2008年03月22日

下北沢X物語(1062)〜土俗と文明:「出穂山稲荷大明神」2〜

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     「武蔵野における人々の空間把握と景色小考」ということを考えた。こんな考えを思いついたのはペダル民俗学からである。起伏の多い谷を行き来していているとひょいと市街地の真ん中に緑を見つけることがある。ペンキ塗りの家やビルをずっと見続けてきただけに安堵する。その多くが谷の斜面や丘上にある。そんなところに立ち止まってはその緑や杜を愛でる。すると、若山牧水が言ったことが思い起こされる。「この杜こそは武蔵野の眉である。美しい涼しい瞳である」(「武蔵野」若山牧水全集第二巻)という言葉だ。

 武蔵野は言わば自然山水のミニチュアであった。それからそれへと続く丘は大きな自然を模したものである。丘は緑に覆われている。それも常緑樹ではなく「木の名もよくは知らぬが楢櫟に榛や欅など云ふのがよく眼に触るる」(「武蔵野」若山牧水全集第二巻)、落葉樹の類である。四季の変化に富んだ緑山の様子が偲べた。

 人々は武蔵野の一つ一つの特徴ある山巓、たかだか40メートル程度だが、これに「山」の名をつけた。「出頭山」、「守山」、「日影山」、「根津山」、「大夫山」、一帯の字を調べると幾つも幾つも山の名が出てくる。その呼称は人々の「見立て」である。寺院の杜を「山」と号するのもその一つのようにも思われる。

 かつての武蔵野では人々は近間の景観を山と見立てていたように思われる。「出穂山」もその一つであろう。こちらのブログ記事に興味を持った木村孝氏が、早速に現地図の上に古地図を重ねたものを「出穂山重ね図」として送ってくれた。素早い反応に驚いた。それを見ると、等高線が描かれていて、今の大岡山駅のあるところが「大岡山」で、その南が「出穂山」である。等高線上で山が形成されている。人々が景観を地名としたことがよく分かる。

 台地をどう呼ぶかということはある。一応、立会川を基準として考えると、この東を目黒台、西を荏原台と称される。すると、この荏原台から南に半島のように突き出ているのがわたしが呼称するところの「大岡山半島」になる。「出穂山」はこの半島がもっとも狭まったところに当たる。この尾根筋を環七から「大岡山」、「出穂山」を通って中原街道に抜ける道がある。何度も通っているが古道の趣がある。

 



    この道は呑川左岸の崖線を斜めに下って中原街道に出てさらに雪が谷八幡神社に通じる道となっている。が、木村孝氏から送ってもらった地図で一つの疑念が晴れた。なるほどそうだったと、八幡神社の下を行く崖線沿いの道だけでなくその上の半島尾根筋を行く道も古い道だったということだ。それは荏原病院の前を通る道、大岡山半島のど真ん中を通っているものである。

 「出穂山稲荷大明神」は機械工業の最先端を行く東京工業大学の中にある。ささやかな自己因縁がある。かつてこの学校は蔵前にあって東京高等工業学校と称していた。大正13年(1924)年に大岡山に移転した。前年の震災の影響を受けてのことだろう。この学校の前身の東京高等工業学校の跡地には都立蔵前工業高等学校がある。若いときにこの学校で講師として数年間勤めたことがある。「東工大の跡地だ」と古参の教員から聞かされたのを覚えている。

 調べた訳ではないが直感である。駒沢線の敷設とこの学校の関係は深いと思う。今でもこの線によって大学に電気は供給されている。現在の一連の鉄塔は大正末から昭和元年に掛けて敷設されたものだ。工業大学の移転に当たって高圧電気の供給路は必須の条件だったに違いない。「駒沢線の敷設と東京工業大学の移転」という論文が東工大の図書館にあるに相違ない。今日木村孝氏が送って来た大正10年頃の地図には既に高圧線が敷設されていた。これもまた驚きである。
 
 「出穂山稲荷大明神」のすぐ脇に駒沢線NO7号鉄塔がある。57ー7=50、鉄塔50スパンで三好達治旧居にたどり着く。彼は昭和32年に代田に住んでいた。ここで彼は「東京工業大学歌」を作詞している。因縁機縁駒沢鉄塔ラインだ。詩人の旧居のはす向かいにもお稲荷さんはある。地主河野家のものだ。文明ラインは土俗ラインでもある。

 文明の先駆となる学校が東京工業大学である。その敷地の中に土俗が隠れていてひっそりとある。ゆえに興味深い。それが西方の信仰ラインと結びついている。九品仏である。このお稲荷さんのそばには庚申供養塔があって「これより」という文字は見えていてその下はない。Sさんの調査では下は無くなっているとのことだ。それだけによけいに「これより」の先が気になる。
(写真は今日刷り上がった冊子である。世田谷「邪宗門」、一番街「大月商店」で配布している)

 



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この記事へのコメント

3. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月26日 08:50
手許の昭和21年の区分地図によると、どうやら庚申さんは、東京工大の石川台校舎の南西隅にあったように思えます。
ただ、昭和49年の空中写真をみると、この部分は擁壁を設けたかなり盛土しているようで、かりに下半分がここに埋まっているとしても、擁壁を支える底盤のさらに下でしょうから、掘り出すのはまず不可能でしょう。
2. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月23日 19:02
(続きです)
加えて、側面に彫られた「これ[より]」という文字からみて、道標の役目も担っていたことは間違いなく(道標といっても「旅人への親切心」からだけとは限りません。九品仏という、文字通り極楽往生を祈願する寺が近いだけに、臨終を間近に迎え阿弥陀如来にすがろうとする、今でいう末期の感染症の患者が村に迷い込むことがないようにする算段かもしれませんので。)、その意味で、字出穂山の南西端に一番近い、四辻あるいは三つ又が、なんと言っても、旧所在地の第一候補ですので。

(↓のリンク先のページ。下北澤村堀向の弁天さんの記事を補充しました。)
1. Posted by きむらたかし@三田用水   2008年03月23日 19:00
世田谷区については「世田谷の地名」という名著といってもよい資料があり、旧村境や字境の位置やその変遷を調べる上で不可欠な資料です。
大田区に、同様な資料はありませんでしょうか?
といいますのも、よほどのことがないか、ごく最近5・60年ほどの出来事でないかぎりは、庚申塔が、他の字から、まして他の村から移ってきたとは考えにくいので、元々、字出穂山の(おそらく)南西の村・字境にあったと考えるのが素直だからです。

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