2011年12月28日

下北沢X新聞(1985) 〜下北沢の芸術文化と疎開学童4〜

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(一)
 演劇文化の先駆けとなったのは「劇団風の子」だった。戦後間もなくの昭和25年下北沢でこれが結成された。疎開学童がこれに一枚噛んでいるというところは興味深い。

 演劇や奏楽文化が醸成されたのは疎開地であった。娯楽のないところでは演芸会や音楽会が日常的に行われていた。夕暮れ時に上りの汽車が汽笛を鳴らしただけで熱い郷愁が起こってきてそれをなだめるのが一苦労だったと引率の教員から聞いたことがある。子どもらに楽しいことを行わせて、家に帰りたい気持ちを抑えるという目的もあった。が、案外にこれは好評だった。少なからず芸達者な子どもがいて会はいつも盛り上がった。

 当時、学芸会のような事をやった時、私の主人がタクトを振ったりしたました、その子は、いつも自作自演の落語をよくやったと言っていました。小さい子が落語をやるので、性とは全体に明るかったです。私どもも、みんなで見に行きました。

 浅間温泉、梅の湯の寮母だった中野道子さんの回想(「遠い太鼓」)である。疎開学童には芸術、文化方面で活躍している人の子弟も混ざっていた。

(二)
 劇団「風の子」では思い出すエピソードがある。折々に会報でも出していたのだろうと思われる。下北沢一番街にあった大月菓子店に来ては切手を買って行かれる人がいた。
「わたしたちはあの道を風の子通りと言っています」
 劇団員の方から聴いたことである。その道は、昭和九年の地図には「御殿山小路」と名がつけられていた。南北を縦断するその道は、確かに風の通り道だ。南側から行くと道の奥にとんでもなく高いヒマラヤ杉が聳えている。大島さんところの五本の世田谷区保存樹木だ。これを眺めながら道なりにまっすぐいくと劇団に着いてしまう。

 NHK「小さな旅」でのナレーションがつぎのように続く。

 風の子が誕生した当時の写真です。集まっているのは集団疎開から帰ってきた下北沢の子どもたちです。荒廃した時代の中に生きる子どもたちに力を与えたいという願い。稽古場には空襲を逃れた下北沢の多田さんの自宅が使われました。最初の作品は「お月様より太陽が!」明るく生きてほしいという思いを込めて多田さんが書き下ろしました。人形も多田さんが紙粘土で作ったものです。

 空襲を逃れたというのは本当である。昭和二十年五月二十五日、一帯は焼夷弾攻撃にさらされて家々が燃えた。「下北沢の多田さんの自宅」も西から押し寄せる火災に見舞われた。この辺りはこぞって消火活動に取り組んでようやっと火を消し止めた。大島さんところのヒマラヤ杉の根元には「防火用水」と書かれたコンクリートの水槽が今も残されている。当時の名残である。

(三)
 「多田さんの自宅」は、東大原小の学区域だ。この学校も浅間温泉に疎開している。九つの旅館に別れて600名ほどの学童が生活をしていた。この学校地元の人は「第三荏原」という。アッパーミドルのステータスでもあったようだ。

 開校記念日は、昭和2年7月7日だ。小田急が開業した年だ。鉄道開通との因果関係は深い。ある種の情緒や感性、自身が感じているのは進取性である。それが鉄道開通を機に移ってきている。文化的なもの、教養的なものとの結びつきがある。

 「風と光と二十歳の私と」は、代沢小を舞台とした話だ。が、ここに出てくる主任は皮肉っぽく描かれている。「精力絶倫」で、「学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年受け持ちの老人に押しつけて、有力者のの家へ茶のみ話に行ってしまう。」と描かれている。

 この主任、東大原小の開校時の構成メンバーとなっている。さぼりというのは開学に向けて精力的に動いていたのではないかと思われる。代沢小、東大原小、鉄道交点を巡る外縁文化の繋がりは興味深い観点だ。(写真は風の子通り)

〇お知らせ

風景づくりフェスタ〜みんなでつくろう!世田谷の風景

日時
2012年1月21日(土)12時〜17時
2012年1月22日(日)9時30分〜16時
場所
北沢タウンホール 12階スカイサロン


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