2008年03月02日

下北沢X物語(1049)〜駒沢線詩歌鉄塔ライン1〜

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   近代は形を認識することからはじまった。が、見えるものは見える。見えないものは見えない。近代の器物機械に遭遇した人々は努めて理解しようとした。それでも了解できないものもあった。

 汽車の出現は驚きであった。忽然と、得体の知れない物体が現れ、それが向かってくる。それで火龍と人々は呼んだ。見えるものは形で認識しようとする。それで、あれは長屋が火事を引っ張っているんだと江戸東京人は考えた。現象把握である。

 が、電車は理解できないものだった。初めてこれが走ったのは明治二十三年だ。この年、東京の上野で第三回内国勧業博覧会が開かれた。このときアメリカ製の電車が会場に敷かれた短いレールの上を初めて走った。

 前年、明治二十二年には東海道本線は開通していた。人々の汽車に対する認識は深まっていた。ところが電車は怪物である。火事も引いていないのに箱形の電車が動く。不思議でしかたがない。男たちの多くは腰を屈めた。秘部を覗くためだ。何かがそこに隠されている、彼らの想像力を刺激した。馬の脚をまずは想像した。当時市内を走っていたのは馬車鉄道であったからだ。ところが電車の下には脚は見えない。おかしい、改めて見直すが電車と言われる箱の上には竿がのびているきりだ。

 ポールと言われるその竿が電車に電気を取り込んでいた。が、見えない電気は見えない。電線を通る電気は理解の範囲を超えていた。電信も同じである。細い線の中を妖しいバテレンが超高速で翔ていくさまを人々は想像したようだ。

 プロセスが理解できないままに結果だけが形に見える電気は理解されなかったということは言える。このことも電気に自分が目を向けてから分かったことである。電力、送電関係の人は自分たちの仕事が大きく社会に役立っている反面、人に理解されていないと思っている。

 目を向ければ見えてくる。昨日は、臨時的に鉄塔探検をした。いい年の男が夢中になっていた。駒沢線60号と61号の探検だ。が、自身は待ち合わせ場所の「邪宗門」へたどり着くまで既に鉄塔は観察して来ていた。



      鉄道交点へ自転車で北上するとき大体、駒沢線と近いところを走ってくる。若林一丁目十九番地、世田谷若葉幼稚園の脇の道を行くと前方の丘上に聳え立つ鉄塔が見えてくる。駒沢線54号である。こちらは一旦、登戸道を載せた丘を下って、再び、滝坂道を載せた丘に上る。54号は、若林の丘上にある。つぎが55号だ。この辺りから音符、詩歌が漂い始める。この55号のすぐ側に大村能章の表札が今もかかっている。「同期の桜」、「麦と兵隊」などの作曲者である。(写真)

   北上してきた自身が駒沢線と合するのは若林の54号鉄塔辺りである。南の野沢から北へ向かっていた高圧線は三軒茶屋を攻めるほどの勢いでまっすぐに上っていく。ところが、途中で西北へ進路を変更している。そして、太子堂と若林の境界ラインを通っている。駒沢線は太子堂を避けて通っている。そこにこの高圧線の秘密がある。

 駒沢線は現在でもそうだが東京都心をぐるりと取り囲む内輪線の一部である。幹線だ。荏原郡一帯に電力を供給している重要路線である。現在の鉄塔の銘は昭和元年と記されているものがほとんどだ。が、この線の歴史的由来については詳らかではない。確かなことは大正六年、三軒茶屋に荏原郡一帯の農民が集まり、鉄塔敷設に反旗を翻したことである。

 太子堂地域はとくに先鋭的であった。三軒茶屋という地域が明治の文明開化の先駆けとなった地域である。軍事施設の都心から移転、電車の開通、そういうことも大きく関係していたと思われる。村の真ん中に電力施設を通すことに反対を唱えた。そのことが駒沢線鉄塔ラインの敷設方向に影響した。太子堂は通らずに境界ぎりぎりの若林を通って代田に抜けた。緑に覆われた代田サラダボールに瀟洒な鉄塔が建ったことから鉄塔ファンの詩人が当地に越してきたものと思われる。



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