2006年04月19日
下北沢X物語(563)〜廃線跡歩きから文学散歩へ(下)〜
近代文学の陰影が今という時間に尾を引いている。それが北沢川文学空間なのかもしれない。
これまで北沢川文学の調査や探査を行ってきた。自転車によるフィールドワークだ。それを通して文学の第一線を切り拓いていったその姻戚に数多く出会った。森鴎外のお孫さん、萩原朔太郎の娘さんとお孫さん、夏目漱石のお孫さん、それに、中村汀女の娘さんとお孫さんである。来週は田村泰次郎の二人の娘さんと面会することになっている。また、「北沢川文学の小路物語」のパンフレット作成で担当の東盛太郎氏が肖像権許諾を関係者に求めている。その過程で幾つかのドラマがあった。横光利一の息子さんからは運動への熱い賛意、加藤楸邨の息子さんはその賛意を表明すると同時にかつての生活の痕跡を確認するために下代田の旧宅跡を訪ねてみたいと。そんな連絡も入っている。加藤穂高氏である。このときにまた会える。
中村汀女の娘さん、小川濤美子氏の話である。
「北沢川の桜ですか。それはもう深い愛着が母にはありますよ。母とどれだけ見に行ったか。だってね、今よりも昔の方がきれいだったのですから。」
川面に垂れていた枝が切られ、暗渠工事で根も切られた。それで北沢川の桜は勢いがなくなったと地元の人が言う。
「母はもう歩けなくなってからもね、行きましたよ。お弟子さんが車を運転してきてくださって、その車で見に行きましたね」
「なにしろ、ここに五十年住んでいましたからね。桜と言えば、北沢川の桜ですね。母は元気な頃はよく歩いていましたからね。鎌倉通り通ってあたりを散策して三軒茶屋まで行っていたくらいですからね。ことに北沢川の桜は気に入っていましたからね。本当に深い愛着がありましたよ」
「ええ、家に紅梅はありましたね。母は紅梅が好きで、句にもよく詠んでいます。句集にもその名を幾つかつけておりますよ」
「ああ、北沢の家ですね。Sさんは当時、台湾銀行の頭取で、家が空いていたのを貸していただいたんですよ」
「下北沢もずいぶんとかわりましたね。なんだかわたしは恥ずかしいから代田に住んでいますと言っていますわ」
「あれま、近くに楸邨先生住んでおられたのですか。それは知りませんでしたね。ええとね、あの方がおられますよ。宇田零雨さん、わたしも二、三度、代田の家にはお伺いしたことがございます。そうですか、宇田零雨さんところ訪ねて行かれたのですか。このパンフレットの中で紹介されるといいですよね。とても立派な方ですよ」
俳人、中村汀女は季語の世界に生きていた。娘の小川濤美子さんが母親から学んだこととして挙げていたのは、つぎの季節を考えて行動することだと著書で述べていた。俳人は季節への鋭敏な感性を日頃から磨いておかなくてはならないのだろう。中村汀女の句集には花卉草木がよく描かれる。桜の句も多い。生活の場に近かったせいで、桜と言えば北沢川というふうであったようだ。
肩にある落花の色は濃かりけり
輝きし落花花間にまぎれたり
花昏しけはしき雲よりも
中村汀女俳句集成全一巻所載 東京新聞出版局 昭和49年
三句は昭和十五年のものである。台湾銀行頭取だったS家に住んでいた頃である。家の前を下るとすぐに北沢川である。桜の頃には毎日ここの桜を眺めていた。
中村汀女は、「私の句法」で俳句の定型についてこう述べている。
一つの定つた枠といふものは、私たちを縛るのではなくて、その決まりのなかにあつて、各各の感情を……誰からもをかされない自分ひとりの感情を述べるといふ安心と誇り、そこに楽しみも喜びもあることだと信じます。
中村汀女俳句集成全一巻所載 東京新聞出版局 昭和49年
北沢川文学から教わることが多い。一定の枠の中で、「誰からもをかされない自分ひとりの感情をのべるという安心と誇り」、それは心の解放であり、自由である。味わいのある言葉である。(写真は世田谷代官屋敷の桜だ)



















