2011年12月26日
下北沢X新聞(1984) 〜下北沢の芸術文化と疎開学童3〜

(一)
芸術文化の核心は伝えだと言える。他者を意識してポーズを取るのも一つだ。鉄道交点から来た疎開学童はそれを知っていた。
一枚の写真がある。ボディに「ホハ 12093」と記された木造客車だ。行き先を掛けるところには長四角の紙が貼ってある。「疎開学童専用車」と。この車輌の窓には十五六人の学童たちが窓から顔を覗かせている。男の子も、女の子も笑顔をみせている。カメラマンが「笑って!」と言ったのかもしれない。が、繕ったところはない。自然に笑っている。女の子などはポーズを取っている子もいる。
ここに写っている子どもの名前は分かる。代沢国民学校の鉛筆部隊の構成員だ。一番左の窓から大きく身を乗り出した男の子は半袖を着ている。夏だ。とすれば新宿駅発の松本行きの疎開列車に違いない。昼間であることから日にちまで分かる。昭和二十年八月十三日だ。疎開地近くの駅のホームから撮った写真だ。疎開学童という暗さはみじんもない。「疎開学童専用車」というものがなければ「修学旅行専用車」と見間違えるかもしれない。
皆、構えて、というよりか、気持ちを楽にして、それでもポーズを取って写真に収まっている。女の子は可愛らしい。鉄道交点の中で自然と身についたものなのかもしれない。
しゃべったり、奏でたり、演じたりした場合も、きっと伝えは自然に意識されていただろうと思う。器楽演奏だともう様になっていた。演芸会の劇は宿の人が見惚れるほどだった。鉄道交点で、見知らぬ者とのすれ違いの中で身につくものがあったように思われる。
(二)
「下北沢の芸術文化と疎開学童」というのはNHKのテレビ番組の再放送を見ていて思いついたことである。1997年1月11日に放映された「小さな旅」、そのタイトルは、「青春の杜 わたしの舞台を求めて〜東京・下北沢〜」である。
この冒頭は、下北沢鉄道X交点を俯瞰できる位置からの映像で始まっている。下を小田急線が通り、上には井の頭線が走っていく場面である。小田急地下化が始まって現在は風景がすっかり変わってしまった。つぎの場面で出てくる東北沢六号踏切の絵とともに記録としては貴重だ。
この番組では下北沢の演劇文化の歴史について触れていた。そこに疎開学童が出てきたことから深い興味を持った。
演劇を巡っての幾つかの歴史が物語られる。その中で劇団「風の子」のことが紹介されていた。
下北沢駅北口が写された後、駅前食品市場の外観が、つぎにはこの内部が絵として流れる。そのときにアナウンサーがつぎのような説明をする。
「小田急線と井の頭線とが乗り入れている下北沢駅。駅のすぐ隣にある駅前食品市場には終戦の直後昭和二十年九月から小さな店が建ち始めました。八百屋さん、魚屋さん、惣菜屋さんなど、今は四十二軒が店を構えています。この市場が賑わい始めた頃、既に演劇の芽が出ていました。」
北口に闇市が立ったことを言っているが、その説明は当たり障りのないものである。が、発足した当初は怪しいものだらけだった。焼け跡から掘り出されたガラクタ、メチルアルコール、目の玉の飛び出るくらい高い米軍から流れた闇物資などが売られていた。付近の米軍接収家屋、借上げ家屋にいる米兵目当ての女性も辺りにはいた。ヤクザも暗躍していた。毎月の所場代を払わないと店は出せなかったと聞いたことがある。
(三)
つぎに場面が変わって、思いがけず北沢八幡児童遊園にカメラが切り替わる。なぜだろうと思った。するとこれを追っかけるようにナレーションが入る。
「充分な娯楽がない時代、焼け残った学校や公園に子どもたちを集めでは芝居で子どもたちを楽しませてあげたいという若者たちの集まりでした。中心となったのは当時大学生だった多田徹さんです。多田さんは大学の友人と昭和二十五年、児童劇団風の子を下北沢で結成しました……」
北沢八幡宮の境内の空き地でどうやら演じられていたようである。代沢小に近い。鉛筆部隊の連中も見に行ったに違いない。もしかしたら演じていたかもしれない。さんざんに疎開先では劇を行っていた。(劇団「風の子」看板、近影)
「下北沢の芸術文化と疎開学童」というのはNHKのテレビ番組の再放送を見ていて思いついたことである。1997年1月11日に放映された「小さな旅」、そのタイトルは、「青春の杜 わたしの舞台を求めて〜東京・下北沢〜」である。
この冒頭は、下北沢鉄道X交点を俯瞰できる位置からの映像で始まっている。下を小田急線が通り、上には井の頭線が走っていく場面である。小田急地下化が始まって現在は風景がすっかり変わってしまった。つぎの場面で出てくる東北沢六号踏切の絵とともに記録としては貴重だ。
この番組では下北沢の演劇文化の歴史について触れていた。そこに疎開学童が出てきたことから深い興味を持った。
演劇を巡っての幾つかの歴史が物語られる。その中で劇団「風の子」のことが紹介されていた。
下北沢駅北口が写された後、駅前食品市場の外観が、つぎにはこの内部が絵として流れる。そのときにアナウンサーがつぎのような説明をする。
「小田急線と井の頭線とが乗り入れている下北沢駅。駅のすぐ隣にある駅前食品市場には終戦の直後昭和二十年九月から小さな店が建ち始めました。八百屋さん、魚屋さん、惣菜屋さんなど、今は四十二軒が店を構えています。この市場が賑わい始めた頃、既に演劇の芽が出ていました。」
北口に闇市が立ったことを言っているが、その説明は当たり障りのないものである。が、発足した当初は怪しいものだらけだった。焼け跡から掘り出されたガラクタ、メチルアルコール、目の玉の飛び出るくらい高い米軍から流れた闇物資などが売られていた。付近の米軍接収家屋、借上げ家屋にいる米兵目当ての女性も辺りにはいた。ヤクザも暗躍していた。毎月の所場代を払わないと店は出せなかったと聞いたことがある。
(三)
つぎに場面が変わって、思いがけず北沢八幡児童遊園にカメラが切り替わる。なぜだろうと思った。するとこれを追っかけるようにナレーションが入る。
「充分な娯楽がない時代、焼け残った学校や公園に子どもたちを集めでは芝居で子どもたちを楽しませてあげたいという若者たちの集まりでした。中心となったのは当時大学生だった多田徹さんです。多田さんは大学の友人と昭和二十五年、児童劇団風の子を下北沢で結成しました……」
北沢八幡宮の境内の空き地でどうやら演じられていたようである。代沢小に近い。鉛筆部隊の連中も見に行ったに違いない。もしかしたら演じていたかもしれない。さんざんに疎開先では劇を行っていた。(劇団「風の子」看板、近影)



















