2012年10月17日
下北沢Ｘ新聞(2184)〜地形と文学：茂吉と杜夫３〜
（一）
東松原駅近辺に空き地は少ない。駅がこぢんまりしているからだ。文学散歩の参加者は三十五人、これだけを集めて話す場というのはなかなかない。地図でやっと一個所赤羽公園を見つけてそこへ行って話をした。
北杜夫旧居を巡っていくがその家の前で「ここがマンボウ・マブゼ共和国で云々」というのは憚られる。お隣の「ＴＥＲＭＩＮＩ」と書かれたマンションも話題にしたいところだ。が、一帯は住宅街だ、迷惑になると思ってあらかじめ公園で説明した。
崖の上にある公園はひっそりしていた。松原を象徴する太くて大きい赤松が生えていた。「この丘の北に淀橋台という台地があって、そこから派生してきた丘の端ですね、ここは松原半島だとも言えます……」
話しているうちに自分でも地形が少し分かってきた。作家旧居は松原半島の中ほどの東側だった。南に尾根があって、それを回り込んでいく。登って下る。急坂だ。その南側に広い敷地が見える。梅ヶ丘病院の跡地だ。
「ここから見える景色については『楡家の人びと』に描かれている個所です」
楡基一郎とお伴の康三郎とが青山脳病院建設予定地にようやっと辿り着く。小説「楡家の人々」におけるその場面を読み上げる。
「ここだよ、君」
同じような麦畠のひろがるどこまでも単調な見栄えのしない風景である。前方がやや小高くなっていて、雑木の林が、恐らくは櫟か楢の林がずっと向こうにつづいている。康三郎がなんだかがっかりしてしまって返事をせずにいると、基一郎はほとんど浮き浮きした口調で言った。
「見たまえ。ここはいい土地だ。前方が低く、後方が高い。これは末広といって、とても縁起がよいものなのだ。いや、いいねえ、君。とてもいいよ。ここは」 『楡家の人びと』 新潮社 昭和３９年刊
「当時、大正末年、一帯は麦畑でした。この坂を下ったところには川、北沢川があります。向かいの小高い丘は、世田谷城続きの台地です。櫟や楢というのは武蔵野特有の樹種ですね。この個所の表現は実際的でリアリティがあります。楡基一郎が言う通り、前方が低く、後方が高くなっていますね。それがよく分かる場所に私達は立っているわけです」
私はそう説明をした。皆、少なからず驚いている様子だった。
（二）
世田谷文学館では『楡家の人びと』を作るにあたってのノートが展示されていた。調査ノートである。多くの関係者から丹念に聞き書きをしたことがこれでわかる。
青山からここの本院までは、北杜夫自身自転車で何度も来ていた。旧道の滝坂道を通ってのことであろう。その自転車の経験が生きている。自身の経験でいうとアップダウンのある地形は、頭脳よりも脚の方がよく覚えている。病院の地所下見のこの表現は、彼の少年時代の経験が生かされているのではないかと思う。
「梅ヶ丘病院の前の方の道はよく通って知っていますが、裏手に来たのは始めてです。こんなに高くなっているんですね」
参加者の一人が感想を言っていた。
（三）
「さっきの北杜夫旧居からほんの数分ですよね、それなのに彼は、自分が住んでいた場所のすぐ近くが小説の舞台であることに気づいていないのですよ」
松原に住んでしばらく経ってから彼はそれを知った。「もっと驚いたことは、遠からぬ場所に梅ヶ丘病院があり、これは昔の私の家、青山能病院の本院の跡地なのだ。」（「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 １９８８年刊「松原」）
この場合の驚きは私には、十分でないように思われる。「遠からぬ場所」というのは羽根木公園、根津山からみての気づきである。自宅からだと本院はもっと近い。
（梅ヶ丘病院、旧青山脳病院の裏手から）
◎萩原朔美さんから
ご自宅に「代田の丘の鉄塔文学論」を届けたところ、御著書をくださった。お礼に、お仲間にも差し上げてくださいと冊子を送ったところ、また御著書「劇的な人生こそ真実」（新潮社）を送ってくださった。小学生の頃、梅ヶ丘の自宅からお母さんから頼まれて代沢の倉運荘へ度々訪れていたと。北沢川文学の小路の貴重なエピソードだ。
世田谷文学館では『楡家の人びと』を作るにあたってのノートが展示されていた。調査ノートである。多くの関係者から丹念に聞き書きをしたことがこれでわかる。
青山からここの本院までは、北杜夫自身自転車で何度も来ていた。旧道の滝坂道を通ってのことであろう。その自転車の経験が生きている。自身の経験でいうとアップダウンのある地形は、頭脳よりも脚の方がよく覚えている。病院の地所下見のこの表現は、彼の少年時代の経験が生かされているのではないかと思う。
「梅ヶ丘病院の前の方の道はよく通って知っていますが、裏手に来たのは始めてです。こんなに高くなっているんですね」
参加者の一人が感想を言っていた。
（三）
「さっきの北杜夫旧居からほんの数分ですよね、それなのに彼は、自分が住んでいた場所のすぐ近くが小説の舞台であることに気づいていないのですよ」
松原に住んでしばらく経ってから彼はそれを知った。「もっと驚いたことは、遠からぬ場所に梅ヶ丘病院があり、これは昔の私の家、青山能病院の本院の跡地なのだ。」（「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 １９８８年刊「松原」）
この場合の驚きは私には、十分でないように思われる。「遠からぬ場所」というのは羽根木公園、根津山からみての気づきである。自宅からだと本院はもっと近い。
（梅ヶ丘病院、旧青山脳病院の裏手から）
◎萩原朔美さんから
ご自宅に「代田の丘の鉄塔文学論」を届けたところ、御著書をくださった。お礼に、お仲間にも差し上げてくださいと冊子を送ったところ、また御著書「劇的な人生こそ真実」（新潮社）を送ってくださった。小学生の頃、梅ヶ丘の自宅からお母さんから頼まれて代沢の倉運荘へ度々訪れていたと。北沢川文学の小路の貴重なエピソードだ。
トラックバックURL
この記事へのコメント
2. Posted by きむらけん 2012年10月18日 08:50
［根津山]
北杜夫は『母の影』、自伝ともいえるエッセイにつぎのように記しています。
私の生まれた家は青山にあったが、そのそばの坂に名門根津家の邸宅のくすんだ白壁が長々と続いていた。私たち子供は、その坂を根津坂と呼んだ。世田谷の広大な森も根津家のもので、そのために俗に根津山と呼ばれていたのであろう。
北杜夫は『母の影』、自伝ともいえるエッセイにつぎのように記しています。
私の生まれた家は青山にあったが、そのそばの坂に名門根津家の邸宅のくすんだ白壁が長々と続いていた。私たち子供は、その坂を根津坂と呼んだ。世田谷の広大な森も根津家のもので、そのために俗に根津山と呼ばれていたのであろう。
1. Posted by 桜上水confidential 2012年10月18日 02:54
根津山に名を残す東武鉄道の根津さんは、松原に別荘を持っていました。その名残を、松原の六丁目にある世田谷百景「松原のミニいちょう並木」に見ることができます。
まさに旧梅丘病院の北側にあたります。
青山時代の青山脳病院所在地は、「王子グリーンヒルアパートメント」の場所のようです。
こちらも、根津さんゆかりの根津美術館からすぐの場所ですね。
なぜ、青山病院跡地に「王子」という名前があるのだろう？
王子といえば、王子製紙かな？
王子製紙前身の一つに富士製紙なる会社があり、ここの経営者穴水要七は、根津嘉一郎と同じく甲州財閥です。
穴水という人は、戦前の京王電気軌道の社長にもおられ、ご縁戚かもしれません。青山病院の梅が丘移転には甲州財閥が関係していたかもと想像をめぐらします。
しかも、その松原の、それも根津別荘近くに後年北杜夫が住まいを定めたとは、偶然なのでしょうが、縁を感じます。
まさに旧梅丘病院の北側にあたります。
青山時代の青山脳病院所在地は、「王子グリーンヒルアパートメント」の場所のようです。
こちらも、根津さんゆかりの根津美術館からすぐの場所ですね。
なぜ、青山病院跡地に「王子」という名前があるのだろう？
王子といえば、王子製紙かな？
王子製紙前身の一つに富士製紙なる会社があり、ここの経営者穴水要七は、根津嘉一郎と同じく甲州財閥です。
穴水という人は、戦前の京王電気軌道の社長にもおられ、ご縁戚かもしれません。青山病院の梅が丘移転には甲州財閥が関係していたかもと想像をめぐらします。
しかも、その松原の、それも根津別荘近くに後年北杜夫が住まいを定めたとは、偶然なのでしょうが、縁を感じます。
