2013年04月07日

下北沢X新聞(2295)〜近代の流浪民、原発放浪民〜

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(一)
 近くの深沢の遊歩道で奇妙な光景に出会った。幼い子が手に余る「エリエール」を手にしておいおいと泣いている。どうしたのだろうと見ると、一人の男がカメラで彼女を撮っている。他に女が一人、男が一人ついている。彼らは何するでもない。ただただ女の子が涙を浮かべて泣いているのを見ている。

 理解するのに数秒かかった。例の初めてのお使いの撮影風景だと思った。立ち止まって泣く場面は、絵になる。撮影者はここだと言わんばかりに撮っていた。

 「いたいけない子の可愛そうな場面を多く撮って視聴者のの愛情本能に訴える」、そうすれば、視聴率も上がるし、儲かりもする。虚飾的なカメラワークを思った。

 この5日の夜、七時から北沢タウンホールで映画を見た。「原発の町を追われて」〜避難民・双葉町の記録〜である。堀切さとみさんが撮られたドキュメンタリーだ。これには作為は感じなかった。自然なカメラワークで撮っていると思った。

 双葉町は福島第一原発が立地しているところだ。ここは放射線量が高く今も戻れないでいる。この人びとが埼玉県加須市の廃校騎西高校に寝起きしている。この人達の日常を丹念に撮ったものである。堀切さとみさんは、プロではない。給食調理という仕事をしながら暇を見つけては避難所に通い、彼らの日常を撮り続けた。
「監督だと言われるのが嫌」
 この気持ちはとてもよく分かる。

 印象に残ったのは話者が構えないでしゃべっていたことだ。運動会で撮るようなそういうカメラで撮ったので「みなさん気取らないでしゃべってくれました」と。
 報道のカメラがまわると、どうしても気取ってしまう。ところが彼女に撮られている人びとは、普段の顔だ。そこには淡々とつづく日常がある。
「ふだんなは、この煙草二十本ぐらいだけど、ここへきちゃうともう60本吸っちゃうよ。他にすることがないものな…」とこれは親父さん。
「そうだよ、寝て、起きて喰い、そしてまた喰う、これじゃあ身体がいかれて早死にししゃうような」
 避難所では弁当が毎食出る。それを食べて生きている。他にはすることはない。

 堀切さんは、その彼らの日常を丹念に写している。余計な解説はない。映像を通して見た人が考えてくださいという撮り方だ。


(二)
 人間が生きるということはどういうことかということを考えさせられた。弁当が毎食出るから身体は持つ。しかし、喰って寝るだけの生活で人は満足はしない。
 好き好んでここへ来たわけではない。事故に遭わなかったら、婆さんにしても爺さんにしても畑仕事なり、なんなりをして日常を過ごせた。ところが原発苛酷事故に見舞われて避難せざるを得なかった。その状態が今も続いている。

 避難所である。仮の避難所だ。ところが、その後の方策が示されていない。前にチェルノブイリのドキュメント番組をみた。高線量の町にはもう住まないことにして国家が別の場所に居住場所を作り、そして仕事も世話をするという策をとっていた。経済的にも苦しいベラルーシだったと思うが、思い切った方法だ。これに比べると、この国家は無策だ。

 井戸川町長は、強制収容所と変わりがないと比喩していた。この人は国の政策を初め批判していた人だ。無為無策であると。実際、騎西に避難している人についてもどうするかという展望を持っていない。
 
 一時的な避難所だからそこで避難民が調理や煮炊きはできないという。会場からは、「調理などのそんな仕事ができるようになれば生き甲斐も湧くだろうに」との意見。

(三)
 交流会は活発だった。双葉から避難し、今は神奈川に住んでいる人が言っていた。
「福島県内では放射能のことを話題にするのはタブーです」と。

福島や郡山は、線量が高い、しかし、ここで働いている人は、避難しようにも避難できない。それで母子だけが放射能への影響を怖れて遠隔地に主人と別れて住んでいる。しかし、経済的な負担が大きく、やむをえず福島に戻り始めているとも言う。

 しかし、遠隔地に避難した人、残った人には大きな亀裂が入ってしまった。互いが互いを罵りあることもあるという。
 映画の中でとんでもない言葉が交わされていることを知った。
「浜通の連中はみな中通りに来て土下座していけ」
 原発立地は、浜通だ。中通りはその原発によって汚染された。そういう経緯を踏まえてのことであろう。

(四)
 原発問題に関して批評が成り立たなくなっている。福島基準で考えると、線量が一定程度あるところだけに危険を冒して住むことになる。ゆえにその影響について互いに情報交換することないようだ。

 福島は、居住することを前提に福島の再興を図ろうとしている。ゆえにマイナスは押さえる傾向にある。が、放射能に敏感な人は、もうこの故郷を捨てている。

 映画を見に来て居られる方は、原発事故のことを深く憂えている人だ。ところが、福島の原発事故はもう二年も経ってどんどん風化している。被害を受けた人と、そうでない人の差があまりにも大きい。

 街中に出ると、大勢の人がいて賑わっている。あの原発事故などどこにいったかというふうである。節電しようというあの掛け声はどこかに消えて、街はまた明るくなった。原発問題については、汚染水が漏れたりと、収束はしていない。それなのにこの危険極まりない原発を、懲りることなく推進させようとしている。

 原発問題に関しては、問題が山積している。ところがその方向すら見えていない。例えば、除染をどうするか。まったく決まっていない。そしてもっと大きなことは、原子力政策の根幹をなす核燃サイクルの問題だ。これはすっかり破綻してどうしようもないことが分かっているのに目をつぶっている。とんでもないおかしなことが起こっている。

 原発被害は目に見えないものだ。しかし、これに一度遭遇すれば、経済的にも、精神的にも手ひどいダメージを受ける。立ち上がろう、起き上がろうにも全く手の施しようがないものだ。

 堀切さとみさんの撮った映画は、現状、現実を知るということではとても大切な映画である。こういう記録を市民の目線で撮っていることがすばらしい。(堀切さとみさん)


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