2012年10月11日

下北沢X新聞(2180)〜鉄塔文学論への反響〜

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(一)
 昨日、松原のマブゼ共和国から代田の61号鉄塔まで歩いた。
 
来週、16日に世田谷文学館友の会主催の文学散歩が行われる。「斎藤茂吉と『楡家の人びと』展を歩くというものだ。世田谷文学館で同展が行われているが、イベント関連の行事である。この下見をした。

 世田谷松原と世田谷代田は小説家と歌人が居住していたところである。

 私は、当事者がそこに住んでいただけではあまり興味を持たない。その土地について触れたり、言ったりしているものについては深い興味を持っている。

 北杜夫は松原に住んだ。ここは彼のゆかりの地である。すぐ近くには昆虫採集に開眼した場、根津山があった。『楡家の人々』の舞台となった青山脳病院も至近距離にあった。ところが彼は松原に転居してきたときは知らなかった。後になって気づいた。

 なぜそうなのか?。地霊が邪魔をするのだろうと思う。前々から松原は鬼門である。必ず迷ってしまう。

 マンボウ・マブゼ共和国までは無事に辿り着いた。ところが、その後、かつての青山脳病院には行き着かない。幽霊が出て来て自分のコンパスを狂わせるのだろう。おかしいおかしいと思っていると、向こうに踏み切りが見えた。「あれ」、みたことがある景色だ。行って見ると「松原3号」の踏み切りがあった。世田谷線のところまで来ていた。それで今度は戻る。ところがゆくうちにまた覚えのあるものが見えた。左手にグランドがある。「あっ、いけない日本中学まで来てしまったんだ」と気づいてまた戻った。
 
 迷い始めた地点に戻って人が来るのを待った。買い物カゴを下げた主婦がきたので聞いた。
「まっすぐ南に行くとだめですね。その道を西に道なりに行くとありますよ」
「ここって迷いますよね。」
「そうそうあの農道がそのままあって、そこに新しい道があっちからもこっちからも来ていますからね。確かに」
「坂の起伏が多いのも原因ですよね……ありがとうございます」
 礼を言って、教えられた道を行くと、梅ヶ丘病院跡地を見下ろせる場所にやっとたどりついた。


(二)
 小説家、歌人、詩人、何を見ていたのだろうか?。北杜夫の場合はろくろく風景を見ていなかったのではないかと思う。歌人の場合は、やはり風景は大事だ。その変化をのがさない。詩人の場合、とくに内面を見つめる朔太郎の場合は、風景はうっちゃっておいて自分の世界を覗きみている。

 文学散歩の下見をして、「代田の丘の61号鉄塔」由来碑のところまで来た。ステンレスの盤面をみると手の指の脂がついていた。どうも子ども触っているようだ。自身ではテッシュを出して拭いた。

「あのね、ここにね、新しく看板ができたのよ。萩原朔太郎なんだって」
 若いお母さんが、自転車で通りかかった。後ろの仲間に教えているようだ。
 看板が何もなかったときには誰も知らなかったことだ。が、鉄塔由来碑ができたことで人が理解してくれるようになった。看板設置効果がたちまちにあらわれてきたのはうれしい。

「いやあ、いい会でしたね、最高でした。花見堂の児童の詩の朗読がよかったですね。副校長先生の締めもよかったですしね」
 作道さんがいう。
「こういうゆかりのある人のすぐ近くで学んでいる子どもは幸せです。また、地域のことを深く調べて居られる方がいるのもとてもいい。」
 そんな話だった。

(三)
 「代田の丘の鉄塔文学論」への反響が返ってきている。代田図書館に10冊寄贈したところ、もっともらえるのなら欲しいとのこと。それで電話をした。
「世田谷には全部で十六館あるのすよ。だからその数があればいいと…」
「じゃあ、追加を七冊にして代田図書館では記録用に取っておいてください…『鉛筆部隊と特攻隊』も代田北沢の記録ですから、ぜひ備えてください。世田谷は粕屋しかありませんから……」
 世田谷での蔵書は一冊のみだ。世田谷の記録としてぜひ揃えてほしいと頼んだ。予算の関係もあるが極力購入するようにしたいとのことだった。
 
 10月6日、序幕式が終わってから、邪宗門で、みんなと軽く乾杯をした。が、かねがね気になっていることがあった。由来碑を建てるに当たっては、東京電力には断った。そしてまた、当日、鉄塔のある小谷家には挨拶にいった。そんなことから萩原家にはやはり伝えておくべきではないかと思った。それで、梅ヶ丘まで皆で行こうということになった。米沢さん、山本さん、それと私で行った。するとあらかじめ約束のない方とは会わないというようなことが書いてあった。せっかくここまで来たのだからとお菓子と鉄塔文学論とを袋に入れ、自分の名刺と一緒に郵便ポストに入れた。

 「代田の丘の鉄塔文学論」、面白く読みました!。鉄塔がまったく別のものに思えます。「ここから航空研に電気を…」とありますが、私の父(葉子と離婚して)が航空研につとめていたのです。不思議です。ありがとうございました!

 萩原朔美さんからのお手紙だった。嬉しい知らせである。
「航空研にケーブルが繋がっていることから、朔太郎詩に飛行機に関するものはないかと探し回って『氷島』の一部を抜いてきたでしょう、ああいいう発想というのはとてもおもしろい……」
 これは昨日電話が掛かってきた大学時代の文学の先生だ。

◎『鉛筆部隊と特攻隊』の増刷決定!

  出版社にも在庫がなくなったそうで増刷が決定しました。これまで多くの人から誤植情報を戴いています。本格的にこのチェックに取り掛かります。よろしかったら右サイドバー下のメッセージ送信に情報を送ってください。後世にきちんとした記録を残しておきたいと思います。

(写真、上は、鉄塔と由来碑。下、萩原朔美さんが送ってくださった「死んだら何を書いてもいいわ」(新潮社)。「昭和の遺言 十五年戦争」 著者のお一人仙田典子さんが「鉛筆部隊と特攻隊」(文芸社)を読んで手法的に重なるということで送ってくださった。IMG_0001IMG_0002

◎「代田の丘の61号鉄塔」由来碑について

 文言ついて、萩原朔太郎の没年が違っていることの指摘があり、これの訂正を施してもらえるよう手配をした。
 1942とすべきところが1924となっている。


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