2008年03月14日

下北沢X物語(1057)〜荏原台崖線上のペダル民俗学4〜

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  世田谷区喜多見に円墳の密集地域があって今も現存する。これも驚きだ。そこの土地の形状がどうなっているのか。回りの景色はどうなのか。古墳の招きにあってとるものもとりあえず、地図を印刷し、さっそく自転車にまたがって出かけた。

 その地域は多摩川と野川に挟まれた台地だった。ほぼフラットである。とるものもとりあえず印刷してきた地図だけにおおよその位置が分かるだけで古墳はなかなか探し当てられない。一帯をぐるぐる回ってしまった。道路工事の旗を持ったおじさんが「なんでこいつは何度も来るんだ?」と怪訝な顔をしてこちらを見る。

 喜多見一帯を回っているうちにお店が三軒ほど並んでいるところがあった。そのうち一軒は豆腐屋だ。見ると、「おぼろ豆腐」が150円となっている。「安い」と思った。家の近くでは200か、210円である。自転車のメーターでは十キロも来ていない。が、物価は田舎値段である。ついそこで豆腐を買ってしまった。ペダル巡遊の途中、土地のパンや豆腐はよく買う。荏原一帯のパンの味はよく知っている。折々多摩川を渡って川崎まで行って買うほどだ。味と安さの点では鍋屋横町のMがなんといってもベストワンだ。が、ここのをうまいうまいと言って食べていると、確実に太る危険性があることだ。旨すぎて恐いほどである。

「稲荷塚古墳ですか、ええ、ありますよ。そうですね、口で言ってわかるかな?。えっとね、ここを西にまっすぐ行くんですよ。そうすると十字路があるからそれを左に曲がるのね、そうすると、こう土が盛り上がったところがあるから……」
 豆腐屋さんのお上さんに道を教えてもらったが心許ない。果たしてみつかるものだろうか、わたしはゆっくりとペダルを踏んで細道を先へ進んだ。

 言われた通り細道の先に十字路はあった。それを左に曲がってしばらく行くと左手に土が丸く盛り上がったところがあった。稲荷塚古墳は密かに隠れているという印象を持った。



 世田谷区教育委員会の解説板がある。まず、「この古墳は直径約13m、高さ約2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周濠がめぐっている。」とある。最後に「古墳時代後期七世紀の砧地域の有力な族長の墓と考えられている。」と記されている。

 ペダルでフィールドワークしたことでの発見である。族長の墓はなかなか見つからない。豆腐屋さんに聞いてようやっと分かる。一方、首長の墓は、木陰の間に首を覗かせているからすぐ分かる。土地の比較文化という観点も面白い。族長はフラットな丘に眠っている。首長は崖線上の標高の高いところに眠っている。

   稲荷塚古墳の近くにも「第六天塚古墳」もあった。丸い形の小高い丘は竹にびっしりと覆われていた。解説版によると「古墳時代中期の円墳」で、「直径、26.8メートル、高さ2,7メートルの墳丘を有し」「周溝が廻」らされていたようだ。見たところ稲荷塚古墳よりも一回り大きい。

   一帯に地形上の際だった点はない。標高は稲荷塚古墳で19メートルほどだ。平坦である。今も緑は多い。畑も随所にあった。まむし除けの齋藤家も農家だった。

 この喜多見には「次大夫堀公園民家園」があって一帯にあった三棟の民家が移築保存されている。「旧加藤家住宅主屋」は近隣の農家の典型例のようである。

 旧加藤家住宅が所在した世田谷区喜多見の地には、多摩川下流沿いに開けた平地で、北側には河岸段丘である国分寺崖線が東西に走っています。江戸時代には天領・旗本領に属しており、近くには江戸時代の始めに造られた次大夫掘(六郷用水)が流れ、廻りの田畑を潤していました。(「あるじでえ」世田谷区教育委員会 民家園係 平成元年六月発行)

 藁葺きの「旧加藤家住宅母屋」を見た。欅材を使ってあるのだろうか。梁や柱は分厚くて太い。がっしりしている。家屋はただ単に家を表すのではなくその家の耕地がどの程度あったかを想像させてくれるものだ。水飲み百姓の家ではなかった。数町歩の田畑があってこれほどの家を維持できるものだと思った。地味の肥えた地域で生産性が高い地域だったのだろう。

  湧水や用水があって水には恵まれていた地域だ。今は南には東名高速が走っていて視界を塞いでいるが、往時は遮るものがなく広々としていた。南西には富士も見えただろう。のびやかでのどかな地域である。そういう土地に愛着を持ってここに族長たちは円墳を造らせて眠ったのだろう。族長には族長の分際が求められたのだろうか。この一帯は地域の長が眠った地域である。 (写真は加藤家住宅主屋)



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