2010年11月03日
下北沢X新聞(1685) 〜映画、文学、戦争、豪華三本立ての小旅行〜

映画
時は刻々とめくりめくられてゆく。新しい時のページはたちまち過去になって、つぎのページへと移っていく。しおりを挟んでも時はつなぎ止められない。
バスでの旅は昨日のことだ。祖師谷大蔵に行こうと思い立って家から隣町の深沢不動まで歩いた。急いで行ったら、早く着いた。等11「祖師谷大蔵行き」に乗るつもりだったが、等12「成城学園行き」が先に来てしまった。が、待つよりもいいだろうとこれに乗った。
終点まで行こうと思っていると、途中「つぎは東宝前です」と車内アナウンスがあった。そのバス停名を聞いて、ふと思い出したことがある。それで降車合図ボタンを押した。
「だいぶ昔のことですが、ここにマコトという喫茶店がなかったですか。」
バス停近くの電器屋さんで早速に聞き込みだ。
「名前はわからないけど、喫茶店はあったね。だいぶ昔の話だね。わたしよりも隣の酒屋さんが古いから聞いてごらんなさい。」と店番の奥さん。
「マコトか、あったよ。その向かいの成城一丁目一番のうちの家作に入っていたな。それから今のバイク屋さんのところに移ったな。そこの主人が詳しいから聞いてみるといいよ」
酒屋のご主人が教えてくれた。
下北沢北口駅前にあった珈琲店「マコト」は、映画関係者が多く出入りしていて繁盛していた。これは生前に松林宗恵監督からじかに聞いていたことだ。後に、この「マコト」を手伝っていた潮田高雄さんにも巡り会って往事の話を詳しく聞くことができた。
『下北沢駅前では映画関係者が多く来てはやったものだから、店を東宝の前に移転して営業したのですよ。洋食屋もやっていたんですけど、後には喫茶店もやりましてね。それでわたしは撮影所の中に出張していくのです。お手製の小さな櫓に、お袋がネルで縫って作ってくれた袋を縛って、そこにコーヒーを入れて熱湯を注ぐのです。撮影の合間とか、終わった後に監督さん、役者さんが来て飲んでいましたね。』
昭和二十年代の終わり頃だ。復興へと走りはじめた時代、人々の精神的な飢えを満たすには映画は恰好の娯楽だった。撮影所はフル稼働していたのだろう。潮田さんが淹れるコーヒー一杯が彼らの疲れをほぐしたことだろう。
そういえば彼は、先日亡くなった俳優池辺良の付き人を一時期していたと言っていた。
文学
バスで来たのは「マコト」の話を調べるためではない。北原白秋旧居を確認するためだった。祖師谷大蔵の旧居が目的だったが東宝までくるとこの側にあるもう一つの旧居も確認したくなる。「砧村喜多見成城南十九番地」である。詩人は昭和十一年に祖師谷大蔵の駅近くから当地に越してくる。現成城一丁目のそこには何度か訪れてはいた。
千川右岸のそこは今でも緑が鬱そうと生い茂っている。緑に染まった空気を体で感じることができた。駅から遠くなるここ砧の奥へなぜ転居したのだろうか?。
子細はわからない。が、土地のにおいを嗅いで推測したことである。この緑に染まる空気を求めてのことに違いないと。さすらいの詩人が求めていたものが何か、それは自然ではないだろうか。
成城一丁目から、祖師谷大蔵の旧居へは千川沿いに北へ行けばよい。歩いて行くと、緑がだんだんと薄くなっていくのがわかる。やがて前方千川右岸に大きな建物が見えた。成城学園である。白秋が当地に越してきた理由は子どもの教育のためである。この学校に子息を入学させていた。
その建物を確認して、進路を変え、左岸の急坂を登って東に向かう。平坦になったところでT邸へと向かう。
重厚で屋根の鋭角が鋭い木造のその家はすぐに見つかった。萩原朔太郎が建てた家と外観は非常によく似ている。詩人は山田醇設計の家が気に入っていた。T邸の設計はこの建築家によるものだ。赤松林に聳え立つ鋭角の屋根は、一際目立ったろう。白秋の家に立ち寄ったときに朔太郎は見学に来たに違いない。きむらたかし氏の調べによると内部の間取りも似通っているようだ。(「東京荏原都市物語資料館」後方支援に写真あり)
「そうですね、前はもっと緑がありましたよ。松ですね……そうです赤松です。木々がうっそうとしていましたよ。」
T邸の前の家で庭の手入れをしていた人がそういう。
祖師谷大蔵の白秋邸はここからほど遠くないところにある。詩人は、若林から昭和六年に越してきた。この時に下検分をしていたのが藪田義雄だとつい最近になって知った。「藪田義雄全詩集」もある。詩人である。往事、北原白秋全集の校正の仕事に携わって白秋の身の回りの世話もしていたようである。その彼は、このとき、下北沢に住んでいた。
北原白秋は玉電沿線の若林から小田急沿線の祖師谷大蔵へ転居した。これは昭和六年五月である。市ヶ谷台町から小田急沿線の東北沢へ萩原朔太郎が転居してきたのは昭和六年八月だ。白秋と朔太郎は親しい関係にあった。
一本の路線で繋がった地理距離の関係の白秋と朔太郎、レィルウエイはポエムラインだ。文士町の詩歌陰影にはこの二人の詩人がいる、非常に大きな存在だと思い始めている。
バスで来たのは「マコト」の話を調べるためではない。北原白秋旧居を確認するためだった。祖師谷大蔵の旧居が目的だったが東宝までくるとこの側にあるもう一つの旧居も確認したくなる。「砧村喜多見成城南十九番地」である。詩人は昭和十一年に祖師谷大蔵の駅近くから当地に越してくる。現成城一丁目のそこには何度か訪れてはいた。
千川右岸のそこは今でも緑が鬱そうと生い茂っている。緑に染まった空気を体で感じることができた。駅から遠くなるここ砧の奥へなぜ転居したのだろうか?。
子細はわからない。が、土地のにおいを嗅いで推測したことである。この緑に染まる空気を求めてのことに違いないと。さすらいの詩人が求めていたものが何か、それは自然ではないだろうか。
成城一丁目から、祖師谷大蔵の旧居へは千川沿いに北へ行けばよい。歩いて行くと、緑がだんだんと薄くなっていくのがわかる。やがて前方千川右岸に大きな建物が見えた。成城学園である。白秋が当地に越してきた理由は子どもの教育のためである。この学校に子息を入学させていた。
その建物を確認して、進路を変え、左岸の急坂を登って東に向かう。平坦になったところでT邸へと向かう。
重厚で屋根の鋭角が鋭い木造のその家はすぐに見つかった。萩原朔太郎が建てた家と外観は非常によく似ている。詩人は山田醇設計の家が気に入っていた。T邸の設計はこの建築家によるものだ。赤松林に聳え立つ鋭角の屋根は、一際目立ったろう。白秋の家に立ち寄ったときに朔太郎は見学に来たに違いない。きむらたかし氏の調べによると内部の間取りも似通っているようだ。(「東京荏原都市物語資料館」後方支援に写真あり)
「そうですね、前はもっと緑がありましたよ。松ですね……そうです赤松です。木々がうっそうとしていましたよ。」
T邸の前の家で庭の手入れをしていた人がそういう。
祖師谷大蔵の白秋邸はここからほど遠くないところにある。詩人は、若林から昭和六年に越してきた。この時に下検分をしていたのが藪田義雄だとつい最近になって知った。「藪田義雄全詩集」もある。詩人である。往事、北原白秋全集の校正の仕事に携わって白秋の身の回りの世話もしていたようである。その彼は、このとき、下北沢に住んでいた。
北原白秋は玉電沿線の若林から小田急沿線の祖師谷大蔵へ転居した。これは昭和六年五月である。市ヶ谷台町から小田急沿線の東北沢へ萩原朔太郎が転居してきたのは昭和六年八月だ。白秋と朔太郎は親しい関係にあった。
一本の路線で繋がった地理距離の関係の白秋と朔太郎、レィルウエイはポエムラインだ。文士町の詩歌陰影にはこの二人の詩人がいる、非常に大きな存在だと思い始めている。



















