2006年04月22日
下北沢X物語(566)〜武蔵野晩春ペダル輪行(下)〜
美しい風景は人を惹きつける。いい風景は人の学習の対象となる。人はその風景をどのように学習してきたか。いい風景はよく学習される。武蔵野という風景の学習者、その先達は国木田独歩である。
昨日、渋谷区の「白根記念・渋谷区郷土博物館・文学館」に行った。そのときに「新渋谷の文学」(渋谷区教育委員会・平成十七年発行)を手に入れた。渋谷が舞台となった文学を網羅したものだ。これを作る労苦というのはよく分かる。膨大な文献からその場面を探し出すというのは根気が要る。作者略歴と渋谷との関わりも解説としてついている。よくできている。頒価1000円というのは廉い。
この中に柳田国男の「武蔵野の昔」というエッセイが載っている。このような小文はよほど気をつけていないと見つからないものだ。
近年所謂武蔵野趣味は、自分の知る限りに於いては故人国木田独歩君を以て元祖と為すべきものである。国木田君は今から二十一年前程、渋谷の停車場から少し西北へ入った処の丘の陰に住んで居て、閑さえあれば東京と反対の方向へばかり散歩をして居つた。勿論その時分にはあの辺りにも御影石の門の別荘などは無く、又「たばこ」と書いた紅い看板なども無かつたが、しかも住民の多数は市街に由つて生計を立て、寄ると障るとの立話も東京の事ばかりであつたのに、同君はその方はさまで頓着せず、大根畠の薄原や、其横手の楢の林などを非常に懐しがり、其林の中に百舌の声や風の音を聞き、又其樹の間から甲州境の山々の風情を見出した。そうして有名な話上手を以て、昔のことを愛する友人たちを感動させ、到頭みんなを散歩好きの武蔵野好きにしてしまったのである。
柳田国男 「武蔵野の昔」
柳田国男は国木田の独歩性、先駆性を述べている。往事、誰もが東京で起こったできごとを噂話にしていた。市電の何々線ができて便利になった。どこそこにデパートができてそこは品揃えがいいとかいう話である。それをこぞってしていたときに中心に背を向けて、武蔵野の田野に分け入っては詩情を見つけ出した。そして、武蔵野の美学をアピールした。それが国木田独歩だ。
独歩という名の由来は分からない。が、一人流離うという意味なのかもしれない。
文学は漂泊性を常に持っている。その場合、中心があれば、それに背を向けて歩み歩く。中心の雑踏を嫌って、独歩は自然の静寂を求めた。人々と対話するよりも、小鳥や木々と対話する方を選んだ。武蔵野が東京の西に位置していたことは意味深い。喧噪を避けての閑雅である。そこには漂泊人を充分に満足させるだけの風光があった。
柳田国男はさらにこう述べる。余談になるが、いまふと思い出した。世田谷代田の和菓子の「香風」は祖師ヶ谷大蔵に支店がある。柳田国男はこの店を贔屓にしていたと聞いた。
国木田君はこの中渋谷の宇田川から十町も出てみればもう古今集や太平記の武蔵野が横たわつて居るやうによく話し、又自分もさう信じて居たらしいが、今になって見ると、彼はやはり享保元文の江戸人の、武蔵野観の伝統を帯びたものであった。
柳田国男 「武蔵野の昔」
武蔵野巡行でよく出くわすのが楢や欅である。柳田国男はそれを自然ではなく薪の燃料だったとする。欅はもっとも多く今も残っている。屋敷林として植えられ、それが風よけにもなった。江戸期の生活と結びついていた。代田辺りの昔の風景も生活林としてのそれらの林があったようにも思われる。
渋谷と世田谷、それに目黒区は隣接区である。が、渋谷は豊島郡であり、目黒、世田谷は荏原郡である。後者は豊島郡である。けれども近現代の文化や歴史は共通的な基盤を持っている。軍事施設一つとってみてもそれは言える。明治の富国強兵政策からそれらは宮城の西域の原野、武蔵野に設置された。部隊や練兵場が渋谷、目黒、世田谷に置かれた。そのことが日本の運命に影響を与える。
詩情をもたらした文学の源泉である武蔵野である。が、そこに政治軍事に関わる施設が置かれた。その軍事というものが時代を、日本を変えていく。武蔵野が日本を近代へと変貌させていく。日本武蔵野変遷物語とでも言うのだろうか。(写真は新緑の武蔵野だ)
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この記事へのコメント
国木田独歩とは全く関係ないですが!!!
コメントありがとうございます。レィルセブン。
独歩はそれ自体が漂泊者を表しているような気がします。



















