2012年10月09日
下北沢X新聞(2179)〜「代田の丘の61号鉄塔」由来碑完成2〜

(一)
塔も近代では消費されていく、かつてもてはやされた東京タワーも、新しい塔ができて、人々の視線は東京スカイツリーに移った。塔の盛衰である。
都会の空に一際目立つ塔は、人に深い印象を残している。例を挙げよう。日野啓三は、重篤な病で入院した。その病院の六階から塔を眺める。手術の麻酔から覚めて「激しい幻覚と幻聴に襲われた」、そのときに目に映った。
怪しい幻覚像が意識の視野を跳梁した時でさえ、東京タワーだけは常に変らぬ姿で見え続け、語り続けた―何がどう狂い乱れようとも、天と地の底を貫く垂直の中心軸だけは変ることはないのだ、と。
この著の表題は、『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』(集英社)だ。その中のエッセイ、「梯の立つ都市」に書かれたものだ。天と地とを結び貫いているのが東京タワーであった。瀕死の床にあって彼自身の意識をこれが支えていた。
人が見上げる塔は、順次移り変わっていく。その時代その時代に人はこれに希望を託した。別の見方からすると意識上の仮構物だともいえる。先般、スカイツリーが特別ライトアップされて五彩に変化したと聞いた。この世のものとは思えないもののようにライトアップされた塔、その化粧、仮装に人々は魅入った。
人間は、所詮はかないものだ。高い塔を見ては怖れをなしたり、崇めたりもした。見上げる塔に憧れる心性が我々にはある。
「代田の丘の61号鉄塔」も建った当初は、間違いなく人を惹き付けたものであった。緑の丘上に聳え建つ銀色の鉄塔である。今とは比べものにならないほどに目立ったものだった。武蔵野の都市近代、これを象徴するものであったといえる。
(二)
「純度の高い鉄を使用してあると言っていました」
当会の米澤さんが除幕式に参加した東電の足立さんから聞いたという。鉄塔の材質についてまで考えが及ばなかったが、なるほどと思った。質のいい鉄材でないと持たない。もう既に建ってから86年が経過している。
東京タワーも良質の鋼材が用いられている。とくには、上部構造の部分の「鉄材の原料には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車が使われている。」(ウィキ)良質の鉄材が不足していたそうだ。
塔は時を食う建造物だ、雨や風に打たれ続けてもいいように耐性を考えて作られている。
「この間の台風がきたときに久し振りに高圧鉄塔の碍子がジィジリと鳴っていましたね」
これは代田地元の人の話だ。台風が運んできた潮風が付着して漏電現象を起こしたようだ。東京湾岸に高層ビルが建って内陸部に潮風が入らなくなった。それと碍子の数が増えて、かつてのように碍子が、ジィジリと鳴ることはなくなっている。
電気は目に見えないものだ。が、かつては通過音が聞こえていた。が、これもなくなった。と同時に存在を意識しなくなる。時折に青色に光ったり、風で唸ったり、そのことが存在を証明しいた。詩人などは常々これを見たり、聴いたりしていたはずだ。
(三)
萩原葉子は自伝小説『蕁麻の家』で、鉄塔を「あの高い鉄塔」と形容した。実際に本当に高い。
代田の丘の標高は38、5メートルだ。鉄塔本体の高さは28メートルだという。合わせると66メートルにもなる。今は家々が建て込んでいてこの高さに気づかない。が、歩いているときにひょいと建物の陰に見える鉄塔は意外に高い。
とくに路地を曲がったとたんに見えるこの鉄塔は、胸を衝かれるほどだ。詩人と小説家には、当時の日常の中にこれがあった。風景を占めていた鉄塔は意識の中にも間違いなく存在していた。
(上、鉄塔と由来碑、下、左除幕の瞬間、右デザイン担当の道吉剛氏と)
◎序幕式に参加しての感想
10月6日、鎌倉から林さんはわざわざおいでになった。今日、そのお手紙をいただいた。こ碑の名称は「代田の丘の61号鉄塔由来碑」としている。材質はステンレス製である。設置場所について二三問い合わせが来ている。鉄塔本体のところではなく、丘下、北沢川緑道鶴ヶ丘橋たもとにある。
昨日の朔太郎石碑鉄塔の石碑除幕式は大変有意義でございました。
先生のご努力と情熱とそして、敬意を強く感じております。私の長年居住致しました場所の目の前にに朔太郎、葉子さんが帰っていらした様に思え、なつかしさと嬉しさに溢れて参りました。私などは鉄塔に対して、�爐△旅皸祇�ネ�瓩藩�、それ丈しか受け取っておりませんでしたがが、先生は朔太郎、葉子さんの鉄塔に対する気持ちを読み取られ、鉄塔にも愛着を持たれ、詩を理解される深い、豊かな詩心に私の鉄塔を見る目も変りました。
世田谷区民のみならず大勢の人々が、過去の文化を大切になつかしんで守って行くリーダーとして、先生のご活躍は貴重な存在でございます。
ご苦労も多々おありと存じますが、ご健勝に世の中のため、ご活躍くださいますことを心より祈っております。
以上のようなお手紙を戴いた。この鉄塔由来碑を作成するに当たっては、多くの方々がボランティアとして協力された。私一人だけの努力ではできなかったことだ。区との交渉に何度も足を運ばれた広島文武氏、碑文の文言チェック、デザイン担当を担当された道吉剛氏、除幕の幕を作成された及川園子氏、記念冊子の印刷を担当した米澤邦頼氏、作成費用の負担をされた会長の長井邦雄氏、司会進行をされた作道明氏、その他の北沢川文化遺産保存の会の大勢の会員の協力があってようやく完成したものだ。
(上、鉄塔と由来碑、下、左除幕の瞬間、右デザイン担当の道吉剛氏と)


「純度の高い鉄を使用してあると言っていました」
当会の米澤さんが除幕式に参加した東電の足立さんから聞いたという。鉄塔の材質についてまで考えが及ばなかったが、なるほどと思った。質のいい鉄材でないと持たない。もう既に建ってから86年が経過している。
東京タワーも良質の鋼材が用いられている。とくには、上部構造の部分の「鉄材の原料には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車が使われている。」(ウィキ)良質の鉄材が不足していたそうだ。
塔は時を食う建造物だ、雨や風に打たれ続けてもいいように耐性を考えて作られている。
「この間の台風がきたときに久し振りに高圧鉄塔の碍子がジィジリと鳴っていましたね」
これは代田地元の人の話だ。台風が運んできた潮風が付着して漏電現象を起こしたようだ。東京湾岸に高層ビルが建って内陸部に潮風が入らなくなった。それと碍子の数が増えて、かつてのように碍子が、ジィジリと鳴ることはなくなっている。
電気は目に見えないものだ。が、かつては通過音が聞こえていた。が、これもなくなった。と同時に存在を意識しなくなる。時折に青色に光ったり、風で唸ったり、そのことが存在を証明しいた。詩人などは常々これを見たり、聴いたりしていたはずだ。
(三)
萩原葉子は自伝小説『蕁麻の家』で、鉄塔を「あの高い鉄塔」と形容した。実際に本当に高い。
代田の丘の標高は38、5メートルだ。鉄塔本体の高さは28メートルだという。合わせると66メートルにもなる。今は家々が建て込んでいてこの高さに気づかない。が、歩いているときにひょいと建物の陰に見える鉄塔は意外に高い。
とくに路地を曲がったとたんに見えるこの鉄塔は、胸を衝かれるほどだ。詩人と小説家には、当時の日常の中にこれがあった。風景を占めていた鉄塔は意識の中にも間違いなく存在していた。
(上、鉄塔と由来碑、下、左除幕の瞬間、右デザイン担当の道吉剛氏と)
◎序幕式に参加しての感想
10月6日、鎌倉から林さんはわざわざおいでになった。今日、そのお手紙をいただいた。こ碑の名称は「代田の丘の61号鉄塔由来碑」としている。材質はステンレス製である。設置場所について二三問い合わせが来ている。鉄塔本体のところではなく、丘下、北沢川緑道鶴ヶ丘橋たもとにある。
昨日の朔太郎石碑鉄塔の石碑除幕式は大変有意義でございました。
先生のご努力と情熱とそして、敬意を強く感じております。私の長年居住致しました場所の目の前にに朔太郎、葉子さんが帰っていらした様に思え、なつかしさと嬉しさに溢れて参りました。私などは鉄塔に対して、�爐△旅皸祇�ネ�瓩藩�、それ丈しか受け取っておりませんでしたがが、先生は朔太郎、葉子さんの鉄塔に対する気持ちを読み取られ、鉄塔にも愛着を持たれ、詩を理解される深い、豊かな詩心に私の鉄塔を見る目も変りました。
世田谷区民のみならず大勢の人々が、過去の文化を大切になつかしんで守って行くリーダーとして、先生のご活躍は貴重な存在でございます。
ご苦労も多々おありと存じますが、ご健勝に世の中のため、ご活躍くださいますことを心より祈っております。
以上のようなお手紙を戴いた。この鉄塔由来碑を作成するに当たっては、多くの方々がボランティアとして協力された。私一人だけの努力ではできなかったことだ。区との交渉に何度も足を運ばれた広島文武氏、碑文の文言チェック、デザイン担当を担当された道吉剛氏、除幕の幕を作成された及川園子氏、記念冊子の印刷を担当した米澤邦頼氏、作成費用の負担をされた会長の長井邦雄氏、司会進行をされた作道明氏、その他の北沢川文化遺産保存の会の大勢の会員の協力があってようやく完成したものだ。
(上、鉄塔と由来碑、下、左除幕の瞬間、右デザイン担当の道吉剛氏と)





















