2008年03月07日
下北沢X物語(1052)〜下北沢一番街今昔物語〜

時々刻々、過ぎて過ぎゆく。その時々に起こったり、聞いたりしたエピソードを記す暇もないほどに時間の方が早く過ぎていく。
「あっ、この方ですか。いやぁ、びっくりしました。わたしはあれを読むまでは地元のことはほとんど知りませんでしたよ。」
大月商店でのことだった。彼はここで「下北沢X物語」をもらって読んだようだ。
「ほら、ヒットラーユーゲントが下北沢に来たという話の中に、『石黒風呂店』って出てくるでしょう。あれはうちのことですよ。今は江川になっちゃっていますけどね。昭和三年からやっているんですよ。今年で八十年になりますよ。ええ、この間もね、代田の方でやっている人が、うちよりも大きいですけどね、やっぱり八十周年の祝いをやってホテルに呼ばれましたよ。うちなんかどこで開いたらいいんでしょうかね。カプセルホテルかな、あはは……」
なるほどと思った。鉄道開通当時、その沿線に時計屋が増えたことはよく知られた話だ。が、鉄道が敷設されると風呂屋さんもやってくる。それは初耳だった。
野屋敷の今井兼次邸は昭和4年に建ったが、江川風呂店ではもうガス風呂を扱っていてそれを入れたと言うことを息子さんの兼介氏から聞いていた。
「生鮮三品の最後の砦だった八百幸さんがなくなって困っているのよ。だってね、今まではちょっと開いている時間に買い物に行って、間に合わせていたでしょう。ところがもうそれができないのよね。結局、駅前のピーコックに行くようになったんだけどね、スーパーに行くとお客さんが並んでいるから、胡瓜だけを買うというわけにも行かなくてね。あれこれ買ってしまうでしょう。今までは必要なものをお店に買いに行って生活していたんだけどね、それができなくなって、とまどっているのね」
大月商店のおばちゃんがそんな愚痴をこぼしていた。生鮮三品は必要物資を手にいれるだけではなく街中のコミュニケーションでもあったと思った。そういえば、当方は大月商店に立ち寄って100円のお茶を飲んでおばあちゃんやおばちゃんとの会話を楽しんでいた。今日の夕暮れだった。「雨が降って来たわよ」と顔を覗かせた人がいた。
「この方が前田青邨のお嬢さんだった人よ」
おばあちゃんが教えてくれた。見ると本当にだった人だった。
先日、世田谷代田駅の工事現場を見学した後に有志で「代田連絡線跡」を歩いて辿った。そのときに、参加した若い人から一番街の「八百幸」が廃業したことで近隣の人が困っているという話を聞いた。その困りようは分からなかったがおばちゃんの話を聞いてなるほどそうだったのかと思った。
「八百幸の向かいに。昔、中央百貨店というのがあってね、あそこに行くとなんでも揃っていたけどね、ほら、この間、関根さんが地図を持って来てくれたでしょう。あれにその中央百貨店の広告が出ていて、どんなもの売っていたか書いてあるわよ」
この間、駅前食品市場の「メイジンスポーツ」の関根さんという方の息子さんが来られて昔の古い写真はないかと言ってきたそうである。そのときに戦後の商店街の古い地図を持っていたと聞いた。それならと大月商店のおばちゃんとそこへ行ってみた。するとその方のお母さんというのがおられた。
「息子がね、東盛太郎さんとは同級でね、ああ、あなたが東さんと地図やっていた人ですか。あの人も気の毒なことに早々と亡くなってしまってね……ああ、森茉莉さんはここでよく見かけましたよ。なんだか、背中を丸めて、細面の顔でしたね。チョコを買いに来ていたんですか、それはこの裏手の長谷川さんのところじゃないかな。あそこは舶来のチョコを売っていましたからね。」
また再び新しい繋がりである。が、古い地図というのは東さんから来たものだった。既にそれは家の自分の部屋の壁に貼ってある。「大当たり三色娘」は昭和三十二年封切りだがその「北澤三丁目詳細図」は同じ年のものだ。映画をもう一度見てみた。すると栄通りのその場面は地図と重なった。撮影された場所には反物が並べられている。店の名は「こっとん」である。
江利チエミが店頭の丸い洗濯吊しにぶら下げられている端切れを手に取ってみている。そこへ女スリが現れる。なんでもない場面だが昭和三十二年では洒落たものである。名前も「こっとん」はいい。柄物の端切れが風になびいているのも味がある。
昭和十年代にはスケート場があって、近隣の少年は風を切ってそれにうち興じていた。
その時少年だった佐山さんが言うには、丘上の家の庭ではゴルフの素振りをしている人がいたと言う。(今日の夕暮れの一番街)



















