2006年06月21日

下北沢X物語(622)〜61年前の記憶を求めての旅(中)〜

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    季節は黄色から朱へと移りゆく。ビヨウヤナギが散ってネムノハナが咲き出した。季は巡る。瞬く間に時は過ぎてまた暑い夏がやってくる。

 戦争の記憶を求めての旅の続きだ。
 言葉が醸し出すその影響力は恐ろしいものだと思う。戦争当時の記録などを読んでいると自分がその世界に次第に染まってしまう。想像力も刺激される。

 ヤモリの格好をした銀色のB29、その腹が地上の火炎を映して赤く光っている様が思われてくる。やがて、その胴体のハッチがかばっと開いてそこから無数の焼夷弾が落ちてくる……。

  代田から北沢へと自転車を走らせた。途中、代田七人衆の菩提寺の「円乗院」の脇を通りかかる。鉄道交点近辺で唯一戦争の傷跡を記念として残している寺だ。境内に入ると一際目立つのは枯れた大木だ。そこにはこう記されている。
「この高野槙は、第二次世界大戦の昭和20年5月25日の空襲の戦火を浴びて焼失したもので、戦争の痛ましさを忘れぬ為に保存しました」(写真はその高野槙)

 戦争のイメージを引き擦って行ってそれを人に話すと、人もそれに染まってしまうようだ。今から六十一年前のことなのにそれをあたかもつい数日前のように思い起こして話してくれる人がいる。下北沢一番街本通り、「大月商店」のおばちゃんである。

「栄通りが焼けたという記憶はないわねぇ、ほら、あれ建物疎開っていって建物を壊すってあったでしょう。それはあったわね。戦車が来て壊していたわね。柱にロープを結んでそれを戦車で引っ張ると家ががらがらと崩れるのよ」
  線路脇の建物の強制疎開は実際に行われた。小田急下北沢2号踏切の佐山さん宅もぎりぎり縁側がひっかかった。家の前はちょうど次の世田谷中原駅に向けて600Rのカーブが始まるところだ。
 「そこの線路はカーブしているからうちは少しずれるはずだからもう一回測り直してみてくれ」と建物疎開の下調査に来た人に頼み込んだそうだ。再度測ってみるとかろうじて規定線から外れた。佐山さんは線路の左右十四メートルにかかったところは皆壊したという。



    佐山さんの家の、小田急線を越えたはす向かいに下北沢静仙閣があった。ここに「東京空襲」を記録として書き記した一色次郎が住んでいた。彼は昭和二十年三月二十日に「管理人から、強制疎開の立ち退きを宣告される。私鉄の線路に密接しているので第六次建物疎開に該当したのである。猶予期間は、一週間」と「東京空襲」(河出書房、昭和42年刊)書き記している。大月さんが目撃した建物疎開はこの第六次建物疎開ではないかと思われる。

 栄通りが焼けた焼けないの話になってしまった。そこへ地元の人が通りかかったので大月さんは呼び止めた。「亀や」の牧野さんである。
「いや、栄通り焼けてないよ。大原が焼けてその火は成徳の学校のところで止まったんだよな。こっちの方焼けたって記憶にないもんなぁ」
    牧野さんもそう言って否定した。栄通焼失説はにわかに怪しくなってきた。それで、町の様子を見るために大月さんのところに自転車を預けて栄通へ行ってみた。平日だが若者と多くすれ違う。もう戦争など遠い昔のことである。

 途中、煎餅屋の「玉井屋本店」が目に付いた。前にここでは話を聞いたことはある。
「ああ、うちはね戦後に建ったからね、それはちょっと分からないね」
 主人はそう答える。それで、また歩いて行って「下北沢駅前食品市場」に行ってみる。お茶の「高村園」さんに挨拶に行く。前にお話しを聞いたところだ。
「この場所が焼け跡かどうかはよく知りません。けれども、初めは露天だったことは聞いていますね。米軍から流れた闇物資はうちのおじが一手に引き受けてここで売りさばいていましたね。それは事実ですね。」
 主人は忙しそうだったので早々に立ち去った。

「いや、よくわかりませんでしたねぇ。六十一年も前のことだからそれを聞いて回るという方がおかしいのじゃないのかなぁ」
 大月商店に戻ってぼやいた。
「あら、そうだったの。昔のこと知っている人はまだいるわよ。これからわたしと一緒にそこらに行ってみようよ……ちょっとそこらに行ってくるから店を頼むね」
 おばぁちゃんは、おばちゃんにそう声をかけて店の外に出て歩き始めた。慌てて自分もついていく。おばぁちゃんと一緒に急に下北沢の町をデートすることになってしまった。



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