2010年06月07日

下北沢X新聞(1585)〜カンバスと短冊の接近遭遇2〜

P1010402
都心から距離をおいた郊外鉄道の二線、小田急線と井の頭線、そのクロス地点、鉄道交点に隠れ潜む文化がまことに面白い。東京の中心が公的空間とすれば、そこから離れた住宅居住地は私的空間である。前者で起こった出来事は歴史資料として残されている。が、後者はプライベート空間であったことから、そこで何が行われたかは分からない。

 公的な場というのは通り一遍のもので物語性に乏しい。中心から距離を置いた場において実生活の営みが行われている。食欲、性欲、名誉欲、食べられたり、営まれたり、そしてまた重要秘密公文書が隠されていたり、密かな政策決定がなされていたりもしていた。歴史の真実は公的な場よりもそこから一歩距離をおいた場所にひっそりとある。都心と郊外のはざまにこそときめく物語が眠っている。

 「カンバスと短冊の接近遭遇」は思いがけない発見である。画家が膨れゆく都市の郊外に居を構えてそこから見える風景を描いた。そして、彼が去った後に、歌人がそこに住んで同じく、二階屋から見える光景を短歌作品に詠んだ。近代の説話物語を読むような戦慄がある。

 近代とは何か、よりおしゃれなものへの変遷である。下北沢一番街の駄菓子屋、大月商店が閉店して、エスプレッソバー「BEAR POND ESPRSSO」となった。駄菓子屋時代は、老人男女が集って世間話をしていた。今は若者男女が集まって、若やいだ恋話をしているに違いない。おばあちゃんが珈琲をおごるというその店内をのぞき見ると外人を交えた若い人で一杯だった。

 描画地点へ行く用事を思い出して、大月商店のおばあちゃんと別れ、御殿山小路を行った。先だって、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いたときに苦情を一手に引き受けた荒金さんに謝りに行く。そして、つぎに今井さんところに会報を届けた。ついでにはす向かいのヒマラヤスギの大島さんの家のチャイムを押した。奥さんが出てこられた。

「うちのおじいちゃんが昭和四年に植えたものなんですよ。成長が早くて大きくなったんですね。それで、空襲の際の目印になるので、伐れと言われたらしいんですね。だけどおじいちゃんは木を伐るのならおれの腕を切ってからにしてくれと言って断ったんですね」
 大島家の5本ヒマラヤスギは野屋敷の緑景観を構成している。南から御殿山小路に入ってくると北辺にこれが聳えているのがよく見える。ここがお気に入りでよく通っていた彫刻家はヒマラヤスギの木々の向こうに別の世界があるように見えていいんだと言ったという。


「わたしのところは虎ノ門で外車を扱っていたんですね。米軍の将校なんかが二年ぐらい乗って、もう転勤でいってしまうんですね。ビュイックとかの車ですね」
 戦後のことのようだ。御殿山通りを大島さんところに入る外車を見かけたと人から聞いたことがある。
 ヒマラヤスギのこと、防火用水槽の話をしていると、焼夷弾の話になった。その残骸の筒の実物を出してきてくださった。これもひっそりと眠る戦争物語の遺品である。

 奥さんと話していて、「行かなくてはいけない」と気づいて、辞去して、すぐに家の脇の小径の階段を下りた。丘上から丘下へ、そこにあるどぶ川跡を横切り、だらだら坂を登った。そして、登り切ったところで、右折する。すると道の向こうに二人の男の人が立っている。

 近づいていくうちに、一人は見知った人だった。いつも街歩きに参加されている岩田さんだった。北小卒業生で、高須光治「下北沢風景」描画地点に深い興味を持っておられる方である。とすると、もう一人は、高須光治さんの息子さんに違いない。そこにお二人がいる意味がよくわからなかった。が、画家の高須光治が住んでいた家のそばに居るという。なんとまあ、指し示しめされたその家は歌人、尾山篤二郎が住んでいた家と同じであった。
(大島さんの家にある防火用水槽)

○伝言版
・7月の街歩きは、恒例の「駒沢練兵場を歩く」である。5日の日に、昭和女子大学に行って当日の構内見学の申し込みをしていた。ここには「近衛野砲兵跡」の石碑と馬頭観音がある。今日学校から連絡があって、当日の校内見学はよいとの返答をいただいた。



トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔    星