2006年04月24日
下北沢X物語(568)〜武蔵野の丘の茶畑盛衰記〜
横光利一は昭和三年に北澤の丘(現、代沢)に家を新築して引っ越してくる。土地選定の実踏は昭和元年のことであるようだ。小説作品「睡蓮」の冒頭ではこの地に居を定めたいきさつが記されている。初めて北澤を訪れた時期を、「もう十四年の前のことである。」とわざわざ断っている。実際の年月が念頭に置かれている。
「睡蓮」が発表されたのは昭和十五年「文藝春秋」の七月号である。とするなら、年号は昭和元年ということになる。彼は大工と一緒に下北沢までやってくる。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北澤へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えてゐた。
「ここですよ。どうですかね」
睡蓮 横光利一全集 第六巻 改造社 昭和二十四年
近隣に茶畑があったことを述べている。自分の家の近くも茶畑であったようだ。
ある日、私の家の二階から見降せる所に、二十間ほど離れた茶畑の一隅が取り佛はれ、そこへ石つきが集つて十坪にも足らぬ土臺石を突き堅めてゐる聲が聞えて来た。
睡蓮 横光利一全集 第六巻 改造社 昭和二十四年
この隣に越してきたのが加藤高次郎という人物である。その彼は「陸軍刑務所の看守で朝毎に自転車で役所へ通」(「睡蓮」)っている軍人である。北沢の丘から渋谷の陸軍刑務所へと自転車で通っていた。その陸軍刑務所は国木田独歩の渋谷宇田川町の家のすぐ上にあった。独歩が居住していたのは明治二十九年だ。だからもっと横光よりもずっと前の時代になる。
けれども茶畑には興味を持った。独歩が住んでいた近くにもこれがあった。田山花袋が独歩の住まいを訪ねていくときに「茶畑や大根畑に添って歩いた。」(田山花袋「東京の三十年」)とあることからも分かる。宇田川沿いである。
かつて北澤の丘も茶畑だった。その西の丘、代田も茶畑だった。現在の代田二丁目の丘上のほとんどが齋田家の茶畑で占められていた。齋田家の茶畑開墾については歴史がある。それは「齋田家茶業資料」(責任編集 池上博之)として「(財)齋田茶文化振興財団」によって分厚い資料にまとめられている。
代田と北澤、そして丘続きの渋谷も明治年間には多くの茶畑があった。それらがどうして消え去ったしまったのか疑問であった。
ところが先日、渋谷区の「白根記念・渋谷区郷土博物館・文学館」に行った折り、そのことがつぎのように説明されていた。
桑茶政策と製茶業の隆盛
桑・茶の栽培を奨励する政府の桑茶政策により、渋谷には急速に茶園が増加しました。東京市街に立地し、運搬にかかる日数や費用がわずかで済むために、地方の産地よりも有利であること、一般の畑作物よりも利益率が高いことから、茶業に従事する人が続出、一時は渋谷村だけでも、3000人に及び、「渋谷茶」として広く知られました。また、代々木地域でも、茶の栽培は盛んに行われました。しかし、明治22年(1889)東海道線の全面開通で、宇治茶が大量に入ってくると、急速に衰退していきました。
武蔵野の茶畑盛衰がわずか十数行でさらりとまとめられていた。東海道本線の開業が武蔵野の茶を食ってしまったと言う。鉄道開通が荏原茶や渋谷茶をつぶしてしまった。が、鉄道は発展を阻害しなかった。宇治茶を運ぶと同時に多くの人をも鉄道は運んできた。それで、茶畑は装いを変えた。人を収容するための施設、つまり、住宅地となった。
茶畑は日当たりが良かった。人も陽に当たるポジションを選ぶのだろう。かつて渋谷茶の多くを産出していた渋谷区松濤、そして、ここも茶畑だった代田二丁目、代沢二丁目も今はみなハイグレードの高級住宅地となっている。(写真は渋谷区郷土資料館にある渋谷のジオラマを撮ったもの)



















