2006年04月28日
下北沢Ｘ物語（５７２）〜代沢代田文士表札物語（中）〜
下北沢周辺に居住した文士の表札がつぎつぎに盗まれた。横光利一、それに、萩原朔太郎も同じだ。そのいきさつを娘の萩原葉子が「父・萩原朔太郎」（筑摩書房 昭和五十一年）で「表札のことなど」としてつぎのように記している。
その頃、文士の表札を取って集めるのが流行していたらしい。
門の前を掃除したついでにふと見つけると祖母は「また表札がないよ！」と大声でいいながら、家に駈け込んでくるのだった。そして、
「まったく、朔太郎のあんな字なんか、どこがよくて持って行くのだろうね」と怒って言うのだった。祖母は几帳面なので、すぐに新しい代りの表札を買ってきて、父に書いてもらおうとするのだが、それがなかなか大変なのである。あまりいつまでも表札なしでいて、しまいに郵便屋さんに注意されてしまうこともあった。
萩原朔太郎は下北沢新屋敷から代田一丁目六三五番地に家を新築して転居した。駅でいうと小田急線下北沢駅から一つ先の世田谷中原駅（現、世田谷代田駅）へ越した。昭和八年のことだ。昭和九年十月には詩誌「四季」が創刊された。朔太郎と関係の深い、三好達治、堀辰雄、丸山薫による編集である。その巻頭を飾っているのが萩原朔太郎の「断章」である。詩界の第一人者であったことを述べるものであろう。
この昭和九年に萩原朔太郎は詩集「氷島」を、十年には「絶望の逃走」や小説「猫町」を刊行している。詩人としての絶頂期にあったであろうか。頻々と表札が盗まれたのはこの頃、昭和十年頃であろう。時期は横光利一がそれを盗まれた頃と一致するはずだ。
文士表札収集家が代田や北沢の丘を駆け回っていた。それぞれの丘には坂がある。丘巡り谷巡りは若くなくてはできない。詩人や小説家の表札を盗んだのは若者であろう。ある面はおもしろ半分ということもある。が、ある面はあこがれでもある。著名な文士にあやかりたいという願望だ。横光利一や萩原朔太郎は当時は大きな存在だった。ゆえに特別な思いを寄せていた若者が下北沢には少なくなかった。その表札取り達の下北沢における行状を述べているのは中山義秀である。
下北沢には作家や詩人志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた。学校をでても仕事がなく、喫茶店や麻雀屋に出入りして、無聊の日をおくっているとい手あいである。
中山義秀 「台上の月」 昭和三十八年 新潮社
作家の中山義秀が銀座から下北沢のアパートに移ってきたのは昭和十一年である。下北沢のこの頃の状況がリアルに推測できる。
小田急線は昭和二年に開通した。そして、帝都線（井の頭線）が昭和八年に開業して、下北沢でクロスした。渋谷にも新宿にも自在に行ける。便利になった下北沢には人が大勢集まってきた。谷筋の低地にはアパートや下宿がつぎつぎに建った。そこに学生や若者達が多く入居した。作家志望は横光利一、詩人志望は萩原朔太郎に憧れた。その彼らが表札を盗み回ったはずだ。
国家が次第に戦争への道を歩き出したときだ。「学校をでても仕事がない」というのは悲しいことだった。当時、高等学校なり、大学なりに行けるというのはエリートである。地方から出てきたエリートが職にも就けず下北沢にたむろしていた。故郷を出て勉学に励んだ。が、学校を出ても職はない。けれども彼らなりのプライドがあった。なんとかして埋もれないで生きよう。
小説家や詩人というのはそれらの青年を惹きつけたのかもしれない。文学を志して名をなす。それは彼らの大きなロマンである。戦争への暗雲が彼らを個別のロマンに向かわせたとも言える。貧乏してでも名を上げたい。文名をはせるにはまずは小説家や詩人の香りを嗅ぐ。それは表札にあったのかもしれない。それで彼らは北沢や代田の谷を、あちらこちらと標札を求めてさすらった。（写真は今日代々木八幡宮で撮ったおだまきの花）
