2008年03月17日
下北沢Ｘ物語（1059)〜文学と風景の掛け持ち２〜
フィールドワークは面白い。現場に行くと思いがけない発見があり、出会いもある。わからなかったことが一気に解決することがある。遊び心で始めたこのささやかなツアーも今回で２２回目を迎えた。その小さな歴史の積み重ねの中でも思いがけない発掘がいくつもあった。
「安岡章太郎さんの住んでおられたところですか、この路地の奥まったところの右の家ですよ」
分からなかったところがずばり分かったということは何度もあった。
森茉莉が折々に食事を摂っていたという「スコット」のお上さんともたまたま巡り会ったことだ。その彼女が一旦家に戻って、そして再び現れた。
「今探したんですけどね、なかったんですよ。それで写真を持って来ました。家の店の玄関を写したものですね。これでいいですか。」
「ええ、ええ、もう充分ですよ。これは大切に保管しますから」
お礼を言って奥さんと別れた。その写真にはお店の看板が写っていた。
「御宴会 ご商談 ご家族連れにご利用下さい 定食 ￥６００円より ビール ￥２５０円 お酒（一級） ￥１５０円 お座敷洋食「スコット」 ○２１−２２９５」
一枚の看板に時代が透けて見える。何といっても酒が安い。その時代にもどってたらふく呑んでみたいものだ。そんなことを考えながら想像に耽る。恐らく真ん中が凹んだ座布団があったろう。それにすわって洋食が味わえた。座卓に置かれている「ソース」の瓶が目に見える。郷愁すら湧いてくる。
われわれは茶沢通りから駅南口の通りへと向かった。途中、作道さんが立ち止まって説明する。が、大勢の若者が通る。二十名近い団体が道で止まると通行の邪魔になる。
途中、古書店「幻游社」にも立ち寄った。かつて書き記した「北沢川文学の小路物語」には朔太郎の「猫町」を意識してシャッターに猫を描いたのではないかと書いた。このことについて直に主人に聞いたことがある。
「そんなつもりじゃなかったのですけどね、そういうふうになっているのだったらそういうふうにしましょうか……」
森茉莉時代だと南口の「大地堂」がよく知られていた。プロレタリア歌人が経営していたこの店は、彼が経営権を詩人に譲ったそうである。詩人の多い町ならではのエピソードだ。彼女もここで古本を売り払ったはずである。が、この古書店はもうない。
南口庚申塔前から茶沢通りに出る道は代沢通りだ。ここで写っている彼女の写真もよく知られた一枚である。その撮影地点に作道さんが立った。参加者が一斉に写真を撮る。森茉莉風にしてとかの注文が飛んで、一時マスターは森茉莉身代わりモデルとなった。
「森茉莉」天使の贅沢貧乏、KAWADE夢ムック 文芸別冊の表紙写真である。これを眺めて二つのことが分かった。栄通り「コットン」前での写真と服装は同じだということ。それと写っている電信柱にはやはり質「巴屋」の看板があったことだ。この質屋、かつての「風月堂」のすぐ近くだった。写真での因縁は現実の因縁であったのかもしれない。彼女も折りにこの質屋に行ったのかもしれない。
写真資料、あるいは本人が書いた地図などで淡島の「倉運荘」や「代沢ハウス」への通行ルートはほぼ見当がついた。が、彼女が自宅への道順を記した地図は判じ物である。実際的な地理を念頭に置いて理解しようとするが混乱してくる。彼女には特別な理解の仕方があって、それに基づいて書いているものだろう。
「鴎外とその長女茉莉における地理認識の差異」という小考があったら読んでみたいものだ。が、おおよその見当はつく。父の図示は正確無比であったように思う。その娘茉莉のものは不明確無比ではないだろうか。世界や社会への認識の差が地図に出ているように思われる。（写真は、ツアーの途中、東北沢６号踏切から東北沢駅方向を撮ったものだ。２５パーミルのこの勾配も小田急地下化によってやがて消える運命にある）
