2013年03月22日
下北沢X新聞(2284)〜グッバイ、おお、神よ、踏切よ〜

(一)
たちまちに春になって桜も満開になり、そして、そんな日に、踏切も散っていった。
あれほど憎んでいたのに、これまたどうしたことか?、電車が通り過ぎて、遮断棒がはねあがっても皆喜ばない。
「早く来ないかな」
次の電車を期待する声が上がる。あれだけ待たされて、この踏切を憎んでいた者たちが今日はもう目を潤ませて電車を見ている。
「いやね、明日から電車が通らないで困っているんですよ。ほら、あそこ旧下北沢5号踏切跡の陸橋は保育園の子どもたちが、電車を見に行く格好の場所だったんですよ。ちぇんちぇい、ロマンチュカーだよとかね言って、小さい子どもは電車の種別を見分けていたんですよ、それがね、なくなるでしょう……だからといって環七のところ行って、あれは大森行きのバスですなんてやったって面白くないでしょう」
これは山本裕さんから聞いた話だ。初めて聞く話だった。
「いやね、この間、16日は、渋谷地下化で便利になるだろうと思って、地下鉄直通の電車に都立大学駅から乗ったんですよ。そのまま行って明治神宮前で乗り換えれば、東北沢駅まですぐだと思っていたら、とんでもない時間がかかって集合時間に遅れたんですよ。それで今日は、井の頭線経由で来たのですよ。ところが、この乗り換えがまた不便だった。地下を延々と歩くんですよ。それでね、これまでは井の頭線に乗り換えるときは、二階コンコースの陸橋を渡っていっていたでしょう。ハチ公前広場の景色を眺めながらいくところに楽しみがあったのですよ。ところが、地下から行くから見えない。乗り換えの楽しみがなくなったんですよ……」
私は、今日また東北沢駅に着くまで大変だった。

今日は、小田急線の踏切が一斉になくなる日だ。最後の様子はみておきたいと思って、我ら仲間だけで九つの踏切を巡った。この間の本番は、私は説明するのに精一杯で、踏切風景を目に焼き付けておく暇はなかった。それで今日、また静かに巡ってみようと思って、また東北沢駅に集まった。三人での珍道中だった。お別れ踏切行である。

(二)
あそこの踏切も、ここの踏切にも大勢の人がいた。踏切風景との最後の別れを見に、味わいに、皆来たのだろうと思う。
駅や建物、信号、築堤、線路など目に見える構築物というのは言えば旅情の断片だったのだと思う。見えるからこそ思いは深まる。
萩原朔太郎の『氷島』の冒頭詩である。
日は斷崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
續ける鐵路の棚の背後うしろに
一つの寂しき影は漂ふ。
彼の晩年の代表詩集は世田谷代田で編まれた。流離い人としての彼の日常のを詠んだものだ。一個所に止まることなく、鉄道線路脇をふらふらと歩いていく姿が描かれる。ぐわったんごっとんと陸橋の下には音が響く、それにも構わず歩いて行く、するとまたカーブした線路の脇にコールタールで黒く塗った柵がどこまでも続いて行く。
『定本青猫』では、「無限に遠くまで続いてゐる、この長い長い柵の寂しさ」と歌った。孤独、寂寥を際立たせるものだ。
やはり定本ではいう「屋根を越えて、空の向こうに、無限の郷愁が広がっている」と。具体的な、地表風景にある、構造物、陸橋や線路や柵に彼は心を映しだしている。線路を見ると我々はその先に続いているものを思う。
気づいてみると踏切を渡るとき、いつも左右を見ていた。今し方通ったばかりの線路は鮮やかに銀色に光っている。
鉄道が出現したときに正岡子規は、「鉄道は風雅の敵だ」と言った、が、「地下化する鉄道は風雅の敵だ」といえる。流離いを考える材料が地表からすべてなくなるからだ。
(三)

世田谷代田駅の悲しい話をしよう。昭和二十七年頃の話だという。
「世田谷代田1号で自殺した人がいたんだねえ。当時は、ばらばらになった遺体を線路脇にむしろをかぶせて置いておくんだ。それを係員が二人ほどで火を焚いて寝ずの番をしているんですよ。翌日になって遺族が来ると、実地検分みたいなことをやるんです。切断された死体を元あったところに置いて見せるんだ。身体は見事に切れているからね。頭、胴体、脚、あれはむごいよ。そのあったとおりにおくんだからね…あそこには踏切番がいて言っていた、『みせしめにああやってやるんだ』と。それでね、今でも忘れられないけど、夏だったから死体が異臭を放つんだね、これが強烈でね、その後、何を嗅いでも同じ臭いしかしないんだ。もう一二週間ほどはごはんは食べられなかったね……」
金子善幸さん初めて明かしたエピソードだ。歴史の記憶であり、記録である。
この世田谷代田駅の西にもう一つ、世田谷代田2号踏切があった。こちらは第四種で、遮断機はない。前回、踏切探訪で初めてわかったのはここに富士見荘という旅館があったことだ。往事中原商店街が賑わっていて、こういうものも商売としてやっていけたらしい。この2号踏切をこっそりと渡ってきて、この旅館、いえばラブホにしけ込む。まことに巧いところに建てたものだと思った。富士がよく見えるから富士見荘である。
ところがこの踏切代田小の通学路だった。下って来る電車と、下ってくる坂道とが合流する。しかも間は崖ではさまれている。走ってくる子どもには危ない。何人もの子どもが犠牲になっている。
自分の愛児をここで失った親がたまりかねて請願書を出した。これが昭和29年4月20日の参議院運輸委員会で取り上げられた。請願者は、「一切の責任は会社側にあると考えておりますが、会社としては、専用軌道敷き内に不注意に入ったことに全部の責任があるとして、何等誠意ある態度は示しません」と述べている。
踏切があってもなくても、踏切が見通せても見通せなくても、それは子どもが不注意で入ったからそうなったままでということでけんもほろろで門前払いを食わせた。請願書は鋭いところを衝いている、「鉄道諸法規は明治時代のもの」だと。お上はおれたちが作った鉄道で、おまえらは恩恵を受けているのだ。つべこべいうなということであった。
「鉄道諸法規が人命保護中心のものとなるよう改正せられんことを」とここで問題提起されている。全く忘れられた踏切だが、踏切安全を考える嚆矢となった点では、「踏切文化史」の一ページに加えられるべきである。
(四)
一つの踏切にも五分の魂である。除却される踏切の一つ一つには多くのエピソードが眠っていた。が、踏切は、なくなったとたんにそれらも含めて明日から人はどんどん忘れてしまう。
遮断と解放とを繰り返してきた踏切は、一つの溜であった。ためにたまっていたものを掘って見せ合って、笑ったり、悲しんだりしてこそ人だと思うが、思い出深い踏切はもう見ることはできない。もしも、それを見られるときがくるとすれば、地球復活の日であろう。おお、神よ、踏切よ、と言うのである。(上記写真は、本日、踏切が消滅した日に撮ったものだ。上から、鉄道Xの交点、下北沢駅構内、東北沢2号踏切、世田谷代田1号踏切)
〇桜祭り、「下北沢文士町文化地図」
改訂五版地図配布活動予定(代沢小安吾文学碑前)
北沢川文化遺産保存の会
明日23、24日 来週30日、31日 10:00〜15:30
雨天の場合は中止



















