2012年12月22日

下北沢X新聞(2225)〜改訂五版刊行:文士町文化地図2〜

P1030329
  濃密と希薄、都市と田舎の人間関係の差だ。それは古代と近代との差でもある。ここには大きな落差がある。それでもそこを跨ぐ太いものがある。いわゆる伝統だ。が、これは戸坂潤に言わせれば「伝統であっても、単に桎梏としての伝統でしかない。」(『日本文化の特殊性』)という。
 先だって、七十六歳のさる闘士と出会った。彼はとうとうと熱く文化を語った。日本人は縄文時代から思考構造において何も変わっていないという。
 都市は田舎を映し出す鏡でもある。表面は自由だが、内面においていまだに不自由でもある。都市と田舎の間(はざま)というポジションを地図にしたのがこの文化地図だ。

(一)
 日々の荏原逍遙は欠くことがない。文化を探訪するには歩くのが一番だ。今日、午後雨が上がったので家を出た。近くの外車販売店に「駆け抜ける歓び」というキャッチコピーが掲げられていた。それを見て、「駆け抜けない歓び」もあると思った。ひたすら駆けてきたからこそ、もう行き場がなくなった。これ以上駆けてどうなるのだろう。

「昔と比べたら速くなりました。何せ一昼夜かかったのが今は三時間ですね」
 松本淺間温泉に行くタクシーの中での話だ。新宿までの時間だ。
「いやスーパーあずさだと二時間半ですよ。だけどあれは振り子式ですから、お客さんなんか気づかないうちに酔ってしまうんですよ」
 運転手の話だ。
 今、元鉛筆部隊が書き残したノートを読んでいる。昭和二十年八月十三日、未明笹子トンネルを抜けた記述があった。「長いトンネル」と書いてある。が、スーパーあずさだと数分で抜けるだろう。

 小学五年生の日記だが言葉に溜がある。この彼のお父さんが東京測器に勤めていた。今の代沢小近辺には測器社が多かった。この間、歩く会に参加していた田村さんに聞いたら測量機を作っていたと聞いた。軍事用だったとも聞いた。

 計測器会社はその方面の人材を集めた。これも文化参集の一つの事例である。


(二)
 改訂地図の変更点は大きくいって二つある。まず表面だ。「下北沢文士町文化地図」の「文士町」にアートタウンというルビを入れ、地図には芸術家の居住痕跡を青丸で記したことだ。

 次には、裏面古地図だ。従来の旧版は、「世田谷」図を載せていた。今回は、下は「世田谷」で、上は「中野」図を入れてある。きむらたかし氏提供の地図である。

 これを使用したのは意図があってのことだ。下北沢の北に歴史的に重要なインフラがある。東西を横断する甲州街道とこれに沿っている京王電車である。そしてもう一つ玉川上水も重要だ。

 この古地図を見ればこれらが一目瞭然だ。甲州街道があって、鉄道が並行して走っている。これが人びとの移動を一手に引き受けていた。しかし開けているのは代田橋辺りまでだ。この開け方は運賃に関係する。

 京王線の開通は人びとに大いに喜ばれましたが、電車賃は代田橋から新宿まで二区が八銭、改正橋(現在の初台)までの一区は四銭でした。初めは単線で、二十分か三十分おきに四十人くらいの小型電車で運行されていました。
 「ふるさと世田谷を語る」羽根木編 世田谷区生活文化部文化課 


 代田橋の二区八銭というのは大きい。ここに薬の問屋ができたのもこのためだ。小僧さんが唐草模様の風呂敷を背負って歩いて仕入れに来ていた。

(三)
 大正十年頃、京王線の南側はほとんど家がない。坂口安吾は、大正十四年、代沢尋常小学校の代用教員をしていたが、往事を次のように述べている。

 その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた。 『風と光と二十の私と』

 これは古地図が証明している。が、それでも農家はあった。今のように開けてはいない。どうも最近聞くところによると代々の農家の面相には遺伝子が濃厚にあったらしい。顔を見て阿川顔というようなことが分かったようだ。

 かつてはがんじがらめの桎梏にしばられていた。それが都市化によって次第に解放されていく。流入人にとっては、何もない武蔵野原風景は清新に目に映った。
(七島学生寮跡、背後に見えるのはマモリ山公園時代からのクスノキだ。この跡地いよいよ新しい建物が建つようだ。)


トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔    星