2013年08月29日
下北沢X新聞(2391)〜敵意と情緒と日本人〜

(一)
荏原逍遙の途中、工事の警備をしている男に呼びとめられた。最初何を言っているのか分からなかった。が、「お宅の見ている写真は古いね」と言っていた。図書館で借りてきた本、「別冊一億人の昭和史『学童疎開』」(毎日新聞)を見ながら歩いていた。
「ああ、戦争ね、親からよく聞かされたよ。戦争のことは、俺は茨城なんだ、日立市は軍需工場があってB29が飛んで来て、だいぶ空襲でやられたんだ。今も一トン爆弾の破片が、工場内に展示されているんだよ。小平記念館とかいったかな…行ってみるとよいよ」
確かに日立は工場群が多くある。調べると相当にやられている。昭和二十年六月十日は、B-29重爆撃機29機が1トン爆弾806発を投下している。七月十七日には日立沖に現れ敵機動部隊から艦砲射撃を受けている。
また七月十九日には、B29が再びここを襲い、13900発の焼夷弾を投下している。
(二)
「学童疎開」、あれから遠くなった。書いた手紙や日記など捨てることもままならず、多くが思案している。先日はその一人から「どうなりとしてください」と預けられた。一例だが、多くの人が悩んでいる。死ねばゴミになって捨てられる、さて、どうしよう。
質問、これら往時のもの引き取ってくれるところありますか?。
あの疎開時の飢餓は忘れがたいことだった。食うためには何でもした。藤本義一はこんな逸話を『学童疎開』で紹介している。
疎開先で葬式が出ると、ひそかに葬列を追う少年たちがいる。新仏が埋められ、茶碗に白飯が山盛りに出され、箸が一本突き立てられる。土葬が終わり、そして読経が終わり、葬儀の一段が立ち去ると、少年たちは、この茶碗一杯の白飯にハイエナの如く群がり、手づかみで頬張るわけである。これは飢餓草紙そのものではないか。
食うことの闘争、六年生の先輩は後輩たちの飯を掠めとるというのはかなり行われていたようだ。たちまちに下級生は痩せ細った。戦争は人を窮乏に追いやる。そればかりか精神的に人を追いつめる。
戦争中の空気は異常だった。それを国家が主導して作った。純粋な若者ほど強く思った。「家が早く焼けてほしい。自分ところだけ残っていると辛い」、「お国のためにこの命をなげうって早く死にたい」などと。そういう空気が醸成されていた。
ここ数日、世界はまたきな臭くなった。「戦争はやるべきではない」、結局は市民がまた苦しい生活に追い込まれるだけだ。国家のメンツ、大国のエゴだけで戦争が行われようとしている。
(三)
「学童疎開」には「東京第一師範戦時疎開学園」の話が載っていると聞いてこれを図書館で借りてきた。
第一師範は世田谷区にあることから、ここもやはり淺間温泉に疎開している。区からの管轄が外れるようで、他の学校とは異なる。四月、他の学寮が去った後もここで疎開生活を送っていた。駒繋国民学校が使っていた目之湯料館を、第一師範は第四学寮として使っていた。
六月になってようやく下伊那郡に疎開していく。第一師範の疎開学童だった大槻統さんからコンタクトがあり、彼や彼の姉の日記から段々に一つの事実が浮かび上がっている。彼は航空関係のジャーナリストで飛行機に詳しい。小さいときから機影を興味深く見ていたようだ。実際彼の絵日記には九九式襲撃機と思われる戦闘機が描かれている。日にちまで書いてあるので武剋隊、武揚隊の機だった可能性もある。
「学童疎開」には第一師範の記録が載っている。中に「子供たちの書いた日直日記」の一部が記されている。
六月二十五日(月)晴れ
(公会堂からの)帰道B29がまいたびらを一枚拾った。夜の点呼の時、先生から、そのびらに書いてあったことをお話していただいた。「米国はドイツをまかした。そして、ドイツの人にパンやお菓子を上げてゐる。ちっともいぢめていない。だから日本も、早くむじやうけんかうふくを、しろ」と書いてあったと聞いて、僕は身体中の血が湧き立って、きっと未来のとどめをさす、心の中でちかった。
いわゆる、伝単である。情報が封鎖されている中にこれを落として人心の攪乱を図ろうとのことだ。伝単を風船にくくりつけて北朝鮮へ送っている。同じようなことだと思った。
戦争末期軍は統制の取れた軍隊ではなかった。軍事独裁だった。
「この野蛮な国がアメリカによって解放されたことは喜ばしいことだよ」
この間、こう話していた人がいた。
(四)
米英撃滅というのが当時合い言葉だった。しかし、この憎悪の感情というのは日本では長続きしないものである。このことを端的に、ずばりと言ってのけているのが坂口安吾だ。「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。」(『堕落論』)と。
例えば、先の日直日誌、学寮の先生の目が意識されている。「パンをもらえるのであれば降伏しよう」と思っても、絶対に書けない。先生の意に沿うように書くしかなかった。(鉛筆部隊同窓会、七月二十二日、淺間温泉目之湯にて、撮影、矢花克己氏)
「学童疎開」には「東京第一師範戦時疎開学園」の話が載っていると聞いてこれを図書館で借りてきた。
第一師範は世田谷区にあることから、ここもやはり淺間温泉に疎開している。区からの管轄が外れるようで、他の学校とは異なる。四月、他の学寮が去った後もここで疎開生活を送っていた。駒繋国民学校が使っていた目之湯料館を、第一師範は第四学寮として使っていた。
六月になってようやく下伊那郡に疎開していく。第一師範の疎開学童だった大槻統さんからコンタクトがあり、彼や彼の姉の日記から段々に一つの事実が浮かび上がっている。彼は航空関係のジャーナリストで飛行機に詳しい。小さいときから機影を興味深く見ていたようだ。実際彼の絵日記には九九式襲撃機と思われる戦闘機が描かれている。日にちまで書いてあるので武剋隊、武揚隊の機だった可能性もある。
「学童疎開」には第一師範の記録が載っている。中に「子供たちの書いた日直日記」の一部が記されている。
六月二十五日(月)晴れ
(公会堂からの)帰道B29がまいたびらを一枚拾った。夜の点呼の時、先生から、そのびらに書いてあったことをお話していただいた。「米国はドイツをまかした。そして、ドイツの人にパンやお菓子を上げてゐる。ちっともいぢめていない。だから日本も、早くむじやうけんかうふくを、しろ」と書いてあったと聞いて、僕は身体中の血が湧き立って、きっと未来のとどめをさす、心の中でちかった。
いわゆる、伝単である。情報が封鎖されている中にこれを落として人心の攪乱を図ろうとのことだ。伝単を風船にくくりつけて北朝鮮へ送っている。同じようなことだと思った。
戦争末期軍は統制の取れた軍隊ではなかった。軍事独裁だった。
「この野蛮な国がアメリカによって解放されたことは喜ばしいことだよ」
この間、こう話していた人がいた。
(四)
米英撃滅というのが当時合い言葉だった。しかし、この憎悪の感情というのは日本では長続きしないものである。このことを端的に、ずばりと言ってのけているのが坂口安吾だ。「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。」(『堕落論』)と。
例えば、先の日直日誌、学寮の先生の目が意識されている。「パンをもらえるのであれば降伏しよう」と思っても、絶対に書けない。先生の意に沿うように書くしかなかった。(鉛筆部隊同窓会、七月二十二日、淺間温泉目之湯にて、撮影、矢花克己氏)



















