2012年10月19日
下北沢X新聞(2185)〜生きている本『鉛筆部隊と特攻隊』〜

一つの発信が多数の個別情報をもたらしている。それらは今も人びとの記憶に鮮やかに生きているものである。集まって来ている情報は多岐である。それらを丹念に拾い集めていくと『鉛筆部隊と特攻隊』辞典ができるのではないかという夢想すら抱く。
(一)
世界を人がどうとらえるのか?。人によって様々だ。場合によっては紙切れ一枚が世界ともなる。
「『代田の丘の鉄塔文学論』、これを今読んでいたところなんです。二度目です。全く知りませんでした。すぐ近くに住んでいたのにね」
小貫さんという女性だ。この彼女も新聞で「代沢国民学校の疎開」という記事を見て本を買われた方だ。「鉛筆部隊と特攻隊」を読んでの思い、それと別紙には細かく誤植ページ一覧まで作ってくださっていた。出版社に届けられたものが自宅へ転送されてきた。彼女はかつては代田二丁目に住んでいた。鉄塔の近くだった。
「疎開学童がお別れを言いにくる場面は非常に印象的でした。証言記録として掲載したいのですが使わせていただけますか?」
断りの電話を昨日したところ快諾を得た。
頂いた手紙からは知性を感じた。代田二丁目に住むお嬢さんだったのではないかという推測が働いた。するとおよそ場所が分かってくる。
「父が建築の仕事をしていました。奨められた土地が気に入って住んだのです。そうです、川が下にあって高いところです。地所は斎田家のものでした。斎田まんさくさんといいました。名前の字は分かりませんが」
私の勘は当たっていた。
「女学生時代、代田駅のずっと向こうに見える富士を眺めながら通っていました。だから送っていただいた地図は、もう何度も取り出してはみているんですよ。住んでいたんですけどね、知らなかったです。こんな人も、あんな人も住んでいたんだ。懐かしい映画館の名をみつけて嬉しくなりました」
「下北沢文士町文化地図」をお礼に送っていた。彼女には過去にさかのぼれる一枚の世界地図である。
(二)
鉄塔近くのインテリジェンスということで言えば林節子さんも同じだ。代田二丁目ひな壇式の家の下から三番目に住んでいた。裏手のつぎの四番目の家が萩原朔太郎邸だった。
彼女は代沢国民学校に通っていた。
この彼女も新聞記事で「代沢国民学校」という名を見つけて本を購入された方だ。こちらもお手紙を頂いた。
太子堂の辺りは、畠や竹藪でした。私共五六年生は各家庭でお茶殻を干して、それを集めましてリヤカーにのせ、馬事公苑まで、今の世田谷通りのどろんこ道を引いていき、兵隊さんに届けていました。馬事公苑は軍隊の馬と兵隊さんばかりでした。届けた後、草取りをしていけと言われ、夕方まで草をむしり
太子堂は畠や竹藪だった。これは林芙美子『放浪記』の記述を思い起こさせる。太子堂居住時代「裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。」というのはこの竹藪に他ならない。
代沢国民学校に通っている児童の家では茶殻の供出が義務づけられていた。お茶の葉を購入できる家があったということだ。その茶殻は馬の餌として使われた。
淡島にありました陸軍病院で毎日亡くなられる兵隊さんの慰霊祭に学校代表で男の子一人、女の子一女がお焼香に参りました。
何でもないことだがこういう記録は必要である。葬儀、葬礼には学童が参列していた。下北沢駅に英霊が帰ってきたときも同じことが行われていた。児童が出迎えていた。
(三)
『鉛筆部隊と特攻隊』に端を発して、多くの情報が寄せられている。現在増刷のために準備をしている。これになんとか入れられないのか。改訂版ではないので新情報の組み入れは困難だ。
それで私が目をつけたのは余白である。差し込みは可能とのことなので、これまで集まった情報の一部をここに入れ込むことにした。隙間なく活字が埋まることになるが、自身では後世への伝え、記録をしておきたいという思いがある。
鉄塔近くのインテリジェンスということで言えば林節子さんも同じだ。代田二丁目ひな壇式の家の下から三番目に住んでいた。裏手のつぎの四番目の家が萩原朔太郎邸だった。
彼女は代沢国民学校に通っていた。
この彼女も新聞記事で「代沢国民学校」という名を見つけて本を購入された方だ。こちらもお手紙を頂いた。
太子堂の辺りは、畠や竹藪でした。私共五六年生は各家庭でお茶殻を干して、それを集めましてリヤカーにのせ、馬事公苑まで、今の世田谷通りのどろんこ道を引いていき、兵隊さんに届けていました。馬事公苑は軍隊の馬と兵隊さんばかりでした。届けた後、草取りをしていけと言われ、夕方まで草をむしり
太子堂は畠や竹藪だった。これは林芙美子『放浪記』の記述を思い起こさせる。太子堂居住時代「裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。」というのはこの竹藪に他ならない。
代沢国民学校に通っている児童の家では茶殻の供出が義務づけられていた。お茶の葉を購入できる家があったということだ。その茶殻は馬の餌として使われた。
淡島にありました陸軍病院で毎日亡くなられる兵隊さんの慰霊祭に学校代表で男の子一人、女の子一女がお焼香に参りました。
何でもないことだがこういう記録は必要である。葬儀、葬礼には学童が参列していた。下北沢駅に英霊が帰ってきたときも同じことが行われていた。児童が出迎えていた。
(三)
『鉛筆部隊と特攻隊』に端を発して、多くの情報が寄せられている。現在増刷のために準備をしている。これになんとか入れられないのか。改訂版ではないので新情報の組み入れは困難だ。
それで私が目をつけたのは余白である。差し込みは可能とのことなので、これまで集まった情報の一部をここに入れ込むことにした。隙間なく活字が埋まることになるが、自身では後世への伝え、記録をしておきたいという思いがある。



















