覚えた。からつ風だけが威勢よく額をうつたが。
(初出 昭和三十四年四月二十六日「朝日新聞」)
欅の老樹を見た後、付近を回ってみた。するとこの蘇芳があちこちに見られた。達治が生きていた時代の片鱗はまだ生きている。(写真は近隣で見かけた蘇芳だ)
○お知らせ
「北沢川文学の小路物語」パンフレット配布のお知らせ
日にち 4月9日(日) 10時から15時まで
場所 代沢5丁目43番 茶沢通り橋場橋たもと
東邦薬品前で配布します 地図入りのパンフレット。中身については
作成中で、当日引換券をお渡しします。
(なお、この配布にあたっては東邦薬品の協力を得ています。)
北沢川文化遺産保存の会



















